2020年 5月 の投稿一覧

あまりに苦しい縛りでも

 

自分自身を

自分が

ギュウギュウに

縛りつけている。

 

固いロープで

幾重にも

縛りつけ、

 

まったく

動けないように

している。

 

そして

その状態で

 

「さぁ、動けるもんなら

動いてみろ」

 

とやる。

 

「そこから抜け出せる

もんなら

抜け出してみろ」

 

と。

 

猿ぐつわまで

されているから

声すら出せない。

 

ただただ、

呻くだけ。

 

ここから

どうやって

抜け出すと言うんだ?

絶望的になる。

 

そしてそれを傍らから

見つめる自分。

 

しかし、

その眼差しは

意外なことに

真摯だ。

 

まっすぐに

自分自身を

見つめ、

 

見守っている。

 

その目は

「あなたにはもう

できるはずだ」

語りかけている。

 

そして

「そこから抜け出して

ほしい」

祈っている。

 

祈りながら

自分を縛る

自分。

 

もしそんな自分を

ほんのわずかでも

感じ取ることが

できたら、

 

その自分を

精一杯

見つめよう。

 

その自分を

精一杯

意識しよう。

 

その自分と

何がなんでも

向き合い続けようと

するのだ。

 

上手く出来なくても

いい。

それでも

やり続ける。

 

すると、

 

ふと、

 

自分が入れ替わる

ことがあるんだ。

 

ふと気がつくと、

 

目の前に

縛りつけられている

自分の姿が

ある。

 

猿ぐつわをはめられ、

声すら出せずに

もがいている

自分がいる。

 

私は

誰だ?

 

私は、

縛られた自分を

見つめる自分だ。

 

とわかる。

 

入れ替わった

のだ。

 

入れ替われた

なら、

縛られている自分を

よく

観察しよう。

 

ただ、

あるがままに

観察しよう。

 

するとまた、

ふと

真実がわかる

はずだ。

 

この目の前の

自分は

本当は

縛られてなどいない

のだ、

と。

 

この、

傍らにいる自分が

この目の前の自分を

縛っているのではない。

 

目の前の自分が

自分で

自分を

縛っているのだ。

 

いや、

本当は、

 

ロープも猿ぐつわも

ない。

 

何もない。

 

ただあるのは

果てしなく続く

自由の空間だ。

 

もはや

自由になれている

自分自身だ。

 

そこで

気づくのだ。

 

人は

本当の自由を

手に入れた時、

 

その自由が

恐ろしくなるのだ

と。

 

それがあまりに

恐ろしいが故に

自分で自分を

縛るのだ、

と。

 

幻のロープと

幻の猿ぐつわで。

 

それがわかったら、

もとの

自分に戻って

みよう。

 

そう。

 

縛られている自分

に。

 

縛られていると

思い込んでいる

自分に。

 

そっからは

自力で行け。

 

幻影など

吹き飛ばせ。

 

つづく

 

君、捨て身だよな

 

最近、

 

『捨て身』

 

という言葉が

よく浮かぶ。

 

私のクライアントさんは

「捨て身」な人が

多い。

 

もちろん

良い意味で

である。

 

ひょっとすると

私のサポートとは、

 

「捨て身」な人が

ちゃんと

身を捨てられるように

するためのもの。

かもしれない。

 

身を捨てる、

というよりも

身を捧げる、

という感じか・・・。

 

とはいえ

「身を捧げる」

というと、なんか

自己犠牲的かな。

 

でも

クライアントさん達は

決して

自己犠牲ではない。

 

むしろそれをすることで

イキイキと

ワクワクと

輝いている。

 

笑いながら、

身を捧げている。

・・・いや、やっぱり

身を捨てている。

 

あぁこっちの方が

やっぱり

表現としては

しっくりくるな。

 

身を捨てて、

「魂として」

そこにすべてを

込めている。

 

魂の願いを

込める。

 

・・・それが

身を捨てるという

ことかな。

 

心を込める

のと

魂を込める

のは

根本的に異なることだ。

 

そう。

 

だから私は

心を込めるレベルの

サポートは

しないのだ。

 

それが良いことか

どうか、

というのはわからないが、

 

私は

魂を込める人の

サポートを

したいのだな。

 

しかも

最近の私はだいぶ

厳しくなっている

ようで、

 

「魂の込め方を

教えてください」

 

という人には

 

「そんなのは

自力でできるように

なってください」

 

返しているように

思えるのだ。

もちろん本当に

そんなやりとりを

しているわけでは

ないよ。

 

でも結局は

そんなことをしている

気がする。

 

だって、それは

自分でやることでしょ。

人生で、

試行錯誤しながら。

 

そこをサポート

してしまうと逆に、

肝心なところで

「覚悟」

を持てなくなるのでは

ないか。

 

自身で、自力で

魂の込め方を

見つけ出した人には

やはり

「覚悟」がある。

 

面白いことに

本人にはその自覚が

ないケースが多い。

 

でも

「私は魂を込めて生きる」

とか

「私は捨て身で生きる」

とか、

 

その意味を自力で

見つけ出した人には

独特の空気感がある。

 

それを言葉で表現すると

「覚悟がある」

ということになる。

 

しかもこの「覚悟」は

年齢によらない。

 

最近は

社会経験も少ない

もしくは

まったくない若者で

 

すでに「覚悟」を持った

人達が

多い。

 

最初からもう

覚悟を持って生まれてきた

としか思えない

人達だ。

 

そして、

年齢が高く、

これまでそういった

「覚悟」のないままに

生きてきた人も多い。

 

が、

そんな人生であっても

今、急激に

一気に「目覚め」、

(・・・そう。

まさしく「目覚める」という

言葉がぴったりだ)

 

急に「覚悟」をし

「捨て身」になり、

「魂を込める」ように

変貌する人もまた

多いのだ。

 

私の身近には

そういう人が

溢れてきた。

 

あっそうか。

 

で、結局

そうした人達の

サポートで

手一杯になってきた、

 

というのが

今の私の正確な

状況かもしれない。

 

ということで言えば、

それはとても

良い傾向だな

と思う。

 

なるほど。

 

だから私は最近は

またさらに毎日に

楽しさを実感できている

わけか。

 

私自身は、

というと、

やはり私自身も

「捨て身」だなぁ、

よく思う。

 

ヤバいやつだよな、

と時々

思う。笑

 

で、そんな私が

共鳴できる人達が

増えているということは、

ヤバい世の中に

なってきたというか。笑

 

これからは、

心を込めて社会を

良くする

のではない。

 

魂を込めて

社会を変えていく。

 

社会の次元を

根本から高めていく。

 

そんな時代

なのだろう。

 

でもそれが

本当にできるかどうか。

 

それは

わからない。

今、ここにいる私達

一人一人に

かかっている。

 

きっと

そんじょそこらの

覚悟では変わらない。

 

捨て身にならんと

何も動かない。

 

それを本能的に

ちゃんと捉えられる人が

増えてきたんだろうな。

 

つづく

 

コツコツはすべての基本

 

一つ一つ

コツコツ、

今日一日を

大事にする。

 

一つを決めて

一つをする。

 

決めたことは

必ず

心を込めて

やる。

 

一つ一つ

コツコツ。

 

小さくても

わずかでも

着実に

地道に。

 

実は、

これが私が

ずっと大事にし続けている

生き方だ。

 

ずっと

変わっていない。

 

でも

質は明らかに

変わったと思う。

 

「一つ一つ」

が、

以前の私は随分と

心の淀んだ「一つ一つ」

だった。

 

常に迷いながら、

これでいいのかな、と

疑念を持ちながら

「一つ一つ」

を行なっていた。

 

しかも

やろうと思って

やめてしまうことも

多かった。

 

今から振り返れば

であるが、

 

一つを決めて

一つをする

 

ということに

全くなってなかったな

と。

 

でもそれが

わかるようになったのは

やはり

ずっとコツコツと

やり続けてきたからだ。

 

やはり、

継続は力なり

真実だな。

 

前にも少し

書いたかもしれないが、

 

今の私は

ほんのわずかでも

迷いがあることは

やらないことにしている。

 

つまり

淀みや濁りのある

「一つ一つ」

は、ない

ということだ。

 

