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- 2018年 11月
私は早く
「要なし」
になりたい。
「たけうちさんは
もう
必要ないよ」
と言われたい。
すべての
クライアントさんから
そう言われたいし、
世の中からも
そう言われたい。
そうすれば
私は
安心して
引退できる。
早くその日が
来れるように
今は
がんばっている。
・・・・・・
私は本当に
多くの人の人生と
触れ合ってきた。
その人の人生は
その人のもの。
その人の人生は
私の人生では
ない。
その区別は
とても大切であり、
区別をすることが、
コーチとしての
必須の
在り方である。
だからこそ
「他者だから
できる最大の
サポート」
が可能になる。
「あなたの人生は
私の人生だ」
なんて言おうものなら、
何たる傲慢!
となるだろう。
人への愛とは
自分と
自分以外の人とを
区別するところから
始まる。
そしてコーチという役割は
「その人の人生は
その人のもの」
という
尊重から始まる。
・・・という
基本がある。
この基本を
わかっていない人は
人をサポートしては
ならない、
ということは重々に
わかっているし、
そうしている。
しかし、
その上で
あえて言おう。
私は
人をコーチングさせて
いただきながら、
その人と
いつも
「一つ」
になる。
そして
その人の人生と
「一つ」
になる。
その人の喜びとも、
その人の苦しみとも、
「一つ」
になるのだ。
ちゃんと
区別はついて
いる。
私と
あなたは
違う。
現実世界では
そうなっている。
しかし、
実在の世界では
私は
確かに
「一つ」
になっている。
私は
すべてであり、
すべては
私であり、
あなたは
私であり、
私は
あなたである。
という
ことに
なっている。
区別は
ついている。笑
でも、
そうなってる。
・・・・・・
例えば今日は、
12名の人と
向き合った。
すると
今の私の中には
12名が
まだいる。
そして
12名の
人生を
そのままに
ありのままに
感じている、
というよりも
やっぱり正確に
表現すれば
「一つ」
となっている。
そして今、
12名分の
喜びと苦しみを
感じている。
これはいったい
どういうこと
なのだろう?
何のために
私は
こんなことを
しているのだろうか?
・・・・・・
いや、
答えはよく
わかっている。
わかってないけど
わかっている。
もちろん
自己満足で
やっているわけでは
ない。
はっきり言って
これ、
日によっては
とてつもなく
苦しいのだ。
自分の生命力の
ほぼすべてを
使い切ってしまう
日もあるし。
とてもとても
自己満足のレベルで
できることでは
ない。
かと言って
私は
満足している。
満足というよりも
悦び
である。
何でだろう?
恐らくこれは
必要なことが
できている
悦びなのだと
思う。
これを私は
約10年、
毎日続けているが、
その体験は、
これから
私がすべき
あるゆることにおいて
必要なことだと
わかるからだ。
この体験を
通じてしか、
人に伝えられない
ことがあるのだ。
私はこれまで
何万人もの人と
向き合ってきたが、
その人と自分を
区別して
分離して
向き合うことでは
得られないものを
得ようとしていることは
よくわかっている。
もし途中で
自分の生命力が
持たず、
自分が死んでしまっても
それはそれで
しょうがないと
いつも覚悟を
決めてきた。
ひょっとして
明日、
死んじゃうかも、
と
いつも思って
ここまできた。
私にだって
守りたいもの、
守るべきものがあるので、
絶対に
死にはしないと
決めているが、
でも、
その覚悟は
確かにあった。
そうまでしても
私には
掴みたいものが
あるのだ。
そのための
人生であると
よく
わかっている。
だから明日も
私は
あらゆるものと
「一つ」に
なる。
その経験を
日々、
積んでいく。
それをしなければ
絶対に
気づけない「何か」を
得るために。
私は私のこの
真剣さが
怖いとも思う。
でも
しょうがない。
最初から
決めている
道だからね。
つづく
『ザ・セルフ』 という
セルフコーチングの手法を
集中的に修得していただく
新しい講座を始めたが、
やってよかったな、
と
つくづく思っている。
ちょうど今、
半分を過ぎたところ
であるが、
なんと、
私の中では
ある意味での
完了感がある。
もう、皆さん
大丈夫ではないか。
得るべきものを
得たのではないか。
このまま
講座を終えてしまっても
よいのではないか。
とさえ
思っている。
いったいこの
完了感は
何だろうか?
そこを自分なりに
セルフコーチング
してみたい。
・・・・・・
まず真っ先に
思い浮かぶのは、
皆、すでに
「一本道」
に立てている、
ということだ。
私達人間には
全員、
「一本道」が
ある。
それは、
生まれた瞬間から
自分が自分に
約束した
人生の道である。
最初は
その道を探すのが
人生の目的となる。
そして見事に
それを見つけたら、
人生の第2ステージに
入る。
つまりは
その「一本道」を
突き進むのだ。
今回の受講生さんは
講座のスタート時では、
ほぼ全員、
人生の岐路に
立っていた。
もしくは、
立とうとしていた。
自分の道を
見つけたい。
本当の道を
見つけたい。
という意欲が
高かった。
だから、
セルフコーチングが
非常に効いた。
そして今、
全員が
「一本道」に
立った。
もちろん、
その「一本道」のすべてが
見通せているわけでは
ない。
しかし、
自分が今、
一本道に立っているのか?
いないのか?
という判別のつけ方と、
そしてその
一本道を堂々と
進むためにはどうすれば
よいか?
ということを
理屈ではなく
体得したのだと思う。
だからもう
私なんかがいなくとも
皆さんは充分に
自分の道を歩いていけるな、
という
実感がある。
それが私の
完了感になっている
のだと思う。
・・・・・・
もう一つ浮かぶのは、
皆さんは完全に
オープンになった
という事実だ。
変な言い方をすれば、
「裸になった」
ということになる。
そして、
裸の方が
まったくもって
人生を進むには
楽である、
という真実を得た
ということだろうか。
もちろん、
日々の悩みはある。
迷いも
出る。
自分を失うことも
あるだろう。
しかし、
どうすれば
本来の自分に
戻れるか?
どうすれば
裸の自分に戻れるか?
そして、
裸の自分に戻ることが
どういうことなのか?
裸の自分に戻る
ことで
何が起こるのか?
ということを
やはり理屈ではなく
体得できたのだと
思う。
要するに、
「自分らしさ全開」
である。
かと言って、
それがゴールでは
ない。
それが
「スタート」
である。
自分らしさが
全開になってからが、
本当の成長(進化)の
スタートであり、
自分の発する
エネルギーと魅力と
力の数々は
これから本格的に
開発される。
まだ見ぬ自分との
出会いも、
これから本格的に
始まるだろう。
しかし
その「スタート地点」に
立てたということが
素晴らしい。
これがまた
完了感になっている
のだと思う。
・・・・・・
恐らく、
講座をスタートさせた時点
での、
皆さんの真本音の目的は
すでに
果たされたのだと思う。
しかし講座はまだ
半分弱、
残っている。
ということは・・・。
ここで私は
改めて
自分の役割に
気づく。
私の役割とは、
皆さんの真本音の
想いに
お応えするだけでなく、
さらに
皆さんの真本音が
当初願っていた以上の
「加速」を
ご提供することである、
と。
表現によっては
かなり傲慢な感じ
ではあるが。
しかし思えば、
自分がかつて体験
したことのない
「加速」を得たい、
という人達が
ここには集まっている
ように思う。
期待以上の
加速を
したい。
という期待。
それにまた
お応えするのが
私の役割なのだろう。
すでに皆さんは、
心の中だけでなく、
「現実」をも
変えた。
今日も
「次々にいろんなことが
起こります」
と喜びながら
ご報告くださった。
しかしそれはまだ
序の口である
ということを
今後、さらに
体験を通じて
知っていくのだろう。
そのきっかけを
ご提供するのが
私の役割であると、
改めて
感じ入ったのが
今日だった
のかな。
つづく
「完了感」。
何かを100%
やり切った
感覚。
99%ではなく、
101%でもなく、
100%の時にしか
得られない
独特の感覚。
それが
今の私にある。
なぜだか
わからないのに、
ある。
時々、
こういうことがある。
理由もなく、
完了感のみが
湧き上がる。
こういう時は
実在のレベルで
何かを
完了させたのだろう。
「実在」とは
心の中の現実。
心の中で
確固たるものとして
生まれたもの。
恐らくであるが、
長年かけて
構築を目指して
やり続けてきたことが
完成したのだろう。
もちろん、
本当の意味での
完成は
ない。
特に実在に
おいては。
しかし、
一つの段階において
何かが完成し、
次のステージに
入っていくのだろう。
・・・・・・
実在における
完了感を得た
ということは、
これからそれが
現象化
するということだ。
つまり、
心の中の現実が
実際のこの世界の
現実として
現れる。
それが何かは
今のところ
まだ自分でも
把握できていないが、
何となく
楽しみである。
・・・・・・
さて。
これから私は
何をしようか?
もちろん
コーチを育成する
ことは
決めている。
そのコーチと一緒に
たくさんの
現場に入ることも
決めている。
まだまだ
やることは多い。
これからさらに
増やしていく。
ただ。
これまでの私を
私は一つ大きく
変えねばならない、
と、今わかった。
これまでの私は
私の真剣さを
私以外の人に向ける
ことを
躊躇してきた。
いや、
そのつもりはなかった
のだが、
今、本当に
そう思った。
変な言い方
であるが、
私は私の真剣さが
実は、ちょっと怖い。
真剣すぎる
からだ。
私のこの真剣さを
受け止め切れるのは、
私の妻だけであると
これまでは
思ってきた。
しかしそれでは
いけない。
それでは
進めない。
私は私の真剣さを
徐々にではあるが、
解放しようと
思う。
実在で
何が完了したかは
わからないが、
そうしなければ
その完成したものは
現象化できないと
今、わかった。
ちょっとずつ
躊躇を
外そう。
う〜む、
勇気が要るね。
つづく
今、
問題の核心は
何か?
本当は、
このダイレクトな
問いに素直に
向き合えば、
ほとんどの問題は
8割方は
解決してしまう。
しかし私達には
その、
素直さ
がない、
場合が多い。
核心を観る
のが
怖いのだ。
だから
まずはそこから
目を背けることに
全力になる。
もちろん、
そうなっている自分を
自覚することは
ない。
自覚できたら
大したものだ。
だから私は
いつもいつも
この問いを
大切にしている。
今、
問題の核心は
何か?
・・・・・・
問題の核心は
恐怖感の
その先に
ある。
そりゃそうだ。
問題の核心
だからこそ
恐怖感が湧く。
つまり、
最も怖い方向を
見つめれば、
そこに
実にシンプルな
核心が
潜んでいる。
いや、
本当は潜んでなんか
いないのだが、
あまりの恐怖によって
そいつの前では
私達は
目を瞑ってしまうのだ。
全力で
目を瞑る。
で、
わからない
わからない
と言い続ける。
時には、
目を瞑っているその
まぶたの上に、
くっきりとした
キラキラの目を描いて、
ほら、
私、ちゃんと
目を開いているでしょ!
とアピールする
人もいる。
もちろんやはり
本人にその自覚は
ない。
逃げることに
必死だという
自覚が。
そういう人と
向き合うと、
あまりの恐怖感と
あまりの拒絶感に
私は
言葉を失う。
怖いものを
怖いと言えれば、
もっと楽になるのに。
本人は最も
楽ではない道を
邁進する。
まぶたの上に
描いた偽物の目を
堂々とこちらに見せ、
ほら、
私はこんなに真剣に
自分の使命に
向かっています、
と訴え続ける。
自分の人生を
邁進しています、
と。
・・・・・・
そのように
全力で逃げようと
する人は、
どうやら
私からのお墨付きを
もらいたいようだ。
つまり、
「たけうちさんが
いいね、って
言ったから、
私はこれで
いいんだ」
という
お墨付きだ。
このお墨付きを
ほしいが故に、
あえて私に相談
してくる人もいる。
しかし私は
決して
そのような「お遊び」
にお付き合いする
ことはない。
そのような
「お遊び」は
ダメですよ。
もっと
真剣に生きましょうよ。
というニュアンスの
空気感を
ほんのちょっとだけ
私は
その人に向ける。
すると多くの場合は、
とても残念なことに
一目散に
私の前から
去っていく。
私は別に
「もっと強くありなさい」
とは
一言も言っていない。
私はただ
「もっと真剣になろうよ」
と
伝えているだけだ。
真剣になる、
とは
自分の弱さを
知ることだ。
自分の恐怖を
知ることだ。
知ればいい。
だって
人は
弱いから。
でも、
自分の弱さを
素直に認めることで、
人は
一歩ずつ
強くなっていけるから。
完璧な人間など
いない。
何度も言うが、
私だって
人間として相当の
ヘナチョコだ。
でも私は
そのヘナチョコぶりを
知っている。
そこから
目を逸らさないように
している。
それだけで
いいのだ。
それだけで、
ちゃんと
進めるのだ、
私達は。
「あるがまま」を
見つめよう。
それができれば、
問題の核心は
すぐにわかるし、
そしてその核心は
実は、
結構、可愛いものだった
ということも
わかるのだ。
つづく
私は、
仕事のアポイントを
取るとの同じように、
家族とも
アポイントを
取るようにしている。
そして、
仕事も家族も
一度決めたアポイントは
必ず守る。
そうしないと
私のクセで、
どうしても仕事優先の
日々にしてしまうからだ。
私はできるだけ
平日の18時〜20時の
2時間は、
5歳の息子との時間を
取るようにしている。
彼の通う子ども園に
迎えに行き、
歩きながらいろいろ
語り合い、
夕食を一緒に食べ、
家で一緒に遊んだり、
ウルトラマンのDVDを
観たりする。
20時前には
息子のセルフコーチングの
時間を創る。
私のクライアント企業様の
社長さんから
送っていただいた
神棚がある。
その神棚に向かって
まずは手を合わせ、
一日の感謝をする。
そして、
どんな一日だったか?
