チームパフォーマンスコーチ

嗜好

 

さて、

目の前に

 

一つの流れ

がある。

 

これに

乗るか?

乗らないか?

 

迷うところだ。

 

なぜ

迷うかと言えば、

 

どっちでも

良いからだ。

 

正しい

間違っている

という

判断がここには

ない。

 

あえて言えば

どっちを選択しても

正しい

のだ。

 

どっちを選択しても

道は開かれる。

 

こういう時は

いつも迷う。

 

もちろん

贅沢な迷いだ。

 

今、目の前にある

この流れは

かなり

静かな流れだ。

 

静かだが

エネルギーは

高い。

 

この流れに

揺られればきっと

楽しい旅に

なるだろう。

 

周りの景色を

存分に味わいながら

心地よく

風も感じながら。

 

だが、

 

そういう予測が

つく時は、

 

どっちかと言えば

私の好みは、

 

本当に

好みだけで

言えば、

 

ちぃと

物足りない。

 

私はどうしても

刺激を

求めてしまう。

 

それも

「想定外」

という刺激を。

 

何が起こるか

わからないという

ヒリヒリさ。

 

だからきっと

この流れには

乗らないのだろう。

 

我ながら

もっと穏やかに

進めば良いのに、

思うのだが。

 

これもまぁ、

生き方・行き方の

こだわりか。

 

もうちょい

激しい流れを

待ってみよう。

 

つづく

 

 

進退

 

風がビュンビュン

吹いてくる。

 

真正面から。

 

飛ばされそうだ。

 

少なくとも

前にまっすぐ

進むことはできない。

 

そんな時、

どうする?

 

どうするかは

人それぞれの

自由だが、

 

私の場合、

 

その

まっすぐ歩けない

という状態を

楽しむかな。

 

横に

曲がることは

しない。

 

斜めに

進むことも

しない。

 

あくまで

道を決めたら、

まっすぐに

進もうとする。

 

それで

進めないなら、

 

それでも

まっすぐ進もうとし、

結果的に

そこに止まっている

状態となる。

 

それでいい。

 

考える。

 

進めないなら

それでいい。

 

ただ、

進もうとする。

まっすぐ。

 

そういった

自分の生き方は

大事にする。

 

生き方を

疎かにすることは

しない。

 

あとは、

状況に任せる。

 

これをすると、

結果的には

「待っている」

のと同じ状態と

なる。

 

そしていつか

風が和らいだ

その瞬間に

 

一気に進む。

 

この生き方(行き方)、

正しいかどうかは

わからない。

 

皆さんに

お勧めするわけでも

ない。

 

ただ、

 

私は

そう進みたいのだ。

 

皆さんは

どう進みたい?

 

自分の進みたい

ように

素直に

進もうよ。

 

つづく

 

確乎

 

どれだけ

嵐に見舞われ、

自分を失い、

クタクタになっても

 

真の目的は

微動だに

しない。

 

それはまるで

北極星のように

いつも同じ場所で

 

すべての

中心で

 

煌めき続けて

いる。

 

真の目的は

失われない。

 

もし

失ってしまったと

思ってもそれは、

 

自分自身が

目を閉じている

だけのこと。

 

もしくは

まったく別の方角を

見つめている

だけのことだ。

 

真の目的は

ずっと

そこにある。

 

おかげさまで

今の私は

それを見失うことは

ほぼほぼないが、

 

以前は本当によく

見失った。

 

見失ったものを

改めて見つけるには

自分自身が

落ち着くしかない。

 

だから必死に

落ち着く術を

 

その力を

身につけた。

 

そういった

人生だった。

 

その

最も有効な術が

セルフコーチング

だった。

 

セルフコーチング

という表現を使えば

それはかなり

手法チックになるが、

 

要するにそれは

自分と向き合う

ということに他ならない。

 

いつ何時

どんな場合

どんな場面でも

 

ちゃんと自分と

向き合える

自分になる。

 

ここに尽きる

のだと思う。

 

逆に言えば、

それを身につけた

からこそ、

 

真の目的は

ずっとそこにある、

 

わかったのだとも

言える。

 

そして、

 

真の目的は

ずっとそこにある、

 

本当に理解した

ことによる

安堵感。

 

これは

並大抵では

ない。

 

だって、

そこにあるんだから。

 

自分が

どうなろうと。

どんな状態だろうと。

 

変わらずに。

 

その事実を

事実として

捉えられるように

なったからこそ、

 

より

落ち着けるように

なったんだな。

 

人間は

揺らぐものだ。

 

でも、

 

真の目的は

揺るがない。

 

というか、

揺らぐとか

揺るがないとか

そういった

次元にはない。

 

それは

最初からそこに

ある。

 

あり続ける。

 

そこに向かうのが

私達の

人生だ。

 

つづく

 

新軸

 

心の中を

まったくの無に

していると、

 

やがて

一つの光が

観えてくる。

 

無の中の

一点の光。

 

・・・というのは

実はこの言葉の

表現通りではない。

 

無とは

我々が「無」と

解釈しているだけの

ものだ。

 

「無」と感じるものは

実は

「有の極致」

と言ってもいい。

 

つまり

「すべてがある」

状態だ。

 

七色の光が

すべて揃うことで

無色透明となる

のと同じだ。

 

だから私の

やっていることは、

「すべてがある」

という心の状態に

して、

 

そこに一点の

光が現れる、

ということは

 

そこに

意識が焦点化する

ということに

他ならない。

 

そういった

本質を

ちゃんとわかった上で

改めて

上記の表現に戻りたい。

 

