チームパフォーマンスコーチ

驚愕

 

まるで

ビッグバンが

6回、立て続けに

起きたようだ。

 

そんな

衝撃がある

ということはきっと、

 

何かとんでもない

ものが

生まれたのだろう。

 

私の記憶に

ある中では

きっと

最大級の誕生

なのだと思う。

 

いったい

どこで何が起こるか、

やはり

わからんねぇ、

この世の中は。

 

予測をする

ということの

無意味さを

この10年くらいで

嫌というほど

味わったのだけど、

 

今回のもまた

その一つに

数えられるのかな。

 

とはいえ、

私の中の奥の奥の

私は、

知っていたのかな、

今回も。

 

まぁ

そんなことは

どっちでもいいけど。

 

とにかく、

悪いことでは

ない。

 

何かが

激変するのだろう。

多分、

良い方向にね。

 

それが

実在のレベル

でなのか、

ダイレクトに

現象化するのか、

 

今のところ

それも

わからないが、

 

この

理由のわからない

確信と

わくわくは

 

只者ではない

ことは

わかるよ。

 

私個人の

話じゃないよ。

 

世の中の

ことだ。

 

皆さんも

何か

感じてないかい?

 

つづく

 

普通

 

我々人間には、

どうしても

やり遂げたいことが

あるものだ。

 

それに

つながるヒント

とか、

 

それに

つながる何物か

に出会えば、

 

目の色が

変わる。

 

まるで

自分の命など

捨ててやる!

くらいの勢いで

 

まっしぐらに

動き始める。

 

本人は

意識していなくても

 

ある種、

 

側から見れば、

 

狂人に

映るくらいに。

 

その姿を

ちょっと茶化せば、

 

変態だな、

 

となる。

 

そういった

狂人性

変態性

実は誰にでも

ある。

 

「そこ」に

触れる何物かと

出会うかどうか、

だけだ。

 

真本音度合いが

高まる

ということは、

 

その出会い

への確率が

高まるという

ことでもある。

 

だから、

 

全員という

わけではないが、

 

多くの人達が

狂人的

変態的に

なる。

 

ただ、

 

そう映るのは

あくまでも

側から見ている

人達から

であって、

 

本人は

至って

普通だ。

 

ただ

淡々と進んでいる。

しかし

妙に楽しい。

 

この内側から

湧き出で続ける

エネルギーは

なんだ?

ちょっとびっくり

しながら。

 

そして、

 

変態は

変態を

呼ぶ。

 

そして、

 

いつの間にか

それもまた

普通に

なるのだが。

 

改めて

ちょっと

冷静に客観的に

観てみるといい。

 

自分は

変態だろ。笑

 

それをまた

楽しんでいるだろ。

 

その楽しみを

世の中に

広げたいと

思っているだろ。

 

ぜひ

広げて

ほしいものだね。

 

どうも、

 

我々人間は

変わろうと

している。

 

年々、

その実感は

強くなってる。

 

要するに

変態が

増えている。

 

変態が

普通になる。

 

狂人が

普通になる。

 

人間が

狂人となり、

 

強靭となる。

 

つづく

 

狼狽

 

じっと見つめる

先に、

 

小さな

私がいる。

 

私に背を向けて

何か

必死に

もがいている。

 

セコセコ

と。

 

何をそんなに

焦って

セコセコと

やってるんだろうな、

思いながらも、

 

私は

何もしない。

何も

言わない。

 

汗が

見える。

 

焦りの汗。

 

小っぽけな

存在になると、

こんなにも

見えなくなるものか、

 

こんなにも

わからなくなる

ものか、

むしろ、驚く。

 

今は焦る必要

などなく、

すべては

順調なのに。

この上なく。

 

その順調さを

彼は、

あの小さな私は

知らないのか。

 

どこかで

本当は

知っているはずだが、

 

知らない自分に

焦点を当てて

いるのか。

 

焦る必要は

ないのに。

 

焦りながら

キョロキョロする

小さな私。

 

キョロキョロ

しても

もちろんそこに

答えはない。

 

答えは

自分自身が

決めればいい。

 

決めた

その答えこそが

答えなのに、

 

なぜか

決める前に

キョロキョロする。

 

そこにそんなに

時間をかける

必要はないのに。

 

あんまりそこで

止まっていると

後で大変に

なるぞ、と。

 

そんなメッセージ

のようなものを

私は目線でもって

彼に、

あの小さな私に

送る。

 

すると

ビクッと一瞬

体を震わせた後、

 

ちょっと

落ち着いて、

 

我に返ったように

鎮まった。

 

そして

静かに一歩を

出した。

 

小さな私の

小さな一歩。

 

やれやれ。

 

でもその一歩の

蓄積こそが

大事なんだ。

 

本当は

わかっている

くせに。

 

存在が

小さくなると

意志も小さく

なるものなのか?

 

やれやれ。

 

自分は

何者か?

 

何を為すために

そこにいるのか?

 

どうして

わざわざその

小ささとなったのか?

 

すべて

知っているだろ。

 

小さくなると

忘れてしまうのか?

 

それほど

そこは

不安定な場所なのか?

 

私が君と

小っぽけな自分と

交代すれば、

私も同じように

なってしまうのか?

