チームパフォーマンスコーチ

強い意思で枠を超えよう

 

外に

出よう。

 

「自分」

という枠の

外に出よう。

 

それをするためには

それを本気で

しようとする

強い意思が必要だ。

 

いつか、

徐々に、

自分の枠を超えて

行けばいいさ、

 

という悠長さでは

残念ながら

私達は一生、

枠の中にいる。

 

それでも

いいじゃないか、

という生き方も

もちろんあるが、

 

でも本当に

それで良いのか?

真摯に自分に

問うてほしい。

 

私達は

人生において、

何度も、その枠を超える

チャンスを得る。

 

そのチャンスを

逃さずに

超えることができれば、

 

その度に

私達は「自由」という

感覚を

手に入れることが

できるし、

 

何よりも

その度に

心の深いところで

自分のことを

好きになれる。

 

それにより、

さらに次の枠超えへの

モチベーションも

上がる。

 

これも一つの

好循環。

 

進化への

好循環だ。

 

今、

枠を超えるチャンスを

得ている人は

多いのではないか。

 

あなたの目の前にも

そのチャンスが

あるのではないか。

 

チャンスが

来たときに、

一気に行こう。

 

勇気を持ち、

強い意思を持ち、

 

一気に

行ってしまえ。

 

つづく

 

人生を淀ませないために

 

窓を開けると

部屋の空気は

どんどん入れ替わる。

 

新鮮な空気が

入ってくると、

 

あーそうか、

この部屋の空気

結構、淀んでたな、

 

とわかる。

 

部屋の中に

新鮮な空気を入れる

だけで、

発想が随分と

変わったりする。

 

私達の心も

同じである。

 

・・・・・・

 

心の中の空気を

入れ替えよう。

 

空気の循環を

起こそう。

 

循環のない状態は

停滞・衰退に直結する。

 

そういった意味では

循環こそが

「安定」である。

 

よくよく考えれば、

世界は、

自然は、

循環で成り立っている。

 

良い循環を

自ら引き起こそう。

 

・・・・・・

 

そう言えば私は

随分前から

この「循環」というものを

大切にしてきた気がする。

 

企業さんのサポート

でも、

 

問題に対して

どう対策するか?

 

よりも、

 

どんな循環を起こせば、

この問題は

自然解決するか?

 

を、

皆で徹底的に考えたり

してきた。

 

循環というのは

一度ちゃんと回り始めると、

まるで慣性の法則が

働いているかのように、

 

その循環自体が

自立し、自転し、

パワーを高めて行く。

 

そういった意味で

仕組み創りとは

循環創りだと思う。

 

・・・・・・

 

一度、

「循環」という視点で

自分自身を

振り返ってみよう。

 

自分は今、

どのような悪循環を

無意識に創り出しているか?

 

自分は今、

どのような好循環を

無意識に創り出しているか?

 

今ある悪循環を

好循環に変換するには

どうすればよいか?

 

そんな視点で

振り返ってみよう。

 

・・・・・・

 

好循環を

創り出している人は、

 

別の

好循環を創り出している人と

出会いやすい。

 

するとそこで、

好循環同士の

化学反応が始まる。

 

好循環の相乗効果

が始まる。

 

そんな仲間が

そこかしこに

増えて行くといいな。

 

つづく

 

手放した執着を自覚しよう

 

この一両日中に

大きく脱皮した人は

多いのではないか。

 

独特の

空気感が

伝わってくる。

 

だからあえて

書かせてもらうのだが、

 

自分の脱皮は

自分でしっかりと

認識し、

 

新たな自分に

なれたことを

自覚した方がいい。

 

脱皮前の自分と

同じ判断

同じ選択

同じ行動

をしていてはもったいない。

 

自分の中の

余分なもの(皮)を

脱ぎ捨てたのだから、

 

思い切って

これまでにない

自由な心で

物事を進めるといい。

 

・・・・・・

 

脱皮した人が

脱ぎ捨てた「古い皮」は、

 

多くの場合

何かに対する「執着」

だ。

 

私達の自由を阻害する

最も代表的なものが

「執着」。

 

執着とは

別の言葉にすれば

「依存」

とも言える。

 

それがなければ

生きていけない。

 

それがなければ

進んでいけない。

 

それがなければ

自分ではいられない。

 

と言ったような

もの。

 

ある意味の

「中毒」

とも言えるし、

「寄生」

とも言える。

 

そうそう、

 

今日のコーチングでも

少し話題になったのだが、

 

自分自身の

使命とか、

夢とか、

願いとか、

 

そういったものにすら

執着してしまう

人がいる。

 

この使命を

果たさなければ、

私は私で

なくなってしまう。

 

・・・というのは、

依存であり執着だ。

 

さらに、

 

この使命に向かうからこそ

私は素晴らしいのだ。

 

とか、

 

使命を持っている私は

持っていない人よりも

優れているのだ。

 

とか、

 

そういったものも

執着であり依存である。

 

使命や夢や

願いとは、

そういったものでは

ない。

 

別に

使命があっても

なくても、

どっちでもいいじゃない。

どちらにしても

私は、私自身が存在している

そのことだけで

価値がある。

 

と、真に思えている人

にこそ、

真の使命や願いは

浮上する。

 

使命がなければ

ダメなんだ、

使命のない自分では

価値がないんだ。

 

というのは、

その人の根底には

無価値感や

虚無感がある。

 

それらがすべて

執着につながる。

 

寄生につながる。

 

自分の使命に

自分が寄生して

どうするんだ、

という話だ。

 

とにかく、・・・

 

そういった余分な

執着を

一つ一つ脱ぎ捨てる

ことで、

 

私達は

より自由になるし、

 

本来の自分に

近づいていく。

 

それが

脱皮だ。

 

・・・・・・

 

自分はひょっとすると

脱皮したかも

しれない。

 

と思う人は、

いつもと同じ

日常生活をする中で、

 

そこにある

いろんなものを

いろんな人を

 

あるがままに

観察してみると

いい。

 

すると、

これまでとは違った

感覚や

発見や

気づきが

あるかもしれない。

 

それが

脱皮の合図だ。

 

環境は

すぐには変わらなくても、

自分自身は

脱皮をしながら

大きく変わっていく。

 

自分自身が

変われば、

それが結果として

環境をより良いものに

変えていく

きっかけとなる。

 

そのきっかけ創りを

楽しむといい。

 

つづく

 

人と向き合おう

 

人生を

斜に構えている人は

結構多い。

 

そういう人ほど、

私とは向き合って

くれない。

最初は。

 

だから

ちょっとずつ

近づいて行く。

 

本当に

ちょっとずつ。

 

すると

ある瞬間から、

ほんの一瞬だけ

向き合うことが

できるようになる。

 

でもその一瞬が

できるようになったら

とても嬉しい。

 

その後は

向き合える瞬間が

ぐんぐん

増えて行く。

 

すると

特に私が何も

しなくても、

 

何も

言わなくても、

 

斜に構えていた

その人の姿勢が、

嘘のように

消失していく。

 

人生に対して

素直になる。

 

真摯になる。

 

すると

自ら歩き始める。

 

特に私は

何もしていない。

 

ただ、

できるところから

少しずつ

「向き合う」

ということをしているだけ。

 

これが

「向き合う力」

だ。

 

誰もが

持っている。

 

・・・・・・

 

向き合うというのは、

別に

喧嘩をすることでは

ない。

 

意見を言い合う

わけでもない。

 

もっと言えば、

言葉を発する必要

すらない。

 

向き合うというのは

ただ

「向き合う」

だけだ。

 

しかしそれが

できない。

 

ほとんどの人が

できていない。

 

形だけは

向き合ってはいるが、

本質は全然

向き合っていない

ケースが多い。

 

「向き合う」

とは、

意識を完全に相手に

向けることだ。

 

ちょっと大袈裟に

言えば、

「相手に委ねる」

ことだ。

 

これがお互いに

できるようになると、

その二人のコミュニケーションは

劇的に変化する。

 

居心地の良いものと

なるし、

 

創造的になる。

 

もし、

組織のすべての人が

その状態になれたら、

それはもう

凄いことになる。

 

・・・・・・

 

向き合うことに

慣れてほしいな。

 

誰とでも

向き合ってみて

ほしいな。

 

景色が変わるから。

 

人生が

変わるから。

 

もし人と向き合うのが

怖い場合は、

 

最初は

「物」と向き合って

みよう。

 

例えば、

いつも自分が

使用している鞄とか。

 

意識を完全に

鞄に向け、

 

鞄に自分を

委ねるんだ。

 

わかるかな?

