チームパフォーマンスコーチ

今は言うな

 

これはあくまで

私の考えなんだけど、

 

自分が何か

ものを発する時は、

 

自分自身の中心が

静かな時にしか

発しない。

 

・・・と決めている。

 

本当に静かで

落ち着いていて、

 

まるで

鏡のような湖面

みたいな状態。

 

その状態になれて

初めて

ものを発する、

 

つまりは

意見を言う、

 

ようにしている。

 

たとえ良い意見が

あったとしても、

もし自分自身が

その状態でなければ、

 

決して

それは言わない。

 

もちろん、

「この意見、言いてぇ〜!」

と思うことは

多々ある。

 

しかし

自分の中心が

騒がしければ、

 

渾身の力で

その「言いたい気持ち」

を抑え込む。

 

それをすると

決まって、

 

あぁあの時

言わなくてよかったぁ〜、

 

安堵する場面が

後々に訪れる。

 

逆に言えば、

 

自分の中に

まったく意見がなかった

としても、

 

自分の中心が

静かな時、

 

突然、私の口から

意見が飛び出すことも

ある。

 

決して意図して

語る意見ではない。

 

それは

たったの一言の

場合もあるが、

 

まるで滝のように

長く語る

こともある。

 

いずれにしても

その時の

私の中心は

静かだ。

 

鏡の湖面だ。

 

これを大事に

するようになってから、

 

人生の展開が

面白くて仕方ない。

 

こういうのも

人生の醍醐味だと

今は思っている。

 

あくまで

私の経験だけどね。

 

つづく

 

波動を感じると

 

真本音度合いが

高まることで、

感性は豊かに

なるが、

 

その、

豊かになり方が

人それぞれで

実に面白い。

 

人はみんな

同じだけど、

 

人はみんな

違ってるんだな。

独特なんだな。

 

とわかる。

 

そしてその違い

こそが

やっぱり

面白い。

 

ちなみに

私の場合、

 

真本音度合いが

高まることで、

 

人と物

 

の区別が

あまりつかなくなった。笑

 

こう書くと

ただの変なヤツ

なのだが。

 

人も物も

この世に存在する

あらゆるものは

波長であり

波動である。

 

すべてが

エネルギー体

だからだ。

 

そのエネルギー(波動)を

ダイレクトに

感じ取れるように

なった。

 

そうなると、

人だろうが

動物だろうが

植物だろうが

無機物だろうが

 

あらゆるものの

意志やメッセージ

のようなものを

キャッチできるように

なった。

 

もちろんそれらの

多くは

言葉にはならないもの

だが、

 

しかしあえてそれを

人間の言葉に

翻訳しながら楽しむことも

ある。

 

やっぱそれは

危ないヤツか。笑

 

まぁしかし

そうなるともう

この世のあらゆるものが

 

様々なコミュニケーション

をし続けていることが

よくわかる。

 

当然、

孤独を感じることも

ない。

 

常に

「世界」と共にある。

 

という感覚に

満たされるように

なった。

 

私が電車が

好きなのは、

 

電車に乗りながら

その電車そのものと

会話を楽しむからだ。

 

・・・などと

言うからやっぱり

危ないヤツに

なるんだな。

 

でも私はいつも

このようにして

この「世界」を

楽しんでいる。

 

だから、

人とのコミュニケーションが

より深く広く

楽しめるのも

わかるだろ?

 

つづく

 

仲間がほしいなら

 

自分一人でも

進もう、

 

と覚悟を持つことで

初めて

真の仲間ができ、

 

最初から仲間を

求めることで、

 

いつまで経っても

真の仲間とは

出会えない。

 

・・・そうでも

ないんじゃないか?

 

という疑問を

持ちながら

何度も試し、

 

やはりそうなのだ、

何度も痛感する。

 

それがこれまでの

私の人生だったように

思う。

 

真の仲間

とは、

 

気の合う仲間でも

相性の合う仲間でも

ない。

 

そんなことは

はっきり言って

どうでもいい。

 

自分が

自由奔放で

いられるかどうか?

 

自分が

全力で進む時に、

その状態の時にこそ

調和ができるかどうか?

 

そして

お互いがいることで

自分の限界を

どんどん壊していける、

 

つまりは、

 

お互いに自分自身を

(これまでの自分を)

破壊し続けられるかどうか?

 

こそが

大事だと

今の私はつくづく思う。

 

そういう人は

結果として

一緒にいて

とても安心するし、

居心地が良い。

 

でも決して

気が合うわけでも

相性が良いわけでも

ないのが

笑える。

 

そこを笑い合える

のが

笑える。

 

私が

「自分の真本音を

大事に生きるといいよ」

言い続けているのは、

 

まさしくそれこそが

真の仲間を

引き寄せることに

直結するからだ。

 

そして私達は、

真の仲間と出会えて

初めて発見できる

「道」

がある。

 

一人でも進もう

として初めて

仲間ができ、

 

仲間ができて

初めて

真の道が観える。

 

まったくもって

人生というのはねぇ・・・。

 

つづく

 

これは心か念か

 

恐れの深い人ほど

怒りは深く、

 

怒りの深い人ほど

恐れは深い。

 

恐れと怒りは

表裏一体の関係。

 

どんな時も

多かれ少なかれ

この二つと共に

私達は歩んでいる。

 

そして二つ共が

非常に

エンティティになりやすい

ものだ。

 

エンティティとは

念の塊であり、

 

ストレスがある一定以上

の濃度に

固まったものだ。

 

すべての人に

エンティティはある。

 

私達のコミュニケーション

とは、

エンティティの交換でも

ある。

 

・・・と言っても

過言ではない。

 

つまりは、

各々の念の塊を

様々な人達と

お互いに交換し合いながら、

私達は日常を

生きているのだ。

 

すると

どれが自分の心で

どれが他人の念なのか

が、

ほとんど見分けが

つかなくなってくる。

 

ストレスが多く、

特に恐れや怒りが

激しい人のサポートは

 

この

・自分の心

・他人の念

区別をつけるところから

始まるケースが多い。

 

区別がつくだけで

相当に楽になるからだ。

 

最も多いケースは

他人の念である

恐れや怒りを

自分の心であると

誤解をし、

 

そんな自分を

自分で責め続ける

というケースだ。

 

これは

辛い。

 

エンティティにプラス

罪悪感。

 