淀みなく100%

「やろう」

と思うことのみを

決めて、

 

そしてそのまま

やる。

 

それだけの

ことだ。

 

真本音度合いが

高まるということは

それが

とても楽にできる

ということだ。

 

とはいえ、・・・

 

やはり私はまずは

 

質よりも量

 

でいいと

思う。

 

まずは質は問わず、

 

一つを決めて

一つをする

 

を、

愚直なまでに

丁寧にやり続ける

ことを

 

本当に

オススメするね。

 

そうすると、

ある時ある瞬間、

自分のまったく

及びのつかぬところで、

 

突然に

次元の変わった展開が

始まったり、

 

一気に何かが

開花したり、

 

成果が立て続けに

現れたり。

 

そんなことが必然的に

起こる。

 

でももちろんそれらを

期待してはならない。

 

期待したって

何も起こらない。

 

それよりも自分が今、

できること、

しようと思うことを

 

一つ一つ

 

することだ。

 

つづく

永遠なんだよ

 

物事に

終わりはない。

 

終わったな、

という感覚は

あるが。

 

それは一つの

区切りだ。

 

区切ったら

すぐ「次」が

始まる。

 

だからそれは

終わりではなく

始まりでもある。

 

物事に

終わりはない。

 

人生も

同様だ。

 

・・・・・・

 

私達は

何かを残して

ゆく。

 

人生において。

 

いや、私なんかは

何も残せない。

 

と思う人は

多いようだが。

 

しかし、

その人がそこにいた、

という

ほんのわずかな一瞬の

空気感と

存在感さえ、

 

永遠に

残るのだ。

 

それが

「実在」

というものだ。

 

世の中には

ほんの一瞬だけ

この世に生まれ、

そして

すぐに死んでしまう

赤ちゃんがいる。

 

「私はそんな

赤ちゃんを

抱きしめて、

あなたの命には

大いなる意味が

あるんだよ、

という想いを込めて

笑顔を贈りたい。

それが

私の夢です。」

 

と言われる

経営者がいた。

 

そう。

 

ほんのわずかな

一生だとしても、

 

それは永遠に

ここに

残るのだ。

 

それが

「実在」だ。

 

最近、

この2〜3ヶ月

かな。

 

久しぶりに

たくさんの本を

読んでいる。

 

たまたま本屋さんで

出会った一冊の本が

きっかけで、

 

立て続けに

次から次へと

本を購入し、

 

今は

約30冊を

同時に読み続けて

いる。

 

ある一つのことを

研究した本も

あれば、

 

哲学書や

昔の文学や

大学の名誉教授の

書かれた

人生の成果や

 

ある作家が

生涯を通じて

書き続けている

小説や

 

ジャンルは

いろいろだ。

 

ちょっとずつ

併読しているので

 

わけが

わからなくなる。笑

 

何がどこに

書かれているのか、

頭は混乱

混沌となる。

 

しかしそれを

私は望んでいる

ようだ。

 

これまで

あまり読んだことの

ない傾向の本も

あるのだが、

 

「実在」について

書かれてあるものや、

 

言葉は使われなくても

あぁこの人は

「実在」を感じ取りながら

書いてるんだな、

思われるものが、

 

私が想像していたよりも

ずっと多いことに

私はちょっと

嬉しくなっている。

 

「実在」を

感知できるということは

 

常に

「永遠」を

感知できるということだ。

 

「永遠」の視点で

「今」を

観て、感じることが

できるということだ。

 

その感性を、

すべての人が

思い出せるといいな

と思う。

 

もともと

すべての赤ちゃんは

実在を感じながら

生まれてくるの

だから。

 

実在と現象の

合間にいるのが

赤ちゃんだから。

 

私達はみんな

それを

経験しているのだから。

 

その感覚を

思い出せれば、

 

あらゆる命に

永遠の価値がある

よくわかるんだけどな。

 

つづく

 

レールがあるだろう

 

難しいことを

考え込みながら

地面に目を

落とし続けるよりも、

 

顔を上げて、

 

今ここに

吹いている

風を感じよう。

 

内に籠ると

いいことは

一つもない。

 

私達は

「世界」の中に

立っているんだから、

 

外に意識を

向け、

世界を感じよう。

 

まっすぐに

素直に

目を開けば、

 

まっすぐに

素直に伸びる

道があるだろう。

 

レールまで

敷かれている。

 

すでにその上に

立っているでは

ないか。

 

「レールの上を

進むなんていや」

 

・・・だって?

 

そのレール敷いたの、

自分だろうが。

 

自分で選んで

ここに

来たのだろうが。

 

せっかく

気持ちよく敷かれた

レールだ。

 

気持ちよく

進めばいい。

 

ちなみに私は

新幹線くらいの

速さで進むのが

好きだ。

 

そんなに速いと

周りの景色を

楽しめない、

と言われるかも

しれない。

 

確かにそうかも

しれないが、

 

新幹線くらいの

スピードを出して

初めて、

観える世界も

あるんだ。

 

私はその世界が

好きなんでね。

 

今は、

その同じスピードで

進もうとする人達と

 

共に行こうと

思っている。

 

あなたは

どうだい?

 

新幹線くらいで

進むことも

できるし、

 

もうちょい落として

特急電車レベルでも

行けるし、

 

鈍行でもいい。

 

好きなスピードで

進めばいい。

 

レールが

あるんだから。

 

そこは

安定しているの

だから。

 

あとはあなたの

覚悟一つ

なんだから。

 

素直に進もう、

素直に決める

だけなんだからね。

 

つづく

 

後悔と向き合う

 

頭のてっぺんから

足の先まで、

 

身体の中を

川の流れのように

 

エネルギーが

流れていく

イメージをしよう。

 

気持ちよく

天から地に

エネルギーが

流れていく。

 

その流れに

全身を委ね、

 

そして

身体の内側を

そのエネルギーで

洗うようなイメージだ。

 

身体の内側に

シャワーを浴びる

イメージだ。

 

それをした時に、

 

身体のどこかに

滞りは

ないだろうか?

 

川で言えば

まるで岩があるかの

ような箇所。

 

そこだけ

流れがいったん

止まってしまったり、

 

淀んだり、

 

濁流が起きたり、

 

水が死んでしまって

いるかのような箇所。

 

別の表現で言えば、

 

そこだけ

まるで異物があるかの

ような箇所。

 

腫れ物が

できてしまっている

ような箇所。

 

それは

ないだろうか?

 

もしあれば、

その異物の部分に

意識を向けてほしい。

 

可能であれば、

その異物の色とか

形とか

重さとか

固さとか、

 

そういったものを

感じ取ってほしい。

 

あまり具体的に

できない場合は

 

その異物の

存在だけ感じ取れば

いい。

 

そして、

 

その異物に

じっと

意識を向け続けて、

 

その異物の

声を

受け取ってみるといい。

 

声でなくても

いい。

 

その異物の「訴え」

のようなものを

感覚で掴んでもいい。

 

「私に何を

伝えたい?」

 

と、

異物に訊いて

みてもいい。

 

恐らくそれは

 

その異物は

 

あなたの

「後悔」

だ。

 

「悔恨」

だ。

 

今、ここに来て

後悔や悔恨の気持ちが

浮上してきている人が

多い。

 

それは、

実は、

 

とても良いことだ。

 

「浮上」というのは

「解消」の前兆だからだ。

 

しっかりそれを

存在承認し、

 

その声や訴えを

聴いてあげてほしい。

 

自分自身を

カウンセリングする

ような感じだ。

 

そして

その異物を

癒してあげてほしい。

 

よしよし、と

手でさすってあげて

ほしい。

 

もしかすると

だいぶ、感情が

出てくるかもしれない。

 

それでいい。

 

すべて

存在承認。

 

以上をしっかりすれば、

異物は癒され、

 

心はニュートラルに

戻るはずだ。

 

そうなったら、

自分自身に問おう。

 

もう二度と

同じ後悔をしないために

 

今日から

明日から

 

何を大事にし、

何をしようか?