 

いろいろなものに

やってみるといい。

 

・・・・・・

 

向き合わないことで

起きている問題は

非常に多い。

 

逆に言えば、

向き合うだけで

解決することも

非常に多い。

 

だから私はまずは、

向き合う状態を

創るサポートをする。

 

それだけで

多くの問題は

片付いていくが、

 

それでも片付かない

問題は

その後に、

みんなで向き合いながら

対策を考え

一歩ずつ解決する。

 

これが私のサポートの

常套手段だ。

 

・・・・・・

 

もし人生を

好転させたければ、

 

人と向き合う

ことだ。

 

一人一人と

丁寧に

向き合っていく。

 

これなくして

本質的な好転は

ない。

 

つづく

 

あーだこーだ言わせてくれ

 

ドドドドドッと、

まるで大滝が

下から上に噴出するように

 

凄いエネルギーの

流れが

止まらない。

 

これはいったい

何事か?

戸惑うばかりだ。

 

エネルギーが高いのは

とても良いことだが、

 

しかしエネルギーとは

きちんとコントロール

できて初めて

意味を成す。

 

このエネルギーを

これからどのように

制御していくのか?

と、

私は茫然自失と

している。

 

・・・・・・

 

今の私にできる

最大のことは、

 

唯一わかる

ことは、

 

すべての意図を

手放す必要がある

ということだ。

 

もはやこのエネルギーは

私の範疇を

超えており、

 

私のあらゆる意図を

超えるものだ。

 

私が意図を持つ

ということは

その分だけこのエネルギーを

矮小化させる

だけだろう。

 

すべてを

委ねれば

よいのか?

 

でも委ねてしまったら

エネルギーに

埋没するだけでは

ないのか?

 

かなり

不安である。

 

でも

どうしようもない。

 

湧いてくるものは

どうしようもない

のだ。

 

・・・・・・

 

もともと人は

無尽蔵のエネルギーと

つながることが

できる。

 

しかし

つながるためには

条件がある。

 

そのエネルギーを

コントロールできる

自分になることだ。

 

もう自分は

大丈夫。

 

・・・と、

自分自身にOKを出すことで

そこにつながる。

 

私は私に

OKを出したの

だろうか?

 

いや、多分

出したんだろうな、

とっくに。

 

それは

わかる。

 

わかるが、

顕在意識の私が

まだ

ついて行っていない。

 

ヒョ〜〜、

どうしよう。

 

・・・・・・

 

まぁでも

よくよく考えたら、

この10年くらいは

これの連続だったような。

 

でも今回のは

これまでとはちょっと

違う気もする。

 

こういう時にいつも

私は自分の

ヘナチョコぶりを

呪う。

 

とは言え、

どれだけ躊躇しても、

結局は

やっちゃうんだ。

 

委ねちゃうんだ。

 

そんなことは

よくわかっている。

 

わかっているが

その前に

あーだこーだと

言いたいのだよ。

 

・・・・・・

 

というわけで

ちょいと

委ねてみます。

 

これから

どうなるかな?

 

つづく

 

雲の上に出た自分は

 

雲の上に

出たことはある?

 

飛行機に乗って

でもいいし、

山に登って

でもいい。

 

雲が自分よりも

下にある光景。

 

雲の上に

空が広がっている

光景。

 

それをナマで

見たことはあるかな?

 

もしあれば、

その時の光景を

しっかりと

思い出してほしい。

 

そして、

その場面の中に

入り込み、

もう一度

その場面を体験

してみてほしい。

 

じっくり

ゆっくりと。

 

・・・・・・

 

その場面にいる

あなたの心は

どうだろうか?

 

気分が

高ぶる感じか?

それとも逆に

どんどん落ち着いて

心が静かに

なっていくだろうか?

 

今いるその場面、

その場所は、

普段の自分とは

かけ離れた

非日常の場であると

感じるだろうか?

それとも、

こここそが

自分の本来の場所だと

感じるだろうか?

 

・・・・・・

 

雲の上にいる

その場所が、

 

もし自分自身の

「本来の場所」であり、

かつ、

「心が静かになる場所」

であるならば、

 

あなたは

太陽に向かって

飛ぶとよい。

 

太陽とは、

あなた自身の

願いだ。

 

一生変わらずに

一生追い求め続ける

願いだ。

 

そこに向かい

もっともっと

加速するといい。

 

もしその場所が

自分にとっては

「非日常の場所」であり、

かつ

「ちょっと落ち着かない」

とか

「気分が高ぶって

しょうがない」

場合は、

 

あなたは、

大地を踏みしめる

とよい。

 

足元をもっと

しっかりと見て、

ちゃんと立っている

安心感を

自分に与えることだ。

 

現実的に言えば、

日々の生活の

安定を、

しっかりと創り出すこと。

 

人は

安定があってこそ

自由になれる。

 

前者のタイプは、

飛ぶことそのもので

安定を得られる人だ。

 

後者のタイプは、

地に足をつけることで

安定を得られる。

 

どちらが

良い悪い

ではない。

 

どちらも

その人にとっては

最善のことだ。

 

・・・・・・

 

この方法を

行なう場合に、

一つだけ注意点。

 

それは、

実際に雲の上に出た

という「体験」を

一度でもしたことのある人にしか、

この方法は機能しない

ということだ。

 

その過去の体験の

場面を思い出しながら

やるところに

意味がある。

 

単なるイメージでは

正確な「感覚」は

得られないので

ご注意を。

 

つづく

 

すべての人が輝くために

 

自分自身の

輝きを

知るためには、

 

自分自身の

暗さを

見つめる必要が

ある。

 

真に輝きを放つ人

ほど、

自分の「すべて」と

向き合っている。

 

どのような

見たくない自分も

ちゃんと観て、

 

そのまま

あるがままを

ちゃんと観て、

 

「これが自分なんだな」

と、

受け止める。

 

ある意味、

すべての自分を

許す。

 

「許せない」

と言っている自分さえも

そのまま許す。

 

それができる人は

その人の

「真」の部分が

輝き出す。

 

「真の輝き」こそが

その人の

最大の魅力。

 

すべてを受け止める

人こそが、

真の魅力を

発現する。

 

自分を許す

ことのできる人は、

人を許す

こともできる。

 

人を許すことの

できる人は、

逆に

人に厳しくすることが

できる。

 

人の指導が

できる。

 

人のサポートが

できる。

 

私の願いは、

すべての人が

そうなること。

 

しかし

現時点では

なかなかにね。

 

だからまずは

「コーチ」を

育てたい。

 

ちゃんと人を

サポートし、

時には指導できる

「コーチ」を

育てたい。

 

その素養を持った

人達を、

これから

まだまだたくさん

発掘したい。

 

コーチの発掘と

育成は、

ようやく

始まったばかりだ。

 

つづく

 

この1〜2年が楽しみだ

 

「実在」と「現象」の

区別を

つけるといい。

 

「実在」とは

心の中での現実。

 

心の深奥で

起きていること。

 

「現象」とは

心の外での現実。

 

表面的に

起きていること。

 

私達はどうしても

現象に

捕らわれがちだ。

 

そりゃそうだ。

 

それが

現実だから。

 

しかし、

現実とは

上記の二つの「世界」

で成り立っている。

 

あえて「世界」

という表現を使ったのは、

それくらいに

二つが別個だからだ。

 

実在が幸せでも

現象が不幸せ

 

ということもあるし、

 

実在が不幸でも

現象では幸せを

感じている

 

ということもある。

 

最も大事なのは、

実在と現象が

一致することだ。

 

この二つの現実の

一致こそが、

私達人間にとっての

真の幸せに

つながっていく。

 

・・・・・・

 

私が、

人や組織のサポートで

常に大事にしていることは、

 

実在と現象の

片一方だけに

偏らないことだ。

 

どちらか一方だけで

判断しない。

 

むしろ、

その二つの

つながり

影響の仕方

を観る。

 

基本的には、

実在が現象に

影響を与えるという

矢印の向きはあるのだが、

 

逆流することも

ある。

 

今、この人(もしくは、組織)は

実在が

どのような状態で、

現象が

どのような状態か?

 

どちらをどう

強化することで、

二つが一致しながら

進化していくか?

