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ある一面から言えば、
人生とは
自分自身の
エネルギー管理である、
と私は
思っている。
自分のエネルギーを
何に対して
どう使うか?
これをしっかりと
決めていくことが、
自分自身の
望む人生を創り出して
いくことだ。
そこでとても
大事な視点は、
「エネルギーとは
有限である」
という事実だ。
いやいや、
人のエネルギーは
無限ですよ、
と
言われる人も
いるかもしれない。
もちろんある面から
言えば、
そう言えることも
わかるが、
それでは
自分自身の
エネルギー管理は
できない。
太陽光発電を
イメージしてもらうと
わかりやすいと思うが、
太陽のエネルギーは
無限だとしても、
それを実際に活用できる
エネルギー量は
限られている。
つまり、
本質的には
人のエネルギーは
無限かもしれないが、
しかし、
今ここで
実際に使える
自分自身のエネルギー量は
限られているのだ。
・・・・・・
大量のエネルギーを
使うためには、
大量のエネルギーを
使えるだけの
「自分」
にならねばならない。
自分のあまりの
エネルギーの高さに
自分自身が呑まれ、
自分を失い、
本来望む人生とは
真逆の人生を送っている人は
実はとても多い。
「エネルギー」
と
「今の自分」
の
バランスが悪い
わけだ。
エネルギー管理が
できていない
典型的な例の
一つだ。
だから
エネルギーは
高ければいい、
というわけではない。
「今の自分」
に見合ったエネルギー量が
あり、
それをしっかりと
管理することで、
逆に、
徐々に自分の活用できる
エネルギー量も
増えてくる。
そして当然であるが、
たくさんのエネルギーを
活用できる自分に
なればなるほど、
人や世の中に対して
影響力の大きな
ことができるようになる。
もちろん、
大きな影響を与える
人生ほど素晴らしい、
というわけではない。
やはり
その人にはその人の
人生のミッションがあり、
人生の目的があり、
それを実現するための
ちょうど良いエネルギー量
がある。
それができている人
のことを
私は
『等身大の自分』
と
呼んでいるが、
本当の意味での
等身大の自分として
生きている人は
エネルギー管理が
ちゃんとできている
ということだ。
・・・・・・
逆も言える。
今、自分が
活用できるエネルギー量は
どれくらいか?
をしっかりと
認識することによって
今、できること
今、すべきこと
を明確にして、
それを日々、丁寧に
し続けることで、
徐々に
自身の人生の道を
見出していくこともできる。
私の場合は
どちらかと言えば、
こちらのパターンの人生
だったかもしれない。
その時その時の
自分の出せる
エネルギー量を
最大活用し続けるうちに、
今の仕事と出会い、
そして
今のスタイルを確立した。
そして、
私が本当に人生の
ミッションやビジョンを
明確にできたのは、
ほんの8年前だ。
もちろん
それまでにも方向性は
わかっていたが、
30年後のビジョン
というように
明確に目指すものが
わかったのは
つい最近だ。
しかしそれで
よかった。
というよりも
私にとっては
それが最善だった、
と思う。
・・・・・・
今、自分の出せる
エネルギー量を
ちゃんと把握できている
人は、
極めて
少ない。
大半の人は、
自分の出せる
エネルギー量を
見くびっている。
本当はもっと
出せるのに、
「自分の最大は
まぁ、こんなものだ」
と
小さく思い込んで
いる。
それも実に
もったいない話だ。
私の推奨する
セルフコーチングは、
この、
自分自身の
エネルギー管理の技術
とも
言えるかな。
つづく
セルフコーチング系の
講座を
開催しようと思っている。
そのための準備に
以前から入っていたが、
苦戦していた。
何を中心に打ち出し、
どうメッセージすれば、
この講座で出会うべき
人達と
出会えるのか?
が、どうしても
不明確だったから。
でも、
やっとそれが明確に
なり、
今日、動画を撮り終えた。
やっと
完了感が出た。
プロデューサーの
牧村氏とも、
やっと共に
笑い合うことができた。
・・・・・・
その中心となる
コンセプトを
一言で表せば、
『リブート』
となる。
「再起動」という
意味だ。
この言葉自体は
以前から
顕在化していたが、
これをもとに
何をどのように
メッセージすればよいか?
に
手間取った。
でもようやく
腑に落ちた。
・・・・・・
今回、私達が打ち出す
「リブート」には
二つの意味がある。
一つは、
「人生のリブート」。
そう。
人生をリブートしたい
と思っている人が、
最近はやたらと
増えている
実感がある。
気をつけたいのは、
「リセット」
ではなく、あくまでも
「リブート」
だということだ。
「リセット」と言うと、
何となくであるが、
すべてを一度、
消してしまったり
まっさらにしてしまったり、
これまで培ったものを
捨ててしまったり、
・・・と、
かなりの勇気を
要するイメージとなる。
しかし
「リブート」とは
単なる再起動だ。
例えば、
パソコンを再起動
したからと言って、
これまでのデータや
アプリが
消えてしまうわけではない。
これまで培ったものは
ちゃんと残っているのだが、
しかし、
再起動することで、
フリーズしていたものが
治ったり、
滞っていたものが
解消されたり、
心が新たに
なったり、
次のステップや
次のステージに進む
きっかけとなったりする。
私はよく
仕事に疲れたり
発想が滞ったりすると、
いったん
パソコンの電源を
落とし、
仕事の発想も
止め、
空を見上げながら
散歩をしたり、
電車に乗ったり
しながら
気分転換をする。
少しそれをするだけで、
何かが
シャンと
もとの場所に戻り、
これまでとは
まったく異なる
新たな発想が浮かび、
止まっていた
あらゆるものがまた
動き出したりする。
そんな
イメージだ。
人生で
そんなことをしたい
と思っている人が
今、明らかに
増えている。
本当にこのままの
自分で良いのか?
このまま
進んでいいのか?
この延長線上に
自分の未来は
あるのか?
自分は
何も変えなくて
良いのか?
今、手に入っている
この満足感で
本当に満足か?
本当にこの幸せが
私が望んでいる
幸せなのか?
