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- 2018年 5月
私とは
何者なのだろうか?
という問いが
浮かぶことは
ありませんか?
私が何者か?
ということは
つまり、
私は
私以外のものと
どのように関わるか?
ということでも
あります。
私は
私以外のものと
何者として
関わればよいのか?
です。
「私以外のもの」を
あえて
「世界」
と表現することにします。
するとこの世は
「私」と「世界」
によって成り立っている
ことになります。
「私」は「世界」と
どう関わるか?
「世界」にとっての
「私」とは
何か?
「私」は「世界」を
どうしたいのか?
「世界」は「私」に
何を求めているのか?
「私」は「世界」に対して
何をどう
応えればよいのか?
このような
根源的な問いと
向き合えば、
あなたはどうなりますか?
答えは
見つかりそうですか?
それとも、
わけがわからなく
なりそうですか?
答えはわからなくとも
何らかの
気づきはありそうですか?
それとも
頭が真っ白に
なりそうですか?
このような
根源的な問いは
怖いですか?
それとも
楽しいですか?
・・・・・・
私とは
何者なのだろうか?
一見、とても難しい
問いのように思えますが、
すべての人は
この答えを明確に
持っています。
自分にとっての
「正しい答え」
つまりは、「正解」が
あるのです。
そしてそれは、
「世界」にとっても
「正しい答え」であり
「正解」です。
なぜなら、
「私」も「世界」も
つながっていますからね。
その「正解」を
見つけるためには、
この問いと
真摯に向き合い続け
なければなりません。
「正解」が
いつ見つかるか?は
恐らく
人それぞれでしょう。
人それぞれですが、
それを見つけるには
この問いと共に
毎日を生き続けなければ
なりません。
・・・・・・
私の場合は
時間がかかりました。
私が初めてこの問いと
出会ったのは、
恐らく22歳です。
社会に出る直前になって
初めて真剣に
考え始めました。
この問いの答えを
見つけるためには、
そうだ!
エベレストを見なきゃ!
と思い立ち、
実際にネパールヒマラヤに
行きました。
まったく意味がわからない
行動でしたが、
実際に標高5400mくらいまで
登り、
エベレストと対面した時、
私はきっと
この問いの答えは
見つかるに違いないと
確信しました。
確信したのですが、
私の場合、
反応本音があまりにも多く、
紆余曲折の人生が
続き、
ようやくにして
答えに行き着いたのが、
なんと2015年。
ほんの3年前です。
何とも長い
紆余曲折でした。
もちろんそれまでも
いろんな「答え」には
出会ってきました。
でも、
本当の答え、
自分にとっての真本音の答え
に行き着いたのは
3年前の正月です。
正確には、
3年前の1月2日です。
そこから私の人生は
一気に変わりました。
本当に
次の日から
変わりました。
自分は何者か?
自分は自分の人生において
何を成せばよいのか?
その「答え」が
眼前に屹立しました。
そして、
30年後までに必ず
実現しようと決めている
ビジョンが観えました。
今の私の
あらゆる活動は、
そのビジョンの向かうための
ものです。
・・・・・・
面白いことに、
そこから
出会う人、つながる人達が
一気に変わりました。
それこそ
「世界」が
変わりました。
しかし、
ここまでのこの3年間は
あくまでも
準備期間だったのだと
思います。
今、ようやく
準備が完了した
感覚があります。
ここからが
本番であり、
全力疾走の
スタートです。
そのための
一つの象徴として
『株式会社真本音』
を立ち上げました。
「答え」が見つかる
ということは、
「迷い」がなくなる
ということです。
「迷い」がなくなる
ということは
単純に
「気持ちいい」
ということです。
その「気持ちよさ」は
着実に
私の周りの人達に
伝播しています。
ですから
周りの人達も
次々に
「気持ちいい」状態に
入っています。
つまり、
自分が何者か?を
その人なりに
見つけ始めている
のです。
ここにこうして
「存在」している以上、
私達には
存在意義があります。
何者として
ここに存在すれば
よいのか?
の答えが必ず
あります。
それは、
「世界」との関わりの
答えです。
この「世界」で
この「人生」で
何をすればよいのか?
の答えです。
もともと持っている
それらの答えを
すべての人が見つかると
いいなぁと
私は願っています。
そしてその
願いに基づいて
今の私は
生きています。
つづく
昔の私はですね、
実は、
大変におこがましい
「夢」
を持っていました。
それは
何かと言いますと、
「すべての人々を
幸せにする」
というのが
夢だったんです。
おこがましいでしょ。
でも、
この夢を持ったのは
確か
中学2年くらいの時です。
当時の私は、
自分は世の中で
最も劣った人間だ、
と思い込んでいました。
つまりは、
劣等感の塊でした。
でも
その一方で、
親父とお袋が小さな
会社をやってまして、
毎日毎日
真剣に神棚に
お祈りをしているのを
見ており、
真似事みたいな感じで
自然にお祈りを
するようになったのですね。
普通の
神棚です。
でもそこに毎朝、
私も手を
合わせました。
その時の私の
心の中のお祈りが、
「世の中のすべての人が
幸せになりますように」
だったんです。
そして
中学3年くらいの時かな。
それにもう一文句が
付け加わりました。
「世の中のすべての人が
幸せになりますように。
そのための第一歩を
私が踏み出せますように」
となったんです。
ものすごくおこがましい
ですが、
でも、本当に真剣に
祈っていました。
これを毎日毎日
ずっと続けました。
続けたからと言って
私は
人のために生きた
わけではありません。
自分のことしか
考えない人間でしたし、
お世辞にも
立派な人だったとは
思えません。
でも、
自分の実際の行動は
どうであれ、
とにかくその祈りを
毎日毎日真剣に
繰り返しました。
恐らくその祈りとは、
自分自身の本来を
呼び覚ますためのもの
であったと、
今の私は思います。
毎日の祈りを
繰り返さなければ、
私は私の真本音と
出会えなかったかも
しれないと
今の私は思います。
「夢」にも
いろいろあります。
でも私にとっての
「夢」とは
祈りでした。
・・・・・・
夢とは
単なる空想である、
という人もいます。
もちろん
そういった夢も
あるでしょう。
でも、
祈りにも似た
気持ちを喚起する
夢を
すべての人は
持っています。
実現できるかどうか?
ではなく、
今の自分がどうか?
とも関係なく、
ただただ
自然に湧き上がってしまう
祈りのようなもの。
そういった
夢もありますね。
株式会社真本音を
立ち上げた時、
ある社長さんから
神棚を
プレゼントしていただきました。
久しぶりに
神棚と向かい合いながら、
あぁあれは、
私にとっての
セルフコーチングの
始まりだったのだな、と
実感しています。
で、
今、神棚と向かい合うと、
当時の私の祈りと
今の祈りは
まったく変わらない。
私は今でも
心から真剣に、
すべての人々が
幸せになりますように、
と祈っているのです。
なんだ、これは
私の真本音だったのだな
と、
今、改めて思います。
・・・・・・
すべての人々が
幸せな世界。
それは本当に
夢物語のようです。
でも
もし本当にそのような
世界を実現できたら・・・、
と思うと、
ワクワクします。
幸せは
人それぞれです。
それぞれの
幸せを感じればいい。
でも、
高い次元では
すべての人の幸せは
「一つ」です。
「一つ」の幸せ。
「それぞれ」の幸せ。
その両方を
大事にしたいなぁと
ホントに思います。
そう
思えるから
しょうがない。
そう
思う自分に
素直でいようと
思います。
自分に素直になるのが
一番ですしね。
・・・・・・
つい先日。
ある一人の人が、
心と魂の中にある
余分なものをすべて
取り払い。
そして別のある人が
心と魂の中にある
余分なものをすべて
取り払い。
その二人が
向かい合って、
長年のわだかまりを
すべて解消して、
心と魂の絆を
結び直す、
という場面に出会いました。
その日は
一晩中、
私は嬉しくて嬉しくて
泣き続けました。
やっぱり、
人が本当の幸せを
手に入れた瞬間と
出会うと、
私は自分が「人間」であることに
心の底から
誇りを持ち、
最高に嬉しくなるようです。
今のこのお仕事は
そういった機会を
毎日のように
与えてくれます。
このお仕事に
出会えたことに
感謝感謝ですし、
でも、
このお仕事に出会えたのは
中学2年からの
私自身の祈りのおかげかな、
とも思います。
「夢」
大事にしましょう。
祈りにも似た「夢」が
誰にもあります。
それが実現できるかどうか?
とか、
今の自分がどうか?
とか、
そんなことは関係ない。
祈りにも似た「夢」が
あるならば、
それを毎日、
祈りましょうよ。
私はこれからも
毎日
祈り続けます。
つづく
「前に向かって
進みましょう!」
とよく言われますし、
私もよくそんな
言い方をします。
しかし実はそれは
何の特別なことでも
ありません。
私達人間は
もともと
「前に向かって進む」
存在です。
そのように
出来上がっている
生き物です。
よくマグロが
「泳ぎ続けないと死ぬ」
と言われますが、
人間も同じです、
本質的には。
止まると
死んでしまうのです。
まずは
魂が死にます。
「死ぬ」というと
ちょっと語弊が
あるかな。
「死に体になる」
と言った方が
良いと思います。
魂が死に体になると、
次に心も
死に体になります。
すると
その次は体に
影響が及びます。
とても残念で
悲しいことですが、
このように
魂が死に体になっている人が
多いのが
この世の中の特徴です。
止まってしまって
いるのです。
進んでいないから
です。
それを
「進む状態にする」
のが
私のサポートの本質
です。
・・・・・・
進まなければ
ならないの?
なんて、
疲れる存在なんだ、
人間は。
・・・と思われるかも
しれません。
しかし
誤解しないで
ください。
休憩してはならない
ということでは
ありません。
マグロだって
睡眠をとります。
睡眠をとりながら
進むそうです。
休憩と、
止まること、
は全く別のことです。
休憩を取りながらも
進むのです。
というよりも、
休憩をきちんと
とるからこそ、
より望むスピードで
私達は進めます。
そして
さらに言うならば、
進んでいる
その状態こそが、
私達にとっては
とても静かで
平穏で
安定して
安心できるのです。
リラックス
できるのです。
進むとは、
リラックスすることを
やめなさい
と言うことでは
ありません。
進むからこそ
落ち着いて
リラックスして
満たされて
自分らしく
自然体で
いられるのです。
それが
私達人間の
本質です。
なぜなら人間は
「進化の象徴」
そして
「進化という実在の反映」
だからです。
・・・・・・
「成長意欲を
持ちなさい」
とも
よく言われます。
いやいやいや、
人はもともと
成長意欲の権化
です。
もし
成長意欲が
減退しているならば、
それは
成長意欲を止めてしまう
何らかの阻害要因が
あるのです。
まぁもっとも
今のこの世の中は
その阻害要因に
溢れているわけですが。
私達は誰もが、
自然な状態に戻れば、
つまりは
自分を取り戻せば、
自然に成長意欲は
湧きますし、
前に進もうとします。
「前向きに生きろ!」
なんて
わざわざ言わなくても
よいのです。
前向きに生きようと
するのが
もともとの私達
だから。
それは
大人も子供も
変わりません。
人類全員に
言えることです。
その本質を
見誤ると、
人のサポートは
おかしなことになります。
・・・・・・
人には誰も
「真本音」があるんだ、
という真実を
知ることができ、
自分自身の真本音を
大切にし、
真本音度合いを
高めるようになってから、
私は
一つ大変に
驚いたことがあります。
それは
自分自身の
成長意欲の
あまりの高さに
です。
えっ?
俺はこんなにも
成長したいと
思ってるの?
と愕然とするくらいに
成長意欲が
高いのです。
今ですら、
よく愕然と
します。
もちろんこれは
私一人に限ったことでは
ありません。
私が自身に感じる
この意欲の高さは、
すべての人が
同じです。
すべての人が
自然体になれば
その意欲は
必然的に姿を
現します。
私のサポートとは
それをするだけの
こと、
という言い方もできます。
人が自然体に戻り、
自ら内包する
その成長意欲が
顕在化すれば、
あとは勝手に
その本人が
進んでいきます。
そこに
「意図」は
必要ありません。
むしろ
「意図」を
手放すことで、
その人は
次々に「想定外」の
凄いことを
成し遂げ続けます。
もしそういった
一人一人の集まる
組織であるならば、
その組織は
凄いことになります。
そして私は
そのように
組織が凄いことに
なっていくのを
傍から眺めるのが
人生の喜びです。
人って
やっぱり
本当に凄いんだなぁ。
組織って
本当に
凄まじいなぁ。
22年今の仕事を
続けていますが、
その感嘆と感激は
今もって
まったく衰えません。
というか、
今も日々、
高まり続けています。
・・・・・・
世の中全体の
潮流。
いろんな人々と
向き合っていますと、
そういったものを
ある瞬間に
実感します。
今の世の中の
潮流を
一言で表現すれば、
その
「成長意欲」
ということになると
私は感じています。
ひょっとすると
私達人類は、
人類史上例がないくらいに
今は
成長意欲が
高まっているのでは
ないでしょうか。
とさえ
思う瞬間が、
この5月に
頻発しました。
この感覚。
はっきり言って、
初めての体験ですし、
ワクワク、
というか
ゾワゾワします。
今、
私達人類は
何かを
始めようとしているのでは
ないでしょうか。
もしくは
新たなステージに
入ろうとしている、
いや、
入ったのでは
ないでしょうか。
ますます
毎日のお仕事が
楽しくなりそうです。
つづく
私達の心は
「現実」によって
翻弄されます。
翻弄されないように
生きていこうと
どれだけ思っても、
翻弄されてしまいます。
なぜなら
私達の心は
「現実」によって
反応するように
もともと
できているからです。
それが、
私達の心の仕組み
だからです。
この、
反応・翻弄されるように
できている心を
『反応本音』
と言います。
反応本音は
常に揺れ動いています。
しかし
だからこそ、
喜びを感じたり
幸せを感じたり
することもできます。
心の揺れ動きを
きちんと感じ取れるのは
健康である証です。
「たけうちさん、
私はこんな辛い目に
遭いました。
もう会社を辞めようと
思ってしまいました。
私は大丈夫でしょうか?」
「会社を辞めたいと
思ったのでしょ?