これは

私達を苦しめる

二大巨頭だ。

 

これにより

完全に自分を

失っている人は

多い。

 

そして、

 

そんな人が

組織のかなりの割合で

存在している

という会社も多い。

 

そうなると今度は

エンティティ同士の

交換も激しくなり、

 

いやな言い方だが、

 

エンティティと

エンティティの

相乗効果まで

発生する。

 

そうするともう

その会社の事務所に

入るだけで、

 

ドーンと

気持ちが落ち込んで

しまう。

 

そんな状態で

「頑張れ!」

と追い立てても、

それはやはり

無理な話だろう。

 

私達のコミュニケーション

は、

目に見えないところでの

影響が

とてつもなく大きい。

 

現象面だけの

一元的な見方と対処では、

 

人は間違いなく

疲弊し、

さらに落ちていく。

 

だから、

いろんな意味で

自分自身と向き合う

ことは

基本だ。

 

ちゃんと自分の

心の中にあるものと

対峙し、

 

どれが

本当に自分の

心なのか?

 

まずは自分自身で

見極める力は

 

誰もに

必要だろう。

 

今の時代

だからこそ。

 

つづく

 

美しい混乱

 

混乱には、

 

美しい混乱と

そうでない混乱が

ある。

 

そうでない混乱

とは、

 

自分自身が

「混乱である」

と認めていない

混乱である。

 

もしくは、

その混乱から

目を逸らし続けている

混乱、

 

もしくは、

その混乱から

逃げよう逃げようと

し続けている

混乱である。

 

つまり、

混乱そのものは

変わらないのだが、

 

その混乱を

美しくするも

そうでなくするも

 

その本人

である。

 

混乱を混乱と

受け止め、

 

これは自分の

人生である、

 

と引き受ければ、

その時点で、

 

「自分」は

その「混乱」の

「中心」

に立てる。

 

中心に立てば、

すべてを混乱を

静かに

見つめることが

できる。

 

すると、

混乱にも

一つ一つの「粒」が

あり、

 

それはまるで

原子や分子のようで

 

それらの一つ一つが

「混乱」という

一つの現象を

形創っており、

 

それはそれで

一つの美しさを

放つものである

ということが

感覚的に

わかる。

 

そうしたら、

自分はその混乱に

どう関われば良いか?

 

が観えてくる。

 

全体像は

観えなくても、

 

まずはどの原子(分子)

から

どう関われば良いか?

瞬時にわかる。

 

そしてそこから

一つずつ

「混乱」に「影響」を

与えていく。

 

その連続によって

ある時に

出口が観える。

 

ひょっとすると

そこまでは

何ヶ月も

何年もかかるかも

しれない。

 

でも、

出口が観えるはずだ、

どこかで

わかっている。

 

それはずっと

「中心」に立てている

からであり、

 

無意識的にも

ずっとその「美しさ」を

感じ続けていられる

からである。

 

出口が見つかれば

一気に向かう。

 

するとそこに

次の次元への

扉がある。

 

これまでとは

次元の異なる

創造がある。

 

その人にしか

生み出せないものが

 

この世の中に

一つ

 

生まれるのである。

 

つづく

 

この問いのおかげ

 

「永遠」

にも

「始まり」

がある。

 

皆さんの

「始まり」

とは

何だろうか?

 

これ、

自分自身に

問うてみてほしい。

 

「私の始まりとは

何だろう?」

 

一見すると

わけのわからない

問いを、

 

真剣に自分に

投げ続けるというのは

意義が深い。

 

問いの面白い

ところは、

 

答えが浮かばなくても

OKというところだ。

 

問いそのものが

心に残ればいい。

 

するとそれだけで、

日常における

様々な発想や視点が

変わり始める。

 

または、

 

ひょっとすると

上記の問いについて

すぐに答えが浮かぶ

人もいるかも。

 

そんな場合は、

それを「答えである」

決めないでほしい。

 

まだまだ先が

ある。

 

とか、

 

もっと深い答えが

私にはあるだろう。

 

という風に

捉え、

 

上記の問いを

投げ続けてほしい。

 

上記の問いは

実は

この3年間、

私が毎日自分自身に

投げ続けたものだ。

 

おかげで

随分とこの3年間で

私は進むことが

できた。

 

この問いの

おかげだな、

今日ふと思えたので。

 

皆さんにも

共有しますね。

 

つづく

 

中心軸、あるのに

 

すごく伸びやかで

しっかりとした中心軸が

あるにも関わらず、

 

そこからまるっきり

外れたままで

生きている人が

 

たま〜にいる。

 

中心軸は

ガッシリとあるので、

エネルギーは高い

のだが、

 

まったくその通りに

生きていない。

 

普通であれば

そんな芸当は

できないはずだが、

 

できてしまう。

 

エネルギーの

高さ故の技かも

しれない。

 

しかし残念ながら、

そういった場合

その人は

 

自分の気づかない

ところで

周りの人達を

たくさん傷つけてしまう。

 

もちろん

人間関係はまったく

上手くいかず、

 

結果として

自分も傷つくことに

なる。

 

しかし、

なぜ自分が周りから

責められるのか、

攻められるのか、

わからないのだ。

 

根本原因は

中心軸が

ズレているだけ。

 

しかし、

それが当たり前に

なった状態で、

 

ズレたままの

状態で、

 

自分の生き方の

癖をつけてしまうので、

 

他者から教えても

もらわない限りは、

なかなか

修正ができない。

 

修正をすれば

良いだけなのに、

もっと難しいことを

しようとして

悩みに悩み、

 

最後には

自分自身のことが

本当に嫌になって、

 

人生を捨ててしまおう

とすら

考えてしまう。

 

先ほど、

たま〜に、という

言い方をしたが、

 

いや、でも最近は

結構、このタイプを

多く見ている気がする。

 

こんな時に

よく思うのだ。

 

的確な「コーチ」が

必要だな、

と。

 

世の中に、

「コーチ」が

足りない。

 

やっぱり。

 

つづく

 

ポツリ、ポツリ、と

 

「コーチ」として

人と向き合う時、

 

私のあらゆる

メッセージは、

 

その人の

真本音に向けられた

ものとなる。

 

コーチとは

鏡である。

 

と私は思っているが、

その鏡とは、

 

真本音の鏡

 

だ。

 

