混乱

真本音度と混乱

 

激流に呑まれ

大混乱に

なっている。

 

右も左も

わからない。

 

上も下も

わからない。

 

自分がまったく

わからなくなる。

 

その状況の

中で、

 

いや、

 

その状況の

中でこそ、

 

とてつもなく

静かな自分が

現れる。

 

それは

自分自身を

じっと

見つめている。

 

何も言わず。

 

その静かな自分の

目と

対峙する。

 

じっと

見つめ合う。

 

スーッと

何かが

抜けていく。

 

余分な混乱が

抜けていく。

 

余分な混乱が

抜けたとしても、

 

それでも

混乱は残る。

 

もはやそれは

余分なものではなく、

今の自分にとって

 

最も必要なもの

だ。

 

この混乱があるから

こそ、

 

次のステージに

行けるのだ。

 

それが確信として

わかるので、

 

あとはもう

委ねればいい。

 

混乱に

身を任せる。

 

我を失えば

いい。

 

大混乱。

 

それを

味わい尽くす。

 

必要な混乱とは

味わい尽くせる

ものだ。

 

我を失いながら、

どんどん

自分が鎮まっていく。

 

そして、

もうすぐ

生まれるのが

わかる。

 

新たな自分

が。

 

より

本来に近づく

自分が。

 

混乱は

人生に必要な

ものだ。

 

しかし

余分な混乱は

要らない。

 

この混乱は

余分なものか?

 

必要なものか?

 

真本音度が

高まれば、

その判別が

 

簡単に

つくんだよ。

 

つづく

 

混乱から出るな

 

「自分を

混乱させたい」

 

という

強い念を

無意識に持ち、

 

自分の知らない

ところで

自分を

無意識的に

混乱状態のままに置く。

 

・・・ということを

する人がいる。

 

しかも

真本音レベルで。

 

つまりそれは

「今の自分」

にとって

必要な状態。

 

あえて

混乱し続ける

という

不安定状態を

維持する、

 

という

真本音の選択だ。

 

特に

大きな脱皮や

自己開放、

もしくは

次のステージに

進む自分となる

ために

それをする。

 

ところが

中途半端な

セルフコーチングを

することで、

 

その必要な混乱

 

を、

自分で無理に

抑え込んでしまう

人が多い。

 

せっかくの

「真本音の混乱」

から

逃げてしまうのだ。

 

私はコーチ

として、

それを阻止する。

 

あえて

強い言い方だけど。

 

でもやはりそれは

阻止だ。

 

つまり

コーチとして

あえて

混乱を助長する。

 

もっともっと

混乱を招き、

その混乱から

自力で脱出できない

ように

するのだ。

 

当然、

恨まれる。

 

でも

やる。

 

こういう時

なんだ。

 

やっぱり

人には

サポート役が

必要なんだな、

と。

 

当然、

私自身も含めて

ね。

 

ちゃんと

混乱する時は

 

混乱

し尽くそう。

 

その向こうに

しか

真の出口は

ないのだから。

 

つづく

 

せっかくの混乱だ

 

混乱の源は

静寂だ。

 

静寂が

あるからこそ、

安心して

混乱できる。

 

もし静寂が

なければ

混乱すらできない。

 

だから、

 

もし今、あなたが

大きく混乱している

ならば、

 

安心すると

いい。

 

しかし

かといって

その混乱から

脱け出てしまうのは

 

実に

もったいない。

 

せっかく混乱

しているのだから、

 

最後まで

徹底的に

 

混乱

し尽くそう。

 

混乱している

間に、

 

私達は

準備を整える。

 

準備完了

と共に

混乱は消えていく。

 

意図して

消すものでは

ない。

 

自然に浄化

されていくのが

混乱の本質だ。

 

一見すると、

 

目の前の現実が

混乱の源のように

思うかもしれないが、

 

それは違う。

 

もちろん

現実が混乱の

引き金になることは

ある。

 

現実に

翻弄し続けられる

こともある。

 

しかし

現実による混乱とは

表面的なものだ。

 

あなたのその

混乱は、

 

もっと奥深い

し、

 

