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本当に
自分のしたいことを
本当に
したい瞬間にする。
・・・ということに
私達はもっともっと
こだわった方がいい。
「妥協の時間」
を使い過ぎでは
ないか?
私達は。
自分の人生に
起こる
不調和の
根本的な原因は
ほとんど
これではないか?
時間というものに
対する
妥協ではないか?
もちろん
すべて自分の
思うがままに
いくはずがないのが
人生だし、
世の中は
自分一人で
成り立ってはいないので
他者との関わりが
大事だ。
でも
そういうことを
全部ひっくるめて、
本当に
自分のしたいことを
本当に
したい瞬間にする。
という
生き方を
目指すと良いと思う。
「真剣」とは
そういうことでは
ないかな。
「妥協の時間」
ではなく、
「真剣な時間」
を。
これは
私達全員の
共通のテーマでは
ないかな。
つづく
「未来を見通す力」
が
人にはあるかどうか?
と
問われたら、
私は
「ある」
と断言する。
それは、
未来を「予測する」
ことでも
「予言する」
ことでもない。
ある時ある瞬間に
未来と
「完全につながる」
ことができる
という意味だ。
それは
理屈ではなく
「感覚として」。
あくまで「感覚」なので
未来がありありと
わかる(=顕在化する)
わけではない。
未来の映像が
見えるわけではない。
(まぁ、見える時も
あるだろうが。)
ただ、
一瞬、
つながる
のだ。
するとどうなるか、
というと、
今、ここで
自分がやろうと
していることが、
未来につながることか
どうか、
未来に道を開くことか
どうか、
が
「確信」として
わかるのだ。
そうしたらもう、
それだけで
充分だ。
私達は
未来を知る必要は
ない。
いつも言うことだが、
この3次元の世界は
未来がわからない
ことに
大きな意義がある。
「わからない」から
こそ
できることがある。
「わからない」から
こそ
進化できる。
そんな世界である
ことを前提にして、
しかしそれでも
一瞬、
「見通す」ことで
私達は
「今ここ」
における
「真の自分」と
「真の自分の
為すべきこと」
を
知ることができる。
そして
そこで生まれる
気づきは
無限の価値がある
と
私は思っている。
未来を見通す力
をつけるには、
真本音で
生きることだ。
「今ここ」で、
真本音で生き続ける
ことだ。
それ以外には
ない。
つづく
皆、
答えがほしい。
答えがわかれば
道がわかる。
間違わずに
道を進みたい。
だから
答えがほしい。
しかし、
今、どれだけ
考えても考えても
答えが出ないので
あれば、
今、どれだけ
試行錯誤して試行錯誤して
それでも答えが
出ないのであれば、
次元を変える
しかない。
次元を変えるとは、
喩えて言えば、
この地球上から
抜け出るようなもの
である。
例えば
地球上でどれだけ
旅をしても、
何年旅をしても、
地球上での旅は
地球上での旅だ。
どれだけ経験を
積んでも
同じ地球上での
経験だ。
同じ次元での
経験だ。
次元を変えるには
宇宙に旅立つしか
ない。
宇宙に出て、
地球よりも巨大な
自分となり、
自分の掌に
地球を乗せる。
それくらいの状態に
なれて
次元が変わった
と言えるのだ。
今、
あなたは
超巨大化し、
あなたの掌に
地球がある、
と
イメージしてみてほしい。
地球をじっと
見つめてほしい。
その地球を
ただのイメージだとは
思わずに、
本物の地球、
実在の地球が
掌にあると
思えるくらいの状態で、
「この地球には
何が必要か?」
を
問うてほしい。
そしてあなたなりの
真剣な答えを
一つでも見出してほしい。
ここまですると
ひょっとすると
次元の異なる発想が
一つ出るかもしれない。
もしその発想が
出たとしたら、
しかしそこで
終わってはならない。
今度は、
「ここ」に
地球上に
戻って来ねばならない。
そして、
先程の発想を得た
あなたとして、
「では私は
今日、何をしようか?」
を
問うてほしい。
もしくは、
「私の欲しかった
答えは
何だろうか?」
を
問うてほしい。
どれだけ次元を
変えても、
「今ここ」に
戻らねば意味はない。
高い次元の発想を
得たら、
必ず、
「今ここ」と
結ぶこと。
日常の自分と
結ぶこと。
自分の次の一歩
現実の一歩
と
結ぶことだ。
なぜなら私達は
「ここで」
生きているのだから。
つづく
何でもそうだが、
真に優れたものや
真に美しいもの
というのは、
それは
人であっても
物であっても
「中心軸」が
スッと定まっている。
つまりは、
「想いと形が
一致している」
状態だ。
私はもともと
音楽が好きで、
最近は久しぶりに
努めて
音楽を聴く時間を
取るようにしているが、
音楽も
「中心軸」がスッと
通っているものと
そうでないものが
ある。
その違いは
聴いていて
明らかだ。
そして
中心軸の通った
ものを聴けば、
私自身の「中心軸」も
それに反応して
スッとする。
とても良い状態に
なれる。
「中心軸」同士は
共振
するのだ。
自分の仲間集めも
組織創りも
この
「中心軸」の共振を
大事にするといい。
この人と
一緒にいると
私の中心軸が
共振して気持ちいい!