 

やれやれ。

 

でも今はまだ

代われない。

 

もうちょっと

彼には

頑張ってもらわねば。

 

つづく

 

一星

 

一つの発想が

言葉になるまでには

時間がかかる。

 

通常は、

言葉になった上で

浮かんでくるのが

発想であるが、

 

セルフコーチングの

力をつけることで、

 

言葉になる前の

発想

 

に気づくことが

可能になる。

 

私の場合、

それは

まるで一つの星

のように観える。

 

心の中、

もしくは

自分の身の周りに

星が

フッと現れる。

 

それは

すぐ近くに

現れることもあれば、

無限に近く

遠くに現れる

(という印象を持つ)

こともある。

 

星に気づくと

意識をそちらに

向け続ける。

 

その時、

思考の類は

いっさい手放す。

 

空白の心

の状態。

 

ただ、

その一点の星

のみを見つめ

続ける。

 

すると

またフッと

思い出すような

感覚で、

 

発想が

言語化もしくは

映像化

される。

 

「自分の中の

星を観る」

 

・・・という

これも一種の

セルフコーチング法なのだと

思うが、

最近はずっと

これが続いている。

 

これまでも

そうであったように、

私にできる

ということは、

他の皆さんにも

できることではないか。

 

一度、

試してみてください。

 

つづく

 

永劫

 

ボロッボロに

疲弊している

時にこそ、

 

自分の中の

揺るがぬものを

感じることが

できるのは、

 

皮肉のような

話だが、

これが人間という

ものなのだろう。

 

エネルギーが

枯渇しても、

 

それでもなお

光り続ける

その存在は

 

ある種の

安心と共に、

畏れをも

感じさせる。

 

この光と

共に

いつも私は

あるのだな、

 

と思うが

一方で、

 

この光こそが

私そのもの

なのか、

とも。

 

いずれに

しても、

それは

まったく

揺るがない。

 

揺らぎようが

ない。

 

五感を

通さずに感じる

光。

 

現象として

でなく、

 

実在の光。

 

すべての人に

存在している

のだろう

とも

わかる。

 

あなたもそれを

感じてみると

いい。

 

つづく

 

集中

 

今回は

今の私達にとって

とても大事な

問いを。

 

・・・

 

今、あなたが

最も集中したいことは?

 

そのための時間を

どのように創り出す?

 

・・・

 

今、

本当に集中したいこと

本当に集中しよう。

 

今の私達にとって

とても大事な

ことだ。

 

何としてでも

そのための時間を

創り出そう。

 

つづく

 

怒火

 

怒りを

消してしまおうと

する人は多いが、

 

怒りは

消してしまっては

ならない。

 

特に

真本音度合いが

高まった上での

怒りは、

 

私は

「真本音の怒り」

呼んでいるが、

 

それ自体が

非常に価値ある

ものだ。

 

自分自身の

真本音が

「怒り」という現象でもって

自分自身に

メッセージを送っている

わけだ。

 

怒りに素直に

なり、

怒りを開放する

ことで、

 

自分の

人生の道を

見出すことさえある。

 

私は

今、

何に怒っているか?

 

本当は

どの部分に最も

大きな怒りを

感じているか?

 

しっかりと特定

するといい。

 

その怒りの

根源にこそ、

自分自身の

「すべきこと」

見え隠れする。

 

真本音の怒り

は、

そうして

自分自身が

自分自身のすべきこと

を見出し、

きちんと実行に

移すまで

ずっと続く。

 

単なる

反応本音の怒り

とは

本質的に異なるものだ。

 

やはりそれは

メッセージであり

合図である。

 

思えば、

私が今の仕事に

出会い、

今の仕事に

人生をかけようと

決めたのも、

 

その大元には

激しい怒りが

あったようにも

思う。

 

その怒りは、

この仕事に就いて

四半世紀以上も

経つのに、

 

まだ

なくなっていない。

 

私が

本当に自分の

すべきことを

果たし終えるまで、

 

きっとそれは

なくならない

のだろう。

 

もちろん

今の仕事には

大いなる悦びも

多い。

 

しかし一方で

感じ続ける

怒り。

 

悦びと怒り、

の中で

道が観える。

 

これが

人間か。

 

怒りは

ちゃんと見つめれば、

真本音の怒りか

反応本音の怒りか

判別がつく。

 

もし

真本音の怒りで

あれば、

 

それを

自分自身の

指針とせよ。

 

つづく

 

断切

 

あなたの「過去」は

今のあなたに

とって、

 

何者ですか?

 

私達は

「過去」と地続きで

ここにいる。

 

しかし

実在のレベルでは

一刻一刻の時間は

 

この3次元では

 

分離している。

 

地続きのようで

地続きではない。

 

「過去」は

自分自身を

引きずるが、

 

実は

引きずられなきゃ

いけない義理は

まったくもって

ないのだ。

 

「過去」を

あえて

自分から

分離させてしまっても

いい。

 

だって、

すでに分離

しているのだから。

 

極端な

話かい?

 

でもね、

 

今はこれが

あなたにとって

最も必要なこと

ではないか。

 

これまで

散々、

その「過去」とは

向き合って

きたではないか。

 

何度も

引きずられ、

 

引きずられ、

 

何度も

すでにもう

解消されたはずの

痛みを

 

味わい続けて

きたではないか。

 

だから

もういいだろう。

 

そろそろ

分離をしても。

 

むしろもう、

「過去」に

お付き合いしている

時間はない。

 

「未来」に

活かすための

「過去」であるなら、

 

もうきちんと

あなた自身から

「分離」させるといい。

 

その「過去」は

「あなた」

ではないのだから。

 

「あなた」は

今ここにいる

あなただ。

 

「あなた」は

今ここにしか

いないのだ。

 

これから

今、

何をするか?

は、

 

今の「あなた」が

決めればいい。

 

「過去」は

もはや

完全なる

無関係だ。

 

今のあなたは

どうするんだ?

