本質

聡明のもと

 

前転が

上手くできるから

と言って、

 

バク転が

上手くできるわけでは

ない。

 

ただ、

床の感触を掴む力とか、

自分の体の

バランス感覚とか、

 

前転を通じて

得たものを

バク転に活かす

ことはできる。

 

本質を掴めば

応用が効くように

なる。

 

最近、

ある企業様で

「教え方研修」

というのをさせて

いただいた。

 

研修講師としての

教え方を学ぶ

という研修だったが、

 

この研修を企画担当

された方が、

私の講義をお聴き

いただいた後に、

 

「今回は教え方を

教えていただきましたが、

この内容は

教え方以外の

あらゆる仕事にも

使えますね」

 

言ってくださった。

 

これもまた、

本質を掴んで

いただいたからこそ

出てくる言葉。

 

物事を

表面的な形として

のみ捉えるのでなく、

 

常にその本質を

掴もうとする。

 

そういった姿勢は

とても大事だ。

 

あらゆるものに

本質はある。

 

本質のない

ものはない。

 

・・・という

見方をすると

良いだろう。

 

もちろんそれは

自分自身にも

言える。

 

「自分」の

本質は何だろう?

 

「自分の人生」の

本質は何だろう?

 

難しい問い

だろうか。

 

いや、

 

答えがすぐには

わからなくとも、

常にそのような問いを

投げ続けることこそ

大切だと思う。

 

頭の聡明さ

とは、

こういった地道な

問いによって

養われるのだと

思う。

 

つづく

 

なんでそんなに納得するんだ?

 

昔、私にまだ

セルフコーチングの力が

まったくなかった時代、

 

私は物事に悩むと

よく、

星空を見上げた。

 

昼間であれば、

青空を

見つめ続けた。

 

天気が悪ければ、

さらに若い頃に行った

ヒマラヤの山々や

日本の山々を

心の中にイメージした。

 

とにかく、

大きなもの

広大なもの、

そして

私達人間の力が

まったく及ばないものに

意識を向け続けた。

 

すると、

目の前の物事が

小さなことのように

思えた。

 

思えるだけで

本当はそうではないのだが、

でも、

私の視界は大きくなり、

 

その大きな自分から

今の自分を

見つめることができた。

 

だから私は

大自然のような

大きなものに

憧れた。

 

自分は小さく、

自然は大きい。

 

その大きさを

目指した。

 

が、

目指してはいたが、

そこには決して

たどり着けないのだと

思っていた。

 

大自然と

自分が

分離していたのだ。

 

・・・・・・

 

今は

ちょいと違う。

 

大自然と自分は

つながっているし、

実は

「一つである」

ことを

実感として身に沁みて

理解している。

 

でっかい宇宙の中に

人はいるが、

 

実は

人の中にも宇宙があり、

 

内の宇宙と

外の宇宙は

完全に一致することも

実感としてわかる。

 

しかしそれは

決して

傲慢な感覚ではない。

 

その感覚は

「祈り」に近い。

 

私は

一つの祈りでもあるし、

全体の祈りでもある。

 

言葉で表現しようと

すると、

わけのわからないものに

なってしまうが、

 

感覚として捉えると、

当たり前のことを

言っているだけだ。

 

・・・・・・

 

なんか久しぶりに

わけのわからないことを

書いている気もするが、

 

先日、

私のビジネスパートナーから、

「いやいや、

たけうちさん、最初からいつも

わけがわからないですから、

慣れてますよ」

と言われた。(苦笑)

 

私のパートナー達は

素晴らしい。

 

私のわけのわからなさに

わけがわからないままに

ちゃんと真摯に

向き合い続けてくれる。

 

誠にありがたい。

 

・・・・・・

 

私は、

5歳の息子には

できるだけわけのわからない話は

しないことにしている。

 

ところが、時たまであるが、

ポロっと出てしまうことがある。

 

先日、二人でおもちゃ屋に

行った。

 

すると息子が

「このおもちゃ買ってほしい」

と言った。

 

「そりゃダメだ」

 

と私が伝えると、

「え〜、なんで〜、なんで〜!」

とゴネ始めた。

 

あんまりゴネるので、

 

「そのおもちゃさ、

真本音度合いが低いんだよ」

 

と思わず言ってしまった。

 

もちろん、

「真本音」とかそういうことを

説明したことはない。

 

しかし彼は

私のその一言を聴いた

途端に、

 

「あ〜そうなんだ」

 

と納得したのだ。

 

似たようなことは

他にもあった。

 

外食しようとして

お店を探している時に、

私が思わず、

 

「ちょっとここのお店、

次元が低いんだよな。」

 

と呟いたら、

 

「あっそう、じゃあやめよ」

 

と普通に返ってきた。

 

もちろん

「次元」なんて言葉を

使ったことはない(と思う)。

 

なんでこんなに

納得するんだ?