 

というのが

私のサポートの

基本指針となる。

 

これができる

コーチを

私は育成したい。

 

と、

この5年間、

ずっとやって来た。

 

いや、本当は

十数年、

それを望んで来た。

 

ようやく今、

6名の候補が

集った。

 

この6名に関しては、

現在、

とてつもない開花の

途中だ。

 

この1〜2年で

私の仕事が

なくなるかもしれない。

 

そうなってほしいな、

真に願っている。

 

つづく

 

断絶が浮上している

 

私達人間は

心の中に

いくつもの「断絶」を

持っている。

 

「断絶」とは

ズレである。

 

そしてそれは

痛い。

 

ということは

誰もが心に痛みを

抱えている。

 

私は毎日のように

その痛みを

クライアントさんから

ダイレクトに感じながら、

 

この人は一体

どのような断絶を

解消することが

今の最大のテーマだろうか?

 

という視点から

サポートを

させていただいている。

 

もちろん断絶には

意味がある。

 

その意味と真摯に

向き合いながら

生きることが

私達が人生でする

ことだ。

 

断絶が解消される

ことで、

その人は一つの痛みから

解放され、

 

その瞬間から

一つ

自由になる。

 

そう。

 

私達の本来の人生とは、

断絶からの自由

とも言えるかも

しれない。

 

・・・・・・

 

断絶の痛みには

様々あるが、

 

多くは

苦しみを伴いながらも

「空虚感」

「虚無感」

「虚しさ」「絶望」

などが発生する。

 

生きること

そのものに対する

無気力感が

あなたにも

発生することがあるだろう。

 

それらのほとんどは

その「断絶」から

来る。

 

ただしその「断絶」は

「その時できたもの」

というよりも、

「あなたの中に深く

眠っていたもの」

であり、

 

それが

「浮上した」結果として

「断絶」として

認識される場合が

多い。

 

その「断絶」は

もともと

あなたと共に

あったものだ。

 

とは言え、

それは

「あなた自身」

ではない。

 

あくまでも

「よそ者」

だ。

 

・・・・・・

 

今この瞬間、

「断絶」が急速に

浮上し始めている人が

増えている

感覚がある。

 

もし、

上記のような無気力感を

感じるのならば、

 

ぜひそれと

しっかり向き合って

ほしい。

 

苦しみの原因を

「断絶」として捉え、

 

次のように

自分自身に

問うてほしい。

 

「この苦しみは、

何と何のズレから

来ているだろうか?」

 

「私は今、

何が不一致なのだろうか?」

 

「どんな矛盾が、

私を無気力にさせて

いるのだろうか?」

 

などだ。

 

そして、

もし答えがわかった

としても、

無理に対策は

考えなくていい。

 

ただその

不一致の事実のみを

毎日、見つめてほしい。

 

毎日、見つめることは

面倒だし、

さらに苦しみを増す結果に

なるかもしれない。

 

しかしそれは

あなたにとって

極めて大切なことだ。

 

苦しみに耐えながらも

その不一致をいつも

意識すれば、

 

自然に

ある時ある瞬間に

 

「今、私は

こう動こう!」

 

「今、私は

これをやめよう!」

 

「今、私は

これを始めよう!」

 

などのような

理由があまり明確ではない

直観が

生まれるだろう。

 

それが

あなた自身の

真本音の発想だ。

 

真本音からの

メッセージだ。

 

それが自然発生

するまで

待っていてほしい。

 

私達は皆、

「断絶」を抱えている。

 

それらを解消するには、

真本音の判断で

進むしかない。

 

せっかくなので

これを、

自身の真本音との

距離を縮めるための

チャンスにしてしまおう。

 

つづく

 

人生の中心軸が必要だ

 

企業様のサポートを

していると、

 

大樹のような

太い幹の人間に

なりたい。

 

・・・と言われる人が

結構多い。

 

その気持ちは

私もすごくわかる。

 

私もそんな時期が

あったから。

 

しかし

大樹の本当に

凄いところは、

幹の太さ

ではない。

 

中心軸だ。

 

中心軸が

しっかりとしている

からこそ、

太い幹になれるのだ。

 

・・・・・・

 

人としての

中心軸をしっかりする、

ということは

イコール、

 

人生の中心軸を

持つ

 

ということだ。

 

よく、

仕事と人生を

分けて考えている人も

多い。

 

人生は人生。

仕事は仕事。

 

その考えのもとで

数々の実績を

上げている人も

いる。

 

しかし残念ながら、

その分け方(分離)

によって、

 

その人の本来の力

 

を発揮できている人を

私は見たことがない。

 

人生に対する向き合い方は

そのまま

仕事に対する向き合い方と

一致する。

 

人生の中心軸を

持っていない人は、

 

何をあーだこーだ

言っても、

所詮、

仕事の中心軸は

その人本来のものではなく

脆弱だ。

 

しかし

仕事の能力のある人は、

脆弱な中心軸でも

それなりの成果を

出してしまう。

 

だから

自分はできる。

 

自分は

これでいい。

 

となるのだが、

いやいや、

私がいつも思うのは、

 

そういった

能力のある人ほど、

人生の中心軸と

仕事の中心軸を

一致させれば良いのに、

 

そうすればその人は

もっともっと素晴らしい

成果を

 

もっともっと多くの人が

深く喜べる仕事を

 

創り出すことが

できるのに、

 

・・・ということだ。

 

そういった人は

多い。

 

もったいない

というやつだ。

 

能力だけで

勝負している。

 

能力だけで

「できた」つもりに

なっている。

 

本当に

もったいない。

 

・・・・・・

 

人生の中心軸とは

具体的には何か?

ということだが、

 

これはその人によって

最も最適な視点が

あり、

様々な表現方法が

ある。

 

しかしあえて、

最大公約数的に

私がオススメするのは、

単純なことだ。

 

『私は人生で、

何を成し遂げたいか?』

 

答えを持つ

ということだ。

 

恐らくは、

難しい問いだろう。

 

人によっては

一生かかっても

本当の答えは

見つからないかも

しれない。

 

でも、

大丈夫。

 

今の自分が

本当にそうだ、と

思える答えを

持てばいい。

 

途中で、

やっぱり違った

となってもいい。

 

「やっぱり違った」

は、

成長の証だ。

 

大事なのは、

今、本当にそう思える

こと。

 

もし、

その「今の答え」すら

見つからないようなら、

 

「見つけようとする」

ことだ。

 

つまりは、

上記の問いと

毎日、

真摯に向き合い続ける

ことだ。

 

それだけで

自然に

無意識的に

人生の中心軸と

今の自分の生き方や

仕事のやり方が

一致を始める。

 

とても大事な

問いだ。

 

しかし

そういったことを

考えることを放棄

してしまっている

人は多い。

 

それは逆に

キツい生き方だ。

 

人生の問いと

真摯に向き合いながら

進む生き方は、

 

実はとても

楽な生き方なんだ。

 

自然に大樹に

なっていけるんだ。

 

つづく

 

このまま行くか

 

私は夜の

静かな森の中に

いる。

 

周りは暗く、

鬱蒼とした木々が

さらに黒く

私を囲っている。

 

ただしそこに

怖さや不安はない。

 

ただ、

やすらぎがある。

 

私は地べたに

胡座をかき、

静かに上を

眺めている。

 

私の頭上には

満点の星々。

 

私を囲っている

木々の合間で

煌めいている。

 

星々を見つめながら、

私は無心になり、

星々の声を

受け取っている。

 

星々は

語る。

 

「だいぶ明るく

なれたけど、

我々はここからさらに

さらに

明るくなっていくよ」

 

と。

 

やっと

その気に

なれたのかい?

 

と私が返すと、

 

「最初から

その気だよ」

 

笑い返す。

 

「ただ、

時機を窺って

たんだよ」

 

と。

 

もう時機は

来たのかい?

 

と問うと、

 

「まぁ、

2020年にも

なれたしな」

 

と。

 

そうか。

 

と私は

何かを合点した。

 

私が

新たにすべきことは

あるだろうか?