を振り返る。
そして、
明日は
どんな一日にしたいか?
をイメージする。
もちろん
5歳の子どもの発想だから
他愛のないことが多いが、
しかしそれでも
これをすることで、
心や魂がスッと
落ち着くことがわかる。
20時を過ぎると
彼はもう就寝する。
私も少し休み、
そしてまた
仕事に向かう。
もちろん毎日
このようにできるわけでは
ないが、
可能な限り
そうしている。
・・・・・・
子ども園では
様々な子ども達が
いる。
彼らを観ていると、
みんなすでに
いろんなものを
抱えていることが
わかる。
子どもは純粋だ、
と思う人は多いと
思うが、
いやいや
そんなことはない。
子どもにこそ、
ストレスが多い。
しかも最近の子は
親のストレスを
肩代わりしている子が
多い。
以前にこのブログで
「エンティティ」
について
書いたことがある。
エンティティとは、
ストレスがある一定の
濃度以上になることで、
実体化したもの。
日本語では
「生き霊」
と訳されることもあるが、
要するに
人の「念」の塊であり、
ストレスの塊だ。
それは誰もが持っており、
人から人へと
伝染する。
最近は、
エンティティの濃い
大人達が増えている。
その大人達の
エンティティを
子ども達が
肩代わりするのだ。
それで苦しんでいる
子が多い。
・・・・・・
大人の人生の
不調和が、
子ども達に
ダイレクトに
影響している。
電車で
子どもを抱っこしながら、
自分のエンティティを
子どもに与え続けている
人は多い。
電車でもそうなのだから、
家ではもっと
すごいのだろう。
よく私は
子ども達と目を
合わすことがある。
子ども達は
私をじっと
見てくる。
その目から
伝わってくるのは
彼らからの
SOSだ。
私はもちろん、
目で励ますしか
できない。
これが今の世の
実態である。
子ども達が
スクスク育つことの
できない世の中を、
私達大人は
確かに創り上げている。
親は親の
人生。
子どもは子どもの
人生。
と言われたりも
するが、
そんなことはない。
親が子に与える
影響は
測り知れない。
親の今日の生き様が
そのまま
子どもに影響するのだ。
その自覚を
もっと我々は
持つべきではないか。
・・・・・・
子どもには
覚悟が
ある。
覚悟をもって
人生に
向かおうとしている。
特に今は、
そういった
真剣な子が
多い。
私は彼らの
真本音の想いの強さを
ヒシヒシと
感じる。
彼らのその想いを
私は
尊重したい。
尊重できる
世の中にしたい。
そのためにも
私は
大人達に
向かう。
今後の世の中に
こそ、
コーチが必要だ。
つづく
誰だって
溺れたくない。
でも、
人生の海に
溺れてしまう。
気がつけば、
足のつかない
深い場所にいて、
高い波が
押し寄せて来て、
必死にもがく
だけの状態に
なっている。
もがくのは
苦しくて、
エネルギーが
必要で、
周りが見えなく
なって、
ある意味、
一刻一刻の時間を
過ごすことだけで、
生きることだけで、
精一杯になってしまう。
あれ?
私はいったい
何をしにここまで
来たんだっけ?
という問い
すらも
忘れてしまう。
もがくだけ。
生きるだけ
の存在。
それが
「自分」
となる。
・・・・・・
海から出る
唯一の方法は、
海から出よう
と
しないことだ。
まずは、
ここは海なんだ、
と
認識すること。
深い海にいて
今の自分は
溺れていて、
ただただ日々、
必死にもがいている
のだという
自覚をすることだ。
そして、
ただただ
もがくだけの自分を
許すこと。
もがくのは
ダメだ!
とやってしまうと
ますます
深みにはまることになる。
時々、
「私は海から
出ることができました」
と言う人がいるが、
それはただ
海から出たという
幻想、妄想の
中にいるだけだ。
本当は
溺れているのに、
溺れていることを
認めず、
その事実にも
目を伏せ、
とてつもない
妄想力を
働かせている。
そして、
「こうすれば
海から出られますよ」
と、
他の人にも
妄想を勧める。
だから世の中には
妄想魔が
増えてしまった。
妄想は、
本人は気持ちいい
かもしれないが、
周りには
とても迷惑だ。
しかも
本人の気持ち良さも
ある時に
限界を迎える。
妄想から
覚めた時の
その人の絶望ぶりは
半端ではない。
・・・・・・
あなたは今、
溺れていますよ。
ということを
私はこれまで
いったいどれだけ多くの
人達に、
コーチとして
伝えて来ただろう。
ほとんどの人は
最初はそれを
認めたがらなかった。
何を言おう、
私自身も
昔はそうだったから、
その気持ちは
よくわかる。
私は
自分が溺れていることに
気づいた時は、
本当に
人生のすべてが
終わったと
感じた。
自分のすべてを
否定した。
やはり、
そうなってしまうことを
誰もが恐れるので、
溺れている事実を
認めるのは
難しいのだろう。
だからこそ
私は
淀みなく、
100%の純粋さを
持って
伝えることにしている。
あなたは今、
溺れているんですよ。
と。
こちらが
100%の純粋さを持って
伝えることで初めて、
その人には
ちょっとだけ
伝わる。
でもその「ちょっと」
こそが大切で、
あとはその人が
自ら
事実に気づいていく。
妄想している人に
とって
私はとても怖い存在の
ようで、
妄想を続けようとする
人は、
皆、私の前から
逃げていく。
こちらは
何もしていないのに、
ただただ
理由をつけて
逃げていく。
それは、
自分の人生から
逃げていくのと
同じことだ。
もっと
自分を大切に
してほしい、と
心から思う。
私は
何もしない。
ただ、
鏡として
一人一人と
向き合うだけ。
人は
鏡が怖いのかも
しれない。
でも、
今の世の中に
鏡は絶対的に
必要だ。
自分の人生から
逃げずに、
そして
鏡としての役割を
担おうと
本気で思う人との出会いを
私は望む。
そういったコーチを
私は
育成したいからだ。
つづく
コーチングの魅力を
一言で言うと
何ですか?
と問われたら、
私だったら、
「想定外」です。
と答えるだろう。
私自身が
コーチングと出会って
想定外の人生に
なったし、
私のクライアントさんの
ほとんどは、
私の想定外の
道を歩み始める。
これが実に、
実に、
嬉しいし、
幸せである。
人の育成というのは
とても難しく、
どうしても、
育成される人は
育成する人の
範疇に留まってしまう。
ところが
コーチングと出会って、
私はその
枠の外し方を
知ることができた。
私が
クライアントさんを
コーチングしていると、
「ちょ、ちょ、ちょっと
待った!」
と言いたくなる場面が
頻発する。
「それはちょっと
行き過ぎでない?」
とか、
「ちょっとそこまでやるのは
どうだろうか?」
とか、
そんな一言を
思わず口走ってしまう
ような
場面が頻発する。
実は以前の私は
それを実際に
口走ってしまっていた。
しかしそれにより
起こることは、
クライアントさんは
私の範疇に
留まってしまうという
事実だけだった。
今は、
どれだけ私の心の中で
「ちょっと待った!」
と言いたくなっても、
今は言わないように
している。
それにより、
私は
信じられないような
展開を
多く拝見できた。
その度に
本当に思うのだ。
人というのは、
やっぱすげーな、
と。
私は、
自分について言えば、
コーチング力は
確かにある、
と思うが、
人としては
ヘナチョコだ、
と思っている。
だって、
クライアントさんの方が
全然すごい。
私には到底
できないことを
どんどんやっちゃう。
その度に
私は自分の
ヘナチョコさに
溜息が出るのだが、
でも
ひょっとすると、
人間としてヘナチョコで
あるからこそ、
自分の範疇に留めない
コーチングができるのかな、
とも思う。
・・・・・・
私には
5歳の息子がいるが、
彼なんかは
生まれた時から
真本音の人生を
生きているから、
すげーなぁ、
と毎日思っている。
第一、
人生がとても
楽しそうだ。
彼を見ていると、
人生って
こんなにも楽しい
もんなんだ、
と感嘆する。
もちろん、
子どもには子どもの
悩みがあるはずだ。
しかし彼は
そんな悩みもすべて
味わっている。
「今日ねぇ、
○○君がパンチして
きたんだ。
すごい痛かった。
○○君の力って
すごいんだよ!」
と彼は
くったくなく笑う。
子ども園というところに
通っているのだが、
先生から聴くと、
外に散歩に行くときに
みんなが彼と
手をつなぎたくなり、
いつも取り合いになるらしい。
妻が朝、
彼を子ども園に連れて
行くのだが、
園内に入った途端に
何人もの子達が
彼に
突進してくるらしい。
「一緒に遊ぼう!」
と。
まぁ、
こういうことを書くことを
「親バカ」
と言うのだろうが、
彼が本気になって、
私の妻に、
「もっと子ども園に
いられる時間を
伸ばしてほしい」
と直談判している姿を
見ると、
どうやら彼は
私とはまったく別の
人生を歩んでいるのだ
と実感する。
私は
子どもの頃から
「できれば、
誰とも接したくない。
一人で生きていけるのなら、
一生、一人でいたい」
と思っていたので、
彼のあのオープンな
神経がわからない。
とても
羨ましいと
思う。
恐らくであるが、
私は
彼のことを100%
信じている。
そして、100%
尊敬している。
ひょっとすると
だからこそ、
彼は生き生きと
しているのかも
しれない。
そう思うと、
ヘナチョコの私で
よかったな、とも
思う。
・・・・・・
人には人の
個性がある。
私はずっと
自分のヘナチョコぶりが
我慢ならなかったので、
ある意味、
ずっとそこにフタを
して生きてきた。
しかし、
それをあるがままに
見つめ、
受け入れ、
むしろヘナチョコぶりを
楽しめるようになったのは、
自分自身の
真本音と出会って
からだ。
だから私は
今日も明日も明後日も、
真本音コーチングを
続ける。
すべての人が
自分の「あるがまま」を
受け入れ、
そして
「あるがままの自分」を
活かせるように。
そして私はやはり、
そんなサポートのできる
コーチを
たくさん育成したい。
つづく
企業様の継続サポート
をさせていただいていると、
ある時ある瞬間から
「風」
が吹き始めるのを
感じることがある。
昨日の企業様が
そうだった。
関わらせていただいて
そろそろ3ヶ月になろうとする
企業様だが、
研修の最中に
急に「強風」が吹き始めた
のを感じた。
それは、まずは
「突風」のように
来た。
あくまで
イメージではあるが、
急に吹いた風に
おっとっとと、
足元が揺らいでしまう
感覚だった。
少し
想定外だった。
嬉しい
想定外だ。
この「風」を感じる
ということは、
本質的な変化を始めた
人がいる
ということだ。
30名近い方々に
研修を受けて
いただいていたのだが、
私は皆さんお一人お一人に
注意を向けた。
すると数名の方に
大きな変化が
起き始めているのを感じた。
もちろんそれは
まだ、
表面化していない。
現象化・現実化
していない。
だから恐らく
ご本人も
自分の変化を
自覚していないだろう。
しかし
人の成長や組織の成長は
こういった
「本人にも気づかない変化」
から始まる。
こういったときに
私はいつも
思うのだ。
やっぱり
人にも組織にも
「コーチ」が
必要だな、と。
第3者の立場で
客観的に
「あるがまま」を
観察できる存在。
そういった立場から
でしか、
見つけられない「変化」が
あるのだ。
そしてその「変化の芽」
を
しっかりと育てていく
必要がある。
それができれば、
人の組織も
スムーズに成長して
いけるのであるが、
残念ながら多くの場合は、
「変化の芽」に
自らが気づかず、
そして
気づかないままに
その芽を自分で
踏んづけてしまう。
せっかく芽が出ても、
潰してしまう。
その連続を
し続けている。
踏んづけられても
それでも逞しく育つ芽も
中にはある。
しかし
そういった芽が
自然発生的に生まれるのは
奇跡に近い。
ほとんどは、
芽というのはとても
弱く、
小さく、
繊細だ。
そんな芽を
繊細に、大切に、誠実に
育てることが、
人や組織の変革の
第一歩だ。
しかしそれができるのは
残念ながら、
第3者的存在があって
初めて可能となる、
という事実が
現時点の世の中の
状態(レベル)である。
