悔恨

後悔と向き合う

 

頭のてっぺんから

足の先まで、

 

身体の中を

川の流れのように

 

エネルギーが

流れていく

イメージをしよう。

 

気持ちよく

天から地に

エネルギーが

流れていく。

 

その流れに

全身を委ね、

 

そして

身体の内側を

そのエネルギーで

洗うようなイメージだ。

 

身体の内側に

シャワーを浴びる

イメージだ。

 

それをした時に、

 

身体のどこかに

滞りは

ないだろうか?

 

川で言えば

まるで岩があるかの

ような箇所。

 

そこだけ

流れがいったん

止まってしまったり、

 

淀んだり、

 

濁流が起きたり、

 

水が死んでしまって

いるかのような箇所。

 

別の表現で言えば、

 

そこだけ

まるで異物があるかの

ような箇所。

 

腫れ物が

できてしまっている

ような箇所。

 

それは

ないだろうか?

 

もしあれば、

その異物の部分に

意識を向けてほしい。

 

可能であれば、

その異物の色とか

形とか

重さとか

固さとか、

 

そういったものを

感じ取ってほしい。

 

あまり具体的に

できない場合は

 

その異物の

存在だけ感じ取れば

いい。

 

そして、

 

その異物に

じっと

意識を向け続けて、

 

その異物の

声を

受け取ってみるといい。

 

声でなくても

いい。

 

その異物の「訴え」

のようなものを

感覚で掴んでもいい。

 

「私に何を

伝えたい?」

 

と、

異物に訊いて

みてもいい。

 

恐らくそれは

 

その異物は

 

あなたの

「後悔」

だ。

 

「悔恨」

だ。

 

今、ここに来て

後悔や悔恨の気持ちが

浮上してきている人が

多い。

 

それは、

実は、

 

とても良いことだ。

 

「浮上」というのは

「解消」の前兆だからだ。

 

しっかりそれを

存在承認し、

 

その声や訴えを

聴いてあげてほしい。

 

自分自身を

カウンセリングする

ような感じだ。

 

そして

その異物を

癒してあげてほしい。

 

よしよし、と

手でさすってあげて

ほしい。

 

もしかすると

だいぶ、感情が

出てくるかもしれない。

 

それでいい。

 

すべて

存在承認。

 

以上をしっかりすれば、

異物は癒され、

 

心はニュートラルに

戻るはずだ。

 

そうなったら、

自分自身に問おう。

 

もう二度と

同じ後悔をしないために

 

今日から

明日から

 

何を大事にし、

何をしようか?

と。

 

ここからまた

スタートだ。

 

つづく

 

子へ 友へ

 

ここから

進もうとしている

人へ。

 

あなたの

これまでの

悔恨のすべてが

あなたの

財産だ。

 

時間は

後戻りできない。

 

だからこそ

そこまで

悔やみ

悲しむ。

 

だからこそ

それは

宝物だ。

 

魂を

かきむしるくらいの

それがあるから

あなたは

あなたにしか

できない

次の一歩を

見出せる。

 

あなたにしか

出せない

一歩を

踏み出せる。

 

自分は

人として

未熟だ。

 

あなたは

そんな経験を

数え切れないほど

重ねてきたかも

しれない。

 

しかし

やはり

それこそが

あなたの

道だった。

 

その道が

あるからこその

今のあなた

だ。

 

もちろん、

今のあなたも

未熟だろう。

 

これからの

あなたも

悔恨をいくつも

重ねるだろう。

 

しかしやはり、

それを重ねる

未来にあなたも

 

それがあるからこそ

あなた

なのだ。

 

悔しさを

捨てず、

悲しみを

隠さず、

 

涙を

止めず、

 

そのままで

 

あるがままで

 

そのままの

あなたで

 

あるがままの

あなたで

 

これからも

信じる道を

進んで行って

ほしい。

 

あなたが

あなたで

いる限り、

 

あなたが

自ら

進もうとする

限り、

 

皆があなたを

支えるだろうし、

 

少なくとも

間違いなく

 

私は

あなたを

応援するよ。

 

つづく

 

悔恨の浮上は、解放である

 

砂漠のような

ところに

私はいる。

 

夜だ。

 

星は

出ている気配は

ない。

 

漆黒の闇が

私を覆っている。

 

私は

四つん這いの

ような格好を

している。

 

私の両手は

砂を掴んでいる。

 

私の手は

震えている。

 

渾身の力で

砂を

掴んでいる。

 

私の目からは

止めどなく

涙が

溢れ続けている。

 

私の表情は、

自分では見えないが、

恐らくは、

鬼のごとき

怒りの表情か、

もしくは、

情けなさの極みの

ような、

深い悲しみの

表情か。

 

私の心の中には

チクショー

チクショー

チクショー

・・・

という私自身の

叫びが

こだまし続けている。

 

悔恨の

念。

 

あまりにも

深い

悔恨の念。

 

私は

その塊だ。

 

怒りはすべて

私自身に

向けられていた。

 

悲しみはすべて

自分の人生

そのものに

向けられていた。

 

人に対する恨みも

きっと

とてつもなく

大きなものだったろう。

 

しかし

それをかき消すくらいに

私は私を

責め続けていた。

 

・・・・・・

 

この情景は、

記憶なのだろうか。

 

よくわからない。

 

しかしそれは

紛れもなく

「体験」だ。

 

「体験」として

私のこの体に

そして

魂に刻まれている。

 

この情景を

思い出したのは、

そんなに遠い

昔ではない。

 

確か、

17〜8年前だ。

 

当時の私はすでに、

今のお仕事を

していたが、

「真本音」とは

まだ出会って

いなかった。

 