 

俺の子だからか?

 

とは思うが、

しかしこの感覚、

この、本質的なことを

実に素直に受け止める

この感覚は、

 

今の若い世代の人達には

本当によく感じることだ。

 

おそろしいなぁ、

(いい意味で)

と思う。

 

・・・・・・

 

最近、

本屋さんなどを見ると、

結構良い本が

出始めている気がする。

 

ちゃんと本質を

大切にした本だ。

 

残念ながら、

ほんの少し前までは、

本質を語っている風で

真逆なことを言っている

本が多かった。

 

なんかやっぱり

時代が

潮流が

良くなってきているのかな。

 

「実在」は完全に

良くなったので、

それが「現象」化され

始めている

ということだな。

(最後にちょっとだけまた

わけのわからないことを

書いてみた。)

 

つづく

 

表面に惑わされず

 

言葉の一つ一つは

とても冷たく、

 

人を否定すること

ばかり言い、

 

人の心など

関係ないよ、

という意味での

厳しさをいつも

前面に出している

のに、

 

なんか、

この人のこと

好きだなぁ、

 

と思える

人が

たまにいる。

 

マウンティング、

と言うのかな、

そんな圧も

感じるのだが、

 

その一方で、

とても居心地良さ

感じてしまうのだ。

 

別に私が

マゾなわけでは

ない。

(よく言われるが。)

 

その居心地良さ

とは、

あったかさ

表現することも

できる。

 

そういう人は、

こちらが目を

見つめると、

 

見つめ返して

くる。

 

睨み返す

のではない。

 

子どものような

目で

見つめ返して

くるのだ。

 

その瞬間、

つながった感

私の全身に

伝わってくる。

 

もちろん

その人が私と

同じように

感じているかどうか

は、わからない。

 

多分、

感じてないだろう。

 

しかし、

このつながり感は

ハンパない。

 

そうするともう

私の方は

その人に何を

言われようが、

 

あぁいいなぁ、

 

ずっとこの人と

こうやって

向き合ってたいなぁ、

 

思えてしまう。

(マゾではない。)

 

表面上の会話

では、

マウンティング

されたり、

 

きついことを

言われたとしても、

 

その言葉達を

じっと

見つめていると、

 

その中心に、

とてつもない

ヒントが

潜んでいたりする。

 

すると

そのヒントが

その人の開花や、

 

その人の所属する

組織の脱皮に

つながったり

する。

 

私が

好きになってしまう

そういった人は

恐らく、

 

真剣

なのだろう。

 

ただ、

その真剣さが、

ちょっと

(もしくは、だいぶ)

ひん曲がって

表出しているだけで、

 

本当は

その真剣さは、

とても明るく、

軽やかで

あたたかい。

 

私はその

本質の方を

感じ取れるように

なったので、

 

この仕事を

していて

よかったなぁ

しみじみ思う。

 

そして

その本質の方を

いつも見つめ、

 

そこに焦点を

合わせ、

 

その人を

サポートし続ける

ことで、

いつしかその人の

表面上のひん曲がりは、

修正されていく。

 

私自身は

修正しよう

などとは、実は

これっぽっちも

思っていない。

 

いや、

もしそう意図すれば

その途端に

何かが切れる。

 

私は

その人の本質を

感じ、

本質と

向き合い、

 

その瞬間感じたことを

そのまま

そこで

行なう。

 

そして

その人から

いただいたヒントを

宝物として、

 

次の

指針とする。

 

それだけだ。

 

人間はある意味、

多かれ

少なかれ

みんな

ひん曲がっている。

 

その

曲がった部分に

焦点を当てる

のではなく、

 

