心が

100%スッキリしないと

出て来ない発想が

ある。

 

ということはつまり、

その発想とは

一生出会えない人も

多い。

 

100%のスッキリ状態を

知らず、

そこで生まれる発想も

知らないまま

人生を終えて、

 

それで果たして

「自分を生きた」

ということに

なるのだろうか?

 

もちろん、

100%スッキリせずとも

自分は自分だ。

 

淀みも含めて、

淀みの出方(パターン)も

含めて、

すべて自分だ。

 

それもまた事実

ではあるが、

 

本当にそれで

いいか?

 

本当の自分の

想いや発想を

知らないままに

生きて、

それで満足だろうか?

 

満足かどうかは

別として、

私はその「事実」は

実にもったいないと

思うのだ。

 

100%スッキリ

した時、

自分はどのような

発想をするのか?

 

何を決め、

何を決めないのか?

 

何を

願っているのか?

 

何を

目指しているのか?

 

ちょっと極端に

言うと、

「自分」として

この世に生まれてきた

以上、

 

私はそれらを

知ることは、

人間としての「義務」

ではないかと

思うのだ。

 

せめてそれを

知ろうと

努力することは、ね。

 

・・・・・・

 

最近、特に

思うのだけど、

 

みんな

悩まなくていいところで

悩んでいるよな。

 

先ほど、

100%のスッキリ

と書いたが、

 

これを手に入れることの

できる人は、

 

ちゃんと

悩むべきことに

悩んでいる

人だ。

 

本当に悩むべきことに

向き合い続けている

人だ。

 

だから、

変な風に聴こえるかも

しれないが、

 

100%スッキリできる

人ほど、

悩みが深い

のだ。

 

深い悩みと

向き合い続け、

いつも

ある意味

混沌としている。

 

でも

その混沌としっかり

関わり続けることで、

 

ある時

ある瞬間に

 

必要なタイミングで

 

100%晴れる

という状態が

訪れる。

 

100%晴れる

ためには

雲をなくそうと

してはダメだ。

 

あらゆる雲と

ちゃんと向き合い

続けることだ。

 

そして

そういう人ほど、

軽やかになる。

 

今、「悩みが深い」

という表現を

使ったが、

 

これは

「悩みが深刻だ」

ということでは

ない。

 

深刻ではなく、

深い。

 

深刻とは、

本来悩むべきことに

向き合わないことで

発生する状態だ。

 

それとは

まったくの真逆。

 

悩みが

深くなればなるほど、

その人は

軽やかに

なっていくんだ。

 

・・・・・・

 

そういう意味で

もっとちゃんと

悩もう、

我々は。

 

悩みと

向き合おう。

 

毅然と。

 

悠然と。

 

真正面から

ね。

 

つづく