・・・・・・
最近の私は
自分一人では
企業のサポート現場には
出ないように
している。
できるだけ。
なぜなら私の
今の最大のテーマは
「後継者育成」
だから。
私と同じように
人や組織をサポートできる
「コーチ」を
目指している人を
一緒に「現場」に
連れていく。
もちろん、
クライアント企業様の
了承をいただいている
場合だけであるが。
そして未熟であってもその人に
現場で
コーチングやファシリテーションを
してもらう。
もちろん、
私がフォローしながら
であるが。
現場でしか
学べないことがある。
現場でしか
伸びない力がある。
何でもそうであるが、
特に、私の仕事は
その要素が高い。
私も、
現場で揉まれて来た。
現場にこそ、
あらゆる「答え」が
転がっている。
だから私はこれから
もっともっと
コーチの「現場育成」を
増やしていこうと
思っている。
・・・・・・
私の現場で発見し、
現場で培った
人と組織の活性化サポート
ノウハウを、
まずは講座形式でお伝えし、
講座の中で練習し合い、
その上で、
共に現場に出て行き、
現場の中で
本物の力をつけ、
そして、
ゆくゆくは
自立して私と同じような
お仕事ができるように
なっていく、
という、
現場実践型の講座を
これから
始めようと思う。
人数は少なくても
よいから、
たとえ
一人でもよいから、
本気で
私のようなお仕事を
自分ができるように
なりたい、
という人がいたら
始めようと思っている。
まだ
準備に取り掛かった
ところであるが、
早く
始めたいと
思っている。
つづく
私達の
人生の目的は
「一点」
である。
たったの
一点
である。
あえて極端に言えば、
自分自身の一点を
果たすためだけに
私達は
この世に来た。
しかし最初から
一点が
見えるわけでは
ない。
一点を
まずは見つけることが
人生の
第一のゴール。
そしてその
第一のゴールにたどり着く
と同時に、
一点への道が
スタートする。
私はその瞬間を
「生まれる」
と呼んでいる。
これまた極端に言えば、
一点を見つけるまでは
私達は本当には
まだ生まれていない
のだ、
くらいに思っている。
実際に、
「私は私の人生を
生きている」
と実感できるのは、
一点への道を
歩み始めた人だけだ。
・・・・・・
とは言え、
一点が見つからない
ことを
恥じることはない。
それよりも、
一点を見つけることを
諦めたり
放棄することが
私は恥だと
思っている。
恥と言っても
誰かに対して
恥ずかしいと思う
ことではなく、
自分自身に対して
恥ずかしい
と思うのだ。
だって、
私達は
志を持って
ここに来たのだ。
自分だけの
一点を見つけ、
一点を果たそうと、
自分自身と約束を
したのだ。
その約束を
志
と言う。
一点に向かうことを
放棄することは、
その約束(志)を
自ら反故にする
ということだ。
だから、
恥ずかしいのだ。
・・・・・・
一点を見つけるまでは
様々な試行錯誤が
ある。
逆に言えば、
試行錯誤を抜きにして
それは見つからない。
上手くどこにも
ぶつからずに
進もう、
としているうちは
一点を放棄しているのと
同じだ。
ガツガツと
ぶつかればいい。
後悔すれば
いい。
反省すれば
いい。
その一つ一つを
丁寧に進むこと、
一つ一つと
向かい合い続ける
こと。
それによって必ず
一点は
見つかる。
・・・・・・
一点が見つかった人には
もう
迷いはない。
いや、
最初の一歩は
迷うかもしれない。
本当にその道を
行くのか?
と
自分で自分を試す瞬間が
ある。
そこを毅然と
乗り越えることで
迷いはすべて
払拭される。
あとは
進むだけなのだが、
そこからこそ、
様々な課題が
降りかかる。
しかし
一歩進めば、
一歩進んだ手応えが
あり、
課題に取り組めば、
その一歩一歩に
とてつもない充実感を
覚える。
今、
この段階に
入りつつある人が
増えている。
そして、
その直前にいる人も
増えている。
いずれにしても
人生の
重要な分岐点
である。
・・・・・・
私達は
心の中心に
一点を大切に
抱いている。
しかしそれは
セルフコーチングだけでは
見つからない。
きちんと現実に
向かい、
現実の荒波の中で
揉まれることでしか
見つからないように
できている。
というよりも、
そのように自分自身と
約束をしている。
私達は
自分を試す。
自分自身を試すのは
自分だけだ。
もう私は
一点を知り、
一点に向かう道に
入れる私になれただろうか?
それを
何度も試しながら、
ある時ある瞬間に
「よし、OKだ!」
と自分に
GOを出す。
すべての人が
そうなれるといい。
本当の自分の人生に
入れるといい。
「生まれる」ということを
皆が
実現できるといい。
つづく
なんでみんな
こんな苦しいままで
平気なんだろう?
と、よく思う。
心が麻痺しちゃってる
のかな。
私は
人と向き合うと
その人の苦しみを
そのまま感じ取ってしまう。
その人が
感じているのと
まったく同じように
感じてしまうのだ、
ということに
10年以上前に気づいた。
もちろん、
その苦しみの詳細は
わからない。
実際にその人に
何が起きているのかも
わからない。
でも、
苦しみの感覚は
ありありとわかるし、
それが、
悲しみなのか
怒りなのか
絶望なのか、
そして、
それをその人自らが
創り出しているのか、
それとも
誰かから受け取って
しまっているのか、
などはわかる。
時々は、
その人の
心の叫び声が
聴こえたりもする。
「助けてくれ〜!!」
と叫んでいる人は
いっぱいいる。
にも関わらず、
その人は表面上は
へっちゃらな顔を
している。
最初は
それは装っているのかな、
とも思っていたが、
どうも違うようだ。
多くの場合は、
自分で自分のその苦しみに
気づいていない
ようだ。
「気づかないまま
行けばいいじゃないか」
という意見も
あるだろうが、
やはり
そうはいかない。
苦しみが
ある限界を超えると、
それは
「病気」に
なってしまうから。
それは、
体の病気として
現れることもあるし、
心の病気として
現れることもある。
苦しみを
苦しみと
感じることの
健康さ。
それを私は常に
訴えている。
・・・・・・
現実と
きちんと
向き合っているか?
という
問い。
これを受けて、
向き合っていると
迷いなく答えられる人は
稀ではないか。
人は本当は
現実と
向き合えば向き合うほど、
楽になる。
しかし
現実には
苦しみの象徴が
たくさんある。
だから
目を背けたくなる。
目を背ければ
その時点で
現実逃避だ。
現実逃避は
多大なストレスを
生む。
この状態のまま
人が人を
サポートすることは
極めて難しい。
サポートする側の
人間は、
少なくとも
現実とはきちんと
向き合い続けており、
自ら発生させるストレスは
最小限であるのが
望ましい。
それができている人を
私は
「コーチ」
と呼ぶ。
・・・・・・
現実と
きちんと向き合っているか
どうか?
その最も簡単な
判断基準は、
「自分の家族と
きちんと向き合って
いるかどうか?」
・・・だ。
家族というのは、
やはり
大事だ。
その人の人生の
基盤になる。
家族との関わりは
人生との関わり
に反映される。
自分の家族と
向き合えていない人が
コーチをやると、
最悪のコーチングになると
言っていい。
表面上は
どれだけ素晴らしい
コーチングになったとしても、
根底が
あまりに脆弱に
なるのだ。
家族と向き合えていない
コーチは
その時点でもう
本物ではない。
・・・・・・
どれだけ
セルフコーチングをして
内面を整えたとしても、
自分の目の前にある
現実を整えずして
人生は
進まない。
その「現実」の
最も基本となるのが
「家族」
だ。
例えば、
両親。
例えば、
兄弟姉妹。
例えば、
妻、
もしくは、夫。
例えば、
子ども。
関係が
上手くっているかどうか、
ではない。
もちろん
上手くいっていることに
越したことはないが。
関係が
上手くいっていても
いっていなくても、
ちゃんと
向き合い続けているか
どうか、
だ。
つづく
自分と向き合う、
ということと、
現実と向き合う、
ということは
完全に一致する。
私は
セルフコーチングを
提唱しているが、
セルフコーチングと
言うと、
心の内面ばかりに
意識を向ける印象が
どうも一般的には
あるらしい。
しかしそれでは
意味がないし、
逆に
内面に意識を向ける
だけでは
セルフコーチングなど
やらない方が
ましだ。
セルフコーチングは
自分をオープンに
するために行なう。
現実に対して
オープンになるために。
というよりも、
本当は
セルフコーチングを
正しくすればするほど、
人は自然に
現実に向かいたく
なるものだ。
9月から
『ザ・セルフ』という
セルフコーチング法を
学んでいただく
新しい講座を始めたが、
ご参加されている皆さんは
どんどん「現実」を
変えている。
拝見していて
実にすがすがしい。
セルフコーチング法さえ
きちんと教えていけば、
コーチという存在など
要らなくなるのではないか、
という
錯覚さえ抱いてしまう。
もちろん、
錯覚である。
・・・・・・
私には
お気に入りの美容師さん
がいて、
もうかれこれ10年近くは
彼に髪の毛を
カットしていただいている。
若い人だ。
初めて出会った時は
彼は確か27歳と
言っていた。
道端で、
彼の勤める美容室の
リーフレットが
配られていた。
それを手にとって
写真を見たら、
彼が小さく写っていた。
あっ、この人に
会いたいな。
と思い、
さっそくその美容室に
行った。
思った通り、
真本音度合いの高い人で、
若いくせに(失礼)
とても真摯な人だった。
彼の美容師としての
成長意欲は
とても高く、
私は彼と共に、
私も成長していこうと
決めた。
それ以来、
私の髪の毛は
彼の直観にお任せ
である。
彼の素敵なところは、
その能力もあるが、
それにプラス、
私の言うところの
「コーチ」としての
力にもある。
彼は、
私が話しかけて
ほしくない時は、
決して一言も
話しかけてこない。
私がちょっと
会話をしたいなと
思うと、
その瞬間に
気軽に話しかけてくる。
しかし
余分なことは
一切、言わない。
気軽だけど
シンプル。
実に
居心地が良い。
私はいつも
カットだけでなく、
彼に頭のマッサージを
依頼しているが、
彼にマッサージしてもらうと
「愛」を感じる。
そして、
目を瞑りながら
いつも私は
セルフコーチングをする。
すると、
仕事上のひらめきが
次々と
自然に起こってくる。
一人でいる時よりも、
彼と共にいる時の方が、
間違いなく
生産性が上がるのだ。
私は
こういう人のことを
「コーチ」
と呼んでいる。
私は、20年以上、
セルフコーチングを
探究してきたが、
それでも
彼のような「コーチ」が
そばにいると、
より発想が広がるのだ。
もちろん、
彼には
私は仕事の話は
ほとんどしない。
ほぼ、
雑談ばかりだ。
でもそれで
充分。
彼と話すだけで、
発想は広がり、
そして深まる。
そういった意味で
「コーチ」は
必須の存在だ。
・・・・・・
しかし今日、
私は彼に髪を
カットしてもらいながら、
彼に言った。
「コーチ」なんて
必要ない世の中に
なればいいと
思ってるよ。
・・・と。
その言葉に
彼はちょっと
驚いていたようだが、
私は本当に
そのように思っている。
「コーチ」の
必要のない世の中に
この世が進化したら、
どれだけ素敵な
ことだろうか、と
思うのだ。
それはつまり、
すべての人が
「コーチ」となれる
世の中のことだ。
「コーチ」なんて
名乗る必要のない
世の中。
人が人の想いや
可能性を
より広げ、高め、
深め合える、
そんなコミュニケーションを
取れる世の中に
なるといいな、と
本当に思う。
そのためにも
私は、
「コーチ」として
今日も明日も
がんばるし、
そのためにも
本物の「コーチ」を
育成したい。
つづく
誤解を恐れずに
言うならば、
私は
「自己肯定」
という言葉がどうも
しっくりこない。
もちろん、
その意味は知っているし、
重要さもわかっている。
なくてはならないもの
だということも。
しかしどうしても
「肯定」
という言葉に
ひっかかる。
「肯定」という
言葉の裏には必ず、