ちゃんと心が
揺れ動いているじゃ
ないですか。
健康的ですね。」
いつも私は
このようなやり取りを
しています。
「現実」に対して
きちんと翻弄されている内は
大丈夫です。
それが
麻痺するようになることこそ
私が最も深刻だと
思う事態です。
・・・・・・
「私には
怖いものはありません」
と言われる人と、
これまで私は
数多く出会ってきました。
実は、
昔の私も
そう思っていた時期が
あります。
ですから
よくわかるのです。
これは不健康だな、
と。
怖いものが
ないはずがありません。
もし本当に
「怖いものがない」
と思うのであれば、
それは、
心にフタをしている
ということです。
そして、
心の麻痺が
始まっているという
ことです。
もしくは、
単なる自己顕示かな。
私はこんなに
凄い人間だ、という
自己顕示欲が
怖さを麻痺させることが
あります。
いずれにしても、
普通の状態では
ありません。
・・・・・・
翻弄されるように
できている心が
「反応本音」であるならば、
どのような「現実」に
対しても
揺らぐことのないもの、
・・・それは、心というよりも
魂と言った方が良いですが、
それを私は
『真本音』
と呼んでいます。
真本音度合いが高まる
ということは、
真本音の意思に基づいて
動く度合いが高まる
ということですが、
それが高まることで
私達は
揺るがない自分
安定した自分
になれます。
しかしそれは決して
怖さがなくなる
ということではありません。
むしろ、
真本音度合いが高まるほどに
怖さに敏感になります。
怖いものは
怖い、
と素直に感知できるように
なります。
もう少し言葉を変えれば、
あらゆる反応本音を
素直に感じ取ることが
できるようになります。
しかし、
どれだけ怖さを感じても、
どれだけ反応本音を
感じても、
それは感じているだけ。
それにより
次の一歩が揺らぐことは
ありません。
一方、
幸せについても
かなり敏感に感じることが
できるようになります。
これまで感じなかった
ちょっとしたことに
深い喜びを得たり、
人としての
嬉しさを覚えたり。
嬉しさも
悲しさも
怒りも
怖さも
あらゆることを
あるがままに
そのままに
感じ取る感性が
豊かになります。
でも、
それによって
不安定になることは
ありません。
あらゆることを
感じながらも、
自分が決めた一歩を
ずっと
出し続けることが
できるのです。
それが、
真本音で生きる
ということです。
それが、
人としての喜びを
最大化する
原則です。
・・・・・・
セルフコーチングとは
本来、
真本音度合いを高める
ものでなければ
意味はありません。
つまり、
人としての喜びを
増やす方向に
行くためのものです。
「人生」とは
翻弄されるもの。
「現実」とは
翻弄されるもの。
でも、
だからこそ
面白い。
そのように
無理なく自然に
感じ取れるようになる。
それが
セルフコーチングの
本質です。
その本質に基づいた
セルフコーチングの手法を
これから私は
意図的に様々な形で
世の中にご紹介させて
いただこうと思っています。
もちろんこのブログも
そうですし、
メルマガも
始めようかな、と
思っています。
セルフコーチングの
講座やセミナーも
やってみようかな、とも。
まだ企画段階ですが、
これまでにないものを
生み出せる予感が
あります。
楽しみにしていて
くださいね。
つづく
海に
いくつかの島が
浮かんでいます。
その島々は
海の上のみを見れば
別個の存在ですが、
水中に潜れば、
すべての島は
つながっていることが
わかります。
当たり前の
ことですね。
すべての島は
「地球」の大地の
突起です。
ある一つの島に
多大なるエネルギーが
溢れたとします。
しかしそのエネルギーは
その島のみが
発しているものでは
ありません。
それはもともとは
「地球」から
湧き出ているものです。
「地球」から
湧き出るものということは
そのエネルギーは
無尽蔵に近いです。
ところがその島は
「このエネルギーは
俺が出しているものだ。
俺はすごいぞ」
と思い込むことが
あります。
これを
「傲慢」
と言いますし、
「過信」
とも言います。
私達人間も
まったく同様です。
人の心は
深奥ではすべて
つながっています。
実在レベルでは
高い次元の私達は
「一つ」
であり、
「すべては私」
です。
つまりそれは
「地球」のようなものです。
そして私達は
その「地球」から
エネルギーを
いただいています。
人にはそれぞれ
得意分野があり、
それを開発できれば
その人ならではの
力が発揮されます。
その力を
目の当たりにした時、
私達は
愕然とすることが
あります。
なんて凄い
力なんだ、と。
もしその人が
自らの真本音に
素直に生きている人で
あるならば、
その力の発現の仕方は
本当に自分自身を
愕然とさせるでしょう。
そして
自然に思う
はずです。
「これはもう
私の力ではない。
私の範疇を
超えている。
これは天から
与えられたものだ」
と。
そして
その力に対しての
畏敬の念と
感謝の念が
心を満たすでしょう。
それくらいに
私達一人一人が
本来持っている力というのは
凄いものです。
ところが、
そうはならない人が
います。
つまり、
「なんて凄い力だ。
これが俺なんだ。
俺は凄い。
俺はやれる。
俺にしかできない。
俺がナンバー1だ」
となる人がいます。
つまりこれが
「過信」ということですが
人が自分のことを
過信するというのは、
その力の発現が
まだ「中途半端」である
証です。
過信しているうちは、
その人はまだ
自分自身の
本来の力とは
出会っていないのです。
もし
本当の本当の力、
本来の力を
まざまざと実感できたら
「過信」などという
悠長な気持ちには
なりません。
この力を
一体、私は何のために
活用すれば
よいのだろうか?
という
真摯な問いが
湧いてくるはずです。
そして、
私の人生は
本当にこのままで
よいのか?
私が本来為すべきことは
何だろうか?
という、
人生そのものへの
根本的問いと
真正面から向き合うことに
なるでしょう。
・・・・・・
本来の力を
自分に与えるかどうか?
を決めるのは
その人自身の
真本音です。
単純に言えば、
真本音に素直に真摯に
生きれば生きるほど、
本来の力は
発動されやすくなります。
そしてそれは
多くの場合、
一気に開花します。
もちろんそこには
努力は必要です。
努力とは
「始めること」
と
「続けること」
です。
しかし、
本来の力は
続けることで徐々に
現れるのではなく、
ある瞬間を境に
一気に花開きます。
それは
自分の真本音が
自分に対して
「ここまで努力したのだから
もう準備はできたよ。
私が本来発揮できる
この力を
解放させてあげよう」
と自らにOKを
出すのです。
その瞬間から、
その力は
まるでダムが決壊
したかのように
放流されます。
そしてその力を
まざまざと実感すると
その人は
畏敬の念と
感謝の念に
満たされるでしょう。
と同時に、
その人の
本当の人生
本来の人生
が始まるのです。
つづく
本当に人を助ける
とは
どういうことでしょうか?
企業現場で
たくさんの方々と
向かい合っていれば、
否が応でも
この問いとも
向き合うことになります。
「助ける」
とは
何だろうか?
助けているつもりでも
それは実は、
自分が助けられている
のではないだろうか?
今、私は
この人を助けている
つもりになっているが、
それをしながらも
ただ単に
この人に依存している
だけではないか?
本当に私のこの
「助け」は、
この人が望んでいる
ことなのだろうか?
単なる「有難迷惑」では
ないだろうか?
私は
私の自己満足で
人を助けているだけでは
ないだろうか?
・・・そのような問い達。
いつもそんな
自分自身への疑念と
否が応でも
向かい合うことに
なります。
そもそも、
本当に人は人を
助けられるもの
なのだろうか?
助ける、という
考え方自体が
間違っているのでは
ないだろうか?
「たけうちさん、
助けてください!」
この仕事をしていれば、
そのようなお声は
結構あります。
本当に苦しんでいる
人からの
藁をもすがるような
思い。
そんな
「助けてください!」
を目の前にして、
私はいつも
上記のような問いに
苛まれてきました。
答えがわからないままに
手を差し伸べて
ものすごく後悔したことも
一度や二度では
ありません。
助ける、とは
何でしょうか?
本当に人には
「助け」が
必要なのでしょうか?
・・・・・・
でも一方で、
私は随分といろんな人に
これまでの人生で
助けられてきました。
あの「助け」がなかったら
今の私はないな、
と思えるものも
たくさんあります。
それを思い起こすたびに
手を合わせたく
なります。
人は
一人では生きられない。
人の助けなしでは
進めない時もある。
それは一つの
事実ですね。
・・・・・・
私が大学1年生、
登山をやっていた時の
ことですが、
初めて日本アルプスの
長期山行に入った
初日、
キツかったですね。
一人50kg以上のザックを
背負い、
14時間、山道を
登りづくめでした。
とうとう1年生の一人が
動けなくなり、
その時に
そのパーティーの
サブリーダーさんが
その1年生のザックから
重いものを自分のザックに
移し、
代わりに持ってあげたんです。
それによって
その1年生は何とか
ヨタヨタと歩くことができ、
無事に予定の場所まで
たどり着くことが
できました。
今思うと、
私はこれこそが
「助ける」ということだと
思います。
助けるとは、
一時的に
その人の荷物を
肩代わりすること。
しかし、
どれだけ肩代わりしても
その人が
自らの足で
歩くことは変わりません。
その道は
その人が
歩くべき道。
歩くべき道を
その人が歩く、
というのを
侵害してしまっては
いけません。
なぜならその道は
その人の人生
だから。
その人の人生は
その人の
ものだから。
その人の人生を
「歩かなくていいよ」
というのは
「助け」ではなく、
「侵害」です。
「侵略」です。
そして、
「妨害」です。
と私は思うのです。
しかも
ザックの荷物を
代わりに担ぐのは
短い時間であれば
あるほどいい。
その見極めこそが
すごく大事であり、
そこに自己満足は
入ってはならない、
のだと
私はつくづく
思います。
・・・・・・
人には
「助け」が必要な時が
あります。
それは
事実です。
しかし
「助け」が不必要な時も
あります、
どれだけ苦しくても。
必要か不必要か?を
判断できる人こそが、
私は「コーチ」であると
思っています。
そして、
必要か不必要か?は
コーチが解釈して
決めるものでは
ありません。
それを決めるのは
その人本人の
真本音です。
つまり、
その人の真本音が今、
「助け」を
必要としているか?
していないか?
を、しっかりキャッチすることが
必須です。
そういった意味での
「コーチ」力を
私はすべての人が
持てればいいなと
思っています。
・・・・・・
人の真本音を
キャッチする力を
養う最も近道は、
自分自身の真本音を
キャッチする力を
養うことです。
そのためには
セルフコーチング力を
高めることです。
・・・と、
やっぱり最後は
ここに落ち着きます。
キーワードは
セルフコーチング。
その力を高めるための
記事を
これからもここでは
書かせていただきますね。
つづく
「私はいったいこれから、
本当は、
何をすればよいのだろう?」
このような問いが
もし
現れたら、
それは人として
本当に健全なことです。
実は、
私達の心の奥底には
常に
この問いが
存在します。
この問いは
「ゼロリセットの問い」
です。
常に自分を
ゼロに戻す、
原点に戻す、
問いです。
私は思います。
この問いは
毎日毎日
自分に投げかける価値のある
問いであると。
「私がやりたいことは
もう私自身が
よくわかっている」
とか
「私の人生の目的は
もう決まっている」
というように、
この問いについての迷いが
なくなった状態を
私は
「傲慢」
と呼んでいます。
それは単なる
思い込み。
本当の人生の目的とは
上記の問いを
何度も何度も
毎日のように自分に
投げ続けることによって
初めて見出されるものです。
・・・・・・
自分の人生の目的を
わかったつもりで
設定し思い込み、
本当はそれは
まったく違う方向なのに
「これが私の人生だ」
と決めつけてしまっている人が
あまりにも多いことに
最近はとても
悲しみを感じます。
目的を持つことは
大事。
でもそれは
真本音の目的で
あることが
必須です。
そして
真本音の目的とは
そうそう簡単には
見つかりません。
安易に
目的を設定している人を
見ると、
私はとても
危うさを感じます。
まだ
「私は自分のことが
全然わかりません」
と言っている人の方に
地に足がついている
感覚がします。
何かを勉強して
それに感銘を受けて、
いいなぁ、と思って、
私もそうしようと
決める。
勉強することは
大事ですし、
感銘を受けることも
大事。
でもそれによって
自分の人生を
安易に決めないで
ほしいのです。
一言で言えば、
机上の空論で
人生の目的を決める人が
多くて、
最近は特にその傾向が
高くて、
困っています。
そういった人は
本当に真剣に
人生を生きている人の
足を引っ張るからです。
今日、
ある社長さんと
お会いしました。
その人は
本当にご自分の人生に
真剣に
向かい合っている人
です。
そして、
真剣に人生を模索しながら
真本音で一歩一歩を
実践し続けています。
しかし、
多大なるストレスを
抱えています。
そのストレスが、
自分の一歩を進む上で
必然的に発生する
ストレスであるならば
全然、問題はありません。
しかしその社長の周りには
真剣であるフリをしている人、
もしくは、
自分が真剣であると
思い込んでいる人、
で、実は
自分の本来の人生の課題から
逃げまくっている人が
集まってきてしまって
います。
もちろんそれは
その社長ご自身にも
問題はあると思います。
が、
それでも私は
憤慨してしまいます。
もう少し、
自分の人生に
真剣になったらどうだ?
と。
その社長から
私が受け取ったのは
依存のストレス。
多くの人達が
「協力するフリをしながら
その社長に依存する」
ことによって発生する
ストレスです。
そのストレスで、
その社長は苦しんで
いました。
こういうケースに関して
私はとても
怒りを感じます。
何に対する怒りかと
言いますと、
「自己満足」に対する
怒りです。
わかったつもりになり
自己満足している
その行為に対する
怒りです。
それは、
かつての私がずっと
行ない続けていたこと。
だからこれだけ
憤るのだろうな、と
思います。
でも、
かつての自分を
戒める意味でも
思うのです。
自己満足は
本当にタチが悪いと。
・・・・・・
なんか今回は
怒りの表明みたいに
なっていますが。
でもしょうがない。
本当に今の私は
怒っています。
真剣な人を
真剣じゃない人が
妨害する。
それは、
どこの組織でも
必ずあることですし、
それが
世の常、とも言えます。
でもそれでもやはり
私は怒り
憤ります。
私はこういった面では
本当に
心が狭いなぁ、と思います。
でも一方で
こういうことに
真剣に怒ってしまうのが
私であるとも認めています。
これは私の
真本音の怒りです。
私は
真剣な人をサポート
したい。
自分の人生に対して
真摯な人を
サポートしたい。
人生に対して
真摯な人とは、
「私はいったいこれから、
本当は、
何をすればよいのだろう?」
こういった、
ゼロリセットの問いを
常に自分に投げ続ける
人を言います。
思い込みで進まない。
自己満足で進まない。
私自身もこれから
大切にし続けたい
ことです。
つづく
準備が万全に整ってから
物事を始めよう
とする人がいますが、
それは決して
良い始まり方とは
限りません。
むしろ、
準備を整えている内に
機を逸してしまった
ということの方が
多いのではないでしょうか。
物事には
タイミングが
あります。
良いタイミングで
始めることで
調和は起こりますが、
タイミングを間違えると
同じことをしても
まったく展開が変わります。
物事は
タイミングで
決まります。
そしてそのタイミングは
私達自身の真本音が
最もよくわかっています。
人と人の真本音は
実在のレベルでは
すべてつながっています。
真本音の望む
タイミングに合わせる
ということは、
すべてとつながった上で
すべての流れを
見極めて上で
「今、ここだ!」
という最善のタイミングを
掴んでいるという
ことになります。
そのタイミングが
来ているのに、
「準備が整って
いないから」
という理由で、
始まりを自分自身が
阻止してしまうのは、
自分の人生を
自分で阻止しているのと
イコールです。
・・・・・・
「何を始めるか?」
これは人生において
とても大事なこと
ですが、
「いつ始めるか?」
これも超がつくくらい
大事です。
この
「いつ始めるか?」
の感性を養う
最も簡単な方法があります。
それは、
「一日を始めるタイミングを
はかる」
ということです。
以下は、私が毎日
必ず行なっていることですので、
とても簡単ですので、
よろしければ皆さんも
遊び感覚で
お試しください。
まず、
私は一日の終わりを
大事にします。
つまり、
いつ寝るか?
のタイミングを大事に
します。
「いつ寝る?」
「いつ布団に入る?」
という問いを
私は自分自身に
投げます。
自分の真本音に
投げる感覚です。
すると、
「もう今すぐ寝よう」
とか
「もう少し後にしよう」
とか
時には
「何時何分にしよう」
などの返事が
返って来ます。
何度か自分に
問いかけながら、
「今、布団に入る
タイミングだ」
とわかったらすぐに
布団に入ります。
ただ、
その直前に必ず
もう一つすることが
あります。
「明日、
何時何分に起きる?」
と自分に問うのです。
すると面白いことに
「6時くらいに起きよう」
というような返事が
返ってくることは
稀です。
いつも
「5時57分にしよう」
とか、
「6時3分にしよう」
など、
かなり細かい答えが
返って来ます。
で、その通りに
目覚まし時計を
かけます。
で、布団に入るのですが、
言われたタイミングで
入れば、
やはり良い睡眠が
待っています。
以前、
わざとこういったタイミングを
ずらして
布団に入ったことが
ありますが、
やはり睡眠の質が
根本的に変わってしまったのが
よくわかりました。
目覚めの気持ちよさが全然
違うのです。
さて、
自分の望むタイミングで
布団に入り、
そのまま眠ると、
大概の場合、私は
目覚ましをかけた時間の
直前に
自然に目が覚めます。
結果としてほとんど
目覚まし時計を鳴らすことは
ありません。
ただし、
目が覚めたからといって
すぐに布団から
出ることはしません。
ここでまた自分自身に
問うのです。
「どうする?
すぐに起きる?」
と。
これも私の場合ですが、
大概は
「もう少しこのままで
いる」
と返って来ます。
ですので、
そのまま横に
なっています。
これをやっていると
時には
二度寝をしてしまうことも
ありますが、
それでも良いのです。
例えば、
ちょっとウツラウツラと
二度寝をしたと
します。
そしてまた
目が覚めたとします。
そこでまた
問います。
「どうする?