 

今、

何をしたいんだ?

 

つづく

 

楽観

 

私達は

生身の人間なので、

その都度

その都度

気が変わるのは

当たり前ではないか。

 

この

気を移り変わり

楽しまず

どうするの?

 

気が変わる

私はダメだ。

ではなく、

 

それよりも

なぜ気が変わったのか?

じっくり観察する方が

余程、実りがある。

 

人間の本質は

進化

なので、

 

変化は

当たり前だ。

 

変化する自分、

状況により

気持ちの変わる自分、

探究することが、

 

真に

変化せず

揺るがず

ずっと在り続けるもの

存在を逆に

際立たせるんだ。

 

変化を

楽しむからこそ、

 

不変のものが

わかる。

 

不変のものが

理解できるほどに

 

より

変化を

楽しめる。

 

これは

二面性

というよりも、

 

こういった

在り方そのものが

真理

というものでは

ないか。

 

解釈・評価

よりも

 

まずは

観察だ。

 

私達に

まだまだ

足りないものは。

 

つづく

 

在命

 

これは

皆さんにお勧め

するわけではなく、

 

あくまでも

私個人の考え方

であるが、

 

私は

与えられたものは

すべて

 

命である

 

捉えるように

している。

 

目の前の

物。

 

与えられた

考え方。

 

与えられた

経験。

 

与えられた

課題。

 

与えられた

夢。

 

・・・

 

もちろん

夢とか自分の

想いとかは、

自分の中から

湧いてくるものだが、

 

それについても

 

自分が

自分に与えた、

 

という捉え方を

私はする。

 

すべてを

命であると捉え、

 

命として

大切にしようと

する。

 

だからこそ、

逆に

捨てる

こともある。

 

大切にしようと

するが故に

捨てる

のだ。

 

もそうだな。

 

時間も

与えられた命だ。

 

だから

とてつもなく

大切にする。

 

大切にするが

故に、

 

今は

ダラダラ過ごそう

決めることもできる。

 

無為な時間を

過ごそう

真面目に決めて、

ダラダラする。

 

命だからだ。

 

私の長男は

もう8歳になったが、

 

先日、

強く叱った。

 

物を雑に

取り扱ったからだ。

 

私は基本的に

私の生き方は

他者に押し付けることは

しないが、

 

しかし

きっと長男もそれを

望んでいたのだろう。

 

「すべてのものを

命だと思え!」

 

叱っていた。

 

それが

この世で生きる

覚悟であると

思うのだ。

 

固い話

ではない。

 

むしろ

固いか柔らかいか、

表現すれば、

これは

柔らかい話だ。

 

なぜなら

やはり私には

すべてが

命に観える。

 

私にはそれが

真実に

観える。

 

だから

それをそのまま

受け入れている

だけだ。

 

すべてが

命だと思ったら、

 

フッと

 

すべてが

軽くなったんだな。

 

そして

軽くなった心の

ままに、

 

一つ一つを

丁寧に生きる。

自然に

それができる自分に

なれて、

 

我ながら

ちょっと自分を

好きになれた。

 

自分も

命なんだな、

思えたんだ。

 

つづく

 

固形

 

心の中の

この暗黒のような

モヤモヤは

何だ?

 

それほど

大きなものでは

ないが、

 

濃い。

 

実に濃い。

 

まるで

固形物のようだ。

ブニョブニョ

している。

 

できれば

触りたくない。

 

しかし

こういったものほど

放っておいては

ならない。

 

しっかり

意識を向ける。

 

それどころか

場合によっては

一体化せねば

ならない。

 

私自身が

ブニョブニョに

なる。

 

勘弁して

ほしい。

 

でもやる。

 

おかげさまで

私自身が

このようなブニョブニョを

発生させることは

もうないので、

 

きっと

誰かから

もらったやつだろう。

 

一体化すれば

もともとの

持ち主が

ほぼわかる。

 

このブニョブニョは

深い悲しみ

だな。

 

これは

キツイな。

 

あの人は

こんなものを

抱えながら

生きてきたのか。

 

よく

体がもった

ものだ。

 

しかしこれが

こちらに

移ってきたということは

一つの開放だ。

 

きっとその人は

まもなく

その悲しみを

乗り越えるのだろう。

 

それはそれで

喜ばしいことだが、

 

このブニョブニョ、

どうしようか。

 

誰か

もらってくれる人

いないか?

 

いない

よな。

 

仕方ないから

しっかり成仏

するまで

向き合うとするか。

 

おい、

 

なんで

こんなにも

濃くなった?

 

お前自身も

気持ち悪い

だろう。

 

もう

やめようぜ。

 

本来の姿に

戻ろうじゃ

ないか。

 

つづく

 

冷徹

 

昔の出来事が

フラッシュバック

するとき、

 

よく私は

その時の自分自身

となる。

 

心も体も

その時に戻る

感覚だ。

 

と同時に

今の目線から

その自分を冷静に

 

時には

冷徹に

 

見つめる

自分もいる。

 

それはやはり

過去を振り返る

という状態

だからからだろう

思っていのだが、

 

どうやら

違う気がする。

 

つまり、

 

その出来事の

起きた

その時その瞬間も

 

まさしく

今と同じ

状態ではなかったか。

 

つまり、

 

このように

冷静に

 

時には

冷徹に

 

自分を見つめる

自分が

そこにいた

のではなかったか。

 

だから

初めから

わかっていたのだ。

 

自分の

愚かさを。

 

そっちでは

ないよ、

と。

 

そうでは

ないよ、

と。

 