その奥の

中心に

焦点を当ててみよう。

 

すると

観える景色が、

印象が、

 

真逆になるかも

しれないよ。

 

つづく

 

あなたは本当は揺れてはいない

 

地球という

星の上で、

人と人

国と国が

争っている。

 

しかし

どれだけ争おう

とも、

 

地球そのものは

常に

そこに

存在している。

 

宇宙から観れば、

地球はいつも

変わりなく

ゆったりと回り、

 

いつも同じ軌道を

描き、

宇宙に存在

し続けている。

 

その表面で

何が起ころうと

変わることがない。

 

私達の真本音も

同じような

ものだ。

 

表面上で

どのような葛藤が

起ころうと、

 

どのような

反応が起ころうと、

 

いつも変わらずに

そこに

あり続けている。

 

・・・・・・

 

そして実は、

まったく

変わっていないように

見えても、

 

実在のレベルでは

 

地球は

徐々にではあるが

「進化」を

し続けている。

 

本当に

徐々にでは

あるが。

 

「進化」とは

エネルギーの質が

変わるということだ。

 

波長が

変わるということだ。

 

いつも

変わらずに

揺るがずに

そこにあるが、

 

しかし

波長は変わり

エネルギーとしての

強さも安定度も

さらに

高まっていく。

 

もしくは

それを常に

望んでいる。

 

これも私達の

真本音の

特徴だ。

 

・・・・・・

 

そしてそれが

人間の本質

というものだ。

 

自分自身の

本質

というものだ。

 

その本質を

常に思い出しながら

 

今日

という一日を

過ごすかどうか?

 

によって

人生は

根本的に変わる。

 

本質を

忘れていれば、

 

表面上の

些細な揺れにも

意識を

奪われる。

 

その「揺れ」が

自分自身である

いつの間にか

思い込んでしまう。

 

本当は

地球にいるのに、

そのことを

忘れてしまう。

 

本質を

思い出すからこそ、

私達は

自身の本来の

願いを

思い出すことも

できる。

 

その状態に

なるための

サポートを私は

「コーチング」と

呼んでいる。

 

自身の本質を

思い出せば、

その人の人生は

本質の人生と

なる。

 

そうなることで

「今の会社を

辞めよう」

とか

「今の仕事を

変えよう」

という

短絡的な結果には

ならない。

 

どの環境、

どの仕事においても

自分自身の

本質を

発揮することは

できるからだ。

 

むしろ、

「ここにいては

私は私らしくある

ことはできない」

という発想に

縛られるということは、

 

本質を

思い出していない

証拠だ。

 

「どこにいても

いいじゃないか」

 

と本当に

わかることで

私達は

自由になれる。

 

その状態で

環境を選ぶのであれば、

それは

健全な選び方だ。

 

自由な状態で

環境を選ぶのか?

 

不自由な状態で

環境を選ぶのか?

 

この違いは

あまりに大きい。

 

もちろん

人生に調和を

起こすのは

前者である。

 

そのためには、

自分自身の

地球を、

 

真本音を、

 

思い出すことだ。

 

つづく

 

もっと本質を理解しよう

 

似て非なるもの。

 

という言葉が

ありますね。

 

一見すると

同じように見えて、

実は本質は

まったく異なるもの。

真逆なもの。

 

そういったものが

世の中には

たくさんあります。

 

例えば、

将来への

「ビジョン」。

 

ビジョンとは

未来に対する願いを

描いたものですが、

 

本当に真本音の願いの

もとに描かれたビジョン

もあれば、

 

ただの夢想で

あったり、

現実逃避をするために

未来に意識を向けた

結果であったり、

 

そんなビジョンも

あります。

 

同じ「ビジョン」でも

本質は

まったく異なります。

 

当然ですが、

後者のビジョンは

私達自身の真本音が

とても嫌がります。

 

ですから

そのようなビジョンを

描いたり、

未来にばかり目を

向けている人には

私は、

 

「今ここに集中しなさい」

 

とか、

 

「今すべきことを

しっかりしなさい」

 

とお伝えします。

 

逆に、

真本音のビジョンを

描いている人には、

 

「徹底的にそのビジョンを

大切にするといいですね」

 

とか

 

