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明るい光の中の
一本道を
私は
まっすぐ走っている。
なぜか
息は切れない。
どころか、
スピードを上げれば
上げるほど、
体は楽になっていく。
まだまだ
スピードアップしたいと
望むのだが、
一方で
これ以上はまずい
と
冷静に見つめる
自分もある。
上手く言えないが、
これ以上のスピードを
出せば、
私の体は分子レベルで
崩壊するような気がする。
今はここまで、
今はここまで、
と
自制しながらも
今出せる最大スピードを
維持する。
周りの光は
渦を巻いているように
見える。
いっそのこと
私も光そのものに
なってしまいたい。
しかしそれは
この世から消える
ことだともわかる。
やはりこれが
今の最大か。
正直に言えば、
今はまだ
止まっているのと
変わらない。
進んでいるうちには
入らない。
とすら
私は思う。
この世の進みは
遅い。
何もかもが
遅い。
何もかもが
焦ったい。
私はこの人生で
「待つ」ことを
学んだ。
変な言い方だが、
「待つ」力を
養った。
今こそ
待たねば。
自らは走りながらも
待つのだ。
私の周りに
気配がある。
ずっと私は
独りだったが、
少し前から
気配が漂うように
なった。
それが日々、
実感を増している。
もうすぐ
合流だ。
合流できたら
一つ
ステージが変わる。
ステージが
変われば、
もう少し
スピードアップは
できるだろう。
合流を
待つ。
今は合流を
待つ。
つづく
一点。
今、
見つめるべき
一点は
何だろう?
これだけは
見つめ続け
なければならない。
これだけは
目を離しては
ならない。
そんな
一点は
何だろう?
今の流れは
急流だ。
過去に経験が
ないほどの
スピードだ。
流れには
乗っている。
気持ちよく
風も切っている。
このまま行けば
良いのだろうが、
こんな時ほど
勢いだけに
依存するのは
危険なことだ。
こんな時ほど
自分自身の中には
注意を喚起すべき
一点
が生まれる。
それは
ますます流れに
委ねるための
指針となる。
最大スピード
だけど
ちゃんと一歩一歩
着実に
物事を進めるための
大いなる視点
となる。
濃い一点が
発生している
はずだ。
濃い墨汁が
ポツンと
置かれたような。
静かに自分と
向き合い、
静かにその
一点を
見つけ、
見つめると
いい。
つづく
時々、
とても強いフィードバックを
することがある。
否定的なこと
ではない。
むしろ
肯定的なことが
多い。
例えば、
あなたには
こんな力がありますよ。
とか
あなたは
こんなことを
願っていますね。
とか。
あえて
断定的、絶対的な
趣で
お伝えする。
そうするには
もちろん
それだけの理由が
ある。
その人から
凄まじいエネルギーが
私に向かって
襲いかかってきている
からだ。
まるで竜巻のような
エネルギー。
そしてその向こうに
裂け目が
観えるのだ。
その人自身の
裂け目。
その裂け目からは
さらに
凄まじい光が
溢れようとしている。
こんな時は
急がねばならない。
変な表現に
なるが、
コーチングなぞ
している暇はない。
一刻も早く
伝えなければ、
そのタイミングは一瞬で
過ぎ去ってしまう。
だから
伝える。
ダイレクトに。
伝えられた本人は、
多くの場合、
私のフィードバックを
受け止められずにいる。
私の言うことを
信じられないのだ。
それでいい。
その場は
どんな状態になっても
いい。
ただそれでも
断定的に
インパクトを持って
伝えるべきだ。
そうすれば
その「裂け目」は
その人に
残る。
あとはその人自身が
それを
自ら育てていく。
無意識に。
ところが、
最近はそんな私の
フィードバックを
そっくりそのまま
受け取り、
受け入れる人が
増えてきた。
なるほど。
そうかもしれません。
・・・と。
これも一つの
潮流なのか。
私はそこに
希望を感じる。
つづく
霧雨の中に
立っている。
周りは
暗い霧に閉ざされ、
私以外は
何も見えない。
存在のない
世界に
一人。
雨粒にならない
くらいの雨粒は、
私の肌に
こびりつく。
濡れた服も
こびりつく。
寒い。
移動して
どこか暖かな部屋に
行きたい。
しかしここが
どこか
わからないのだ。
いつからここに
立っているのか、
何のためにここに
立っているのか、
思い出せない
のだ。
人の気配は
なく、
私は孤独だ。
しかも
不快しかない。
いっそのこと
すべて
絶望してしまえば
開き直れるかも
しれないが、
そこまででも
ない。
この
中途半端さ。
中途半端な
苦痛。
中途半端な
孤独。
だから呆然と
佇むしかない。
辺りはさっきより
薄暗くなって
きている。
きっとこのまま
夜を迎えるのだろう。
私はいつまで
ここに
いるのだろうか?
何のために
ここに
いるのだろうか?