すぐに起きる?」
と。
「もう少し」
と返って来たら、
まだそのままでいます。
これを繰り返し、
「今、起きよう」
と自分から返事が
来た瞬間に、
布団から出ます。
すると、
とてつもなく
一日の始まりが
快適になります。
この「快適さ」が
一日を決めてしまう
と言ってもよいのではないか、
とさえ思うくらいです。
・・・・・・
人生において
「始まり」
はいくつもいくつも
あります。
その「始まり」の中で
最も身近なものの一つが
この
「一日の始まり」
だと思います。
ここで
このように最善の
タイミングをはかる
という習慣をつければ、
それが、すべての
「始まりの感性」
を養ってくれます。
「始まりの感性」とは
いつ始めるか?
を決める感性です。
これにより、
人生は劇的に
変化する可能性が
あります。
少なくとも私の場合は
劇的に人生が
変わりましたね。
つづく
日本一高い山は
富士山であることは
誰もが知っていると
思いますが、
日本で2番目に
高い山は
ご存知ですか?
それは
南アルプスにある
「北岳」
と呼ばれている山です。
白峰三山の一つ
で、
南アルプスの中では
最もメジャーですが、
南アルプスそのものが
どちらかと言えば
玄人向きの山々なので、
山登りに興味のない人に
とっては
北岳? 何それ?
名前、地味じゃね?
くらいでしょうね。
実はわたくし、
学生の頃からこの
北岳が大好きで、
就職活動の面接などで
「尊敬する人は?」
と問われたら、
「北岳です」
と答えたくらい。笑
この山は
見る角度によって
まったく別人のような
雰囲気の違いを
醸し出すのです。
ある角度から見れば
鋭く険しく、
ある角度から見れば
哲人的で深く、
またある角度から見れば
王者のような貫禄と
大きさで。
どの角度から見ても
とても気品があり、
かと言ってツンと
澄ましているわけでなく、
気さくさと明るさと
あたたかさがあり、
しかし反面、
父親のような厳しさも
あり、
かつ、母性も感じる
という。
その魅力を言い出すと
キリがない、
相変わらず。笑
富士山はもう
別次元の存在のように
感じますが、
北岳は
私からすると
「この世の世界での
最高の形の一つ」
に見えます。
とてもとても
単なる「山」とは思えず、
私は彼をずっと
「人」として感じ、
「人」として
対峙してきました。
白峰三山のすぐ東に
鳳凰三山という山が
あるのですが、
冬山でそこを登った時に
そこから見えた
北岳が
あまりに神秘的で、
それが私と彼との
出会いで、
以後、雪のない時期には
一人で鳳凰三山に登り、
誰もいないある山頂で、
一人ずーっと北岳と
対峙し続けたりしました。
それはまさしく
「山と語り合う」
時間でした。
もちろん言葉は
ありません。
でも確かに
私は北岳と
語り合っていました。
今から思えば、
これが私の
セルフコーチングの
始まりでした。
・・・・・・
大自然。
山登りと出会い、
私は自然というものが
どれくらい圧倒的か
ということを
体感しました。
あれは
北岳ではなかったのですが、
南アルプスの南部の
山々を
一人でテントを担いで
ずっと縦走したことが
ありました。
南アルプスの南部は
夏山の最盛期を外せば、
当時はあまり人もおらず、
ある日私は
だだっ広い広場のような
場所に
たった一人でテントを
張っていました。
その夕方。
猛烈な雷雨に
遭いました。
いや、
雷雨という生易しい
ものではありませんでした。
標高は
3000m近く。
まるで台風のような
猛烈な雨。
雷雲の中に恐らく
そのまま入って
しまったのでしょう。
空で雷が鳴る
のではなく、
雷そのものの中に
いる、
という状態に
なりました。
周りは
誰もいません。
私だけ。
テントはあっという間に
池の中に浮かんだ
ような状態に。
宇宙全体が
猛り狂っているかのような
雷鳴と雷光の中で
私は
「神様、助けてください!」
と
テントの中で水に
浸かりながら土下座をし、
頭の上で拝むように
両手を合わせながら、
叫び続けていました。
その状態が
約1時間続きました。
今でもよく
生きていたなと
思います。
あんな体験に
見舞われると、
人間という存在が
大自然の中では
いかに小っぽけなものか
を、
いやがうえでも
感じざるを得ません。
と同時に、
私を死なせずに
生かしておいてくれた
大自然に感謝と同時に
私には何かこの世の中で
すべきことがあるのでは
ないか?
という「自然な」問いが
湧いてきました。
大自然の中の
小っぽけな自分。
でもそんな
小っぽけな自分だからこそ
自然の一部の
自分だからこそ、
できることが
あるのではないか?
自分の人生を
真剣に考えるきっかけは
山々が
私にくれました。
・・・・・・
そう言えば今、
思い出しました。
初めて冬山で
南アルプスに入った
19歳なりたての山行。
北岳と対峙する
鳳凰三山の稜線で
私は滑落したのでした。
そこは
アイスバーンの
斜面でした。
ピキピキの
アイスバーン。
ツルッツルでした。
確か、
山仲間の一人が、
休憩時に
お茶のティーパックを
地面に落としたんです。
すると、
拾おうとした1秒後には
そのティーパックは
遥か彼方まで
滑り落ちているという、
そんなところで、
私は転んだのです。
荷物(ザック)は約30kg
ありました。
転んだ瞬間、
ピッケル(冬山用の杖)が
私の手から離れました。
私はピキピキの
アイスバーンの上に
見事な仰向けになり、
アイスバーンの上を
滑り出したのです。
冬山やったことのある
人であれば、
それがいかに絶望的な
状態かは
おわかりになると
思います。
実際にその場にいた
私の山仲間の目にも
その瞬間
「絶望」の文字が
浮かんだそうです。
私の滑るその先には
崖がありました。
恐らくその崖は
数十メートル以上の
規模があったと思います。
そこから落ちたら
一巻の終わりです。
私はアイスバーンの
上で、
自分の体を止める
あらゆる手段を
失っていました。
ところが。
なぜか、
崖まであと2〜3mという
ところで、
私の体はピタリと止まった
のです。
なぜ止まったのかは
いまだによく
わかりません。
その日、たまたま
私がテントを持ち運ぶ
担当でした。
そのため私の
アタックザックには
荷物が入り切らず、
ナップザックを上に
くくりつけていました。
そのナップザックが
引っかかってくれた
という見方もあります。
でも、
あのアイスバーンです。
それくらいのことで
止まるのだろうか?
と。
私はその時、
素直に
大自然に感謝
することにしました。
すぐそばで
見守ってくれていた
北岳に
感謝することに
しました。
本当はあそこで
終わっていた
私の人生。
大自然は
私の人生に
何らかの意味づけを
してくれた。
と、私は捉えることに
しました。
思えばあの時から
私は北岳が
好きになったのかも
しれません。
・・・・・・
今の私には
よくわかります。
この世に存在する
あらゆるものは
「人」
の意識の反映です。
「実在」が
「現象」となって
現れたもの。
北岳のあの
佇まいは、
私の心の中に
実在としてあった
「こうありたい」
「こんな自分になりたい」
という真本音の願いを
「カタチ」として
表現してくれた
最初に出会った「友」
だったのだな、と。
つづく
力のある人ほど、
「傲慢になってはならない」
という気持ちを大切にし、
「いやいや私は
まだまだです」
と言われる人が
多いです。
それはとても
謙虚な姿勢で、
私などは感心
するのですが、
しかし中には、
謙虚なあまり、
「私には力は
ありませんから」
とか
「私の力は
大したことは
ありませんから」
と本気で言われる
人がいます。
そういう場合、
私はいつも
「ちょっと待って
ください」
と、
止めます。
「あなたは
あなたの力を
もっと
認識された方が
よいですよ」
と、
ついつい生意気にも
申し上げてしまいます。
でも私は
思うのです。
そこに
力があるのに
「ない」
と言うのは、
逆に傲慢では
ないか?
と。
私は、
真の謙虚さとは、
「そこにあるものを
そこにあるままに
そのままに
受け止めること」
だと思っています。
どれだけ力があっても
自分一人では
何一つできないのが
私達人間です。
その事実。
それをそのまま
受け止める。
それが謙虚。
と同時に、
その中でも
自分特有の
素晴らしい力が
ここにある。
という事実。
それをそのまま
受け止める。
それも謙虚。
と私は
思います。
「私には
こんな力があります」
「でもこの
素晴らしい力を
どのように活用すればよいか
いまだに
わからないのです」
こういった人と
出会うと、
私は心の底から
応援したくなります。
なんて謙虚で
素直な人だろう、
と感動します。
・・・・・・
私は、
私が今、発揮できている
力が、
私特有のものであるとは
到底思えません。
私が発揮している
力は、
誰もが努力さえすれば
必ず到達できるもの
です。
これは私の
確信であり、
恐らく
真実です。
ですから私は
今の私のこの力を
誰もが発揮できるように
サポートしたいと
願っています。
私の力を
一言で言えば、
「人の真本音を
キャッチする力」
だと思います。
そしてその力を
養うためには、
「自分の真本音を
キャッチする力」
が必要です。
私はこれを
「セルフコーチング力」
と呼んでいます。
おかげさまで。
私は、
誰よりも
反応本音の分厚い人間
として
この世に生を
受けました。
私が私の真本音を
キャッチするというのは
かなりの
難易度の高さが
ありました。
しかし、
様々な人生の展開の中で
私は自分の真本音を
ダイレクトに感じ取る
ことができるように
なりました。
今でもこれはちょっと
奇跡に近いかな、
と思います。
よくあの状態から
自らの真本音に
たどり着けたなと
思います。
もちろんそれは
私一人の努力では
到底、成し得ませんでした。
出会った様々な人からの
ご支援やサポートや、
いやいやいや・・・
ご支援とかサポートじゃ
ないですね、
そんな生易しいものではなく、
命そのものをぶつけて
いただくような
関わりの中で、
ようやくにして
たどり着けたものでした。
そこで得たものは
あまりにも大きく、
今、目の前にいる
このAさんが、
どのようにすれば
自らの真本音に
たどり着けるのか?
が、
手に取るように
わかるようになりました。
これが私の
コーチング力でも
ありますが、
でもこのコーチング力も
含めて、
それはすべての人が
そう、
人類すべてが
この力をもともと持っている
ことが
よくわかります。
私が人を
変えてやる、
とか、
私が人類の可能性を
引き出してやる、
とか、
さすがにそんなことは
思えません。
が、
私には強く
感じられます。
多くの人達が
「変わりたい」
と願っていることが。
それは
願いというよりも
祈りに近いです。
それはあまりにも
強く、
その強さを感じ取れる
自分が今ここに
いるのであれば、
私は、
そこに向かいたい。
これが今の私の
意志です。
・・・・・・
人は何のために
生きるのか?
その答えは
それぞれの人が
それぞれ持っています。
人は何のために
生きるのか?
ではなく、
「私は何のために
生きるのか?」
こそが重要です。
ここに徹底的に
向かうことこそが
人の喜びであると
断言しても
よいかな。
この問いに
向き合わなくなった時、
人は
疲弊を始めます。
答えがわからなくとも
真摯にこの問いに
向き合い続ければ、
人は
なんとかなります。
何だかんだと
エネルギーは
湧き続けますし、
いつか必ず、
真本音と
つながるでしょう。
でも、
この問いと
向き合わない人、
この問いを
忘れてしまっている人
が、
なんと多い世の中か。
セルフコーチングの
最も根幹にある問いは、
これだと
思うのですけどね。
つづく
「迷う」ことが
いけないことであると
思わないでください。
私達の人生に
必須なものが
「迷い」です。
迷うべきときに
迷うべきものに
きちんと迷う
ことが
健全な生き方です。
真本音度合いが
高まったり、
意識の次元が
上がるということは、
迷いがなくなる
ということではなく、
迷いの質が向上する
ということです。
質の高い迷いとは、
迷うことそのものによって
エネルギーが高まり、
幸せ感が高まり、
自由を得られるものです。
質の高い迷いは、
答えが見えなくとも、
きちんと迷うだけで
私達は充足感を
得ます。
そして、
最も必要なタイミングで
「答え」が自然に
浮上し、
それにより
一つの殻を破り、
さらなる自由へと
自分を開放できます。
「迷いが出た」
「やった!私はまた
自分を開放できる」
というように、
「迷い」=「開放の瞬間」
とも言えるように
なります。
「良い迷いには
開放がセットでついてくる」
これが、
「迷い」の本質です。
・・・・・・
ただし。
すべての「迷い」が
良いわけではありません。
「良くない迷い」も
あります。
「良い」とか
「良くない」という表現は
あまりに短絡的ですが、
ここはあえて
わかりやすくこの表現で
進めます。
「良くない迷い」とは
一言で言えば、
「迷っているフリを
している迷い」
です。
本当は、
こんなことで迷う必要は
ないし、
本当は、
こんなことに本気で
迷っているわけでは
ないのに、
「私は迷っている〜!
私は苦しんでいる〜!
私はもがいている〜!」
とやり続けています。
なんでそんなことを
するのか。
その理由は
単純です。
現実と向き合いたく
ないからです。
今、本当に
自分が向き合わなければ
ならない「現実」から
逃げているのです。
逃げるための口実として
「迷っている自分を
演じている」
のです。
ただし、
本人の顕在意識は
本当にそこで迷っている
つもりになっています。
そして、
「迷うから進めない〜!」
という心の声が出ます。
実はこれが
「良くない迷い」の
特徴です。
もし、
「迷うから進めない〜!」
という心の声が出たら、
それは恐らく
「良くない迷い」
です。
その心の声は
進まない口実のために
生まれたものです。
本当に人生を
真剣に生きている人は
迷っていても
進もうとします。
迷いを
停滞の
理由には
しません、
決して。
「この迷いが取れてから
先に進もう」
というのは、
現実逃避の典型的な
パターン。
先ほども書きましたとおり、
本来の「迷い」とは
人生を加速させてくれる
ものです。
「迷い」があるからこそ、
先に進めるのです。
・・・・・・
反対に。
「迷い」そのものに
フタをしている人も
います。
「私はまったく
迷っていません」
と、
その人は言います。
言うだけでなく、
本人も本当に
そう思っています。
顕在意識では。
しかし、本当は
とても重要な「迷い」が
その人の中には
あります。
その「迷い」に向き合うことで
次のステージに
進めるのに、
それをしようと
していません。
これも、
典型的な
「現実逃避」です。
「迷い」にフタをし、
「私は迷っていない」
と自分を思い込ませ、
「だから
このままの私でいい」
と、
自分に言い聞かせ
続けています。
自分自身が。
そういった人ほど、
「私の人生は
充実しています」
とか
「私は毎日が
楽しいです」
など、
多くの前向きな言葉や
笑顔を見せるのですが、
残念ながら、
その人達には
足元がありません。
とても
フワフワした
空気感ばかりが
漂います。
地に足が
ついていないのです。
・・・・・・
なんか、
また今回もちょっと
キツイ言い回しに
なっていますが、
なんでこういったことが
わかるかと言うと、
以上に書かせていただいた
ことは、すべて
私の体験談でもあります。
昔の私のことを
私はついつい悪く
言ってしまうのですが、
昔を否定しているのではなく、
ただ、事実を
そのままお伝えしています。
私は、
「現実逃避のプロ」
でした。
今から
振り返りますとね。
ありとあらゆる
現実逃避の方法を
駆使して
生きていました。
ですから、
よくわかります。
「現実逃避」が
いかに
自分を閉ざしていくか。
いかに
自分を苦しめ続けるか。
・・・ということを。
そして、
昔の私ほど
ひどくはありませんが、
やはり多くの人達が
多かれ少なかれ
現実逃避のパターンを
繰り返しています。
開き直り、
そこから抜け出れば
本当に
楽になるのですが、
どうしても
「執着」
してしまうのですね。
何に「執着」するか
と言うと、
「自分以外の何か、誰か」
にです。
執着とは、言葉を換えれば
「依存」
とも言えます。
現実と向き合い、
迷いと向き合い、
次のステージに
進むということは、
そういった
「執着している対象」
「依存している対象」
を手放すことに
なります。
結果として。
そのことを私達は本当は
よ〜く理解していますので、
その執着・依存を
取り去りたくないのです。
もしくは、
執着・依存を手放すことに
恐怖を感じるのです。
・・・・・・
自分は今、
何に執着しているか?