「もっともっと自由に

そこに向かいましょう」

 

とご提案します。

 

ビジョンは

描けばいい、

というものでは

決してありません。

 

同じビジョンでも

真本音から外れた

ビジョンは

人生の足を引っ張ります。

 

・・・・・・

 

似て非なるもの、

の真逆もあります。

 

一見すると

全然違うのに、

実は本質は同じだった、

というものです。

 

例えば、

私のあるクライアント企業様の

営業部長さん。

 

彼は、

「我社には新商品は

必要ない。

既存の商品をいかに

売るか、が最重要だ」

と、

いつも言われていました。

 

その一方で、

同じ企業様の

経営戦略室の部長さん。

 

彼は、

「我社に今、最も必要

なのは、

新しい商品だ」

と、

いつも言われていました。

 

で、二人は

いつもぶつかって

いました。

 

俗にいう

「犬猿の仲」

というやつです。

 

そのため、

その会社では

二人を「会わせないようにする」

ということが

行われていました。

 

二人が顔を合わせれば、

間違いなく

ぶつかり、会議にならないからです。

 

そして、

経営戦略部長さんが

新商品をせっかく開発しても、

営業部隊のトップである

営業部長さんが

それを真面目に売ろうと

しない。

 

そんな状態が

何年も続いていたようです。

 

二人を何とか

できないか?

 

という社長からのご依頼で、

私はその企業様の

サポートに入りました。

 

詳細は省きますが、

私はお二人の部長さんと

一人ずつお話をし、

 

「なんだ、

似た者同士じゃん」

 

とすぐにわかりました。

 

「同じ真本音の想いを

持っているじゃないか」

と。

 

あえて言葉にすれば、

お二人の真本音の

共通の想いというのは、

 

「お客様の期待を

超える仕事をしたい」

 

ということでした。

 

それがお二人の

本質。

 

しかし、

お客様の期待を超える

ためには、

 

「自己満足の商品開発

など要らない。

それよりも、お客様の

声に耳を傾け、

できる最大のサービスを

行なうことが大切」

 

というのが、

営業部長さんの考え。

 

それに対して、

戦略部長さんは、

 

「既存の商品に

捕らわれているようでは

お客様の本当のご期待

以上のことはできない。

もっともっと新たなものを

生み出せる私達で

あるべきだ」

 

というお考え。

 

これ、

どう見ても、

相乗効果を起こすでしょ。

 

でもお二人は

恐らく、ずっとお互いを

否定し合ってきたのでしょう。

 

反応本音レベルの

拒絶感がすごく、

最初は大変でした。

 

でも、

真本音の想いは同じ

です。

 

結局、今ではお二人は

「同志」

となっています。

 

「社内で最も

理解し合える仲」

 

なんだそうです。笑

 

そりゃそうです。

 

真本音の想いは

同じなのですから。

 

・・・・・・

 

似て非なるもの。

 

まったく似ていないように

見えて、

実は同じもの。

 

そういったものが

世の中には

溢れています。

 

表面上だけで

判断するのは

やめたいですね、

もったいないから。

 

本当は

どうなんだろう?

 

本質は

何だろう?

 

という視点が

もっともっと

必要ですね。

 

つづく

 

説得しようとしないことが、思わぬ好展開を生む

弓江さんが変化することで、

木村さんが変化する。

その順番で、二人の真本音度合いを

一気に引き上げる。

 

それが今、私にできる最善のサポートであると

確信しました。

(→前回記事)

 

そんな流れの中での

「弓江さんはコーチに向いています」

というメッセージでした。

 

ところが、弓江さんはすぐにはそれを

受け止めてはくれませんでした。

「とてもとても信じられません」

と。

それはそうでしょう。

当然、そのような返事が返ってくると思っていました。

 

さぁ、真本音コミュニケーションを続けましょう。

 

こういった時ほど、相手の真本音に委ねます。

間違っても、

説得しようとか、納得してもらおうとかは

思わないことです。

 

「どうして、信じられないのですか?」

 

「だって、たけうちさんもわかりますでしょ?

私のこのコミュニケーションを見れば。

どう見ても、コーチ向きではないでしょ。」

 

「そうですねぇ。

コーチとは真逆のコミュニケーションですね。」

 

「でしょ!