根が深い

はずだ。

 

そういった混乱は

諦めるといい。

 

やはり

徹底的に

混乱し尽くす。

 

「私は混乱である」

くらいに

混乱と同化すれば

いい。

 

「一生、混乱として

生きてやる」

くらいに

開き直ればいい。

 

混乱よ

まだ行くな、と。

 

つづく

 

混乱の中心にあるもの

 

心の中が

大混乱しているな、

思ったら、きっと

 

心の中心の

中心には

今、

 

絶対的な「問い」

があるだろう。

 

絶対的、という

表現をあえて

使うのは、

 

その問いの答えは

恐らく、

あなたの人生にとって

「絶対的」な影響を

及ぼすからだ。

 

つまりは

この後の人生は、

その「答え」の

通りになっていく。

 

その「答え」を

見つけ出すという

ことは、

これからの人生の

流れの源を

見出すにも等しい。

 

それくらいの

影響力のあるものを

あなたはすでに

創り出した。

 

いや、

 

きっとそれは

もともとあなたの

奥の奥に在り続けたもの

だが、

 

それが

幾層もの殻を

破りながらも、

ようやく顔を

出したのだ。

 

きっとその「答え」と

向き合うことには

極度の恐怖が

伴うだろう。

 

「答え」の前に

ある

「問い」と向き合うこと

だけでも

かなりの勇気が

必要だろう。

 

しかし

これこそが、

 

私達が「自分」として

生きるための

 

なくてはならない

関門であり、

ステップだ。

 

ここを超えるために

ここまで

がんばって来たのだ、

とも言える。

 

問いと向き合えば、

答えは必然的に

わかり、

 

それはあなたを

根底から

変えるだろう。

 

人生を

変えるだろう。

 

さぁ、どうする?

 

問いと

向き合うか?

 

つづく

 

美しい混乱

 

混乱には、

 

美しい混乱と

そうでない混乱が

ある。

 

そうでない混乱

とは、

 

自分自身が

「混乱である」

と認めていない

混乱である。

 

もしくは、

その混乱から

目を逸らし続けている

混乱、

 

もしくは、

その混乱から

逃げよう逃げようと

し続けている

混乱である。

 

つまり、

混乱そのものは

変わらないのだが、

 

その混乱を

美しくするも

そうでなくするも

 

その本人

である。

 

混乱を混乱と

受け止め、

 

これは自分の

人生である、

 

と引き受ければ、

その時点で、

 

「自分」は

その「混乱」の

「中心」

に立てる。

 

中心に立てば、

すべてを混乱を

静かに

見つめることが

できる。

 

すると、

混乱にも

一つ一つの「粒」が

あり、

 

それはまるで

原子や分子のようで

 

それらの一つ一つが

「混乱」という

一つの現象を

形創っており、

 

それはそれで

一つの美しさを

放つものである

ということが

感覚的に

わかる。

 

そうしたら、

自分はその混乱に

どう関われば良いか?

 

が観えてくる。

 

全体像は

観えなくても、

 

まずはどの原子(分子)

から

どう関われば良いか?

瞬時にわかる。

 

そしてそこから

一つずつ

「混乱」に「影響」を

与えていく。

 

その連続によって

ある時に

出口が観える。

 

ひょっとすると

そこまでは

何ヶ月も

何年もかかるかも

しれない。

 

でも、

出口が観えるはずだ、

どこかで

わかっている。

 

それはずっと

「中心」に立てている

からであり、

 

無意識的にも

ずっとその「美しさ」を

感じ続けていられる

からである。

 

出口が見つかれば

一気に向かう。

 

するとそこに

次の次元への

扉がある。

 

これまでとは

次元の異なる

創造がある。

 

その人にしか

生み出せないものが

 

この世の中に

一つ

 

生まれるのである。

 

つづく

 

もつれた気持ちは観察しよう

 

心が混乱している

時は大概、

 

心の中で

いろんな「糸」が

絡み合っている場合が

多い。

 

そんな時は、

「糸」を一本一本丁寧に

見つめると良い。

 

つまりは、

一つ一つの気持ちを

見つめるといい。

 