と。

 

ここからまた

スタートだ。

 

つづく

 

背後の中心軸

 

いつものように

一日の終わりに

一人静かに

セルフコーチングを

していると、

 

私の背後に

強烈な光の柱があるのに

気づいた。

 

天と地をつなぐ

強烈な光。

 

金色、というよりも

黄色に輝いている。

 

強烈だ。

 

何だろう?と

意識をそのまま向けて

みると、

 

私自身の「新たな中心軸」

であると

気づいた。

 

あんまり強烈なんで

ちょっと躊躇していたが、

 

一体化してみようかな、

 

という気になった。

 

そこで

自分の体とその中心軸を

合わせてみた。

 

その瞬間に

とても多くの「仲間」の

存在を感じた。

 

今の仲間もそうだが、

これから出会うべき

仲間達も感じた。

 

だが、

次の瞬間

私はその中心軸を

もとの場所に戻した。

 

自分の背後に

戻した。

 

何かがよく

わかった。

 

でもまだちょっと早い

とも感じた。

 

もうすぐこれが

私の中心軸となり、

 

私はこれから

これを中心に据えて

すべての発想と

行動を

決めていくことに

なるのだろう。

 

でも、

今はまだちょっとだけ

早い。

 

もうちょい

待とう。

 

ホントにもうちょい

・・・。

 

しかしもう

こうなってしまうと、

 

これまで自分の中心にあった

中心軸が

古く見えてしまう。

 

光も弱っちいな、

思ってしまう。

 

しかしその感覚を

こそ、

ここからは大事に

すべきなのだろう。

 

もうこの中心軸は

古い。

 

もうすぐ

新たな中心軸に

変わる。

 

という

「自覚」こそが

今の私に必要なのだろう。

 

まぁ、

 

楽しみだな。

 

つづく

 

何をやめるか?

 

私は

「どっちでもいいや」

と思うことは、

やらないことに

している。

 

「本当にやろう!」

まったく淀みなく

思うことのみ

やることにしている。

 

その結果として、

随分と

「やらないこと」が

増えた。

 

その結果として、

以前の自分は

人生において

いかに余分なことを

多くしてきたか、

よくわかった。

 

そして、

シンプルな毎日が

好きになったし、

 

時間の密度は

明らかに高まり、

充実度も

高まった。

 

例えば、

コミュニケーションに

おいても

同じ。

 

「どっちでもいいや」

と思う言葉は

一切、伝えないように

している。

 

「本当に伝えよう」

と思う言葉しか

口に出さない。

 

結果として、

コミュニケーションが

とても円滑になったし、

 

逆に

「冗談」も増えたような

気がする。

 

しかしそれは

「相手との繋がり感が

深まる冗談」

だ。

 

これ、

わかりますよね?

 

いらん冗談ではなく、

つながる冗談。

 

この区別がつくように

なったのは

大きい。

 

やはり、

以前の私は

いかに余分な一言が

多かったか、

というのを

痛感した。

 

みんな、

 

余分なことが

多過ぎるのでは

ないか。

 

それを

やめるだけで、

人生は調和を始める

のではないか。

 

強く思うね。

 

そして、

余分なことを

やめたおかげで、

エネルギー的にもゆとりを

持てるようになった

気がする。

 

すると、

新たな何かに挑戦しよう

という意欲も

湧いてくる。

 

新しい自分が

生まれやすくなる。

 

余分なことを

し続けることで、

そういった機会を

これまではずっと

失い続けてきたのだと

思うと、

 

ある意味

ゾッとする。

 

何をするか?

 

よりも前に

 

何をやめるか?

 

だと

思うのだけど、

どうかな?

 

つづく

 

問う力を磨け

 

たった一つの

問いが、

 

人生を変える

ことがある。

 

奇抜な問い

ではない。

 

普通の問い

だ。

 

あなたにとっての

それは何だろう?

 

・・・・・・

 

あるクライアントさんに、

唐突に

次の問いを投げた。

 

「今、地球は

あなたに何を

メッセージしているだろう?」

 

まぁ、これはちょいと

奇抜な問いだったが。

 

そのクライアントさん、

その問いに

まるで食い付くように

真剣に考えた。

 

すると、

ガラガラガラッと

そのクライアントさんの

何かが

崩れていくのが

わかった。

 

そして

これまで覆われて

見えなかった

あらゆる発想が、

 

クライアントさんの

中から

溢れ出た。

 

その一言一言は

私の全身を

痺れさせた。

 

すべて

真本音の言葉。

 

クライアントさんから

迷いとモヤモヤが

 

一切、

消えた。

 

・・・・・・

 

問いは、

 

内容も大事だが、

 

それ以上に

タイミングで決まる。

 

タイミングが

1秒ズレるともう

 

答えは出なくなる。

 

崩れるものが

崩れなくなる。

 

これを

自分自身で

できるようになると

いい。

 

それが

私の言うところの

セルフコーチング力

だ。

 

真の意味での

質問力

と言ってもいい。

 

今の人類にとって

最も必要な力は

これではないか。

 

とさえ

私は思うことが

ある。

 

そのためにも、

まずは自分自身に

問うことだ。

 

問い続ける

ことだ。

 

つづく

 

わからないままでいい

 

扉が開いてみなければ、

わからないことは

たくさんある。

 

扉が閉まっているんだから、

あーだこーだと

今、考えても

しょうがない。

 

開かなければ

わからないのなら、

 

開ければいい。

 

今ここで

考えごとをしていても

開くわけではない。

 

開くまで

行動し続けることだ。

 

未来やビジョンや

目指す姿が

わかった上で進めれば

一番良いかもしれないが、

 

わからないままで

進まねばならない時

は多い。

 

そっちの方が

多い。

 

でも進めば

いつかはわかる。

 

そこまで

進まないから

いつまで経っても

わからない。

 

だから

進むしかない。

わからないままに。

 

・・・・・・

 

わからない時は

わからないのが不安

だから、

 

ついつい

真本音でないにも

関わらず、

反応本音のみで

未来を設定してしまう。

 

反応本音の目標を

設定してしまう。

 

だから後で

混乱が来る。

 

中途半端な設定は

やめた方がいいね。

 

わからない時は

わからないままに、

 

その気持ち悪さの

ままに、

 

わからない!という

焦りも不安も含めて、

 

そのままで

 

進むといい。

 

わかる一歩のみ、

次の一歩のみ、

進めばいい。

 

できれば

わからないという

行き方自体を

楽しむといい。

 

それができるように

なると、

逆に

人生は安泰だ。

 

表面上は

安泰には程遠いが、

本質は

安泰となる。

 

ちゃんと進み続ける

者は、

本質はいつも

安泰だ。

 

・・・・・・

 

かと言って

闇雲に進んでは

ならない。

 

ちゃんと落ち着いて

一歩一歩を

進むこと。

 

次の一歩すらわからない、

とは

言うなかれ。

 

そんなことは

ない。

 

次の一歩は

本当に真剣に見つけようと

思えば、

必ず見つかるものだ。

 

次の一歩すら

わからないなら、

まだ、

真剣さが足りん、

っちゅーことだな。

 

つづく

 

こんな人、素敵だな

 

ひたむきな人って

いいなぁ、

と思う。

 

一途で誠実な人。

 

一つのことを

丁寧に

取り組む人。

 

取り組む以上は

ちゃんとそれを

極めようとする人。

 

まぁ、飽くまでも

私の好みではあるが、

 

そういう人、

好きだなぁ。

 

よくよく考えると、

そういったタイプの

人達が

私のクライアントさんには

多い気がする。

 

どうしても

応援したくなるんだな。

 

そして結局は、

何だかんだ言いながらも、

そういう人が

最後には結果を出す。

 

奇抜さを求めて

奇想天外な道を経て

結果に結びつけようと

する人も多いが、

 

どうだろう、

やっぱり現場で

(現実で)

多くの人達と関わらせて

いただくと、

 

ひたむきで

真面目で

コツコツとやり続ける

人ほど、

ある時ある瞬間に

とんでもない展開を

起こしている気がするんだよな。

 

すげーなこの人!