私は

心を無にすることで

一点の光を

見出した。

 

見出された光に

私は

意識を集中させる。

 

何の思考も

働かないままに

ただ

意識のみを

向け続ける。

 

それは

青い光に観えるが、

「青い」という

思考すらそこにはない。

 

ただじっと

見つめていると、

その光の周りを

さらに光の渦が

取り巻いているのが

観える。

 

形としては

銀河系のようだ。

 

渦は

真ん中に収束している

ように観えて、

実は

外へ外へと

発散し、

広がり続けている。

 

それを

遠くから眺めて

いると、

 

中心の青い光が

突如として

「中心軸」

となった。

光の槍のような

感じで。

 

それが私を

グサリと貫く。

 

そしてそれは

私の

新たな中心軸と

なった。

 

言いようのない

覚悟のようなものを

その中心軸からは

感じる。

 

その覚悟は

恐らく

時間を置かず

私自身のものと

なるのだろう。

 

多くの仲間の

姿が観える。

 

まだ知らない

これから出会うで

あろう仲間達。

 

この中心軸は

出会いを呼ぶのだな。

 

であれば

私は

中心軸そのものと

して、

 

今日から

生きよう。

 

つづく

 

遡行

 

左肩が痛い

からと言って、

左肩の治療を

すると、

それがまったくの

的外れだった

ということは多い。

 

痛みのある

場所に、

痛みの根源が

あるわけではない。

 

特に

心はそうだ。

 

表面的な

現象があり、

 

その現象により

心が痛んでも、

 

原因はまったく

別のところにある。

 

ということの方が

圧倒的に

多いだろう。

 

現象に

捕われ過ぎては

ならない。

 

現象は

大事だが、

 

現象は

引き金でしかない。

 

きっかけ

でしかない。

 

現象に対して

現象で

対策を打つ。

 

これも

時には大事だが、

それだけで

問題を解決した

つもりになるのは

逆に危険だ。

 

心が

痛む時、

 

この心の痛みは

どこから

来るのだろう?

私は素直に

実直に

自分自身に問いかける

ことにしている。

 

心を鎮めて、

痛みと

対坐する。

 

呼吸を

静かにして。

 

痛みそのものを

直に

感じるようにする。

 

すると突然に

まったく別の

痛みに襲われる。

 

すると、

その新たな痛みと

対坐する。

 

するとさらに

また

別の痛みが・・・。

 

これを繰り返す

うちに、

ついには

その根源に

たどり着く。

 

この根源は、

最初の痛みとは

まったくもって

関係のないことすら

ある。

 

表面的な

痛みでもって

根源的な痛みを

誤魔化している

わけだ。

 

人間の

やることは、

思っている以上に

奥深いのだ。

 

そういった

意味で、

 

痛みに鈍感で

あってはならない。

 

変な表現だが、

痛みの感受性を

高めた方が

良い。

 

心は

痛むように

できているのだから。

 

つづく

 

変貌

 

私は

どこにいるの

だろう?

 

よく思うことが

ある。

 

もちろん

「ここ」

にいるのだが。

 

「ここ」

を味わって

いるのだが。

 

でも、

どこか別の場所に

「ここ」

にいながらも

存在し、

 

その別の場所から

遠く離れて、

「ここ」

静かに眺め続けて

いる。

 

そんな感覚は

確かにあるのだ。

 

この感覚が

起こるとき、

 

決まって一つの

現象が

起こる。

 

何か、自分が

一つの

巨大な目

になったような

気分になるのだ。

 

そして

その巨大な目

私を動かすのだ。

 

巨大な目による

その私の行動は、

大概、

私の心を

逸脱したものと

なる。

 

しかし私は

それを

いとも簡単に

行ない、

しかもそれについて

何の抵抗もない。

 

しかも

大体それは、

私が一人でいる

ときではなく、

 

例えば

コーチングとか

研修とか

 

真正面から

人の目に

晒されているときに

多い。

 

まったくもって

意外な行動を

とる自分。

 

それを見つめる

他人の目。

 

意外な行動を

とっている私は、

私らしくないな

自分では思う。

 

でも

他者から見れば、

ひょっとすると

それこそが

「竹内さんらしいな」

なっている可能性は

充分にある。

 

人間とは

案外、こういうもの

かもしれない。

 

さて、

 

今こうやって

文章を書いている

私であるが、

 

珍しいことに

一人でいるのに

今は

その巨大な目のように

なっている。

 

巨大な目は

次のような

意思を私自身に

告げているようだ。

 

立ち位置の

変わった自分を

もうちょっと

ちゃんと

自覚せよ、

と。

 

立ち位置の変化に

ついては

ここ何週間かで

随分とその変化は

感じ続けてきた。

 

言ってみれば

私はもはや

「コーチ」では

ない。

立ち位置的には。

 

もちろん

「コーチ」はできる。

 

でも

以前は

「コーチとして

コーチをしてきた」

のだが、

 

今は

「コーチではないが、

コーチのできる自分が

コーチをしている」

状態だ。

立ち位置を変えた

ままで。

 

だからきっと

私の知らないところで

私自身の

コーチングそのものも

変貌しているのだろう。

 

その辺りを

もう少し自覚した方が

良さそうだ。

 

私にとっての

意外な行動が、

ここからはさらに

それが当たり前に

なってくる予感。

 

その変化は

意図しようとは

思わないが、

 

しかし

自然に変貌をする

自分を、

 

せっかくなので

この際、

楽しもうと思う。

 

つづく

 

知行

 

