幻影

この道は幻影か

 

目の前に続く

一本道を

ずっと自分の道だと

信じて進んできた。

 

道の先は

霧の中だが、

 

しかしこの道を

行くことが

自分にとっての最善

なのだと

信じて進んできた。

 

ところが、

 

ずっとまっすぐに

進んでいると思っていた

その道は、

 

実は

ほんのわずかずつ

右に曲がっていた。

 

まっすぐだと

思い込んで進んだが、

少しずつ右に右に

ズレ続け、

 

その道は

大きな大きな

円を描き、

 

ふと気がつくと

もといた場所に

戻っていた。

 

・・・冬山では

霧のために視界が

遮られた時、

このような状態で

同じ場所をグルグル

周り、

体力が尽き

遭難に至る、

ということがよくある。

 

それと同じことを

人は

人生でも

行なう。

 

私はこれを

「幻影の道」

呼んでいる。

 

この道は

同じ場所を

周回し続ける。

 

進んでいるように

見えて、

実はまったく

進んでいない。

 

成長し続けている

ように見えて、

実は何も

変わっていない。

 

ただ、

疲弊を

していくだけ。

 

しかし

多かれ少なかれ

私達はもともとは

この「幻影の道」に

いる。

 

しかし

ある時にその周回から

逸脱をする。

 

グルグルから

抜け出すのだ。

 

抜け出した私達は

「自由」になり

今度は「まっすぐ」に

進むが、

 

しかし実はそれさえも

また、

さらに大きな周回に

過ぎない。

 

でもいつかまた

その大きな周回からも

脱出する。

 

そして「まっすぐ」

行くが、

でもやはりそれすらも

さらにさらに大きな

周回である。

 

・・・このようにして、

私達は、

「幻影の道」

を抜け出しては

さらに大きな「幻影の道」

に入り、

 

を繰り返し、

 

そしてついには

本当にまっすぐな道

に至る。

 

これを私は

「実在の道」

呼んでいる。

 

実在の道

幻影の道

か、

 

は、

後になってわかる

ことだ。

 

残念ながら

「今ここ」では

わからない。

 

でも、

ちゃんと

一日一日・一歩一歩を

自分の真本音を大切に

丁寧に進めば、

 

今いる幻影の道からは

自然に

脱することができる。

 

私が「脱皮」と

呼んでいるのは

このことだ。

 

脱皮を繰り返せば、

自分がいかに

小さな世界で

グルグル回っていたか

よくわかる。

 

あれは「幻影の道」

だったと

よくわかる。

 

だからと言って

ガックリする必要は

ない。

 

それが

私達人間の成長であり

進化であり、

 

それらすべてを

含めて

それが私達の道なんだ。

 

幻影だろうが

実在だろうが

 

堂々と

今を進もう。

 

つづく

 

それは本当の意思か?

 

川の水面に空が

映っている。

 

まるで

鏡のように。

 

それを見つめていると、

どちらが本物の空なのか、

わからなくなった。

 

実在と幻影。

 

その本質は

まったく異なるものだが、

姿と形は

よく似ていることが多い。

 

似ているどころか、

表面だけを見れば、

完全に一致することも。

 

実在と幻影。

 

私達の心の中には

この二つがある。

 

その区別が

つかないからこそ、

私達は戸惑い、

迷う。

 

・・・・・・

 

ある時、私は

「風」になろうと思った。

 

風になれば、

川の水面は揺れる。

 

揺れれば、

そこに映っている

幻影も揺れる。

 

そうなれば、

本物の空と

映っているだけの空の

区別がつく。

 

私のやっている

サポートの本質とは

これである。

 

というよりも、

たったこれだけのことを

しているだけだ。

 

・・・・・・

 

あなたが捕らわれている

確かなものとは、

 

実は単なる幻影かも

しれない。

 

幻影に捕らわれ、

幻影の意思のままに

動けば、

 

いつかはそれは

消え、

あなた自身の意思も

消える。

 

すべての幻が

消え去った時、

 

あなたは何もない

孤独の世界に

ポツンと突っ立っている

自分を発見するだろう。

 

虚しさと虚無感。

 

絶望感。

 

それにより、

この世に確かなものなど

一つもない、

あなたは思い込んで

しまうかもしれない。

 

虚しさに基づき、

それが真実だと思い込み、

次の自分の道を

決めてしまう。

 

しかしその道すらも

幻影なのだ。

 

幻影で築いた道は、

どこまで行っても

幻影のまま。

 

そこから抜け出す

唯一つの方法は、

 

自分の中の

実在

を見つけることだ。

 

・・・・・・

 

自分の中の

実在。

 

揺るがぬ意思。

 

それは、

揺るがないようにしよう!