本当に今の自分が
本当の自分なのか?
今の人生が
本当の人生なのか?
・・・そんな
根本的な問いや
モヤモヤが
どうしても浮上し、
それをそのまま
放置しておくことに
我慢がならなくなっている
人が、
明らかに増えている。
そんな人達が、
ちゃんと正しく自分と
向き合い、
自ら答えを出して
いく。
そんな講座を
開講したい
というのが私の
コンセプトだ。
・・・・・・
と同時に、
「リブート」には
もう一つの意味がある。
それはまた
明日書こうかな。
つづく
どうせ
生きるなら、
自分を輝かせる
生き方を
しよう。
・・・こう伝えると、
ほぼ、すべての人が
そうですね!
と言う。
が、
それを本気で
目指している人は
いったい
どれだけいるのかな?
自分を輝かせる
よりも、
日々、やらねばならない
ことを
こなすので
精一杯。
そんな人が
やはり多いね。
「こなす人生」
だ。
一生、
こなす人生が
いい人?
と問えば、
はーい!
と
手を挙げる人は
ほとんどいない
だろう。
本当は、
「こなす」
とは、
私達の真本音が
最も嫌がる生き方
だ。
だから
ストレスが
大量発生する。
「こなしながら、
ストレス大量発生
の人生」
なんて、
ホントに嫌だよね、
誰だって。
でも、
ほとんどの人が
それを
やってる。
嫌なのに、
嫌なことを
やってる。
これが今の
社会だな。
こんな社会を
変えたい、
と
思うのだが、
社会を変える
とは
人を変える
ことだ。
一人ひとりが
変わって初めて
社会が
本質的に変わる
のだと
私は思う。
だって
組織が
そうだから。
仕組みから
組織を変えようと
思っても、
ほぼ
上手くいかない。
その現実を
私は
それこそ嫌というほど
見てきた。
中身が
伴わない仕組みは
意味がない。
一人の人が
変わり、
一人の人が
輝き、
あー、あれいいな!
と
周りの人が
影響を受け、
その輝きが
波及し、
その結果として
仕組みが
変わっていく。
その道のりが、
組織が変わる
最も近道だと
いうことを
私は
数え切れないほど
見てきた。
組織を変えたい。
社会を変えたい。
だったら、
あなたが
変わることだ。
自分がまずは
変わることだ。
不幸せな方向に
変わっても
仕方ない。
幸せな方向に
変わることだ。
自分を
輝かせる方向に
変わることだ。
そのためには
もっと真剣に
考えようよ。
一日の内の
ほんの数分でも
いい。
まずは
自分はどうすれば、
もっと
輝けるか?
自分自身が
何を変えれば
自分は
もっと幸せになるか?
それを
真剣に考える
時間を取ろう。
あなたを変える
のは
あなたしか
いない。
誰も
あなたを
変えてはくれない。
セミナーに
出たって、
セミナーの先生が
あなたを変えてくれる
わけではないよ。
自分が
変わろうと
するしかないんだ。
こなす人生
から
輝く人生
へ。
今日から
自らの意志で
変えていこう。
つづく
人と
向き合えば
向き合うほど、
自らの人生の
道を見出していく、
というタイプの
人がいる。
ある意味、
「コーチ」に向いている
タイプとも言える。
あえて
「コーチタイプ」
という言い方を
すれば、
コーチタイプの人は
自分一人では
決して
人生の目的も使命も
ビジョンも
見つからないように
できている。
人と向き合い続ける
関わりの中で
ヒントを見出し、
かつ、
人の願いをサポートする
という過程の中で
自らのビジョンが
明らかになっていく。
自分はコーチタイプかな、
と思う人は
もし人生に迷ったら、
とにかく
人と会うことを
オススメする。
そう言えば私も
昔は、
自分を見失ったり、
モチベーションがゼロに
なったり、
絶望感や虚無感に
苛まれた時ほど、
ガムシャラに
人に会いに行った
覚えがある。
自分の中からは
決して
答えは出ず、
しかし
人との会話の中で
「救い」の手を
差し伸べられたなぁ。
誰かから
具体的な答えを
教えてもらうわけでは
なかったが、
人と会ったその直後に
ふと、
「気づき」として
欲しかった答えが
観えたりしたものだ。
まぁ、今も
ずっと同じか。
迷ったら、
人に会う。
人から答えを
得ることを
期待するのではなく、
向き合う
という行為の連続
によって、
気づきを得る。
ということを
試してみてほしいな。
つづく
実は、こう見えて、
私は
自分の喋りたいことの
10分の1も
喋ってはいないと
思う。
普段の会話でも、
コーチングのような
サポート現場でも、
結構、
喋りたいことや
伝えたいことは
心の中に
たくさん浮かんで
来るんだよ、
本当は。
でも、
それを口に出そうと
すると、
喉が詰まってしまうんだ。
そして、
自分の意図とは
まったく違う言葉が
私の口が
喋り出すことも
実に多い。
しかし、
大概その言葉こそが、
その場には相応しい
最善の言葉
だったりする。
あぁ、さっきの私の
言おうとした言葉を
言わなくてよかったな、
勝手に口が動いて
くれて
よかったな、
と、
ほぼ、毎日、毎回
思っている。
こういう話を
聴けば、
ひょっとすると
「たけうちさんって
結構、不自由なんだなぁ」
という印象を
持たれるかもしれない。
いやいや、
逆だ。
私はとても
自由だ。
自由だからこそ、
これができると
思っているし、
いつもこうなる自分を
自由なヤツだなぁ、
と
自分で思うのだ。
・・・・・・
だいたいだね、
私が私の意図通りに
喋ろうとする言葉の
ほとんどには
「迷い」
がある。
100%とはちょっと違う
言葉達だ。
もちろん
本音で思っていることを
私は喋ろうとするので
あるが、
それは恐らく、
ちょっと淀んだ本音だ。
99.9%以下の
本音達だ。
だいたい、
意図した気持ちってのは
そんなもんだ。
これを私は
『反応本音』
と呼んでいる。
反応本音の言葉は
私の口からは
決して出ない。
出そうと思っても
出ない。
きっと私の真本音が
止めているのだろう。
・・・・・・
さて、その
『真本音』
だが、
これは
100%の意思であり、
言葉達だ、
とも言える。
それは
「わがまま」とは
真逆だ。
なぜ、100%になれるか?