こうやって
何もわからなく
なる時、
そんな時に
限って、
私は自分の
命の鼓動を
感じる。
ドク、ドク、・・・と
一定のリズムで
鼓動は続く。
こうやって私は
生きているし、
ここには
確かに
命がある。
私は日々、
この命を感じながら
存在し続けている
存在だ。
すべてが
わからなくなった
時には、
その事実だけが
たった一つの
真理のように
私に
突きつけられる。
私は
生きている。
だから
苦痛を感じる。
だから
孤独を感じる。
生きるとは
感じること。
何もわからなく
なっても
感じ続けること。
これから
夜が来るのだろう。
だから
ますます
わからなくなるのだろう。
でもきっと
私は夜通しここに
立ち続けるのだろう。
私はただ
待ち続けるの
だろう。
世が開けて、
次に何かが
見えるのを。
命を感じながら
待ち続けるの
だろう。
つづく
目の前の
物事
一つに、
一つ、
魂を込める。
一つ、一つ、
に
丁寧に
魂を込める。
誠実さとは
そういうことだと
思う。
疲れたら
休めばいい。
魂を
込められない
なら、
休めばいい。
ちゃんと
自分の状態を
整えて、
ちゃんと
物事に向き合える
自分になれたら、
一つ、
誠実に
魂を込めて
取り組む。
真摯に生きる
とは
そういうこと
だろう。
自分の人生を
生きる
とは
そういうこと
だろう。
こなせば
魂は
擦り減っていく。
こなせば
命は
擦り減っていく。
それは
疲弊の人生だ。
単純な
ことだ。
目の前の
一つに
一つ
魂を。
つづく
誰にも
発想の源
がある。
それは
すべての意図を
超えた
場所にある。
心で言えば、
奥の奥の
そのまた奥に
ある。
もしそこに
たどり着くことが
できれば、
それは
その人の
源泉だ。
常にそこから
人生における
あらゆる
大切で重要な
発想が
トツ、トツ、トツ、・・・
と生まれ続ける。
それを
拾い上げる度に
その人は
一つずつ
自由となっていく
だろう。
自由とは、
人によって
異なる。
その人には
その人なりの
自由
を感じる人生が
ある。
この人生の歩みを
続けることで
「私は自由だ」
と思える、
そんな歩み方が
ある。
それらはすべて
源泉から
生まれる発想の
一つ一つを
実践し続けることで
成されていく。
源泉を
見つけよ。
と
すべての人に
伝えたい。
源泉を
見つけよ。
それ以外の場所
からの発想は
すべて
あなたを縛る
ことになるから。
つづく
地に足をつけて
立っていると、
そのまま上を
見上げると、
空を自由に
飛び回る自分を
見つけることがある。
二つの自分が
同時に存在している。
奴は空の上から
何を眺めているのだろう?
と
疑問に思っていると、
奴の想いが
伝わってくる。
自分同士の
会話。
コンビネーション。
自己対話力が
高まると、
こういうことが起こるので
楽しい。
二つの自分に
なれるということは、
もっと増やせるのでは
ないか、と
そう思うのは
自然の流れだろう。
だから
3つ目の自分が
出てきた。
ということは、
4つ目も。
5つ目も。
いや、
もっともっと!
と
やっている内に、
自分が
どんどん増えていく。
気がつけば
世界全体を
無数の自分が
覆い尽くす。
自分が無限に
なることで
世界と一つに
なっていく。
そして
ある瞬間にフッと
まるで
何かから開放された
ように、
ストンと
今ここにいる自分に
戻る。
今ここにいるのだけど、
世界も自分である
という
感覚はそのままだ。
自分が光に
包まれているか、
光そのものが
自分なのか、
よくわからないが、
実に満ち足りた状態で
ここにいる。
そして
この状態で仕事に
取り掛かると、
実に素晴らしく
捗る。
生産性100倍。
すると、
そんな自分の中に
さらに明るい
新たな光が
生じている。
その光の中に
入ると、
またフッと
ここに戻る。
するとさらに
自分は
静謐になっている。
こんな時だ。
新たな道が
観えてくるのは。
つづく
転換点に
いる時は、
不安定さを感じる
ものだが、
しかしそんな時は
自分の中心軸に
意識を向けるといい。
中心軸は
スーッとまっすぐか?
細くても
構わない。
スーッと
一直線に
伸びているか?
それを
確認しよう。
心がどれだけ
不安定でも
中心軸が一直線なら
大丈夫。
常に
「中心軸の自分」として
現実に向かおう。
転換点とは、
未知の領域への
入り口なので、
不安定なのは
当たり前。
むしろその
不安定さを
味わおう。
もし
中心軸が曲がっていたり、
途切れていたり、
中心軸そのものが
なくなっていたり
したら、
その転換点は
恐らく転換点ではない。
転換点だと
思っているだけで、
実は「止まってしまっている」
可能性がある。
そんな場合は
今一度、
自分の生き方を
再確認する必要がある。
そのためにも
現実とちゃんと
向き合おう。
自分が今、
本当に取り組むべきことは?
自分にとって今、
最も大切な課題は?