「否定」が
セットだからだ。
自分を否定し続けていた
人が、
それではいけない。
自分をもっと
肯定しなければ。
と、決意して、
自己イメージを変え、
人生を新たに
歩み始める姿は
何度も目にしてきた。
しかし私は
「自己肯定」を
唱える人達には
どうしても
不安定さを感じてしまう。
「否定」を
「肯定」に
変えただけだからだ。
それは
「解釈」の変化
「視点」の変化
に過ぎない。
次元が
同じなのだ。
同様に、
「物事を肯定的に
捉えよう」
という人にも私は
不安定さを感じてしまう。
「物事を
肯定的に捉える」
のと
「物事を
否定的に捉える」
のは、
同じ次元だからだ。
同じ次元に
いるうちは、
「どっちが正しいか?」
という
闘いに過ぎない。
だから、
自己肯定に
努力している人が、
それでも
大きな失敗をしてしまうと、
途端に
自己否定に戻ってしまう。
「私には
素晴らしいところが
あるんだ」
と、努力して
思っていても、
それを覆す出来事が
あれば、
「やっぱり私は
ダメだった」
となるのだ。
「素晴らしいか」
か
「ダメか」
のせめぎ合い。
そこにいるうちは、
本質は
何も変わらないのだ。
安定度合いは
何も
変わらないのだ。
・・・・・・
「私は前向きに
生きることを
信条としています」
という人がいれば、
「後ろ向きな気持ちが
あるのが
人間の当たり前の
姿ですよ」
と私は伝える。
すると、
多くの人達が
とてもホッとした
お顔になる。
どんな心があっても
いいじゃないか。
それが
人間なんだから。
というメッセージを
これまでは私は
何千人、何万人の
人達に
伝え続けて来ただろうか。
「前向きか」
「後ろ向きか」
という世界から
解放されて初めて
人は、
自分自身の本当の
人生の道を
歩み始める。
どんな自分も
愛せるように
なるからだ。
「愛」とは、
「前向きさ」では
ない。
「人を愛する」
とは
「前向きに生きる」
ことではないのだ。
「前向き」も
「後ろ向き」も
どっちでもいいじゃん、
というところに
愛はある。
そこかしこに
すべてに
愛はあり、
それを知るものが
本当に
人を愛せるのだ。
・・・・・・
そんな話をした時に
ピンと来ない人が
いる。
そんな人は
コーチをやっては
ならない。
それよりも
もっと自分自身の人生に
真剣になった方が
よい。
自分と向き合うことに
真剣になった方が
よい。
これも誤解を恐れずに
言ってしまえば、
残念ながら今の日本には
「にわかコーチ」
が多い。
自分の人生と
自分自身と、
しっかりと向き合うことも
せずに、
人をサポートする
からだ。
それをもって
「私は人を愛する人生を
進んでいる」
と言う人もいるが、
それは残念ながら
「自己愛」
だ。
本当の愛
ではない。
そして残念ながら、
そういった人ほど、
「前向きに生きる」
ことが大切だ、と
口を酸っぱくして
言い続ける傾向にある。
ひどいことを
言うようだが、
なぜこうもはっきり
言えるかと言えば、
かつての私自身が
そうだったからだ。
おかげさまで
だから私はよく
叩かれた。
どこで叩かれたかと
言うと、
企業様で、だ。
自己愛の頃から
私は
企業のコーチを
していた。
企業のコーチを
する、というのは
自己満足のレベルでは
済まされない。
だから
自己満足、自己愛レベルの
コーチは
叩かれることに
なるだろう。
どれだけ叩かれても
どれだけ失敗しても、
それでもくじけずに
進み続ける。
私は、
人を、組織を、
サポートし続けるのだ、と
進み続ける。
その中でこそ、
自己愛から
本当の愛への
自己変革が
成される。
その成長度合いと
加速度合いが
人や組織に、良い影響を
与える。
「完璧な私になってから
私はコーチを始めます」
とか
「もっと成長してから
私は本格的にコーチ活動を
始めます」
という人もいるが、
それも自己満足であり
自己愛だ。
叩かれて、叩かれて、
それでも真剣に
自分と人に向き合い続ける。
その現場でしか
得られないものが
ある。
というか、
それしかない。
それが人生だ。
そんなこともわからず、
そんなところから
逃げてしまう人は、
コーチをやっては
ならない。
私はやはり、
本物のコーチを
育成したい。
真剣な
コーチを。
つづく
「自分らしくあろう」
という意志は
残念ながら、
強く持ち続けないと
消えてしまうことが
多い。
私達にはそれぞれ
役割があり、
その役割を真面目に
果たそうとする人ほど、
役割に
埋没する傾向がある。
例えば、
わかりやすいところでは、
「リーダー」
という役割。
この役割を担った途端に、
「リーダーであろう」
とする。
そしてその
「リーダーであろう」
という意志は
「自分らしくあろう」
という意志を
消してしまうことが
多い。
「あの人、
リーダーになってから
魅力なくなったよね」
という声を
これまでどれだけ多く
聴いたことか。
そして、
「私、リーダーになってから
仕事が全然
面白くなくなりました」
という声も。
役割意識が
自分らしさを
凌駕する。
どこにも
あることだ。
・・・・・・
「リーダーらしい自分」
になることよりも、
「自分らしいリーダー」
を目指すことの方が
圧倒的に
パワーが出るのが
私達だ。
その人本来の
魅力を、
リーダーという役割の中で
いかに発揮させるか?
ということであるが、
これをするためには
どうしても、
「セルフコーチング力」
もしくは
「コーチの存在」
が必須だ。
人は
自分のことが
わからない。
ましてや、
「自分らしさ」を
正確に自覚している人は
私は
これまでに一人も
見たことがない。
もちろん、
私自身も含めて。
「コーチ」とは
その人の
「鏡」
となる存在だ。
ただし、
ただの「鏡」では
ない。
その鏡は
ものを言う。
現実に映し出されている
もの、
つまりは
顕在化しているもの
だけでなく、
まだ、眠っているもの、
潜在しているものすら
映し出すのが
コーチという鏡だ。
コーチという鏡を
活用することで、
その人は
自分と向き合う術を
手に入れ、
結果的に
セルフコーチング力を
高めていく。
セルフコーチング力を
高めれば高めるほど、
自分理解が進むが、
その「自分理解」の
さらに上を行く
「鏡」であり続けることが
コーチには
必要とされる。
クライアントの
自分理解を100と
するならば、
常に、120以上を
映し出す鏡であることが
コーチの役割だ。
もちろんそのためには、
コーチ自身も
自分らしくあらねば
ならない。
誰よりも
自分らしく生きる人
こそが、
コーチという役割を
担うことができる。
「鏡」であるからには
自分を消さねばならない、
ということではない。
自分を極める人
こそが、
鏡になれるのだ。
そういうことで言えば、
コーチというのは
難易度の高い
役割であると
言わざるを得ない。
が、
自分らしく生きる
とはどういうことか?
の本質を
一度掴んでしまえば、
これほど面白い
職業もない、のだ。
私の義理の父は、
囲碁が大好きであるが、
先日、
「囲碁っていうのは、
初心者にとっては
難易度が高く、
非常に取り付きにくい
ものだが、
その代わり一度
その魅力を知ってしまうと、
もう、やめられなくなる」
と言っていた。
コーチも
それに近いものが
あるのかもしれない。
・・・・・・
私は
コーチを育成
する。
改めて、
そう決めた。
ただし、
本物のコーチしか
育成しない。
これまでは
ある意味、
「コーチ的なコミュニケーションを
取れるだけでも
いいですよ」
でやってきたように
思う。
しかしこれからは、
「本気でコーチになろう」
という人を
発掘し、
徹底的に育成する
ということを
やろうと思う。
本物のコーチ
というのは、
先ほど書いたように、
「鏡になれるかどうか?」
という要素が
必須であるが、
もう一つは、
「企業(組織)を
コーチングできるか?」
という要素も
必須であると、
私は考える。
つまり極端に言えば、
「企業をコーチングできない人は
コーチとは言えない」
と、私は最近、
考えるようになった。
この世は
経済で回っている。
その中心は
企業だ。
みんな、企業という
ステージで
必死に生きている。
そういった、
この世を回している
存在を
コーチングできない人は
コーチを
名乗ってはならない、
と
思うようになった。
それくらいに
シビアに
「コーチ」という存在に
これからは
こだわっていこうと
思う。
企業とは、
人間のルツボだ。
その企業に
果敢に
分け入っていける。
自分らしく。
そして、
そこにいるあらゆる
人達の
「自分らしさ」を
サポートできる。
しかも、
その企業の
組織としての課題解決や
求める成果まで
きちんとつなぐことができる。
そういった
本物の力を持った
コーチの育成に、
私は
全力を注ぎたい。
つづく
では、
体験コーチングを始めさせて
いただきます。
まずは、
コーチングを受けてみたいな、
と思われたきっかけや
理由がございましたら、
教えてください。
はい。
よろしくお願いします。
いきなり
本質的な話で恐縮ですが、
ぶっちゃけて
言いますと、
私、
自由になることが
怖いんです。
はい?
いえね、・・・
私は人から言われた通りに
生きることが
好きだったんです。
だって、
楽じゃないですか。
仕事でも特に
出世意欲もなく、
ただ上司の言われた通りに
仕事をする。
もちろん、言われたことは
きっちりと仕事しますよ。
でもそれだけを
考えて、
求められたことに応える
ことだけを考えて
仕事をするのが
とても好きだったし、
それが仕事だと
思ってたんです。
なるほど。
でも、最近急に、
会社から
「主体性を大事にしろ」
と言われるように
なったんです。
「自分で考えろ」
と。
そんな、・・・急にそんなことを
言われても、と
困りましたよ。
人生なんて、
主体的でなければないほど
楽だと私は思いましたし。
へぇ。
なかなかそこまで
言い切る人も
珍しいですね。
そうなんですよ。
みんなそうじゃないのかな?
ここまではっきり
「主体性が嫌です」
と言う人も少ないらしく、
私、それをはっきり会社でも
言ってしまったんです。
今まで通り、
言われたことを
言われた通りに
こなす仕事をしたい、って。
するとなんと、
会社は私にコーチを
つけました。
えっ?
会社が社外のコーチを
雇ったんです。
どうも、問題児をコーチングする
ということのようです。
私はその問題児の一人に
選ばれたようで、
社外から来たコーチに
定期的に面談され、
コーチングを受けてるんです。
へぇ、そうなんですか。
すでにコーチングを
受けていると。
社内で。
はい。
でもそのコーチングが
私は嫌で嫌で
たまらないのです。
「何を望んでいますか?」
と言われたって、
何も望んでませんよ。
「ただ、言われた通りに
生きることを望んでます」
と言ったら、そのコーチ、
凄いムッとするんですよ。
ムッとしながらも、
はっきりと叱られるわけでも
なく、
でも明らかにそのコーチは
怒っていて、
もうあの空気が嫌で嫌で。
なるほど。
それはちょっと
キツそうですね。
キツいなんてもんじゃ
ありませんよ。
会社を辞めようとまで
真剣に考えてますから。
そうなんですか?
いやでもね、
そうは言っても私は
今の会社、結構
好きなんですよ。
仕事も好きですし。
辞めてもこの年ですし、
新しい会社を探すのも
現実的じゃないし、
モチベーションも
上がらないし。
でも、コーチングは嫌で、
あのコーチの顔を
あのムッとした表情と
それを隠そうとする表情を
思い出すだけで、
胃がキリキリしてくる
と言いますか・・・。
あの、・・・
ちょっとよろしですか?
はい?
コーチング
お嫌いなのですよね?
はい、
大っ嫌いです。
なのにまた
自ら進んで私のところに
いらっしゃっているのは、
どのような意図なんでしょう?
あっ、そりゃそうですよね。
しかも、ご自分から
進んでここにいらっしゃって
ますでしょ?
今、会社でコーチング受けていて、
その上でまた
自分からお金を払って
別のコーチングを受けようと
されている。
これはまたどういう・・・?
いやぁ、
コーチングをどう受ければ
良いか?
をコーチングして
もらいたくって・・・。
はははっ!