何をやってるんだ

俺は、

と。

 

その客観性が

あることを

ちゃんと

自覚してたらなぁ、

思うのだが、

 

しかしやはり

そこは人間。

 

そうそう上手く

行くようであれば、

 

むしろ

 

人生など

必要ない。

 

未来の私は

常にいる。

 

今の

ここに。

 

今まさに

今の今にも

いるだろう。

 

じっと

私を

見つめている。

 

冷静に

冷徹に。

 

過去の

目もある。

 

過去の私も

今の私を

見つめている。

 

見つめ

続けている。

 

過去と

今と

未来の自分

コラボ。

 

これが

人生の

本質だろうよ。

 

ただ、

 

それをわかりながらも

私は

今に生きる。

 

じっと

見られている

感覚は

今はよくわかる。

 

でもあえて、

 

それを

無視してでも

 

今の自分として

今に

いたい。

 

たとえ

愚かでも。

 

それも

人生の

本質だろうよ。

 

つづく

 

再興

 

情け容赦のない

体験が

ある。

 

落ちるところ

まで、

心が落ちる。

 

心には

底がある。

 

永遠に

落ちることは

ない。

 

底に着けば、

まるで

死んだように

横たわる。

 

目を閉じ、

無を

感じる。

 

いっそのこと

このまま

ずっと

無でいられれば、

なんと

幸せなことか。

 

しかし

残念ながら、

底にはそう長くは

いられない。

 

また

浮上が始まる

のだ。

 

これが

人間の

最も辛いところだ。

 

情け容赦が

ない。

 

何度も

落ちる。

 

落ちては

また

浮上する。

 

その繰り返し。

 

いつまで

続くのか・・・。

 

目を開けた

とき、

 

自分が完全に

浮上しきった

ことを知った。

 

終わったのか?

 

いや、

でもまたいつ

繰り返すか

わからない。

 

その不安は

拭えないが、

しかしそれでも

今は

 

浮上

しきった

ようだ。

 

上体を起こす。

 

立ってみる。

 

シャキッと

立てる

のが

また悲し。

 

歩いてみる。

 

なんという

すがすがしさ。

 

あれだけの

目に

遭ったのに。

 

なぜこのように

復活できて

しまうのか。

 

前を向けば

希望さえ

観える。

 

そして

今、

 

私は確かに

思い出している。

 

これまで

決して

思い出さなかった

ことを。

 

永遠に

思い出すことは

ないと

とうに諦めていた

ことを。

 

それを

思い出せば、

 

体は勝手に

動いてしまう

ではないか。

 

走り出して

しまうではないか。

 

この

エネルギーは

いったいどこから?

 

なぜ

湧いてくる?

 

私は

落ちた人間だ。

 

落ち尽くした

人間だ。

 

だからこそ、

なのか?

 

つづく

 

満足

 

自分の中に

満ちたもの

あるだろう?

 

すでに

満ちたものが。

 

何が

満ちた?

 

充分に

満ちたからこそ

もう

手放せるのか。

 

もう

離れるのか。

 

これまでは

満ちるために

頑張ってきた。

 

足りないから

その枯渇感が

エネルギーのもと

だった。

 

でも

もう満ちたんだ。

 

もはやそれは

エネルギーを

生まない。

 

それよりも

エネルギーは

もっと

根源的なものから

自然に

流れ続けて

いるだろう。

 

そこに

気づいただろう。

 

生き方は

根本的に

変わるんだ。

 

満ちないものを

満たすために

進む人生から、

 

そういったことの

関係のない

人生へ。

 

すでに

満ちたもの。

 

それは

何だ?

 

もう

自覚する時

だろう。

 

あなたは

変わったんだ。

 

つづく

 

始動

 

そろそろ

また、

具体的に何かを

始める時だな。

 

心の中に

もし

モヤモヤが

あるならば、

 

そことは

しっかり

向き合おう。

 

モヤモヤの

奥に、

大事な問いが

あるはずだ。

 

大事な「?」が

あるはずだ。

 

それが

初めの一歩に

つながる

重要なヒント

示してくれるだろう。

 

始まりの時

とは、

 

始まりの時だ

しっかり自覚

した方が良い。

 

なぜなら

これまでとは

違う

判断や行動を

する必要があるから。

 

あえて

これまで大切に

してきた

判断基準を

壊さねばならないことも

多い。

 

始まりの時

だからね。

 

新たな何かを

始めるという

ことは、

 

自分自身も

新たに

生まれ変わる

くらいの

覚悟は持った方が

いい。

 

そう。

 

人間は

生きながらにして

何度も何度も

生まれ変わる

ものだ。

 

その本質に

素直になろう。

 

もう、

 

昨日までの

自分とは違う。

 

これまでの

私と同じ

ではない。

 

生き方そのものを

変化させても

いい。

 

くらいの

柔軟性と、

 

自然に浮上する

自分の意志。

 

意思。

 

そこに

敏感になろう。

 

始まりの時には

始めるのだ。

 

ちゃんと。

 

始めるべき

ことをね。

 

つづく

 

突進

 

人間の

素晴らしいところは

やはり、

 

高い次元も

低い次元も

混在している

ところだろう。

 

どれだけ

成長しても

進化しても、

 

決して

低い次元の心は

なくならない。

 

そこにこそ

私は

人間の尊厳を

 

本当の尊さを

 

感じるのだ。

 

そう。

 

本当は、

高いとか

低いとか

ではないのだ。

 

すべての

存在を

 

あるがままに

 

存在として

そのまま。

 

・・・その

真理の体現が

人間ではないか。

 