 

とさらに

問うと、

 

「あなたはそのままで

いいよ」

 

と。

 

じゃあやっぱり

このまま行くか。

 

私は深呼吸した。

 

間違いない。

 

星々はもうすぐ、

このまま

明るさを増して行く。

 

そして

そのままこの世界は

昼になる。

 

新たな陽が

昇るのではない。

 

あの星々の

一つ一つが

太陽としての

明るさを発する。

 

今は暗いこの森も

すぐに

明るくなるのだろう。

 

私はあえて

ここを動かず、

 

このまま

明るくなるのを

待っていよう。

 

私自身は

もう

準備はできている。

 

とっくにね。

 

いつ

昼になっても

大丈夫だよ。

 

つづく

 

今年は節目がない

 

新年、明けまして

おめでとうございます。

 

本年もどうぞ

よろしくお願い申し上げます。

 

いよいよ、

2020年になりました。

 

とは言え、

今回の「年明け」は

例年とは様相が

異なっている。

 

あくまで

実在レベルの話だが、

2019年と2020年は

そのまま

つながっている。

 

そこには断層も

節目もない。

 

言ってみれば、

2019年と2020年は

2年で1セットの

ようなものだ。

 

極端に言えば、

2年間を一年間のように

見て、

今はちょうど半年経った

辺り、つまりは

7月が始まった辺り、

というイメージを

持てばいい。

 

ちょっと変わった

感じなのだ。

 

通常は

年が変わることで、

実在のレベルでも

何らかのリセットが為されたり、

新たな弾みをつけるための

何らかの刺激が入ったり

するものだが、

 

今年はそれが

まったくない。

 

地続きなのだ。

 

前半から後半に

入った、

というだけの感じなので、

 

前半で(2019年で)

何をしたか?

が、そのまま後半(2020年)に

反映される。

 

新年の冒頭に

ちょっと変な話を

しているが、

ここをちゃんとわきまえて

おけば、

2020年は楽に進める。

 

2019年の意識の

ままで

行けばいいのだ。

 

・・・・・・

 

だから私はあえて

仕事を納めなかったし、

お正月の休みも、

通常の連休と同じように

過ごすことにしている。

 

とは言え、

世の中はみんな

「年末年始」なので、

ちょっと変な

気分だ。

 

ひょっとすると、

 

2019年の、特に最後の方は

物事があまり

進まなかったなぁ、

感じている人も

いるかもしれない。

 

やり残してしまったこと

があるなぁ、

感じている人も。

 

しかし心配は

いらない。

 

ただの連休

である。

 

先週末からの

地続きのまま

仕事に入ればいい。

 

・・・・・・

 

・・・と、

以上のようにあえて

捉えた時、

 

あなたは

新年早々に

何をしたいだろうか?

 

何を

したくないだろうか?

 

そこに素直に

なってみよう。

 

つづく

 

意味不明の四字熟語

 

今日、仕事仲間と

打合せをしていたら、

「たけうちさんが

これから大切にする言葉は

何ですか?」

と、問われた。

 

すると、

心の奥の方から

浮かんだ言葉があった。

 

相変わらずこういう時は、

意味のわからない言葉が

浮上する。

 

まったくわけが

わからないかも知れないが、

あえてここに記しておく。

 

『響逸煌舞』

 

・・・という言葉だ。

 

これで

「ねいおうま」

と読む。

 

「響」が「ね」。

「逸」が「い」。

「煌」が「おう」。

「舞」が「ま」。

 

ねっ、

わけがわからない

でしょ。

 

この意味は

これから徐々に

わかってくるとは思うが、

普通に考えて

こんな意味なんだろうな、

ということは

書いておこうか。

 

「響」とは、

そのまま、ひびく。

 

「逸」とは、

突くという意味らしい。

 

「煌」とは、

きらめく。

 

「舞」とは、

舞うということだが、

これは、

広がるという意味らしい。

 

響くところを

突き、

突いたところが

きらめき、

きらめきが一気に

広がっていく。

 

・・・ということだ。

 

う〜む、

わかったような

わからんような。

 

とは言え、

企業様のサポートを

させていただく時は、

私はいつも

これをやっているような

気がする。

 

組織全体を

良くしようとするよりも、

きらめきやすい場所に

刺激を入れ、

そこを起点に

深い影響を組織全体に

広げていく、

というやり方だ。

 

だからそれを

表現する言葉なのかな、

とも思ったのだが、

 

でもそれであれば、

これまでの私と

同じだ。

 

取り立てて、

わざわざこんな四字熟語に

する必要はない。

 

きっと何か

別の

深い意味があるのだろう。

 

まぁいつも私の場合は

このような

なぞなぞのような

展開となるセルフコーチングが

多い。

 

2020年は、

この四字熟語の意味が

解き明かされていくのを

楽しむところから

始めようかな。

 

つづく

 

赤ちゃんのような笑顔

 

小さな笑い

でいい。

 

静かな笑い

でいい。

 

でも、確かに

腹の底から

魂から

自分の芯から

笑いながら生きる

ためには

どうすればいいだろうか?

 

私のクライアントさん達の

笑顔はみんな

こちらも笑えるほどに

素敵だ。

 

まるで

赤ちゃんの笑顔を

見ているようだ。

 

魂レベルの悦びが

そのまま

波動となって

空気を癒す。

 

とは言え、

皆、

厳しい。

 

自分にも

人にも厳しい。

 

今日、コーチングさせて

いただいた

経営者のBさんも、

どちらかと言えば

周りから

怖がられている。

 

でも、

若者が集まって

くる。

 

その若者も

Bさんと同じ

淀みのない笑顔を

見せる。

 

「笑顔のつながり」

 

という言葉が

浮かんだ。

 

真剣に

厳しく生きる

人ほど、

この笑顔のつながりは

深く

強く

なるのではないか。

 

そう言えば、

赤ちゃんも

必死に全力で

生きている。

 

生きる、

ということに

すべての力を

注いでいる。

 

だからこそ

あれだけの素敵な

笑顔になるのかな。

 

残念ながら、

 

笑顔が淀んで

しまっている人は

多いなぁ。

 

残念ながら。

 

でも、

私はよ〜く

知っている。

 

皆、ちょっとのきっかけで

本来の笑顔は

すぐに取り戻せる。

 

実は、

そんなに難しい

ことではないことを。

 

それを信じて、

私は

「笑顔のつながり」

をもっともっと

深く強いものに

したい。

 

そんな社会に

したいな。

 

つづく

 

迷わず迷走する

 

以前の受講生さんから

久しぶりに

ご連絡をいただいた。

 

最近のご様子を

教えてくださる

実に楽しいメールだった。

 

その中に

とても印象に残る

言葉が二つあった。

 

どうやら来年の

抱負のようだ。

 

一つは

 

「とりあえずはやってみたいことを

片っ端から徹底的に中途半端に

やってみる!」

 

もう一つは

 

「迷いを持たずに

迷走しまくる!」

 

・・・とても素敵な

豊富だと思わない?

 

一見、矛盾したことを

言っているように

思うでしょ。

 

でも、実は

そうじゃない。

 

私はこの人からは

真本音の道を

楽しく進む一貫性を

ヒシヒシと感じる。

 

自分の

中途半端さ。

 

自分の

迷走。

 

そういったものを

この人は

あるがままに

そのままに

受け止めている。

 

そしてそれが

「今の自分」であり、

 

そんな今の自分を

徹底的に生きる

ことで、

自らの人生の目的を

見つけようと

されている。

 

素敵だなぁ〜、

思ったね。

 

こういう人が

増えると、

面白い世の中に

なるだろうな。

 

つづく

 

我々はまだ何も・・・

 

私は、A社長と

バーのカウンターで

飲んでいた。

 

A社長は、

会社を創業されて

10年目。

 

創業当時から

A社長の傍で、

私も共に

歩んできた。

 

私が提唱する

「自律調和型組織」

とか

「自律調和型社会」

という言葉を

考えてくださった

人だ。

 

A社長の会社は

素敵な会社だ。

 

20数名の小さな

会社だが、

社会的には

とても意義の深い

「三方よし」の

お仕事をされており、

特にこれからの時代には

なくてはならない存在と

なっていくだろう。

 

何よりも、

後継者が育った。

 

A社長の意志を

受け継ぐ経営層が

少なくとも

二人は育った。

 

私は、

この規模の会社で

これだけ立派な

後継者が育ち、

 

A社長のような

エネルギーの高い

創業者が

まだ現役社長として

存在しているにも

関わらず、

 

A社長から

「もう、彼らには

完全に任せて

いられる」

と信頼される、

それだけの状態になれた会社を

他に見たことがない。

 

今日は、

その後継者二人が

中心になって、

仕事納めの全体会議や

忘年会が行われ、

 

A社長と私は

静かに、

彼らの成長ぶりと

組織の成長ぶりを

味わった。

 