私達が

自分自身の殻を

大きく破るときは、

 

大抵、

 

その時の自分にとって

最も怖い存在と

向き合わなければ

ならなくなる。

 

現実の

レベルで。

 

それがちゃんと

できて初めて、

私達は

「殻を破った」

ということになる。

 

心の中だけの

成長では

殻は破れない。

 

現実においての

行動をして

初めて

殻は破れる。

 

最近、

若いクライアントさんが

増えたが、

 

彼らはこれを

躊躇なくやるのだ。

 

いや、

本当は躊躇している。

 

魂も心も体も

完全に

ブルっている。

 

怖い、と

素直に震える。

 

でもやる。

 

ちゃんと怖さを

自覚した上で

やる。

 

これは

称賛に値する。

 

私の若い頃は

逃げてばかり

だったもんなぁ。

 

今日のコーチングでも

すごいねぇ、

よくやるねぇ、

タメ息ばかり

ついていたよ。

 

言うは易し

行うは難し。

 

知行合一。

 

今でこそ

できるようになったが、

昔の私は

ボロボロだったよ。

 

自分の枠内の

怖いものには

立ち向かえるけど、

 

自分の枠外の

怖いもの、

 

本当に怖いもの

 

からは

逃げつつも

言い訳ばかり

していた。

 

私だけか?

 

みんな

そうだよな。

 

知行合一。

 

でもやはり

できるだけ

早いうちから

丁寧に潔く

生き始めれば

 

それに

越したことはない。

 

とは言え、

 

生き始めは

いつでもできる。

 

今日から

知行合一。

 

今から

知行合一。

 

それでも

いいじゃないか。

 

誠実に

潔く

生き始めよう。

 

つづく

 

観望

 

今の私が、

今ここで、

最も望んでいることは?

 

この問いを

自身に投げた時、

 

どのような

発想が浮かぶだろう。

 

どのような

キーワードが

浮かぶだろう。

 

「今」

というこの時間。

 

「今」

というこの場所。

 

ここに

本当に

意識を集中

させてみよう。

 

「今」

とは「無限」であり、

 

「今」

とは「永遠」である。

 

それを

感じ取れるくらいに

「今」に意識を

集中させてみよう。

 

その状態で、

上記の問いを

投げると、

 

さて

どんな言葉が

浮かぶかな。

 

つづく

 

一本

 

一本道は

大事だ。

 

私達は

一本道を

歩んでいる。

 

それは

自分自身との

約束として

始めから

存在している。

 

それは

真実ではあるが、

しかし

 

今、ここにある

一本道が

本当にその

約束の一本道なのか

どうか?

 

実は

誰にも

わからない。

 

いや、

 

本当は

わかっているが、

わからないように

している。

 

一本道は

続く。

それはまるで

トンネルの中の

一本道のように。

 

周りは

壁のみ。

 

薄暗い。

 

出口は

見えない。

 

ただ、

道だけが続く。

 

だから

これが自分の

一本道であると

 

思い込む。

 

しかし

本当に

そうだろうか?

 

私達の

約束の一本道とは

こんなにも

薄暗く

狭いものだろうか?

 

周りに

何も見えない、

そういった類の

ものだろうか?

 

さらに言えば、

 

本当に今、

私達は

トンネルの中に

いるのだろうか?

 

壁に

囲まれていると

思っているが、

本当にここに

壁があるのだろうか?

 

閉ざされて

いるのだろうか、

私達は?

 

一本しか

見えないこの道が

本当に私達の

一本道だろうか?

 

もしこの

疑念

生まれたら、

 

その

疑念

そのものを

大切に

すべきではないか。

 

私達は

閉ざされては

いない。

 

トンネルなどは

存在しない。

 

私達は

常に自由であり、

 

道は

何本も無数にあり、

 

いつ

どの道に入ることも

可能なのだ。

 

すべては

自由。

 

それが

本当に実感できた

その時にこそ、

 

私達は

自分が今、

約束の一本道に

立っていることを

 

知るんだ。

 

つづく

 

本意

 

行き先が

はっきりしていれば、

目の前の障害は

それほど

気にならなくなる。

 

行き先が

はっきりしていれば、

目の前に

障害があっても

揺れることはない。

 

行き先が

はっきりしていれば、

目の前の

この障害が、

本当に乗り越えるべき

ものなのかどうか、が

比較的簡単に

判断できる。

 

ところが、

 

その行き先が

わからない。

 

だから

目の前のことに

右往左往する。

 

なぜ

わからないか?

 

その原因は

いろいろ

考えられるが、

 

一つ明確な

原因がある。

 

行き先を

わかろうとすることに

真剣じゃない

からだ。

 

私は

どこに行けば

良いのか?

 

私は

何を目指すか?

 

あるいは、

 

私達は

どこに行けば

良いのか?

 

私達は

何を目指すか?

 

この問いと

真摯に

向き合い続けるか

どうか。

 

たとえ

行き先が

わからなくとも、

 

この問いと

真摯に向き合い続ける

人には、

 

何となくでも

観えてくる

ものだ。

 

今の方角で

良いか?

そして

この障害とは

本当に乗り越える

べきものかどうか?

が。

 

そして、

 

さらに大事

なのは、

 

行き先が

もうすでに私には

はっきりしている。

たとえ思えたとしても、

 

それでもなお

 

本当に

その行き先で良いか?

 

私が本当に

目指すのは何か?