びっくりする成果を

上げる人ほど、

 

毎日毎日

コツコツと着実に

努力し続けている。

 

やはり、

生き様がそのまま

カタチとして現れるんだな、

思うね。

 

そして、

そういうタイプはまた、

 

とても可愛らしい人が

多い。

 

人間的な可愛らしさ

だ。

 

憎めないのだ。

 

まるで

子供のような目で

笑う。

 

ずっとこの人と

一緒にいたいな、と

自然に思えるね。

 

そんな人が

リーダーシップを

発揮し、

 

そんな人が

世の中に新たなものを

創造していけると

いいなと

思う。

 

ひたむきな会社が

増えるといいな。

 

ひたむきなチームが

増えるといいな。

 

ひたむきな社会に

したいな。

 

つづく

 

何があっても攀じ登る

 

なぜ、

私はここに

いるのだろう?

 

私はどこに

行こうと

しているのだろう?

 

・・・決して

本当に納得の答えは

出そうにない、

そんな問いがある。

 

でも、

自分の心の

中心の方に、

 

奥の方に、

 

どんな時もずっと

在り続けている

その

答えの見つからない

問いは

 

常に自分を

じっと静かに

見つめている。

 

その問いと

どんな時も真摯に

向き合い続けるのは

 

疲れることだろうか?

 

一度、

とことんそれを

やってみては

どうだろうか。

 

いや、

 

きっと

答えは見つからない

だろう。

 

にも関わらず、

真剣に真剣に

やってみては

どうだろう。

 

・・・・・・

 

人生は、

答えがわからない

ことだらけである。

 

もちろん、

適当な答えを

選ぼうと思えば、

どれだけでも

選べる。

 

しかしそこに

納得感はない。

 

しかも、

そういった中途半端な

答えを

大事にすればするほど、

 

私達の心の中には

強烈なストレスが

発生する。

 

ならいっそのこと

答えがわからない

ことは最初から

無視すればいい。

 

ないことに

してしまえばいい。

 

とも思いがちだが、

実はそれこそが

最大のストレスを

生む。

 

答えが

わからないことにこそ

真剣に向き合うのが

「人生」というヤツだ。

 

開き直るしかない。

 

・・・・・・

 

もし目の前に

垂直の壁が

あったら、

 

どうする?

 

登る?

 

それを登らないと

答えが見つからない

としたら。

 

登る?

 

垂直なので、

いつ落ちるか

わからない。

 

いや実際、

何度も

落ちるだろう。

 

それでも

登り続ける?

 

壁を回避することも

選択肢としては

可能だ。

 

だから

皆、回避する。

 

それが

当たり前のように。

 

でも、

周りの誰もが

回避したとしても、

 

どうしても

私は登らねば

ならない、と

 

根拠のない使命感

のようなもののみで、

 

いや、

使命感すらないかも

しれない、

 

意味不明の

想いのみで、

 

いや、

想いすら

ないかもしれない。

 

まぁとにかく、

よくわからないままに

 

必死に壁に

取り付く人が

たま〜にいる。

 

私は

そんな人を

応援したい。

 

そんな人を

応援するために

私はここにいる、

 

というのは

私の現時点での

答えの一つだ。

 

当然、

私も壁を攀じ登る。

 

壁を攀じ登る人しか

壁を攀じ登る人の

サポートはできない。

 

だから攀じ登る

というのもあるが、

 

しかしそれ以上に

私自身が

「人生」というものを

 

もっともっと

探究したいんだ。

 

つづく

 

殻は破るもの

 

卵の中は

卵の中で、

 

そこには

自由な世界が

あるんだ。

 

無限の青空が

ある。

 

そこを自由に

飛び回っている。

 

ずっと

そこにいることも

当然できる。

 

卵の殻を破る

ということは、

 

その自由さを

手放すこと

でもある。

 

卵の殻を破る

というのは、

 

苦しいこと

なんだ。

 

ずっとそこで

自由でいても

いいのに。

 

でも私達は

本能的に、

 

殻を感じてしまったら、

 

そこを

出たくなって

しまう。

 

その自由が、

実は

殻の中の自由

だと

わかってしまったら、

 

そこがどれだけ

居心地が良くても、

 

そこに居続ける

こと自体に

違和感を得てしまう

のだ。

 

それが

私達の本能だ。

 

しょうがない。

 

だから、

 

どうせなら

その本能に

素直になればいい、

私は思う。

 

一度、苦しみに

入ることが

わかっていても、

 

それは

産みの苦しみくらいに

辛いことが

わかっていても、

 

それでも

私達は

行こうとする。

 

その尊さ。

 

それに素直に

なればいい。

 

もちろん、

 

いったんは

苦しくなるが、

 

それでも頑張って

殻を破れば、

 

そこにはまた

新たな自由が

ある。

 

その自由は

これまでの自由とは

次元が違う。

 

これまでの自由は

実は不自由で

あったと、

 

身をもって

知ることになる

だろう。

 

それをまた

私達は

 

本能的によく

知っているもんだからね。

 

だから

行くしかないっしょ。

 

今は、

 

その殻を破る時だ。

 

つづく

 

丁寧に行くぞ

 

いよいよ

門が開き、

 

その向こうの道が

あらわになった。

 

まるで

大河のような

光り輝く道が

 

延々と

永遠に

続いている。

 

その彼方は

あまりに眩しくて

 

今のところ

よく見えない。

 

でも、

ようやく待ち望んだ

道が開けたので、

 

祝福ムード、

お祭り騒ぎだ。

 

・・・・・・

 

私一人の道

ではない。

 

皆と共に

進む道。

 

皆と共に

準備をしてきた

その努力によって

 

ようやく

結晶化した

道。

 

だから、

私はもう

先頭を歩くことは

しない。

 

もう、いっつか昔に

そんな時代は

終わった。

 

誰が先頭を

行ってもいい。

 

それこそ、

全員がリーダーであり、

全員がコーチであり。

 

別に

組織になることも

チームになることも

 

なりたければ

なればいいが、

 

そんなことは

どっちでもいい。

 

一歩一歩を

自らの本当の意思で

進みさえすれば、

 

勝手に

調和も進化も

成されていく。

 

そこには

意気込みも必要ないし、

気合も

前向きさも

必要ない。

 

ただ、

行けばいい。

 

・・・というか、

もうみんな勝手に

進んでるし。笑

 

・・・・・・

 

これから、

様々なことが

大きく変わって

くるだろう。

 

これまで

躊躇していたことや

遠慮していたことや

 

コツコツと

準備のみをし続けて

きたことも

 

すべてが

流れとして

形として

 

一気に開花を

始めるだろう。

 

それを

一つ一つ

楽しめばいい。

 

「芽」はもう

すぐに出始めるだろう。

 

たくさんの芽が

出るので、

一つ一つ丁寧に

行こう。

 

一つの芽には

一つの広大な

命がある。

 

一つ一つ丁寧に

その命を

育もう。

 

・・・・・・

 

時代は

変わるな、

本当に。

 

わかりやすく

変わっていく。

 

時代に

呑まれるか、

 

時代を

創り上げるか。

 

それは私達の

丁寧さ

に掛かっている。

 

スピードはもう

充分にある。

 

ここからは、

 

一つ一つに

魂を込める

丁寧さだ。

 

・・・・・・

 

閉まっていた門

が開き、

 

見えなかった道

が観える時、

 

私達は

嬉しさのあまり

一気に進もうとする。

 

でも

こんな時こそ

注意が必要だ。

 

放っておいても

この流れは

止まらない。

 

だからこそ、

一瞬一瞬を

丁寧に、ね。

 

つづく

 

拒絶しちゃうだろ

 

拒絶感

ですら、

 

真本音と結びつく

ことがある。

 

祈りと拒絶感の

融合だ。

 

するとそれは

驚くような展開で

 

「愛」として

発現することがある。

 

もちろん

意図してできる

ことではない。

 

私達は

「愛そう」

という意図と意志を

持つことはできるが、

 

本当に「愛」そのものが

発現するかどうかは、

私達の意図の範疇

にはない。

 

なぜなら「愛」とは

エネルギーだから。

 

そのエネルギーが

発するかどうかは、

 

私達の顕在意識が

調整できることでは

ない。

 

それよりも

普段の自分自身の

生き方と生き様こそが

 

それを左右する。

 

・・・・・・

 

嫌いな人を

愛することが

できるだろうか?