いやぁ、真面目な話ですよ。
だって今の私にとっては
あのコーチングが
人生の最大の問題
なのですから。
これまでずっと平穏に
生きて来たのに。
いや、もちろん仕事ですから
いろいろありましたよ。
でも、私にとっては
それらは問題じゃないんです。
仕事ですから
問題はあるのが当たり前だと
思ってますし。
でも、あのコーチングは・・・。
あんなの人生にも仕事にも
必要ないでしょ。
「何を望みますか?」
なんて考える必要ないでしょ。
はぁ・・・。
でも、私も福田さんに
「何を望みますか?」と
お訊きすると思いますよ。
でも、私、聞いたんですよ。
たけうちさんのコーチングは
普通のコーチングとは
違うって。
コーチングが嫌な人が
結構受けていて、
みんな元気になるって。
えっ?
そんな風に私は
言われてるんですか?
はい。
たけうちさんを紹介して
くださった人が
そう言われてました。
で、何が違うんだろう?
ということも知りたくて、
とりあえず一度、
受けてみようかな、と。
はぁ・・・、なるほど。
困りましたねぇ・・・。
困りますか?
はい、
困ってます。
だって、「何を望みますか?」って
訊かれるの嫌なんですよね?
たけうちさん、
正直ですねぇ。
コーチがそんな
困った顔するんだ。
そりゃしますよ。
だって私も人間ですし。
はっきり正直に言いますとね、
コーチングって、
毎回、困ってますよ、私は。
これからこの人に
何をすればいいんだろう?って
お手上げになりますよ。
そういう時は、正直に
心の中で「お手上げだ〜」って
両手を挙げるんです。
まぁ今は、「お手上げです」って
喋ってしまってるんですけどね。
はははっ。
私、なんかそういうの
好きですよ。
やっぱり、たけうちさんのコーチング、
定期的に受けようかな。
ええ〜っ?
そうなんですか。
困りますねぇ。笑
はははっ。
よし、受けよ。
つづく
その人の
にこやかなお顔の
奥から
「助けてください!」
の声を
私は聴いた。
最近は、
毎日だ。
会う人会う人
皆が
助けを求めている。
特に
初対面の人に
多い。
そして、
企業でも
組織の上層にいる
人ほど多い。
皆、
苦しみ悩んで
いる。
しかもそれは、
自分だけで
生み出したもの
ではなく、
組織のいろんな人達の
苦しみを
一身に受け止めている
苦しみだ。
そういった人達からの
SOSを感じると、
まず私がするのは、
あなたは
自力でここを
乗り越えたいですか?
それとも
私のサポートが
必要ですか?
という
判断だ。
もちろん、
そのような問いを
実際に投げたところで
ご本人が正確に
答えられることでは
ない。
それよりも
あるがままに
向き合うことで、
自然に
明確に
その判断は自ずと
ついてくる。
あぁこの人は
自力突破したいのだな、
とわかれば、
私は
何もしない。
頼まれても
何もしない。
そこで何かを
してしまうことは、
その人のことを
冒涜しているに等しいと
私は思っている。
・・・・・・
他者が
絶対にやっては
ならないことが
ある。
それは、
その人が
自力で進もうと
しているのを
阻害することだ。
しかし
それをしてしまう人が
多いのも事実だ。
自力で進むのを
阻害することで
発生するのが
「依存」だ。
「ここまで来れたのは
すべてあなたの
おかげです。
ですからこれからも
よろしくお願いします」
と、
もしクライアントさんに
私が言われたら、
私は自分の仕事が
二流だったなと
思う。
「コーチのおかげで
できました」
と言われた時点で
コーチとしては
失格だと
私は思っている。
それよりも、
「たけうちさんはもう
必要ないね」
と言われる瞬間が
私にとっては
無上の悦びだ。
おぉオレ、
いい仕事できたな、
と
自分で自分を
褒めたくなる。
・・・・・・
今の私には
あなたのサポートが
必要です。
しかしそれは
今、だけのこと。
私は自力で進む自分に
なるために
一時的に
あなたのサポートを
求めます。
・・・そんな真本音の
意志を感じる場合のみ、
私はその人の
サポートの決断を
する。
人は皆、
自立と自律を
望んでいる。
そこに向かう
サポートならば
徹底的に
したいと思う。
本当に
この人を
サポートして
良いかどうか?
サポートするならば、
どれだけの
距離感で、
どれだけの
サポートをすることが
本当に必要か?
いつ、
サポートを終え、
その人から
離れれば良いか?
こんな判断が
的確にできる
コーチを
私は増やしたい。
つづく
洞窟の中に
私は仰向けに
倒れていた。
真っ暗で
何も見えない。
その私の
胸からお腹の辺りに
何かが
乗っかっている。
重い。
どうやら
時間が経つにつれ、
徐々にではあるが
重みは増している
ようだ。
しばらく私は
それに耐えていたが、
しだいに
内臓が圧迫され、
苦しみに
悶えるようになった。
重い。
苦しい。
ゲホッと、
まるで動物の
呻り声のようなものが
私の口から
吐き出された。
やばい。
このままでは
圧迫されて
死んでしまう。
でも、
周りは真っ暗で
何も見えない。
いったい
自分に何が
乗っかっているのか
すら
わからない。
ただ、
重く
ただ、
苦しい。
やばい。
死んでしまう。
と、
私は必死に
もがき始めた。
生命の危機
を感じ、
もがき始めた。
その時になって
初めて、
私は
気づいた。
ここは
暗闇ではない。
私自身が
目を
瞑っているのだ、
と。
・・・・・・
私は
目を開けようと
思った。
しかし、
開かなかった。
怖いのだ。
怖くて
目を開ける勇気が
出ないのだ。
命の危機に
晒されているのに、
怖さの方が
勝ってしまっている。
すると
それを見透かした
かのように、
さらに重みが
増してきた。
あ、ダメだ。
本当に
もうダメだ。
もう
限界だ。
というところまで
来て、
初めて
私はようやく
目を開けた。
・・・・・・
目を開けると、
なんとそこは
草原だった。
明るい日差し。
青空が
広がっていた。
呆然としながらも
私は
私の体の上に
乗っかっている
ものを見た。
私のお腹と
胸の上には、
私自身が
立っていた。
お、お前は
俺か?
と、必死に
私が問うと、
見ての通りだ。
俺は、
お前だ。
と
彼は言う。
お前が俺なら
俺を
助けてくれ。
俺の上から
どいてくれ。
と
私が言うと、
いいよ。
と彼は言い、
あっけなく
私の上から
降りた。
ゼーゼーと
私は
何度も息を
深く吐いた。
た、
たすかった・・・。
私はしばらく
うずくまっていたが、
少し落ち着くと
途端に
腹が立って来た。
おい、お前、
なんで
俺の上に
乗っかっていたんだ!
と
私が叫ぶと、
何言ってんだ。
お前が自分で
望んだことだろう。
・・・と。
その一言で
私は
思い出したのだ。
そうだった。
私が
望んだこと
だった。
目を閉じたままで
決して開けようと
しない自分に対して、
本当に
腹を立てたのは
他でもない
私自身だった。
だから私は
私自身に
「必死さ」を
与えた。
それにより
ようやく私は
目を
開けることが
できたのだ。
私はずっと
自分が
洞窟の暗闇の
中にいると
思い込んでいた。
それが
人生だと
思い込んでいた。
しかし、
本当は
気持ちの良い
草原にいた。
青空まで
広がってやがる。
その現実を
私は
自ら目を閉ざして
見ようと
しなかった。
すまんな。
ありがとう。
感謝してるよ。
と、
私は
私の上に乗っかっていた
私自身に
伝えた。
わかれば
いいんだよ。
心配したぞ。
本当に
死んでしまうのでは
ないかと
思ったよ。
でも俺は
お前を、
つまりは
俺自身を
信じているから。
そう言われて
私は
涙した。
涙しながら
訊いた。
お前はさ、
本当に
俺なのか?
すると
彼は笑いながら
言った。
何言ってんだ。
俺はお前だ。
お前が
俺なんだよ。
だって俺は、
お前の
真本音なんだから。
つづく
完全燃焼しなければ
掴めないものが
ある。
すべてが
灰になるまで
力を振り絞り、
限界を超えることで
初めて
わかることもある。
でも。
本当にそこまで
やる必要が
あるのだろうか?
ずっとその答えが
わからぬまま
ここまできた。
・・・・・・
私はほとんどが
いい加減な
人間だが、
でも、
これは!
と思ったことに関しては、
とことん
やり切ってきた。
自分が納得するまでは
決して
やめなかった。
自分が得たいものは
必ず
得られるまで
やり続けた。
ちょっと大袈裟に言えば、
たとえ
自分の命が
尽きてしまったとしても、
それよりも
得たいものを得る
方を優先した。
よくここまで
生きて来られたものだ
と、
この歳になって
ようやく客観的に
思えるようになった。
私の生き様は
極端だ。
人間としての私は
とても
ヘナチョコで、
臆病で気が小さくて
何ともならないのだが、
しかし
そんな自分であることを
お構いなしに
突き進む自分も
時々、現れた。
ヘナチョコでも
進むんだ、
今は。
と思うと、
後先考えずに
突き進んだ。
あっ今日、もう俺
死んじゃうな。
と思う日が
毎日続いた時期も
あった。
ヘナチョコのくせに
そこまで
やってしまう。
その捨て身さ加減に
私は
危うさを感じると
共に、
他の人にこの
生き様を
押し付けるのは
絶対にやめよう、
と
気をつけて
生きてきた。
こんな生き方、
よほどの
アホじゃないと
無理だと
やはりどこかで
ちゃんと
わかっていたからだ。
そういった意味で
私は私のことを
「変態」であると、
認めていた。
人に
「変態」を
押し付けては
ならない。
それが
私自身への
戒めだった。
いつもいつも。
・・・・・・
「変態」から見れば、
「普通」の人は
眩しく見える。
普通に生きられる
のって
いいなぁ、
と
いつも羨ましく
眺めていた。
普通の人が
普通に
生きられますように。
というのが
私の祈りの
一つだった。
そして本当に
普通の人が
普通を取り戻して
いく姿は
感動的で、
その人の魅力が
どんどん溢れ出た。
いいなぁ。
普通の人は。
という、
わけのわからない
感嘆と共に
私の人生はあった。
・・・・・・
人間は
「普通」であるのが
一番。
「普通」の人こそが
人としての本来の
進化を遂げていく。
そう思ってきたし、
今でも
そう思っている。
私は、
人が「普通」になるために
サポートを
続けている。
でも。
でも。
でも・・・。
どうやら
「変態」が
私の他にもいることが
近年、
わかってきた。
そういう人と
出会ってきた。
そういう人を見ると、
まるで
鏡を見ているようだ。
いつしか。
私の使命は
「変態」こそを
サポートすることでは
ないか、
と思うように
なった。
しかし
多くの「変態」は
まだ、
顕在化していない。
ある時
ある瞬間から、
あっ、この人
まだ完全に
眠っているけど、
私と同じ
「変態」だな。
と、
わかるようになった。
本当に
近年のことだ。
本人は
自分のことを
「変態」だとは
ちっとも思っていない。
かつての私が
そうであったように。
しかし
紛れもなく
「変態」
だ。
あなたは本当は
「変態」なんだよ。
と、
私は最善のタイミングで
その人に
伝えるだろう。
そして、
「変態」が
変態的に生きることを
サポートするだろう。
それは
とてつもなく
骨の折れることで
あるが。
人間として
本当に魅力的なのは
「普通」の人だ。
「変態」は、
人間っぽくない。
だからこそ、
「変態」のサポートは
私にしか
できないことかな、
と
今は思っている。
つづく
怒りは
抑えない方が
いい。
怒りが湧く
というのは、
人として
当たり前のこと。
人生やってれば
必ず発生
するもの。
怒りが発生
すれば、
それを開放
すればいい。
ただしそれを
単なる反応として
人に向けては
ならない。
反応は
次の反応を生み、
反応の相乗効果は
怒りを何十倍にも
増幅させる。
そしてその循環から
出られなくなる。
それを
怒りの開放
とは言わない。
むしろそれは
怒りを閉じ込めている
行為だ。
怒りの開放
とは
怒りと向き合う
ことだ。
人は
怒りが発生すると
多くの場合
向き合わない。
向き合えば
コントロールできる
はずのものが、
向き合わないから
コントロール不可
となる。
怒りに任せて
思わず
怒りそのものの行動
や振る舞いに
走ってしまうというのは、
怒りに向き合っていない
ことによる
最も典型的な
現象だ。
その人は
怒りに呑まれた
振る舞いをしながら、
怒りから
逃げ続けている。
それでは
怒りが開放される
ことはない。
怒りはさらに
塊となり、
その人の中に
残り続け、
育ち続ける。
怒りの開放とは
真逆の行為だ。
・・・・・・
怒りとしっかり
向き合い、
自分は今、何に
怒っているのか?