と
思える人と
いつも一緒にいるのは
とてつもなく
幸せなことなのだ。
また、
次のようなことも
言える。
本来は自分は
この人とは
「中心軸」が共振する
のだろうけど、
今はなぜか、
あまり共振できないな、
と。
そんな場合は、
今はちょっと
距離を置くと良いかも、
という合図だ。
少し距離を離すことで
逆に
共振するように
なるかもしれない。
実は私は
6〜7年、
まったく音楽を
聴かなかった。
音楽から
あえて離れていたが、
最近は
「共振」できる感覚が
して
仕事のちょっとした
合間に聴くようにした。
すると途端に
自分の状態管理が
楽になった。
面白いものだ。
「自分が今、
何との共振を
欲しているか?」
ということに
敏感になるといいね。
つづく
誰だって
背負っているものは
ある。
どうせ背負うなら、
その重みを
しっかりと感じよう。
背負うのが
苦しいのなら、
その苦しみを
あるがままに
感じればいい。
苦しくないふり
とか
本当は重荷なんて
ないんだ、
とか
無理に思う必要は
ない。
重みは
重みだ。
自分がそう
感じていること
そのものが
事実だ。
感じていることを
感じるままに。
これが健康の
基本だと
私は思うけどね。
こういうことが
しっかりと
できる人は
逆に、
自分の感じている
その重みを
コントロールすることが
できるようになる。
今のこの時間だけは
ちょっと重みを
横に降ろしておこう。
ということが
できるようになる。
もちろん
現実レベルのことは
すぐには変えられない。
でも
重みを感じているのは
その人の
心だ。
心のことであれば、
それは本来は
自由に手放したり
できる。
現実が変わるまで
永遠に手放すことは
できないが、
一時的に横に置くことは
できる。
するとそれは
「休息」
となる。
その「休息」が
エネルギーを
回復させてくれる。
こういうことが
できるようになる
ためには
重みから
逃げちゃダメだ。
重みを感じ、
重みと向き合い、
重みを味わうくらいの
開き直りがあって
初めて、
それはできる。
これが
自分をコントロールする
基本だ。
まぁ、やっぱり
開き直りが
大事ということかな。
つまりこれこそ
「覚悟」だね。
つづく
集中力が
続かない時は、
外に意識を
向けよう。
自分の内側に
入ることで
私達は心のモヤモヤに
捕らわれていく。
そしてさらに
集中力が続かなく
なる。
外に意識を
向け、
「世界」
とつながろう。
「世界」とは
自分以外の
あらゆるものだ。
自分の周りに
見える
あらゆるものを
観察しよう。
ありありと。
すべてを細かく
見つめよう。
そして
だんだんと視界を
大きく大きく
広げていこう。
自分の内側から
完全に意識が外に
脱出できたら、
今度は
観察だけでなく、
「感覚」も
外に向けよう。
目で意識を向ける
だけではなく、
全身で
意識を外に
「世界」に
向けよう。
しばらくそうしていると、
「自分」と
「世界」の
区別がつかなくなって
くる。
それが「世界」と
つながった状態だ。
「自分」と「世界」が
一つになった状態
とも言える。
すると、
自分の内側とか
外側とか
それすらも
わからなくなる。
というか、
そんなこと
どうでもよくなる。
そうなれたら
完了。
自分は
もとの自分であり
本来の自分に
戻れているはずだ。
真本音が
出やすい自分
だ。
そこから
仕事の再開だ。
つづく
目の前に続く
一本道を
ずっと自分の道だと
信じて進んできた。
道の先は
霧の中だが、
しかしこの道を
行くことが
自分にとっての最善
なのだと
信じて進んできた。
ところが、
ずっとまっすぐに
進んでいると思っていた
その道は、
実は
ほんのわずかずつ
右に曲がっていた。
まっすぐだと
思い込んで進んだが、
少しずつ右に右に
ズレ続け、
その道は
大きな大きな
円を描き、
ふと気がつくと
もといた場所に
戻っていた。
・・・冬山では
霧のために視界が
遮られた時、
このような状態で
同じ場所をグルグル
周り、
体力が尽き
遭難に至る、