混乱の原因は、

一本の「糸」を見つめる

その途中で、

次の別の「糸」に

意識が移ってしまう

からだ。

 

意識は

次から次へと

様々な「糸」を渡り歩き、

そのうちに

わけがわからなくなる。

 

そうならないためには

ちょっと我慢しながら

一本を

しっかりと理解し切るまで

観察する。

 

あぁなるほど。

この「糸」は

こんな想いがあるの

だな。

こんな願いが

あるのだな。

こんなことを大切に

しているのだな。

こんなことを恐れて

いるのだな。

こんなことが不安

なんだな。

 

だからこの「糸」は

ここに存在しているのだな。

 

・・・と、

その存在理由までもが

しっかりわかれば、

「糸」は落ち着く。

 

落ち着いたら

次の「糸」の観察に

入る。

 

ちょっと面倒だが

結局は

これをしっかりやることが

最短の道だ。

 

そして

すべての「糸」を

見つめ終えたら、

 

たくさんの「糸」達が

もつれるのではなく、

並んで整然と

自分の前にあるのが

わかるだろう。

 

「糸」と「糸」の

区別がついている

状態だ。

 

それでOKだ。

 

あとは「糸」達を

どうこうしようなどとは

思う必要はない。

 

「糸」達は

そのままに。

 

その上で純粋に

自分自身に

問えばいい。

 

「本当は私は

何をしたいのだ?」

 

と。

 

すると、

「糸」達に捕われない

純粋な

真本音の答えが

浮上する。

 

浮上したら

その真本音の気持ちを

「糸」達に

伝えれば良い。

 

すると「糸」達は

勝手にあなたに

協力してくれる。

 

それが

「糸」達(=反応本音)と

真本音の

関係だ。

 

つづく

 

その混乱は調和だ

 

進まないことにより

起こる混乱と、

 

進むからこそ

起こる混乱は、

 

表面上は同じような

「混乱」でも、

本質はまったく

異なるものだ。

 

前者は

正真正銘の混乱。

不調和による

混乱。

 

しかし後者は

一見、混乱に見えるが

実はそうではなく、

それも「調和」の

一種だ。

 

要するに

「混乱のような調和」

だ。

 

「不調和の調和」

という言い方も

できる。

 

・・・・・・

 

「不調和の調和」

は、

人生が進むという意味では、

非常に良い兆しだ。

 

どれだけ

激しい混乱でも

堂々と進めばいい。

 

混乱が起きているから

自分の進み方が

間違っているのでは

ないか?

という疑問を持つ

必要はない。

 

むしろ、

混乱を楽しもう。

 

まぁ、「楽しもう」と

言っても、

そんな余裕はないとは

思うが。

 

でも、

よ〜く混乱を

あるがままに観察して、

そして

味わってみよう。

 

混乱している

自分の心も、

無理に改善しようと

せずに、

そのまま味わって

みよう。

 

「あーオレ、

すごく混乱してるなぁ」

とね。

 

「不調和の調和」

の場合は、

どれだけ混乱しても

足元はしっかりと

しているので、

これができるはずだ。

 

・・・・・・

 

慣れてこれば、

「不調和の調和」は

人生の

スパイスとなる。

 

そしてさらに

未知の道を進もうと

する

意欲に変換される。

 

「不調和の調和」を

楽しめる人は、

実際にお会いして

向き合うと、

 

常に

静かだ。

 

とても穏やかな目を

しており、

根底の安定感が

独特の空気を

醸し出している。

 

そういった人と

一緒にいると、

 

表面上は

「いや〜、たけうちさん、

まいりましたよ」

その人は言うのだが、

 

空気感としては、

「いや〜、たけうちさん

人生は楽しいねー」

言っているようにしか

思えない。

 

そして、

その人の内側に

込められた

現実を切り拓くパワーが

ダイレクトに

こちらに伝わってくる。

 

非常に

心地が良い。

 

そういう人のコーチングは、

コーチである私の方が

癒されたり

エネルギーをいただいたり

する。

 

ということは、

その人は

周りのあらゆる人達に

常に

パワーを与え続けている

ということだ。

 

・・・・・・

 

だから。

 

不調和を恐れずに

進んでほしい。

 

表面上で

上手くいかないことは

あって当たり前。

 

進むからこそ

様々な壁が

前に立ちはだかるが、

 

それらは

すべては結果的には

さらなる調和への

「栄養」

となる。

 

たくさんの「栄養」を

人生に

仕事に

取り込んで行こう。

 

つづく

 

ここを切り拓けるのは

 

人間関係は

面倒かい?