この魂、

この心、

この体。

 

この小っぽけな

非力な

個体に

 

すべてが

詰まっている。

 

すべてが

収まっている。

 

収まっているが

収まっていない。

 

詰まっているが、

全然

詰まっていない。

 

閉ざされているが

すべてが

開放

され尽くしている。

 

その体現

こそが

 

我々人間だ。

 

そういった

意味で、

自分自身を

私達はもっと

誇りに思った方が

良いと、

 

四半世紀以上、

来る日も来る日も

人間の愚かさと

 

もちろん

自分の愚かさと

 

向き合い続けた

私は

思う。

 

そう思えるのは

私の心が

広いからではない。

 

一種の

開き直りだ。

 

かつ、

 

やはり

あるがままを

ある時に

諦めて受け入れた

からだろう。

 

とは言え、

 

人間の愚かさを、

 

私の愚かさを、

 

すべて許せるか

と言えば、

もちろん

許せるわけがない。

 

人間が

嫌いかと言えば、

 

大嫌いだ。

 

でも

一方で大好きでも

あり、

 

このわけの

わからなさこそが

人間だろ?

 

このままで

いいだろ?

 

これで

しょうがないだろ?

 

このまま

行くしかないのだよ、

我々は。

 

人間を

人間から変えようと

する必要はない。

 

そんなの

無理だし。

 

人間のまま

でいい。

 

このままで

いい。

 

だからこそ、

 

このままじゃ

嫌だと、

渾身の気持ちと

想いでもって

 

突き

進もうでは

ないか。

 

つづく

 

開放

 

自分を

抑えること

よりも、

 

自分を

広げること

真剣になろう。

 

自分を

抑えることで

上手く進もう

などとすると、

 

いついかなる

時も

窮屈な人生と

なる。

 

自分を

広げることを

第一とすれば、

 

その自分は

どこまでも

広がり、

 

最初は

ゴツゴツと

いろんなものに

ぶつかるかも

しれないが、

 

そのうちに、

本当の広がり方が

わかってくる。

 

すると、

あらゆることが

調和してくる。

 

上手くやろう、

としての

調和ではない。

 

自然に

より広がる

ことによる

調和だ。

 

この二つは

似て非なるもの。

 

真逆のもの。

 

自分が

広がり尽くせば、

 

世と自分は

一つとなる。

 

その感覚を

得られるまで

とことん

自分を広げることに

真剣になろう。

 

私達は

としてあるが、

 

個として

全体に広がる

ために

あるのだ。

 

もし今、

 

何か選択に

迷っているなら、

 

自分が

広がる方向に。

 

自分を

広げる方向に。

 

多少、

ゴツゴツしたと

しても、

 

開き直って

そっちに

進もうよ。

 

つづく

 

単純

 

やるべきことを

やる。

 

単純な

ことだ。

 

自分が本当に

今ここで、

 

やるべき

 

と思うことを

やる。

 

ちゃんとやる。

 

それだけの

ことではないか。

 

やるべき

 

という言葉は

硬いかい?

 

この言葉は

ちょっと大きく

捉えてほしい。

 

この言葉の

中には

 

やりたいこと

 

というのも

入っている。

 

今ここでしか

できないこと

 

という意味も

入っている。

 

今ここで

すべきことを

する。

 

単純なこと。

 

この単純さに

誠実に

なろう。

 

この単純さに

素直に

なろう。

 

私は常に

 

「ここ、ここ、ここ、・・・」

 

心の内で

呟いている気がするよ。

 

これまで以上に

今ここ

大切にしたいんだ。

 

私も今は

とても変化している。

 

あなたも

そうだろう。

 

みんな

そうだろう。

 

変化がちゃんと

変化として

成就するために。

 

今ここ

 

本当に

大切にしよう。

 

つづく

 

中心

 

今回も

大事な問いを。

 

今、

あなたの

「中心」

はどこにある?

 

体の中の

場所を特定しよう。

 

場所がわかったら

その「中心」に

意識を向けてみよう。

 

その「中心」は、

 

昨日までの

「中心」と

同じだろうか?

 

それとも

異なるだろうか?

 

もし

異なるな、

思うなら、

 

あなたは

新たなステージに

入った可能性が

高い。

 

その場合、

 

さらにその「中心」に

意識を

強く向けてみよう。

 

そして

その「中心」が

発する

「願い」

を感じ取ってみよう。

 

それは

言葉になっても

ならなくてもいい。

 

ダイレクトに

感じてみよう。

 

さらに、

 

その「中心」から

ここからの自分の

「課題(テーマ)」を

感じ取ってみよう。

 

これは可能なら

言語化できると

いい。

 

「中心」

 

「願い」

 

「課題(テーマ)」

 

この3つを

大切に抱きながら、

 

一日一日を

丁寧に

過ごしてみよう。

 

つづく

 

夜明

 

今また

新たな段階に

入ろうとする人が

増えている。

 

今また

新たな一日が

始まろうと

している。

 

夜明け直前の

状態。

 

空は晴れ渡り、

気持ちの良い

日の出を

迎えそうだ。

 

そんな

にいる。

 

・・・とした

場合、

 

次の問いを

自分自身に

投げてみよう。

 

・・・

 

ここからまた

新たなステージ

新たな日々が

始まるとしたら、

 

今日からの日々に

名前をつけよう。

 

どんな

名前がいい?

