空っぽ

それは空虚ではない

 

大きな悩みや

迷いの後に、

心に

 

空っぽ状態

 

が訪れたら、

それは

 

絶望でも空虚でも

ない。

 

それは

 

希望の空っぽ

だ。

 

あらゆる

不必要なものを

心の中から

手放した状態だ。

 

この状態に

ならねば、

開かない扉がある。

 

今、

その扉が

開こうとしている。

 

だからあとは

 

待てばいい。

 

もう考えることは

やめにして、

 

悩むことも迷うことも

終わりにして、

 

待てばいい。

 

その状態を

恐れる必要はない。

 

ただ、

待てばいい。

 

つづく

 

空っぽ

 

最近、このブログでは

「空っぽ」

という言葉を

よく使っている。

 

意図して使っている

わけではないが、

 

どうやら現時点での

我々のキーワード

のようだ。

 

私達は

あえて

「空っぽ」に

ならねばならない。

 

「空っぽ」に

なることで初めて

見つかるものがある。

 

例えば、

 

心の中を

「空っぽ」にすると、

 

そこで初めて

自分の中心に

 

「源泉」

 

のようなものが

あるんだ、

ということがわかる。

 

そこでは

まるで泉のように

透明な水のようなものが

湧き続けている。

 

そして

あ〜なるほど、

これが「私自身」か。

 

これが

私の「原点」か。

 

実感できる。

 

「空っぽ」にした

つもりが

実は私達は

「空っぽ」にはなり得ない

ということがわかる。

 

常に私達の

中心には

「創造」

があるのだ。

 

また、

 

例えば、

「空っぽ」になることで

初めて、

 

自分以外の「世界」の

 

「豊饒さ」

 

がわかる。

 

「世界」がいかに

エネルギーに

満ちているか。

 

愛に満ちているか。

 

そしてそれらが

自分自身に

どれだけの恩恵を

もたらしてくれて

いるか。

 

という、

理屈ではない実感を

ただただ

得られる。

 

私達はきっと

余分なものを

持ち過ぎなのだ。

 

「空っぽ」になる

ことで、

あるがままの真実を

知ることができる。

 

そういうことで

言えば、

 

「空っぽ」とは

空っぽではない。

 

「空っぽ」とは

満ちること、

満たされること、

イコールなのかも

しれない。

 

さて。

 

自分の「源泉」と、

世界の「豊饒」を、

 

共に感じた

我々は、

 

次に何をしようか?

 

何のために

どの一歩を

踏み出そうか?

 

これこそが

今の我々にとって

最も大事な

問いなのかも知れないね。

 

つづく

 

空っぽのままで

 

自分には

何もないのでは

ないか?

 

・・・と

恐れたことは

ある?

 

自分の空っぽさ

感じたことは?

 

もし、

そんな感覚が

襲ってきたら、

 

それに

抗ってはならない。

 

全身全霊を

その感覚に

預けてしまおう。

 

空っぽさ。

 

これはとても

大事だ。

 

これまで

培ったものを

いったん

自分の中から

除去している。

 

もしくは

これまで培ったもの

に対する

価値を見出さなく

なっている。

 

虚しさにも

似た

その感覚は、

 

まったく新たな

自分が

 

生まれる

予兆だ。

 

だから、

抗っては

ダメだ。

 

むしろずっと

虚しくいれば

いい。

 

人によっては

いったん

モチベーションゼロ状態

になるかもしれない。

 

それでいい。

 

どうせなら

徹底的に

空っぽになって

しまえ。

 

目的意識とか

目標とか

 

どうでもよくなって

しまったら、

 

どうでもいい!

 

決めてしまえ。

 

全部

手放せばいい。

 

すべての意図を

排除すれば

いい。

 

無色透明の

何もない

空虚な自分。

 

そんな自分として

一日を

過ごしてみると

いい。

 

この症状は

「進んでいる」からこそ

発生する

 

とてもとても

大切な

 

ステップだ。

 

自分という人間を

一気に広げたり

 

開花させる

 

ための

ステップだ。

 

だから

空っぽになれれば

なれるだけ

いい。

 

とても不安定で

不安な

感覚だろうが、

 

空っぽの

ままで。

 

意図のない

ままで。

 

つづく

 

空っぽ

 

一度、

「空っぽ」

になってみると

いい。

 

本当に

なれるかどうかは

別として、

 

真剣に

「空っぽになろう」

としてみると

いい。

 

演技でも

いいから、

 

「空っぽ」で

人と

向き合ってごらんよ。

 

その人の

「すべて」が

入ってくるから。

 

その人は

これまでとは

別人だから。

 

というのはさ、

 

本当は

神秘

なんだよ。

 

この人は

この人。

 

あの人は

あの人。

 

そう決めつけて

いるのは

自分だけでさ。

 

人はさ、

 

奥深いよ。

 

誰もが。

 

そんなに

浅いもんじゃ

ないよ。

 

自分が浅く

見てるだけ。

 

だいたいさ、

 

自分自身が

人だと

言うだけで、

 

人のことを

わかったつもりに

なっちゃ

いかんわな。

 

自分のこと

わかる?