 

ゴタゴタばかり

起こるかい?

 

進もうと思っても

いつも何らかの

邪魔が入るかい?

 

なら、

残念だけど、

 

もっと

一人一人と

より丁寧に

向き合った方がいい。

 

進もうと

思えば思うほど、

 

混乱が起きたり、

齟齬が起きたり、

するのは

当然じゃないか。

 

みんなそれぞれ

違う個性を

持ってるんだから。

 

何も問題が

起きないということは、

 

何もしていない

ということ。

 

真剣に前に進む

からこそ

問題は起こるんだ。

 

これは

しょうがない。

 

みんなの真本音度合いが

高ければ

もっと違う展開に

なるだろうが、

 

現時点では

そういうわけではない。

 

だから、

私達にできるのは、

 

一つ一つ

丁寧に向き合い、

 

一人一人

丁寧に向き合い、

 

そして、

瞬間瞬間を

丁寧に

真本音で決めて行く。

 

これの

連続だ。

 

ここを怠ると、

さらに問題は

深まり、

混乱は

拡大してしまうだろう。

 

この面倒臭さの

中で、

しっかりと

未知の道を

切り拓けるのは、

 

あなたの

真本音しか

ないんだよ。

 

だから

止まろうとするのでは

なく、

 

だからこそ

さらに進もうと

しよう。

 

真本音でね。

 

つづく

 

前向きじゃなくていいからさ

 

人生に

混乱はつきものだ。

 

混乱には

二つある。

 

不調和による

混乱と、

 

調和による

混乱だ。

 

調和による混乱は

必要不可欠な

もの。

 

それがあるからこそ、

その後に

より次元の高い

調和が実現される。

 

ただ、

 

不調和による混乱

だろうと、

調和による混乱

だろうと、

 

対し方は

同じだ。

 

混乱をしっかりと

見つめること。

 

混乱としっかり

向き合うこと。

 

そして、

混乱を楽しもうと

することだ。

 

・・・・・・

 

「楽しもう」

という言い方を

すると、

 

「前向きな生き方」

が必要なのだな、

 

という印象を

持つかもしれない。

 

しかし実は

そうではない。

 

ちょっと語弊があると

いけないのだが、

私は、

・前向きか

・後ろ向きか

という視点は

ほとんど意味がない

と思っている。

 

どっちでもいい

と思っている。

 

人間なのだから、

前向きになる時も

あれば、

後ろ向きな時も

ある。

 

いや、

正確に言えば、

どんな事象を前にしても、

私達の心の中には、

・前向きな心

・後ろ向きな心

両方発生する。

 

「両方発生」するのだがら、

どっちでもいいじゃないか、

と思うのだ。

乱暴に言えば。

 

だから

さらに乱暴に言えば、

 

「私はどんな時も

物事を前向きに

捉えます!」

 

とか

 

「前向きであることが

一番です!」

 

という言葉を

聴くと、

不自然さを感じて

しまう。

 

そんなに無理をしなくても

いいじゃないか、

思うことが多い。

 

前向きな心の

裏には、

間違いなく

後ろ向きな心が

存在している。

 

前か

後ろか

の違いに過ぎない。

 

だいぶ乱暴な言い方

だけどね。

 

そしてここが大事だが、

本来の生き方とは、

 

前向きと

後ろ向きを

超えたところにこそ

存在する。

 

それが

真本音の生き方

であり、

 

私達の真本音とは

前向きも

後ろ向きも

超えた次元に

存在している。

 

・・・・・・

 

「楽しもう」

という言葉の

本来の意味は、

 

「味わおう」

 

に似ている。

 

つまりは

「あるがままに

感じよう」

ということだ。

 