目の前の人の

反応本音が

どれだけ強烈でも、

 

基本的に

私はそれをすべて

存在承認しながらも

 

付き合わない。

 

基本的には、

だが。

 

そして「鏡」として、

本当に必要な

一言だけを、

 

ポツリ、ポツリ、と

 

池に石を

一つずつ投げ込む

ように

語る。

 

一つの石を

投げたら、

 

その波紋を

確認する。

 

しっかりと

波紋が心全体に

行き渡ったのを

確認できると、

 

次の言葉を

投げる。

 

時には

立て続けに喋ることも

あるが、

 

それはまったく

意図しているものでは

なく、

 

その人の真本音が

そのように

少し強めの波紋を

望んでいる時だ。

 

私は

その人の真本音の

意思を受け、

 

それをそのまま

要望のままに

返す。

 

その人の真本音を

そこに

映し出すのだ。

 

つまりその人は

私という存在を

介して、

 

自分自身の真本音

と向き合うことに

なる。

 

これが

コーチングだ。

 

残念ながら

今の社会においては、

じっくりと

自分自身の真本音と

向き合う時間を

取れている人は

少ない。

 

本当は

セルフコーチングで

できれば良いが、

 

それには訓練が

必要だ。

 

だから私は

コーチングを通じて、

 

その人が

セルフコーチング

できるように

サポートする。

 

最初は、

私自身が鏡となるが、

 

だんだんと

コーチングの場は、

 

セルフコーチングの

サポートの場

へと変貌していく。

 

そして

私という存在が

必要なくなっていく。

 

そして私は

離れていくのだ。

スーッと。

 

その離れ際も

大切だ。

 

いかに絶妙な

タイミングで

その人から

離れるか?

 

具体的には

 

いつ

コーチングセッションによる

サポートを終了させるか?

 

私はとてつもなく

大切にしている。

 

そしてその瞬間が

来ることが、

 

私の最大の

喜びだ。

 

つづく

 

どれだけ疲れても

 

当たり前のことだが、

 

人間、疲労すると

「こなす」

ようになる。

 

あらゆる物事を

「こなす」

ようになる。

 

すると結果的に

さらに不調和が起き、

 

さらに疲労、

疲弊する。

 

そしてさらに

「こなす」ようになる。

 

その人生から、

 

その仕事から、

 

脱出しなければ

ならない。

 

そこにいては

いつまで経っても

幸せにはならないように

私達人間は

できている。

 

こなす人生は

あかんのよ、

本当に!

 

こなせば楽

なんて

思ったらあかんよ。

 

絶対

苦しむことに

なるから。

 

だから、

 

疲れた時こそ、

原点に戻ろう。

 

本当は

一日一日、毎日

原点に戻る時間を

習慣化できていれば

簡単なんだけどね。

 

でもとにかく

原点に戻ろう。

 

「戻ろう」と

するだけでもいい。

真剣に。

 

私は

もともと何を

望んでいただろうか?

 

どんな人生が

良いのだろうか?

 

どんな生き方を

したいのだろうか?

 

人とどう関わり、

どんな関係を

創り出したいのだろうか?

 

どんな現実を

生み出し、

どんな人生というストーリーを

創り出したいのだろうか?

 

私の願いは?

ずっとずっと大事にしたい

願いは?

 

変わらない願いは

何だっけ?

 

などなど。

 

答えはわからなくても

いい。

 

ただ真剣に

自分に問い、

 

真剣に答えを

探そうとしよう。

 

そこに真剣になれば、

それだけで

私達の心のチャンネルは

変わる。

 

変わったら、

一つ

キーワードを決めよう。

 

仮のキーワードでも

いい。

 

原点に戻ろうとした

その事実を

思い出せるキーワードだ。

 

たった一言。

 

簡単な一言でいい。

 

それが決まったら、

いつもそれを胸に。

 

いつもそれを

思い出しながら、

 

自分の原点を

思い出そうとしながら、

 

一つ一つの物事に

心を込めよう。

 

魂を込めよう。

 

「こなす」のではなく、

自分の意志と意思を

そこに

丁寧に、誠実に

込めよう。

 

それだけで

人生は

大きく転換するんだよ。

 

つづく

 

目覚めるか

 

眠っている自分を

感じたことは

あるだろうか?

 

自分の中の

眠っている自分。

 

もしその自覚を

したのであれば、

 

それはもうすぐ

「目を覚ます」

ということだ。

 

新たな自分が

生まれる、

 

ということでも

ある。

 

それはひょっと

すると、

 

人によっては

恐ろしいことかも

しれない。

 

これまでの

自分のままで

いたい。

 

そう考える

人は多い。

 

そして無意識に

新たな自分の

目覚めを、

 

自分で

無きものとする。

 

新たな自分を

自分が受け入れよう

 

ある意味の

覚悟をすることで、

 

それは本当に

目を覚ます。

 

大抵の場合は、

ちゃんと

目が覚めれば、

 

そこから先は

 

とても人生が

楽になる。

 

何かから

解放(開放)され、

 

もっともっと

広い場所で

生きることが

できるようになる。

 

だから本当は

早く受け入れれば

良いのだが、

 

なかなかそれが

できない。

 

進化するのが

人間の本能なのに、

 

その一方で

変わりたくないのだな、

 

人は。

 

今、

もし

目覚めようとする

自分がいるならば、

 

よ〜く

見つめてみると

いい。

 

まるで

赤ちゃんのように

可愛らしいはずだ。

 

まるで

親になったように

慈しみの目線で

見つめるといい。

 

不安は

スーッと消えていくよ。

 

つづく

 

救われた

 

時々、私の中は

ポッカリとした

「月」

が浮かぶ。

 

黄色い満月

だ。

 

月は何も言わず、

ただそこに

浮かんでいる。

 

藍色の

空に。

 

だいたいこういう時は

月は

私に何かを

伝えたいのだ。

 

しかしそれは

言葉としては

伝わってこない。

 

でも、

何かを伝えたい

ということはわかるので、

 

私はじっと

月を見つめる。

 

今、

浮かんでいる月は

何となくであるが、

 

笑っているように

感じる。

 

あえて言葉に

すれば、

 

よくやったなぁ、

 

褒めてくれている

ようだ。

 

いや、

 

よくやってるよ、

 

かな。

 

何を

よくやってるよ、

なのかな?