そういった基本的な
ことを、
改めてちゃんと
見つめ直そう。
本当は今、
取り組むべきことが
あるにも関わらず、
そこから目を逸らすことで、
私達にはまるで
自分が転換点にいるような
感覚となる。
転換点なので、
ここを越えればまた
安定するさ、と
自分に希望を与えるが、
残念ながら
そのような展開は
ない。
本来の転換点
とは、
転換点であるが
故に、
中心軸はより
明確に
明快に
現れるものだ。
つづく
何かが
おかしい。
理由は
わからないが、
どうしても
スッと
こない。
何かが
引っ掛かっている。
その微妙な
感覚。
そこにいかに
敏感でいられるか?
これが私は
人生を決めると
思っている。
何かが
おかしい。
何だろう?
この「?」と
どれだけ向き合うか、
によって
人生は決まる。
向き合った結果、
その「何か」を
もし掴むことができたら、
では私は
どうするか?
という、次の
「?」に
向かう。
そして
ほんのわずかでも
答えらしきものを
見つけたら、
即座に
実行に移してみる。
進んでみる。
つまりは
「?」に敏感に
なりながら、
進み続ける。
止まらない。
・・・これが
自分らしい人生を
創り出す。
「自分らしさ」を
誤解している人は
多い。
「自分らしさ」を
頭で考えているのだ。
そこに答えは
ない。
「私は今、自分らしい」
などと
自己評価している
うちは、
自分らしくは
ないのだ。
それは頭で考えた
解釈に過ぎないし、
幻想に過ぎない。
自分らしさとは
「行動」である。
自分らしさは
それを見た
周りの人達が決めて
くれる。
「あぁ、あの人らしいな」
と。
本人は
そんなところに
視点はない。
本人はただ、
自らに自然に湧く
「?」を抱きながら、
遮二無二
進んでいるだけだ。
つづく
身に沁みる経験
というのが
誰にもあると思う。
身に沁みる経験
とは、
ほぼほぼ
自らが引き寄せている。
だから、
なぜ身に沁みたか?
を
ちゃんと深堀りする
必要がある。
そこでの気づきが
自分にとっては
とてつもなく大事な
指針となる。
身に沁みたら、
その
身に沁みている
心の感覚に
素直になること。
自分の都合の
良いように
頭で強引な解釈を
しないこと。
そして、
必要以上に
自分を責めないこと。
オススメの
問いは、・・・
身に沁みた私の心は
何を叫んでいる?
身に染みた私の心は
何を後悔している?
私にどんな強い
願いがあるから、
こんなに身に沁みて
いるのだろう?
今回の経験で
私の願いは
変化するだろうか?
今の私に必要な
栄養は?
この経験で
私が取り戻したものは?
私は何に
凝り固まっていた?
この経験を通じて、
私は何を変化させ、
何を変化させずに
進もうか?
・・・
身に沁みたら、
ちゃんと最後まで
とことん
身に沁みよう。
つづく
一度、
「世界」そのものと
なってみよう。
「世界全体」
が
自分なのだ。
私は「世界」だ。
と
断定してみよう。
すると
まるで地球が
自分の掌に
乗っかっているような
気分になる。
それでいい。
なら、
掌の地球を
眺めてみよう。
その中の
一点が
自分だ。
「世界」となっても
「自分」はいる。
そこに。
「世界」となり
世界の中の
一点である
「自分」を見つめる。
一体
と
全体。
実はこの
両方の視点を
持つということが
本来の
私達人間の
「自然」な姿だ。
「一体全体」を
常に感じながら、
「一体」として
ここで生きる。
これが
あらゆる私達の
在り方だ。
ところが
いつの日か
私達はそれを忘れ、
「一体」である
自分しか感じずに
生きるようになった。
それでは「ここ」で
自分が何をすれば
良いか?
が
わからなくなるのは
当然だ。
だから今こそ、
「全体」の視点を
取り戻さねば
ならない。
奇妙なことに、
インターネットの
ように
全体と繋がりやすい
ものが
当たり前のように
世の中に存在するように
なったら、
私達はさらに
「一体」の自分しか
見えなくなってしまった
ようだ。
全体と
繋がりやすい環境
だからこそ、
ちゃんと
「全体」を思い出さねば
逆に危険だ。
「全体」とは
今の私達が感じている
ようなものでは
ない。
「全体」とは
もっと
満たされたものだ。
その「感覚」を
思い出さねば、
私達はさらに
「全体」を失うことに
なるだろう。
「一体全体」
私は何をすれば
良いのか?
つづく
今、
自分の中心核に
生まれたものが
あるだろう。
まずは
その光を
感じてみよう。
そのあたたかさと
パワーと
包まれる感覚と
爽快さと
毅然とした
風を
感じてみよう。
多くの人は
自分に中心核が
あることを
忘れている。
でも
毎日のように
ずっとそこに意識を
向け続ければ、
すぐに
わかるはずだ。
新たな何かが
生まれた感覚が。
そしてその
光が。
今、
それが
あるだろう。
意識を向ければ
すごい存在感
だろう。
新たな自分
と表現しても
良いくらいだろう。
その中心核の
光は、
あなた自身に
何を語りかけている?
何を
促している?
そして
何を
望んでいる?