この「体験」を

思い出してから

だろうか。

 

私の人生は

大きく

向きを変えた。

 

・・・・・・

 

「体験」の浮上。

 

失われていた「記憶」

の浮上。

 

これは、

決して悪いことでは

ない。

 

「浮上」とは

「解放」を意味する。

 

逆に言えば、

「浮上」していない

ということは、

自分の知らぬところで

それらに自分は

「支配」されている

ことになる。

極端な表現であるが。

 

私のその「体験」の

「浮上」の前は、

恐らく私の人生は、

それに「支配」された

ものだったろう。

 

つまりは、

そのあまりにも深い

悔恨。

 

これに苛まれ、

これを打ち消すために

私は

生きていたのだろう。

 

悔恨を

打ち消すための

人生。

 

悔恨から

逃げるための

人生。

 

別の視点から言えば、

それまでの私の

人生は、

「償いのための人生」

だったのだと

思う。

 

自分を責め続け、

そんな自分は

「償いのために生きよう」

と決め、

それをすべての

モチベーションの源泉

とした。

 

恐らく、

こういう人は

多い。

 

もちろんほとんどの

人には

自覚はないだろう。

 

しかし、

はっきり言おう。

 

自分を

責め続けることを

自分の中心とし、

 

悔恨から

抜け出すことを

人生の目的とし、

 

償うために

生きる、

 

ということは

自分自身の

本来の力の

1割をも

発揮できない人生になる。

 

・・・と。

 

償いたいことが

ある。

 

だから、

償うために

人生を生きる。

 

・・・これでは

一生をかけても

償いは成就しない、

のだ。

 

真の償いとは、

 

『自分自身を

真に幸せにすること』

 

である。

 

自分が

真に幸せにならねば、

自分が

周りを幸せにすることは

不可能だ。

 

この当たり前の

事実は、

もちろん頭ではずっと

わかってはいたが、

 

本当に

紛れなく淀みなく

本当に

心と魂の底から

そう断定できるように

なるために、

私はこの10数年間を

費やしたように

思う。

 

人生は

修行である。

 

もちろん、

そうだ。

 

しかし、

人生は修行である

言い続けているうちは、

真の自分には

近づけない。

 

自分の本当の

人生の目的には

到達できない。

 

人生は

修行である、

というのは

自己満足の行為だ。

 

償いを目的に

するのも、

自己満足だ。

 

自分も周りも

誰もが

それで真の悦びを

得ることは、ない。

 

身も心も魂も

そのように

断定できるように

なったとき、

初めて私達は

本当の人生を

始めることができる。

 

初めて私達は

自分の使命を

知ることができる。

 

何のために

ここにいるのかを

ありありと

知ることができるのだ。

 

つづく

 

とことん後悔すれば救われる

後悔と反省

という言葉があります。

 

時々、

「後悔せずに反省しなさい」

と言われたりしますが、

後悔のない反省は

あり得ません。

 

悔恨の念。

 

これは、

とても大切です。

 

真剣に生きれば生きるほど、

自分が何か

間違っていたな、と

思ったら、後悔は

生まれます。

 

生まれなきゃ

不自然ですよね。

 

後悔や、悔恨の念には

私達は呑まれてしまいます。

 

それで良いのです。

 

思いっきり

とことんまで

呑まれることこそが

大事です。

 

ただそれを

まるでゲームのように

行ない続けている人も

います。

 

毎日後悔することで、

それを言い訳に

前に進まない状態を

つくっています。

 

それは、

後悔とは

言いません。

 

ただの

怠慢です。

 

本当の後悔や悔恨は

呑まれます。

 

落ちるところまで

落ちます。

 

そこに意味があります。

 

中途半端ではなく、

落ちるところまで

しっかりと落ちること。

 

それをすれば、

必ず、

「底」

にたどり着きます。

 

底にたどり着くことで

私達はもう

どうあがいてもこれ以上

落ちることができないことを

知ります。

 

頭での理解ではなく、

実感として

知ります。

 

それにより

私達は

「再浮上」

を始めます。

 

本当に後悔し、

本当に落ちるところまで落ち、

再浮上する。

 

この一連の流れを

私達は真本音で望むことが

あります。

 

その真本音の望み通りに、

しっかりと後悔をすれば、

再浮上の直前から

「反省」

が始まります。

 

「反省」とは

「解放」であり「開放」

です。

 

「反省」とは

本来は

すがすがしいもの

です。

 

なぜならそれは

次のステージに上がるための

気づきだからです。

 

私達はどうしても、

自分が落ちようとすると

まるで無限に落ちていくような

恐怖に苛まれます。

 

それにより、

バタバタとあがきます。

 

しっかりと

後悔すればよいのに、

中途半端に

後悔や悔恨の念から

逃れようとします。

 

そして、

中途半端な反省を

します。

 

中途半端な反省は

中途半端な浮上しか

もたらしません。

 

ゲームではなく、

本当の意味で後悔する

ということは、

真剣に生きている

証拠です。

 

真剣に生きていることを

一番よくわかっているのは

自分自身です。

 

そんな自分を

私達は見捨てることは

しません、決して。

 

ですから、

後悔に呑まれたら、

とことん後悔し尽くしましょう。

 

素直に

落ちていきましょう。

 

底に着いたら

底で大の字になって

休みましょう。

 

そして、

自然に浮上するのを

待ちましょう。

 

今、

人生の転換点を

迎えている人が

増えています。

 

大事な転換点。

 

後悔すべきをしっかり後悔し、

反省すべきをしっかり

反省しましょう。

 

つづく