これができると

私達の心には

エネルギーが

発生する。

 

「あるがままに感じる」

とは、

「現実を大事にする」

のと

イコールだ。

 

これができることで

私達の心のエネルギーは

高まるように

できている。

 

それが

人間の心だ。

 

・・・・・・

 

というわけで、

混乱から

逃げてはいけない。

 

逃げたい気持ちは

あってもいいし、

 

後ろ向きな気持ちは

どれだけ膨らんでも

一向に構わない。

 

でも

逃げてはならない。

 

しっかりと

あるがままに

味わおう。

 

すると、

心は楽になる。

 

そして、

不調和による

混乱だろうと、

 

調和による

混乱だろうと、

 

その向こうに

必ず

新たな調和が

始まるんだよ。

 

つづく

 

混乱、OK!

 

皆、着実に

進んでいるな、

実感するこの頃。

 

一見、混乱に

見えることでも、

よ〜く目を凝らすと、

 

しっかりと

すべきことを

している。

 

混乱とは、

スッキリの

前段階。

 

お部屋の大掃除を

すると、

一時的に

大混乱となるのと

同じこと。

 

だから

恐れないで

ほしい。

 

しっかりと

混乱すべき時に

すること。

 

中途半端で

片付けないこと。

 

やるなら

とことん

大掃除をして、

 

良い新年を

迎えよう。

ちょっと気が早い

かもしれないが。

 

・・・・・・

 

もし

迷っていることが

あるとすれば、

 

混乱中は

答えを出さないこと。

 

混乱中は

混乱に

徹すること。

 

この状態で

無理に出す答えは

あとですべて

ほぼ必ず

後悔する。

 

混乱が終わり

スッキリすれば、

その時簡単に

答えはわかる。

 

・・・・・・

 

混乱している時

ほど、

自分の足元に

意識を向けよう。

 

ちゃんと

地面に立っている

その感覚を

思い出そう。

 

頭は混乱し、

出来事も

混乱するが、

 

足元だけは

結構ガッシリ

しっかり

踏みしめている

はずだ。

 

それを

認識すればいい。

 

「大地」は

いつでも

ここにある。

 

あなたは

ここに

立っている。

 

それだけで

良いではないか。

 

つづく

 

上手くやろうとすんなよ

 

混乱。

 

そして、

 

混沌。

 

これらは、普通、

誰もが

嫌うものだ。

 

混乱するよりは

スムーズに進みたい。

 

と、普通は

思うだろう。

 

もちろん私も

そうだ。

 

ただ、

私はあえて

混乱や混沌を

その人や

その組織に

もたらすことを

大事にしている。

 

ちょっと極端に

言えば、

 

混乱・混沌をもたらす

人が「コーチ」である。

 

くらいに

思っている。

 

もちろんそれは

良い混乱

であり

良い混沌

だ。

 

「良い」とは

つまり、

「進化へとつながる」

ということ。

 

結果として

これまでよりも

次元を高めた

「調和へとつながる」

ための

混乱であり

混沌だ。

 

・・・・・・

 

混乱・混沌を

恐れる人は

結果として、

その心の内では

混乱・混沌が

大きくなる。

 

という傾向を

私は企業サポートの

現場で、

いやというほど

見てきた。

 

例えば、

人間関係を上手く

収めよう、

いつも努力している

人ほど、

 

表面上の関係を

繕うだけで、

心の内面では

そこにいる皆の中に、

日々、

混乱・混沌、

そして怒りや苛立ちが

増幅する、

 

という現実を

創り出してしまう。

 

しかも本人は

それに気づかない。

 

しかし、

望んでいない

出来事が

日々、

次々に起こってしまう。

 

自分は毎日

こんなにも

頑張っているのに、

なんで

悪いことばかりが

起こるのだろうか。

 

と、

その人は

悩んでいる。

 

実は自分が

すべての原因で

あることに

本当に

気づいていない。

 

混乱・混沌への

恐れは、

ますますの

混乱・混沌の増長と

共に、

麻痺すらも

起こす。

 