 

すると月は

突然巨大になり、

私を包んだ。

 

一瞬で私は

月の中に

抱かれた。

 

するとそこに

人の影が

浮かんだ。

 

その人が誰か、

わかった瞬間、

 

私は何を

よくやっているのか?

わかった。

 

あぁなるほど、

そういうことか。

 

それは確かに

よくやっているな。

 

おかげで

救われました。

 

その人からの

言葉。

 

私はあなたを

救えたの?

 

はい。

 

お〜、偉いじゃないか、

俺。笑

 

まだ終わって

ませんけど。

ここからです。

共に進むのは。

 

と、

力強い意志が

伝わってくる。

 

なるほど。

 

俺もまた

救われたわけか。

 

つづく

 

頼りきる

 

本当に覚悟を

持った人は、

 

人に頼ることが

できる。

 

自分を

預けきることが

できる。

 

人に頼る

ということは、

 

「世界」に頼る

ということだ。

 

自分以外のすべてに

頼るということだ。

 

それは

依存ではなく、

 

むしろ

依存の真逆だ。

 

覚悟のない人は

執着はするが

頼りきることが

できない。

 

その中途半端さが

苦しみを生み、

何も進まなくなる。

 

自分の足で

歩く人こそが

 

頼りきる

ことができ、

 

それによって

真の協調が

起こる。

 

もともと

我々人間は

頼りきるように

できている。

 

お互いに。

 

だから

「一つ」になれる。

 

実は、

 

今日、

私の人生にとって

とてつもなく大事な

出来事があった。

 

残念ながら

何かは言えないが、

 

私は恐らく

ずっとこれを

待っていた。

 

私は今月、53歳に

なるが、

 

きっと

53年、待ち続けた。

 

さぁこれで、

やっと

私は世界に頼りきりながら

進むことができる。

 

つづく

 

もっと雨を

 

土砂降りの雨が

降っているのが

わかっているのに、

 

その中に

出て行かねばならない

時がある。

 

晴れていれば

そりゃ

格好いい自分で

いられるさ。

 

でも

これだけの土砂降り

ではどうかな。

 

さすがに

倒れるかも・・・。

 

まぁでも

そん時はそん時だ。

 

開き直って

出る。

 

わざと

上を向いて

歩く。

 

雨粒が

顔に降り注ぐ。

 

痛い。

 

あれ?

 

これ土砂降り

というよりも

滝じゃないか。

 

後悔すれど

遅し。

 

そうか。

 

私の範疇を

超えているんだな。

 

じゃあ、

抗っても無駄だ。

 

身を預ける。

 

普通に

前を向いて

立つ。

 

雨、・・・いや、滝?

が痛い。

 

いつの間にか

自分が

滝になっている。

 

ドドドッという

轟音が

しだいに静かに

なり・・・。

 

いつの間にか

私は

歩き始めていた。

 

嫌な人生だな、

思っていたが、

 

結局、

これを望んでいるのは

他でもない

自分だったな、

わかる。

 

なぜなら私は

ここでこそ、

楽しんでいる。

 

充実を

覚えている。

 

多分、

この雨がやめば、

雨を怖がる私が

また出てくるのだろう。

 

でもそれでも

私は

その中に。

 

きっとその中に

自ら入り、

そこでまた

喜びを感じる。

 

違う私になる

わけではない。

 

本来の私を

思い出すだけだ。

 

雨なんて

嫌だ。

 

でも、

雨の中に出れば、

本来の私に

戻る。

 

なんだよ、

それ。

 

どんな人生だ?

 

ふと見ると、

遠くにうっすら

人影が。

 

結構、たくさん。

 

あぁそうか。

 

私を待ってる

人達だ。

 

やっと

見えてきた。

 

とりあえず

あそこまで

がんばろう。

 

つづく

 

あたたかい?

 

あたたかい

コミュニケーション

というのは、

 

余分なことを

言わない。

 

どれだけ

あたたかい言葉を

連発しても、

 

余分なことを言う

コミュニケーションで

あれば、

 

あたたかさは

どんどん

失われる。

 

なぜならそれは

誤魔化し

だから。

 

本当のあたたかさは

存在そのものから

醸し出されている。

 

その人の

存在そのものから。

 

だから基本的には

言葉は要らない。

 

でも

その実在が

自然に現象化する時、

 

それがそのまま

言葉になる。

 

実在が現象化

した言葉。

 

それだけを

伝えればいい。

 

ひょっとすると

あたたかさという

実在が

 

ある人の前で

現象化すると、

 

表面的には

厳しい言葉に

なるかもしれない。

 

耳の痛い言葉に

なるかもしれない。

 

しかし

その実在は

どこまで行っても

あたたかさ、だ。

 

表面上に

捕われない、

 

あたたかい

コミュニケーションが

もっと世の中に

溢れるといい。

 

昨日も今日も

つくづく

そう思った。

 

つづく

 

もうすぐひらめく

 

どうせ今の自分

には、

わからんだろう。

 

思うことが

多々ある。

 

もっと経験を

積み、

未知の領域に

進まなければ

 

決して

見えないものは

ある。

 

それを楽しむ

ことがまた

人生の醍醐味である

とも言えるのだが、

 

なんか

どこかが悔しい。

 

わからないことが

何か

すらわからない

のも

悔しい。

 

だから私は

意識を未来に

向ける。

 

じーっと

意識を向け続けて

いると、

 

何やら

ニンマリしている

奴の存在を

感じる。

 

未来の私だ。

 

私は奴に

問う。

 

今の俺が

わからんことは

何だ?

 

すると奴は

さらにニンマリ。

 

何も

言わねえ。

 

しかし意識は

伝わってくる。

 

言葉にすると

こうだ。

 

そのうち

わかるよ。

 

わからんことが

ある、

というその感覚だけで

いいじゃないか。

 

その感覚を

大切にすれば

いい。

 

感覚がある

ということは、

そのうちわかる

ということだ。

 

しかし

ニンマリした

奴の顔を見ていると、

 

やはり

悔しい。

 

奴は

ニンマリしながら

私の背後まで来ると、

 

私の両肩に

手を置いた。

 

すると

何かがわかった

気がした。

 

気がしたのだが、

ただの感覚だ。

 

ひらめきの

あの感覚

だけだ。

 

内容は

わからない。

 

こういうひらめきが

あるってことだ。

 

奴は言う。

 

そうか、

こういうひらめきが

訪れるのか、

と思うと

嬉しいは嬉しいが、

 

しかしやはり

ちょっと悔しい。

 

つづく

 

観えない

 

時々、

物事をあるがままに

観れないなぁ、

思うことがある。

 

その場合は

その状態を

素直に楽しむことに

している。

 

観れないなら

観れないで

いいや、

と。

 

そして

自分の意識を

今の自分に

預けてしまう。

 

すると、

自分が今

何に巻かれているか?