と努力して創り上げた

ものではない。

 

始めから、初めから、

揺るがないもの。

 

そこにただ

在るものだ。

 

それは、

顕在意識レベルの

表現を使えば、

 

あなた自身の

「願い」

である。

 

揺るがぬ願い。

 

人生を通じて、

一生

持ち続ける

願い。

 

一生持ち続けるが、

それは変化をしない

ということではない。

 

それは着実に

進化をする。

 

その進化に

歩調を合わせれば、

あなたの心も身体も

進化する。

 

だから常に

実在に

立ち返るといい。

 

そこを

毎日の原点と

するといい。

 

もし自分の実在が

わからないのであれば、

 

わかろうと

するだけでもいい。

 

今のこの私の意思は、

実在か、幻影か?

 

それを一つずつ

確認しながら

進めばいい。

 

それだけでだんだんと

区別はついて

来るもんだ。

 

・・・・・・

 

本物の空なのか?

 

水面に映っている

空なのか?

 

本当はそんな区別は

最初から

ついている。

 

私達は本当は

すべてをわかっている。

 

だから

「人間」を

やってるんだよ。

 

つづく

 

それは本当にそれか?

 

月が水面に

映ると、

 

その月は

水面の揺らぎと

共に

揺れる。

 

もし、

その映っている月を

本物の月であると

思い込んでいたら、

 

私達は、

月とは揺れるものだ、

勘違いするだろう。

 

しかし同じようなことが、

この世の中では

起きている。

 

私達は

その物事の本当の姿を

ちゃんと

見つめているだろうか。

 

ただ、

その物事の幻影を、

 

どこかに映っている

幻影を

 

見ているだけでは

ないだろうか。

 

私達は

その人の本当の姿を

ちゃんと

見つめているだろうか。

 

ただその人の

幻影を

見ているだけでは

ないだろうか。

 

私達は

自分自身の本当の姿を

ちゃんと

見つめているだろうか。

 

ただ、

自分という人間の

幻影を

見ているだけでは

ないだろうか。

 

真実は

どこにある?

 

目に映っている

その現実は

本当に

現実だろうか?

 

私達は

その本質を

実在を

ちゃんと捉えて

いるだろうか?

 

そんな問いを

持ちながら

すべてと向き合うだけで

 

人生観は

変わるかも

しれないんだよ。

 

つづく

 

幻影の中で生きるのか

 

心の中の現実を

私は

『実在』

と呼んでいるが、

 

心の中には

現実ではないものも

存在している。

 

それを

『幻影』

と呼ぶことにしている。

 

つまり心の中には

「実在」

「幻影」

の二つがある。

 

残念ながら

ほとんどの人は

この二つの区別が

ついていない。

 

しかし本当は

この二つはまるで

 

本物の青空

 

 

絵の具で描いた青空

 

くらいの差があり、

それくらいの

違いがわかるはずなのだ、

私達人間は。

 

本来は。

 

・・・・・・

 

私の言葉で

表現すれば、

 

実在のことを

「真本音」

 

幻影のことを

「反応本音」

 

と言う。

 

真本音とは

実在であるので、

確固たるものだ。

 

どのような状況でも

揺らぐことはない。

 

しかし

反応本音は逆に

幻影であるだけに

すぐに

揺らぐし、

消える。

 

確固たる度合いを

比喩的に表現すれば、

 

真本音は

地球。

 

反応本音は

雲。

 

くらいの違いがある。

 

雲は確かに

その瞬間は現れるし、

時には大きくなるが、

 

必ず

いつかは消えていく。

 

掴もうと思っても

掴めない。

 

乗っかろうと

思っても

乗っかれない。

 

それだけ

不確かなものだ。

 

ところが、

雲に一度巻かれて

しまうと

何も見えなくなる。

 

例えば、

怒り、という反応本音に

巻かれてしまうと

怒り以外のものが

見えなくなってしまう。

 

そしてそのまま

雲(怒り)に巻かれた状態で

私達は

次の自分の言動を

起こす。

 

本当は

地球はあるのに。

 

いつだって。

 

本当は

私達は地球に

いるのに。

 

それすら

わからなくなる。

 

地球にいることを

思い出せば、

私達は本当は

自分が何を望んでいるか

も思い出せる。

 

しかし

忘れたまま

生きていく。

 

幻影に

巻かれたまま

生きていく。

 

たとえ

一つの幻影から

抜け出ても、

次の幻影に

巻かれる。

 

幻影から幻影に

移り変わるだけ。

 

地球を思い出さずに

幻影の中のみ

を移り変わるだけ。

 

そのような状態で

生きている人が

残念ながら

ほとんとだ。

 

幻影に巻かれて

行動を決める、

ということは、

 

幻影に基づいた

心の外の現実

(これを現象という)

を創り上げることに

なる。

 

幻影に基づいた

現象を創るということは、

 

当然であるが、

 

実在の望む現象とは

別の現象を

生み出すことになる。

 

ここに、

「実在と現象の不一致」

が起こる。

 

そして

その不一致によって

さらなるストレスが

発生し、

 

それが心の中に

大量の「苦しみの幻影」

を巻き起こす。

 

そして私達は

その「苦しみ」からさらに

次の行動を

決めてしまう。

 

そのサイクルを

延々と続ける。

 

それが人生であると

思い込みながら。

 

・・・・・・

 

そのサイクルから

抜け出ていただく

のが、

私のサポートの

第一段階だ。

 