 

という

問いを

忘れないことだ。

 

どこまでも

自分に

問い続ける。

 

それが

真に

行き先がわかっている

人の姿勢だ。

 

つづく

 

不憫

 

同情されることを

望む人は

あまりいないだろう。

 

かわいそうだ。

自分自身が言われる

ことを

望む人は

あまりいないだろう。

 

昔、私は

いろんな人に

同情ばかりしていた。

 

かわいそうだ、

その人のことを

思いながら、

 

自分にできることは

何だろう?

と、考え

結構、実行に移していた。

 

今、時々

その時代のことが

フラッシュバックする。

 

その度に

赤面する。

 

自分はなんと

傲慢であった

だろう、と。

 

そして、

なんと独りよがりで、

しかも

押し付けがましかった

だろう、と。

 

同情された人は

迷惑この上

なかっただろう。

 

なのに私は

まるで正義の味方

気取りだ。

 

今、その時代の

私が目の前にいたら、

頭を

叩いてやりたい。

 

ふざけるな、

と。

 

こんな感じで

またもや最近は、

過去の私が

フラッシュバックする。

 

昨晩などは

いくつかの過去の場面に

戻った夢まで観た。

 

そこには大抵、

今見れば大変に

恥ずかしい私が

いた。

 

自意識過剰。

 

それを

絵に描いたような

私。

 

まぁ確かに、

いろいろ痛い目に

遭わないと

修正できない性格

だったなぁと

思う。

 

しかし

じゃあ今の私の

性格が素晴らしいか?

と言うと、

これまた極めて

自信がない。

 

性格というのは

心の癖だ。

 

心の動かし方と

行動の現し方の

癖。

 

癖はなかなか

治らん。

 

真本音度合いが

高まるというのは、

癖が治る

ということとは

イコールではない。

 

癖が治る

というよりも、

選択肢が広がる

わけだ。

 

たった一つの

癖による

たった一つの

選択肢からは

自由になる。

 

そして、

癖がどうこう

ではなく、

自分の本当に望む

一歩一歩を

進むようになる。

 

それができたから

と言って

癖がなくなるわけでは

ない。

 

むしろ

多くの場合、

これまでの癖を

真本音は活用する

ことも多い。

 

すぐに同情する、

という

私の癖。

 

人を不憫に思う、

私の癖。

 

今の私の真本音は

それを上手く

使っているように

思う。

 

そういった意味で、

私はこれまで

自分の癖治しを

したわけではない。

 

つまり、

性格は

変えなくても良い。

 

それでも

真本音度合いは

高まり、

 

結果として

その性格から

自由になれるんだ。

 

つづく

 

感覚

 

例えば、

指を切って

血が流れたら、

痛いだろう。

 

健康であれば

体は痛むから、

 

痛まないように

体を大事にする。

 

心も同じだ。

 

心も痛む。

 

ところが

心の場合、

すぐに麻痺をする。

 

傷んでいることに

気づかなくなる。

 

それはとても

不健康なことだ。

 

時たまだけど、

 

竹内さんの

サポート受けたら

以前よりも

余計苦しくなった。

 

言われることが

ある。

 

そりゃそうさ。

 

麻痺を

取るからね。

 

心の麻痺を

起こしている人が

いれば、

 

まずは

麻痺を取っても

安全なところまで

回復させて、

 

その上で

今度は

麻痺を取ることを

大事にする。

 

そうしたら、

これまで気づかなった

心の痛みに

気づくようになる。

 

心に神経が

通った状態だ。

 

健康状態だ。

 

その痛みに

気づくからこそ、

 

あっ、

この生き方は

いけないな。

 

この行き方は

私にとっては

違うのだな。

 

・・・と

わかるんだ。

 

痛みというのは

合図だ。

 

そして

そういった感覚が

研ぎ澄まされて

くれば、

 

今度は、

 

あっ、あの人は

とても苦しんでるな。

 

この人はとても

幸せなんだな。

 

ということも

感覚でわかるように

なる。

 

あるクライアントさんは

ある時、

私にこう言われた。

 

世の中は

今、こんなに

苦しんでいるんですね。

 

こんなに

ひどいとは

思わなかった。

 

・・・と。

 

感覚によって

現実を知る。

 

現実を知ることで、

自分の道が

定まってくる。

 

そのクライアントさんは

一気にご自分の

道を決められた。

 

世の中での

自分の役割を

思い出すかのような

感覚で

決められた。

 

感覚を

取り戻そう。

 

もう

麻痺は終わりだ。

 

感覚を

取り戻すことで

 

すべて

観えてくるんだ。

 

つづく

 

確定

 

今回は、

一つ、問いを。

 

とてもシンプルな

問いだが、

 

今の私達に

とって

非常に大事な問い。

 

・・・

 

今、私が

本当に全力で

取り組むべきこと

は何だろう?

 

・・・

 

ここが

ズレではならない。

 

一点集中。

 

他はどうでもいい、

くらいの極端さで

 

今は

進むといい。

 

つづく

 

無稽

 

必死に

汗を垂らしながら

こちらに向かって来る

人がいる。

 

その人のことを

あえて

私は待たない。

 

冷たい野郎だと

思うかい?

 

それが愛だと

思うかい?

 

待ってくれ!