 

本当の自分の

姿、

わかる?

 

わかんないよ、

そんなの。

 

自分自身も

浅く見ない方が

いいよ。

 

やはり

神秘だよ。

 

人を愛する、

ってさ、

 

本当は

簡単なことじゃ

ないかな。

 

難しいと

決めつけている

だけで。

 

空っぽに

なると

わかるよ。

 

それが。

 

何故だか

すごくよく

わかるんだよ。

 

空っぽ

っていうのは

 

豊かだな。

 

空っぽ

っていうのは

 

自由だな。

 

つづく

 

なにもない

 

空っぽ・・・。

 

心の中がもし

空っぽに

なったのなら、

 

それは

大いなる

チャンスだ。

 

これまで

大事にしていたもの、

 

例えば、

信念とか

夢とか

宝物とか

 

これだけは

自分には

なくてはならない

 

・・・と思っていたもの達。

 

それらが

 

「どうでもよくなった」

 

とか

 

「あってもなくても

どちらでもいいかな」

 

とか

 

「ひょっとすると

ない方がよいかも」

 

とか、

 

もしそう思ったなら、

いっそのこと

すべて手放し、

自分の中を

 

空っぽ

 

してしまおう。

 

その潔さが

自分自身を

次のステージに

連れていってくれる。

 

空っぽ

とは

何もなくなった

ということではない。

 

むしろ

真逆だ。

 

しかしここを

頭で考え理解する

必要はない。

 

空っぽを

楽しめばいい。

 

それは、

人生の進化を

楽しむのと

同義なんだ。

 

つづく

 

空っぽを感じたら

 

空っぽだ。

 

自分の中には

何もない。

 

虚無だ。

 

何ということだ。

 

いったい

自分とは

何だ?

 

これまで頑張って

きたのに、

結局は

何もないではないか。

 

・・・というように

もし思えたら、

 

あなたは今、

生まれ変わろうと

している。

 

よく私は

「脱皮」という言葉を

使うが、

 

それさえをも

超えて、

もっと根本的に

生まれ変わろうと

している。

 

それは

とてもめでたい

ことだ。

 

いっそのこと

完全に自分を

虚無にしてしまうと

いい。

 

何もない。

 

という状態に。

徹底的に。

あきらめて。

 

すると

近々、

ある瞬間に、

 

あなたの中に

小さな小さな自分が

生まれるはずだ。

 

それはほんの

小さな光のような

ものかもしれない。

 

しかし、

とても強烈な

光のはずだ。

 

自分の体の中

全体に意識を向け、

 

その誕生を

自覚するといい。

 

どっかに現れるよ。

そのうちに。

 

現れたら、

それを愛でるといい。

 

まるで親になった

気持ちで。

 

そうすれば、

日々、その新たな自分は

成長する。

 

きっと

急成長する。

 

そして

あなたの体と同じ大きさ、

つまりは等身大に

なったら完了だ。

 

まぁ、

楽しんでね。

 

祝ってね。

 

つづく

 

答えと巡り会う

 

心を

空っぽにする。

 

一見すると

それは

「無」であるが、

 

実は

そうではない。

 

そこには

「すべて」

がある。

 

心を

空っぽにする。

 

一見すると

それは

ある種の不安と

恐怖すら覚えるが、

 

実は

そうではない。

 

それは

自分が「自分である」

と思い込んでいる

あらゆるものを

手放した状態であり、

 

本来の自分そのものを

そのままに

感じ取り、

 

そのままに

そこに在る、

という状態だ。

 

この状態に入れば、

ほんの数秒で

いい、

 

自分がその時

ほしいと思っている

あらゆる「答え」

手に入る。

 

それには

一切の迷いが

ない。

 

一般的にはそれを

「確信」

と言うが、

 

「確信」というほど

力の入ったものでも

ない。

 

それはあまりに

自然なもの。

 

当たり前の

もの。

 

ただ、思い出した

だけのもの。

 

しかしそれは

紛れもなく

「真実」であり

「真理」である。

 

だから

その「答え」に

巡り会えば、

 

その瞬間から

すべてが

動き出す。

 

だから、

 

私はいつも

思うのだ。

 

心を空っぽに

する。

 

・・・ということを、

誰もが気軽に、

気楽に、

すぐに、

どこででも、

日常において

どんな時でも、

 

今この瞬間に、

 

できるように

なれればいいな、

と。

 

そのための

手段が、

 

真本音度合いを

高める

 

ということなんだ。

 

つづく