ちなみに、

第二段階は、

抜け出た後に今度は

望む現実(現象)を

創り出していく。

 

それによって

 

「実在と現象が一致」

 

する。

 

これが私のサポート

の本質であり、

 

私はこのような

サポートのできる人を

「コーチ」

と呼んでいる。

 

「実在と現象を一致させる」

ためのサポート力。

 

これを修得していただく

ための場を

春くらいを目処に

立ち上げようと

思っている。

 

それは恐らく

一つではなく、

いくつかの

バリエーションを持たせて。

 

まだ現時点では

明確ではないが、

すでに準備には

入っている。

(→【コーチ探し、始めます】)

 

つづく

 

正義、って重いんだねぇ

私達人間のほとんどの苦しみは

幻影です。

 

幻影と言っても、

実際に起きている現実は、

現実です。

 

しかし本当は、

その現実が私達に苦しみを与えている

わけではありません。

 

現実とは

どこまで言っても

現実でしかあり得ません。

 

その現実をどう受け止めるか?

を私達は自ら決めています。

 

自ら、解釈をしています。

 

その段階で、

自らに苦しみを与えます。

 

例えば、

とても厳しい現実が目の前にあったとしても、

もし似たような経験が過去にあったとすれば、

その人の苦しみは減退するでしょう。

 

自分は過去に、このような現実を

乗り越えたことがある、

という経験は、私達の苦しみを

減退させます。

 

しかしだからと言って、

今の現実が変わるわけではありません。

 

私達の現実を受け止める解釈が

変わるだけのことです。

 

つまり私達は私達自身の解釈により

苦しみを増減させています。

 

「人生は苦しい」

と思う人の多くは、

自分でその苦しみを創り出している

だけのことです。

 

私達はそういった解釈の世界から

脱け出すことが

本当は誰もができます。

 

ただ、現実をあるがままに

感じ取るだけの日々の始まり。

 

するとその瞬間から、

現実はまったく違った世界を

私達に見せてくれます。

 

現実を、あるがままに感じ取ることが

できればできるほど、

私達は、自分自身がいかに自由であるか?

を知ることになります。

 

脱皮をするというのは、

現実をあるがままに捉えられない原因となる

強い解釈の衣を

一つ脱ぎ捨てることである、

という言い方もできます。

 

今、弓江さんは

「正義」という解釈を脱ぎ捨てようと

しています。

(→前回記事)

 

実在レベルで表現すれば、

弓江さんが脱ぎ捨てようとしている

「正義」は、

弓江さんの左足に絡みついています。

それを取り払えば、

弓江さんはその「正義」から自由になれます。

 

しかしそれが

なかなか取れません。

 

「どうすれば、

取り払えそうですかね?」

 

「木村リーダーに

取ってもらおうかな。」

 

「わかりました。

それはなかなか良いアイデアですね。

では木村さんに取ってもらいましょう。」

 

思わず、木村さんが言います。

「えっ、私にできますか?

どうすればいいんでしょう?」

 

「簡単ですよ。

今、弓江さんが言われた“正義”は、

単なるイメージではなく、実在です。

ですから木村さんにもわかるはずです。

意識を弓江さんの左足に

向けてみてください。

何か見えませんか?」

 

「見える、というよりも、

確かに何か異物があるような

感覚がありますね。」

 

「それで充分です。

木村さん、その異物は

どうすれば取れると思います?」

 

「えっ? ・・・そうですね。

どんなやり方でもいいですか?」

 

「もちろん、いいですよ。」

 

「私が、私の手ですくい上げても

いいですか?」

 

「できそうですか?」

 

「はい。」

 

そう言われた木村さんは、

弓江さんの左足の踵の近くに手を伸ばし、

一気にその「正義」をもぎ取ってしまいました。

 

「あっ、軽くなった!」

 

と弓江さんがびっくり。

 

「たけうちさん、

今、私の両手にその“正義”がありますが、

これ、どうしたらいいでしょう?」

 

「どうされたいですか?」

 

「たけうちさん、

受け取っていただけます?」

 

私は笑いました。

 

「しょうがないですね。

じゃあ、私がいただきます」

と言いながら、

私は、木村さんから弓江さんの「正義」を

受け取りました。

 

ド〜ンと腰の辺りが

重くなりました。

 

実はこういった展開、

しょっちゅうあるんです。

 

私はよく、

脱皮をした人の古い皮を

受け取ります。

そして浄化をします。

 

その古い皮があまりにも重く、

苦しいものであればあるほど、

私の場合は、腰に来ます。

 

まるでギックリ腰になったかのような

感覚が来るのです。

場合によっては

立てなくなってしまうこともあります。

 

それだけその古い皮は

その人にとって重いものであった

ということです。

 

これは「イメージ」の話ではありません。

あくまでも「実在」の話ですので、

こういったことが起こるのです。

 

そして、重い皮をもらうたびに、

私はいつも思うのです。

 

人間というのは、

こんなに重いものを抱えながら

生きているんだな、と。

 

つづく