その人は

叫ぶことがある。

 

待たない。

 

決して。

 

待てば

すべてがそこから

乱れ始める。

 

最初は

少しのほつれかも

しれない。

 

しかしそれは

あらゆるところに

不必要な障害を

生む。

 

そして結局

その人の足を

さらに止めることになる。

 

それがわかって

いるのに

待っているなんて

私には到底

できない。

 

でもね。

 

そこで

待ってしまう人が

いるんだ。

 

多いんだ。

 

待ち過ぎだ。

 

人のことを

どうこう考える

前に、

自分をもっと

しっかり進めろよ、

叫びたくなる。

 

私は

待たない。

 

もう

待つゆとりも

時間も

ないのだ。

 

あなたも、

 

待つことよりも

することが

あるだろう。

 

あなたも、

 

もう時間が

ないはずだよ。

 

つづく

 

断絶

 

断絶が

ある。

 

断絶は

分離を生み出す。

 

分離は

多くの場合、

闘いを生む。

 

確執を

生む。

 

私達は

確執の歴史を

歩んできた。

 

それをもう

終えようと

志している人達は

随分増えた。

 

でもやはり

確執の時代は

続いている。

 

人間が人間で

ある以上、

それは変わらないのか?

 

という

問いの前に

今の私達はいる。

 

断絶を

観ている。

 

私は毎日、

断絶を

観ている。

 

一度、断絶を

した者達は、

 

その断絶を

守ろうとする。

 

それこそが

正義だと

信じている。

 

人は

断絶を守る。

 

ということは

確執を

守る。

 

断絶を

していないと

自分が自分では

なくなってしまうと

恐れるからだろう。

 

断絶とは

己を形づくる

なくてはならないもの

であると

多くの人は

信じている。

 

あなたと

私は

別の存在だ。

 

という認識すらも

一つの

断絶だ。

 

もしそれを

守らなければ、

この人間世界は

おかしくなるだろう。

 

人は

断絶。

 

人生は

断絶の道。

 

断絶の合間を

私達は

生きている。

 

その事実を

しっかり

見つめる目は

必要だろうよ。

 

その事実を

見つめること

なしに、

人と人のつながりを

語っているうちは

 

何も進まない

だろうよ。

 

つづく

 

運命

 

連鎖が

始まる。

 

連鎖とは、

多くの場合

一つの出会いから

始まる。

 

あなたが今、

本当に

出会いたい人は

誰?

 

それは

名前も顔も

知らない人かも

しれない。

 

でも

もう知っている

はずだ。

 

その人と

出会うことで

何を起こす?

 

その人と

出会うために

何をする?

 

運命は

自分で導く

ものだ。

 

つづく

 

孤独

 

あぁ、やっと

あなたのことが

ちょっとわかったよ。

 

あなたは

孤独であることを

選んでいたんだね。

 

いやこれは

真本音のレベルでの

話だ。

 

真本音で

孤独を

選んでいるんだね。

 

そうか、

だから皆が

あなたに関わろうと

すると、

 

あなたは

反発を起こしたのか。

 

なぜ、

これだけ器の大きな

あなたが

あんなにも

激しく憤るのかが

ずっと

不思議だったんだよ。

 

そうか、

あなたは

人と繋がることを

この人生では

選んでいないのか。

 

もちろん、

本当はずっと

繋がり合って

生きていることは

あなた自身が

誰よりもよく

わかっているね。

 

あなたのその

根底のあたたかさは

だから

いつもあなたと

共にある。

 

それを

わかっているから

こそ、

あなたは

一人で進もうとしている。

 

イメージで言えば、

垂直の岩の壁を

一人で登攀している

あなたの姿が

観えるよ。

 

その壁は

もうすぐ終わる。

 

もうすぐ

頂上だ。

 

そうか、

そこまであなたは

一人で。

 

孤独のままで

行きたかったのか。

 

これは

あなた自身が

あなたに与えた

罰なのか?

 

いや違うな。

 

これは

あなた自身が

あなたに与えた

悦びだ。

 

孤独であることの

悦びを

あなたは体験しようと

している。

 

それこそが

また

人間の悦びの

一つであることを

 

あなたは

自ら体験したかったん

だな。

 

そしてあなたは

多くの

孤独な人達を

サポートしようと

している。

 

残りの人生、

 

あなたは

それを

したかったのか。

 

つづく

 

青星

 

心は

宇宙のようだ。

 

無限に広がり、

まるで様々な星のように

様々な自分が

いる。

 

私の心の

端っこの方に

 

ほんの小さな

薄い光、

 

それは

小さな小さな

青い星のように

存在している

自分がいた。

 

小さな存在

なので

あまり気にせずには

いたのだが、

 

でも一方で

何となくいつも

時々

意識を向けざるを

得なかった、

 

そんな小さな

自分がいた。

 

その青い星は

私に語りかけることは

なかったのだが、

 

今日、初めて

何かメッセージの

ようなものが来た。

 

うららかな

日差しの中で、

透明な川が

流れている。

 

浅くて透明で

ゆっくり流れる

川。

 

その水に

浸かると、

とてもあたたかい。

 

私はその水に

潜ってみた。

 

透明なので

ずっと向こうまで

川の中が

見通せた。

 

ゆっくり流れる

その流れに

私は身を任せて

みた。

 

すると

私の周りに

いつの間にか

私と同じように

体を潜らせている

人達がいた。

 

彼らも

気持ちよさそうに

委ねている。

 

言葉を交わす

わけではないが、

でも私達は

何かを共に

確認し合っている。

 

あぁ

この人達は、

私の命を救ってくれた

人達か、

何となく直観した。

 

人には

無理するな、

と言いながら、

私自身はついつい

無理をし過ぎてしまう。

 

命を落としそうに

なるほど、

生命エネルギーを

使い切ってしまうことも

よくあることだ。

 

そんなことは

自慢にも何にも

ならず、

むしろ自分自身への

冒涜だ。

 

自分の命への

冒涜だ。

 