 

・・・

 

シンプルかつ

インパクトのある

名前を

発想してみよう。

 

つづく

 

人情

 

進む者を

進まない者が

妨害する、

というのは

よくあることだ。

 

妨害される

ことで、

いちいちそれに

反応してしまう

というのは

人情だが、

 

もうそれに

反応している

暇はない。

 

「妨害」

というのは

妨害に見えないから

厄介だ。

 

多くの場合、

進む者は

親切だから、

 

進まない者は

その親切心に

食らいつく。

 

進む者は

自らの成長の

ために、

その食らいつかれた

ものに対応するが、

 

それは本当は

成長にも何も

ならない。

 

疲弊のみ

残る。

 

そして

本来進むべき

ペースを

極度に落として

しまう。

 

妨害と

わかれば

それに付き合う

こともないが、

 

わからないから

こそ

面倒だ。

 

私はどうしても

そういった

現象を見ていると、

腹立たしく

思う。

 

進む者は

何がどうあろうと、

自らの足で

進もうとする。

 

進まない者は

そういった人に

どうにかして

依存しようとする。

 

自らの足で

いかに歩かずに

済むか?

ばかりに意識が

向かう。

 

やっぱり

そういうのは

腹が立つ。

 

腹が立つが、

そこで

腹を立てること

そのものが

遠回りの原因と

なるので、

 

私は一切を

手放すことに

している。

 

進む者にも

「手放した方がいいよ」

アドバイスする。

 

人情。

 

大事であるが、

これが故に

脇道に逸れて

しまう。

 

大事にすべき

人情と、

手放すべき

人情。

 

その区別は

つけた方がいい。

 

進む者が

進まなくなって

しまったり、

 

進むペースが

遅くなることで、

 

起こるべきことが

起こらなくなる。

 

ということは

実に多い。

 

それが

世の中の

不調和を起こして

いる。

 

進む人達よ。

 

もっと

冷たくても

いいぞ。

 

もっと

自分の道の

ことのみを

考えても

いいぞ。

 

大変、偉そうな

アドバイスだが、

 

ついつい

そう言いたくなって

しまうのだ。

 

つづく

 

源泉

 

みんながもっと

自由になれると

いいな。

 

真の自由

に。

 

環境による

不自由があるから

自由になれない、

というのではなく。

 

逆に

環境による

自由があるから

私は自由だ

というのではなく。

 

環境、

つまりは

自分以外のあらゆるもの

によって

もたらされる自由

ではなく。

 

いかなる環境に

おいても

 

自ら

 

生み出せる

自由。

 

真の自由とは

そういったものだ。

 

真の自由で

ある人は、

 

力の源を

得ている。

 

だから、

真の自由な人ほど、

束縛を

楽しむ。

 

自由になれない

環境を

楽しむ。

 

楽しむ、とは

ちょっと短絡的な

表現かも

しれないが、

 

楽しむ、とは

自身の力の源から

エネルギーが

展開できている

状態。

 

それを

という視点から

表現すると、

 

楽しむ

 

となる。

 

だから結構

奥の深い感覚

なんだ。

 

自由な人は

何でも

楽しめる。

 

だからこそ

逆に

自分がどれを

選ぼうか、と

 

自らの本当に

望む選択が

できる。

 

だから、

 

あの人は

望む選択ができるから

自由だ。

 

ではなく、

 

あの人は

真に自由な人だからこそ

望む選択ができる。

 

ということだ。

 

自由とは

すべての源。

 

誰もが

本当は

戻れる場所。

 

つづく

 

恐怖

 

人には皆、

孤独がある。

 

それは

そうだろう。

 

私達は

「個人」として

あらゆる存在から

分離している。

 

「私」とは

私一人である。

 

この分離感の

世界において

孤独を感じない

人はいない。

 

だから皆、

心の奥では

孤独だ。

 

そしてまた

その孤独感が

浮上するのを

極度に恐れる。

 

孤独感から

逃れるための

あらゆる

自己防衛を

行ないながら生きる。

 

ひょっとすると

孤独への恐怖

ほど

強いものはないかも

しれない。

 

と、

私自身も含め、

多くの人達と向き合う

人生の中で

私はよく感じた。

 

私は

孤独である。

 

感じている

事実がある。

 

この事実と

どう対峙するか?

人生の多くは

決まるようだ。

 

可能であれば、

孤独感と

その孤独を

恐れる心のすべてと

 

向き合いきる

 

ことができると

良い。

 

それが成される

ことでしか、

さらにその奥に

存在している

真の自分は

浮上しないから。

 

孤独を感じる

自分の存在は

事実ではあるが、

それは

幻影でもある、

という

事実もある。

 

とはいえ、

私は孤独である

と感じるのは

幻影である、

などと

思ってはならない。

 

それは

事実だから。

 

幻影だという

認識は

現実逃避となり、

結果、

真の自分は

遠のく。

 

事実は事実として

受け止める

のが

すべての基本。

 

事実は事実として

受け止める

のが

自分と向き合う

基本。

 

私は孤独だな。

 

つくづく

実感してみよう。

 

そこに

真の恐怖を感じる

ならば、

 

もう少しだ。

 

そういう人は

がんばって

その恐怖と

向き合い続けると

いい。

 

つづく

 

自由

 

問いを。

 

あなたにとって

自由とは

何だろう?

 

自由は

本当に

手に入れたい?

 

自由を

手に入れたあなたは

どうなる?

 

そもそも

本当は今すでに

自由ではないかい?

 

自由の反対は

不自由なの?

 

不自由の反対は?

 

自由はあなたに

何をもたらし、

何を失わせる?

 

あなたの人生に

自由は必要?

 

あなたは

自由に

何を与える?

 

あなたは

自由を

どう育てる?

 

それは

あなたの人生に

どんな意味を

もたらすだろう?