ということがよくある。
それと同じことを
人は
人生でも
行なう。
私はこれを
「幻影の道」
と
呼んでいる。
この道は
同じ場所を
周回し続ける。
進んでいるように
見えて、
実はまったく
進んでいない。
成長し続けている
ように見えて、
実は何も
変わっていない。
ただ、
疲弊を
していくだけ。
しかし
多かれ少なかれ
私達はもともとは
この「幻影の道」に
いる。
しかし
ある時にその周回から
逸脱をする。
グルグルから
抜け出すのだ。
抜け出した私達は
「自由」になり
今度は「まっすぐ」に
進むが、
しかし実はそれさえも
また、
さらに大きな周回に
過ぎない。
でもいつかまた
その大きな周回からも
脱出する。
そして「まっすぐ」
行くが、
でもやはりそれすらも
さらにさらに大きな
周回である。
・・・このようにして、
私達は、
「幻影の道」
を抜け出しては
さらに大きな「幻影の道」
に入り、
を繰り返し、
そしてついには
本当にまっすぐな道
に至る。
これを私は
「実在の道」
と
呼んでいる。
実在の道
か
幻影の道
か、
は、
後になってわかる
ことだ。
残念ながら
「今ここ」では
わからない。
でも、
ちゃんと
一日一日・一歩一歩を
自分の真本音を大切に
丁寧に進めば、
今いる幻影の道からは
自然に
脱することができる。
私が「脱皮」と
呼んでいるのは
このことだ。
脱皮を繰り返せば、
自分がいかに
小さな世界で
グルグル回っていたか
が
よくわかる。
あれは「幻影の道」
だったと
よくわかる。
だからと言って
ガックリする必要は
ない。
それが
私達人間の成長であり
進化であり、
それらすべてを
含めて
それが私達の道なんだ。
幻影だろうが
実在だろうが
堂々と
今を進もう。
つづく
枠を超えていく
のが
人の価値であり
醍醐味だ。
極端に言えば、
最初から枠のない
人生なんて
意味がないし
つまらない。
そういうもんなんだな、
と
最近はつくづく
思う。
なぜなら
最近の私のクライアントさん達の
枠の外し方、
もしくは
壊し方、
もしくは
溶かし方、
が凄い。
その様子を
拝見していると、
枠はあっては
ならないものだ、
などと
短絡的に捉えている
場合ではないな、
と
思えるのだ。
枠を超えた
その瞬間とか、
枠を超える
その直前とか、
もっと言えば、
枠に近づいた
一番苦しい時期とか、
そういう時に
その人の持つ
潜在された本当の
魅力が
滲み出す。
そしてその魅力は
枠を超えた後の
その人の歩みの
パートナーとなる。
そういうのを
観ていると、
枠というのは
宝物なんだな、
と
つくづくね。
とは言え、
本人にとっちゃ
そんなことは
言ってはいられない。
「枠は宝物なんだ」
などと
余裕をかましている
うちは、
そんなものは
本物の枠ではない。
枠は
苦しみの源
でしかない。
でもやはり
私達の人生には
なくてはならないもの。
人生っていうのは
面白い、というか
何というか・・・。
つづく
『開』。
今、自分は
開いているかな?
閉じてしまって
いるかな?
結局は
たったこれだけ
ではないのか?
開いているか、
閉じているか。
たったこれだけで
ないのか?
開いていれば
なんとかなる。
開いていれば
確かに痛いが、
あらゆることは
すべて
ちょっとずつでも
調和に向かう。
閉じていれば
痛くないかも
しれないが、
あらゆることから
分離していく。
結局私が
行なっていることは、
開いているための
サポートなのかな。
痛くても
本当はそれは
痛くない。
閉じている方が
ただ麻痺している
だけで、
ダメージは
計り知れない。
その事実を伝え、
これまで
閉じたままで
頑張っていた人が
開いた状態で
がんばれるように
する。
そのサポート
ではないか。
人間、
開いていれば
なんとかなる。
本当に
今日も昨日も
一昨日も
そう思った。
明日も
そう思うのだろうな。
つづく
今日も
つくづく思った
のだが、
人生も
経営も
手放すべきものを
手放すべきタイミングで
ちゃんと
手放せるかどうか?