を
ハッキリくっきりと
知ること。
それが
向き合うという
こと。
いや、
自分が何に怒っているか?
などは
百も承知だ、
と言う人がいる。
でも残念ながら、
それは違う。
ずれている。
その人が
怒りの原因だと
思っているものとは
ずれているのだ。
本当はその人は
そこで怒っている
のではなく、
もっと別のところに
怒りの源泉が
ある。
それが見つかって
おらず、
それを放置するからこそ、
怒りは
開放されない。
そしてその人は
怒りの塊と
化していく。
・・・・・・
もちろんこの世の中、
「向き合う」なんて
そんな生易しくない
怒りもたくさんあるだろう。
それは充分
承知している。
人間の持つ
本当に深い怒りに
私も何度も触れてきたし、
私自身も
そこから抜け出せなく
なったこともある。
怒りとは
まるで宇宙のように
無限に深まっていく。
でもだからこそ、
私達は
怒りと向き合わねば
ならないのだ。
怒りに対して
逃げ腰になることで
私達は
怒りに呑まれる。
怒りを愛せ、
とは言わない。
ただ、
怒りと
向き合ってほしい。
怒りを
まっすぐに
見つめてほしいのだ。
・・・・・・
すべての怒りが
開放されたとしても、
それでも残る
怒りがある。
それこそが
本物の
怒りだ。
これを私は
『真本音の怒り』
と呼んでいる。
つまりは、
真本音と結びついた
怒りだ。
そして、
真本音が望む
怒りだ。
そういうものが
あるのが
私達人間であり、
真本音の怒りには
私は
思いっきり呑まれる
ことをお勧めする。
真本音の怒りに
呑まれ、
その怒りに委ね、
その怒りに任せた
行動をとれば、
すべてが
調和していく。
それは大変
勇気が必要なこと
かもしれないが、
それでも私は
それをお勧めする。
実際に
私はその通りに
している。
すると面白いように
すべてが
調和していくのだ。
私達の真本音は
「最善の道」
を進もうとする。
今、怒ることが
最善の道だと
判断すれば、
その通りにするのが
私達の真本音だ。
だから私は
真本音の通りに
淀みなく
まっすぐに
怒る。
それが
人を愛することの
一つの形であると
私は
確信している。
つづく
人は皆、
孤独なのだろうか。
よく、そう感じる
ことがある。
いや、
私はと言えば、
確かにずっと
孤独だった。
誰も私のことを
本当には
理解してくれないだろう
と思っていた。
多くの人も
そう思っている
のではないか。
一日の仕事を
終えて
帰途についている時、
ふと
無性に泣けてくる
ことがある。
理由がわからずに
涙が流れるので、
慌てて
人目のつかないところに
逃げ込み、
そこで泣く。
よくあることだ。
泣きながら、
この涙は
私のものだろうか?
という
問いをいつも
投げる。
すると
ほとんどの場合は、
私
ではない。
先ほどお会いした
あの人のものだ、
と
わかる。
とてつもない
悲しみ。
それと共に
必ず湧き上がって
くるのが、
言いようのない
孤独感。
人はみんな
孤独なんだな、と
そんな時に
いつも思うのだ。
・・・・・・
これは私の
体質なのだと
随分前にすでに
諦めているのだが、
私は
私と向き合った人の
苦しみを
そのまま
受け取ってしまう。
そして、
その人が苦しんでいる
まったく同じ強さの
苦しみを
そのまま
感じ取ってしまう。
一日に
何人もの人と
向き合えば、
その人数分だけ
苦しみは倍増する。
時には、
全身が崩壊するのでは、
と思うくらいの
苦しみに
苛まれてきた。
以前は、これは
私の思い込みに
違いない、
と思っていた。
人に相談しても
誰もが
そう言った。
だからこんな思い込みは
やめよう、と
ずっと試行錯誤
してきた。
しかし
ある時から、
どう見ても
思い込みではない
ということが
わかるようになった。
その苦しみ達と
いつしか私は
真正面から
向き合えるように
なったのだ。
すると、
その人が今、
何に苦しんでいて、
どうすれば
その苦しみから
抜け出ることが
できるのか?
が、わかるように
なった。
そして
その通りのサポートを
すれば、
その人は必ず
解放された。
そういった経験を
何十人、何百人と
続けてきた。
それは私にとっては
時には
地獄のようで
あったが、
しかしその経験を
経て、
ようやくわかったのだ。
人は
もっと
楽に生きることが
できる、
と。
そして、
人は
もっと
楽に生きる
権利がある、
と。
みんな、
苦しみ過ぎだ。
その苦しみは
不必要だ。
もちろん、
進化や成長の
ために
必要な苦しみは
ある。
乗り越えるべき
苦しみは
必ず、ある。
しかし、それ以上に
不必要な
苦しみもあるのだ。
ということが
本当によく
わかった。
だから私は
もっと
すべての人が
楽に生きることが
できるとよいと、
祈る。
その祈りのために
生きることに
した。
それが
約8年前の
ことだ。
・・・・・・
私は一人の
人間だ。
人が人を
救うなんてことは
大変
おこがましいことだ。
そんなことは
よくわかっている。
でも、
私はその人の
苦しみを
そのままに
感じ取ってしまうのだ。
何とかしたい、
と思うのは
人として
当然だろう、
と、今は思えるように
なった。
必要な苦しみは
その人自身が
自力で
乗り越えれば
いい。
でも、
不必要な苦しみは
早く
手放そう。
本当に
そう思う。
その術を
私は探究し続けるし、
その術を
修得したコーチを
私は
たくさん育成
したいのだ。
つづく
真剣な人って
やっぱり
いいなぁ。
真剣な人って、
上手く進もう
なんて
考えていない。
いろんなものに
ぶつかってもいいから
前に進もうと、
そればかりを
考えてる。
だから私は
言う。
もう少し
ゆっくり
進んでも
いいですよ、
と。
私、結構
この一言を
言うのが
好き。
早く
やりなさい、
とか
もっとスピードアップ
しなさい、
とか
本当は
言いたくない。
ちょっとちょっと
やり過ぎじゃない?
と
お伝えするときの
幸福感といったら。
・・・・・・
真剣な人ほど、
怖い、怖い、
と言う。
怖さに対して
素直なのだ。
怖い、怖い、
と言いながらも
進んで行く。
怖いから
止まる、
という選択肢は
ない。
怖いのと
止まるのとは
まったくの別物だと
いうことだ。
むしろ、
自分が怖がっていることを
素直に認めない人の
方が、
歩みは遅いかな。
人間なんで
怖いのは
当たり前。
怖がりが悪い
なんてことは
一つもない。
怖がっている自分を
噛み締めれば
いいし、
愛すればいい。
その方が
淡々と前に
進める。
・・・・・・
前に進む、
とは
プラス指向で生きる
ということでも
ない。
私はね、
プラスでもマイナスでも
どっちでもいい
と思ってる。
プラス指向でいなきゃ、
と思い過ぎると、
マイナスの心に
フタをしてしまう。
フタをされた
気持ちたちは
だいたいは
フタをされたことに
反発して
10倍くらいに膨れ上がる。
だから、
プラス指向で
生きなきゃ、
と思っている人の多くは、
そう思えば思うほど、
マイナスの心が
隠されている。
そんな辛くて
難しいことを
するくらいなら、
そんなの
どっちでもいいじゃん。
と思いながら、
進んだ方がいい。
まぁ、
私自身がもともと
「超」がつくくらいの
マイナス指向の
人間だったから
そう思うのかも
しれないけどね。
・・・・・・
怖くてもいい。
マイナスでもいい。
でも
進む。
でも
自分のやることを
やる。
自分のやることは
真本音が
知ってる。
真本音に素直に
動く。
それを
するだけ。
それが
真剣に生きる
ということ。
これをすると
結構
ぐうたらになる。
そうそう。
真剣な人は
結構みんな
ぐうたらだ。
でも、
いざという時に
1000%の力を
出す。
そして
「いざという時」
をよく
わかっている。
だから
真剣なんだ。
・・・・・・
怖がりでも
いい。
マイナスでも
いい。
ぐうたらでも
いい。
それでも、
私はコーチとして
人を真剣に
サポートしたい、
というコーチを
私は育成
したい、
真剣に。
なのでそろそろまた
コーチ養成を
やろうと
思ってます。
つづく
人には
第3の目がある。
その目が
開かれた時、
それまで
見えなかったものが
観えるようになる。
私の場合、
物事のシンプルさが
観えるようになった。
そしてその結果、
本当はシンプルで
あるはずの
現実の中で、
いかに人々が
複雑怪奇なことを
し続けているかを
知ることになった。
しかしそれを観て、
人は愚かだと、
私にはどうしても
思えなかった。
それよりも、
あぁこれが
私達人間なのだな、
とある意味
感嘆した。
そして
恐らくその時初めて、
私は人を好きに
なれた。
・・・・・・
シンプルなことを
複雑怪奇に
行なうことほど
疲れることはない。
私、
あなたのことが
大好きなんだよね。
このシンプルな
理由だけで
人はその人に対して
一生懸命になれる。
なのに、
そこに変な
理由づけをする。
大好き、
という純粋な
気持ちにさえ、
何らかの意味を
持たせようとする。
もちろん
意味はあるのだけど、
本質とは別の
意味をそこに持ってきて、
本質とずれるばかりの
行動を付加する。
そしてそこに
誤解が生まれる。
すると今度は
誤解を解くための
行動を
せねばならない。
当然、
上手くいかない。
誤解はまた
次の誤解を生み、
結局、最初は
何だったのか?
もともとの想いすら、
思い出せなくなる。
その連続の
日々。
そしてついには、
自分が
何者で、
何をするために
ここにきたのか?
完全に
わからなくなる。
皆、
迷子になる。
・・・・・・
私達は皆、
好きで
人間を
やってる。
人間を
味わうために
人間を
やってる。
だから本当は
複雑怪奇なこと
それ自体を
味わえばいい。
だけど
そうはなかなか
いかないんだな、
これが。
自分を見失うことの
辛さは
私には本当に
よくわかる。
私は随分と長い間、
自分を失ったままで
いた。
これが自分だ、と
それこそ誤解も
していた。
わかったつもりにも
なった。
人生とは
こんなもんだと
投げやりにもなった。
人間とは
こんなもんだ、と。
・・・・・・
私は
紛れもなく
私なんだろう。
そして
あなたは
紛れもなく
あなただ。
私とあなたは
別の脳を持ち、
別の体を持ち、
別の心を
持っている。
もちろん、
別の人生を
生きてきた。
そんな別ものが
今ここで
交わっている。
その場合、
私は、
私のすることとは、
あなたとの関わりを
あらゆる意味で
シンプルにすることだと
思っている。
私はもう
シンプルな人生を
進むと決めた。
もう
複雑怪奇は
飽きた。
本来の私として
私は生きていく。
だから
私と関わるすべての人、
つまり、
あなたにも
シンプルに戻ってもらおうと
思っている。
ちょいと傲慢な
表現だが、
それが私という
人間だ。
とは言え
そこに対して私は
これまで
かなり躊躇しながら
来たような気がする。
その躊躇を
もう取ろうかと
思っている。
私はあなたの
あらゆるものを
尊重しよう。
でも、
私の想いは、
私もあなたも
シンプルになることだ。
そのために
私は
あなたと関わっていく。
つづく
あなたの全身に
意識を向けてください。
そして
あなた自身の
エネルギーを
感じてみてください。
体の中に充満し、
そして
循環を続ける
エネルギーを
感じてみてください。
そのエネルギーは
今、
高まりつつある
感覚がありますか?
それとも逆に
弱まりつつある
感覚がありますか?
どちらにしても、
そのエネルギーの循環が
滞りやすそうな
体の箇所を
見つけてみてください。
それは誰にでも
必ずあるものです。
例えばもし
エネルギーを
「光」として捉えた場合、
その「光」が少なく、
ちょっとした「影」とか
「暗闇」のように感じる
体の部分が
あるはずです。
そこを
特定します。
特定できたら、
そこに手を
当ててください。
手を当てながら、
手から
あなたのエネルギーが
集中的に注がれる
イメージをしてください。
「影」や「暗闇」が
なくなり、
他の体の部分と同様に
「光」となれば、
完了です。
・・・・・・
滞りは
誰にもあります。
体の滞り。
心の滞り。
恐らく、
滞った箇所に
手を当てて
エネルギーを注いで
いると、
何となくですが、
その「滞り」が
どのような原因で
生じているのか?