 

普通は

できないだろう。

 

「できます」

と言う人はむしろ

危うい。

 

それは

自己満足か自己愛に

陥っている可能性が

高い。

 

私達人間は

そんなにも

出来は良くない。

 

ということを

ちゃんと見つめて

おいた方がいい。

 

出来の良くない自分を

見つめることの

できない人は

残念ながら

「愛」というエネルギーは

あまりに脆弱となる。

 

それはともかくとして

嫌いな人を

愛そうとすることには

かなりの難しさが

ある。

 

ましては

拒絶感を手放すことは

なかなかに

至難のわざだ。

 

だから、

そのままでいい。

 

やはり、

 

そのままで

いいのだ。

 

ただ、

 

普段の自分の生き様

として、

常に真本音を大切に

するといい。

 

自分の願いや祈りと

今ここにおける

行動を、

結びつける努力を

続ける。

 

それを日々

大切にする人は、

 

いざという時に、

 

拒絶感すらが

真本音と結びつく。

 

真本音が

自分自身の拒絶感を

活用するのだ。

 

そして

その多くの場合は、

 

自分自身の

空気感として

その場で勝手に

発現される。

 

そしてその空気感は

お互いの関係を

癒していく。

 

それはもちろん

劇的というよりも

徐々に、だろう。

 

でもその

徐々に、

 

ある時ある瞬間に

ある境界を超え、

 

劇的な展開を

見せることも

ある。

 

それを期待しては

ならない。

 

でも、

地道にいくんだ。

 

人間としてね。

 

つづく

 

悲しみが溢れる

 

実は、

 

真本音の悲しみ

 

というのも

ある。

 

もちろん、

真本音そのものに

感情はない。

 

真本音が

「悲しみ」という自らの

反応本音を

活かしているのだ。

 

悲しみと

祈りが

結びつく。

 

それが

真本音の悲しみ

だ。

 

そうなると、

悲しみも

エネルギーに変わる。

 

悲しみも

次へのパワーと

最善の一歩に

変わる。

 

そう考えると、

私達の心には

(反応本音には)

 

やはり一つも

無駄なものはない。

 

・・・・・・

 

先日、

ある人から

「トラウマはどうすれば

解消できますか?」

というご質問を

いただいた。

 

それに対して私は

 

「トラウマは宝物だ」

 

とお答えした。

 

トラウマは

そのままにしておけば

自分にとっては

辛いものでしかないが、

 

しかしこれも

真本音と結びつくことで

祈りのエネルギーへと

変換される。

 

そのトラウマが

あるからこそ、

 

そんな自分で

あるからこそ、

 

見出せる道があり、

やり遂げられること

がある。

 

自分にとって

これは良いもの。

これは悪いもの。

 

良いものは

大切にし、

 

悪いものは

消去しよう。

 

・・・ということは

必要ないのだ。

 

そういうことでは

ないのだ。

 

それよりも

私達がすべきは、

 

これまでの経験も

 

その経験で得た

自分の心も

 

すべて

 

活かすことだ。

 

それが

自分の人生では

ないか。

 

そしてそのためにも

私達にとって

必須なのは、

 

真本音で生きる

こと。

 

真本音度合いを

高めること。

 

つまりは、

自分自身の

本当の願いや祈りに

基づいて

 

今この瞬間を

生き続けることだ。

 

つづく

 

怖がってもいいんだ

 

混乱が

怖いかな?

 

これまで

安定していたものが

一気に壊れ、

 

足元が

ぐらついてしまうのは

 

怖いかな?

 

怖いのが

いけないのでは

ない。

 

怖がるのが

人間だから。

 

大事なのは

自分のその

怖がっている気持ちを

 

あるがままに

 

そのままに

しておくことだ。

 

その存在を

認めることだ。

 

そうすれば、

 

「怖さに基づいた

行動」

 

には

つながらない。

 

私達が後々に

後悔してしまうことの

多くは、

 

「怖さに基づいた

行動」

 

を起こしてしまった

ときだ。

 

もちろん

本当に身の危険を

感じる場合は

そうせざるを得ない

が、

 

単なる自分の

憶測だけの怖さに

よって、

 

本当に自分の

取りたかった行動とは

別の行動を

取ってしまい、

 

さらなる混乱や

不安を

引き起こしてしまった場合、

 

私達は

後悔する。

 

本当は、

「怖さ」とは

私達の味方だ。

 

「怖さ」を

あるがままに

感じ取り、

 

あるがままに

見つめることで、

 

本当に望む

自分自身の最善の

一歩が

観えてくる

ものなんだ。

 

私達の心の中に

不必要な心は

 

本当は

一つもない。

 

しかし

私達自身がそれを

不必要な存在に

仕立て上げて

しまっている。

 

それは

その心に蓋をしたり、

 

その心から

目を背けたり、

 

その心から

逃げよう逃げようと

し続けることで

 

そうなってしまう。

 

そして、

「不必要にされた心」

は、

 

心の中で

反乱を起こす。

 

それにより

心の中に混乱が

起こり、

 

現実の混乱と

心の中の混乱が

融合し、

相乗効果を起こし、

 

ますます自分自身を

混乱させて

しまうのだ。

 

怖がる心を

怖がるな。

 

という

ことだけど、

難しいかな?

 

一見難しそう

だけど、

 

実は

えいっ!と勇気を持って

怖がっている心を

見つめると、

 

案外、

大したことはない

ことが多い。

 

やはり

蓋をするから

大したことになって

しまうのだ。

 

私達の心は

 

見つめれば

見つめるほど

良い。

 

それが

自分と向き合う

基本だ。

 

つづく

 

苦しみを語る

 

いつも私は

人の苦しみについて

考える。

 

人は

苦しむ生き物

だ。

 

それを完全に

自らの中から

排除することは

極めて難しい。

 

その苦しみの

多くは、

その人自らが

生み出しているもの。

 

苦しみとは

現象そのものなので

実在としてのそれは

存在しないのだが、

 

しかし

その現象が

苦しい。

 

実在のない

もの。

 

ただ、

感覚のみが

現象として発生

するもの。

 

それが

苦しみだ。

 

だから、

本当は苦しみなどは

ないのだよ、

言われることも

ある。

 

実在の意味に

おいては

その通りなのだが、

 

しかしここは

現象の世界なのだ。

 

現象として在る

ものは在る

のだ。

それもまた

現実。

 

しかもその

現象(苦しみ)は、

 

人から人へと

伝播もする。

 

8割方

今の苦しみが

自分の苦しみだと

しても、

 

あとの2割は

他の人から

受け取ったものであり、

他の人の苦しみを

まるで自分の苦しみの

ように

感じ取っている

ものだ。

 

ところが、

その8割と2割が

逆転することが

ある。

 

人の苦しみを

受け取り

その感覚によって

苦しんでいるのに、

 

その苦しみと

自分の「記憶」の何らかの

現実とを

自分で勝手に結びつけ、

 

あぁこの苦しみは

あれが原因の苦しみだ、

 

自分で勝手に

結論を出して

 

本当は自分の苦しみ

ではないのに

苦しみ続けている人が

いる。

 

自分の苦しみの8割方を

そういうことをしている

人もいて、

実はとても多い。

 

いずれにしても

苦しみとは

苦しいことなので、

私達は

そこから逃げ出したい。

 

だから

苦しみには

背を向ける。

 

だから余計に

苦しみの正体を

知らないままに、

 

人は

苦しみ続けている。

 

・・・・・・

 

今、

私はとても

頭が痛い。

 

その痛む箇所に

意識を向けると、

 

それは

今日コーチングをした

クライアントのAさんの

ものだとわかる。

 

内容までは

さすがにわからない。

 

しかし

どのような類の

苦しみかは

わかる。

 

そして

どれだけの大きさの

苦しみか、も。

 

私はそのAさんの

苦しみと向き合いながら、

それを浄化しながらも、

Aさんの次のサポート

の方向性について

検討をする。

 

こんなことをもう

20年も毎日毎日

休みなく

続けている。

 

だからよくわかる。

 

Aさんはこのままで

いると、

間違いなく

病気になるな、と。

 

人の苦しみは、

それがある境界を

超えると、

3次元化する。

 

つまりは、

物質化する。

 

心が

物理的なものに

変化するのだ。

 

それが

病気となって

現れる。

 

医学的にそんなことが

証明されているか

どうかはわからないが、

 

これは私が

サポート現場でいやでも

実感し続けている事実

だ。

 

だから

病気になる前に

何らかの手を

打たねばならない。

 

どうしようかな?