で
決まるな、と。
恐らく、
私達の人生において
必要となる
様々な勇気の中で、
手放す勇気
というのは
最難関の一つだろう。
愛着のある
ものであれば
なおさら。
大切に育てて
きた存在であれば
なおさら。
しかしそれでも
手放さなければ
ならない時が
ある。
必ず
ある。
思えば、
「決断」という行為
も、
手放す行為だ。
一つを決め、
他の選択肢を
断つ。
これがきちんと
できる時は
「道」ができる。
「道」が
続く。
これが
中途半端にしか
できない時は
残念ながら
道は潰える。
そういう風に
できているのが
どうやら
自然の摂理だ。
手放すべきものを
手放すべきタイミングで
ちゃんと
手放す。
私達の
進化はここに
掛かっている。
つづく
もし今、
あなたの中に
絶望とか
空虚とか
不信とか
そういった
自分のエネルギーを
根底から奪ってしまう
ような存在が
あるとしたら、
それは
幻影である、
と
思えばいい。
それは
実在ではない。
もちろん、
あなたが
乗り越えるべき
ものでもない。
関わる必要
すらないものだ。
あなたが
すべきことは、
今の自分の
疲れを
疲労を
疲弊を
自覚することだ。
そして
しっかりと
休むことだ。
休むためには
二つのやり方が
ある。
一つは、
睡眠をしっかりと
取ること。
もう一つは、
何か楽しいことに
集中すること。
つまりは
無我夢中になる
こと。
それは
何でもいい。
スポーツでも
音楽鑑賞でも
映画でも
ドラマでも
ゲームでも
料理でも
読書でも
あなたの
好きなことであれば
何でもいい。
好きなことに
集中することは
心の癒しに
なる。
そうやって
今はしっかり
休むこと。
そして、
もとの元気さが
戻ってきたところで、
未来のことを
考えればいい。
つづく
泣きたい時は
泣けばいい。
なんで抑える
必要がある?
嬉しい時も
悲しい時も
その気持ちで
自分を
満たせばいい。
その気持ちに
自分が
どっぷりと浸かって
その気持ち
そのもの
となればいい。
気持ちと
一つになるんだ。
そうなれて
初めて
私達は
次に進める。
そう考えれば、
喜びも
悲しみも
同じものだ。
大事な
ステップだ。
今の日本人は
自分の感情を
気持ちを
抑え過ぎでは
ないか?
もちろん
感情によって
人を傷つけては
ならない。
でも、
その感情で
自分自身を
満たすくらいは
良いではないか。
それを
自分が
望んでいるのだから。
そのくらいの
願い
叶えてやろうよ。
それがまた
自分を大切にする
ってことじゃ
ないかな。
つづく
気合いで
行くな。
進むことは
大事だが、
今は
気合いで進んでは
ならない。
静かに
進もう。
勢いによる
一歩は、
必ずその
反動を呼ぶ。
すると、
反動に対する
対処を
せなばならなくなる。
時間の
無駄だ。
今は、
最短で進む
時だ。
試行錯誤は
本当に必要な
ものだけ。
本当に必要な
気づきのみを
得ながら、
最も楽で
最も短い
道を
一歩一歩
選び出して
行く。
もうその準備は
整ったはず。
これまでの
生き方は
もう古い。
あなたが
すでに手に入れた
はずの
新たな生き方で
静かに
進もう。
つづく
自分が
「一点」
だとする。
「一点」の
ためだけに
生きる。
それ以上でも
それ以下でも
ない
存在だとする。
だとすれば、
自分は今
何をするだろうか?
心は
現実の中で
いつも移ろう。
様々に
揺らぎ続ける。
葛藤も
迷いも
生まれ続ける。
でも
それらは
それらだ。
ただ
あるがままに
愛せばいい。
それが
自分であると
愛おしめばいい。
楽しめば
いい。
その上で、
でもやはり
「一点」
にかえる。
そして、
そこのみで
決める。
そんな生き方を
したら
どんな人生に
なるのだろう?
それは
「私」
と言えるのだろうか?
それは
私が「私」を
捨てる
ということに
なるのだろうか?
・・・・・・
そんな
強烈な疑問の前で
佇んだのが、
ちょうど
10年前だ。
そして私は
長い葛藤の末、
涙を流しながら
決意をした。
もし
私が「私」を
捨ててしまうことに
なったとしても
それでもいい、
と。
私はその
「一点」
のために生きよう
と。
あれを
完全に決めきれた
時の
あの瞬間の
感覚は
その後、
一瞬たりとも
忘れたことはない。
・・・・・・
その後、
どんな人生
だったか?
私が「私」を
捨てるかも、
という恐れは
今は良い
「思い出」だ。
私は
「一点」のために
生きることで
ようやく
「私」を
取り戻したのだ。
と、
すぐにわかった。
人は
「一点」のために
生きるのが
本来の
自然の姿であった
ということを
私はすぐに
知ることができた。
私は
「私」を
取り戻せた。
あれから
10年か・・・。
つづく
今回は
問いを3つ
投げよう。
ちょっと遊び感覚で
答えてみよう。
問1
あなたが今後、
最も活用したい
自分の最大の能力は?
続いて、
問2
もしその能力が
ゼロになってしまったら、
それでもあなたが
目指したいものは?
そして最後に、
問3
問2の答えを実現する
ために
問1の答えを活用する
としたら
今から何ができる?