の答えを
執着している今の自分が
見つけ出すことは
至難の業です。
それよりも
私達にとって大事なのは、
自分は今、
何に迷っているか?
を特定することです。
本当の「迷い」を
自ら見つけ出すことです。
この力がつけば、
人生は
本当に本当に
楽になります。
迷いを見つけ出す。
本当の迷いを。
これも
セルフコーチングの
基本です。
つづく
水深1mくらいのプールの水に
うつ伏せになって浸かり、
息ができなくなって
全身をばたつかせながら
「溺れる〜っ!」
とパニックになっている
人がいたとします。
その人の身長は
160cm以上はあったとします。
それを見ているあなたは
その人に対して
何を思いますか?
溺れるも何も、
ただ、そこに
立てばいいのに。
なんでその人は
立たないのだろう?
ちょっと冷静になって
足を下に向ければ
すぐに水底に足がつき、
スックと立ち上がることが
できるのに。
なんでそんなに
パニックに
なっているのだろう?
・・・恐らく
そう思いますよね。
で、もしそう思ったとして、
その人に対して
どうしますか?
その人を
どう助けますか?
「おーい!
そこは浅いよ!
立てばいいんだよ!」
と声をかけても、
その人の頭と顔は
水の中ですから、
声は届きません。
じゃあ私が
引き起こしてあげよう
として、
その人の所まで行き、
その人の身体を
抱きかかえて
立たせようとしても、
その人が本当に
パニクっていて、
あなたは
振りほどかれてしまった
とします。
どうしよう・・・?
このままではこの人、
呼吸困難のまま
死んでしまう。
ただ、そこで
立てはいいだけなのに、
こんな浅いところで
この人は死んでしまう。
どうしよう?
・・・と困っちゃいますよね。
側から見れば、
どうでもいいようなこと、
すぐに解決できるような
ことでも、
本人にとっては
命を失ってしまうかも
しれないくらいの
一大事。
その中で
パニックになり、
本当であれば
そんなところで死ぬはずのない
場所で、
命を落とそうとしてしまう。
実は。
こういう人が
世の中には
いっぱいいっぱい
いるのです。
実は。
私の現場の実感としては
9割以上の人が
この状態です。
つまり、
本来は悩む必要のない
場所で、
悩んでいる。
そして、
そこで悩み続けることで
自分の人生を
死なせてしまっている、
もしくは、
人生をふいにしている
のです。
水深1mくらいのところで
パニックになるのは
まだマシな方で、
喩えれば、
洗面器に水を張り、
そこに顔をつけて
「溺れる〜っ!」
とやっている人さえ
いるのです。
ほとんどの人の
その悩みは、
本当は
悩みではありません。
水から顔を
上げれば済むだけの
ことです。
しかしそれが
できない。
なぜでしょう?
答えは簡単。
自分と
向き合って
いないからです。
・・・・・・
皆さんもご想像の通り、
私もかつては
その「溺れる人」
でした。
私なんかは
ひどかったですね。
だって、
自ら地面に穴を掘り、
そこに
自ら水を入れ、
その中に
自ら入り、
「溺れる〜っ!」
ってやってましたから。
で、
人生はなんて
辛いのだ。
人間はなんて
辛いのだ。
・・・って
本気で思って
いましたから。
辛いのが人生。
辛いのが人間。
心の底から
そう信じていました
から。
今は
そういう自分のことを
単なる自己満足だったな
と笑えるのですが、
当時は
本人としては
真剣そのもの。
「それがすべて」
でした。
「それが現実」
でした。
本当は、
すぐに足がつくくらいに
浅いところにいるのが
「現実」なのに。
洗面器に顔をつけている
だけの状態であることが
「現実」なのに。
まったく
「現実」が見えなく
なってしまう。
それは
なぜでしょう?
答えは簡単です。
自分と
向き合って
いないからです。
・・・・・・
自分と向き合うことの
できない人は、
現実と向き合うことも
できなくなります。
現実と向き合えない
ということは、
人と向き合えない
ということです。
そうなると人は
どうなるかと言うと、
「妄想の世界」
に入り、
浸ります。
自分の妄想。
自分が勝手に
創り上げた
狭い世界。
そこに入り込んで
出て来れなく
なります。
いえ、本当は
目を開ければ、
その瞬間に妄想だと
わかるのですが、
その人は
目をずっと
閉じています。
そして、
自分は目を開けていると
思い込んでいます。
いえ、
思い込むというよりも、
そのように自分で
自分に
信じ込ませています。
そういった人を
救い出すことができるのは
本人だけです。
周りがどれだけ
何とかしようと思っても、
その人の耳には
何も聴こえません。
周りの人達の想いも、
届きません。
よろしいですか?
だいぶひどいことを
書いていますが、
多かれ少なかれ、
そういった状態にある人が
私は
9割以上いると
申し上げているのです。
9割以上です。
世の中、
おかしくなるはずですね。
誰も現実を
しっかりと見ずに、
自分の妄想に基づいて
次の現実を
創り上げているのです。
その結果が
今の世の中です。
・・・・・・
一人でも
この妄想から
抜け出さねば
なりません。
でも残念ながら、
自分が妄想していることに
気づくのは
自分自身です。
他者が
気づかせることは
まず、
できません。
私もそうでしたし、
そしてコーチとして
本当にたくさんの人に
「それは妄想です!」
と伝え続けましたが、
その声は、
ほぼ、
届きませんでした。
自分が
自分を
解放する。
それしか
ありません。
解放された状態が
「自由」
という状態ですが、
多くの人は今、
自由ではないのです。
なのに
自分が自由であると
妄想しています。
では、
私にできる最大のことは
何だろう?
その
私なりの答えが、
「自分と向き合う方法を
伝えること」
でした。
それにより
「自分と向き合う
楽しさを知る」
きっかけをご提供する
ことでした。
自分と向き合えば
向き合うほど、
人はどんどん
楽になります。
自由になります。
その幸せを
感じていただくために、
「向き合い方」
を
「スキル」
としてご紹介し、
「やってみると楽しいよ」
とお伝えし続ける
ことでした。
これが私のこの
十数年です。
そして、
自分と向き合う方法。
これを
「セルフコーチング法」
と呼んでいます。
つまり、
セルフコーチングとは
妄想を取り払う方法。
妄想の世界から
自分を
解放させる方法です。
それは、
その人本人にしか
できないことなのです。
つづく
例えば、あなたが
とてつもない挫折を
したとします。
挫折、まではいかなくても、
心の状態が悪く、
後で振り返って、
とても無為な毎日を
過ごし、
後悔したとします。
そこからようやく
立ち直れた時、
あなたは
何をしますか?
挫折をした自分、
無為な時間を
過ごした自分。
つまりは
ちょっと前の過去の
自分に対して、
あなたは
何をしますか?
無視をしますか?
それは
なかったものとして
前に進みますか?
もしくは、
否定をしますか?
あんな自分は
ダメだったと、
否定をして
そうではない自分として
次の一歩を
進もうとしますか?
私があなたに
お勧めするのは、
その
どちらでもありません。
私が
あなたにお勧めするのは
『チャンククロス』
です。
・・・・・・
「チャンク」とは、
一つの塊を意味します。
例えば、
一つの発想。
一つの経験。
一つの理論。
一つの概念。
一つの願い。
一つの意思。
つまり、
一つ一つの存在。
あなたの中にある
存在。
それを
「チャンク」と言います。
「クロス」とは
織り交ぜること。
紡ぐこと。
すべてを
合わせ融合させる
ことを言います。
要するに、
「チャンククロス」
とは、
二つ以上の塊を
織り交ぜたり
融合させること
です。
もっとわかりやすく
言えば、
「そこにあるものを
すべて大切にする」
ということです。
例えば、
あることに関して
AさんとBさんの
意見が食い違っていた場合、
Aさんの意見が正しいか?
Bさんの意見が正しいか?
どちらを選ぶか?
というような展開に
なりやすいです。
しかし「チャンククロス」とは、
「そのどちらもを
大切にしたら、
どのような発想が
生まれるか?」
を自由発想することを
言います。
それは、
AさんとBさん
でなくてもよいです。
例えば、自分の心の中の
様々な発想、
別々の発想、
時には、相反する発想
について
チャンククロスすることも
面白いです。
例えば、
仕事において、
・質を優先させるか?
・効率を優先させるか?
という葛藤が
あったとします。
質を優先させようと
した場合、
時間をたくさん食って
しまいます。
効率を優先させようと
した場合、
質の低下が
起こり得ます。
どちらを優先するか?
を考えた場合、
よく言われるのが
「そのバランスが
大事です」
と。
しかし私は
知っています。
バランスを取ること自体は
とても大事なことですが、
「バランスを取ろう」
と意識すればするほど、
それは
「妥協」
につながると。
そして
「妥協によるバランス」とは
本当のバランスとは
程遠いことを。
ですから私はよく
コーチとして、
「バランスなど
取らなくていい」
という言い方をします。
もちろん
本意ではありません。
バランスは大事です。
でも、
思惑ではバランスは
取れないのです。
そこで私が
いつもお伝えするのが
「チャンククロス」
です。
・質を取るか?
・効率を取るか?
ではなく、
そして、
その二つのバランスを
取るのでもなく、
その二つを
両方とも、
徹底的に大事にしよう!
とすると、
どのような発想が
浮かびますか?
ということです。
この問いを
追求することが
チャンククロスの
本質です。
つまり、
こっちが60%で、
こっちが40%で、
というバランスを取る
のではなく、
「両方を100%にしよう」
とすることです。
この発想をすることで
初めて、
私達は
「次元の壁」
を突破できます。
つまり、
一つ上の次元に上がり、
これまで観えていなかった
高みからの答えを
得ることができるのです。
その答えは、
現実の展開の仕方を
根こそぎ
変化させる力を
持っています。
・・・・・・
AかBか?
でははなく、
両方ともを
徹底的に
大事にすることで
どのような発想が
生まれるか?
これが、
「チャンククロス発想」
です。
そう捉えた上で、
最初のお話に
戻りましょう。
あなたは
挫折をしたり、
無為な時間を過ごして
後悔した自分に対して、
ちゃんと、
チャンククロス
していますか?
挫折した自分を
無視するのでもなく、
否定するのでもなく、
そんな自分と
そんな経験と
これからの未来を
「チャンククロス」
させてみるのです。
すると、
「その経験が
あったからこそ」
得られた、
「果実」に
気づくでしょう。
あなたのその「経験」は
あなたにたくさんの
「果実」を
すでに
もたらしているのです。
せっかく
挫折したのです。
せっかく
無為な時間を
過ごしたのです。
それを経たからこその
「果実」に
ぜひ気づいてください。
その果実を
ぜひ、ちゃんと
摘み取って、
未来の次の一歩に
活かしてください。
その「果実」は
間違いなくあなたの
栄養素に
なりますから。
・・・・・・
「チャンククロス」
これも
セルフコーチングの
基本です。
つづく
自分の真本音に
本当に素直になって
生きる人と、
もう一人別の
自分の真本音に
本当に素直になって
生きる人が、
出会うと、
そこには
完全なる調和
が生まれます。
本当の素直さ、
つまり、
真本音レベルの素直さ
は、
完全なる調和
を生み出します。
そしてもし、
反応本音レベルの
素直さで生きる人と
もう一人別の
反応本音レベルの
素直さで生きる人が
出会うと、
そこには、
反応の嵐が
起こります。
それは多くの場合、
混乱や戦いや障害や
妨害のし合いとなって
現れます。
同じ素直さでも
それが
反応本音レベルのものか、
真本音レベルのものか。
それにより、
現実は
真逆の展開になります。
そしてもちろん、
本当の素直さとは
真本音レベルの
ものであり、
本当に自分に素直に
生きる人とは、
自分も
周りも
楽に、そして幸せに
できる人なのです。
・・・・・・
セルフコーチング
とは、
自分の真の素直さを
喚起するものです。
自分に素直に
なるために
行なうのが
セルフコーチング
です。
そしてその素直さは、
先ほども書きました通り、
周りとの調和を
生み出します。
では、
セルフコーチングの
基本とは
何だと思いますか?
例えば、
自分自身に
良い問いかけを
することだと
思いますか?
もちろん
それも大事です。
でも、
もっと大事なことが
あります。
それは、
『何もしない時間を
過ごすこと』
です。
それは
「空白」
の時間です。
「スペース」
とも言います。
まずはたった
5分でも良いですから、
何もしない時間を
作ってみてください。
5分間、
ただ、ボーッと
してみてください。
できますか?
ここで
ボーッとできる人は
かなり
素直に生きている
人です。
でも多くの人は、
これ自体が
難しいのでは
ないでしょうか。
ボーッとしようとしても、
いろんな心が
渦巻いてしまう。
ついつい
仕事のことを
考えてしまう。
あれやこれや
心がざわめいて
落ち着かなく
なってしまう。
今、悩んでいることを
思い出し、
モヤモヤしてしまう。
・・・そんな人が
多いのではないでしょうか。
それは、
素直に生きていない
証拠です。
残念ながら。
いつも
真に素直に生きている人は
ボーッとしようと
思ったら、
すぐにその場で
ボーッとできます。
なぜなら、
心が、・・・というよりも
魂が
静かだからです。
魂が静かな人は、
すぐに
「スペース」を
創り出すことが
できるのです。
人は、
どれだけ強い悩みを
抱えていても、
それが
真本音で進む道ならば、
魂は静か
なのです。
もし
魂が静かでないのであれば、
自分自身が
何らかの変化を
せねばなりません。
今の自分のままでは
ダメなんだよ、
という魂からの
メッセージです。
それが、
ボーッとできない
ということです。
ボーッとできないのは
魂からの
メッセージです。
魂は、
今の自分の生き方
在り方を
嫌っているのです。
・・・・・・
セルフコーチングの
基本は、
スペースを作ること。
それができて
初めて、
良い問いかけが
機能します。
きちんとした
スペースもない状態で
自分に
何を問いかけても
真本音の答えは
決して
浮かび上がっては
きません。
まずは
何もしない時間を
作ってください。
どれだけ心や魂が
ざわめいたとしても、
それでも
何もしない時間を
作ってください。
そして、
その、ざわめく自分を
ただただ
あるがままに
観察してください。
まずは、
すべてを
観察することです。
もしどうしてもそれも
難しい場合は、
鏡を使います。
鏡に自分の顔を
映し、
自分の目を
見続けてください。
それすらも
難しい人がいますが、
ここはちょっと
がんばりましょう。
実は、
私も昔は、
鏡に映る自分の目を
見続けることが
できませんでした。
それだけ自分と
向かい合うことが
できていなかった
のですね。
でもこれは
慣れるしか
ありません。
鏡の中の自分の目を
見つめ続けることで、
スペースを
築きましょう。
もし、
たくさんの心の
ざわめきや
心の声や
心の叫びが
浮かんでも、
それもそのまま
観察します。
鏡の中の自分の目を
見つめながら
それをすれば
比較的短時間で
心や魂は
静まっていくと
思います。
どうしても
静まらなくても、
ここは頑張って
続けてみてください。
これが最も
簡単な方法ですから。
自分の人生に、
自分の毎日に、
まずは
スペースを
設けましょう。
それが
セルフコーチング、
つまり
自分と向き合う
基礎の基礎です。
つづく
あなた自身がまだ
一度も見たことのない
あなたに備わっている
見えない力は
何だと思いますか?
そんな風に
問われても、
見えない力なので
見えるはずは
ないですよね。
でも、
どうでしょう。
上記の問いを
とても純粋な心で、
自分自身に
投げてみると・・・。
自分でも
まったく予想もしない
答えが
心の奥の方から
浮かんできませんか?