つづく
もし今、
自分の安定度が
かなり
減退しているな、
と
感じたら、
あまり無理を
せず、
ペースを落として
みるといい。
今の時期、
エネルギーが
グングン高まっている
人が多い。
エネルギーの
急激な高まりは、
エネルギーの
制御不能状態を
起こすかもしれない。
そのため
今、不安定で
あるならば、
それは
エネルギー不足に
よるものではなく、
エネルギー過多に
よる
可能性が高い。
エネルギー過多
と言っても、
今はエネルギー過多
かもしれないが、
だんだんと
バランスは良くなるはずだ
だから
どうしても安定しない
場合は、
自分の行動する速度を
少しずつ落とし、
できるだけ
ゆとりを持ったスケジュールで
一日を過ごすと
良いかな。
スケジュールを
どうしても緩めることが
できない場合は、
できる範囲で
たとえ数分でも
一呼吸置く時間を
何度か確保することと、
できるだけ
睡眠をとることだ。
スピードを落とす
ことで逆に
生産性は
高まるはず。
今は変化の
時。
自分が日々、
大きな変化を
し続けているのだという
前提で
自己管理を
しよう。
つづく
これまでの世界
と
これからの世界。
これまでの世界
を
1とする。
もし、
これからの世界
が
1000であると
するならば、
あなたは
自分を
どう変える?
1の世界が
1000の世界と
なる。
当然、
これまでの自分では
太刀打ちできない。
1と1000。
これは
難易度を表している
わけではない。
むしろ、
自由度を表している
と
受けとめると良い。
これまでの
自由度が1。
ここからの
自由度が1000。
これは
大変だ。
実に
大変だ。
自由になる
というのは
大変なことだ。
すべて自分で
決めなければ
ならなくなる。
しかも
1が1000になる。
これまでの
比ではない。
比ではない
というよりも
世界そのものが
根底から
変貌する。
だから
自分をどう変えよう?
と
発想したところで、
発想しきれる
ものではない。
でも、
そうだとしても、
今の私達は
真剣に考えてみる
べきだ。
自由度が
1から1000に
変わる。
じゃあ、
私は私を
どう変えようか?
今日から、
少しずつでも
どう変えようか?
私達は
人生の舵を
大きく切らなくては
ならない。
つづく
皆が本当に
調和するためには、
一人ひとりが
明確に
自分の意思を持つ
しかない。
自分の願いを持つ
しかない。
一人ひとりが
自分の意思で
自分の道を歩む。
それは人々を
分離させるのではなく、
調和を生み出す。
いまだに、
一人ひとりが
意思を持ったら
組織はバラバラになる、
と
思い込んでいる人は
多い。
真逆だ。
意思を失った人ほど
脆弱な存在は
ない。
そして
その集まりである
組織ほど
脆弱な存在は
ない。
それはあまりに
当たり前なことだけど、
その当たり前を
私達はついつい
忘れてしまう。
人を
コントロールせねば
人は
動かない。
いやいやいや。
コントロールされて
本当に嬉しい人は
一人でもいるだろうか?
コントロールされて
本気で動く人が
いるだろうか?
もちろん、
生死に関わるくらいに
追い詰められれば
話は別だけど。
意思のない
調和はない。
とはいえ、
自分の意思で
生きるのと、
自由に生きるのは
また異なることだ。
自分の意思で
生きるためには、
あえて
不自由に向かって
いかねばならない時は
多い。
それも含めての
広義の自由
という言い方も
できるけどね。
意思。
最近、この言葉を
私はよく使う。
使う必要が
あるからだ。
あなたの
意思は何ですか?
という問いを
本当によく投げる。
自分の意思を
自分が無視するほど、
心が淀む
ことはない。
つづく
勢いが
出てきた時ほど、
勢いだけで
進むことはやめよう。
勢いがあれば
あるほど、
今、目の前の
一歩を。
そこに誠実に。
真摯に。
静かに現実を
眺めよう。
勢いを
自らの純粋性に
変える。
勢いという
エネルギーを
鎮まる方向に
使う。
エネルギーが
高ければ高いほど、
それは容易だ。
そしてすべてが
より
クリアに観えてくる。
自分が次に
何をすべきかが
ハッキリとわかる。
そうしたら
タイミングを大事に。
勢いだけで
進めば、
このタイミングをいつか
外す。
そしてすっ転んで
勢いを失くす。
純粋にクリアに
現実を観察し、
タイミングを極めて
静かに
次の一歩を。
これをすれば、
さらに
勢いがつく。
そして勢いが
ついたら、
それをまた
鎮める方向に。
最速で進むには、
鎮まった自分が
必要なんだ。
つづく
新しい自分を
受け入れる
度量を持とう。
しかしそれは
言うは易し、
行うは難し。
ほとんどの人が
新しい自分を
怖がる。
いや、
新しい自分そのものを
怖がるというよりも、
自分の変化を
怖がる。
その変化が
根本的であれば
あるほど。
それはしょうがない
ことかもしれない。
しかしその勇気を
持つ者は、
本人からしてみれば
まるで別人に
なるかのように
変化する。
しかし
側から客観的に
みれば、