こんな私にコーチング力があるとは思えません。」

 

「ありますよ。」

 

「ですから、どこがですか!」

 

彼女はついに怒り出しました。

大変申し訳ないのですが、私は内心

クスクスと笑いが止まらなくなりました。

 

「コミュニケーションの取り方は、なかなか

最悪ですね。」

 

「わかってますよ!

だから向いてないと言ってるんです。」

 

「でも、コミュニケーションの取り方以外は

すべてコーチに向いてますよ。」

 

一瞬、弓江さんは私の言っている意味を

把握できなかったようです。

しばらく目を白黒させていました。

 

「どういうことですか?

コーチって、コミュニケーションの取り方が

重要なんですよね。」

 

「コミュニケーションの取り方なんて、

表層的なことですよ。

現に、弓江さんと同じようにはっきりくっきり

物を言う人で、コーチング力のすごい人を

私は何人も知っていますよ。」

 

「えっ? じゃあコーチング力って何ですか?」

 

「今は教えません。」

 

「えっ? なに? どうしてですか。」

 

「教える必要がありませんから。」

 

「まったく意味がわかりません。」

 

「わからなくてもいいです。」

 

「たけうちさん、

私をからかってませんか?」

 

「全然からかってませんよ。

弓江さんとのコミュニケーションを楽しんでます。」

 

「それ、からかってるってことでしょう!」

 

そう言って彼女は笑い出しました。

この明るさ。

これが、弓江さんの本質です。

 

例えば、真本音度合いの低い人に

このようなコミュニケーションを取れば、

間違いなく深刻な展開となっているでしょう。

しかし弓江さんは笑い出しました。

 

私が意図してやっていることではありません。

真本音に委ねているだけのことです。

 

「弓江さんは、私がどんなコミュニケーションを取っても

そうやってまっすぐに向き合ってくれるじゃないですか。

私の一言一言をちゃんと聴いてくれる。」

 

「えっ? 私は聴き下手ですよ。

いつも、もっと人の話を聴きなさい、って

叱られます。」

 

「じっくり聴くことはしないと思いますが、

肝心なところをちゃんと受け取っています。

そしてそれに対して、まっすぐに考え、まっすぐに

返してくれます。

それがとても心地よいです。」

 

「う〜ん、確かに、まっすぐというのは

私らしいかもしれませんが。」

 

「弓江さんは、今私が弓江さんに

何を伝えようとしているかわかるんじゃないですか?」

 

「何を伝えようとしているか?

・・・私に『変われ!』ということですか?」

 

「どこを『変われ!』と言っていると思いますか?」

 

「・・・なんか、大したことを要求されている感じは

しません。

ちょっとしたところを変えた方がいい、と

言われている気がします。」

 

「さすがですね!

そこが、コーチに向いているところなんですよ。

本質を掴む力がピカイチです。」

 

「えっ、そうなんですか?」

 

「そうですよ。

例えば、木村さんの今の状況とか。

弓江さんが感じ取ることは非常に本質を

ついているんです。

最も肝心な部分を明確に言い当てています。

それができる人は、コーチに向いてるんですよ。」

 

「・・・そんなもんでしょうかね。」

 

「はい、そんなもんです。

弓江さんはちょっとだけご自分を変えれば

いいんです。」

 

「どこをですか?」

 

「コミュニケーションの取り方を、です。」

 

「えぇ? そんなこと言っても

今の私のコミュニケーションの取り方は長年ずっと

これでやってきたものです。

変えることなんてできませんよ。」

 

「そう思い込んでるだけのことです。

コミュニケーションなんて、最も簡単に変化させられる

ものなんです。

形を変化させるだけですから。

それは私が教えます。

でもこれは、本質を掴む力を持っている弓江さんだからこそ

有効なことなんです。

表面をちょっと変えるだけで、

劇的に物事の進展の仕方が変わりますよ。」

 

実はこの時点では弓江さんには伝えていなかったのですが、

弓江さんの力は、本質を掴む力、だけではなかったのです。

もう一つ、とても重要な力を持っていました。

それこそを、彼女はこれまで、恐らく一切、

使ってきませんでした。

 

それは、

相手を尊重する力

です。

 

私が、

『尊重力』

と呼んでいるものです。

 

つづく