セルフコーチングの
基本とは、
「自分ではもう
答えはわかりきっている
と思っていることに関する
問いを、
純粋に自分自身に
投げてみる」
というところにあります。
そして、
純粋に投げた後は、
純粋に
「待つ」
のです。
何らかの答えが
浮かび上がって
来るのを。
いやいやいや、
答えはわかってるから。
・・・とは
思わないでください。
頭の中で答えを
考えるのと、
純粋に自分に問い、
純粋に答えを待つ
のは、
本質的にまったく異なる
行為なのです。
喩えて言えば、
地面に立って
そこから見える景色を
見るのと、
スカイツリーの展望台に
登って、
そこから景色を眺める
くらいの違いが
あるのです。
同じ東京にいても、
まったく見える景色も
視野の広さも
視点の角度も
異なるのです。
・・・・・・
いつも申し上げる
ことですが、
私達の心は
宇宙のように
広くて深い
です。
ここまでの人生で
見えるようになった
自分の心を
自分のすべてだと
思い込むのは
あまりにもったいないです。
もったいない、
というよりも、
そんな思い込みは
あまりに愚かです。
自分の素晴らしさを
本当の意味で
知っている人など
一人もいません。
そんな人と
出会ったことは
ありません。
私も含めて、
恐らく一人もいないのだと
思います。
それが私達
人間の特性の一つです。
自分自身が
未開拓。
自分自身が
未知の世界。
それが
私達人間です。
自分のことは
自分が一番
わかっている。
・・・これこそが、
傲慢さの根幹に
来るものです。
・・・・・・
例えば。
あなたの
人生の目的は
何ですか?
と問われて、
明確に答えられる人が
何人いるでしょうか。
しかし、
人生の目的は
すべての人が
持っています。
自分の胸の内に
大切に大切に
抱いています。
人生の目的を
持っていない人は
一人もいません。
それが
真実です。
しかし、
であるにも関わらず、
その最も重要な問いにさえ
答えられる人は
ほとんどいない。
私達は
自分のことを
知らなさ過ぎです。
・・・・・・
私は
企業サポートに入る場合、
必ずその第一日目に
ある研修を行ないます。
それは、
真本音と反応本音の
概念をお伝えする
研修です。
そして、
それぞれの方の
真本音のキーワードを
掘り起こすセッションを
します。
そのために
丸一日を使って
自分自身と向き合う
ことをします。
23問の問いを
私は皆さんに投げます。
問いを受けながら
自分と向き合い、
そして自身の
真本音のキーワードを
言語化します。
それにより、
ほとんどの皆さんの
真本音度合いが
大きくアップするのですが、
多くの方が
研修後に
おっしゃるのです。
「こんなに自分と
向き合ったことは
ありませんでした」
と。
丸一日と言っても、
研修時間はだいたい、
6時間とか7時間
です。
そのうち、
セッションの時間は
半分くらいです。
多くても
3分の2くらいです。
つまりは
多めに見ても、
4時間くらい。
たった4時間。
それだけで、
「こんなに自分と
向き合ったことは
なかった」
となりますし、
「自分の中に
こんな想いがあるとは
思いもしませんでした」
となります。
いったいこれまで
何年、
何十年、
生きてきたのでしょうか。
その中の
たったの4時間。
それだけで
人生が根本的に
変わってしまう
気づきを得る
人もいるのです。
いやいやいや。
研修の場だけではなく、
普段からもっと
自分と向き合い続けましょうよ、
というのが、
私の皆さんに対する
本音です。
自分と充分に
向き合わずに
人生を生きる。
・・・なんと
もったいなく、
愚かなことか。
そんなの本当に
自分の人生なのか?
とさえ
思います。
まぁ、
以前の私も
人のことはまったく
言えないのですが。
・・・・・・
最近、
ブログの内容が
セルフコーチングっぽく
なってきましたね。
という声を
いただきます。
特に意図している
わけではないのですが、
そんな方向に
なっていますね。
恐らくですが、
今の世の中の潮流は
「セルフコーチング」
を求めています。
自分としっかりと
向き合いながら
人生を進める、
という方向に。
そんな潮流を
私は恐らく
感じています。
ということは、
今後のこのブログも
ますます
セルフコーチング系の
内容が
多くなるのかな?
と同時に、
セルフコーチング系の
講座やセミナーも
これからは
増やしていこうかな、
と考え始めています。
どうせなら、
これまでにない
新しい講座を
生み出したいですね。
つづく
今日、
ある人との出会いが
ありました。
その人は、
自分のことを
まったくわかっていない、
そんな人でした。
燦然と輝く
深くてとてつもなく明るい
パワーを持っているのに、
それに
まったく気づいていない。
そしてその光とは
真逆な人生を
送ってしまっている。
そんな人でした。
でも、
その人から送られてくる
真本音メッセージ。
それをキャッチし、
その人の
真本音の鏡となって、
その人が自らに対して
贈ろうとしていたメッセージを
そのまま
私はフィードバックしました。
すると、
その人の中に
まだ眠っていた輝きが
あっという間に
燦然と輝き出しました。
とは言え、
本来のその人の輝き
からすれば、
まだまだ
1000分の1。
でも、たとえ
1000分の1だとしても、
確かに
その人の輝きは
漏れ始めました。
溢れ
始めました。
まぁ・・・。
よくあること。
いつものことです。
みんなそうです。
みんなそうだし、
よくあること
なのですが・・・。
このような瞬間には
何千、何万と
出会ってきたのですが・・・。
それでもやはり、
泣けますね。
その人が
もともと持っている
本来の輝き。
それが
溢れ出す
その第一歩。
それは、
何度味わっても
やはり、
深い。
深い感動です。
・・・・・・
家に帰ってから、
ふと、
私の中に
『月』
が浮かんできました。
あぁなんか
懐かしいなぁ、と
思いました。
月・・・。
16年も17年も前。
それまでの私は
自分自身が
「太陽」になろうと
していました。
しかし
その「太陽」の光は
自分の本来の輝きでは
ない、
自分の本来の望みでは
ない、
そんな輝き方を
したままに
人に向けられて
いました。
その中で、
私は当時の人生の
ほぼすべてを
失うことになりました。
そしてその中で、
『真本音』
と出会いました。
人生のあまりの
苦しさに、
大袈裟ではなく
本当に
気が狂ってしまう直前に
自分の中の
真本音に気づかせて
いただきました。
そこから
人生が一変し、
自分が何をすればよいのか、
が
自分の光をどのように
活用すればよいのか、
が
一気に観え始めました。
今の私の
研修やコーチングの
スタイルは
その当時に始まったものです。
で・・・。
ふと、その当時に
自分が書いた文章が
確か、あったなぁ、
と思い出しました。
古いパソコンのデータの
中を探してみると、
ありました。
「私は月でありたい」
と書かれていました。
ちょっと
当時のその文章を
以下にそのまま
転載します。
・・・・・・
世界を変えるには
世界を変えようという
人間の意志が必要であり
その意志は
無理矢理に捻り出されたものではなく
自然に湧くものでなければならない
つまり
「私は世界を変えるために
世界一のリーダーになりたい」
という広大な夢を
自然に抱いてしまっている
根っからのバカ共を
私はサポートしたい
凄い奴らを
さらに10倍に凄くしたい
彼らを燦然と輝かせる
月でありたい
Moon of Your Wish
・・・・・・
なんか、
それこそ非常に
肩に力の入った
文章ですが、
でも本当にこれを今日、
ふと思い出したのです。
で、
これが私の願いの
原点だったな、と
改めて思い出しました。
文章の最後に
Moon of Your Wish
という言葉が
書かれてありますが、
私には似合わず
英語の言葉が
確か、その時自然に
浮かんだんですね。
で、当時の私は
この最後の一言を
じっと眺めていました。
Moon of Your Wish
頭文字を取ると
MYW。
MYW.
MyW。
おお、
My Wing。
マイ・ウィング。
・・・ということで、
当時は
マイ・ウィングという名前の
有限会社を
立ち上げたのでした。
私が
自分自身の真本音と
出会って最初に
創り出した一つの形。
それが、
マイ・ウィング
という会社。
「私の翼」。
そして
「あなたの希望を写す月」。
そんな願いを込めて・・・。
あぁ、
これが原点だったな、
と。
恐らく、
今日出会ったその人は
かつての
私自身だったのかも
知れませんね。
つづく
今のあなたにとっての
「現実」
とは何でしょうか?
その象徴的なものを
一つ選ぶとすれば
それは何でしょうか?
この質問を
私のクライアントさんに
してみてました。
あるクライアントさんは
答えました。
「それは、
鏡に映った私の顔です。」
また別のクライアントさんは
答えました。
「それは、
会社の数字です。」
さらに別のクライアントさんは
答えました。
「それは、
家族の笑顔です。」
さらにさらに、
例えば、・・・
「我社の社員達の
ムードです。」
「今年になってひどくなった
腰痛です。」
「お金です。
銀行の残高です。」
「自分と向き合う人の
表情です。」
「自分のスケジュール帳に
書かれた予定です。」
「最近出てきた
白髪です。」
「妻からの
ありがとう、です。」
「机の上に溜まった
書類の束です。」
「息子の成長する
姿です。」
・・・などなど。
人によって
「今の現実の象徴」
は異なるでしょう。
あなたにとっての
それは
何でしょうか?
一つ特定してみて
ください。
・・・・・・
その
「今の現実の象徴」
が決まったら、
そこに100%の意識を
向けてみてください。
他のことは
何も考えない。
そのことだけを
考える。
もしくは、
イメージします。
100%、その「象徴」と
向き合った時、
その「象徴」から
あなたは何を
受け取りますか?
その、受け取ったものは
どんな「感覚」がしますか?
感覚に敏感になってください。
その、
受け取った感覚を
あえて言葉で表現すると
それは、
「Yes」
に近いものでしょうか?
それとも、
「No」
に近いものでしょうか?
つまりは、あなたは
その「現実の象徴」から
「Yes」
と言われているでしょうか?
「No」
と言われているでしょうか?
それを判別
してみましょう。
面白いことに、
たとえ現実が
上手くいっているとしても、
「No」
を感じる場合があります。
逆に、
現実が上手くいっていなかったり、
大変厳しいものだったとしても、
「Yes」
と言われているように
感じる場合もあります。
「Yes」か「No」か?
これは実は
とても重要です。
「No」を感じる場合は、
あなたは
今の「現実」から
「No」を
突きつけられているのです。
つまり、
「今のままではいけないよ」
と言われているのです。
それは
「今のあなたの生き方では
いけないよ」
ということです。
「あなたは変わらなければ
ならないよ」
ということです。
物事がどれだけ
上手くいっていたとしても
「No」は「No」なのです。
ここにもし
早く気づくことができて
しかもその「No」を
素直に受け取ることが
できれば、
その人は、
大したものです。
逆に、
現実が厳しく、
思ったように進んでいなくても
もし「Yes」を受け取ったしたら、
どれだけ物事が
上手くいっていなくても、
「Yes」は「Yes」です。
あなたは
最善を尽くすことが
できているのです。
最善を尽くす、とは
本当にやろうと思うことを
きちんとやり、
やってはならないと
思うことを
決してやらない、
という選択が
日々、できているという
ことです。
それが、
真本音でできている
ということです。
それであるならば、
このまま最善を尽くし通せば、
必ず道は
開かれます。
・・・・・・
どちらにしても
大切なのは、
『現実と向き合う』
ことです。
100%正面から
向き合うことです。
現実と向き合うのが
辛い。
・・・のだとしたら、
それは、100%でない
からです。
中途半端が最も
辛いです。
開き直って
100%向き合えば、
楽になります。
私達の真本音は、
現実と向き合うことを
常に願っています。
それができる自分であれば、
真本音は必ず
発動します。
逃げれば
真本音はそっぽを向き、
開き直れば
真本音は発動します。
極めて単純です。
真本音が発動すれば、
何がどうあっても
道は開かれます。
つづく
自信のある人ほど、
そろそろ
「自分の論理」を
超えましょう。
これまで
培ってきた経験、
と
経験からくる智慧、
そして
智慧に基づいた
必勝パターン。
それらを今は、
壊すときです。
これまでは、
それをすることは
人として
極めて難易度が高く、
素晴らしい経験と
素晴らしい智慧を
持った人であればあるほど、
「その先」に行くことが
ほぼ、不可能でした。
ところが今は、
本当に
変わったようです。
それは
「時代が変わった」
という表現をすれば
普通ですが、
私なりの表現を
ダイレクトにさせていただければ、
「実在が変わった」
ということになります。
私達の「実在」。
つまりは心の中の世界。
それらは深いところでは
すべてが繋がっています。
そして、
深くなればなるほど、
次元が高まります。
その、
高い次元における
私達の実在の世界の
様相が、
大きく大きく
変わったのです。
しかも
短期間に。
いえ、
正確に言えば、
それは決して「短期間」ではなく、
長い長い準備と
試行錯誤を経て
きたのですが、
「よし、もう変わってよし!」
というレベルまで来て、
変わる決断をしてからが
速かったです。
一気に様々なことが
変わりました。
根本的に。
その変わりようを
一言で表現するならば、
「実在の世界は
以前とは比べものに
ならないくらいに
安定した」
ということになります。
「実在」が安定すれば
もう怖いものは
ありません。
「実在」という
土台の上で
私達は思う存分、
私達自身を
演ずればよいのです。
自分の
本当に望むものを
ダイレクトに
望み、
自分の本当に納得できる
一途を
ダイレクトに進めば
よいのです。
これまでのあなたの
「必勝パターン」は、
まだ、「実在」が
不安定だった頃に
培ったものです。
つまりは、
だいぶ自分自身を
抑えながらも、
慎重に様子を見ながらも
前に安全に進む
方法だったのです。
ひょっとすると、
先日書かせていただいた
「真本音優柔不断タイプ」
とは、
そういった
自分を抑えながら進んでいた
人達のことを
言うのかもしれません。
自信がある、
ということは、
これまでのこの世においては、
「上手く進める自信がある」
ということでした。
失敗せずに、
自分は「実在」が不安定な
世の中においても
上手く進む自信がある、
というのが
根本的な「自信」でした。
しかし、
その自信と
その経験に基づいて
先に進むことは、
これからの世界においては
「スピードダウン」
に直結します。
これまで上手くいったことが
上手くいかなくなるどころか、
根本的に何かがおかしい、
根本的に
不調和が起き続ける、
という現実を
起こしやすくなってしまいます。
ですから、
私は強く申し上げます。
自信のある人ほど、
その自信というエネルギーを
「これまで培った
必勝パターンを
壊す」
方向に
使ってください。
あなたになら
それができるはずです。
・・・・・・
そのための準備として
以下のことを
してみてください。
まずは
自分の全身に
意識を向けてください。
自分の
等身大を感じて
ください。
それができたら、
自分の等身大から
一歩だけ
後ろへ抜け出てください。
自分の体を
背後から
見ている感じになります。
自分の等身大から
抜け出たら、
抜け出た今の自分を
「私は真本音である」
と認識してください。
そして真本音である
自分自身を
好きなだけ
巨大化させてください。
巨大化すればするほど、
目の前にあった
自分の等身大の体が
小さくなっていくはずです。
小さくなってしまった
自分の体を
よく見つめてください。
その小ささが
これまでの
あなたです。
これまで
あなたが培って来た
経験による智慧とは
そんなちっぽけな
ものなのです。
あなたが
そんなちっぽけな
ものの中に
い続ける理由は
もはや
ないのです。
今の真本音の
あなたのような
その巨大さこそが
あなたの
「真の等身大」
です。
それをよく
実感したら、
あなたの体の中に
戻ってください。
そしてこれからは、
自分の背後に
「真の等身大」の自分が
いることを
感じながら、
日々を過ごしてみて
ください。
「真の等身大」を
感じ続けることで、
あなたは自然に
これまでのあなたを
壊し、
脱皮をすることが
できます。
ぜひ
お試しください。
つづく
私達は
世界の中に存在
しています。
「世界」
の中に
「私」
がいる。
これが普通の
捉え方です。
しかしあえて、
「私」
の中に
「世界」
がある。
というイメージを
してみてください。
するとあなたの
心は
どのように反応しますか?
そして、
あなたの中にある
その「世界」は、
どのように
見えますか?
それは、
輝きを放っていますか?
それとも、
暗く沈んでいますか?
それは、
生命を強く感じますか?
それとも、
ただの無機質な固体に
見えますか?
それは、
あなたにとって
居心地の良いものですか?
それとも、
居心地悪く、違和感ばかりが
ありますか?
それを、
あなたは育んでいきたい
ですか?
それとも、
自分はもう関わりたくないと
思いますか?
・・・・・・
実は、
「私」と「世界」は
本質的には
イコールのものです。
これまでお伝えしてきました
通り、
高い次元においては
「私」も「世界」も
一つですから。
ですので、
「世界」をどう捉えるか?
「世界」に対して
何を感じ、どうしたいのか?