その変化は
実に自然だ。
それは
変化というよりも
深化。
よりその人らしさが
滲み出る。
あぁ自然体に
なれたんだね。
・・・という
フィードバックになる。
側からみれば
そうなんだけど、
本人にしてみれば、
これまでの自分が
完全に破壊されたかの
ような、
そんなある種の
喪失感がある。
私がだいぶ前に
この最初の体験を
した時、
私は
落ち込まない私に
なってしまった。
それ以前の私は
ほんの些細なことを
気に留め、
すぐに悪い方へ
悪い方へと
物事の展開を考え、
・・・考え、というより
妄想しまくり、
一人で勝手に
落ち込んで
一人で勝手に
疲弊していた。
実際には
そのような不安なことは
起きないのに、
それは後になれば
いつも何事も
なかったのに、
それでも不安に
陥り、
心は疲れ果て、
いつも鬱々として
過ごしていた。
不安の中に
いる自分。
それが通常の
私であり、
それが私自身の
本質だった。
・・・と思っていた。
しかしそれが
ある時、一気に
変化した。
変化後の私は
落ち込まなくなった。
不安に
苛まれなくなった。
もちろん、
普通に安は出る。
そりゃそうだ。
現実世界で
生きているから。
でも、どうしても
妄想に入れなく
なった。
大抵のことでは
落ち込まなくなった。
落ち込もうと
思っても
どうしても
落ち込めないのだ。
だから私は
必死に努力して
妄想をし、
必死に努力をして
落ち込もうと
したんだ。
今から考えると
笑える話だが、
それくらいに人間というは
これまでの自分に
固執するらしい。
不安にならないと
不安なのだ。
落ち込まないと
落ち着かないのだ。
そんな状態が
ずっと続いて、
しかし
どれだけ努力しても
確固たる心の大地が
あり、
落ち込もうと思っても
落ち込めない。
不安になろうと
思っても、
どうしても心が
満ちてしまう。
エネルギーが
湧いてきてしまう。
ということが
続き、
ある時にとうとう、
あきらめた。
あぁもう私は
変わってしまったんだな、
と。
もうしょうがない。
無駄な悪あがきは
やめようかな、
と。
本当にあきらめた。
で、急にそこから
楽になった。
こんな感じ。
私達は、
どんなにひどい自分でも
これまでの自分に
執着する。
変わりたく
ないのだ。
でもそれは
あきらめた方が
いい。
あなたはもう
変わり始めて
いるから。
本来の自分に
向かってね。
つづく
ほんのわずかな
思いつき程度の
小さな小さな
発想だとしても、
それが実は
自分自身の深い願いから
生まれたものかも
しれない。
・・・という視点は
いつも
持っておいた方が
いい。
コーチングで
よくあることだ。
雑談のような
ちょっとした会話の
中で、
最近、こんなこと
思いまして・・・、
と
突然クライアントさんが
呟く。
でも呟いた途端に
まぁつまらない
ことなんですけどね・・・、
と
その人自らが
その発想を
投げ捨てる。
いやいやいや!
ちょい待って!
と
私が止める。
今のその発想、
ジンジン伝わって
来ましたよ!
と伝えると、
えぇ?そうですか?
と。
でもその発想を
しっかりじっくり
深堀りしていくと、
そんな場合は
大抵、
とんでもない展開に
結びつく。
ビジネスであれば、
それが新規事業に
つながったり、
時には
新会社につながったり
することもあった。
そこまで
行かなくても、
仕事のやり方が
大きく変わったり。
人生の流れが
変わったり。・・・
発想は宝物。
特に、
ほんの些細な
思いつきのように
自然に浮かんだものは、
珠玉の発想
かもしれない。
でもその珠玉を
みんな
自ら捨てている。
そんな勿体ない
ことはない。
だから私は
常々お伝えし続ける。
問いを持とう!
と。
ちょっとした
思いつきに対して
問いを向けよう!
と。
なぜこの発想は
出たのか?
この発想の根元に
何があるのか?
この発想を
育てると
どうなるのか?
さらにその先は
どうなりそうか?
そういった
ちょっとした
習慣づけ。
これが大事。
私達は常に
自らに
ヒントを出し続けて
いる。
自分の人生も
仕事も
よりよくするための
ヒントをね。
つづく
なぜ私は
ここに
いるのだろう?
・・・この問いは
みんなもっと
大切にした方が
いい。
「ここ」
というのは、
例えば
今の職場とか
今の家族とか
今住んでいる所とか。
要するに
今自分が実際に
身を置いている
環境だ。
いや、
たまたまです。
・・・という
答えはなし。
あんな出来事が
あって
その後こんな
出来事があって、
その結果
ここにいます。
・・・というもの
なし。
もっと
本質的な答えを
見つめた方が
いい。
私達の人生に
「たまたまここにいる」
なんてことは
ない。
「たまたまこんな
経験をした」
というのもない。
すべて
自分が創り出した
現実だ。
たとえそれが
無意識だったと
しても。
「ここ」にいる
には
理由がある。
願いが
あるのだ。
いや、私は
ここになんか
いたくない。
私はちっとも
ここを願ってなんか
いない。
願いなんかない!