と言うと、
相手と(もしくは、世界と)
繋がっているからだ。
繋がりを感じた上での
言葉達なので、
そこには
迷いや淀みが
ない。
だから
とてつもなく
スッキリと言葉達が
口をついて出て来るのだ。
そんな言葉のみによる
コミュニケーションは
もちろん、
調和しか生まない。
これを私は
『真本音コミュニケーション』
と呼んでいるが、
これができるようになると、
人生が本当に
楽になる。
自由になる。
自分の意図、
なんていう
ちっぽけで狭い世界から
放たれた、
大きな自分として
ここにいられるのだ。
・・・・・・
私の使命の一つは、
この
真本音コミュニケーション
のできる人を
増やしていくことだ。
これは
特殊な能力ではなく、
人類であれば
本当は誰もが
持っている力、
しかしみんなが
忘れてしまっている
力だ。
まずは、
人をサポートする
立場の人達が
これができないとね。
自由な人が
サポートして初めて、
みんなが真に
自由になれると
思うんだ。
つづく
あぁこの道で
よかったのだな。
とわかる瞬間は
頻繁に来る。
自然に
来る。
だから、
意図的に、無理に、
そう思わなくてもいい。
自分を信じられない
のなら、
無理に
信じなくてもいい。
ただ、
次の一歩、
その次の一歩、
を
誠実に
進めばいい。
・・・・・・
私達の心は
それほど強くは
できていない。
にも関わらず、
「心は強くあらねば」
と
皆、思い過ぎだ。
もちろん
そう思うこと自体が
悪いわけではないが、
心が弱いことを
言い訳に
し過ぎてないか?
心が整わないことを
言い訳に
止まっている
だけではないか?
心は
弱いものだ。
なかなか
整ってくれない
ものだ。
それはもう
諦めてしまおう。
それよりも、
前に
進もう。
・・・・・・
心は弱くとも、
私達の魂は
常に
ちゃんとここにある。
心とは、
外の影響
環境の影響によって
揺らいだり
右往左往するものだが、
魂は
そうじゃない。
ちゃんと常に
ここにあり、
ちゃんと常に
次の一歩を
示してくれる。
そんな魂の意思
のことを私は
『真本音』
と呼んでいる。
・・・・・・
心が傷ついているから
真本音が出ない。
ということは
あり得ない。
それは自らが
真本音から
目をそらしているか、
もしくは、
目をつぶっているか。
どちらかだ。
・・・・・・
この道が
正しいかどうか?
自分にとっての
正解かどうか?
それは
後でよくわかる。
今は
考えなくてもいい。
それよりも、
素直に誠実に、
現実を見つめ、
次の一歩を
決めよう。
それが
あなたの真本音
だよ。
つづく
人の成長を
決定づけるのは、
やはり
本人の意志だ。
「変わる」ことへの
勇気だ。
ここだけは、
なんともし難い。
・・・ということを
わかっている人じゃないと、
本当の意味での
サポートは
できないのだろう。
「私がこの人を(この組織を)
変えてやる」
という意識では、
残念ながら
表面的な変化しか起こせない。
上手くいっても
単なる、「膨張」しか
起こせない。
「膨張」は必ず限界が
来る。
そして「破裂」する。
それを成長とは
言わない。
それは単なる
膨張の果ての破裂
だ。
膨張をさせて
「俺が変えてやった」
と喜ぶ人もいるようだが、
それは単なる
傲慢だろう。
・・・・・・
皆、本当は
「変わる勇気」を
持ちたがっている。
「変わりたい」
「勇気を持ちたい」
という彼らの
真本音の気持ちに
アプローチすることが
他者ができる
最大のサポートなのだと
私は思う。
もちろん、
「変わりたい」
というのは
別物(別者)に変わる
という意味ではなく、
「本来の自分に
変わりたい」
ということだ。
ところが、
その変化の道
というのは、
スムーズではない。
緩やかにずっと
坂道を登るような
過程であれば楽なんだろうが、
そうはいかない。
道には
大きな段差がある。
時には、
垂直の壁を
攀じ登らねばならない。
それを
「怖い」
と認識する。
壁の前に立てば、
誰だって不安定になる。
そして
躊躇する。
もう、ここからは
進まなくていいのでは
ないか、と。
もう、ここまで来たから
いいじゃないか、と。
・・・・・・
他者にできるのは、
壁の攀じ登り方を
教えることだ。
それを私は
「セルフコーチング」
という形で
お伝えしている。
自分と正しく向き合う
ことで、
次の一歩として
何をすれば
壁を攀じ登ることが
できるか?
がわかる。
自分で自分を
指南する
正しい方法だ。
・・・・・・
セルフコーチングの
正しいやり方を
じっくりと教えるための
講座を今、
用意している。
が、
ちょっと苦戦している。
動画などももう
撮ったのだが、
今回、本当に集まるべき
人達に
ちゃんと届くメッセージに
なっているか?
となると、
ちょっと何らかの
違和感を覚えるからだ。
もういつでも配信
できるのだが、
躊躇している。
だから、全面的に
撮り直しをしようか、
どうしようか、
と
パートナーと共に今
悩んでいる段階だ。
この講座に関しては
ありがたいことに
よくお問合せをいただく。
いつ始まりますか?