それをわかりながらも

ついつい

やり過ぎてしまう。

 

その反省を

私はしている

ところだったのだ。

 

そんな私に

彼らは

無言のメッセージを。

 

私と一緒に

委ねることで

無言のメッセージを。

 

川の流れの

ために

気づかなかったが、

どうも私は

大量の涙を

流しているらしい。

 

言葉にならない

メッセージと

言葉にならない

涙。

 

私はその

青い星から

出た。

 

青い星は

私の心の隅っこの

方で、

 

今もじっと

小さく

輝いている。

 

私を励ます

のでもなく、

 

私を叱る

のでもなく。

 

私はこれまで以上に

その星を

見つめながら

進もうと思う。

 

つづく

 

勇断

 

今、

大きな変化を

しようとしている。

 

これまで

本当に

大切にしてきたもので、

 

ここからは

もう

大切にする必要の

ないものは

何だろう?

 

これまで

必死になって

守ってきたもので、

 

ここからは

もう

守る必要のない

ものは

何だろう?

 

大切にしてきた

ものを

「もう大切じゃない!」

言い切るのは

とても勇気の要ることだ。

 

しかし

はっきりと

それを自覚し、

 

まるでこれまでの

自分を

全否定するかの

ように、

 

その気持ちを

自分の中から

追い出さねば

ならない時が

ある。

 

それが

今。

 

もう、

変わるんだ。

 

人生の

ステージが。

 

だから

勇気を持って

その気持ちを

捨てるんだ。

 

もうこれは

大切じゃない!

 

胸を張って

決めるんだ。

 

つづく

 

軽快

 

遊び心で

行かないと、

 

壁を突破できない

ときがある。

 

もちろん

遊び心で

行ってはならない

時もある。

 

同じ人でも

時期によって

心の在り方は

異なる。

 

今の自分は

どうか?

 

今の自分に

遊び心は

必要だろうか?

 

私はよく

自分にそう

問いかける。

 

大概、

8割くらいは

 

遊び心

絶対必要!

 

返ってくる。

 

そう。

 

私はちょっと

真面目過ぎる

のだ。

 

固く考え過ぎる

ところがある。

深刻過ぎる

のだ。

 

だから結構、

私にとって

遊び心

というのは

難しかった。

 

でもある時に、

遊び心は

開き直りだ、と

知った。

 

あくまで

私の場合だけどね。

 

どうとでもなれ

開き直って

軽く進んでみる。

 

お遊びのように、

悩まずに

進んでみる。

 

すると

ポンっと、

 

びっくりするくらいに

物事が

スムーズに運んだ。

 

最初は

まぐれだと思って

いたが、

 

何度か繰り返す

うちに

 

慣れた。

 

コツを

掴んだ。

 

今は、

遊び心はダメ。

 

でも今は、

遊び心で

行けばいい。

 

その判別が

つくようになった。

 

これは

理屈ではなく

嗅覚だ。

 

嗅覚だからこそ

遊び心だ。

 

賭けみたいな

もんだ。

 

そして

遊び心に

慣れてきたら、

 

知らぬ間に

覚悟が

できていた。

 

私として生きる

覚悟がね。

 

なんだ

こんなことなんだな、

思ったね。

 

皆さんは

どうかな?

 

つづく

 

二足

 

二つの方向に

進みたい自分が

いるのなら、

 

その両方が

どうてみても

自分にとって

本気であると

思えるなら、

 

二つとも

徹底的に

大切にしてみると

いい。

 

本来は、

道は一つに

決めた方がいい。

 

エネルギーを

一本に集約するのと

二本に分裂させるのでは、

 

それは

2分の1になるのでは

なく、

 

1/1000 くらいの

効果に

減退するのだ。

 

それをわかっていて

それでも二つを

大切にしたいなら

 

徹底的に

二つ共を

大切にするといい。

 

徹底的に。

 

それをして

初めて

観えてくるはずだ。

 

実はそれは

二つだと

思っていただけで

 

一本道だった

と。

 

しかし

そこにたどり着く

までは

 

生半可では

ない

ということは

言っておくよ。

 

一本道を

行くよりも、

難易度も数十倍だ。

 

それを

わかった上で

それでも

覚悟あるなら、

 

それは

自分の選択だ、

 

徹底的に

二つ共

大切にしよう。

 

つづく

 

使命

 

私のままで

いいじゃないか。

 

このまんまで

いいじゃないか。

 

・・・本当に

そう思えるまで

とことん

私として

生きてごらんよ。

 

徹底的に

として。

 

もしそれが

できたら、

 

次に

こう思えるんだ、

実に自然にね。

 

今の私じゃ

ダメだ。

 

・・・と。

 

このままじゃ

ダメだ。

 

・・・と。

 

この状態での

この想いは

次の想いと

完全に一致する。

 

今の世界じゃ

ダメだ。

 

このままの世界じゃ

ダメだ。

 

・・・とね。

 

そこで初めて

わかるんだ。

 

私は

何のために

生まれてきたか?

 

何を

成し遂げるのが

私の人生か?