いろいろ
発想を楽しんでね。
つづく
自分がいかに
多くの人達から
支えられているかは、
自分の足で
立って見なければ
わからない。
本当に
自立(自律)できるか
どうかは別として、
本気で
自立(自律)しようと
思えば、
そういう歩みの
途上では、
感謝ばかりが
溢れてくる。
だから逆に、
言葉ばかりの
「ありがとう」は
私は要らない。
それよりも
私は早くあなたに
自立(自律)して
ほしい。
自立(自律)しようと
してほしい。
そうすれば
あなたからは
常に
「感謝」の空気感が
漂い続けるだろう。
そういう人が
使う言葉だよ。
「ありがとう」
とはね。
「感謝しなければ」
・・・じゃないんだ。
「感謝」は自然に
溢れてくる。
そこに努力を
するよりも、
自ら立つことに
努力しなさい。
つづく
あなたの中に
もう
決めていることが
あるだろう。
それをそろそろ
自覚(顕在化)
しても良いのでは
ないかな。
あなたは
完全に決めている。
それを
決めきれるあなたに
なるために
ここまで
人生をがんばってきた。
そして
ようやく
完全に
決めることができた。
おめでとう!
と
お伝えしたいくらいだ。
さて、
それは何だろう?
答えはもう
出るはずだから、
あとは真剣に
自分に問うてみる
ことだな。
つづく
自分の中に
「月」
を見つけよう。
真丸の
満月だ。
黄金色に
輝いている。
その満月は
真のあなたの
鏡でもある。
ただ
何も言わず
何も評価せず
何も解釈せず
ただ
そこにあるだけ。
あなたを
じっと
見つめている。
満月に
問いかけてみよう。
「私の人生の流れに
あなたはきちんと
映っていますか?」
と。
「私の人生は
あなたと共に
進んでいますか?」
と。
どんな答えが
返ってくるかな?
それは
言葉にならない
答えかも知れないが、
それを
しっかりと今は
受け止めよう。
つづく
今回は
セルフコーチングの
やり方を一つ
ご紹介しよう。
私達は、
あーでもない
こーでもない
と
頭の中でグルグルと
同じ悩みについて
考え続けてしまうことが
ある。
決して答えが
出ない悩みであっても
それをしてしまう
時がある。
そのグルグルから
抜け出せなく
なっているときに
有効な方法だ。
・・・・・・
まずは、
あーでもない
こーでもない
と言い続けている
自分を何人か
特定する。
悩んでいる
ということは、
何人かの自分が
心の中にいて
それぞれの自分が
言い合いを続けている
ということだ。
答えの出ない
言い合いとか
話し合い。
そこには何人の自分
がいて、
それぞれ
何を主張しているのか?
を
ざっと把握するといい。
大雑把に言って
最低でも二人。
細かく見ていけば、
5〜6人以上の自分が
いるかもしれない。
それぞれの自分は
それぞれの意見を
持っている。
「こうしたい」
とか
「こうすべきだ」
とか。
もしくは
「これはしたくない」
とか。
私達の悩みの
答えの出ない時の
多くは、
それぞれの自分が
割り込み割り込み
話をし続けるからだ。
例えば、
Aを主張している自分が
心の中で声を上げている
その最中に、
途中から
Bを主張している自分が
割り込んでくる。
そして
Bが喋り始めると
CやDや、
さっきのAや、
やはり他の自分達が
割り込んでくる。
で結局
大勢の自分達が
声を張り上げ続け
収集がつかなくなるのだ。
だから、
一人ひとりの自分の
声を、
一人ずつ丁寧に
「聴き切る」
のだ。
例えば、
まずはAを主張する
自分の声を聴く。
B以下の他の自分達
には
少しの間、離れていて
もらう。
その自分は
なぜAを主張するのか?
Aを選択するのには
どんなメリットや
目的・欲求があるのか?