と言う人も
きっといるだろう。
いや。
それは違う。
「ここ」にいる
以上、
私達は自分の願いに
基づいて
「ここ」まで来た。
ここはあえて
断言しよう。
そしてこの
前提のもとで
もっと必死に
考えるんだ。
なぜ私は
「ここ」
にいるのか?
自分の本質を
しっかり
見極めようと
するんだ。
「今」は
この視点が
とても大事だ。
この視点を
持つことで、
この後の道が
大きく変わるよ。
つづく
日々を自分なりに
真剣に生きているな、
と
思える人は、
もうちょっと
自分の感性を
信じても良いのでは
ないかな。
感性とか
感覚とか。
そういったものは
あやふやなもの
と
思われがちだけど、
実はそうではなく、
結局のところ
感性こそが
人生でも仕事でも
重要な指針の根底に
くることは多い。
感性の
基本は、
・しっくりくるか
・違和感があるか
の区別かな。
理屈上、
どう考えてもこっちの方が
いいなぁ
と思っても、
どうも
しっくりこない。
違和感があるような・・・。
と感じるなら
それはNOなんだ。
自分にとっては。
そんな場合、
私はNOだと
感じている。
という事実を
まずは
自分が大切にすると
いい。
そして
NOだと言う前提で
・・・そこはもう
NOという結果が
出たものとして
なぜNOなのだろう?
ということを
真剣に思考して
みる。
すると、
次々にいろんな
気づきがある。
自分の感性を
信じることで
思考が働くんだな。
もちろん
逆も然り。
なぜだかわからない
けど
とてもしっくりくる。
と感じるので
あれば、
それをYESであると
自分が自分で
認定して、
その理由を
しっかり考える。
こういったことを
日々、
続けていれば
感性は
どんどん養われる。
普段の生き方が
淀んだものである人は
これをどれだけやっても
意味はないかも
しれない。
でも、
自分なりに
私は真剣に生きてるな、
と思える人は
ぜひ自分の感性を
養ってほしい。
きっと
グングン伸びるよ。
つづく
心の中に
暗く大きく重い雲が
あるならば、
その雲を
無くそうとしては
ならない。
雲とは
対峙するのだ。
対峙、と言っても
戦うわけでは
ない。
ただ、
見つめる。
しっかり
見つめる。
あるがままを
見つめる。
それだけだ。
どのような雲が
現れても、
変わらない。
自分のスタンスを
変えない。
あらゆる雲と
対峙する。
そのままを
見つめ続ける。
これを
一つ一つ誠実に
行なう。
真面目に
続ける。
たったこれだけで
私達は
自分を生きる
ことができる。
雲と対峙
し続ける者は、
対峙している
この自分が
ガッシリと立ち続ける
大地を
感じ始めるだろう。
その大地は
対峙すればするほど
確かなものになる。
そして、
雲は雲。
それは
儚いものであり
弱いものであり
陽炎のように
消えてゆくもので
あり。
もしかすると
本当は
最初からそこには
存在しないもの
だったのかもしれない。
そんなことが
徐々に
わかるように
なってくる。
大地は最初から
そこにあり、
そこに自分は
立っている。
雲から逃げる者は
大地すら
わからなくなり、
雲と対峙する者は
大地そのものが
自分であることを
思い出し、
その眼差しは
愛となる。
そしてその眼差しで
他者を見つめることが
できるようになる。
すべて
始まりは自分
である。
自分の生き方
であり、
自分自身との
対峙の仕方で
ある。
つづく
今の自分は
本当は
何を一番
望んでいるのか?
・・・これはとても
単純な問い
なのだが、
この問いを
自分自身に
毎日のように
真剣に
投げ続けている人は
いったい
どれだけいるだろうか?
自分の気持ちを
本当の気持ちを
自分が知らずして、
どのようにして
自分の人生を
生きることができるのか?
自分のことを
自分が理解せずして、
いったい誰が
自分を理解
してくれるのか?