 

・・・がね。

 

この順番。

 

この順番でしか

見つからないんだよ。

 

つづく

 

無益

 

とてつもない

敵と

ずっと戦い続けている

人がいる。

 

とても

かなわない敵。

 

それでも

一人で

戦い続ける。

 

戦略がある

わけではない。

 

結局

いつも同じ戦い方

になる。

 

そして

結局

いつも同じ

負け方となる。

 

戦いに敗れて

傷ついて

しかし時間が経てば

だんだん

体力は戻る。

 

体力が戻ったら

また

その同じ敵と

戦う。

 

でも

何も改善されてない

ため、

また負けるのだ。

 

心の中の

話だ。

 

自分の心の中の

敵。

 

自分が作り出した

敵。

 

それと戦い続け、

負け続け、

 

エネルギーを

消費し続ける。

 

人生の

 

生きるという

意味の

 

エネルギーの

ほとんどを

 

そこで

使っている。

 

その状態で、

様々な現実に

向かって行く。

 

だから

実際の

現実における

出来事にも

 

まともに

対応できない。

 

もともと

弱っているから、

対応できる

はずがない。

 

「人生は戦いだ」

その人は言う。

 

いやいやいや。

 

そうやっている

のは

あなたの勝手でしょ。

 

勝手に敵を

つくり、

勝手に疲れる。

 

そうして

つまづいて

ばかりいるのは

あなたが

勝手にやっている

ことだ。

 

自己満足

 

という言葉が

どうしても

浮かんでしまう。

 

今日も

また

戦うの?

 

幻影の

敵と?

 

幻と共に

疲れ果てるの?

 

幻によって

傷つくの?

 

もういい加減、

その

お遊び

から

 

脱け出さないか?

 

つづく

 

出口

 

出口が

見えたとき、

 

凄まじい加速が

始まる。

 

これまで

経験したことの

ない

 

加速。

 

だからここで

多くの人が

逃げる。

 

何とか

踏ん張り、

 

その加速

自分自身

 

一致させた者

だけが

出口にたどり着く。

 

そして

次の世界に

解放される。

 

自己開放

 

が起こる。

 

そう。

 

出口の手前

までは

誰でも

到達できるんだ。

 

しかし

出口を脱ける

のは

容易ではない。

 

どれだけ

口で

意気込んでも、

 

どれだけ

気合を入れても、

 

その加速の

前で

皆、尻込みする。

 

しかもそこは

他者による

サポートは

一切意味を成さない。

 

孤独で

あるし、

 

不安の

権化となる。

 

その状態での

加速。

 

それでも

あなたは

出口に向かうか?

 

つづく

 

道標

 

真一文字に

上昇する

鳥のように

飛んでゆく。

 

目は

たった一点を

見つめている。

そこから

離れない。

 

むやみに

翼は

動かさない。

ただ

大きく広げ、

風に乗っている。

 

あの一点さえ

見つめ続ければ

いい。

 

目を離さなければ

いい。

 

しかしその一点は

すぐに近づく

わけではない。

 

どれだけ

進んでも、

それは同じように

遠い。

 

ずっと

遥かなる一点だ。

 

あそこに

たどり着けるか

どうかは

わからない。

 

むしろ

その実感も気配も

ない。

 

このまま

飛び続けることが

私にとって

正しいのかどうか?

 

それすらも

わからない。

でも

私は飛ぶ。

 

身の程知らず

だろう、

きっと。

 

後先を考えても

いない。

 

無謀か?

 

でも

そう問うと、

とてもそうは

思えない。

 

根拠のない

この確信。

 

あの一点には

私しか

辿り着けないだろう

という

理由のない確信。

 

それに

委ねてしまう

この馬鹿さ加減。

 

それらは

ちゃんと

自覚している。

その上で、

飛んでいる。

 

私の他は

誰もいない。

 

孤独だろうか?

 

これも

違う、と

わかる。

 

私以外

誰もいないのに

孤独ではない。

 

なぜ

飛ぶか?

 

わからない。

 

なぜ

目指すか?

 

わからない。

 

なぜ

やめないか?

 

わからない。

 

ただ、

これが私である、

とは

わかるのだ。

 

つづく

 

限界

 

自分の限界を

超える

スピードが出た時、

 

私達は

目がくらむ。

 

何も見えなく

なる。

 

見る余裕が

なくなる。

 

現実が

わからなくなる。

 

だから本当は

限界を超えるスピードで

進むことは

無茶であり

やめた方がいい。

 

本当は。

 

でも

それをよく

わかっていて、

 

しかしそれでも

あえて

限界を超えたまま

進もうとする人がいる。

 

実は

私もよくやる。

 

これはあまり

お勧めできないこと

なのだが、

どうしてもそれを

やりたいという人を

 

止める術は

ない。

 

だから一つだけ

アドバイスを。

 

どうせ限界を

超えるのであれば、

 

とことん

委ねてしまえ。

 

何という

無茶なアドバイス、

言えなくもないが、

 

しかしそれが

一番良い。

 

限界を超えて

何も観えなくなると

途端に恐怖が来る。

 

恐怖が来れば

身がすくむ。

そして

変なブレーキが

かかってしまう。

 

それが一番

怖い。

 

限界を超える

とは

まさしく限界を

超えることなので、

 

私達自身にはもう

コントロールは

不可能だ。

 

であればもう、

すべてをその流れに

委ねるのだ。

 

諦めるのだ。

 

どうとでもなれ、

と。

 

開き直りだ。

 

これしかない。

 

これしかなくなるのが

限界を超える

ということだ。

 

だから

興味本位で

やらないこと。

 

しかし、

 

やる以上は

完全に

 

委ねてしまえ。

 

つづく

 

過去

 

皆さんの場合、

過去を振り返る

ということが

普段はあるだろうか?