 

何を

グルグルしているのか?

 

なぜ

あるがままに観れないか?

 

などが

よ〜く観えるようになる。

 

多くの場合、

 

例えば、今の今

だが、

 

私の頭は

まるで巨大な雷雲

のようなものに

巻かれている。

 

真っ黒な雲。

 

稲妻が走る。

 

頭が痛い。

 

当然、

何も見えないし

観えない。

 

というのが

観えてくる。

 

そこまでわかれば、

意図的に

その黒い雲の

中に

意識を埋没させる。

 

決して

それは取り除こう

とはしない。

 

埋没して、

それ自体を

味わい尽くそう

とする。

 

当然それは

とても苦しいし、

 

頭も

余計に痛くなるが、

 

しかし

あえてそうする。

 

すると

いろんな叫び声が

聴こえる。

 

多くの苦しみの

声みたいなのが

聴こえる。

 

あ〜これはやっぱ、

私の心では

ないな。

 

誰から受け取った

ものかな?

 

それとも、

今の世の中全体から

伝わってくる

ものかな?

 

などなど、

ちょっとは客観的に

なりながらも、

 

しかしあまり

客観的、評価的に

なり過ぎないように

そこに自分を

ただ預ける。

 

するとだんだんと

それらは

浄化されていく。

 

ゆっくりと。

 

私は最後まで

ただ感じるだけ

にする。

 

そして

すべてが消え、

スッキリと周りを

観れるようになると、

 

今度は私は

その

あるがままの世界に

そのまましばらく

自分を預けておく。

 

そうすると

自然に、

私の中から

光のような一つの

「願い」

が湧いてくる。

 

ちょっとした

願いだ。

 

言葉には

ならない。

 

それでいい。

 

しかし

その直後に

ちょっとした指針が

浮かび上がってくる。

 

「もうちょい、

ゆっくり行っても

いいか・・・」

 

今回は

こんな呟きだ。

 

そして私は

それに素直に

動くことにする。

 

つづく

 

当たり前だろ

 

私の心の中に

光が浮上する。

 

眩い。

 

そんな光が

観えると、

私は必ずその中に

入る。

 

そして

じっとする。

 

すると

毎度、そこには

誰かがいる。

 

一人の場合も

あれば、

たくさんの人達の

場合もある。

 

その人達の気配

を感じながら、

 

ただただ

じっとする。

 

時には、

その人達の気配は

そのままに、

しかし、

その人達が

スーッと

遠のくことがある。

 

遠くから

その人達は

私を見守る。

 

そこで私は

何か準備をしている。

 

それを

彼らはただ

見守る。

 

「終わりましたか?」

 

という

彼らからの問いが

来ると、

 

「終わったよ」

 

私は答える。

 

すると彼らは

また近づいてきて、

 

私と

スクラムを組む。

 

私はとても

勇気づけられ、

 

と同時に

一つの問いが

浮かぶ。

 

凄い問いだ。

 

ここでは

書けない。

 

確かに

この問いと対峙するには

勇気が要る。

 

でももう

対峙してしまった。

 

私は

すぐに答えた。

 

「当たり前だろ。

もう決めたんだ。」

 

つづく

 

分岐点かも

 

今、

意識できているか

どうか

 

は別として、

 

人生の大事な

分岐点に差し掛かって

いる人が

 

多いようだ。

 

具体的でわかりやすい

選択肢があるのか

どうか、はわからない。

 

生き方をちょっと

変える、

ということだけかも

しれない。

 

しかし、

いくつかの選択肢の

前で

佇んでいる人は

多いようだ。

 

そこで、

 

大事な問いを

投げてみよう。

 

実際に分岐点に

いるかどうかは

わからなくても、

 

一度、丁寧に

次の問いを

自分に投げてみよう。

 

もし自然に

何らかの発想が

浮かんだら、

 

それを

大事にするといい。

 

・・・

 

もし今、あなたが

人生の道の

分岐点にいると

仮定し、

 

いくつかの選択肢の

前にいると

したら、

 

選択肢を今から

選ぼうとする

自分自身に、

 

何を大事に

選びなさい!

 

アドバイスする?

 

どんな選択基準で

選びなさい!

 

アドバイスする?

 

・・・

 

まったく関係の

なさそうな発想が

浮かんだとしても、

 

それを

大切にすると

いいね。

 

つづく

 

自分の意思すら知らない

 

実在の私が

躊躇をしている

ようだ。

 

だから

顕在(現象)の私が

お尻を叩く。

 

「書け」

と。

 

「わかったよ」

と返事が返ってくる。

 

返事と言っても

私が私に向かって

呟くだけだが。

 

小学一年の時、

友達に

「竹内くんは

いつも独り言を

喋っているね」

と言われたのが

妙に記憶に残っている。

 

ずっと誰かと

喋っていたようだ。

 

私に自覚は

なかった。

 

今思えば、

私は当時から

実在の私自身と

会話をしていたのかも

しれない。

 

時々、

布団に顔をギュッと

押し当てて

目を瞑っていると、

 

目を瞑っているのに、

目の前が急に

明るくなり、

 

何かが見えた。

 

それは何か

書物のようで、

日本語ではない

何か知らない文字が

たくさん書かれていた。

 

絵もあったかも

しれない。

 

布団にギュッと

顔を押し付けると

そうなるので、

 

私は時々

自分の楽しみとして

それをやり続けていた。

 

きっとあれも

実在の私からの

何らかのメッセージ

だったのだろうと

今、ふと思った。

 

実在の自分が

現象の自分を

形創っている。

 

現象の自分とは

実在の自分の

反映でしかない。

 

反映でしかないが、

この世の現実で

生きているのは

現象の自分なので、

 

現象の自分は

現象の自分として

意思を持つ。

 

すると、

実在の自分と

現象の自分が

同じ自分なのに

分離されていく。

 