「望み」。
自分のことを
よく観察する人は
いるが、
自分の望みを
観察する人
し続ける人は
びっくりするくらい
少ない。
毎日の現実に
ドップリと
浸かってしまえば
それも
やむを得ないかも
しれない。
自分を見つめる時間
など
確保する気力は
ないかもしれない。
しかし
それでも
わずかでも、
一日に最低
一回は、
静かに自分を
見つめよう。
自分の「望み」に
意識を
向けてみよう。
真剣に。
何よりも
真剣に。
つづく
人と人の
つながりを、
本当に大切に
したいのであれば、
落ち着いた自分で
いることだ。
落ち着いて
人と
向き合う。
それを
一つ一つ丁寧に
行なうことだ。
その人と
その場で
その瞬間にしか
とれない
コミュニケーションが
ある。
その人と
その場で
その瞬間にしか
出せない
答えがある。
その人と
その場で
その瞬間にしか
伝えられない
ことがある。
それは
一度逃すと
一生戻ってはこない。
それを
一度逃すことで
その後の流れを
取り戻すためには
非常に長い時間と
労力がかかる。
それだけ
人生の展開が
遅れてしまう。
一期一会
という言葉が
あるが、
まさしくその通り。
同じ人と
何度も会ったと
しても、
その時
その瞬間は
そのたった
一度だけ。
たった一度の
その人との
今。
それを
大切にすることが、
その人を
大切にすることで
あり、
その人との
つながりを
大切にすること
なんだ。
つづく
人間という
ものは
複雑怪奇だ。
そこに目を
向ければ、
到底
信じられなくなる。
一方で、
人間という
ものは
シンプルだ。
そこに目を
向ければ、
とても
可愛らしく観える。
どの視点から
どう観るかによって
まったく
カタチを変える
人間という存在。
それが
私達だ。
オススメは、
まずは
シンプルな視点を
持とう。
シンプルに
自分を見つめ、
自分のシンプルさ
を
発見しよう。
そして、
そのシンプルさ
という視点から、
あらゆる
複雑怪奇を
観察する。
すると
すべてが
笑えてくる。
シンプルさを
忘れ、
複雑怪奇のみに
埋没すれば、
恐らく
一生そこから
脱け出せなくなる。
そして深まるのは
自己不信。
自己不信は
他者不信を
生み、
結局のところ
人生は
灰色になる。
そんなの
いやだろ。
私達は
シンプルだ。
複雑怪奇な
フリをしたって
ダメだ。
シンプルだから
こそ、
複雑怪奇で
いられるんだ。
そのカラクリ
を、
早く見極めよう。
つづく
自分のことを
もっと深く
知りたい!
という若者と
本当によく出会える
ようになった。
皆、勇敢だ。
多少、すっ転んでも
いいと
思っている。
だから
躊躇なく行動する。
そう。
自己理解を
深めたければ
行動するしかない。
止まっている自分は
決して
本来の自分では
ない。
止まったまま
あーだこーだ
考えていても
何の発見もない、
というのが
私達人間だ。
ただし、
ただ闇雲に行動
しても
意味はない。
本当にやりたい
ことを
本当にやりたい
ように
やる。
のだ。。
そのためには
本当にやりたいこと
が何か?
に
常に真剣でいることだ。
今、浮かんだ
この発想は
本当にやりたいことか?
今、やろうとしている
この行動は
本当にやりたいことか?
とにかく
真剣にそこを
見つめる。
そしてもし
わからなければ、
やってしまえばいい。
そこで
止まるのでは
なく。
本当にやりたいことを
やろうという
強い意志のもとでの
行動であれば、
多少、間違っていても
必ず何かを
得るだろう。
すっ転んでも、
痛くても、
ただ痛いだけでなく、
次につながるヒントは
得られるだろう。
ちょっと乱暴に
言えば、
周りに合わせた
行動では、
どれだけ行動しても
自己理解が進む
ことはない。
だってそれは
自分の意思では
ないから。
意思のないところに
得るものは
ない。
決して。
意思に基づいた
行動。
その連続の向こう
にしか、
本来の自分は
いない。
つづく
これから出会う
人達から
まるでメッセージの
ような
「意思」
のような
何かが届くことが
ある。
明確には
よくわからない。
感覚が
あるだけだ。
しかし私は
その感覚を
とても大事にする。
その感覚を得る
ことで、
今まさにやろうと
思っていたことを
やめてしまった
こともある。
あそこで
やめなかったら
きっとこの出会いは
なかったな、
と
後になれば
わかるのだが、
もちろんその時は
わからない。
わからないが
故に私は
感覚を大事にする。
違和感のあることは
だから
一切やらない。
出会うか
出会わないか。
これが人生に
与える影響は
あまりにも大きい。
出会いを大事に
するということは、
出会う前の自分も
大事にすることだ。
今のこの
一歩一歩。
これを大事にする
ことが
すべての出会いや
縁を
約束通りに
芽生えさせ
育むことになる。
出会いは
原因でもあるが、
結果だ。
出会えた!という
結果を呼ぶのは、
今の自分だ。
つづく
静かに
力を抜いて、
本当に
必要なだけ
ちょっとだけ
刺激を
入れる。
あとは
余分なことは
何もしない。
必要最低限の
エネルギー。
必要最低限の
言葉。
必要最低限の
反応。
・・・これが
コーチとしての
私の基本スタンスだ。
まるで
月の如く。
でもたま〜に、
噴火。
ダダダッと
一気に
マグマのような
メッセージを
注ぎ込む。
余分なことは
何もしない。
必要以上の
力は絶対に
込めない。
という前提の
もとでの
マグマの噴火は、
効く。
滅多にない
ことだけどね。
コーチとして
というだけでなく、
ひょっとすると
私は
すべてのコミュニケーションを
同じようにしている
かも。
これを
私以外の皆さんに
オススメして良いかどうか
はわからない。
でも私はこれで、
人間関係が
とても調和するように
なった。
ゆとりが
持てるように
なった。
人が
好きになった。
「会話」の醍醐味を
感じ取れるように
なったんだ。
つづく
混乱の源は
静寂だ。
静寂が
あるからこそ、
安心して
混乱できる。
もし静寂が
なければ
混乱すらできない。
だから、
もし今、あなたが
大きく混乱している
ならば、
安心すると
いい。
しかし
かといって
その混乱から
脱け出てしまうのは
実に
もったいない。
せっかく混乱
しているのだから、
最後まで
徹底的に
混乱
し尽くそう。
混乱している
間に、
私達は
準備を整える。
準備完了
と共に
混乱は消えていく。
意図して
消すものでは
ない。
自然に浄化
されていくのが
混乱の本質だ。
一見すると、
目の前の現実が
混乱の源のように
思うかもしれないが、
それは違う。
もちろん
現実が混乱の
引き金になることは
ある。
現実に
翻弄し続けられる
こともある。
しかし
現実による混乱とは
表面的なものだ。
あなたのその
混乱は、
もっと奥深い
し、
根が深い
はずだ。
そういった混乱は
諦めるといい。
やはり
徹底的に
混乱し尽くす。
「私は混乱である」
くらいに
混乱と同化すれば
いい。
「一生、混乱として
生きてやる」
くらいに
開き直ればいい。
混乱よ
まだ行くな、と。
つづく
大自然の前で
人は無力だ。
ということを
私は学生時代に
登山を通じて
いやというほど
知った。
私はもともと
人間嫌いだった
のだが、
その理由の
一つは
人間が無力だから
だ。
大自然の
素晴らしさ。
そして
人間の小ささ。
なんで自分は
人間などという
小っぽけな存在として
生まれてしまったのだろう?