 

・・・・・・

 

私は

人の宿命について

いつも考える。

 

宿命と苦しみは

セットだ。

 

宿命が苦しいもの

だという

意味ではない。

 

でも多くの人が

自分自身の苦しみと

向き合い、

それを越えようと

するときに、

 

自らの宿命を

受け入れる。

 

そこから初めて

「自由」は

始まるんだ。

 

つづく

 

大丈夫だ

 

心配するな。

 

あなたはちゃんと

進んでいる。

 

ただ、

 

かつてないスピードに

挑戦しているが故に

 

何もわからなくなって

いるだけだ。

 

進むが故の

不安定と

進むが故の

混乱だ。

 

必然的な

ものだ。

 

道は、

観えなくても

いい。

 

今はまだ

観えない方が

いい。

 

観えないことを

楽しめばいい。

 

その不安定さを

楽しもうとすれば

いい。

 

今、

 

進む仲間は

世の中にたくさん

いる。

 

まだ出会っていない

人達も多い。

 

でも、

進む人達は

常に影響をし合って

いる。

 

もうすでに

連携をとっている。

 

相乗効果すら

ある。

 

相乗効果の波を

きちんと生み出し、

 

波が波に乗った

その上で、

 

出会おう

という魂胆だ。

 

何という変態的な

進み方か、

とも思うが、

 

それも楽しみ方の

一つだ。

 

人生は、

いろいろな進み方が

ある。

 

私達の頭では

想像をし得ないくらいの

とんでもないことを

 

私達は心の

奥の奥の方では

すでに決めていたり

する。

 

そして

その奥の方で、

 

つまりは

実在のレベルで、

 

私達は

チームなんだ。

 

チームが

チームとして

出会っていく。

 

これからちゃんと

出会えるように、

 

今は多少の不安定が

あったとしても、

 

多少の無茶を

したとしても、

 

このまま

行けばいい。

 

未知のスピードで

行けばいい。

 

つづく

 

私は何者か?

 

よく私は

「加速しよう」

という言葉を

使うが、

 

実は、

 

中途半端な加速ほど

苦しいものはない。

 

加速するなら

徹底的に

するしかない。

 

加速してみようかな?

では

苦しいだけで

逆にすぐに止まってしまう。

 

勢いだけで

進もうとしてもダメだ。

 

それも

中途半端さしか

生まない。

 

本当に加速する

ためには、

 

「私は何者か?」

 

という問いと

徹底的に向き合う

ことだ。

 

そしてその答えを

出そうと、

 

完全に

決めることだ。

 

とは言え、

そう簡単に答えは

出ない。

 

下手をすると

一生出ないかも。

 

しかしそれでも

必ず答えを出そう

決めるんだ。

 

私は何者か?

 

私は何者か?

 

私は何者か?

 

これを問い続けながら、

その答えを

求めながら

 

今、やる。

 

思えることを一つ決め、

(完全に決め)

 

その一つを

一切の迷いを捨てて

実行する。

 

それの連続だ。

 

「私は何者か?」

 

とは、

自分の意識を

「原点」に

戻してくれる。

 

その「原点」が何か?

はわからなくとも

少なくとも

原点のその場所には

意識は戻る。

 

原点とは

ゼロの地点だ。

 

いつもいつも

ゼロの地点に

戻りながら、

 

前に進む。

 

これにより、

勢い任せの中途半端な

加速からは

解放される。

 

これを

実直に淡々と

飄々と

 

毎日、

毎時間、

毎分、

毎秒、

 

する。

 

そう決めて

進む。

 

進もうとする。

 

これだけの

ことなんだよ。

 

つづく

 

開き直ってシンプルに

 

「私」の範疇で

物事を進めようと

するから、

 

複雑化

するんだ。

 

わけが

わからなく

なる。

 

わけがわからないままに

次の一歩を進むから

 

余計に

わからなくなる。

 

自分を失うのは

当然のことだ。

 

「私」の範疇に

いようとすると、

 

結果として

自分を失うんだ。

 

とても乱暴な

言い方だが、

 

今は

次の心の声が

とても大事な時代(時期)

のような気が

どうしてもするんだ。

 

「私なんて、

どうだっていい。」

 

この一言。

 

これを呟きながら

決断するといい。

 

もちろんこれは

自暴自棄になる

ことではない。

 

でも、

「開き直る」ことだ。

 

自暴自棄と開き直りは

真逆のことだ。

 

自暴自棄は

自分もすべても

捨ててしまうこと。

 

自分を失った状態で

進むこと。

もしくは、

進まないこと。

 

そこにあるのは

「虚無」だ。

 

「開き直り」は

真逆。

 

それは

自分を超えること。

 

それにより、

これまでの自分では

到底為し得なかった

「すべてを大切にする」

「すべてを活かす」

「すべてを統合する」

ということが

 

結果的に

成されるんだ。

 

そのためには、

今の「私」という

小さな範疇にいては

ダメだ。

 

「私」を超えて

本当の

本来の

『わたし』の声を

聴き、

 

『わたし』の

決断で行くんだ。

 

開き直って

「私」を捨てた時、

 

その奥から

『わたし』が

悠然と

屹立する。

 

でも、

 

それを意図しては

ならない。

 

頭で考えて

行なっても意味は

ない。

 

行なうのは、

 

真剣に、

 

「私なんて、

どうだっていい。」

 

と呟きながら、

進むことなんだ。

 

今はね。

 

つづく

 

目が眩む怒りだな

 

目も眩むような

怒りがある。

 

それは

私のものでは

ない。

 

それは

「人々」のものだ。

 

人々は今

怒っている。

 

真本音の怒り

だ。

 

その中心に

あるものは、

 

自己が消滅してしまう

のではないか、

というくらいに強い

 

進化への欲求

 

だ。

 

私のことなど

どうでもいい。

 

・・・乱暴に書くと

そんな意志を

感じる。

 

しかしそれは決して

自己犠牲では

ない。

 

それは

「すべてを生かす」

ための想いであり、

 

自分の生命を

本当の意味で

燃やし活かす

ための想いだ。

 

私のことなど

どうでもいい。

 

となって初めて

覚醒する自分が

いる。

 

本来の自分が

そこにいる。

 

その

本来の自分が

怒っている。

 

自分自身に対して

怒っている。

 

なぜ、

そんなことに

こだわるのだ?

 

なぜ、

ここであえて

止まるのだ?

 

なぜ、

止まっていることを

誤魔化すのだ?

 

なぜ

そこまでして

いい格好をし続けるのだ?

 

と。

 

「本来の自分」を

そこまで怒らせて

しまった自分を

反省するといい。

 

「反省」とは、

自己評価ではない。

 

自己を評価している

場合ではない。

 

「反省」とは

悔恨の心と

向き合うことだ。

 

自分自身の

最も深いところにある

悔恨を

 

あるがままに

見つめ

対峙することだ。

 

これをせずして

あなたはあなたの

本当の気持ちを

知ることはない。

 

本当の祈りに

気づくことはない。

 

もう

誤魔化すな。

 

自分自身を。

 

つづく

 

抑えてはならない怒りがある

 

祈りとしての

怒り。

 

そんなものが

ある。

 

私が

「真本音の怒り」

表現しているものだ。

 

真本音自体には

感情はない。

 

真本音とは

自分自身と

自分の周りの現実の

すべてを

あるがままにただ

観察し、向き合い

続けている存在だ。

 

しかし、

真本音は

反応本音と

結びつく。

 

本来、反応本音とは

現実世界において

調和しながら生きるために

真本音が生み出したものだ。

 

真本音と反応本音は

仲間。

 

会社で言えば、

真本音が「創業者」と

するならば、

反応本音は

「創業者に共感して

集まってきた仲間達」

だ。

 

そんな真本音は

反応本音を

活用する。

 

反応本音と共に

歩む。

 

その中で、

今は「怒り」という反応本音と

共に進もう、

真本音が決めた時に

 

「真本音の怒り」

 

は発生する。

 

それは

真本音と反応本音の

コラボの一つの

カタチだ。

 

もし、

自分の中に

言いようのない

激しい怒りがあれば、

 

その中心を

見つめてみてほしい。

 

その中心に

光はあるだろうか。

 

その中心に

輝きはあるだろうか。

 

もしそれを

感じることができるなら、

 

その光(輝き)は

自分自身の祈りだ。

 

祈りに基づいた

怒り。

 

それが

真本音の怒りだ。

 

これが生まれた時は

決して

その怒りを

抑えてはならない。

 

怒りを

開放する方向に

進めば、

 

そこから

真の調和が

始まるんだ。

 

つづく

 

もっと自律せな

 

私は地球だ。

 

・・・そう思える人が

今、地球上には

何人いるのかな。

 

私達は、

「場」に

頼り過ぎだ。

 

自分が今いる「場」は

あって当たり前だと

思っている。

 

例えば、家族。

例えば、学校。

例えば、会社。

例えば、国。

例えば、社会。

そして、地球。

 

「場」という土台の

上に

私達は生まれ、

もしくは参入し、

今、ここにいる。

 

でも

私達の多くは

知らない。

 

私達自身が

「場」を創っている

という事実を。

 

「場」が先にあるのか?