だから私は

わかりやすく

混乱・混沌が

起こりやすい状況を

創っていく。

 

いや、

そう書くと大変

おこがましいな。

 

私が創る

のではない。

 

私はただ、

「自業自得」が

働きやすい状態に

サポートする

だけだ。

 

真本音度合いが

高まれば、

自業自得が

起こりやすくなる。

 

自業自得と言うと、

悪い印象が

あるかもしれないが、

私はこれこそが

健康な状態

だと思っている。

 

調和に向かう

ことをすれば、

ちゃんと物事が

調和し、

 

不調和に向かう

ことをすれば、

ちゃんと物事は

不調和していく。

 

この状態が

できて初めて、

人は

健康的に進化を

始めるからだ。

 

子どもの育成

と同じ。

 

悪いことを

すれば

叱られるし、

 

良いことを

すれば

褒められる。

 

それを

親が行なうのでは

なく、

「現実」が

わかりやすく

行なってくれる。

 

これが

自業自得が機能

している状態だ。

 

自業自得が

機能するように

なれば、

 

必然的に

これまで

誤魔化し誤魔化しで

来たことが

そうはいかなく

なる。

 

次々に

不調和が起こり、

混乱・混沌が

増えてくる。

 

しかしそれは

本当に

一時的なものだ。

 

混乱・混沌の

おかげで、

自分が何を

修正し、

何をさらに進めれば

良いか?

よ〜くわかる。

 

それがわかれば、

日々、

面白いように

現実は

調和していく。

 

こういったことを

意図せずに

意図的に

もたらす

(意味、わかっていただけるかな?)

のが

「コーチ」だと

私は思っている。

 

つづく

 

この混乱は、本当に混乱か?

 

「静かなほど、

エネルギーは高い」

 

これは、

私が今のお仕事を

20年以上続ける中で

実感するようになった

一つの原則だ。

 

ここで言う

「静か」

とは、表面上のことでは

ない。

 

例えば先日、

新宿駅を歩いていたら、

行き交う人混みを

観ながら、

とても静かだな、

と感じた。

 

この感覚

わかるだろうか?

 

これをもし

「よくわかります」

という人がいたら、

その人はほぼ間違いなく

「コーチ」に

向いている。

 

それはともかく、

 

あえて言うならば、

「行動が静か」

でも

「心が静か」

でもなく、

最も的確な表現で

言えば、

 

「魂が静か」

 

ということに

なるだろう。

 

心が静か

なのと、

魂が静か

なのは

根本的・本質的に

異なることだ。

 

この区別は

とても大事で、

私が人や組織を

サポートさせていただく

時に、

まずもって

最も大事にしているのが、

クライアントの皆さんの

魂は今、

ちゃんと静かになる方向に

進んでいるだろうか?

ということだ。

 

そしてある時に

突然、

その人の魂

(もしくは、その組織の魂)

が、

とても静かになる

瞬間がある。

 

それは

何かの「予兆」を

表している。

 

現実のレベルで

何かが

起こるのだ。

 

・・・・・・

 

魂が静かに

なった上での

現実の変化は

実際に何が起ころうとも、

 

それは

とても素晴らしいことで

あり、かつ

とてもその人(その組織)に

とって

必要なことである、

 

という事実が、

ある時から

わかるようになった。

 

たとえそれが

「混乱」であったと

しても。

 

ちょっと極端な例で

恐縮だが、

例えば、社員さん達が

会社を大量に

辞めてしまう騒動が

起きたとする。

 

その時に私は、

静けさのもとに

起きたのか?

それとも

騒がしさのもとに

起きたのか?

を観極める。

 

静けさのもとに

起きたことであれば、

それはその会社に

とっては、

脱皮や進化のために

どうしても必要な

ことだった、

という判別をする。

 

もちろん、

辞めていった社員さん達

の人生にとっても

である。

 

逆に、

騒がしさのもとに

辞めていったのであれば、

それは

その組織に何らかの

解決すべき問題点が

ある、

という判断をする。

 

ここをもし間違えると

とんでもないことに

なる。

 

言うなれば、

「加速のために」

起きたことなのか?

「問題があって」

起きたことなのか?