が
わかってくるのでは
ありませんか。
その「原因」は
あなたの心の中の
問題かもしれませんし、
現実的な問題かも
しれません。
いずれにしても
その「原因」を
解消するために
何らかの行動を
起こしましょう。
・・・・・・
エネルギーの循環が
100%ではなく、
ほんの一部の滞りに
よって
99%になってしまったと
します。
すると実際に
日常生活の中で出せる
あなたのエネルギーは
半減してしまうのです。
1%の滞りが
エネルギー出力を
半分以下にして
しまうのです。
これは実は
「個人」だけでなく
「組織」も
同じ。
「ちょっとした原因」
だと思っているもの
こそに、
実はエネルギーの大半を
奪われている可能性は
大いにあります。
その「原因」や
「滞り」を
見つけることが、
大いなる飛躍のための
大切な一歩に
なるでしょう。
つづく
大学3年の夏、
私は3週間、山の中に入り、
縦走を続け、
最後の目的地点として
剣岳という山の
ピークに立った。
このピークまで
メンバー全員と
無事にたどり着けるか
どうか?
というのは、
今から考えると、
私の人生においては
非常に重要な
分岐点だった。
つまり私は
真本音で
決めていたのだ。
剣岳のピークに
立てれば、
人生の次のステージに
進もう。
立てなければ、
もう一度、
同じステージを
やり直そう。
そう
決めていたのだ。
もしあの時、
剣岳まで
たどり着けなかったと
したら、
私の人生の展開は
20年は遅れて
いただろう。
この20年は
大きい。
人生の質そのものを
大きく決定する
大切な分岐点
だった。
私達の真本音は、
このような分岐点を
人生において
いくつも設定している。
・・・・・・
剣岳のピークに
立つこと自体も
もちろん大事で
あったが、
さらに私の真本音は
もう一つの条件を
自分に課していた。
それは、
メンバー全員が
笑顔でピークに
立つこと、
だ。
それをするためには
私は
メンバーを愛せる
リーダーとして
成長していることが
必須だった。
人を愛し、
そして
結果を出す。
私の真本音は
これを
私自身に
課していた。
剣岳のピークに
立った時は
快晴だった。
私達が
3週間かけて越えてきた、
北アルプスの山々の
ほとんどが
見渡せた。
それを
全身で受け止めながら、
私は
それまでの私の人生を
感じていた。
そして、
そのピークにおいて、
私は
それまでの私の人生を
手放した。
もう一度、
自分を
「ゼロ」に
戻したのだ。
ある意味、
私のこの人生の
流れは、
あの時あの瞬間に
決定したと
言っていい。
・・・・・・
そういった大事な
「分岐点」
を、
私はすべての人が
自覚できるといい、
と思っている。
そして
自分の設定した
分岐点に
自分で責任を持つ。
それをすることが
自立、そして自律の
基本だと思う。
残念ながら、
分岐点の手前で
逃げてしまう人を
私は
何人も見てきた。
その度に
私は自分の無力さを
悲しんだが、
しかしこれはもう
他者には何とも
し難いことだ。
きちんと
自分自身と約束した
分岐点に
たどり着くこと。
それは
本人の意志でしか
成し得ない。
分岐点の
手前までは
サポートすることは
できる。
しかし最後の一歩を
踏み出すかどうか?
は、
本人が決めることだ。
・・・・・・
今、
分岐点を
目の前にし、
戸惑っている人が
たくさんいる。
私は
心からその人達を
応援したい。
そして、
祈り続けている。
しかしやはり、
そこだけは
私には何もできない。
してはいけない。
分岐点に
きちんとたどり着けば、
その人は
開放される。
次のステージに
進むことで、
より「自由」を
手に入れられる。
しかし、
分岐点の手前では
とても不安定に
なる。
その不安定さと
向き合い、
勇気を持った
一歩を踏み出すこと。
私はとにかく
それを
祈り続ける。
つづく
「本気」
とは、
「真剣+目的」
によって
生まれるものだと
私は思います。
「真剣」
とは、
無駄なことを
しないこと。
本当に、
全力になるべきところで
全力になれる
生き方をすること。
ということは、
自分が
何のために
生きていけばよいのか?
自分の
人生の目的は何か?
自分には
どんな役割があり、
どこに自分のすべての
力を注げばよいのか?
を自覚し、
その通りに
素直に生きている
状態です。
真剣な人は
普段は
肩の力が抜けて
います。
淡々と、
飄々と
生きています。
しかし、
いざ、という時に
とてつもない集中力を
発揮します。
その、
いざ、という時のために
すべてを整えている
からです。
それを
「真剣」
と言います。
その
「真剣な人」
が、
いつまでに
これをしよう、
いつまでに
これを成そう、
いつまでに
これを実現しよう、
というように、
「期限付きの目的」
を持った時に
「本気」
が生まれます。
「期限付き」
というのが
ポイントです。
・・・・・・
期限のついた目標
を
嫌がる人がいます。
もっと
自由に
自然に成果を
上げたい、
と。
しかしそれは
自由でも
自然でも
ありません。
なぜなら、
私達の真本音は
「期限」
を決めているからです。
私達のいる
この3次元世界は、
時間の流れが
一定です。
しかも
過去から未来へと
一方向にしか
時間は流れません。
これは
「3次元」
という世界特有の
ものです。
そして、
であるが故に
あらゆるものに
「期限」
があります。
例えば、
私達の人生の時間にも
「期限」が
ありますよね。
すべてが
「無限」ではなく
「有限」です。
それがこの
3次元世界の原則
であり、
掟です。
その中で
生きるからこそ
価値があります。
ということは、
すべての物事には
「期限がある」
ということを
受け止めることが
非常に重要です。
「期限なしで
自然に進みたい」
というのは、
この世界の否定
です。
極端に言えば。
この「3次元世界」での
人生を
否定しているのと
同じなのです。
・・・・・・
ですから私は
あらゆることに
「期限」を
設けています。
例えば、
私の人生の寿命にも
「期限」を
設けています。
私は人生の
終わりを
すでに設定しています。
もちろん、
それ以上に生きる
可能性もあります。
しかし、
期限を設定し、
その時までに
人生の目的を果たす、
と決めた方が
あらゆる発想が
次々と生まれて
くるのです。
モチベーションも
上がります。
エネルギーも
湧き続けます。
それが
人間です。
期限設定が
嫌だ、
という人は、
その期限が
反応本音で設定したもの
だからです。
私達の真本音は
あらゆることに
期限を決めていますので、
それを
自覚すればよいのです。
つまりは、
「真本音で期限を決める」
ということです。
これをすることで
人生には
気持ちの良いメリハリと
刺激と
冒険と
そして、
安定が得られるのです。
「期限」に
目を瞑る人は
不安定になります。
なぜならそれは、
自らの真本音の意志に
フタをしている
ことになるからです。
私達は皆、
期限を
決めているのです。
その事実に
素直になることが
人生の安定と
安寧を得る
最重要ポイントの
一つです。
・・・・・・
もうそろそろ
「本気」
になりましょう。
加速をする
人達、
つまり、あなたに
お伝えしたいのは、
それだけ加速する
理由と意味を
知りましょう、
ということです。
加速の先には
「期限」
があります。
「期限付きの目的」
があります。
それを、
自覚しましょう。
それがわかれば、
あなたは自然に
「本気」
になれるでしょう。
つづく
後悔しても
後悔しても
後悔しても
足りないことが
ひょっとすると
あなたの人生には
あるかもしれません。
その出来事以来、
あなたは
大切な何かを
失くしてしまった。
それを
常に探し続けては
いたけれど、
ただ、
探し続けていただけで、
実は
もう見つからないだろう、
と
その時からずっと
あきらめてしまっている。
あきらめては
いるのに、
しかし心のどこかで、
ずっとずっと
探し続けている。
まるで
地面を這いずり
まわるかのように。
ずっと
探し続けている。
・・・・・・
15歳の時。
クラスで一番元気な
級友がいた。
彼はいつも明るく
溌剌としており、
いつも皆を
笑わせた。
そんな彼が
たった一度の
ミスをした。
そのミスで
彼は泣いた。
しばらく
学校を休んだ。
再び学校に
現れた時、
彼は元通りの彼に
見えたが、
しかしその元気さは
空回りのように
私には見えた。
それから
16年後。
31歳の時に、
同窓会が行われた。
久しぶりに彼に
会って、
私は驚いた。
彼は別人のように
なっていた。
あの溌剌さは
微塵もなくなって
いた。
妙にペコペコし、
斜に構え、
ため息ばかり
ついていた。
皆で談笑している時、
何かの折に
彼が独り言のように
つぶやいているのを
私は聴いた。
「あの出来事で
俺の人生、
変わっちゃったから・・・」
16年前の
15歳の時の
出来事。
31年の人生の中で
半分にも満たない
地点での出来事が、
残りの半分以上の
人生を決めた、
そして、ここから先の
人生も
決めている。
と、彼は
そう思っているのだ。
それを知って
私は愕然としたが、
でも
人間とは
そういうものなのだろう。
・・・・・・
私のクライアントさんにも
そういった人は
いっぱいいた。
彼のように
15歳の出来事であれば
まだマシな方で、
もっと小さな
小学生の頃の
出来事とか、
幼少の頃の
出来事とか、
まだ人生の始めの頃の
ある出来事に
ずっと引きずられている
人が多かった。
というよりも、
本当のことを言えば、
誰もがみんな
そうなのかも
しれない。
私達はみんな、
人生における
何らかの出来事に
引きずられながら
生きている。
・・・・・・
私のお仕事の
重要な目的の
一つは、
そこからの
解放
なのだと思う。
あらゆる出来事
からの
解放。
しかしそれは、
これまでの出来事を
否定したり、
消去したり、
書き換えたり、
することでは
決して、ない。
出来事の中に
閉じ込められて
しまっている
自分自身を、
外に出し、
「出来事の中の自分」
ではなく、
「自分の中の出来事」
にするのだ。
過去は
変えられない。
しかし、
過去の捉え方は
変えられる、
とはよく言われるが、
私は
過去の捉え方自体も
別に
変えようとする必要は
ない、と思う。
その捉え方自体も
すべてを含めて、
自分がそれらを
抱くのだ。
大切に
抱く、のだ。
それにより
私達は皆、
自由になれる。
私達は
雲の中に
閉じ込められる。
雲の中にいると、
何も
見えなくなる。
その真っ白な
世界が
すべてだと
思い込んでしまう。
しかし
違う。
私達は
地球だ。
私達は
もっと大きく
もっと揺るがない
存在だ。
地球が
雲を抱いているに
過ぎない。
その雲に
意識の焦点を
当てているに
過ぎない。
あの出来事は
雲の一つだった。
その雲は
とてつもなく
大きな雲では
あるが、
しかし私は
地球なのだ。
あらゆる雲は
地球である私が
抱いている。
そんな事実と
真実に
自ら立ち返ることが
私達には
必要ですね。
つづく
もし仮に、
私達に翼が生えた
とします。
翼を広げれば、
自由に大空を
飛ぶことができます。
空からも
地面からも
両方から
物事を見ることが
できるように
なりました。
足で走るよりも
何倍もの速度で
移動できるように
なりました。
地面のみにいる時には
大きな障害だった
ものも、
翼を使えば、
ヒョイっと
ひとっ飛びです。
その翼は
とても力強く、
誰か他の人を抱えて
飛ぶこともできます。
まだ翼の生えて
いない人を抱えて、
あえて空に
連れて行き、
そこからすべての物事を
眺めてもらうことも
できます。
そのような翼を
私達は手に入れたと
します。
・・・・・・
ところが、
せっかく手に入れた
翼を
まったく使わずに、
私はずっと
地面を走り回れば
良いのだ、
これまで通りに。
と思ったとします。
そして
翼を使わずに、
足を使って
全力で地面を走り回り、
いかに地面を
スピーディーに走るか?
ということに
全力を費やしていたと
します。
私はこれを、
「現実逃避」
と呼んでいます。
ちょっとキツい
言い方ですか?