は、
「自分」をどう捉えているか?
「自分」に対して
何を感じ、どうしたいのか?
と
まったくもってイコールなのです。
「私は、世界を育むなんて
考えたくもない。
世界とはもう関わりたくない」
と思ったとしたら、
それは、
「私は、自分自身を育むなんて
考えたくもない。
自分(の人生)とはもう
関わりたくない」
と言っているのと
同じです。
もちろんそれは、
無意識にそう思っている
ということですけどね。
・・・・・・
では次に。
あなたの中の
その「世界」を
あなたの左手の平に
載せてください。
そして、
右手の平で
「世界」を覆って
ください。
そのまま
30秒くらい
静かに待っていて
ください。
30秒経ったら、
右手の平を
外してください。
すると
「世界」は
どうなっていますか?
30秒前に比べて、
より輝いていますか?
それとも、
輝きは減ってしまいましたか?
30秒前に比べて、
より元気そうですか?
それとも、
元気は失われてしまいましたか?
生命力は
どうですか?
たくましさは
どうですか?
そして、
居心地良さは、
増しましたか?
減ってしまいましたか?
30秒前よりも
「世界」が良くなったな、
と認識できる人は、
今の自分の「生き方」に
納得をしています。
30秒前よりも
悪くなってしまったな、
と認識した人は、
今の自分の「生き方」に
自分自身が
納得していません。
つまりそれは、
自分の真本音の望む
生き方や進み方とは
別の毎日を
送っているということです。
その場合は、
まずはその事実を
自分でしっかりと
受け止めることです。
そして、
「自分は何を
修正すればよいのか?」
を
しっかりと考えましょう。
ひょっとすると
「修正」では済まない人も
いるかもしれません。
手の平で覆ったら、
「世界」が死んでしまった、
なんて人がいたら、
その人は、今の自分の生き方は
「生きているとは言えない」
とまで思っている
ということになります。
その場合は、
根本的に人生を
考え直さねばなりません。
・・・・・・
昨日の記事でも
書かせていただきましたが、
昨日の自分と
今日の自分と
明日の自分は
別個の存在です。
(→前回記事)
昨日の自分が
こうだったから、
今日の自分も
こうなのだ。
というのは単なる
思い込みにすぎません。
昨日の自分に
今日の自分が
合わせなければならない
いわれはないのです。
自分や、
自分の人生を変えることは
実は
とても簡単です。
次の一歩を
どうすればいいか?
それを
変えるだけだからです。
これまでは
右に行っていたところを、
今回は
左に行ってみよう。
たったそれだけのことで
人生はもう
変わり始めます。
人生が変わるということは、
あなたが感じている
「世界」も
変わるということです。
自分を変えることが
できるのは、
自分しかいないのです。
つづく
当たり前のように
私達は、
毎日24時間という一日を
過ごしていますが、
私はよく思うのです、
凄いなぁ、と。
何が凄いかと言うと、
自然の摂理
がです。
自然の摂理と言うと、
なんか大袈裟ですが、
でも、
凄いと思いません?
必ず24時間サイクルで
一日が終わり、
一日が
始まるのですよ。
どれだけ心の中が
荒れようが、
どれだけ悩もうが、
どれだけ叫ぼうが、
時間は同じスピードで
進み、
しかも必ず
「次の日」
が来るのですよ。
これって
凄いことだと思いません?
この世は
様々な「循環」「サイクル」が
成り立っています。
その上で
私達は生きています。
「循環」「サイクル」という
存在そのものが
私は凄いと
思います。
地球は太陽の周りを
回り続け、
一日は24時間周期で
延々と続いていく。
継続していく。
循環があるからこそ
継続があり、
循環があるからこそ
進化がある。
凄いなぁ。
誰がこんなものを
創り上げたんだろう、
と
よく私は一人で
感心しています。
循環の中においては、
どこを
スタート地点にし、
どこを
エンド地点にするか?
はその人その人の
自由です。
でも、
必ず「節目」は
あります。
「節目」があるからこそ、
私達は何度も
「再スタート」が
できます。
循環がなければ
このようなことは
できません。
ホントに凄いなぁ、と
思いますね。
・・・・・・
人生というのは、
「一日」と「一日」の
コラボです。
よく、
一日一日の積み重なりが
人生である
という見方もありますが、
実は私は
ちょっと違った見方を
しています。
以前にもこのブログで
書かせていただいたことが
ありますが、
この3次元の世界は
すべてが「分離」しています。
昨日の自分と
今日の自分と
明日の自分は
すべてつながっているように
見えますが、
実は、それぞれが
別個の存在です。
時間の流れの中に
生きるということは、
それぞれの時間における
別個の自分を
時系列に沿って
一つ一つ順番に体験している、
ということなのです、
わかりづらいかも
しれませんが。
つまり端的に言えば、
昨日の自分は
昨日の自分でしか
ありません。
今日の自分は
今日の自分という
一つの存在です。
明日の自分は
明日の自分という
独立したものです。
人生とは、
そういった時系列に沿った
別個の自分達の
コラボなのです。
昨日の自分と
今日の自分と
明日の自分の
コラボです。
大事なのは、
それぞれの自分達が
良いコラボを
することです。
それぞれの自分が
反発をし合って
エネルギーを
打ち消し合っている、
という
そんなことをしている人も
残念ながら多いのですが、
それは実に
もったいない話です。
一日一日の
コラボ。
そして、
一日一日の
統合。
さらに、
一日一日の
融合。
そんなことができれば、
人生の展開は
すさまじく加速します。
つまり、
人生とは
単なる一日一日の
積み重なりでは
ありません。
一日一日の
相乗効果を起こすことこそ
人生の醍醐味であり
面白さです。
・・・・・・
そのためのコツは
「昨日はこうだったから
今日はこうするしかない」
・・・からの
解放です。
昨日の自分によって
今日の自分を
縛らない、ということです。
昨日は昨日。
そして、
今日は今日。
毎日を
ゼロ出発させます。
ゼロ発想を
します。
そんなことをすると
ちゃらんぽらんな
毎日になるのでは?
と思う人も
いるかもしれません。
でも
まったく逆です。
きちんと
「ゼロ」から発想すれば、
「ゼロ」は「ゼロ」のままですから、
つまりは、
その人の「原点」ですから、
「原点」は変わりませんから、
「ゼロ」に戻れば戻るほど、
その人には
「一貫性」が生まれるのです。
そして、
昨日の自分と
今日の自分の
融合が自然に起こり、
かつ、
相乗効果が起こるのです。
昨日のあの事柄が、
まさかこんな展開になるとは!
という驚きと喜び、
想定外の感動、
そんなものが
頻発するように
なるのです。
私の言う
『真本音』とは、
その
「ゼロ(原点)からの意志(意思)」
とも言えるでしょう。
自らの真本音を知り、
自らの真本音に素直に
行動することで、
一日一日の自分のコラボが
次々に
成されて行くのです。
楽しいですねぇ。
昨日に縛られた今日。
・・・これは不自由です。
昨日に縛られない今日。
・・・そんな日々は
自由です。
真本音に生きる人は
自由なのです。
つづく
後悔とは
痛みです。
本当に深い後悔は、
私達の心に
深い痛みを刻むだけでなく、
ある意味、
本当に傷を残します。
心だけでなく、
魂にも傷を残すことが
あります。
その傷は
何かの拍子に
すぐに疼きます。
その疼きに耐えられず、
痛みから逃れるように
私達は次の自分の行動を
決定してしまいます。
痛みから逃げるための
行動。
それは反応本音レベルの
行動となります。
反応本音レベルの行動は
周りの人の反応本音を
喚起します。
反応と反応の
関わり。
反応と反応の
コミュニケーション。
反応と反応の
絡み合い。
それらの多くは、
ぶつかり合いや
混乱や
さらなる強い反応を
呼び起こします。
そしてそれらの多くは
「エンティティ」と
なります。
「エンティティ」
つまりは、念の塊。
日本語に訳すと
「生き霊」。
それが職場であれば、
エンティティの
溜まり場が職場
という最悪の状態になります。
それがどのような現実を
引き起こすかは
想像に難くありません。
たとえ、
最初はほんの小さな
後悔の念だったとしても、
それらが積もりに積もって
そのような状態にまで
至ることも
決して少なくはありません。
・・・・・・
後悔をしない生き方を
するためには、
何か「大きく後悔するような出来事」
を引き起こさないように
すればよい、
というものではありません。
そういった大きな出来事は
小さな一歩一歩の
積み重ねの結果として
「必然的に」
起こるからです。
小さな一歩一歩の
出し方を変える、
つまりは
「生き方」を
変えるしかありません。
例えば、
小さな嘘やごまかしを
すぐにしてしまう人。
その一つ一つは
小さな後悔しか
生みません。
しかしその後悔の念が
溜まることで
念は大きくなり、
心や魂に傷がつきます。
そしてある時に
必然的に
大きな出来事が起こり、
その傷が決定的に
なります。
たまたま起きる
出来事は
一つもありません。
すべては
「生き方」の結果です。
一歩一歩の
「生き方」が
すべてを決めるのです。
・・・・・・
真本音優柔不断タイプ
について、
そしてそこからの
抜け出し方について
前回まで書かせて
いただきました。
(→前回記事)
思った以上の反響を
いただき、
個別でのご相談等も
いくつもありまして、
少し驚いています。
みんなが言うのです。
「これ、
私のことでは
ありませんか?」
と。
実は、
私自身も文章を書きながら、
これはひょっとして
私自身のことでも
あるかも、
と思ったりもしました。
もしかすると、
今の私達は、
すべての人類は、
真本音優柔不断タイプだったか?
・・・などとも
思い当たりました。
本当は
誰も、
本当の決断をせずに
ここまで
歩いてきてしまったのでは
ないか、と。
だから、
今のような世の中に
なってしまったのでは
ないか、と。
その真偽はともかくとして、
「私は、
真本音優柔不断タイプでは
ないでしょうか?」
と言われた人の多くが、
誰がどう見ても、
すごい決断力を持っている
人達だったのが
笑えました。
そう考えますと、
これまでの自分は
真本音優柔不断タイプだったかも
しれない、
といいう捉え方をし、
だからこそ、
これからはもっともっと
素晴らしい決断をし、
もっともっと人生を
加速させよう、
という意志を持つことは
有意義なことではないかな
とも思います。
とにもかくにも、
すべては
今この瞬間に
自らが決断する
次の一歩、
次の一歩、
で決まります。
それが
真実であり真理
です。
ですから私達は
本当に
「今」
を大事に生きて
まいりましょう。
今、
真本音で
生きる。
やはり最後は
ここに行き着きますね。
つづく
後悔の念とは
向き合えばそれで
OKです。
後悔することで
そのまま自分を責め続ける
方向に行く人がいますが、
その必要はありません。
自分を責め続けたり、
罪悪感の中に
ドップリと浸かっても
自分も周りも誰も
喜びません。
ただ、
後悔の念だけを
しっかりと
味わいます。
それにより
強い刺激が入ります。
特にそれが
真本音レベルの後悔であれば、
その刺激は
自分自身の人生の願いへと
直結します。
しっかりと後悔するからこそ、
そうか、だから自分はこれから
人生において
これを果たしていこう!
という強い想いと共に、
まるで祈りにも似た願いが
湧き起こります。
その願いは、
願うという行為そのものによって
自分の魂も心も
癒してくれます。
自分の魂も心も
開放される感覚を得ます。
それこそが
「真本音の願い」です。
真本音の願いに
行き着いた人は
本当に幸せです。
なぜなら、
自分が何のために
生まれてきたのか?
自分の人生の意味は
何か?
自分という人間の
存在意義は何か?
自分はこれから何を
すれば良いのか?
自分はどこに向かえば
良いのか?
自分は誰と共に
進めば良いのか?
・・・などなど、
あらゆる答えが
「観える」
ようになるからです。
これほど、
私達を根底から安定させてくれる
ものはありません。
そして自分の内側から
パワーを漲らせてくれる
ものはありません。
しかしそこに行き着くためには、
多くの場合、
自分の中にある最大の後悔と
向き合う必要があります。
自分の中の
最も辛いものと
向き合える人は、
すべてと
向き合えるのです。
すべてと向き合えて
初めて、
真本音の願いは
浮上するのです。
・・・・・・
さて、
真本音レベルの後悔と
あなたが
向き合えたとします。
(→前回記事)
その先のステップを
ご紹介します。
真本音レベルの後悔と
向き合うことにより、
あなたの中の真本音は
これまでとは
比べものにならないくらいに
燦然と輝き出すでしょう。
それはまるで
新たな命が
宿ったかのようです。
新しい人生が
今ここから
始まったかのようです。
これまで見えていた景色が
まったく違ったものとして
目に映るでしょう。
結果として、これまで
価値を置いてきたことに
急に興味を失うかも
しれません。
逆に、
これまでまったく
興味も関心もなかったことに
急に価値を見出すかも
しれません。
それらの「変化」には
素直に自分を
委ねてしまいましょう。
「自分は
生まれ変わったのだ」
「ここから新しい人生が
始まるのだ」
と受け止めれば
よいです。
そして、
これまで真本音がまだ
「大地」だった頃に、
すべての行動を「大地」に
確認しながら決めていたように、
ここからも
すべての行動を
「真本音」に確認しながら
決めていきましょう。
遊び心を持ちながら、
で結構です。
一つ一つの自分の
行動、振る舞いのすべてを
頭で考えるのではなく、
惰性で行なうのでもなく、
丁寧に真本音に
問いかけるのです。
「次、何をしよう?」
「今から、これをしようと
思うけど、どう?」
「これをするか、あれをするか、
どちらがいいだろう?」
これを続けることで、
自分のこれまでの
行動パターンが
短期間で壊れていきます。
それはもう
壊してしまってください。
これまでの行動パターンは
すべて、
「優柔不断に生きるため」
のものであったと
あえて
断定してください。
自分を変える、とは
このように
自分の「今、ここ」における
一挙手一投足を
変えていく、
ということなのです。
自分を変える、とは
何かを一気に大きく変える
わけではないのです。
「次の一歩」
「次の一歩」
を一つずつ丁寧に
変えていくだけなのです。
一つ一つを
すべて真本音の通りに
変えることで、
これまでのパターンが
自然に崩れ、
真本音の願いに向かう
自分自身に
だんだんと近づいていきます。
それは
自分にとっては
とても幸せなことです。
真本音の望む通りの
行動を取っている自分。
・・・これが
自然体になっている
ということです。
こういったことを続ければ、
いつしか、
真本音にわざわざ
確認せずとも、
普通に行動すれば
自然に真本音通りに動ける自分に
なっているでしょう。
「本来の自分」に
戻っているでしょう。
そうなって初めて、
私達の中からは
『真の本気』
が湧き出ます。
それこそが
あなたの本当の
姿です。
つづく
昨日の続きです。
真本音優柔不断タイプの人が
自らを解放し、
本来の自分に戻るためのステップを
ここまで、ご紹介してきました。
「最も強い自分の心」を
自分の体の中に
入れ、
そしてそのことにより、
それはその人の
『真本音』
となりました。
つまり、
「真本音を取り戻す」
ことができたのです。
これが昨日までの
ステップです。
(→前回記事)
真本音を取り戻すことが
できましたので、
ここからは
「真本音との対話」
が始まります。
しかしちょっと
待ってください。
その前にどうしても
行なっていただきたいことが
あるのです。
・・・・・・
それは、
「後悔と向き合う」
ことです。
真本音を取り戻した
今だからこそ
できることです。
人は、人生において
本当にたくさんの
後悔を
繰り返します。
その多くは
反応本音レベルのもの
です。
反応本音レベルの後悔
とは、
それを乗り越えることで
自分の成長に
つながります。
つまりは、
乗り越えられるもの。
それが
反応本音レベルの後悔
です。
しかし
いかがでしょうか?
あなたには、
乗り越えられない後悔が
ありませんか?
その後悔からは
逃げたいばかり。
ですからずっと
心の片隅に
それを隠してきました。
記憶の彼方に
それを
取り残してきました。
そんな後悔は
ありませんか?