と。
今は、
年末にはスタートできる
ように、というのを
目指しています。
ただ、
届くべき人に届かないと
意味がないとも
思っていますので、
もうしばらく
お待ちください。
・・・・・・
壁は、
自分自身の真本音が
自らに
与えているものだ。
真本音は、
決して無茶は
しない。
本当はちゃんと
それを攀じ登り、
次の世界
次のステージへ
入ることは
すべての人に
可能だ。
その事実を
知るだけでよいのだが、
それにはやはり
壁を超えた経験が
必要となる。
他者として、
経験の仕方は
教えることはできるが、
経験そのものは、
本人の意志に
かかっている。
つづく
私はもともと
自然が好きだった。
昔はよく
山の中に入り、
自然と一体化した。
自然の中で
ただ何も考えず
佇んでいると、
自然の息吹きと
自分の息吹きを
感じることができた。
生きている実感
というヤツだが、
正確に言えば、
その佇んでいる瞬間に
それを自覚するというよりも、
後になって振り返ると、
あの時の私は
生きている実感を
得ていたのだな、
とわかる。
概して
人生とはそういう
ものだろう。
その時その瞬間に
すべてがわかることは
稀だ。
・・・・・・
「今の意味」を
すべてわかった上で
物事を進めようとする
傾向の人がいる。
特に前向きな人に
多いのだが、
それはやめた方が
いい。
もちろん、
「今の意味」はわかるに
越したことはないかも
しれないが、
それはわからないように
なっているのだ。
本当はわからないのに
わかったつもりで進む
ことは
到底、オススメできない。
それにより
本当の「今の意味」とは
外れた生き方に
なってしまうからだ。
・・・・・・
例えば、
何か辛いことが
あった時に、
「この辛さには
こんな意味があると
思うんです。
だから、こうやって私は
ここを乗り越えようと
しています」
という人がいる。
この言葉自体は
素晴らしいかも
しれないが、
私はこの言葉を
聴くと、
「そんなことはいいから」
と、
ついつい言ってしまう
ことが多い。
そんなことよりも、
「今の辛さを
しっかり感じ取ろう」
とオススメする。
例えば、
あまりにひどい目に
あって、
怒り心頭に達している人が
いれば、
「とことんまで
怒ろうよ」
とオススメする。
もちろんその怒りを
そのまま相手や
周りにぶつけるわけでは
ない。
それよりも
「怒っている自分」
をあるがままに
自分自身が
感じ取ることが大切だ。
それができて初めて、
本当の「今の意味」を
実践していることに
なるからだ。
「意味」を自覚するのは
後でいい。
それよりも
「今を感じ、今に集中し
今を生きる」
ことだ。
それは
「自分の心を素直に
感じ取る」
ことが出発点となる。
そこに
理屈はいらない。
・・・・・・
逆に言えば、
それができる人は
「今ここの幸せ」
を
素直に感じることも
できるようになる。
人生は
幸せに溢れている。
ほんの些細なこと
かもしれないが、
例えば、
青空を見上げた時、
道端の花を見つけた時、
電車の中で
他の人のちょっとした
素敵な振る舞いを見かけた時、
テレビで
心に沁みる一言を
聴いた時、
人から受けた
ちょっとした気遣い、
あの人の
ふと見せた幸せな表情、
一口食べた
その料理の美味しさ、
お酒の美味さ、
好きな音楽の
一節の爽快さ、
仲間のちょっとした
しょーもないギャグ、
家族の笑顔、
布団に横になった瞬間の
安堵感、
目覚めた瞬間の
光、
・・・
そんなちょっとしたことに
心、というよりも
魂がジーンとなるような
幸せ感を得ることが
できる。
私達は
今を生きているのだから、
素直に
今を生きればいい。
つづく
私はコーチとして、
最低限のサポート
しかしない、
と
決めている。
しかもその
最低限のサポート
とは、
私自身が決める
のではなく、
その人の真本音が
決めることだ。
・・・・・・
その人は、
今、
片膝をついている。
目を瞑り、
両手を合わせ、
祈りの姿勢のまま
動かない。
じっとしたまま
もう
何日も
動かない。
私はその人の
強い意志を
知っている。
人生を
超加速させようと
決意していることも、
その覚悟を
すでに持ち合わせている
ことも
知っている。
だからこそ
私は
慎重にその人に
問うている。
今は
私のサポートが
必要ですか?
と。
その人は
無言のまま、
しかし
とても明瞭な意志を
言葉ではなく
ダイレクトに
伝えてきた。
「何もしないで
ください」
と。
「今は自力で
すべてをやります」
と。
では私は
何もしませんね。
と
その人に告げ、
私はその人から
離れた。
・・・・・・
人生とは
自力で進むものだ。
しかし、
自力で進むために
どうしても
サポートが必要になる
ときがある。
「自力で進む
ためのサポート」
私は
これしかしないと
決めている。
これしかしない
のが、
コーチであると
思っている。
その人との
約束であると
思っている。
つづく
最近の傾向として、
本質的変化、
つまりは
「変質」
をした人が増えている。
単なる変化ではなく、
「変質」
である。
ところが
当の本人がその事実に
気づいていない
ケースも多い。
だから、一度
しっかりと
振り返ってみてほしい。
自分を客観的に
見つめてほしい。
あなたの
「中心」は
どこだろうか?
今の「中心」
だ。
体の中のどこ
だろうか?
それが特定
できたら、
以前のあなた
(例えば、
1ヶ月くらい前のあなた)
の「中心」は
どこだっただろうか?
この二つの問いに
直観的に
答えてみてほしい。
もし
以前の中心と
今の中心が
別の場所にあれば、
あなたは
「変質」
した可能性が高い。
・・・・・・
「変質」とは、
私の好きな言葉で
言い換えると
「変態」
と言ってもいい。
「変態」と言えば、
昆虫が
幼虫からサナギになり、
成虫になる
あの過程も
「変態」と言うらしい。
で、
先日、聴いたのだけど、
あのサナギの内部では、
昆虫は一度、
液体になるらしい。
液体だよ、
液体。
その上で、
成虫になるんだって。
凄いよね。
そこまで
徹底的にやるんだ。
そしてそれを
「変態」
と言うらしいのだけど、
確かにそれは
変態的だ。
・・・・・・
私達人間の体は
さすがに
そこまでの変化は
ないが、
しかし、
心という視点で見れば、
それに匹敵する
変態ぶりは
あるのだ。
これまでの自分を
一度、
徹底的に液化して、
再構築
する。
そういった「変質」
つまりは
「変態」
をした人が
最近はとても多い。
先ほど直観的に
「中心」が変わった
と思えた人は、
まずは
自分が「変態した」という
前提で
自分自身を
見つめてみよう。
・・・・・・
人の意識は
面白いことに、
顕在意識の変化が
最後に来る。
顕在意識が
最も変化しづらい
とも言える。
顕在意識が
変わらないので、
(つまりは、
頭でものを考える
その考え方は変わらないので)
自分は全然
変化していない、
と思い込んでいる人は
多いのだが、
実はそれは
大きな間違いだ。
顕在意識は
全体の意識の中の
わずか1%と
言われている。
残りの99%が
すべて変質(変態)しても
1%が変わらないので
「自分は変わっていない」
と思い込んでしまっている
だけだ。
99%とは言わないが、
自分の心の
かなりの割合が
大きく変わったのであれば、
それはちゃんと
自覚した方がいい。
「変態」の
意味は大きい。
なぜなら、
そこから自らの人生を
「次のステージ」に
進めようとしている
からだ。
次のステージに
見合う自分に
せっかく変化させたのに、
ずっと同じステージに
い続けるというのは、
実に
苦しい選択だ。
・・・・・・
もし
「中心」が変化した
と直観したなら、
まずは、
以前の中心に
意識を向けよう。
そして、
以前の自分は
何のために生きていたか?