そういったことを
じっくりと耳を傾けて
聴き切るのだ。
可能であれば、
Aを主張する自分の声を
すべて
紙に書くといい。
B以下の自分が
途中で割り込んできたら、
「後でしっかり聴くから
しばらく退いていて」
とお願いする。
そして、
Aの主張をしっかりと
聴き切ったところで、
次は
Bを主張する自分の声
を聴く。
聴き切る。
これを
順番に丁寧に
やり切るのだ。
しっかりやれば
メチャクチャ
すっきりする。
要するに
モヤモヤの多くは
自分自身が
自分の声をしっかりと
聴き切っていない
ことによる。
そして
すべてを聴き切ると、
その直後に
「では、本当は
どうすればよいか?」
「今回はどうすることが
最善の選択か?」
が
瞬時に浮かぶことも
ある。
この方法は
昔はよく私は
社長さんのコーチングで
使った。
時間はかかるが
これでかなり
すっきり経営判断された
人も多かった。
人の話も
聴き切ることは
大事なのだが、
自分自身の声も
聴き切ることは
大事なんだよね。
つづく
これまでも
何度も書いてきた
ような気がするが、
やはりここで
もう一度
書いておこうかな。
恐れること。
怖がること。
これは
人間として
当たり前のことだ。
恐れない
人になる。
怖がらない
人になる。
・・・なんて努力を
する必要はない。
むしろ
そんなことをすれば
おかしくなる。
だって
人間は恐れるように
怖がるように
できてるんだから。
「恐れから逃げる人」
と
「素直に恐れる人」
この二つは
似ているようで
根底が全然違う。
恐れから逃げる
人は、
恐れに蓋をしがちだ。
本当は
現実的には
恐ろしいことが
たくさんあるのに、
そこを
見ないようにする。
見ないままに
進もうとする。
もしくは、
その恐れを抱く道を
「なかったこと」
にする。
いずれにしても、
その人は
人生の選択肢が
どんどん狭まっていく。
素直に恐れる人は
本当に素直に
恐れる。
怖いものは
怖い、のだ。
しかし
これが本当に
できる人は、
だからと言って
道は変わらない。
怖さを理由に
やめる、
ということはない。
もちろん、
怖さを理由に
進み方を変えることは
ある。
本当に恐れと
向き合う人は
恐れとは自分の人生を
進めるための
パートナーだと
どこか、わかっている。
恐れがあるおかげで、
傲慢にならず
地に足をつけて
進めるのだと
わかっている。
だから、
むしろ
恐れの感覚を
研ぎ澄ます。
常にそこにアンテナさえ
張っている。
そういう
ことなんだ。
だから
あなたの中にある
その恐れ。
それを
消そうなんて
してはダメだ。
あなたは自分の道を
決めている。
その道を
行けばいい。
その道に
真剣になればなるほど
恐れは
出るはずだ。
真剣だからこその
恐れ。
それは
あなたの強力な
味方なんだ。
つづく
想いと現実の
ギャップに
真剣に悩む人が
増えてきた。
良いことだと
思う。
それだけ
想いが強まっている
のだ。
ところが当然ながら、
想いが強くなれば
なるほど、
ギャップによるストレスは
強くなる。
それがいやで
想いを持つこと自体を
避けている人も
いるが、
実はそのストレスこそが
最も大きい。
本当は想いが
あるのに、
それに蓋をするストレスは
想いと現実のギャップ
によるストレスよりも
10倍以上も大きい。
本当は。
とは言え、
ギャップによるストレスで
苦しむ人も
何とかしたいものだろう。
残念ながら、
そのストレスを
解消することは
できない。
なぜなら
そのストレス自体に
価値があるもの
だから。
ストレスがあるが
故に、
私達はさらに
前に進もうとする。
そんな効果もある。
なので
ストレスの解消
そのものは
諦めよう。
ストレスと共に
進む
と決めよう。
そうするだけで
少しは楽になる。
そしてその上で
大事なことが
一つある。
それは
「自分の望むスピードで
進む」
ことだ。
ギャップはすぐには
埋まらないものだが、
しかし
進むスピードを
望むものに合わす
ことはできる。
私達の真本音は
決して
無理なスピード設定は
しない。
現時点での自分の
出せる
最大スピードは
出そうとする。
しかしその
最大スピードとは
「経済速度」
でもある。
つまりは
最も燃費の良い
速度、
最も効率の良い
速度
である。
真本音で生きる
ことをすれば、
この経済速度を
手に入れられる。
だから
いろんなことが
持続する。
持続しつつつも
さらに
エネルギーは
高まっていく。
なぜなら、
「自分の望むスピードで
進んでいる」
という実感が、
自分の内側から
エネルギーを
湧き立たせるからだ。
俗に言う、
「内発的モチベーション」
というものだ。
つまり、
私達は
真本音で望むスピードで
進むことで、
自家発電することが
できる。
こうなるともう、
想いと現実のギャップは
ある意味、
どうでもよくなる。
ストレス自体は
あるし、
それによるモチベーションも
確かにあるが、
それはどちらかと言うと
付帯的なものとなる。
だから
私はいつも言う。
想いの強い人が
いれば、
「進め!」
と。
「最大速で進め!」
と。
だってそれが
一番、楽だからね。
つづく
風が
吹いている。
強い風だ。
一方向から
というよりも、
様々な方向から
突風も伴い
吹き荒れている。
最も
危険な風だ。
私達は
今その中に
立っている。
ここからさらに
進むかどうか?