一言で言えば、
「耐えられない後悔」
です。
「思い出せない後悔」
です。
思い出せないような後悔について
「ありませんか?」と
問われても、
思い出せませんよね、きっと。
しかし、今、
それを思い出して
ほしいのです。
そしてその後悔と
向き合ってほしいのです。
それは
「真本音レベルの後悔」
です。
真本音レベルの後悔は
本当に、
キツイです。
なぜなら、
それは、
自分の心が耐えられる範疇を
逸脱しているからです。
しかし私達の真本音は
わざと自分に
そういった後悔の経験を
させることがあります。
なぜなら
それだけの経験をするからこそ
初めて見つかるものが
あるからです。
それは
「真本音の願い」
への道です。
真本音レベルの後悔を
するからこそ、
真本音の願いへの
道のヒントを
私達は得ることができるのです。
真本音とは
魂の意志である、
とも言えます。
魂そのもの
とも言えます。
真本音を取り戻す
ということは、
あなたの中に魂が
戻ってきたということ。
ですから、
心の視線ではなく、
魂の視線で
耐えられなかった後悔達と
向かい合ってください。
それができた時に
初めて、
あなたの真本音(魂)は
あなた自身に
「OK」
を出すはずです。
そうか、自分はもう
本気で進める自分に
なれたのだな。
自分はもう
真剣に生きる覚悟を
持てたのだな。
そのように
真本音が自ら
判断するのです。
その「判断」が、
自分を解放する
必須条件となります。
・・・・・・
あなたの中に
戻ってきた真本音の場所を
今一度、
特定してください。
ここに確かに
私の真本音は
存在するな、
という実感を
しっかりと得てください。
その上で、
その、自分自身の真本音に
問うてください。
「私の、真の後悔とは
何だろう?」
「君が私に与えた
後悔とは何だろう?」
そして、
あとは静かに
待ってください。
自然に思い出せること
があると思います。
ひょっとすると
心に強烈な抵抗が
走るかもしれません。
しかしその場合は、
自分の真本音(魂)にのみ
意識を向けてください。
泣きたくなれば
泣けばよいです。
わめきたくなれば、
毛布でもかぶって
ご家族などに迷惑をかけないように
わめいてください。
これをしっかりと
行なうことです。
ゆっくりと時間の取れる時に
じっくり行なってみて
ください。
今すぐにやらなければ
ならない、
とか
今日中に完了させねば
ならない、
とか
慌てる必要はありませんので、
「今やろう」
と思えた時に
ぜひ行なってください。
これが完了すれば、
真本音との対話は
随分とやりやすく
なるはずです。
つづく
私達の心の中には
いくつもの願いが
浮かんでは消えていきます。
達成されることで
成就し消える願いもあれば、
達成せずとも
自然に消えてしまう願いも
あります。
願いを持つのが
私達人間の宿命。
願いに生きるのが
人間の本質です。
ただ、
その願いの中で
何があっても、
自分がどれだけ成長しても、
どのような経験を積んでも、
環境がどのように変わっても、
まったく揺るがずに
心の中心に在り続ける
願いがあります。
それは
心の中にある願い
と言うよりも
魂の中に抱いている願い
と言った方が
良いかも知れません。
そしてそれは
願いであるのと同時に
自分自身へのテーマであり
課題でもあります。
その願いでありテーマであり
課題であるものを
私達は人生を通じて
探求・探究しようとします。
それをあえて、
「真本音の願い」
と私は呼んでいます。
真本音優柔不断タイプの人は、
その真本音の願いが
ある意味、ですが、
強過ぎる人なのです。
その願いを自ら
認識してしまうと、
その時の自分の状況を顧みずに
一直線にそこに
向かってしまうのです。
それはある意味
危険なことでもあります。
自分が制御できなく
なるくらいに
その願いが強烈なのです。
ですから、その人は、
・自分自身の準備と
・環境の準備が
整うまで、決して
自分の願いを顕在化しないように
してきました。
願いが強烈な分、
慎重になっているのです、
真本音が。
そのようなタイプの人達に
今回、私が投げている
メッセージが
「もうスタートして大丈夫ですよ」
というものです。
これはある意味、
かなり強烈な
メッセージのはずです。
これをまともに受けた人は
自身の人生が
大きく変わってしまうかも
知れません。
・・・・・・
でも、私は
その覚悟を
持ってほしいと
願っています。
何事も、
タイミングが
大事です。
いえ、
少し極端に言えば、
タイミングこそが
大事で、
タイミングが
すべてです。
恐らく、
真本音優柔不断タイプの人達が
自身の願いを解放し、
自身の本気さを解放するのは
人生で一度きりの
チャンスしかありません。
それが、
今です。
今を逃したら、
恐らく二度とこのチャンスは
来ません。
それくらいに
重要なタイミングが
来ています。
ですからあえて
申し上げます。
「もう大丈夫です。
自分の本気さを
取り戻すチャンスです。
今しかありません」
と。
・・・・・・
真本音優柔不断タイプの人が
自分を解放する方法。
昨日の続きを
お伝えします。
(→前回記事)
「最も強い自分の心」が
自分自身の「大地」となり、
その「大地」と対話をしながら
自身の行動を決める。
・・・というところまで
来ました。
これを続けていただくと、
ある時ある瞬間に、
「大地」から
メッセージがあるはずです。
「もう、君の中に
入ってもいいよ」
というメッセージです。
それがあったら、
「大地」となっていた
「最も強い自分の心」を
自分の体の中に
入れましょう。
ここで大切なのは、
あくまでもこれは
「大地」の判断で、
というところです。
あなたが判断しては
なりません。
あくまで「大地」から自然に
「入ってもいいよ」という
メッセージが来るまでは
決して自分の中には
入れないでください。
「大地」の意志を尊重する
ことが重要ポイントです。
「大地」は
見極めているのです。
あなたの「準備」が
整うことを。
「準備」が整わないのに、
無理に「大地」を自分の中に
入れようとすると、
「大地」の反発を受けます。
するとまた最初から
やり直さなければなりません。
常に「大地」と対話をしながら
「大地」との信頼関係を
築いていくのです。
それは「自分自身」との
信頼関係であり、
「本来の自分」との
信頼関係です。
「大地」のペースに合わせ、
「大地」の言うことを
尊重してください。
そして「大地」が
「もう中に入ってもいいよ」
とメッセージしてくれたら、
体の中に入ってもらいます。
どこに入ってもらうかも
「大地」に決めてもらって
ください。
多くは、
中心軸上のどこかです。
お腹の辺りのケースもあるし、
鳩尾の辺りとか、
胸の中心とか、
喉の辺りとか、
稀に、頭のてっぺんとか、
背中全体とか、
中心軸全体、ということも
あります。
「大地」に任せて
ください。
体のいずれかに入ったら
そこに意識を向ければ、
それはもう「大地」ではなく、
別の形をしているはずです。
その形を特定できると
よいですね。
さて。
あなたの体の中に入った
「最も強い自分の心」。
ここからはもう、それを
あなたの
『真本音』
と表現してよいでしょう。
この時点で
あなたはあなたの真本音を
取り戻すことが
できたのです。
ここからはいよいよ、
真本音との対話
です。
つづく
本当のたくましさとは
何でしょうか?
いつも申し上げることですが、
自分の弱さを
本当に知っている人ほど、
本当のたくましさを
発揮することができます。
人はもともと
たくましいのです。
たくましさとは
生きる力。
どのような現実に
さらされようとも、
着実に自らの力でもって
道を拓いていく力。
自分の命の意味を
よく知り、
自分の命を
燃やし続けようとする
意志。
本当にたくましい人は
軽やかです。
深刻さのカケラも
ありません。
もちろん、
反応本音レベルでは
深刻になってしまうことは
あるでしょう。
でも、どれだけ
そうなっても、
その人と向き合えば、
その深刻さは
まったくもって
表面上だけだとわかります。
ですから私は
そういった人と向き合うと
思わず笑ってしまいます。
失礼なことなのですけど。
で、多くの場合
「あなたはまったくもって
深刻さのカケラもない
人ですね」
とそのままフィードバック
します。
もちろん、これも
笑いながら。
それだけでその人は
反応本音レベルの深刻さを
一瞬にして浄化します。
で、
もともとの明るさを
放ちます。
その明るさは、
「何とでもなりますわ」
と語っているような
空気感です。
それを感じる時、私は、
あぁこの人は本当に
たくましい人だなぁ、
と感嘆します。
真本音優柔不断タイプ
の人は、
もともとはそんな人
ばかりです。
でもその自分のたくましさを
わざと隠しながら
生きて来ました。
「無価値感」
という自分を前面に
出しながら。
(→前回記事)
「無価値感」から
解放された時、
その人は本来のその
明るさと軽さと
たくましさを
まるでカミナリに打たれたかのように
急激に発揮し始めるでしょう。
その、解放のための
方法を
ここ数回はお伝えしています。
では、
前回からの続きです。
・・・・・・
「最も強い自分の心」が
自分の足元に
来ました。
そして、自分自身の
「大地」となりました。
それが前回までです。
その「大地」を
感じ続けることで
あなたは
どのような「心模様」に
なりますか?
恐らく、
「大地」を感じるだけで、
これまでにない心の安定感
を覚えたり、
これまでにない発想が
生まれたりしているでしょう。
まずはその「感覚」を
感じ取ることが
重要です。
そしてその「感覚」と
共に生きることを
してください。
その「感覚」に
慣れてください。
その「感覚」こそが
本来のあなたの安定感です。
これまでの不安定感は
本来ではなかったのです。
充分に「感覚」に慣れた
ところで、
次のステップに進みます。
それは、
「大地との対話」
です。
常に、
「大地」に話しかけて
みてください。
もちろん、
心の中で話しかれば
結構です。
そして、
次の自分の行動を
「大地」に訊いてください。
次の自分の行動を
「大地」に訊いた上で
実際に行動に移すのです。
例えば。
朝、目が覚めたとします。
まず、
「今からすぐに起き上がる?」
と、
「大地」に訊いてください。
「すぐに起き上がる」
と答えが返って来たら、
すぐにベッドから起き上がります。
「もう少しこのままでいる」
と答えが返って来たら、
「大地」が「もう起きよう」と言うまで
そのままでいます。
さて、起き上がりました。
「まず、何をしよう?」
と「大地」に訊きます。
「シャワーを浴びよう」
と「大地」が言えば、
その通りにします。
「ごはんをすぐに食べよう」
と「大地」が言えば、
その通りにします。
このように、
自分の一挙手一投足をすべて
「大地」に訊きながら
決めていくのです。
決して自分の頭で
決めるとか、
いつものパターン通りに
動くとか、
をしないでください。
一つ一つ、
「大地」に訊きながら
です。
最初はちょっと面倒かも
しれませんが、
慣れると楽しくなります。
なぜなら、
これまでの自分とは
明らかに異なる
行動パターンが増えるから
です。
それはちょっとした
冒険です。
しかもその冒険をすると、
確実に
楽しくなります。
どことなく、
イキイキ、ワクワク
して来ます。
なぜならその行動の仕方
こそが、
あなたが本来したかった
行動の仕方だからです。
これまでのあなたの
行動パターンは
「無価値感」によるもの
でした。
そこから抜け出すわけですから
イキイキ、ワクワク
するのは当然です。
さらに、例えば。・・・
家を出る時も、
「今、出る?」
とか
「何時に出る?」
とか、
「大地」に訊きます。
今日は、
どんな服を着るか?も
「大地」に訊きます。
電車に乗る場合も、
どの車両に乗るか?も
「大地」に訊きます。
座席に座るか、
それとも立つか、
どの座席に座るか、
どの辺りに立つか、
なども「大地」に訊きます。
このように
すべて「大地」に訊き、
「大地」に委ねます。
もしどうしても
「大地」の言う通りに
動きたくない場合は
無理をしなくても構いません。
できるところから
「大地」の言う通りに動き、
それを楽しむのが
コツです。
それくらいの気軽さで
これを続ければ、
自然に「無価値感」から
解放されていきます。
自分の新たな
楽しい行動パターンを
見つけられるでしょう。
今日はここまで
とします。
つづく
「無価値感」。
自分に対する「無価値感」。
つまり、
自分という人間には
まったく価値がないのだ、
という思い込み。
「自分には価値がない」
という信念。
そういった「心」は
実は、誰の中にも
存在しています。
多かれ少なかれ。
もちろんそれは
反応本音の一つです。
しかしそれが
とてつもなく大きく育っている
人がいます。
「真本音優柔不断タイプ」
と私が呼んでいる人達は、
その「無価値感」が
非常に強いです。
そういった「無価値感」を
自分自身の「決断」の
ストッパー役として
わざと活用しているのです。
当然ですが、
「無価値感」の強い人は
「決断」できません。
「決断」とは
決断をしようとしている
自分自身を
信じることができて初めて
成し得る行為だからです。
自分を信じない者が
100%の答えを出せる
わけがありません。
だって、
答えを出そうとしている
自分自身を
信じていないわけですから。
「真本音優柔不断タイプ」は
本来は、
決断力も
突進力も開拓力も
とてつもないものを
持っています。
しかしそれをあえて
発揮できないように
してきました。
そのために活用したのが
「無価値感」です。
しかしそれはもう必要
ありません。
もう、自分を解放しても
よいのです。
本気になっても
よいのです。
そのためには、
「無価値感」の中にドップリと
浸かってしまっている
自分自身を、
そこから救い出さねば
なりません。
私が前回から
ご紹介している方法は
そのためのものです。
つまり、
「無価値感から自分を
解放させ、
本気になれる自分を
取り戻す」
ための方法です。
(→前回記事)
以下に、昨日の続きを
ご説明します。
・・・・・・
地球の中心と
自分の中心軸と
宇宙の彼方を結ぶ
「一直線」を
まずは見出しました。
そして、
その「一直線」上の
足元よりもさらに下の方に
「最も強い自分の心」
を見出しました。
ここまでが前回です。
「最も強い自分の心」を
観察してみて
いかがでしょうか?
そこに意識を向けると、
「最も強い自分の心」が
どこかにいなくなってしまった、
という人は
いませんか?
最初は場所を特定できたのに、
意識を向けるようにしたら、
消えてしまった、
とか
別の場所に行ってしまった、
とか。
その場合は、
その「最も強い自分の心」が
逃げているのです。
顕在意識と自分が
つながってしまうことを恐れ、
逃げているのです。
つながってしまうことで、
自分は「本気の自分」に
なってしまう。
それはまずい。
・・・というわけです。
そんな場合は、
「最も強い自分の心」に
メッセージを贈ってください。
「お〜い!
もう私と君は
つながってもいいんだぞ!
もう、
本気の自分になっても
よくなったんだぞ!」
と。
そんなメッセージを
叫びながら、
「最も強い自分の心」の
場所を探してください。
見つけることができたら、
改めて落ち着いて
上記のメッセージを
伝えます。
「もう、私と君は
つながってもよい状態に
なれたようだ。」
と。
そして、次のように
メッセージを続けてください。
「君は、私の中に
入ることができるように
なれたんだ。
もう、こんな下の方で
隠れている必要は
なくなったんだよ。」
と。
さらに続けます。
「でも、いきなり私の中に
入るのは勇気も要るし、
不安もあるだろう。
まずは、
私の足元まで
来てくれないか?
私の足元で
私の大地に
なってくれないか?」
もしこの要望に対して、
「N0」
が返って来たら、
無理をせずにいったん
あきらめます。
そしてまた時間を置いて、
再び同じメッセージを
伝えてください。
「今、伝えるといいかな」
と自然に思えるタイミングで
伝えれば結構です。
それでもまた
断られるかもしれませんが、
何度も続けてください。
何だかんだ言っても
メッセージを伝える相手は
自分自身なのです。
誠意を持って
伝え続ければ、
必ずわかってくれます。
「最も強い自分の心」が・・・
「わかったよ。
じゃあまずは、君の足元まで
行こう。
君の大地のような存在に
なるよ。」
・・・というように
肯定的な返事をくれたら、
さっそく、
足元まで浮上して
もらいましょう。
足元まで来た瞬間に、
あなたはそれを本当に
「大地」のように
感じると思います。
「安定感」が
一気に高まります。
足元にある
「最も強い自分の心」
であり
「大地」であるもの。
その「大地」をしっかり
感じ取ってみてください。
どのような「大地」であるか
をしっかりと観察します。
ある人は、
「高原のような
清々しい大地だ」
と感じるかもしれません。
またある人は、
「広〜く延々と続く
宇宙のように大きな大地だ」
と感じるかもしれません。
感じ方は人それぞれ。
それを感じ取ったら、
どんな時もその「大地」を
感じながら日々を
過ごします。
今日はここまで。
続きは明日です。
つづく
「真本音優柔不断タイプ」
について書かせていただいて
います。
(→前回記事)
自分がこのタイプに
当たるかどうか?
