自分自身

私達は私達を知らない

 

私達は全員、

生まれてこのかた

自分自身の

ナマの姿を

見たことはない。

 

見るとしても、

鏡に映る

自分とか、

 

写真に写る

自分とか、

 

せいぜい

ビデオなどに撮って

そこに映っている

自分とか。

 

それらはすべて

ナマの自分では

ない。

 

自分以外の

誰かが

自分と接したときに

対面している

ナマの自分では

ない。

 

しかも、

自分の声すらも

私達は

知らない。

 

自分の耳で聴く

自分の声と、

他の人が聴く

自分の声は

全然違う。

 

何かに録音したり、

マイクを通じて

自分の声を

聴くこともあるが、

やはりそれも

機械を通した

もの。

 

つまり私達は、

自分自身の

ナマの姿も

ナマの声も

そして

ナマの空気感すら

知らない。

 

自分のことなんて

何も

知っちゃいない

のだ。

 

・・・・・・

 

自分のことは

自分が一番よく

わかっている。

 

そう思い込んでいる

ことを、

私は

「傲慢」

と呼んでいる。

 

今のお仕事を通じて、

つくづく

思うのだ。

 

自分のことを

最もよくわかって

いないのは、

その人自身では

ないか、と。

(私自身も含め。)

 

誰よりも知らない

自分自身。

 

それを

知ろうとすることが

人生

ではないか。

 

知らないが故に、

自分と

向き合う。

 

知らないが故に、

他人と向き合い、

それを通じて

自分の真実を

知る。

 

これが

人生を生きる

ということでは

ないか。

 

・・・・・・

 

自分の姿や

声と同じく、

 

というよりも、

それ以上に

 

私達は

私達の心を

知らない。

 

まったく

知っていない。

 

自分の心を

誰よりも

自分が知っている

と思うことも

傲慢の極み

だろう。

 

ましてや、

他者と自分を

比較して、

勝った負けたと

生きるのは、

 

いったい

何を遊んでいるのだ、

私は言いたくなる。

 

自分のことも

他人のことも

両方まったく

理解していない状態で

比較して、

何の意味が

あるのだろうか。

 

そこで

「勝った!」

と自己満足して、

いったい誰に

どのような得が

あるのだろうか。

 

そんなことに

時間を費やすよりも

私達にはもっと

人生のこの貴重な

時間を使って、

真摯にすべきこと、

本当にしたいことが

あるのではないか。

 

・・・・・・

 

人生を

一つの旅に

見立てたとして、

 

私達は今、

どこに

向かっているのだろうか?

 

その目的地は

本当に

私達が

望んでいるものだろうか?

 

この一歩一歩は、

納得のいく

満足のいく

一歩なのだろうか?

 

本当は

今、私達は

何を感じ、

どんな気持ちで

この旅を

続けているのだろうか?

 

そんなことを

問いかけ合いながら

進みたいものだ。

 

私達は本当は

「一つ」

なのだから。

 

つづく

 

心の傷は治さなくていい

多くの人達と向き合い続けて

わかったことですが、

すべての人に「心の傷」はあります。

私自身も含めて。

 

そしてある時ある瞬間、何かのきっかけで

心の傷が疼く時があります。

もしそれが、深いところにある傷ならば、

その疼きによって、その人は

本来の自分とは別の行動を取ってしまいます。

 

それは、体の傷が痛むことで

まっすぐに歩けなくなる、変なポーズで歩くようになる

のと同じことです。

 

でもその変なポーズで歩くのが日常化してしまうと、

人はその人のことを

「そのようなポーズで歩く人なんだ」と

レッテルを貼ります。

本人はそのレッテルを「自分自身である」と

思い込みます。

つまりは、その「変なポーズ」こそが自分であると

思い込みながら生きるようになります。

 

本当は、普通に歩くのがその人の本来です。

 

そして、普通に歩いた時にこそ、

その人本来の個性が

醸し出されるようになります。

 

私はその個性のことを

『その人本来の味』

と、このブログでは表現しています。

 

本来の味を醸し出すことができている人は

魅力的です。

本来の味を醸し出すことができれば

誰もが魅力的になります。

 

その魅力を仕事に活かすことができれば、

その人の仕事は明らかに「次元」が変わります。

 

私達の中から、心の傷が消えることは

なかなかありません。

いえ、心の傷を消そうとすること自体が

必要のないことです。

 

心の傷はそのままで。

しかし、私達は普通に健康的にまっすぐに

歩くことができます。

 

そのためのサポートを、

私は「コーチング」と呼んでいます。

 

以上のようなお話を平井さんにさせていただいた時、

平井さんの目の色が変わりました。

 

「そうか!たけうちさん。

心の傷は治そうとしなくていいんですね。

私は社員達と向き合うことで、皆全員に心の傷があることを

知りました。

私はその心の傷を治すにはどうしたらよいのだろうか?

と、そればかりを考えていました。

それをしなくてもいいんですね。」

 

「はい。そこに意識を向けると、

心の傷治しの旅が始まってしまいます。

その旅は、永遠に続きます。

心の傷は無数にあるからです。

一つの傷を治しても、必ずその奥には、そのもととなる

傷が存在しています。

だからその旅は永遠に続きます。

それをしていても、その人の仕事の質は変わりません。

人生の質も一向に変わりません。」

 

「では、私にできることは何でしょうか?」

 

「それは平井さんご自身が一番身をもって

体験されているではありませんか。」

 

「真本音で進むことですか?」

 

「その通りです。

その人が、その人自身の真本音に素直に

次の一歩を進むこと。

そのサポートをし続けるだけのことです。」

 

「確かに、真本音度合いが高まると、

それだけで心は満ちますね。

だからそこに傷があろうとなかろうと、

関係なくなります。

むしろ、傷があることがその人の魅力につながる

かもしれません。」

 

「平井さんは、平井さんの傷があるからこそ

平井さんなりの魅力が出てますもんね。」

 

「そうですか。そう言われると嬉しいですねぇ。

そうか、傷がその人の財産になってくるわけだ。」

 

では、みんなの真本音度合いを高めるために

我社では何をすればよいのだろうか?

という議論に、その後入っていきました。

 

そこで平井さんが発想されたこと。

それは、

 

「私は社長の真本音を、

社員全員にぶつけてみたい」

 

ということでした。

それが社員の皆さんの真本音を

大きく刺激することになるだろう、と。

(→前回記事)

 

私はすかさず、平井さんにご提案しました。

 

「社長だけでなく、平井さんご自身の真本音も

皆さんにぶつけてみたらいかがですか?」

 

「えっ、そんなことしてしまって大丈夫ですかね?」

 

「何言ってるんですか。笑

今の平井さんだったら大丈夫どころか、

皆さんにとって、すごくいい刺激になると思いますよ。」

 

つづく