という問いを
自分自身に投げてみよう。
そして、以前の中心を
見つめながら、
自然に浮かぶ答えを
認識しよう。
それができたら
今度は、
今の中心を見つめながら
同じように
問いを投げよう。
今の自分、
そしてこれからの自分は
何のために生きて行こうか?
自然に発想される
キーワードを
自覚しよう。
そして、
以前の「何のために」
を
思い切って
手放してしまおう。
その上で、
今の「何のために」
を
大事に大事に
胸に抱こう。
そうして
新たな一日を
過ごしてみよう。
まずは
ここからだね、
変態諸君!
つづく
「真剣」と「全力」は
ちょっと違う。
「全力」とは
文字通り、
その時出せるすべての力を
出し切っている状態だ。
「真剣」とは
自分がどこで全力を
出すか?
を、きちんと見極めて
生きている状態だ。
もう少し言えば、
普段の全力の力を
100とするならば、
いざという時に
1000の力を出せる
自分となれるように
生きている状態。
それが「真剣」。
当たり前だが、
朝から晩まで全力で
いたら、
そうはならない。
どこで自分は
全力になれば良いのか?
そのためには
どこで力を抜き、
どこで自分を整え、
どこで自分を癒し、
どこで自分のエネルギーを
磨くか?
どこで自分の能力を
磨くか?
などに意識を向け、
自然体で生きることが
肝要だ。
そうでなければ
1000の力は出ない。
本来、自分の出すべき
力は出ない。
この生き方をすることで、
自分の人生の目的は
自然に観えてくる。
・・・・・・
「真剣」と「本気」も
ちょっと違う。
「本気」とは
真剣な人が、
ここで全力を出そう
と決めて、
全力を出しきっている状態
だ。
そしてそれが本当に
できる時はただ一つ。
その人の人生の目的
に向かう時だ。
自分の使命を
果たそうとする時だ。
つまり。
真剣な人が
目的を見つけ、
目的のための行動を
全力でとっている状態。
これが
「本気」の状態
だ。
・・・・・・
自分は本気である、
と
思い込んでいる人が
多過ぎる。
あなたの「本気」は
そんなもんじゃ
ないだろう。
真剣に生きる
こともせず、
全力を出すことも
せず、
ただ、
「私は本気です」
とは
言うなかれ。
第一、
本当に本気な人は、
「私は本気です」
なんて言葉は
決して口にはしない。
本当に本気な人は
みんな、
こう言うんだ。
「なんか、
毎日が楽しくて
しょうがないんですよ!」
そう言って、
最高の笑顔で
笑うのさ。
つづく
人は誰しも
心の中に、
深い悲しみを
たくさん抱えている。
そんな身に覚えはない、
という人も
時々いるが、
いやいや
必ず悲しみは、ある。
その悲しみが故に、
自身の真本音の道へ
入れないでいる
人も多い。
だから、
トラウマのように
なっているその悲しみを
あらゆる方法で
取ろうと
努力する人もいる。
そんな
サポートの仕方も
ある。
しかし。
私は思うのだ。
あえて言おう。
その悲しみは
その人にとっての
宝物だ、と。
その悲しみが
あるからこそ、
その人
ではないのか。
その悲しみが
あるからこそ、
その人生
ではないのか。
だから私は、
悲しみを取り除いたり、
トラウマを解消する
ようなサポートは
いっさい
しない。
・・・・・・
当然、
私の中にも
悲しみがある。
それもかなり
深い悲しみだ。
それのおかげで
随分と
人生の回り道を
したように思う。
しかしやはり、
私はどれだけ
自分の真本音度合いが
高まっても、
決して
その悲しみを
取り除こうとは
思わない。
これは一生、
持っていく。
それが私であり、
私の人生だから。
いや。
むしろ、
この悲しみのおかげで
私は
ここまで来れた。
今のこのお仕事を
精一杯させて
いただいているのも、
その悲しみの
おかげ、とも言える。
ある時に、
決めたのだ。
この悲しみと
共に生きていこう、
と。
覚悟を
決めた。
すると途端に、
道が開いた。
そういうことでは
ないのか。
・・・・・・
悲しみとは
反応本音の一つ
であるが、
反応本音とは
本来、
真本音の仲間
だ。
この現実世界において、
より間違いなく
真本音の道を
進めるように。
そんな目的で
本来は、
反応本音は発生する。
人生とは、
真本音と反応本音の
コラボだ。
それが
人生の本質。
しかし人は、
強い反応本音に
苛まれると、
そこに溺れてしまい、
真本音を
諦めてしまう。
もちろん私にも
その時期は
あったが、
しかし大事なのは、
反応本音を
消し去ることではなく、
真本音を
思い出すことだ。
そして
自らの真本音の願いを
抱き続けることだ。
自らが、
誰よりもそれを
大切にし続けることだ。
それにより、
真本音と反応本音の
コラボが始まる。
その瞬間から、
強い反応本音も
「宝物」
となる。
深い悲しみも
人生の宝物と
なる。
「それがあるからこそ」
の人生と
なるんだ。
つづく
私に脳裏には
昔からいつも
「満月」
がある。
いつ見たのかは
わからないが、
いつからかずっと
同じ「満月」があり、
それはとても
懐かしい。
私はあの「満月」を
見ながら、
ある誓いを
立てた。
どんな誓いか?