を確かめる方法を
ご紹介している途中です。
昨日ご紹介した方法を
試された人へ、
その続きについて
お話しさせていただきます。
地球の中心と
自分の中心軸と
宇宙の彼方を
結んだ直線がありますね。
その観察をして
いかがでしたか?
まずは、
その直線が途切れることなく
つながっているかどうか?
です。
そして、
つながっていたとして、
それがきちんと「一直線」に
なっているかどうか?
です。
どこかでグニャッと
曲がっている、
とか
どこかで途切れている、
とか
そもそも地球の中心まで
直線がたどり着けない、
とか
宇宙の彼方まで
直線が伸びない、
などの場合は、
真本音優柔不断タイプでは
ありません。
きちんとすべてが
「一直線」で結ばれること
です。
ただし、続きがあります。
「一直線」で結ばれた人は
次に、
その状態で
自分の名前を心の中で
つぶやいてみてください。
フルネームで
つぶやきます。
それを何度か
繰り返します。
名前を繰り返すことで
その「一直線」が
・だんだん細くなる
・どこかが途切れてしまう
・直線ではなく曲線になる
など、
弱々しく不安定な方向に
変化を始めたとします。
その場合、
その人は
真本音優柔不断タイプ
です。
名前をつぶやいても
・何も変化をしない
・むしろ「一直線」がより
強まる方向に変化する
場合は、
その人は
真本音優柔不断タイプでは
ありません。
・・・・・・
自分が
真本音優柔不断タイプ
であると、
もし判明したら、
その人に改めてメッセージ
します。
「もう準備は整いましたから、
本気を出してもいいですよ」
・・・これがメッセージです。
これまであえて
優柔不断に生きてきた、
もしくは
本気を出さずに生きてきた、
そんな自分を
解放してもよい状態と
なりました。
これからは
思う存分に
自分の本来の力を
発揮しながら、
自分の人生の目的を
本気で果たして行けば
よいのです。
ただし、
このタイプのほとんどの人は
そのように言われても
ピンとこないでしょう。
自分の人生の目的も、
どのように本気に
なればよいか、も
さっぱりわからないはずです。
ですからまずは
本来の自分を
取り戻すところから
スタートしなければ
なりません。
そのためのステップを
ここからは
お伝えします。
・・・・・・
もう一度、
地球の中心と
自分の中心軸と
宇宙の彼方を
結んだ「一直線」を
感じます。
そして、
自分の足よりも
さらに下の「一直線」に
意識を向けます。
つまり、
地面よりもさらに下、
地面と地球の中心の間
です。
その、
自分の足よりも下の「一直線」上の
いずれかの地点に、
「最も強い自分の心」
があるはずです。
「最も強い自分の心」は
どこにあるかな?
と自分に問いながら
足よりも下の「一直線」に
意識を向ければ
特定できると思います。
だいたいで結構ですから
場所を特定してください。
例えば、
「地下50mくらいにあるな」
とか
「地球の中心のほぼ近くにあるな」
とか。
「最も強い自分の心」の場所
が何となくわかったら、
その場所に意識を向けます。
そこに
何が観えますか?
自然に浮かんでくる
イメージを捉えてください。
例えば、
「赤色の光が観える」
とか、
「何かゴツゴツした塊が見える」
とか。
人によって
観え方は異なります。
ただここで
大切なのは、
無理なイメージをしない
ことです。
これはイメージを
創り出しているわけでは
ありません。
「実在」を感じ取っている
のです。
自然に感じ取れるもの、
自然に観えるものを
キャッチしてください。
もし何も観えなかったと
しても、
そこに「存在」を感じれば、
それでOKです。
場所が特定できましたら、
しばらくその
「最も強い自分の心」
に意識を向け続けてください。
今日はここまで
とします。
明日まで、
できるだけ多くの時間、
意識を向けてみてください。
つづく
決断のできない自分を
わざと創り出す。
決断のできない自分として
わざと優柔不断に
生き続ける。
それをその人の真本音が
意図して行なう。
もちろん、
本人の顕在意識に
その自覚はまったく
ありません。
ただ、
人生を生きることへの
モチベーションが
高まらないことは
自覚しています。
やろうと思えば
何でもある程度は
できてしまう。
しかし、
本気でとことんそれを
探求したり、
突き詰めたり、
極めることはしない。
どうしても、
そのような意欲が
湧いてこない。
本当はもっと
何かに真剣になりたいのかも
しれないけど、
どうしても真剣になれない。
こなすだけの
日々。
こなすだけの
人生。
こなすだけの
自分。
それが自分であると
心のどこかで
あきらめてしまっている。
しかし
そう思っているのは
顕在意識だけ。
本当は真本音のレベルでは
その人は
着々と
自らの人生のミッションへの
道を
進み続けている。
それが
「真本音優柔不断タイプ」
です。
(→前回記事)
・・・・・・
そのタイプの人の
中には、
言いようのないくらいに
強く、深く、鋭い、
貫くべきものが
あります。
貫くべきものを
その人はずっと
心の奥の奥の奥に
抱き続けています。
決してそれは
その人の顕在意識には
感知できないものです。
貫くべきものを
抱き続ける人。
それが、
あまりにも強過ぎる人。
強過ぎるが故に、
その自分の「本気さ」を
いつ全開にするか?を
とてつもなく慎重に
真本音は見極めています。
その人が
本気を出したら
怖いのです。
その人自身が
自分を止められないくらいに
凄まじいスピードとパワーで
突き進んでしまうのです。
それが激し過ぎるので、
周りの人達が
ついて来れなくなる可能性が
高いです。
いえ、
ついて来れないだけなら
まだよいでしょう。
エネルギーが高過ぎて、
そのエネルギーでもって
周りの人を
傷つけてしまう可能性さえ
あります。
ですからその人は
・・・その人の真本音は
慎重です。
世の中全体の真本音度合い
の高まりを感じ、
安定度を感じ、
人々の本質的な強さを
感じながら、
自分が本気を出してもよい
環境ができあがるのを、
じーっと待っていたのです。
・・・・・・
でも、
準備は整いました。
真本音優柔不断タイプの
人達が、
その優柔不断さから
解放されて、
本気を出せる土壌は
整ったのです。
あとは、
その人達が
自らの本気さを喚起すること。
そして、
自らの強大なエネルギーを
コントロールすること。
それが重要です。
私はその二つの
サポートをすることが
役割です。
・・・・・・
自分は、
真本音優柔不断タイプでは
ないか?
そう思った人へ。
まずは、本当にあなたが
そのタイプかどうかを
確かめる方法を
お伝えします。
以下の通りのことを
してください。
まず立ち上がり、
両足を肩幅くらいに広げます。
気をつけの姿勢で
肩の力を抜きます。
自分のおへその奥の
体の中心と
頭のてっぺんの中心を
結ぶイメージをします。
すると、
体の中に中心軸が
できますね。
その中心軸を、
上の方にずっと
伸ばしていきます。
ずっとずっと伸ばし、
宇宙の彼方まで
無限に伸ばしてください。
それができたら、
次は、
中心軸を
下へ下へと伸ばします。
今度は
地球の中心に
たどり着くまで
伸ばしてください。
地球の中心と
あなた自身の中心軸と
宇宙の彼方が
一本の線で結ばれましたね。
あとは、
その結ばれた一本の線を
観察してください。
そうですね。
できれば、
5分ほど、観察を
続けてください。
そして
その観察した結果を
覚えておいてください。
この続きは
明日書かせていただきます。
つづく
「私、人に対して
無関心なんですよね」
と言いながら、
その人は笑いました。
その笑顔は
とてつもなく無邪気で、
人の心ばかりでなく
魂までもを
癒してくれる、
そんなやさしさに
あふれていました。
その人は
わかっていません。
今のご自分が
しっかりと真本音で決めた
ミッションへの道を
着実に歩んでいることを。
その人は
気づいていません。
ご自分が知らないところで
どれだけ周りの人達に
パワーを与え続けているか、を。
その人は
気にしていません。
自分の道が
正しいかどうか?を。
ただその人は
淡々と
生き続けています。
私はその人に
あえて何も
お伝えしません。
「へぇ・・・、
無関心なんですね」
とオウム返しをしながら
笑うだけです。
何も知らないまま
気づかないままに
進むことこそが
今のその人にとっては
最善の生き方
だからです。
・・・・・・
「決断」とは、
決めて断つこと
です。
一つの道を決めて、
他の道を一切
断つこと。
ひょっとして
あの道もいいかも。
という気持ちが
1%でも残っているうちは
決断したことには
なりません。
表現を少し変えれば、
「決断」とは、
何を断つか?を
決めること。
断つことをせずに
進むならば、
どの選択をしたとしても
ほぼ、行き詰まります。
逆に、
きちんと断つべきを断ち、
一本の道を
決めることができたならば、
どの選択をしたとしても
道は続いて行きます。
どの道を行くか?
どの選択をするか?
よりも、
どの道を行ってもよいから
しっかりと他の道を断つこと
が重要です。
他の道を断つ
潔さ。
これが人生の展開を
決めると言っても
過言ではないでしょう。
・・・・・・
あなたは
自由でしょうか?
「自由」とは
自分自身が
決断できる状態にあること
を言います。
「決断できる状態にあること」
とは、
二つの意味があります。
一つは、
決断できる環境に
いることです。
もう一つは、
決断できる自分で
あることです。
しかし本当のことを言えば、
「決断できる自分」
であれば、
「決断できる環境」
は自ら創り出すことが
できます。
「私は自由ではない」
と言われる人の多くは、
自分で決断できない
ことにより
自由ではない環境を
自ら創り出してしまっています。
・・・・・・
自ら決断できる人
と
自ら決断できない人。
あなたは
どちらですか?
もし決断できないのなら
決断できる自分に
なりましょう。
・・・な〜んてことを
今回は言いたいわけでは
ありません。
実は、・・・
決断することの重要さを
よくわかった上で、
わざと
決断できない自分で
あり続けている人が
いるのです。
そんな人生をその人は
ずっと続けて来ました。
ひょっとすると
生まれた時からずっと。
それは、
その人の真本音が
わざとそうして来たのです。
しかし、
本当にいざ
決断をしなければならない
その瞬間には
「無意識に」
きちんと決断をして来ました。
本人は
気づいていません。
自分が
決断していることを。
気づいていないのに、
肝心要の場面では
間違えずにしっかりと
断つべき道を断っています。
顕在意識の分離。
顕在意識レベルでは
ただ単に惰性で生きている
のですが、
それ以外の部分では
きちんと真本音で
生きている。
そんなタイプの人が
います。
あえて名前をつけると
すれば、
「真本音優柔不断タイプ」
でしょうか。
ここで
あなたに問います。
ひょっとしてあなたは、
真本音優柔不断タイプでは
ありませんか?
そのタイプの人は
顕在意識レベルでは
ほぼ意図せずに
ここまで人生を
歩いて来ました。
流れるままに。
惰性のままに。
しかしそれは
それ自体が
その人の真本音の
望む生き方でした。
なぜ
そのようなことを
するのか?
それにはその人なりの
理由がありますが、
多くの場合は、
「本気にならないため」
です。
世の中の準備が
整うまで、
自分は自分の本気さを
出してはならない、
とその人の真本音は
決めています。
本気さを出しては
ならないが、
その状態のままで
最速スピードで
進もう、
・・・という、
非常に難易度の高い
ことをして来ました。
もう一度、
問います。
あなたは
真本音優柔不断タイプ
ではありませんか?
あっこれ、
私のことだ。
・・・と直観的に思えたら
恐らく本当に
そうだと思います。
今回は
そんなあなたに
私はメッセージします。
メッセージは
単純です。
「準備整ったから、
そろそろ本気を出しても
いいですよ」
です。
とは言え、
本気の出し方を
忘れてしまっているか、
本気の出し方を
全く知らないか。
現時点では、あなたは
そのどちらかだと思います。
真本音で生きて来たけど
本気では生きて来なかった
そんなあなたに、
本気の出し方を
少し解説しなければなりません。
ちょっと長くなったので
次回にて。
つづく
中学3年の卒業式。
私は担任の先生から
『信』
という一文字を筆で書いた
色紙をいただきました。
「君のこれからの人生は、
君が人をどれだけ
信じるか?によって
決まるだろう」
と、その先生は
言われました。
私は恐らく、
中学時代においては
その時初めて、人前で
泣いたのかもしれません。
その「信」の一文字は
ずっと
私の胸の内に
在り続けています。
と同時に、
人を育成するお仕事
というのは
なんて素晴らしいのだろう、
と
その時私は強く
実感したのです。
私事で恐縮ですが、
昨日、5月1日に
私は一つの法人を
立ち上げました。
法人名は
まんま、です。
『株式会社真本音』
超ド直球の屋号と
させていただきました。
約15、6年前に
初めて「真本音」と出会って以来、
ずっと
真本音、真本音、・・・
と言い続けてまいりました。
そろそろ
屋号にしても
バチは当たらないだろう
ということもあるし、
何よりも、
真本音という言葉だけでも
多くの人達に
届けたいとの想いからです。
中学の担任の先生が
私に「信」の文字を
贈ってくださったのは、
私の中に「不信」を
見出したからでしょう。
確かに私は
「不信」の塊でした。
人間不信、です。
人間が怖くて
しょうがなかった。
でもそれを
自分自身でずっと
隠し通してきました。
自分に対して。
私の人生は
「信」と「不信」の
戦いのようでした。
その中で、
随分自分自身と
向き合い続けたな、と
思います。
そして多くの人達と
向き合い続けて
まいりました。
人間の汚い部分、
弱い部分、
絶望的な部分、
どうしようもないところ、
愚か過ぎるところ、
悲し過ぎるところ、
・・・
本当に見たくないものと
随分と
向き合い続けて
まいりました。
本当にこれは
大袈裟な表現では
ないのですが、
あまりに多くのストレスや
悲しみを受け過ぎて、
自分自身の命を
失いかけたことは
数え切れません。
なんで他人のストレスで
この俺が
死ななきゃならんのだ!
と恨みながら
自分の命が
尽きそうになるのを
どうしようもなく
感じた瞬間は、
何度味わっても
それはもう
大変なものでした。
恐らく、
これからもそういった目には
数え切れないくらいに
遭遇するでしょう。
でも、
それだけの目に遭いながらも、
今はようやく
胸を張って
100%の淀みなく、
宣言することが
できるのです。
私は、
「人間」を
信じることができる、
と。
「人の可能性」を
信じることができる、
と。
私は
目の前のその人が
知るよりももっと深く、
その人の愚かさを
知ることができます。
そして、
目の前のその人が
知るよりももっと深く、
その人の可能性を
知ることができます。
その両方を
感じ取れる自分に
なれたことを
本当に感謝します。
・・・・・・
以下については改めて
詳しく書かせていただくことに
なると思いますが、
私達の意識の次元として、
『8次元』
という次元があります。
人は8次元の意識を
思い出すと、
「すべては一つである」
ということ、
そして、
「すべては私自身である」
ということを
理屈ではなく
実感として、感覚として
理解できるように
なります。
本当にそれは
理屈ではなく、
例えば、あらゆる物が
上から下に落ちるのと
同じような摂理として、
当たり前のこととして
受け止めることが
できるようになります。
かと言って人は
8次元の意識を
思い出しても、
4次元の意識も
持っています。
高次元から低次元まで
すべての意識を
同時に持ち続けるのが
私達人間です。
「自分だけが良ければいい」
という4次元と、
「すべては私である」
という8次元。
それが同時に
心の中に存在
するようになります。
たとえ、
8次元を思い出したと
しても。
だからこそ、
私達は
人間にしか創れない世界を
創り出すことが
できるのです。
私の人生の目標は、
すべての人が
8次元の意識を
思い出すこと。
そして、
4次元から8次元まで
すべての次元を
大切にできる世の中を
創り出すこと、
です。
そのための
一つの基点として、
・・・というよりも、
一つの「祈り」として、
株式会社真本音を
スタートさせて
いただきます。
今後ともどうぞ、
よろしくお願い申し上げます。
つづく