 

 

・・・これらを

とてつもなく真剣に

自由に

考えてみるといいよ。

 

つづく

 

嗜好

 

さて、

目の前に

 

一つの流れ

がある。

 

これに

乗るか?

乗らないか?

 

迷うところだ。

 

なぜ

迷うかと言えば、

 

どっちでも

良いからだ。

 

正しい

間違っている

という

判断がここには

ない。

 

あえて言えば

どっちを選択しても

正しい

のだ。

 

どっちを選択しても

道は開かれる。

 

こういう時は

いつも迷う。

 

もちろん

贅沢な迷いだ。

 

今、目の前にある

この流れは

かなり

静かな流れだ。

 

静かだが

エネルギーは

高い。

 

この流れに

揺られればきっと

楽しい旅に

なるだろう。

 

周りの景色を

存分に味わいながら

心地よく

風も感じながら。

 

だが、

 

そういう予測が

つく時は、

 

どっちかと言えば

私の好みは、

 

本当に

好みだけで

言えば、

 

ちぃと

物足りない。

 

私はどうしても

刺激を

求めてしまう。

 

それも

「想定外」

という刺激を。

 

何が起こるか

わからないという

ヒリヒリさ。

 

だからきっと

この流れには

乗らないのだろう。

 

我ながら

もっと穏やかに

進めば良いのに、

思うのだが。

 

これもまぁ、

生き方・行き方の

こだわりか。

 

もうちょい

激しい流れを

待ってみよう。

 

つづく

 

 

進退

 

風がビュンビュン

吹いてくる。

 

真正面から。

 

飛ばされそうだ。

 

少なくとも

前にまっすぐ

進むことはできない。

 

そんな時、

どうする?

 

どうするかは

人それぞれの

自由だが、

 

私の場合、

 

その

まっすぐ歩けない

という状態を

楽しむかな。

 

横に

曲がることは

しない。

 

斜めに

進むことも

しない。

 

あくまで

道を決めたら、

まっすぐに

進もうとする。

 

それで

進めないなら、

 

それでも

まっすぐ進もうとし、

結果的に

そこに止まっている

状態となる。

 

それでいい。

 

考える。

 

進めないなら

それでいい。

 

ただ、

進もうとする。

まっすぐ。

 

そういった

自分の生き方は

大事にする。

 

生き方を

疎かにすることは

しない。

 

あとは、

状況に任せる。

 

これをすると、

結果的には

「待っている」

のと同じ状態と

なる。

 

そしていつか

風が和らいだ

その瞬間に

 

一気に進む。

 

この生き方(行き方)、

正しいかどうかは

わからない。

 

皆さんに

お勧めするわけでも

ない。

 

ただ、

 

私は

そう進みたいのだ。

 

皆さんは

どう進みたい?

 

自分の進みたい

ように

素直に

進もうよ。

 

つづく

 

確乎

 

どれだけ

嵐に見舞われ、

自分を失い、

クタクタになっても

 

真の目的は

微動だに

しない。

 

それはまるで

北極星のように

いつも同じ場所で

 

すべての

中心で

 

煌めき続けて

いる。

 

真の目的は

失われない。

 

もし

失ってしまったと

思ってもそれは、

 

自分自身が

目を閉じている

だけのこと。

 

もしくは

まったく別の方角を

見つめている

だけのことだ。

 

真の目的は

ずっと

そこにある。

 

おかげさまで

今の私は

それを見失うことは

ほぼほぼないが、

 

以前は本当によく

見失った。

 

見失ったものを

改めて見つけるには

自分自身が

落ち着くしかない。

 

だから必死に

落ち着く術を

 

その力を

身につけた。

 

そういった

人生だった。

 

その

最も有効な術が

セルフコーチング

だった。

 

セルフコーチング

という表現を使えば

それはかなり

手法チックになるが、

 

要するにそれは

自分と向き合う

ということに他ならない。

 

いつ何時

どんな場合

どんな場面でも

 

ちゃんと自分と

向き合える

自分になる。

 

ここに尽きる

のだと思う。

 

逆に言えば、

それを身につけた

からこそ、

 

真の目的は

ずっとそこにある、

 

わかったのだとも

言える。

 

そして、

 

真の目的は

ずっとそこにある、

 

本当に理解した

ことによる

安堵感。

 

これは

並大抵では

ない。

 

だって、

そこにあるんだから。

 

自分が

どうなろうと。

どんな状態だろうと。

 

変わらずに。

 

その事実を

事実として

捉えられるように

なったからこそ、

 

より

落ち着けるように

なったんだな。

 

人間は

揺らぐものだ。

 

でも、

 

真の目的は

揺るがない。

 

というか、

揺らぐとか

揺るがないとか

そういった

次元にはない。

 

それは

最初からそこに

ある。

 

あり続ける。

 

そこに向かうのが

私達の

人生だ。

 

つづく

 

新軸

 

心の中を

まったくの無に

していると、

 

やがて

一つの光が

観えてくる。

 

無の中の

一点の光。

 

・・・というのは

実はこの言葉の

表現通りではない。

 

無とは

我々が「無」と

解釈しているだけの

ものだ。

 

「無」と感じるものは

実は

「有の極致」

と言ってもいい。

 

つまり

「すべてがある」

状態だ。

 

七色の光が

すべて揃うことで

無色透明となる

のと同じだ。

 

だから私の

やっていることは、

「すべてがある」

という心の状態に

して、

 

そこに一点の

光が現れる、

ということは

 

そこに

意識が焦点化する

ということに

他ならない。

 