「私」が先にあるのか?

 

なんてことは

どうでもいい。

 

「場」が「私」に影響を

与え、

 

そして

「私」は「場」に影響を

与えている。

 

その循環が

成り立っている。

 

自分は今、

「場」と共に

どんな循環を創っているか?

 

この問いに

誰もが真摯に向き合うべき

だと

私は思う。

 

そして

これに真摯に向き合う人

こそが

「自律した人」だと思う。

 

そして

自律した人は

真剣になればなるほど

心のどこかで

痛感しているはずだ。

 

私が場であり、

場が私なんだな。

 

・・・と。

 

こんな人が

増えることで、

「私」も「場」も

次元を一気に高めていく。

 

一気に、だ。

 

「場」には

命がある。

 

当然、「私」にも

命がある。

 

命とは

持続しようとする

意志であり、祈りだ。

 

持続とは

進化だ。

 

今こそ我々は

一気に

進化が必要ではないか。

 

つづく

 

試行錯誤すればいい

 

試行錯誤は

大事だな。

 

と思う。

 

「成就」の前には

必ず試行錯誤が

ある。

 

試行錯誤のない

成就はない。

 

よく私は、

「調和」という言葉を

使うが、

 

調和とは、

物事がすぐに成就する

という意味ではない。

 

調和とは、

私は「進化」そのもの

だと思っている。

 

そして、進化には

試行錯誤が

必須だ。

 

だから私は

調和とは、

 

進化につながる試行錯誤

を続けている状態

 

だと思っている。

 

人生とは、

そのような試行錯誤を

楽しめるかどうか?

ではないか。

 

試行錯誤の

一歩一歩を

 

自分の本来の生き方と

生き様で

 

一つ一つの現実を

味わい、噛み締めながら

 

進んでいく。

 

もちろん試行錯誤なので、

三歩進んで二歩下がる

こともあるだろう。

 

いや、時には

一歩しか進んでないのに、

四歩も五歩も

下がらなければならない

こともある。

 

それでも一歩を

出し続けること。

 

それを自らの

真本音で

行ない続けることが

最も大事なことだと

私は思う。

 

私達の真本音は

「成就」をもたらして

くれるのではない。

 

意味の深い試行錯誤を

もたらしてくれる。

 

進化への一歩一歩を

もたらしてくれる。

 

だから結果として

真の成就となる。

 

私達にできることは

真本音の一歩だ。

 

次の一歩を

真本音で

進むんだ。

 

つづく

 

あっ、答えが来た

 

私達は

いろんな「答え」を

日々、出しながら

人生を生きている。

 

その「答え」が

本当に自分の望む

ものかどうかは別として、

 

誰もが何らか「答え」を

出さねば、

先には進めない。

 

朝起きて、

最初に何をしようか?

というくらいに

些細な「答え」もあれば、

 

人生を大きく左右する

ような

影響の大きな「答え」も

ある。

 

私は

強く思うのだが、

 

どのような「答え」も

「すべて」

自分の本当に望む

ものを

一つ一つ丁寧に

出し続けるといい。

 

私の表現で言えば、

すべてを

真本音の「答え」で

進めるといい。

 

・・・と。

 

些細な答えか

大きな答えか

そこには関係ないと

思うのだ。

 

いやむしろ、

些細な答えすら

自らの望む答えを

出せない人は

 

本当に人生を大きく

左右する答えを

出さねばならない時に

それができなくなる

 

と実感している。

 

やはり

「生き方」の

問題なのだ。

 

日々、日常での

一つ一つの生き方が、

 

いざという時に

ありありと出るのだ。

 

だから

いざという時だけ

頑張ればいい、

という生き方は

通用しない。

 

それが人生だと

思う。

 

・・・・・・

 

セルフコーチング力が

ついてくると、

 

まずは、

 

あっ、

何か「答え」が来たな。

 

という

感覚がわかるように

なる。

 

何らかの「答え」が

生まれた感覚だ。

 

「答え」というものの

「存在」だけが

まずはわかるのだ。

 

その感覚がくると、

次には

その「答え」の場所を

特定する。

 

「答え」は

自分の体の中の

どこかに

発生しているはずなのだ。

 

まぁ時々は、

体の外、

自分から離れた場所に

発生するときもあるけど。

 

「答え」の場所が

特定できたら、

そこに意識を向ける。

 

私の場合、多くは、

その「答え」は

明るい光の球のように

観える。

 

そこに意識を

向け続けると、

 

「問い」

 

がやってくる。

 

「答え」そのもので

なく、

まずは「問い」が

明確になるのだ。

 

そしてその「問い」を

自分自身に

投げる。

 

その光の球に

意識を向けながら。

 

すると

その光の球から

「答え」が

浮上してくる。

 

これが、

セルフコーチングの

真髄だ。

 

これを私は毎日、

一日のうちに

数えきれないくらいに

やっている。

 

仕事だけでなく、

人生においての

大事な「答え」達は

ほぼすべて

このやり方で得ている。

 

これで得られた「答え」は

必ず「調和」を

もたらしてくれる。

 

このやり方は

10年くらい前から

本格的に始めたのだが、

 

それがいかに

「調和」をもたらしてくれるか

については

今でも毎日、強烈に

実感し続けている。

 

特にこれからの時代は、

こういった

セルフコーチング力が

誰にも必要だと

私は思う。

 

一つ一つ、

外部の状況や環境に

揺らされることなく、

 

かといって

状況を否定・拒絶するのでも

なく、

 

すべてに「調和」を

もたらすような

「最善の答え」を

自ら見出していく。

 

そんな人が

増えるといい。

 

それが

今後の社会の進み方を

左右すると

私は真剣に思っている。

 

だから

そのための方策を

取っていくつもりだ。

 

もちろんこれまでも

そうしてきたが、

ここからは

初めてのやり方で

この流れを加速させる

つもりだ。

 

一つ一つ「答え」を

出しながらね。

 

つづく

 

ここにある未来

 

とてつもなく

広い通りがある。

 

私はその中央に

立っている。

 

気がついたら

ここにいたのだ。

 

人々が

たくさんいる。

 

皆、思い思いに

歩いているのだが、

 

私がキョロキョロと

周りを戸惑いがちに

見渡していると、

一斉に私に注目した。

 

皆が笑顔を

向けてくる。

 

何か、笑いながら

話しかけてくる。

 

でも彼らの言葉が

わからないのだ。

 

にも関わらず、

私も何故か笑顔に

なった。

 

笑いながら

彼らと握手をした。

 

どんどん皆が

来る。

 

凄い人数だ。

 

一人ひとりと順番に

握手する。

 

なんと私は

知らないうちに

自分でも何かを喋っている。

 

勝手に口が

動くのだ。

 

自分で喋っているのに、

自分の言葉が

理解できないでいた。

 

俺はいったい

何をしてるんだ?

 

と疑問符ばかり

なのだが、

そんな気持ちとは

裏腹に

私は笑顔で彼らと何かを

話しながら、

一人ずつと丁寧に

握手を続けた。

 

ポタっと

何かが落ちた。

 

見ると、

涙のようだ。

 

私が泣いている

のだ。

 

なんだこれは?

