宿命

私は流れだ

 

自分自身の中に

確かに、

 

流れ続ける河

 

の存在を

感じるだろうか?

 

その流れは

決して

止まらない。

 

人生で

何が起きても

何が手に入っても

何を失っても

 

その流れは

決して

止まらない。

 

流れ続けるという

こと

そのものが

「命」の証だ。

 

自分の存在の

証だ。

 

そう。

 

私達人間は

流れ続けている。

 

どこまでも

流れ続けるのが

私達の宿命だ。

 

どうせ

流れるのであれば、

 

自らの意志を

そこに込めるといい。

 

宿命なんて

受け入れない。

 

と、拒絶を続ける

よりも、

 

宿命をそれごと

丸ごと

 

自らの意志として

 

受け入れる

どころか

「活用」しようと

する。

 

それが人間の

本来の逞しさ

なのだろう。

 

流れよ。

 

どこまでも。

 

この流れに

委ね、

私はどこまでも

行ってやる。

 

そう、

本心から決めた

とき、

 

初めて、

 

その流れは

「私」となる。

 

「私」そのもの

となる。

 

そうなって初めて、

 

宿命そのものが

実は最初から

自らの掌の上に

あったのだ、

 

という真実を

私達は

思い出すことができる。

 

どうせなら、

 

そんな生き方を

したいものだ。

 

つづく

 

痛いものは痛い

 

本当に

泰然自若としている

人は、

 

心に傷のない人

ではない。

 

第一、

心に傷のない人は

一人もいない。

 

本当に

泰然自若としている

人は、

 

心に傷があるという

事実を

引き受けている

人だ。

 

傷のあるのが

当たり前、

・・・と。

 

そしてその傷を

治そうともしない。

 

そのままで

いい。

 

あるがままで

いい。

 

と、

良い意味で

開き直っている

人だ。

 

人間誰だって

痛いのはいやだ。

 

だから

痛さから

逃れようとする。

 

それは

自然なことだ。

 

しかし、

逃れようとすることと、

痛さを麻痺させることは

まったく別のこと。

 

麻痺は

ダメだ。

 

本当に自分が

おかしくなる。

 

痛い。

逃げたい。

でも痛い。

でも逃げたい。

でもやっぱり

痛い。

 

・・・と

あるがままに

痛がることが

健康的だ。

 

そして

それはもう人として

しょうがないことである

と、

人の宿命を

受け入れることで

 

その人には

光が溢れる。

 

真本音の

光だ。

 

人の宿命を

受け入れるからこそ

真本音は

浮上する。

 

痛いものを

痛い!

と素直に感じるからこそ

真本音は

浮上する。

 

そしてその真本音は

光に溢れている。

 

その光に包まれれば、

私達は、

 

痛さそのものは

変わらないが、

 

痛くても大丈夫、

 

という自分に

なれる。

 

そして、

痛いままに、

 

いや、

その痛さがあるが

故に、

 

自分の次の一歩を

ちゃんと

見極めることが

できるようになり、

 

その痛さがあるが

故に、

自分の道を

見出せるようになる。

 

それが

真本音の力であり、

真本音の道だ。

 

痛がる自分。

 

逃げようとする

自分。

 

すべてOKだ。

 

逃げても

痛いものは痛い。

 

だから

絶望的になる。

 

それもOK。

 

それが

人間ではないか。

 

そんな自分自身を

引き受けよう

ではないか。

 

つづく