そういった

本質を

ちゃんとわかった上で

改めて

上記の表現に戻りたい。

 

私は

心を無にすることで

一点の光を

見出した。

 

見出された光に

私は

意識を集中させる。

 

何の思考も

働かないままに

ただ

意識のみを

向け続ける。

 

それは

青い光に観えるが、

「青い」という

思考すらそこにはない。

 

ただじっと

見つめていると、

その光の周りを

さらに光の渦が

取り巻いているのが

観える。

 

形としては

銀河系のようだ。

 

渦は

真ん中に収束している

ように観えて、

実は

外へ外へと

発散し、

広がり続けている。

 

それを

遠くから眺めて

いると、

 

中心の青い光が

突如として

「中心軸」

となった。

光の槍のような

感じで。

 

それが私を

グサリと貫く。

 

そしてそれは

私の

新たな中心軸と

なった。

 

言いようのない

覚悟のようなものを

その中心軸からは

感じる。

 

その覚悟は

恐らく

時間を置かず

私自身のものと

なるのだろう。

 

多くの仲間の

姿が観える。

 

まだ知らない

これから出会うで

あろう仲間達。

 

この中心軸は

出会いを呼ぶのだな。

 

であれば

私は

中心軸そのものと

して、

 

今日から

生きよう。

 

つづく

 

遡行

 

左肩が痛い

からと言って、

左肩の治療を

すると、

それがまったくの

的外れだった

ということは多い。

 

痛みのある

場所に、

痛みの根源が

あるわけではない。

 

特に

心はそうだ。

 

表面的な

現象があり、

 

その現象により

心が痛んでも、

 

原因はまったく

別のところにある。

 

ということの方が

圧倒的に

多いだろう。

 

現象に

捕われ過ぎては

ならない。

 

現象は

大事だが、

 

現象は

引き金でしかない。

 

きっかけ

でしかない。

 

現象に対して

現象で

対策を打つ。

 

これも

時には大事だが、

それだけで

問題を解決した

つもりになるのは

逆に危険だ。

 

心が

痛む時、

 

この心の痛みは

どこから

来るのだろう?

私は素直に

実直に

自分自身に問いかける

ことにしている。

 

心を鎮めて、

痛みと

対坐する。

 

呼吸を

静かにして。

 

痛みそのものを

直に

感じるようにする。

 

すると突然に

まったく別の

痛みに襲われる。

 

すると、

その新たな痛みと

対坐する。

 

するとさらに

また

別の痛みが・・・。

 

これを繰り返す

うちに、

ついには

その根源に

たどり着く。

 

この根源は、

最初の痛みとは

まったくもって

関係のないことすら

ある。

 

表面的な

痛みでもって

根源的な痛みを

誤魔化している

わけだ。

 

人間の

やることは、

思っている以上に

奥深いのだ。

 

そういった

意味で、

 

痛みに鈍感で

あってはならない。

 

変な表現だが、

痛みの感受性を

高めた方が

良い。

 

心は

痛むように

できているのだから。

 

つづく

 

変貌

 

私は

どこにいるの

だろう?

 

よく思うことが

ある。

 

もちろん

「ここ」

にいるのだが。

 

「ここ」

を味わって

いるのだが。

 

でも、

どこか別の場所に

「ここ」

にいながらも

存在し、

 

その別の場所から

遠く離れて、

「ここ」

静かに眺め続けて

いる。

 

そんな感覚は

確かにあるのだ。

 

この感覚が

起こるとき、

 

決まって一つの

現象が

起こる。

 

何か、自分が

一つの

巨大な目

になったような

気分になるのだ。

 

そして

その巨大な目

私を動かすのだ。

 

巨大な目による

その私の行動は、

大概、

私の心を

逸脱したものと

なる。

 

しかし私は

それを

いとも簡単に

行ない、

しかもそれについて

何の抵抗もない。

 

しかも

大体それは、

私が一人でいる

ときではなく、

 

例えば

コーチングとか

研修とか

 

真正面から

人の目に

晒されているときに

多い。

 

まったくもって

意外な行動を

とる自分。

 

それを見つめる

他人の目。

 

意外な行動を

とっている私は、

私らしくないな

自分では思う。

 

でも

他者から見れば、

ひょっとすると

それこそが

「竹内さんらしいな」

なっている可能性は

充分にある。

 

人間とは

案外、こういうもの

かもしれない。

 

さて、

 

今こうやって

文章を書いている

私であるが、

 

珍しいことに

一人でいるのに

今は

その巨大な目のように

なっている。

 

巨大な目は

次のような

意思を私自身に

告げているようだ。

 

立ち位置の

変わった自分を

もうちょっと

ちゃんと

自覚せよ、

と。

 

立ち位置の変化に

ついては

ここ何週間かで

随分とその変化は

感じ続けてきた。

 

言ってみれば

私はもはや

「コーチ」では

ない。

立ち位置的には。

 

もちろん

「コーチ」はできる。

 

でも

以前は

「コーチとして

コーチをしてきた」

のだが、

 

今は

「コーチではないが、

コーチのできる自分が

コーチをしている」

状態だ。

立ち位置を変えた

ままで。

 

だからきっと

私の知らないところで

私自身の

コーチングそのものも

変貌しているのだろう。

 

その辺りを

もう少し自覚した方が

良さそうだ。

 

私にとっての

意外な行動が、

ここからはさらに

それが当たり前に

なってくる予感。

 

その変化は

意図しようとは

思わないが、

 

しかし

自然に変貌をする

自分を、

 

せっかくなので

この際、

楽しもうと思う。

 

つづく