の判別である。

 

この観極めは

「コーチ」には

必須の感性だ。

 

例えばもし、

社員さん達が

「加速のために」

辞めていったとしても、

社長さんは多くの場合、

とてもガックリきているし、

いったい何が

問題だったのだろう?

と深く悩むことになる。

 

そこを、

「社長、ここは

悩むべきところでは

ありません。

このままさらに

グングン進んでください」

と、

言えるかどうか。

 

これを確信を持って

言える人を私は

「コーチ」と

呼んでいる。

 

ちょっと極端な

例であるが。

 

・・・・・・

 

もっと

端的に言えば、

 

・悩むべきところか?

・加速すべきところか?

 

の判別をつける

ということだ。

 

これは残念ながら、

当人には判別が

とてつもなく難しい

のだ。

 

第3者的視点を

持つ者にしか

できない、と

言っても

言い過ぎではない。

 

世の中は

これから

ますます「混乱」と「混沌」が

多くなるだろう。

 

そんな時こそ、

その表面的に現れる

「混乱」と「混沌」の

本質を観極めることの

できるコーチが

私は必須であると

思っている。

 

つづく

 

混乱は自然にやってくる

最初に木村さんと1対1で面談した日から

約2週間後に、私達は再びお会いしました。

(→前回記事)

 

「最近の木村さんのご様子を教えていただけますか?」

と私が問うと、

「なんか、調子悪いんですよ」

とのお返事。

 

「理由はわからないのですが、

妙に怒りっぽいですし、モヤモヤするんですよ。

夜も寝つきが悪いですし。」

 

これは予想されたお返事でした。

実は、よくあることなのです。

 

私は前回のコーチングにおいて、

彼にかなりダイレクトなご質問を投げました。

それは、実は

彼の真本音に刺激を入れるための質問でした。

 

真本音に刺激が入ると、

自分の真本音を抑えながら生きている人は

心の調子を崩します。

しかしそれは決して悪いことではなく、

真本音度合いの高まりを告げる好転反応

のようなものなのです。

 

彼にはすでに好転反応が始まっていたのです。

 

しかしこの時点では、そういったことは

彼には伝えません。

 

「木村さんの中に、何か疑問は

湧いてきていませんか?」

 

「疑問?」

 

「はい。答えを知りたいこと、とか

ありませんか?」

 

「う〜ん、・・・。」

 

しばらく彼は黙っていましたが、ふと顔を上げ、

言われました。

 

「まったく関係ないことかもしれませんが、

最近、新しい趣味を始めまして。」

 

「へぇ、どんな趣味ですか?」

 

「料理です。」

 

「料理?」

 

「はい、これまでまったく興味なかったんですが、

ふと、自分で工夫した料理を作りたくなって、

この前の週末に、ネットで調べながらも我流で

カレーを作ったんですよ。

予想以上に、妻が喜んでくれまして、嬉しかったですね。」

 

私の問いに対して、まったく関係のない答え。

 

しかし、これもよくあることなのです。

クライアントさんが活性化している証拠です。

 

この木村さんの答えは、ここまでの流れと関係ないように

思えますが、これは彼の真本音度合いの高まりを告げる

一つの現象です。

 

彼は、「本来の自己表現」をしたがっているのです。

それを、「料理」という手段で始めました。

 

「木村さんは、どんな料理を作れたら最高ですか?」

 

「う〜ん、そうですねぇ。

やはり妻が喜んでくれると最高に嬉しいかな。

先日は久しぶりに恋人気分に戻ったような食事が

できましたし。」

 

「奥さんとは、木村さんにとってどんな存在ですか?」

 

「えっ? いやそんな風に問われると照れますが、

私にとってはなくてはならない存在です。

結構、妻とは考え方とか異なる部分が多いですが、

肝心なところでは一緒に喜べると言いますか。

そうそう、一緒に喜び合いたい人ですね。

照れますね。笑」

 

私はこの答えを聴いたとき、

あぁこの人は本当に人を大事にしたい人なんだ、

と思いました。

 

「木村さん、ひょっとして職場仲間の人達に対しても、

同じような想いを持っていらっしゃいます?」

 