そして、

二次会まですべてが

終わり、

その後、二人で

バーで飲んでいる。

 

ここ数年は、

いつもこうやって

二人で一年を

しんみりと振り返る。

 

ふと。

 

A社長が

呟いた。

 

たけうちさん、

我々はさぁ・・・、

 

まだ何も

成してないよな。

 

まだ

なんにも

やれてないよな・・・。

 

目の前の

ウィスキーの

茶色の輝きが

その言葉と共に、

しんみりと私の胸に

沁み渡った。

 

まだ

何も

成してないよな。

 

もう一度私は

心の中で

反芻した。

 

すると、

心と体の中の

すべてが、

シンと

静かになった。

 

そうだな。

 

私はまだ

何も成してないし、

 

まだ

何もやってない。

 

ただその

「事実」だけが、

あるがままに

そのままに

「ここ」に

屹立し、

 

その「事実」を

ただただ

私達は静かに

見つめていた。

 

なぜだろう。

 

私はとても

心が満たされた。

 

なぜだろう。

 

とても

嬉しくなってきた。

 

静かに

何かが

悦んでいる。

 

すべては、

ここからだな。

 

すべては

こっからだな。

 

と、

心の内で

さらに呟きながら、

私は、

 

何も成せていない

自分を

 

味わった。

 

そう。

 

ちょっと時間を

置いて、

今はよくわかる。

 

これは

私が

私の仲間全員で共有したい

メッセージだ。

 

いや、

人類全体で

共有したいメッセージだ。

 

我々は

まだ

何も成せていない。

すべては

ここからだ。

 

つづく

 

重要な問いがあるはずだ

 

私達には全員、

必ず、

 

人生を終える

瞬間が来る。

 

その時に、

「あぁ、いい人生だった」

と思いたい。

 

・・・という願いを

持っている人は

多い。

 

それは

尊い願いだと

思う。

 

私はこの願いを

二十歳前後の時に

持った。

 

しかし、

あるカリスマ経営者に

その話をしたら、

 

「そんなのは

願いではない」

 

と一笑された。

 

「願いとは

もっと具体的な

ものだ」

と。

 

「人生の目的は

もっと具体的な

ものだ」

と。

 

彼の言いたいことは

今はよくわかる。

 

「いい人生だった」

と最期に言える

ためには、

 

具体的な目的を

持ち、

具体的な行動を

起こすこと。

 

それなくして

「いい人生だった」

と、心から言える満足感は

得られないように

人間はできている、

と。

 

そう。

 

私達は

「具体化」

を望んでいる。

 

具体化とは

「カタチ」だ。

 

『願いをカタチにする』

 

こと。

 

これが人生だと

思う。

 

20代前半に

私は彼からの

アドバイスを受けて

ラッキーだったと

思っている。

 

彼の言葉を

聴いた瞬間に私は

旅に出ることを

決めた。

 

当時の私は

彼に対して

「見とれよ!」

という憤慨の気持ちで

いっぱいになったが、

 

それもまた

彼の意図した

ものだったのだろう。

 

おかげで私は

人生の逸脱を

始めることができ、

それは

今日まで続いている。

 

何のために

生きるか?

 

具体的な目的は

何か?

 

そのために

今日は何をするか?

 

新たに

何を始めるか?

 

・・・常に

私の中には上記の

「問い」がある。

 

毎日、

この問いと

向き合い続けた

この約30年だった。

 

あなたにも

あなたの中に

重要な問いが

存在しているはずだ。

 

それをまずは

見つけてほしい。

 

そしてその問いと

毎日毎日

欠かさずに

向き合い続けて

ほしい。

 

答えはすぐに

出なくてもいい。

 

とりあえずの

答えになっても

いい。

 

とにかく

毎日、新鮮な気持ちで

その問いと

向き合い続けて

ほしい。

 

これもまた

セルフコーチングの

基本の一つだ。

 

つづく

 

どう起きる?

 

朝、目覚めた時、

あなたは

どう起きる?

 

私はね、

まずは必ず自分に

問うんだ。

 

「今すぐに

起きる?」

 

って。

 

「すぐ起きる」

と返ってきたら、

すぐに布団を

出る。

 

でも多くの場合、

「もう少しこのままで

いる」

と返ってくる。

 

その場合、

私はそのまま

布団の中にいる。

 

そうするとたまに

二度寝してしまう

こともあるが、

それでも

構わない。

 

で、

ちょっと時間が

経った時に、

また同じことを

問う。

 

「どうする?

もう起きるか?」

と。

 

これを

繰り返す。

 

何度か繰り返す

うちに、

 

「うん、いいよ。

すぐ起きよう」

 

という返事が

返ってくる。

 

その瞬間に

バッと

布団を跳ね除けるんだ。

 

すると、

実に気持ちよく

起き上がれる。

 

そのままの勢いで

一日を始められる。

 

実に

気持ちよく、

しかも

スムーズだ。

 

一日の始まりが

気持ちよいと、

一日すべてが

気持ちよくなる。

 

これも

セルフコーチング法の

一つだよ。

 

つづく

 

その混乱は調和だ

 

進まないことにより

起こる混乱と、

 

進むからこそ

起こる混乱は、

 

表面上は同じような

「混乱」でも、

本質はまったく

異なるものだ。

 

前者は

正真正銘の混乱。

不調和による

混乱。

 

しかし後者は

一見、混乱に見えるが

実はそうではなく、

それも「調和」の

一種だ。

 

要するに

「混乱のような調和」

だ。

 

「不調和の調和」

という言い方も

できる。

 

・・・・・・

 

「不調和の調和」

は、

人生が進むという意味では、

非常に良い兆しだ。

 

どれだけ

激しい混乱でも

堂々と進めばいい。

 

混乱が起きているから

自分の進み方が

間違っているのでは

ないか?

という疑問を持つ

必要はない。

 

むしろ、

混乱を楽しもう。

 

まぁ、「楽しもう」と

言っても、

そんな余裕はないとは

思うが。

 

でも、

よ〜く混乱を

あるがままに観察して、

そして

味わってみよう。

 

混乱している

自分の心も、

無理に改善しようと

せずに、

そのまま味わって

みよう。

 

「あーオレ、

すごく混乱してるなぁ」

とね。

 

「不調和の調和」

の場合は、

どれだけ混乱しても

足元はしっかりと

しているので、

これができるはずだ。

 

・・・・・・

 

慣れてこれば、

「不調和の調和」は

人生の

スパイスとなる。

 

そしてさらに

未知の道を進もうと

する

意欲に変換される。

 

「不調和の調和」を

楽しめる人は、

実際にお会いして

向き合うと、

 

常に

静かだ。

 

とても穏やかな目を

しており、

根底の安定感が

独特の空気を

醸し出している。

 

そういった人と

一緒にいると、

 

表面上は

「いや〜、たけうちさん、

まいりましたよ」

その人は言うのだが、

 

空気感としては、

「いや〜、たけうちさん

人生は楽しいねー」

言っているようにしか

思えない。

 

そして、

その人の内側に

込められた

現実を切り拓くパワーが

ダイレクトに

こちらに伝わってくる。

 

非常に

心地が良い。

 

そういう人のコーチングは、

コーチである私の方が

癒されたり

エネルギーをいただいたり

する。

 

ということは、

その人は

周りのあらゆる人達に

常に

パワーを与え続けている

ということだ。

 

・・・・・・

 

だから。

 

不調和を恐れずに

進んでほしい。

 

表面上で

上手くいかないことは

あって当たり前。

 

進むからこそ

様々な壁が

前に立ちはだかるが、

 

それらは

すべては結果的には

さらなる調和への

「栄養」

となる。

 

たくさんの「栄養」を

人生に

仕事に

取り込んで行こう。

 

つづく

 

ここを切り拓けるのは

 

人間関係は

面倒かい?

 

ゴタゴタばかり

起こるかい?

 

進もうと思っても

いつも何らかの

邪魔が入るかい?