 

彼らも皆

泣いていた。

 

泣きながら

笑っていた。

 

それを見ながら

私は理解した。

 

そうか、私は今、

彼らと再会しているのだ、

と。

 

・・・・・・

 

広い通りは

真っ直ぐに彼方へと

続いている。

 

皆は私を手招きした。

 

「あっちですよ」

私を導いてくれている

ようだ。

 

道の彼方は

眩しく輝いていて

その先がどうなっているのか、

よくわからない。

 

しかし彼らの導きの

ままに、

私はその道を進んだ。

 

気がつけば

彼らの姿はもう見えず、

 

私は一人で

光の中を歩いていた。

 

私の涙は

さらに増えているようだ。

 

どこに向かっているのか、

私にはさっぱり

わからないのだが、

 

でも一方では

私はすべてを

知っていた。

 

あぁ、確認だな。

 

わかった。

 

私は未来を一度、

きちんと確認しようと

している。

 

そのために

ここに来たのだな。

 

確認できたら、

そこでの記憶は

消えるのだろう。

 

それがわかっていて

私はあえて

ここに来たのだな。

 

記憶に残らずとも

刺激は残る。

 

その刺激を

私は私に与えたかった

のだな、と。

 

であれば

迷うことはない。

 

この光の先を

見てみようか。

 

私はさらに

歩を進めた。

 

そしてやはり、

そこから先の

記憶は消えた。

 

・・・・・・

 

必要な刺激は

ちゃんと手に入った

のだと思う。

 

かなりさっぱりした

感覚なので、

きっと私は

良いものを見ることが

できたのだと

思う。

 

いや、

そう思うことにしよう。

 

未来は

わからないからこそ

価値がある。

 

わからないからこそ

人生を

人間であることを

噛み締めることが

できる。

 

人としての

最善、最大の一歩を

これからも

進むだけだな。

 

つづく

 

場と共鳴しよう

 

大地というものは

面白いもので、

 

魂を込めて

しっかりと

耕せば耕すほど、

 

エネルギーは

高まっていく。

 

真本音度合いが

高まっていくのだ。

 

ちなみに、

真本音度合いというのは

あらゆるものに

反映する。

 

すべては人の意識の

反映だからだ。

 

すべての「物」に

真本音度合いはあり、

それはエネルギーの

高低に直結する。

 

そして

そういった影響を

最も受けやすいものの

一つに

 

「場」

 

というものがある。

 

例えば、

家族という場。

企業という場。

仲間の場。

 

それだけではなく、

その土地そのものも

影響を受ける。

 

私はいつも、

企業サポートを

させていただく時、

 

個人個人の真本音度合いの

高まりを把握するのと同時に、

 

その会社の

場としての真本音度合い

にも意識を向ける。

 

すると、

「人」と「場」は

密接に共鳴し合っている

ことがわかる。

 

人が場に

エネルギーを与え、

 

場が人に

エネルギーを与える。

 

そんな

プラスのエネルギー循環が

始まり、持続するようになると、

私のサポートの大半は

完了できたのではないか

とさえ

思うのだ。

 

もちろんその「場」というのは、

日本全体

という場もあるし、

地球全体

という場もある。

 

私は常に

そんな視点からも

「場」に意識を向ける。

 

・・・・・・

 

あなたは今、

どんな「場」で

一日の多くを

過ごしているだろうか?

 

まずは

自分にとっての

気持ち良い場を

選択することが

とても重要だ。

 

そしてそれができたら、

次には、

その「場」の

エネルギー度合いを

高めることを

考えるといい。

 

具体的には、

その「場」を

自分にとってより

気持ち良い状態にする。

 

例えば、

整理整頓するとか、

素敵な花や小物を

飾るとか。

そんなちょっとしたこと

でもいい。

 

そして、

その「場」において、

できるだけ

「集中」をすること。

 

「集中」というのは、

根を詰める、という

ことではない。

 

「一つを決めて

一つを行なう」

 

ということだ。

 

つまりは、

「今はここでこれをしよう」

しっかりとやることを一つ

決め、

 

その一つを

迷いなく行なうこと。

 

よそ事に意識を

向けたりとか、

こんなことをしていていいのかな、

という迷いの気持ちで

それを行なうとか、

そういったことを

やめるのだ。

 

例えば、

今はここでダラダラしよう、

と思うのなら、

きちんとそう決めて、

ちゃんとしっかり迷いなく

ダラダラするのだ。

 

一つ一つを丁寧に

決めて

それを行動に移せば、

 

自分自身の心の状態が

良くなり、

それが場にエネルギーを

与える。

 

するとそのうちに、

場が自分に

エネルギーを与えてくれる

ようになる。

 

エネルギーの循環が

始まるのだ。

 

そんな時間の使い方、

場の使い方を

してほしい。

 

つづく

 

本当に生きる道を

 

本当に深く

傷つかなきゃ、

 

本当の反省とは

言えない。

 

自分を責めている

余裕なんかあったら、

 

それはまだ

本当には反省していない

ということだ。

 

単なる自己満足。

 

反省のふり。

 

誤魔化し。

 

そう。

 

誤魔化したまま

先に進もうと

していないか?

 

自分で自分を

責めて、

それでよし、と

していないか?

 

反省とは

自分で自分を

責めることではない。

 

自分の否を

自己評価することでも

ない。

 

反省とは、

自分の否を

あるがままに

見つめることだ。

 

自分の否と

向き合うことだ。

 

そして

自分の否と

一つになること。

 

そうすれば

何をしなくとも

自然にその本当の

痛みがわかるはずだ。

 

もし

自分が傷つけてしまった

人がいるのならば、

 

その人の痛みが

そのままわかるだろう。

 

そしてそれを

見ている自分自身の痛みも

そのままわかるだろう。

 

それは

身を切られる痛み。

 

誤魔化しようのない

痛み。

 

全身が

引き裂かれそうな

痛み。

 

それを潔く

引き受けた時に

初めて、

 

私達は

「反省」しているのだ。

 

そしてそれができて

初めて、

 

そう、初めて、

 

本気で自分を

「変えよう」と

思える。

 

そしてその意志が、

次の一歩を自分自身に

もたらしてくれる。

 

だから。

 

中途半端な内省など、

せんほうがいい。

 

それをもって

「私は気づけた!」

などと

言ってくれるな。

 

私達には

「願い」がある。

 

本気で「願い」に

向かおうと思うからこそ、

 

「反省」ができる。

 

ふり、だけの反省を

するよりも、

 

本気で「願い」に

向かおうとする。

 

「願い」がわからなければ、

本気で「願い」を

見つけようとする。

 

そのための

一歩を今、

決める。

 

決めたら、

やる。

 

自分の準備が

できていようが、

いまいが

関係ない。

 

それくらいの意気と

意志で

進もうとする。

 

それが今の私達には

最も必要なことでは

ないのか。

 

つづく

 

空っぽを感じたら

 

空っぽだ。

 

自分の中には

何もない。

 

虚無だ。

 

何ということだ。

 

いったい

自分とは

何だ?

 

これまで頑張って

きたのに、

結局は

何もないではないか。

 

・・・というように

もし思えたら、

 

あなたは今、

生まれ変わろうと

している。

 

よく私は

「脱皮」という言葉を

使うが、

 

それさえをも

超えて、

もっと根本的に

生まれ変わろうと

している。

 

それは

とてもめでたい

ことだ。

 

いっそのこと

完全に自分を

虚無にしてしまうと

いい。

 

何もない。

 

という状態に。

徹底的に。

あきらめて。

 

すると

近々、

ある瞬間に、

 

あなたの中に

小さな小さな自分が

生まれるはずだ。

 

それはほんの

小さな光のような

ものかもしれない。

 

しかし、

とても強烈な

光のはずだ。

 

自分の体の中

全体に意識を向け、

 

その誕生を

自覚するといい。

 

どっかに現れるよ。

そのうちに。

 

現れたら、

それを愛でるといい。

 

まるで親になった

気持ちで。

 

そうすれば、

日々、その新たな自分は

成長する。

 

きっと

急成長する。

 

そして

あなたの体と同じ大きさ、

つまりは等身大に

なったら完了だ。

 

まぁ、

楽しんでね。

 

祝ってね。

 

つづく