吹き荒ぶ風の
中を
あえて進まねば
ならない
ことはない。
風の動きを
感じながら、
風が止む瞬間に
前に一気に
進む。
実は私はそれを
最もお勧めするが、
しかし
その方法でしか
進めない、
というのも
あまりに選択肢が
狭い。
風が吹いて
いようと
いまいと、
どの状態でも
進める私達で
ありたい。
現実や状況は
よく観察し、
現実や状況は
よく受け入れ、
できることと
できないことを
区別し、
自らの能力も
客観的に見つめ、
その時その瞬間の
選択をするのが
最善だ。
最善の道を
行けばいい。
だが。
それをいつでも
逸脱できる
私達でも
ありたくないか?
いつでも
逸脱できる私達
だからこそ、
最善の選択を
し続けられる。
そういうもの
ではないか?
「最善」を
「守り」の口実に
してはならない。
「最善」とは
あくまでも
進むための選択だ。
進まないのを
風のせいに
してはならない。
あらゆる
現実の中で
自分自身の
私達自身の
意志は
意思は
何か?
ということだ。
私達は今、
その意志(意思)を
問われているんだ。
つづく
自分に
翼が生えたようだ。
しかし
まだ一度も
使ったことはない。
飛べるかどうか
わからない。
いや、
というか
飛び方なんて
さっぱりわからない。
でも
翼は生えた
ようだ。
・・・たったそれだけの
あやふやな
存在感と
確信にもならない
確信を信じて、
崖の上から
大空に向かって
あなたはジャンプした。
そうしたら案の定、
落ち始めた。(笑)
わーーーっ!!
とあなたは
叫びながら
落ちていく。
飛び方が
わからないのだから
どうすれば良いか
当然、わからない。
ただ、
落ちていく。
こんなはずじゃ
なかった!
何もわからないのに
飛び降りてしまうなんて、
私はなんでそんな
馬鹿なことをしたんだ!
と、
後悔したところで
もう遅い。
あなたはもう
落ち始めている。
しかも、
ジャンプしたのは
あなた自身では
ないか。
確信にもならない
確信を
自ら信じたのは
あなた自身ではないか。
だったら
落ちたってしょうがない。
でも,
落ち始めたから
と言って、
そこでただパニックになり、
すべてを諦めてしまう
必要は
まったくない。
落ち始めたって
関係ない。
あなたは
あなたのそのあやふやな
確信を最後まで
信じろ。
それは
あなた自身の
確信だ。
それを信じられるのは
あなただけだ。
そして、
なぜあなたは
そこまでして
ジャンプをしたのか?
何を目指して
ジャンプをしたのか?
大空の先に
何を見ていたのか?
それを
思い出せ。
そして、
落ちようがどうしようが、
それを見よ。
それを
目指し続けよ。
そのあなたの
生き様が、
そのあなたの
翼を
動かすんだ。
あなた流の
動かし方でね。
つづく
「わからない」
ことは
とても良いことだ。
「わからない」
から
「わかろう」
とする。
それが
生きる原動力の
一つだ。
幼い子ども達も
そうだ。
好奇心の塊。
わからないことを
わかろうとし、
わかった瞬間に
とてつもない
笑顔となる。
これこそが
私達の生きる力。
と
よく思う。
ある人が
言われた。
「夢は
そう簡単にわからない
からこそ
楽しいじゃないか」
「夢は
そう簡単に叶わない
からこそ
楽しいじゃないか」
と。
私もそう思う。
そして私は
「未来は
わからないからこそ
楽しい」
とも思う。
1秒先の未来が
わからない。
というのが
この3次元の世界の
最大の魅力の
一つだ。
だから私達は
必死になって
未来を予測したり
見通そうとする。
未来を
自ら創り出そうと
する。
その一連のあらゆる
プロセスに
価値がある。
そして
その価値は、
「今この瞬間」
を最高のものに
することで
さらに高まる。
「最高」とは
「最善」
ということだ。
「最善」とは
自分の「理想」の想いと
今の「現実」とを
両方大事にして
初めて得られる
発想であり、判断であり
選択だ。
最善の選択を
今この瞬間に
し続ける生き方。
この生き方自体が
「わからない」
と
完全調和する。
今この瞬間を
本当に大切に
生きている人は
「わからない」
を本当に
楽しめるのだ。
それこそが
真本音で生きる
ということだ。
つづく
ふと浮かんだ
発想。
イメージ。
キーワード。
そして、
言葉にならない
感覚。
それらが
浮かぶことは
実に素晴らしいことで、
それらは
すべて宝物だ。
ところが私達は
そういったもの達が
浮かぶと、
すぐに解釈に
入ってしまう。
ちょい待って!