 

なら、

残念だけど、

 

もっと

一人一人と

より丁寧に

向き合った方がいい。

 

進もうと

思えば思うほど、

 

混乱が起きたり、

齟齬が起きたり、

するのは

当然じゃないか。

 

みんなそれぞれ

違う個性を

持ってるんだから。

 

何も問題が

起きないということは、

 

何もしていない

ということ。

 

真剣に前に進む

からこそ

問題は起こるんだ。

 

これは

しょうがない。

 

みんなの真本音度合いが

高ければ

もっと違う展開に

なるだろうが、

 

現時点では

そういうわけではない。

 

だから、

私達にできるのは、

 

一つ一つ

丁寧に向き合い、

 

一人一人

丁寧に向き合い、

 

そして、

瞬間瞬間を

丁寧に

真本音で決めて行く。

 

これの

連続だ。

 

ここを怠ると、

さらに問題は

深まり、

混乱は

拡大してしまうだろう。

 

この面倒臭さの

中で、

しっかりと

未知の道を

切り拓けるのは、

 

あなたの

真本音しか

ないんだよ。

 

だから

止まろうとするのでは

なく、

 

だからこそ

さらに進もうと

しよう。

 

真本音でね。

 

つづく

 

ここは飛ばして次に行こう

 

心の中に

何か、抵抗のようなもの

を感じるので、

心の中に入って

確認してみると、

 

海が観えた。

 

私は砂浜に立ち、

これから海に

入って行こうとしているのだ。

 

しかし海は

荒れている。

 

だから私は躊躇し、

抵抗している。

 

でも私は

沖に観えるあの島に

行こうとしているようだ。

 

早くあそこへ

行かねば、という

気持ちが湧いてくる。

 

しかし海は波が高く、

正直言って

怖いし、面倒臭い。

 

まぁでも

しょうがないか・・・。

 

と、

意を決した私は

トボトボと海の中に

入った。

 

深くなればなるほど、

波は高く、

私は波に押し戻される。

 

その中を

それでも必死に

私は泳ごうとした。

 

・・・と。

 

何かが私を

ヒョイっとつまんだ。

 

私はまるで

首元をつかまれた

子猫のように、

その「何か」によって

ヒョイっと

島まで運んでもらった。

 

ヒョイっとできる

くらいだから、

その「何か」はかなり

巨大なものだ。

 

びっくりして

振り返ると、

そこには超巨大な

「私」がいた。

 

「私」は

私に向かって

言った。

 

「荒海を渡るのも大事な

ことだが、

今はそこに時間を

費やしている暇はない」

 

その瞬間に

私はその巨大な「私」は

 

私自身の真本音

である、

 

とわかった。

 

「あっそうなの?」

 

と、

私は素っ頓狂に

答えた。

 

真本音は

言った。

 

「それよりもさ、

あっちを見ろよ」

 

指差す方を見ると、

数え切れないくらいの

船が

海に浮かんでいる。

 

大小様々な

船たちだ。

 

皆、荒海の上で

行き場を失っている

ように見えた。

 

しかし

どの船にも

強い意志を感じる。

 

あーそうか、

あの船たちは

ちゃんと自らの行き先を

決めてるんだな、

わかった。

 

「あの船たちと

共に行けよ」

 

と、

真本音は言う。

 

「あの船たちも

私が行けば喜ぶよ。

きっと力になれる」

 

でもどうやって

船まで行けば

いいのだろう?

 

ちょっと迷っていると、

 

「大丈夫。

さっきみたいに

私がつまんで船まで

持ってくよ」

 

と、真本音。

 

「もう、この荒海を

泳ぐ必要はない。

それよりも一刻も早く、

船に乗って

皆と共に進むんだ。

我々を待っている人達が

いる」

 

と。

 

・・・・・・

 

こんな感じだ。

 

こんな感じの人が

増えている。

 

本当は、

一つ一つちゃんと

海を泳いで

進んでいくのが

順当な生き方(行き方)だとは

思うのだが、

 

それではもう

時間がないのだ。

 

それよりも

もっと別なことに

人生の時間を

使わねば

間に合わない。

 

そんな人が

増えている。

 

この状態を

打破するには、

 

自らの真本音に

素直に生きること。

 

自らの

真本音度合いを

一気に高めること。

 

・・・だ。

 

私はそういった人達の

そういったサポートに、

できるだけ集中したい

と思っている。

 

つづく

 

あなたも逸脱するか

 

人ってやっぱり、

 

自分の成長を

自分が実感

しているとき、

 

・・・が一番幸せ

なのではないか、と

よく思う。

 

それは

子どもも大人も

変わらない。

 

真の成長は、

明らかに

周りに影響を与える。

 

その波及効果は

凄まじく、

 

その人は

自分自身の成長を

通じて、

周りのすべての人の

成長を喚起する。

 

そして、

自分も周りも

根こそぎ

成長させていく。

 

今、

「させていく」

という表現をあえて

使ったが、

 

そんなクライアントさん

が増えてきた。

 

「共に成長しよう」

ではないのだ。

 

ある意味、

強引にでも

「成長させてしまう」

のだ。

 

それくらいの

「スピード」を

今、望んでいる人が

増えているということだ。

 

これは一見、

不自然なことをしているように

思えるかもしれないが、

 

実はこれこそが

今の潮流。

 

自然の潮流だ。

 

今、私達共通の

真本音の想いは、

 

「これまでの

延長線上にはない

逸脱した成長」

 

だからだ。

 

逸脱した成長を

望む人達を

これまで私は

「変態」と呼んできたが、

 

ひょっとすると

これからはもう

その「変態」が

普通になるかもしれない。

 

それくらいに

そういった人達は

急増している。

 

世の中は

やっぱり

根こそぎ変わろうと

しているのだ。

 

今日、

ある経営者のコーチングを

していたのだが、

彼がとても

面白いことを言われていた。

 

「この地球とは、

70億人の異星人が

集まってきている星

ではないか」

 

と。

そして、

 

「私は、70億人の

異星人達が、

そのまま、

異星人のままでいられる

世界にしたい。

どうせビジネスを展開

するならば、

そこに貢献できる

ビジネスにしたい」

 

と。

 

70億の異星人が

調和する世界へ。

 

なんか、

楽しそうだな。

 

つづく

 

世界の自律のために

 

人には、

その人にしか

出せない

空気感

がある。

 

その空気感は

その人独自の

「世界」

を創る。

 

本来の自分の

「世界」を

創り出すことの

できた人は、

 

自分とは別の

「世界」を

既に創り出している

人達と、

 

共鳴し合う。

 

一人一人の

「世界」は

異なる。

 

決して一つとして

同じものはない。

 

違うのが

当たり前。

 

だからこそ、

共鳴し合える。

 

共鳴し合った

「世界」と「世界」は

 

時には

接着し、

 

時には

統合し、

 

時には

融合し、

 

時には

分離し、

 

そして

時には

同じ渦を

巻き起こしながら、

 

相乗効果の波を

波及させる。

 

その結果として、

たった一つの「世界」

だけでは決して

生まれなかった

何かを

 

この世に

生み出す。

「カタチ」」として。

 

その「カタチ」が

さらにまた次の

「世界」を

創り出す。

 

・・・・・・

 

「世界」を創り出せる

状態のことを

私は

 

「自律」

 

と呼んでいる。

 

つまりは、

自律した人のみが

自らの「世界」を

創り出せる。

 

自律できていない人は

残念ながら

「世界」とはならず、

 

したがって

相乗効果も

ない。

 

新たなものを

生み出すことも

できず、

 

どちらかと言えば、

生み出すよりも

奪い合う

関わりになりがちだ。

 

だから

組織においては

私はまずは何よりも、

 

いかに自律した人を

一人でも多く

増やすか?

 

を大切にしている。

 

「世界」と「世界」が

共鳴し合いながら

相乗効果を発揮する

状態のことを

私は

 

「調和」

 

と呼んでいる。

 

「調和」とは

「進化」と

同義語だ。

 

自律した人が

増えることで、

その組織は

調和していく。

 

進化していく。

 

組織を

社会と言い換えても

まったく同じである。

 

・・・・・・

 

自律調和した

社会にしたい。

 

これが私の

願いだ。

 

今。

 

若いのに既に

自律している

人達が増えている。

 

つまりは

「世界」をすでに

創り出している

若い人達が

増えている。

 

ちょっと極端に

言えば、

 

子どもでも

幼児でも

赤ちゃんでも

 

すでに

自律している子が

増えている。

 

なんだ

この子は。

 

すでに

「世界」を

持ってるよ。

 

感嘆する。

 

しかし残念ながら、

大人達が

それに気づかず、

 

子どもであるが

故に、

若いが故に、

 

未熟である

 

と勝手に

レッテルを貼り、

 

せっかくの「世界」を

壊しにかかる。

 

「世界」が壊れる

ことは、

この世の大いなる

損失だ。

 

私はそれを

どうにか

止めたい。

 

だから、

若い人達のサポートを

これから

増やしていく。

 

と同時に

大人達の

自律サポートも

増やしていく。

 

でも到底、

私一人では

無理だ。

 

だから、

仲間がいるし、

 

後継者も

必要だ。

 

後継者と言っても、

たけうち流に

なる必要もないし、

 

私と同じことを

する必要もない。

 

ただ、

本質を

後継したい。

 

本質とは、

 

真本音で生きるとは

どういうことか?