実は、
忘れてしまった。(笑)
だって、
誓いを立てた
記憶がない。
でも、確かに
私は
誓いを立てた。
ということは
わかるのだ。
・・・・・・
その誓いを
私は恐らく、
愚直なまでに
守り続けている。
何があっても
それだけは
ずっと
守り続けている。
もしそれを
守らなければ、
私は
私でなくなってしまう。
のだと
わかる。
誓いは
思い出せないの
だけど。
・・・・・・
私のクライアントさん達は
本当に
素敵な人達ばかりで、
彼らと向き合っていると、
最近、
その「満月」が
強烈に
浮かぶようになってきた。
目の前にいる
クライアントさんの
真剣な眼差しと
「満月」が
重なるように。
・・・・・・
私の何かが
開放されるような
予感が、
今、
している。
つづく
自分の目の前に
現れる
あらゆる「現実」は
自分自身の
『生き方』
の反映である。
と
言い切ってもよいのでは
ないか、と
私は常々痛感している。
現実は
思う通りには
いかない。
この
「思う通り」とは、
顕在意識レベルでの
意図や思惑のことを
言っている。
自分の意図通りには
現実は進まない。
もし
進んでいるとしたら、
それは
「挑戦」をしていない
からだろう。
真の成長や進化とは、
自分の枠を
超えていくことで
成される。
枠を超えるためには
どうしても
「思い通りにはいかない」
という現実が
私達には必要だ。
しかし本当に大事なのは、
思い通りにいかない現実
が現れた時、
それに対して
自分がどうするか?
だ。
ここで「生き方」が
問われる。
・・・・・・
本当は、
思い通りにいかない現実
そのものを
楽しめるように
なるといい。
でも、
なかなかそれは
難しい。
でも、
楽しめる自分
はぜひ、
目指してほしい。
そのために必要な
ことは、
今ここで起きている
現実を
あるがままに
しっかりと
観察すること、
だ。
思い通りにならない現実
からは
私達はどうしても
目をそらしてしまう。
逃げようと
してしまう。
そこを
踏ん張るのだ。
どのような現実も
自分に与えられたものだ。
自分の人生だ。
自分のものだ。
という意識を持ち、
ただただ
向き合うのだ。
対処のしようが
わからなくても
いい。
うろたえても
いい。
弱い心が
噴出してもいい。
どんな自分になっても
いいから、
しかしそれでも
向き合う。
この「生き方」こそが
すべての道を
開いていく。
結果的には。
・・・・・・
そういった意味では、
あえて
次のように
言うこともできる。
苦手なものほど、
しっかりと
向き合い、
見つめよう。
と。
例えば、
苦手な人ほど
しっかりと
向き合い、
見つめよう。
最初は
辛いかもしれないが、
しかし、
逃げるよりは
よっぽど楽だ。
逃げることばかりを
考えている時ほど、
私達が弱く
なることはない。
私達が苦しく
なることはない。
ちゃんと向き合おう
と、
開き直った時に、
スーッと心が
楽になっていく。
本来の自分に
戻っていく。
その感覚こそが、
『自由』
の感覚だ。
これを
当たり前のように
知った者こそが、
自らの人生において
「本当にやりたいこと」
を
見つけることが
できるんだ。
つづく
一日、一日、
着実に
自分の為すべきことを
決めよう。
今日は必ず
これをする、
と、
一日の始めに
完全に決めよう。
そして
それは必ず
やる。
小さなことで
いい。
これを毎日
繰り返そう。
それだけのことで
人生は
好転し始める。
・・・・・・
無理難題に
見えることでも、
一歩一歩だ。
50mを一気に
ジャンプすることは
無理でも、
毎日、50cmずつ
進めば、
100日で、50m進める。
3ヶ月強だ。
でも、
50mは難しいなぁ、
と言いながら
何もしなければ、
3ヶ月経っても
同じ場所にいる。
この差は
大きい。
この一歩一歩を
実践する人か?
そうでない人か?
ひょっとすると
それだけでは
ないのか。
望む現実を
手に入れる人と、
そうでない人の
違いは。
と思うことが
よくある。
・・・・・・
願いは
一気に叶うものでは
決してない。
一歩一歩の
積み重ねで
叶うもの。
しかも
無理をする一歩で
なくていい。
できる一歩
を
踏み出し
続ける
だけだよね。
つづく
恋愛だけに
限らず、
人が人を
好きになる
というのは
とても尊いことだ。
それにしても、
『好き』
という感覚は
これは一体
何だろうね。
考えたことある?
本当に不思議な
感覚だね。
この感覚って
多分、
人間だけが持つ
ものではないよね。
動物もみんな
持っている
ある意味、
宇宙普遍
の
宇宙不変
の
感覚だね、
きっと。
これがあるから
私達は、
人生がとても
幸せなものになるし、
豊かなものに
なる。
似たものとして
「愛」
というのがあるけど、
愛とは
エネルギーだ
と私は
思っている。
バラバラだったものが
一つになろうとする
エネルギー。
でも、
「好き」という感覚は
それとはまたちょっと
違う気がするね。
「好き」と「愛」が
絡み合い
融合するとき、
なんか
実在のレベルでは
とてつもないことが
起きている
気がする。
これは
何だろうね。
それが
この世の中を、
宇宙を
動かしている
のではないかな。
・・・・・・
気がつけば、
とても
ありがたいことに、
私の周りは、
私が「大好き」な
人達ばかりである。
一緒に仕事をする
仲間も
お客様も
みんな
大好きな人達
ばかりだ。
今日は
◯◯さんに
会える。
明日は
△△さんに
会える。
・・・と
手帳のスケジュールを
見ているだけで、
幸せになる。
いつの間に
こんなに幸せな
毎日になれたのだろう?