本当は

この二つの自分が

一致すればするほど

人は

幸せになる。

 

たった

それだけのこと。

 

分離を

一致されていく。

 

いわゆる

「自己統合」

というやつだ。

 

本当は

たったそれだけの

ことなのだ。

 

実在の自分の

意思を

私は

『真本音』

と呼んでいる。

 

霊感でも

何でもない。

 

今ここに

ちゃんと実在している、

 

つまりは

根を張っている、

 

本当の

自分の意思だ。

 

人は

本当の自分の意思

すら知らずに

生きている。

 

自分のことは

自分がわかれよ。

 

言いたいのだが、

私も含めて

まだまだだ。

 

まだまだ

なんだ、

この世の中は。

 

つづく

 

共に来た 共に行く

 

ちょうど

「境目」

にいるとき、

 

私達は

独特の緊張と共に

独特の静けさを

得る。

 

何が終わるかも

わからず、

 

何が始まるかも

わからない。

 

しかし

「境目」にいるのは

わかる。

 

ここは

ずっと来たかった

場所であり、

 

かつ

 

ずっと怖れ続けた

場所でもある。

 

ここには

過去も今も未来も

なく、

 

分離しておらず、

 

時すらも

静かに一つのままに

 

私達と同じように

ここにいる。

 

「境目」なのに

なぜかここに

「中心」もあり、

 

その「中心」は

私達自身が

大事に抱いている。

 

そのうちに

「自分」と「世界」の

区別すら

なくなるのだろう。

 

すると

この緊張感も

消失し、

 

区別のなくなった

私達は

区別のなくなった

新たな「自分」として

 

ようやくにして

この「境目」を離れ、

 

先に進むのだろう。

 

まるで

夜が明けるように、

 

先に進むのだろう。

 

つづく

 

自分の足か?

 

急がねば

ならないが、

 

焦る必要は

ない。

 

急ぎたいと

思うのなら、

 

今は

 

しっかりと

自分の足元を

見つめるべきだ。

 

そして、

 

一歩

また一歩

 

着実に

しっかりと

自らの足であることを

確認しながら

 

進むといい。

 

風は

追い風だ。

 

簡単に

乗れる。

 

簡単に

進める。

 

だからこそ

足元に。

 

ちゃんと

自分の意思と

 

自分の

足で。

 

つづく

 

最初は調和だ

 

実は

日常生活の中では

いろんなことが

調和している。

 

私達が

気づけるか気づけないか

だけの違いで。

 

調和に気づける

ということは

それだけで

私達の心の調子が良い

ということだ。

 

調子が悪ければ

そこに気づくことも

できない。

 

ゆとりがない

というやつだ。

 

調和に気づけないと

自分は不調和であると

思い込む。

 

人間は

解釈の生き物。

 

不調和だ不調和だ

言葉で思うわけでは

ないが、

 

調和できていない

のが自分である

という

 

要するにそういった

変な自己イメージが

無意識に高まり、

 

その解釈によって

不調和度が

さらに高まり、

 

本当に不調和に

なる。

 

街を歩いたり

駅を歩いたり

していると、

その状態に入ってしまっている

人が

たくさんいることが

わかる。

 

一目でわかる。

 

逆に、

調和にちゃんと

気づきながら

生きている人も

すぐにわかる。

 

同じ人間なのに

面白いものだ。

 

そして、

自分自身で創り出した

その調和・不調和

によって

 

人生の展開は

決まっていく。

 

結局はやはり

その人の

生き方の問題だ。

 

ビジネスで言えば、

もちろん

 

調和にちゃんと

気づいている人同士

で組むと良い。

 

調和の連鎖が

起こるから。

 

調和の連鎖によって

育まれたビジネスは、

 

そのお客様に

なってくださる人にも

調和をもたらす。

 

それはその

具体的な商品やサービスの

効用以上に

価値あるものだなと

私はいつも

感じている。

 

調和の連鎖を

もっともっと

助長したいものだ。

 

つづく

 

素直な体験を

 

今の時代の私達が

天動説の話を聴けば、

 

昔の人は

何も知らなかったんだ、

 

ちょっと小馬鹿にする

傾向があるかもしれないが、

 

私は、

宇宙の中心は

自分達の住んでいる

この世界である

 

という

とても素直な捉え方に

好感を持っている。

 

太陽は

頭上を移動し、

 

星々も

動いていく。

 

空が毎日

同じように変わって

いく。

 

回っていく。

 

自分達を中心に。

 

そのように

自然現象を素直に

捉える視線は

 

私は大事だと

思うのだ。

 

事実を

あるがままに捉える

ことは大事だが、

 

それは

知識を他人から

教えてもらうこと

ではない。

 

もちろん

教えてもらうことも

大事だが、

 

やはりまずは

 

自らが

体験すること

 

ではないか。

 

私は

どう感じるか?

 

私は

どう思ったか?

 

それも一つの

事実であり、

 

それも

あるがままに

捉えるべきだと思う。

 

正しいかどうか?

よりも

 

私はどう

感じ、

どう受け取ったか?

 

それが

現実と向き合う

基本だ。

 

現代を生きる私達は

情報を

与えられ過ぎ、

 

というのは

確かにそうだと

思う。

 

しかし

情報量よりも、

 

情報が主か?

私が主か?

 

・・・こちらの方が

重要ではないか。

 

私達は

人生の「現場」にいる。

 

私達が生きている

この場こそが

「現場」だ。

 

「現場」で生きる

私は

「現場」で何を体験し、

何を感じたか?

 

そして

どうしよう

という意思を素直に

持ったか?

 

自分自身が得た

現場の情報

を、

自分自身がまずは

大切にすることこそが

 

自分の人生を生きる

基本だろう。

 

つづく

 

変わっちまった

 

そろそろ

私を

変えようかと

思う。

 

つまりは

 

「私は何者か?」

 

大きく変えようかと

思う。

 

実はずっと

何年も前から

そう決めていた。

 

時期が来たら

そうしよう、と。

 

しかし実際

それはちょっと

勇気も必要なので、

 

本当に慎重に

タイミングを図ろう

と思っていた。

 

で、

そろそろかな?