 

ということだ。

 

そして、

 

そんな人達を

増やすには

どうサポートすればよいか?

 

ということだ。

 

先日、

私の仕事仲間の

一人が、

 

私のやっていることを

「学問にしたい」

と言ってくれた。

 

学問にすることで

私がいなくなっても

本質につながる

カタチが残る。

 

それを何とか

実現したい、と

言ってくれた。

 

ありがたい。

 

そういったことも

含めて、

 

あと残された

人生の時間で、

 

自分が何を

すべきか?

何を

残すべきか?

 

について

私はもっともっと

探求をしていきたい。

 

そのためにも

「仲間」をさらに

増やしていきたいな。

 

つづく

 

未知へ

 

これまでに

経験したことのない

新たな一歩を

踏みしめる時、

 

私達には

独特の不安と共に、

独特の悦びが

発生する。

 

一歩、一歩、と

「未知」に進むその

感触を、

まるで自分自身に

刻むように

味わっている。

 

この悦びを、

一人でもたくさんの

人達が

体験できるといいなぁ

と、

最近は毎日のように

思っている。

 

時代は

変わった。

 

以前、このような

選択をしたら

上手くいかず、

こうしたら逆に

上手くいった。

だからこれからも

こうしよう。

 

・・・という経験が

まったく役に

立たないのだ。

 

以前の経験は

あくまでも

「反応本音の時代」

における

経験。

 

しかし今はもう

「真本音の時代」

に入っている。

 

しかもその

時代の潮流に、

世の中全体の土台が

馴染んできた。

 

これまでの

経験則に縛られない

本当に自由な

選択こそが

必要で、

 

それができている時、

私達は

独特の悦びを

得ることができる。

 

人はやはり、

 

人の本質は

やはり、

 

「未知」に

向かうことなのだ。

 

それが

自然体なのだ。

 

つくづくわかる。

 

さぁ、

「未知」へ

行こう。

 

その道のりの

中でこそ、

本当の

安定と安寧は

存在する。

 

進むからこそ

力は

生まれ、

 

未知の道での

未知の力に

包まれることで、

私達は

満たされ

安心する。

 

その、

人間としての

本来(本能)

大事にしようでは

ないか。

 

つづく

 

もっと軽やかに

 

流れるならば、

もっと自由に

流れて行こう。

 

もっと

軽やかに

流れて行こう。

 

私達の目は

常に前に

向かうように

できている。

 

目は、

前にはついているが、

頭の後ろには

ついていない。

 

時々振り返ることは

大事だけど、

でも基本は

前、だ。

 

時間は

何がどうあっても

未来に向けて

流れ続けている。

 

どうあっても

私達は

未来に向かっている。

 

ならばもっと

自由に行こう。

 

軽やかに

行こう。

 

・・・・・・

 

ちゃんと

流れに委ね、

ちゃんと

スピードを上げて

行くと、

 

私達の内側は

どんどん

静かになっていく。

 

エネルギーは

高まるのだが、

 

高まれば

高まるほど

静かになっていく。

 

静かな目で

すべてを

あるがままに

俯瞰できるようになる。

 

自分が今

どこにいて、

 

まずはどこに

たどり着くために

 

何をすれば

いいか?

 

それがありありと

わかるように

なる。

 

すると、

とても集中力が

増してくる。

 

そう。

 

軽やかに

流れに身を任すと、

 

結果として

集中力が

増してくるんだ。

 

一点集中。

 

「今ここ」

だからこそ

魂を込める一点。

 

そこに

エネルギーを

注げばいい。

 

「流れに委ねる」

とは

「エネルギーを込める」

こと。

 

この二つは

一見、真逆なことに

思えるが、

実は、本質的には

同義語だ。

 

・・・・・・

 

未来は

明るい。

 

しかし、

未来が明るいから

進むのではなく、

 

私達が進むことで

未来を

明るくするんだ。

 

つづく

 

二つの試行錯誤

 

人生とは

試行錯誤の連続

だ。

 

試行錯誤が

あるからこそ、

大切な何かを

見つけられ、

 

その「何か」が

次のステージへの

ヒントとなる。

 

だから

思う存分に

試行錯誤をすればいい

と思うのだが、

 

しかし中には、

必要のない試行錯誤を

続けている人もいる。

 

ちょっとキツい言い方

をすれば、

 

自己満足の試行錯誤

 

ということに

なるだろうか。

 

本当はもう

先に進める自分に

なれているし、

 

どんどん道を

進み、

次のステージに入る

準備もできているのに、

 

試行錯誤を

するのだ。

 

試行錯誤を

繰り返すことで

先に進むことを

避けている。

 

つまりは

現実逃避のための

試行錯誤だ。

 

多くの場合は、

当の本人は

それを無意識に

やってしまっている。

 

自己満足を

している人や

現実逃避を

している人は、

 

残念ながら

本人には自覚が

ない。

場合が多い。

 

そんな人から、

必要のない試行錯誤に

ついての相談を

いただくと、

だいぶ困ってしまう。

 

答えようが

ないのだ。

 

何をどう答えても、

それは

自己満足の試行錯誤を

助長していることに

なるからだ。

 

だから本当は、

 

「あなたは今、

自己満足の試行錯誤を

していますよ」

 

と、ちゃんと

お伝えしたいのだが、

 

がしかし、

そういう人ほど

心がとても弱っている。

 

現実逃避って

キツいから。

当の本人が。

 

しかも、

心の奥底で

現実逃避をしている自分を

責め続けるものだから、

さらに心が

弱っていく。

 

そんな弱っている人に

到底、

上記のフィードバックは

できない。

 

もしそれをしたら

心が潰れてしまうだろう。

 

だから結局は、

見守るしかなくなる。

 

・・・・・・

 

一方で、

今、

最速で進む人が

増えている。

 

その人達は

ガンガンと

激しい試行錯誤を

始めている。

 

そこに躊躇は

ない。

 

未開の地に

平気で突き進む。

 

いや、本当は

平気ではないはずだが、

 

勇気を持つとか、

そんなレベルではない

覚悟で、

 

突き進む。

 

しかも当の本人は

とてつもなく

楽しそうだ。

 

自己満足の試行錯誤

は、

その人自身を

疲弊させ続け、

最後には

歩く力も立つ気力も

失われていく。

 

しかし、

本当に必要な試行錯誤は

その人自身に

次々に新たな力と

新たなエネルギーを

与え続ける。

そして

その人は

次元を飛び越えて

行く。

 

二つの

試行錯誤。

 

同じ試行錯誤であるが、

本質が真逆の

試行錯誤。

 

それが今、

あちらこちらで

渦巻いている。

 

試行錯誤の

時代だな。

 

つづく

 

出口だな

 

風が

吹いて来たな。

 

だいぶ

心地のよい

風だ。

 

う〜む

なるほど。

 

ここまで

気持ちいいもの

だとは。

 

皆、

がんばったな。

 

もちろん、

がんばるフリをして

何もしていない人は

いるけど。

 

でも、

本当によく

がんばった人は

多い。

 

がんばる、

と一口に言っても、

通常のがんばり

ではない。

 

それはもう

際限なく勇気の

要ることだった。

 

でももう

そろそろ

出口だ。

 

出口から

吹き込む風が

こんなにも

強い。

 

・・・・・・

 

人がステージを

変える時、

 

必ず起こるのは

 

混乱

 

だ。

 

その混乱に

真っ向から

立ち向かうか

どうか?