と
不思議に
思う。
私は昔は、
人間が嫌いな
人間だった。
心の奥では
自分のことも
他人のことも
すべて
嫌いだった。
もし、
人生を
誰にも会わずに
生きることができるなら、
一生、
誰にも会いたくない、
くらいに
思っていた時期も
あった。
そんな私が
いつの間にか、
人間が
大好きになっており、
そして
大好きな人達と
一緒に進んでいる。
なんでこんな現実が
起きているのか?と
最近は特に
不思議に思うのだ。
もちろんそれは、
真本音で生き続けた
という結果である
というのは
わかってるんだけど、
そうじゃなくて、
何と言うかな、
そうそう、
もっと根源的な
もの、
「好き」という
感覚の奥にある
根源的な何か、
それを私は
理解したい。
そのためにも
私は
もっともっと
この
『好き』
という感覚を
大事にしようと
思う。
この
あまりにも
人間的な
気持ちをね。
つづく
私のビジネスパートナーの
一人は
今、
自分の会社のホームページを
創っている。
どうやらそこに
私も載せてくれる
らしい。
「たけうちさん、
たけうちさんの写真を
載せたいのですが、
二つ候補がありまして。
写真Aと写真Bですが、
どっちがいいですか?」
と
2枚の写真を
見せられた。
私は迷うことなく、
「Aはちょっと変だから、
Bがいいな」
と
返した。
「わかりました!
そうします」
と
返事。
数日後、
ほぼ出来上がったホームページ
を見せてもらった。
そこに載っていたのは
写真Bじゃなくて
写真A。
「あれ?
写真Aになってるけど・・・」
「あーそれですね。
やっぱ、Aの方がいいかな
って思って。あはは」
・・・この軽さ。
私はこの軽さを
『真剣』
と呼ぶ。
・・・・・・
本当に真剣な
人は、
軽い。
もちろん、
真剣じゃない人で
軽い人も
いっぱいいる。
そういう軽さは
私は勘弁してもらいたい
のだが、
真剣な人の持つ
その独特の軽さを
私は愛する。
それは言葉を
換えれば、
『遊び心』
とも言える。
遊び心とは
柔軟性そのもの
でもあるが、
その柔軟性とは、
「常に原点に返る」
柔軟性だ。
あらゆる情報を
自らにインプットし、
あらゆる経験や
あらゆる試行錯誤を
経て、
その上で
原点に返る。
そして
答えを出す。
こんな情報が
あったから
こうしよう。
・・・ではない。
こんな経験をしたから
こうしよう。
・・・でもない。
打合せでこう決まった
から
こうしよう。
・・・すらない。
あらゆることを経て、
すべてを自分自身に
インプットした上で
原点に返るのだ。
そして
決断をする。
だから一見すると、
突拍子もない答えに
なることもある。
しかしそれが
真剣な人の
特長の一つだ。
これ、
一歩間違えれば、
単なるいい加減
と見られたり、
独断
と見られたりして、
ギクシャクや混乱の
もとになることも
あるが、
本当に真剣な人が
これをやると、
結果的にはすべてが
調和する。
これが実に
楽しい。
・・・・・・
気がつけば、
私の周りは
真剣な人ばかりだ。
だから皆、
軽い。笑
軽くて
明るい。
しかし、
深い。
そんな人達と今、
いろんなビジネスが
展開し始めている。
だから私も
ますます真剣に
なる。
つまり、
軽くなる。
一年後が
どうなっているのか、
まったく予測のつかない
展開になっているが、
この
予測のつかなさ
も、
軽やかに楽しみながら
進むつもりだ。
つづく
今、
自分を縛っている
ものは何か?
という視点で
自分自身を
客観的に見つめることを
オススメする。
縛っているものが
悪いわけではない。
それを
なくそうという
話でもない。
ただ、
それを自覚する
ことが大事だ。
私は今、
〜〜に縛られている。
その結果、
このような影響を
受けている、
と
分析できると
尚、良い。
・・・・・・
自分を縛るものが
皆無な人は
いない。
生きる、ということは
何かに縛られる
ということでもある
からだ。
そして
自分を縛っている
ものには、
必ずメリットが
ある。
メリットがあるからこそ、
私達は
縛られることを
容認している。
例えば
ある社長は、
自分が
「経営」に縛られている
ことに気づかれた。
正確に言えば、
「これまでの世の中の
経営の仕方」
にだ。
だから、
「本当は私はこんな
経営をしたい」
という願いがあったが、
それを無意識に抑え、
世の中のやり方に
倣っていた。
それにより
相当のストレスと
迷いを持ちながら
ここまで来たのだが、
しかしその道のりには
彼なりの
メリットがあった。
彼はもともと
直観型の人間で、
あらゆることを
自分の直観を信じて
推進して来たのだが、
経営においては
それを封印した。
しかしそのおかげで、
「戦略」と「仕組み創り」
という力を
彼は得ることができた。
これが彼にとっての
メリットだった。
しかし彼は
もうすでに
「完了感」を得ていた。
つまり、
得るべき力は
もう得ることができた、
と
彼自身が満足
していた。
だからこそ彼は
直観型に戻った。
戻ったのだが、
これまで培った
戦略と仕組み創りの力が
活きた。
直観を戦略や仕組みに落とす
ことが
できるようになったのだ。
このように、
縛られているものを
自覚することで、
何のために自分は
縛られているのか?
が
わかるようになる。
そして、
それを今後、
どのように活かせば
良いか?