思っていたのだが、

 

今日ふと

「あっ、タイミングだな」

自然に思えた。

 

だから

変える。

 

というか、

その瞬間に

変えてしまった。

 

特に皆様に

ご迷惑をおかけする

話ではないので

ご安心を。

 

ただし

私自身と

私の人生展開には

 

恐らくだが、

極度の刺激が入る。

 

仕事をやめる

わけではないし、

 

これまでご縁を

いただいた方々との

お付き合いを

変えたりするわけでも

ない。

 

でも、

変わる。

 

根本的に

私自身が変わる。

 

あっ、性格は

変わりませんし、

 

恐らく

言動もまったく

変わらないと思うので、

それもご安心を。

 

現象レベルでは

何も変わらない。

 

しかし

実在レベルが

まったくもって

根本から変わる。

 

さて、

 

具体的に何が

どう変わるのかは

言葉では説明できるけど、

 

教えない。笑

誰にも。

 

変えるのは

怖かったけど、

 

いざ変えちゃったら

あとはもう

楽しみしかない。

 

つづく

 

未来と繋がる自分になるには

 

自分の「未来」を

大事にしたいのなら、

 

「今」を

大事にすることだ。

 

「今」を大事にできない人は

「未来」を大事にすることも

できない。

 

そういった

とても単純な原理に

基づいて

私達は生きている。

 

今の自分に

文句を言ったり

否定をしたり。

 

今の環境に

文句を言ったり

否定をしたり。

 

もちろん

そういった心が

湧いてくるのであれば

それはそれで良いし、

 

あらゆる心は

存在承認すればいい。

 

でもそれだけで

終えてしまっては

ならない。

 

文句もあるし、

否定したい気持ちも

あるけど、

 

それでも私は

今ここ

にいる。

 

じゃあ

今ここで私は

どう生きるか?

 

何を大切にして

どう生きるか?

 

どんな自分として

在り続けたいか?

 

それを

真摯に見つめ、

 

そして

真摯に行動する。

 

その姿勢を

持ち続けている人は

 

それだけで

心がだんだん

クリアになっていく。

 

エネルギーが

高まってくる。

 

そして

ある時ある瞬間に

何かのきっかけで

 

「未来」

が観えてくる。

 

私達はもともと

自分の未来を

決めている。

 

何を目指し、

何を実現するために

この世を生きるか?

 

その純然たる答えを

抱きながら

生きている。

 

真本音の答えが

あるんだ。

 

しかしそれは

「今」を大事にする

生き方ができていなければ、

 

決して

心の奥底からは浮上

しない。

 

自分の未来への

指針や願いは

自分の望む生き方を

実践できる自分にならねば

隠れたままなんだ。

 

今をちゃんと

生きることができて

初めて、

 

私達は自分自身に

OKを出す。

 

よし。

もう今の私ならば、

私の未来を

見せてあげよう。

 

と、

自分で自分に

OKを出す。

 

それが

私達だ。

 

自分に真摯に

生きること。

 

それは

今を真摯に

生きること。

 

つづく

 

想定内がいい?

 

真本音度合いが

高まれば

高まるほど、

 

自分の意図を

超えた

展開が起きている

気がする。

 

笑えるくらいに

意図通りに

いかない。

 

でもそれは

不幸なことか?

 

と問えば、

 

真逆だ。

 

それが楽しくて

しょうがない。

 

きっと私自身が

そういった

 

意図のない人生

 

願っているから

そうなるのだろう。

 

自分が

思い描いた通りに

いく人生は

楽しい?

 

と訊かれれば、

 

全然楽しくない

 

私は即座に

答えるだろう。

 

それはあくまで

私の好みだ。

 

だから

意図通りに行きそうに

なればなるほど、

 

私は真本音で

それを避けるのだろう。

 

そして

思わぬ展開に

ほくそ笑む。

 

そう。

 

これはあくまでも

私の好みだ。

 

この3次元という

現象の世界は

 

未来がわからない

ように

できている。

 

せっかくそういう風に

できてるんだから、

 

そここそを

楽しまずして

何を楽しむのか?

思うのだ。

 

くどいようだが、

あくまで私の

好みだ。

 

この生き方を

オススメしている

わけではない。

 

今日も想定外

ばかり起きた。

 

私自身さえも

想定外の

動きをとった。

 

自分の動きを

自分で見つめながら

 

びっくりしていた。

 

そしてやはり

ほくそ笑んだ。

 

私の望むことも

望まないことも

 

想定内で起こる

のは

物足りない。

 

明日も明後日も

私は

冒険したい。

 

皆さんは

自分の人生、

どう考える?

 

つづく

 

向き合えば突破できる

 

人と向き合って

いると、

 

その人が

どんどん

静かになっていくのが

わかる。

 

まずは

心が静かになり、

 

そして

魂が静かになる。

 

これは別に

私が向き合っているから

という

わけではない。

 

そもそも

「向き合う」

という行為自体に

そういう力がある。

 

人と人は

向き合うもの。

 

向き合うことで

共に生きるように

私達人間はできているな

本当に毎日

実感する。

 

ところが残念ながら、

形だけは向き合いながらも

実は何も向き合っていない、

という関係が

多い。

 

だからみんな

疲弊するし、

 

心が騒がしくなる。

 

そして

いろんなことが

混乱して

何が何やら

わからなくなる。

 

自分を失う。

 

自分を失ったまま

人生も仕事も

進めてしまう。

 

その根本原因は

向き合っていないからだ。

 

つくづく思う。

 

人と人は

向き合うもの。

 

向き合うからこそ

観えてくる答えは

実に多い。

 

向き合えば

すぐに突破できることも

 

向き合わないから

いつまでも

そこでズルズルと

悩み続ける。

 

向き合う関係を

増やしていけると

いいね。

 

向き合う気持ち良さを

思い出せると

いいね。

 

つづく

 

答えが生まれたようだけど・・・

 

コーチングを

していると、

 

あぁこのクライアントさんの

中に、

 

人生において、

とても大事な「答え」が

一つ、

形創られたな、

 

わかる瞬間が

ある。

 

しかし面白いことに、

その時点では、

 

「答え」の存在感

 

しかわからないのだ。

 

とにかく

何らかの「答え」が

できたんだ、

という空気感だけだ。

 

しかもそれは

多くの場合、

そのクライアントさんの

「声」

でわかる。

 

声の波長が

変化するのだ。

 

表面的な

変化ではない。

 

とても微妙な

根本的変化だ。

 

実は今日のコーチング

でも、

それがあった。

 

今日のコーチングは

オンラインで、

声だけでやっていた。

 

だから余計に

わかったのかも

しれない。

 

しかし大変なのは

ここからだ。

 

「答え」の存在は

わかったが、

 

「答え」の存在しか

わからないのだ。

 

それが

何に関することなのか?