 

私は過去など

振り返らない。

未来のみ見つめる。

 

という

人もいるが、

 

過去の振り返りは

想定外の気づきを

私達にもたらしてくれる

ことがある。

 

私はいつも

「私の人生」

というものを

過去・今・未来を

一直線に結んで、

 

その全体像を

客観的に眺める

ということを

 

ほぼ毎日のように

行なっている。

 

実は意識的に

そうしているわけでは

なく、

ふと、無意識に

それをしてしまうので

あるが。

 

そうして

人生の全体像を

眺めていると、

自然に過去のある場面に

引きつけられる

ことがある。

 

すると私の意識は

その場面へと

飛ぶ。

 

その場面に完全に

入り込む。

 

そして

そこでもう一度、

過去のその体験を

やり直すのだ。

 

もちろん

事実を捻じ曲げる

ことはしない。

 

実際の過去の

その出来事を

そのままに

もう一度、体験する。

 

しかし

今の私がそれを

すると、

その出来事の景色が

その当時とは

まったく別物に変わる

ということは

本当に多い。

 

そしてそれにより

その出来事からの

気づきが来る。

 

その気づきが

今の私への指針に

なるのだ。

 

私達は

体験の中で

生きている。

 

人生とは

体験だ。

 

しかしその体験は

一度の体験で

済ましてしまうには

惜しすぎる。

 

体験は

何度でもし直せる。

 

それにより

人生をより豊かに

進めることは

可能だ。

 

無理に過去を

振り返る必要は

ないが、

 

人生を客観的に

眺めつつ、

自然な振り返りは

強くお勧めする。

 

つづく

 

状況

 

物事の状況

というのは

もちろん、

自分にとって

都合の良いこと

ばかりではない。

 

なぜ

こんなことに

なってしまったんだ、

悔やむことも

多いだろう。

 

状況に焦る

気持ちは

そのままに。

 

心は

そのままに。

あるがままに。

 

ただ、

 

今のこの状況

だからこそ

できる発想が

ある。

 

この状況だからこそ

気づくことが

ある。

 

この状況だからこそ

とれる行動が

ある。

 

今の状況が

自分にとって

プラスかマイナスか、

という

視点から離れ、

 

どのような状況も

今ここでしかないのだ、

という

事実は誠実に

受け止めよう。

 

今ここ

でしかできない

ことをする。

 

どれだけ心が

荒れていても

そこに真摯で

あり続けよう。

 

それが

私達にできる

最善のこと。

 

つづく

 

心身

 

どれだけ

自分のエネルギーが

高まっても、

 

実際に

現実のレベルで

出せるエネルギー量には

限界がある。

 

限界以上の

エネルギーをもし

出し続けると、

 

体が

壊れてしまう。

 

時には

心も壊れてしまう。

 

せっかく

エネルギーが

高まったのに、

それによって

心身が壊れてしまうのは

あまりにも悲しい。

 

エネルギーが

高まった人ほど、

エネルギーコントロールが

必須だ。

 

エネルギーコントロール

とは、

自己マネジメント

そのものだ。

 

つまり、

 

「今、私は

何にこそ自分の力を

注ぐべきか?」

 

絞り込むことだ。

 

これは

 

「今の私の取り組む

課題は?」

 

イコールだ。

 

エネルギーとは

発散・拡散

させ続けるのではなく、

 

集約・集中

させるものだ。

 

一点集中

と言ってもいい。

 

その

「一点」を

的確に決めることこそ

自己マネジメントの

真髄だ。

 

もっと

大袈裟に言えば、

 

無駄なことは

一切しない。

 

無駄なエネルギーは

一切かけない。

 

あらゆる無駄を

削ぎ落とす。

 

ということだ。

 

日々を

シェイプアップ

する。

 

時間の使い方、

エネルギーの使い方を

シェイプアップする。

 

エネルギーが

高まった人ほど、

その意識を

高めること。

 

エネルギーの

高まりによって

自己を過信

してはならない。

 

エネルギーが

高まったからこそ

よくわかるだろう。

 

心も体も

そんなに強いもの

ではないのだ、と。

 

つづく

 

惰性

 

このまま進むと

私の未来は

どこに行き着くか?

 

この問いと

真剣に向き合う

ことは

かなりの恐怖かも

しれないな。

 

今だって

一生懸命

やっているさ。

 

でも

これまでと

変わらぬ

一生懸命さで

 

これまでと

変わらぬ

進み方をする

のは

 

単なる

惰性なんだよ。

 

どれだけ

一生懸命でも。

 

これまでの

延長線上は、

すべて

惰性。

 

惰性の先に

あるものを

イメージするのは

怖い。

 

なぜなら

惰性であると

自分自身が

よくわかっているから。

 

自分の範疇を

超えない

成長。

 

これも

惰性だ。

 

そういう人も

未来をイメージする

のは

怖がるはずだ。

 

未来は

怖い。

 

なぜなら

惰性の生き方を

しているから。

 

惰性の何が

悪い!

 

という声も

ありそうだが、

 

良い悪いの

問題ではない。

 

私達人間は、

惰性の生き方が

怖いのだ。

 

いや、もうちょっと

正確に言えば、

 

惰性の生き方を

続けるうちに

不安は日々、

積もり続けるのだ。

 

怖いから

自分を失う。

 

自分を失うから

自分以外の

何かのせいにする。

 

環境のせいにする。

 

状況のせいにする。

 

どれだけ

何かのせいにしても

ますます

不安は増すばかり。

 

惰性で生きている

自分に、

 

その生き方に

 

妥協はしない

方がいい。

 

惰性に

安定はない。

 

惰性に

安心はない。

 

早くその事実を

受け止めよう。

 

惰性で

進むのではない。

 

願いの方向に

進むんだ。

 

つづく