と
言いたくなる。
「解釈」は
もっと後でいい。
浮かんだものは
「そのまま」で。
何も加えず
何も引かず
ただそのまま
放置しよう。
宝物があるな、と
自覚したままで
放置しよう。
まとめる必要も
ない。
分類分けも
しなくていい。
何もしない。
ただそのままで。
これが最も
効果の高い
熟成の仕方だと
私は思う。
「熟成」を
自然の摂理に
任せてしまう。
なるがままに
任せてしまう。
するとある瞬間に
それらは勝手に
動き出す。
もしくは
私達を
動かせてくれる。
それは多くの場合、
「気づき」
として顕在化する。
それまで
待てるかどうか。
ここが
ポイントだね。
つづく
ゴチャゴチャ
ゴチャゴチャ
と
「説明」を
しようとする自分が
いる。
「説明」のための
言葉が
溢れてくる。
うっせーなぁー!
と
それら言葉達を
私は
投げ捨てる。
「説明」など
要らない。
「説明」をしなきゃ
先に進めないなら
その道ではない
ということだ。
と、
ある時から私は
そう決めたようだ。
もちろん
一般的に「説明」は
大切だ。
「説明責任」という
ものもある。
でも
それらとは次元の
異なる部分で
私は一切の
「説明」なしに
進むことに決めた。
約2年前の
ことだ。
・・・という事実を
先程、自覚した。
あぁなるほど!
と思う。
「説明」を
諦めてから、
明らかに物事の
進展の仕方が
変わった。
明らかに
仲間が増えた。
明らかに
私は楽になった。
「説明」も
「説得」も
必要のない道が
あるのだ。
そこが
私達の行く道だ。
そここそを
真剣に探すのを
第一優先と
するといい。
わざわざ
壁に向かう必要は
ない。
最初から道は
あるんだよ。
つづく
今日はシンプルに
一つの問いを
投げよう。
とは言え、
だいぶ難問かも。
いつものこと
だけど、
すぐに答えが
浮かんだからと言って
満足しないで。
それはまだ
表層の答えでしか
ないから。
答えは
無限にあなたの
奥から
掘り起こされるかも
しれないよ。
では、問いです。
自分自身に問うてね。
『私が
永遠にやり続けたい
たった一つのことは
何だろう?』
あなたの中には
思いもよらぬ答えが
多分、
新たにできているよ。
つづく
本当に深く
物事を学ぼうという
意志を持っている人は
実に謙虚だ。
なぜなら
学べば学ぶほど
わからなくなる
からだ。
真剣に
探究すればするほど、
「さらにその奥」
があることに
気づき、
その「わからなさ」に
茫然とする。
しかしそれを
探究しようと
決めている人は、
その「わからなさ」に
敢然と向かっていく。
そこで生まれるのが
謙虚さだ。
その「深さ」に
対する
畏敬だ。
自然の摂理への
真摯さだ。
だから
学べば学ぶほど、
「自分」というものの
小ささを
知ることになる。
「自分」の儚さも
浅さも、浅はかさも、
脆さも、弱さも
知ることになる。
学べば学ぶほど、
自分を
壊したくなる。
でも壊れるのは
怖い。
でもそれでも
勇気を奮って
壊していく。
次々に。
そして
「壊す」ということの
尊さを知る。
「壊す」ことは
進化そのものである
ことを知る。
そして
それをしている
自分自身の深さを
知る。
自分の「わからなさ」
を知る。
だから自分自身を
探究したくなる。
自分を探究しながら
自分の探究したい
ことを
探究し続けるように
なる。
それが
真に学ぶ
ということだ。
つづく
人は、
本当に
力を抜いている時にこそ
莫大な
力が出る。
・・・という瞬間に
私は何度も遭遇した。
人もそう、
私自身もそう。
真に力の抜ける
人こそが
真の力を
発揮できる。
力を抜く
ことと
動かない
ことは
まったく別物だ。
動いている時にこそ
力を抜ける
し、
まったく止まっているのに
力を消費しきっている
という
こともある。
表面的な自分の
振る舞いと、
力を抜く、抜かない
は
別次元の話だ。
あなたの中に
芽生えている
その光は、
あなたの
力の集中を
待っている。
あなたが
真に力を抜き、
その上で
真に100%の力を
一瞬に込めることが
できた時、
その光は
初めて
発現する。
あなたの光は
そんなあなたに
なれるのを
じっと
待ち望んでいるんだよ。
つづく
自分の中に、
『新たな世界』
が
生まれた人が
多いのではないか。
探してみて
ください。
あなたの体の
どこかに、
「新たな世界」
が
小さく
とても
小さく
でも確かに
力強く
芽生えているのでは
ないかな。
それが
見つかったら、
それが
どうすれば
順調に成長できるか?
を
考えてみてください。
そして
毎日毎日
その「世界」に
栄養を与えてください。
「栄養」とは
あなた自身の
生き様。
そして
在り方。
あなた自身の
願いへと向かう
エネルギー。
それらが
そのまま「栄養」
となる。
大切に
育ててね。
みんなで
それぞれの「世界」を
それぞれ
育てよう。
そうしたら、
自然にこの世界も
変容していくね。
いよいよ
本格始動だな。
つづく