 

これで

出口に近づくか

どうかが

決まる。

 

残念ながら

逃げちゃった人は

もう一度

やり直し。

 

双六ゲームじゃ

ないけど、

もう一度

スタート地点から

やり直しだ。

 

それもまた

人生だ。

 

・・・・・・

 

出口は

風が強い。

 

突風のように

吹いてくる。

 

最後まで

気を抜かずに

足元をしっかり

踏ん張って、

 

一歩ずつ

着実に

進んで行こう。

 

ここからは

特に

一歩一歩を

確かめるように。

 

その着実さが

結果的には

最速を生む。

 

ここまで来たら、

ちゃんと出口を

見つめよう。

 

見続けよう。

 

あの一点を

目指せば

良いのだから。

 

つづく

 

ちょっと、から始めよう

 

家の書斎にいて、

ふと

気配がしたので

振り返ると、

後ろの壁に

小さな蜘蛛がいた。

 

蜘蛛は何かを

言いたげだったので

意識を向けると、

 

「ちょっと無理

し過ぎだよ」

 

とのメッセージ。

 

あーまたか、

反省。

 

無理をし過ぎると

よく

蜘蛛くんが

教えてくれる。

 

・・・こんなことを

書いていると

この人、大丈夫か?

と思われるかも

しれないが、

(もう充分、思われている

フシもあるが・・・)

 

もちろんこれも

セルフコーチングの

一つである。

 

今日ふと

思ったのだが、

 

私は世の中の

あらゆるものと

常に

コミュニケーションを

とっている気がする。

 

極端に言えば、

空気の分子とも

会話をしている

気がする。

 

もちろん、

意識的なこともあれば

無意識にやっている

こともある。

 

でもこれって、

実は

私だけではなく、

人間は誰でも

していることなのでは

ないか。

(違う?)

 

私達は、

ありとあらゆるものと

コミュニケートし合いながら

生きている。

 

それが

人間というものでは

ないか。

 

いや、人間だけでは

ない。

 

それが

「存在」というものでは

ないか。

 

・・・・・・

 

人生を変えるには、

コミュニケーションの

やり方を

変えればいい。

 

と、

単純に思う。

 

まずは

自分自身との

コミュニケーションの

やり方。

 

そして、

目の前の一人の人との

コミュニケーションの

やり方。

 

そして、

複数の人との

コミュニケーションの

やり方。

 

さらに、

人以外の

あらゆる存在との

コミュニケーションの

やり方。

 

この順番で、

自らの本来の

コミュニケーションのやり方

を、思い出せば、

 

人生には

どんどん調和が

広がる。

 

今、

「本来の」と書いたが、

私はこの仕事を

させていただいて

強く思うのだ。

 

その人には

その人本来の

コミュニケーションのやり方

がある、

と。

 

これは言葉を

換えれば、

 

その人には

その人本来の

人生の生き方・進み方

がある、

と同義だ。

 

コミュニケーションの

やり方を

ちゃんと整えていけば、

その人の真本音度合いは

着実に高まる。

 

これが最も

近道ではないか。

 

と、

よく現場で思うのだ。

 

・・・・・・

 

残念ながら

現時点では、

多くの人が、

 

というより、

ほとんどの人が、

 

その人本来の

コミュニケーションの

やり方を

していない。

 

だから、

余分な時に

余分な一言を言い、

 

そのちょっとした

積み重なりが

人生の大きな齟齬

となっていく。

 

ほんのわずかな

一言。

 

ほんのわずかな

振る舞い。

 

ほんのわずかな

空気感。

 

それらによって

人生は

成されていく。

 

逆に言えば、

ちょっと変えれば、

その瞬間から

ちょっとずつ

変わり始める。

 

何事も

その「ちょっと」から

始めるとよい、

 

と、

いつも思う。

 

それができるか

できないか。

 

その違いだけでは

ないか?

人生が幸せになるか

ならないかの

違いは、

 

本当に

毎日のように

思っているんだ。

 

つづく

 

もうすぐだな

 

待っている。

 

私は何かを

待っている。

 

それまでは

動かないと

決めている。

 

こういう時に、

待てる自分に

なれた、

 

というのが、

真本音度合いが

高まったことによる

最大の効果の一つだと、

 

私はよく

思う。

 

少し前に

私はコーチ仲間から

コーチングを受けた。

 

その時に

「たけうちさんにとって

たけうちさんとは

何者か?」

問われた。

 

その瞬間に

浮上してきた答えが、

 

「待つ人」

 

だった。

 

これができるように

なれた意味は、

果てしなく

大きい。

 

むしろ、

昔の私は

これができなかった

が故に、

人生において

様々な不調和や混乱を

招いていたと

今ならわかる。

 

人生は

上手く進めることよりも、

様々なことに

ぶつかりながら、

試行錯誤を繰り返し

ながら、

進んだ方がいい、

私は思っている。

 

だから

上手に物事を進めよう

とは、これっぽっちも

思っていないのだが、

しかし結果的に

いつもほとんどのことが

 

流れるように、

 

まるで

パズルのピースが

気持ちよくハマるように、

 

進んでいく。

 

もちろん

試行錯誤もあるし、

ダメだったなぁ、という

経験も

ある。

 

しかしそれらは

すべて

 

本当に必要な

いい試行錯誤だったな、

 

とか、

 

あそこで

ダメだった、と思えたことが

その後のあの展開を

生んでくれたな、

 

と、

 

後になって

必ず感嘆できる

のだ。

 

あれ以外

なかったな。

 

この展開が

最高だったな。

 

と、

その時その瞬間は

わからなくても、

後で必ず

そう思える。

 

それらを含めて

なかなかに

すげー調和だなぁ、

我ながらよく

感動するのだ。

 

そんな人生に

なれたのも、

その直接的な原因の

最大の一つは

 

待つことが

できるようになった

 

ことにあると

思える。

 

人生にも

仕事にも

 

決断すべき

瞬間

 

というのは

必ず来る。

 

動き始める

瞬間

 

というのは

必ず

わかる。

 

その時その瞬間が

来るまで、

私は

日々、

ひたすらに

待っている。

 

そして

その時その瞬間は

決して

逃さない。

 

余分なことを

し過ぎな人生

 

から、

 

必要なことを

必要な瞬間

のみに

行なう人生

 

への

シフトアップ。

 

私にとっては

真本音度合いが

高まる、とは

そういうこと

だった。

 

そして今。

 

私は、またもや

何かを

待っている。

 

何を待っているのか、

わからない。

 

待った結果として

自分が何を決断するか、

わからない。

 

でも、

じっと意識を集中して、

何かを待っており、

 

そして、

もうすぐ何らかの

決断を下す、

という瞬間が迫っているのは

 

よくわかる。

 

この独特の

緊張感、

 

・・・が実に

気持ちいい。

 

これも今の私にとっては

人生の醍醐味の

一つなんだ。

 

つづく

 

全力の向こうの真剣

 

真剣さ、って

何だろうね。

 

真剣さって、

力を抜くことだと

思うんだよね。

 

力の抜けてない人を

見ると、

あぁまだまだ

真剣じゃないな、

って

よく思うよ。

 

とはいえ、

なかなか本当の意味で

力を抜くところまでは

いかないけどね。

 

力、と言っても

余分な力

という意味で、

 

真剣な人は、

いざという時に

凄まじい力を

一点に

集中できる。

 

それをするためには

通常は

力を抜いていないと

無理。

 

「一点」

に自分のすべてを

込めることの

できる人。

 

それが

真剣な人。

 

そこまでの域には

届いていないと

しても、

そこまでの域を

全力で目指している人は

 

やっぱり

真剣、と言っても

いいかな。

 

もし、

力を抜くことが

どうしてもできない、

 

もしくは

わからない、

という人は、

 

「力を抜こう」とは

思わない方が

いい。

 

むしろ

逆を目指すといい。

 

つまりは、

全力を尽くす。

 

いつも

全力を尽くす。

 

全力を

出し切って

出し切って

出し切って、

 

限界を

超える。

 

限界を超えても

どうにもならない

状態になった時に

 

初めて

体験的に

観えてくるものが

あるし、

 

初めて

フッと力が抜ける

かもしれない。

 

だから。

 

形ばかりの

力を抜く

というのは

やってほしくないな。

 

それは

真剣のマネに

すぎないし、

 

それは

全力にすら

なってないから、

 

ただの手抜き。

 

それじゃあ

残念ながら

道は開かないね。

 

「全力を

打ち込めるものが

ないんです」

 

とは

言わないでね。

 

全力とは

生き方だから。

 

全力を打ち込める

ことに全力になる

のは

むしろ全力じゃない。

 

何にでも

全力で取り組む。

 

それが

全力。

 

やるなら

徹底的に

全力になってほしい。

 

すると

その向こうに

「真剣」

が観えてくるよ。

 

つづく