「えっ、・・・あぁ、まぁ、そうですね。

妻に対してほどではないですが、一緒に喜び合えたら

嬉しいですね。」

 

「そのために、いつもどんなことを大切に

されてるんですか?」

 

「やはり、彼らの求めることに応えることかな。

自分がこうしたい、ということよりも、

彼らの期待に応えたい、というのが強いですね。」

 

どうやら木村さんが職場では「自分を演じる」理由は

ここにあるようです。

 

「例えば今、皆さんの期待に100応えられていると

しますね。

本当は木村さんはどれだけ応えたいですか?

100である今で満足ですか?」

 

「いやいや、全然満足ではないですよ。

500くらいは応えられる自分でありたいですね。」

 

「そのためには、どうすればよいと思われますか?」

 

「いやぁ、それがわからないのですよ。」

 

「そこは、私がアドバイスさせていただいても

よろしいですか?」

 

「はい、もちろんお願いします。」

 

「木村さんは、なぜ最初の料理をカレーに

されたんですか?」

 

「えっ? 私が好きだからですよ。」

 

「で、奥様にも喜んでいただいたんですよね?」

 

「はい。」

 

「それですよ。」

 

「どういうことですか?」

 

「周りの人達と一緒に喜び合えるのに大切なのは、

自分の喜び=周りの喜び

を見つけた時です。

周りのためだけに何とかしよう、としていても

それは難しいです。

自己犠牲していても、周りの人達は本当には

喜びませんよね。」

 

「それはそうですね。

誰かが犠牲になっていては、逆に誰も喜べませんよね。」

 

「でも、木村さんは、

自己犠牲しながら、仕事をしているのではありませんか?」

 

ここで木村さんはフリーズしました。

 

ここで皆さんに、きちんとお伝えしなければなりません。

ここまでの流れで大切なのは、

私が意図的に流れを読んでこのようなやりとりをしている

わけではない、ということなのです。

 

私には何の意図もありませんでした。

 

私が行なっていたのは、

ただただ、木村さんの真本音に意識を向け続け、

自然に発想される問いやメッセージを

素直に口に出す、ということだけです。

 

つまりは、相手に完全に委ねている状態です。

 

すると、相手の真本音が活性化します。

そして相手の真本音がすべてを導いてくれます。

 

木村さんの真本音は、

自分を開放したがっていました。

その真本音の意志に私はただ乗っかっただけです。

 

私には何の意図もなく、

しかし目の前の木村さんはフリーズし、

言葉を失っていました。

 

一度、フリーズすればもう大丈夫です。

 

ここから、木村さんの真本音が

ニョキニョキ出始めます。

 

つづく

 

『混乱した方がいい』

あえて、
混乱の中に飛び込めるか?

これが、
チームパフォーマンスコーチを
できる人とできない人の
重要な境目になります。

個人の人生にも
組織の道のりにも
混乱はつきものです。

ただし混乱とは、
飛び込むべき混乱と、
飛び込んではならない混乱が
あります。

必要な混乱と
不必要な混乱が
あるわけです。

まずはその見極めが
できること。

必要な混乱から逃げれば、
その後にもっと大きな混乱が
待っています。

不必要な混乱に取り組めば、
その混乱はさらに次の混乱を
呼び起こします。

必要な混乱とは、
「進化」と「調和」のための
重要なステップです。

それは避けては
なりません。

現実面でも
心の面でも
大いに混乱しましょう。

混乱とは、
わけがわからなくなってこそ
意味があるものです。

だから、
上手く混乱の乗り切ろう
などとは思わないことです。

その時点で、
逃げいてることと同じ
になります。

しっかり混乱そのものを
受け入れて、
しっかりと我を忘れて、
そこで初めて
見えて来るもの
気づけること
があります。

それを手に入れた瞬間に、
混乱は急速に
収まります。

これも自然の摂理です。

こういった摂理をよくわかり、
ちゃんと混乱すべきときに
混乱できるように、
個人にも組織にも
サポートをし続ける。

それが、
チームパフォーマンスの
重要な役割の一つです。

つづく