という疑念。
私は私が
嫌いだったし、
それはきっと
私という存在そのもの
があまりに
無力なので
嫌いだったのだろう。
今も
人は無力だな
と思う。
しかし一方で、
人の無尽蔵さも
いやというほど
見てきた。
かと言って
人には皆、
可能性がある
とは
安易に言いたくない。
そんなに簡単な
ことではないと
思うのだ。
自分の無力と
向き合う。
自分の無力と
向き合う。
自分の無力と
向き合う。
私は自分が無力だと
思っていたが、
本当にそうなのだ、
と
つくづく諦めたのは、
もっと何年も
後のことだ。
それまでは
無力だと言いながら、
どっかで可能性を
信じていた。
でも、
本当に無力だと
思い知った時、
それを
受け入れて
無力そのものに
なった時、
そこで初めて
何かが
開けた。
何かが軽く
なった。
そこから私は
自分が何に
努力すれば良いかが
きっと
わかるようになったのだ。
無力な自分が
それでも
できること。
それは
何だろう?
という問いに
なった。
そしてそれを
コツコツと
ずっと一つずつ
積み上げてきた。
だから今は、
自分の無力さを
感じても
何とも思わん。
・・・いや違うな。
何とも思わん
ことはない。
かなり
落ち込む。
かなり落ち込む
けど、
その落ち込むこと
そのものが
どうってことは
ない。
無力だが
歩みは
止まらない。
可能性がある
などと、
安易には
言わない。
可能性は
ないかもしれない。
でも、
止まらない。
無力だろうが
可能性が
なかろうが、
それは
私が止まるための
理由には
ならないのだ。
つづく
人は誰にも
創造力
がある。
何かを生み出す
力だ。
その、
本来備わっている力
を発揮するには、
しかしそれ相応の
訓練が必要だ。
今回は一つ、
その訓練法を
お伝えしよう。
・・・・・・
「創造」には、
皆、
「創造の源」
がある。
あなたにとっての
創造の源を
探し出そう。
と言っても
やることは簡単。
「光」を
イメージしてみて
ほしい。
「創造の源」とは
一つの「光」である、
と
わざと思い、
その「光」は
どこだろう?
と
あなたの体の周りを
探してみてほしい。
例えば、
頭の50cmくらい
上にあるな、とか
自分の背後、
3mくらいのところに
あるな、とか。
多くの場合、
体の中というよりも
外にあるはずだ。
ほとんどの人が
「創造の源」と
離れてしまっている
からだ。
人によっては
宇宙の彼方に光がある
くらい
かなり遠くかも
しれない。
場所を特定できたら、
その「光」に
意識を向けてみよう。
それは
どれくらいの強さで
どんな色で
光っているだろうか?
それがわかったら
あとは簡単だ。
その「光」に
じっと意識を
向け続けるだけだ。
無心で
何も思考せずに、
ただじっと
意識を向け続ける。
それをしていると
何らかの発想が
ふと
呼び覚まされるかも
しれない。
それが
あなたにとっての
「創造」だ。
ただし、
最初からすぐに
できるわけではない。
まずもって
無心で意識を向ける
ということ自体が
難しいだろう。
ちなみに私は
これ、
やろうと思えば
何時間でもできると
思う。
「創造の源」である
「光」は、
そこに意識を向ければ、
ずっと無心で
いられるのだ。
そして
無心でいられれば
いられるほど、
あなたの人生にとって
必要な何かが
そこから発想される。
毎日、少しずつでも
良いから
練習しよう。
この練習は、
実は、
創造力以外にも
様々な効用を見せてくれる。
あえてそれは
ここでは書かないので
ぜひ自らそれを
体験してみてほしいな。
つづく