さっぱり

わからない。

 

だからまずは

その「答え」にたどり着く

ための

 

「問い」

 

を見つけ出さねば

ならない。

 

しかし毎度そうなのだが、

それは最初はまるで

雲を掴むような話なのだ。

 

なので私の場合

クライアントさんに

そのまま告げる。

 

何かの「答え」が

出たようですよ。

でもそれが何か

さっぱりわかりません。

一緒に見つけましょう。

 

・・・と。

 

こんなことばかりを

言うので、

私のコーチングに

まだ慣れていない人は

目を白黒させる。

 

でも

慣れてくると、

まるで宝物探しのようで、

 

その独特の楽しさ

に病みつきになる

ようだ。

 

そして自然に

セルフコーチング力が

ついてくる。

 

で、

ある時から

ご自分から言うように

なる。

 

竹内さん、

どうやら私の中に

何らかの「答え」が

生まれたようです。

 

・・・と。

 

楽しいねぇ。

 

で、

そうやって見つけた

「答え」は

ほぼ間違いなく、

 

人生の展開を

変えるんだ。

 

つづく

 

コーチング、いいよな

 

目の前に

人がいる。

 

会った瞬間、

私は彼から

あらゆるものを

受け取る。

 

要するにそれは

彼の「実在」

であるが、

 

そこには

すべてがある。

 

目の前の彼は

「現象」に

過ぎない。

 

「現象」に

過ぎないのだが、

 

しかし

それこそが

 

今ここ

 

における

彼のすべて

でもある。

 

実在のすべて

現象のすべて。

 

その両方の

「すべて」

と対峙することで

 

私のコーチングは

始まる。

 

やはり

私は

「コーチング」

が好きである。

 

「コーチング」という

一つのカタチが

好きなのだと

思う。

 

1対1で

その人の「すべて」

向き合い続ける

時間。

 

真正面から

向き合い続ける

時間。

 

その時間中、

私は彼の「すべて」を

感じ続けることが

できる。

 

それは悦びであり

苦しみであり。

 

しかし紛れもなく、

それは

「人間」

である。

 

きっと私は

「人間」が

好きなんだな、と

思う。

 

昔は

嫌いだったのにね。

 

なんでこんなんに

好きになったの

だろう?

 

いつから

好きになった

のだろう?

 

まぁそれは

ともかく、

 

「コーチング」には

時間制限が

あるのも

実にいい。

 

1時間なら1時間と、

限られた

時間を

 

「コーチング」という

カタチとして

向き合う。

 

私はその時間内は

完全に

「コーチ」という

在り方に

集中できる。

 

つまりは、

目の前のその人に

私の意識の

「すべて」を

向け続けられる。

 

100%その人の

ための

時間だ。

 

よくよく考えたら、

人生において

このようなカタチの

時間というのは

なかなか

手に入れらない

よな。

 

「コーチング」によって

その人が

本来のその人を

取り戻し、

 

本来のその人の

「行動」を

取り戻していくのは、

 

そういう意味では

当たり前と言えば

当たり前だよな。

 

その人も

私も

「実在」のすべてと

「現象」のすべてを

向き合わせながら、

 

その人だけの

ための

限られた時間。

 

いいよなぁ。

 

・・・と思う。

 

改めてふと

今日は

そう思ったよ。

 

つづく

 

そこから脱け出せ

 

地に足がついて

いない状態では

 

もがけばもがくほど

 

ドツボにはまる。

 

ますます

混乱し、

 

ますます

わけがわからなく

なり、

 

ヒステリー状態に

近くなる。

 

表面上は

穏やかに見えても、

 

心の中身が

そのような人が

増えている。

 

当然であるが、

凄まじいエンティティだ。

 

「エンティティ」という

言葉、

久しぶりに書いた

気がする。

 

要するに

「念」だ。

 

ストレスが濃くなりすぎて、

まるで風邪のウィルスの

ように、

実体化した「念」。

 

私達は誰もが

多かれ少なかれ

エンティティを持ち

生きているが、

 

自分自身が

耐えられないくらいに

それを抱えている人が

増えている。

 

今の世の中の

状況が

そうさせているという

面も

もちろんあるが、

 

それ以上に

それは

本人の「生き方」の

問題だ。

 

環境によるストレスが

エンティティを発生させる

ことは

実は、想像以上に

少ない。

 

それよりも、

 

自分の真本音を

自分が無視する

 

ことによって

エンティティは大量発生

すると考えてよい。

 

真本音というのは

自分自身の魂の

意思であり、

 

自分の本当の本当の

想いなのだが、

 

にも関わらず

そこに全く目を向けず、

 

その真逆を生きている

という

私からすれば

信じられない人が

多いのが、

今の世の中の大問題だ。

 

「私からすれば

信じられない」と

書いてしまったが、

 

何を隠そう

 

昔の私もそうだった。

 

だから私は

エンティティの塊の

ようだった。

 

毎日が

苦しみの嵐だったなぁ。

 

しかし人間の

凄いところは、

 

苦しみが限界を

超えると、

 

「麻痺をさせる」

のだ。

 

苦しみが

消えていく。

 

しかしそれが

ずっと続くと

エンティティが完全に

3次元化して、

 

何らかの病気に

なる。

 

そんな人も

増えている。

 

昔の私も

それで体を壊した

こともある。

 

「自分の人生を

大切にする」。

 

・・・この当たり前の

言葉が浮かぶ。

 

人生を大切にする

とは、

 

「今は何の時間か?」

 

を大切にする

ということであり、

 

「今という時間と

今の自分の行為に

気持ちを込める」

 

というのが

基本だろう。

 

本当はこんなこと

したくないんだ、

という気持ちで

 

「ただ単に

時間をこなす」

 

という生き方を

すれば、

人生を大切にする

のとは

真逆のことになる。

 

こなす人生

 

ではなく、

 

気持ちを込める人生。

 

こなす時間

 

ではなく

 

気持ちを込める時間。

 

一つ一つの

行為に。

 

たったそれだけの

ことなんだけどねぇ。

 

つづく