でも
それが事実です。
本当は翼を
使えるのに、
それを使わずに、
別のことに
自分の労力と時間を
費やす。
本当は、
全力を尽くすべき
ことがあるのに、
そこに向かわずに
別のことに
全力を注ぐ。
「全力を注ぐ」
ということについては
素晴らしいことだと
思いますが、
「全力を注げばいい」
ということでは
ありません。
私達にとっては、
「どこで、何に対して
全力を注ぐか?」
こそが大切であり、
それをしっかりと
見極め、
実行することを、
「真剣に生きる」
と
私は呼んでいます。
努力や全力を
言い訳にして、
本来すべきことを
まったくしていない人、
本来進むべき道を
まったく進んでいない人、
は、
とても残念ですが、
多いです。
どれだけ努力をしても
どれだけ全力を
尽くしても、
現実逃避をしていては
私達の真本音は
力を発揮しません。
それどころか、
「真剣に生きているフリ」
をしている自分を
最も嫌がります。
よく私は、
「真本音が家出する」
という表現を
使うのですが、
そういった人の
真本音は
まるで家出をして
しまったかのように、
まったく機能しなく
なります。
当然、
その人本人には
とてつもないストレスが
生じます。
あまりに
とてつもないので、
心の中が麻痺します。
麻痺をしながらも、
現実逃避をし続け、
本来ではないところに
全力を注ぎ、
「私は全力を尽くしている」
と自己満足している
わけです。
私はそういう人を
許しません。
命の無駄使い
だと思うからです。
ちょっと
キツ過ぎますか?
でも、それくらい
キツい見方をして
関わらないと、
その人は
現実逃避をいつまでも
やめようとしないのです。
・・・・・・
私はいつも
申し上げます。
本当は
人生は
もっと楽に
進める、と。
なぜ、
楽にならないか?
と言いますと、
現実逃避を
しているからです。
現実逃避をすることで、
無駄な確執が
起こります。
無駄な不調和が
起こります。
そしてそこでまた
無駄な全力が
増えていくのです。
そのサイクルから
いい加減に
抜け出しませんか?
自分のためにも。
人のためにも。
つづく
最近、
真本音度合いが
高まった方々から、
ある共通のご相談を
いただくように
なりました。
皆さん、
同じことを
言われます。
「最近、
不調和が多いのです。
私の真本音度合いが
低まってしまっている
のでしょうか?」
いいえ。
むしろ、逆です。
あなたは
さらに加速を
しているのです。
これまでに
経験したことのない
加速に
入っています。
すると多くの場合、
これまで
経験したことのない
「調和の仕方」
が起こるように
なります。
それが一見すると
不調和に
見えてしまっている。
という、
ただそれだけの
ことです。
ですから、
私がお伝えしたいのは、
不調和を感じる
からと言って、
自信をなくし、
臆病になり、
腰が引け、
真本音で進むことを
躊躇するように
ならないでください。
ということです。
・・・・・・
いつも
申し上げることですが、
自信がある
とか
自信がない
とかは、
真本音の歩みには
いっさい
関係がありません。
物事が
上手く行こうが、
上手く行くまいが、
いっさい
関係ありません。
物事が
上手く行くから
真本音で進む、
となった時点でもう
それは
反応本音の歩み
です。
状況に
揺らされている
わけですからね。
もちろん、
真本音も
状況や現実は
大切にします。
自分の理想通りに
進めよう
というのが
真本音ではありません。
状況や現実は
大切にしますが、
それに揺らされる
ことは
ありません。
自分の想いも理想も
大切にし、
かつ
状況も現実も
大切にし、
すべてを大切にした
最善の一歩を
踏み出す、
というのが
真本音の求める
ことであり、
真本音の意志
です。
それをすることに
毅然
としていて
ほしいのです。
すると、
不調和だと思って
いたことが、
実は、
これまでに経験した
ことのないような
素晴らしい調和の形
の一つ
であることが
わかってくるでしょう。
・・・・・・
よくよく考えますと、
調和とか
不調和とか、
それ自体を私達は
自分の解釈(思考)で
決めつけています。
これまでと同じ
スピードで進む人は、
ある意味、
自分の解釈での範疇の
調和は
続くでしょう。
しかし、
これまで以上に
加速しようとする人には
これまでに
見たことのない
新たな世界が
新たな次元が
展開します。
新しいものは
確かに少し(いや、だいぶ?)
怖いかもしれません。
しかしその怖さ
そのものも
感じ、味わいながら
進みましょう。
自分の世界を
広げるのです。
毅然と
進むのです。
あなたの真本音は
それこそを
望んでいるのですから。
つづく
人生においても
仕事においても
言えることですが、
私達はついつい
今、自分のいる場所
今、自分のやっていること
今、自分に与えられた役割
の中に
埋没してしまいます。
集中することは
大事ですが、
埋没する必要は
ありません。
というよりも、
集中と埋没は
真逆です。
集中に必要なのは
全体意識です。
つまりは
全体を見る
意識。
全体から自分を
俯瞰する
意識。
そして
私の表現で言えば、
「すべては一つ」
の感覚から
「今この瞬間」
にエネルギーを
集約する、
そんな意識です。
・・・・・・
今、どんどん加速を
し続けている皆さんに
私がオススメするのは、
地球意識
です。
地球全体を
視野に入れるのです。
なんか凄い話だなぁ、
と思われるかも
しれませんが、
別に何も特別なこと
ではありません。
あなたの中に
地球
が存在するの、
わかります?
私達は
地球という星で
生きています。
それは
紛れもない事実
であり、
現実です。
私達の立っている
この大地は
地球そのものです。
そして
すべての人達が
地球にいます。
私達は
地球の中にいて
地球を感じ続けて
います。
ですから
少しだけ高い次元の
私達の意識では
地球と自分は
一つです。
ですから
私達の心の
少しだけ深い場所に
意識を向けると、
誰もがそこに
地球を抱いています。
私達は
地球に抱かれながら、
地球を抱いています。
あなたの中の
どこに
地球はありますか?
あなたの体の中の
どこかに
地球はあるはずです。
もしくは、
人によっては
体の外かもしれませんが、
しかし
自分の身近に
地球はあるはずです。
その地球を
見つけ、
そして
見つめましょう。
あなたの中の
地球は今、
元気ですか?
元気が
ないですか?
・・・・・・
あなたが今、見つけた
地球を常に
意識しながら、
今この瞬間
に集中しましょう。
それが
全体を感じた
本来の「集中」
です。
「全体」
と
「今の一点」
が
完全に結ばれた時、
これまでとは
まったく次元の異なる
発想が
あなたの中に
生まれます。
それを
楽しむと
よいですね。
私も
楽しみます。
共に
地球を育てる
親のような感覚で
進みましょう。
つづく
誰にだって
好きな人と
嫌いな人が
います。
嫌いな人は
その人の存在が
なくなってしまえば
いいのに、
と、ついつい
思ってしまうのが
人情ですね。
しかし
「嫌う」とは、
非常にエネルギーを
使う行為です。
「無関心」とは
根本的に
異なります。
「無関心」は、
その人に一切の
エネルギーを
向かわせないことを
言います。
それに比べれば
「嫌う」というのは、
少なくとも
その人にエネルギーを
向けています。
そういった意味では
「好き」というのと
同じです。
「好き」と「嫌い」は
表裏一体。
表面上の感情は
違っても、
エネルギーという
視点から見れば、
実は、
同じようなものなのです。
・・・・・・
それだけ
その人に
エネルギーを使う
ということは、
それだけ
その人が
気にかかる
ということ。
気にかかる
ということは、
人生において
大事な存在
だと言うことです。
嫌いな人の
ことなど、
考えたくもない、
と思うかも
しれませんが、
どうしても
気になるのなら、
いっそのこと、
徹底的に
その人と
向かい合って
みましょう。
もちろん、
現実のその人と
向かい合えれば、
それが理想
ですが、
さすがに
それはちょっと
キツいですよね。
そこでまずは、
イメージで
向かい合って
みます。
目の前に
その、嫌いな人が
いるイメージを
するのです。
ほんの目の前
に、
その人の顔が
あるイメージ
です。
とても
イヤですよね。
気持ちは
わかります。
でもそこを
がんばって我慢して、
じっと
その顔と
向かい合いましょう。
全身は強張り、
心は震え、
感情は湧き上がり、
本当にいやな
時間になると
思いますが、
すべての感情を
存在承認しながら
じっと
向かい合います。
かなりの時間を
要するかも
しれませんが、
それを続けると、
ある時ある瞬間に
ふっと
楽になる時が
来ます。
すべての
反応本音を
存在承認することで
ふっと
楽になるのです。
その、
楽になった状態で
その人のイメージと
さらに
向かい合い続け
ましょう。
これまでずっと
嫌いで嫌いで
しょうがなかった
その人なのに、
なぜか、
その人への
重要なメッセージが
自分自身の心の
奥の奥から
浮かび上がって
くる可能性が
高いです。
それが、
高い次元の
自分自身の
声です。
真本音の声
と言っても
よいでしょう。
・・・・・・
嫌うということは、
その人に
エネルギーを
使う、という
選択を
自らしているという
ことです。
そこには
何らかの意味が
あります。
その意味は、
表面上に現れる
反応本音の中には
残念ながら
見出せません。
反応本音を
すべて出し切った
その後に
残るものこそに、
真の意味が
埋もれています。
そしてその意味に
気づくために、
自分はその人の
ことを嫌って
いたのだ、と、
いうことも
わかるでしょう。
嫌うことを
無理に止める
必要はありません。
しかし
せっかくエネルギーを
かけている
その人なのだから、
自分がそれだけ
エネルギーをかける
意味は
知りたいですよね。
そこには
より自分らしい
人生を創り上げる
ヒントが
あるはずですしね。
つづく
26歳。
私は、ガンジス川の
ほとりにいた。
1泊100円にも満たない
ボロホテルに
個室をとった。
ホテルと言っても、
窓にガラスはない。
トイレもシャワーも
共同で、
確か、6畳一間くらいの
広さ。
そこに、
何十日洗ってないのだろう?
と思えるくらいの
汚いシーツのベッドが
一つ。
何十匹いるんだろう?
と思えるくらいの
ヤモリとゴキブリが
床や壁にうごめく。
私はベッドの上に
あぐらをかき、
窓から見える
目の前のガンジス川を
眺めていた。
ガンジス川の
向こう岸は
神聖な場所みたいで、
人は誰もおらず、
ただ何もない大地が
広がっていた。
陽はとっくに沈み、
その大地から
月が昇っていた。
私は驚いていた。
その月は
とても大きく、
そして真っ赤だった。
赤い光は
ガンジス川の水面を
照らし、
向こう岸からこちら側に
赤い光の帯が
続いていた。
とても
この世のものとは
思えない光景。
シンシンシン・・・
という空気と
時間の流れが
聞こえるようだった。
時々、ガソゴソと
ヤモリだかゴキブリだかの
気配がすることで
私はちゃんとこの世に
いるのだな、と
自覚できた。
私はその日
会った人のことを
思い出していた。
その日、私は
インド人の泥棒さんに
会った。
どんな経緯か
忘れたが、
私はその人と安食堂で
食事をした。
そこでその人が
泥棒さんだと
知った。
彼は言っていた。
「俺は、ガンジス川に
沐浴するためにここに来た。
泥棒をいつも続けて
いるので、
時々ここに来るんだ。
ガンジス川に入れば、
すべて清められる。
神様から許して
もらえるんだ。
で、安心してまた泥棒が
できるってわけさ。」
彼の話を
聞きながら、
私は別の日に出会った
インド人を思い出して
いた。
その人は
自ら会社経営を
している人だった。
やはり経緯は忘れたが、
その人とは
人生について語り合う
展開になった。
当時まだ若かった私は
その人に
ダイレクトに
訊いたもんだ。
なぜ信仰を
するのですか?
と。
彼はとても真面目な
顔で
丁寧に答えてくれた。
「私達人間には
到底自分の力の及ばない
ことがある。
例えば、天変地異に
遭ってしまうとか。
だから私は、神様に
今日も一日無事に
過ごせますように、と
お祈りをするんだ。
しかしあとの人生は
すべて、自分次第だ。
人生とは、人間が
人間として創り上げていく
ものだ。
私は神様に祈ることで、
全力でその日一日に
向かうことができるんだ。」
同じ宗教なのに、
こうも考え方が
違うものか、と
私は驚いていた。
世の中にあるものに
対して、
あれが正しい、
あれが間違っている、
と
すぐに人は言う。
しかし本当は
そこが大事ではなく、
自分がそれに
どう関わるか?
自分がどう
生きるか?
そここそが
大事ではないか。
それにより
人生も現実も
根底から
変わるのではないか。
と、
私は思った。
だって、
月は、月だ。
月は、
ただそこにある
だけだ。
・・・・・・
ガンジス川の月は
だんだんと
天に昇っていく。
最初は真っ赤
だったのが、
次第に、黄色に
なっていく。
そしてさらに
白く輝くように
なる。
月はただ、
そこにあるだけ。
変化はしても
それは、
月だ。
私もただ、
ここにいる。
どれだけ変化しても
私は、私だ。
その日以来、
私の心の中心には
常に、
月が浮かんでいる。
月は
じっと私を
見つめている。
私もただ
見つめ返す。
そこにあるものを
ただ、あるがままに
見つめ続けられる
自分で
ありたいな、
と思う。
つづく