が
わかるようになる。
つまり、
次のステージへの
大事な布石となる。
・・・・・・
どうせ
縛られるのならば、
自らの意思と
願いに基づいて
自らを縛ろう。
それもまた
『自由』
ということでは
ないだろうか。
つづく
私の仕事は、
人の弱さと向き合う
仕事でもある。
なんて弱いんだ、
この人は。
と思うことは
日常茶飯事だ。
しかし。
だからと言って、
この人はダメだ、
とは
決してならない。
なぜなら、
私自身にもまた
同じ弱さが
確かに存在している
からだ。
人は皆、
同じだ。
・・・・・・
自分の弱さに
負け、
逃げる方向に
人生の舵を切る人と、
自分の弱さに
負けずに、
現実に立ち向かう人。
その違いは、
ほんのわずかな
ものだ。
昔の私は
随分と
逃げた。
格好いいことを
言ったり、
格好いいふりも
随分としたが、
陰でこっそり
いつも逃げていた。
そして
そんな自分を
誰よりも
憎んだ。
自分自身を
憎み続けた。
そしてそのストレスで
心はさらに
弱くなり、
さらに
現実から逃げた。
そんな悪循環。
そこから抜け出せたのは、
様々な人との
出会いと、
そして
自らの真本音との
出会いのおかげ
だった。
・・・・・・
人の生き方は
そんなに簡単には
変わらない。
人が
別人になることは
ない。
しかし、
今の自分の心よりも
もっと本質的な、
もっと本来に近い
自分自身の心と
出会えば、
変われるかも
しれない。
いやそれは、
変わるというよりも、
本当の自分に
一歩近づくこと。
その一歩一歩を
進むことで、
いつしか人は
自分の弱さに
溺れなくなる。
・・・これが私の
体験であり、
これに基づいて
私は
今のお仕事を
続けさせていただいている。
・・・・・・
最後は
どこまでいっても
その人の生き方で
人生は決まる。
自分の弱さによって
逃げてしまうか、
それとも
立ち向かうか。
それを決めるのは
本人だ。
ちゃんと立ち向かえる
自分になるために、
強くなれ!
とは私は
言わない。
私がいつも
お伝えしているのは、
自分の弱さを
しっかり
見つめよう。
ということだ。
弱さから
目を反らすから、
弱さに
取り込まれる。
自らの弱さは
自ら
見つめる。
あぁなんて
自分は弱いのか。
と、
自らを
理解する。
それだけで
いい。
それができれば、
真本音の望む
生き方を、
人は
できるようになるのだ。
・・・・・・
・・・ってね。
でも、それ自体も
言うは易し、
行なうは難し、
だ。
自分の弱さを
自分で見つめること
すら
やっぱり
難しいんだ。
それは
わかる。
でも、
それは
やるしかない。
そこは
やるしかない。
その人が
そうできるように、
最後は
その人が決める
ことだと
よくわかっているが、
しかしそれでも
私は
他者としてできる
最大のことは
やり続けたいと
思っている。
つづく
どうやら
多くの人達が
大海原に
自らの船を
漕ぎ出したようだ。
その大海原に
名前をつけるとしたら、
『自由』
ということに
なるだろうか。
しかし、大海原と
言うだけあって、
その世界は
果てしなく
広がっている。
これまで
自分の船を漕ぎ出すんだ!
と
がんばってきたのだが、
いざ、漕ぎ出してみると、
そのあまりの
世界の広大さに
茫然としているのでは
ないだろうか。
「自由」とは、
一見、とても居心地の良い
言葉であるが、
いざ、本当に自由になれば
途端に、
これまでとは別次元の
恐怖や不安が
襲ってくるだろう。
しかし私は
本当に心を込めて
伝えたい。
恐怖に負けるな!
不安に負けるな!
と。
ここまで来た
自らの意志と願いを
いつも思い出そう!
と。
・・・・・・
いくら大海原に
出たとは言え、
進み方は
これまでと同じだ。
目の前の
一つ一つの「現実」を
大切にすることだ。
大海原は
無限に広がっていても、
私達が一日に
できることは
限られている。
ステージが変わった
と言っても、
すぐにスーパーマンに
なれるわけではないのだ。
ここにいるのは、
これまでと同じ
自分だ。
ただ、
これまで心の中に
渦巻いていた
余分なものが
解消されている。
本来の自分の
願いが、
ここにあるはずだ。
だからこそ、
「自由」という大海原に
出られたのだ。
だからここからは、
願いを持って
進もう。
常に。
それだけが
これまでとの違いだ。
私達にできるのは、
今、ここにいる
自分を
大切にすること。
それはつまり、
今、ここにある現実を
すべて
大切にすること。
これまで続けて来た
仕事や
人間関係や
趣味や
あらゆることを
これまで以上に
大切にすること。
誠実に
向かうこと。
願いを持った自分
として。
それだけの
ことだ。
何かを意図的に
大きく変えなければ
ならないわけではない。
そうやって
しっかりと現実の
一つ一つに向かえば、
自然に
道が観えてくるんだ。
どこに
自分が舵を取れば
よいのか?が、
次第にね。
それが観える
までは、
一つ一つ丁寧に。
一つ一つ誠実に。
この「日常」を
大切にしよう。
つづく
真の「決意」は
自分を根底から
静かにしてくれる。
真の「決意」は
心も体も魂からも
余分な力を抜き、
実に落ち着いた
状態を
もたらしてくれる。
あなたの中には
今、
どのような「決意」が
あるだろうか?
・・・・・・
その「決意」を
あなたの体の
中心だと思うところに
置くといい。
そこにまるで
生まれたばかりの
赤ちゃんを
抱くように。
その光を
大切に大切に
育んでいくといい。
そしてできれば、
その「決意」の光を、
毎日、
24時間、
感じ続けるといい。
「決意を持った自分」
として、
そのまま、
「日常」に
入っていくといい。
歯を磨くのも、
トイレに入るのも、
ご飯を食べるのも、
電車に乗るのも、
「おはよう」の挨拶を
するのも、
一つ一つの仕事に
取り組むのも、
一人一人の人と
会話をするのも、
一人でボーッと
時間を過ごすのも、
テレビを観るのも、
家族で団欒するのも、
お風呂に入るのも、
布団に入るのも、
・・・日常の
あらゆるすべての
活動を、
「決意を持った自分」
として
行なうといい。
それは、
あなたの空気感を
変え、
ちょっとした
振る舞いや仕草を
変え、
波動の流れを
変え、
すべての「現実」を
変え始めるだろう。
・・・・・・
「決意」とは
あなた自身だ。
「決意」とあなたは
一つだ。
「決意を持った自分」
として
これからの人生を
楽しんでほしいな。
つづく
私は
一人の時間を
とても大事にしている。
普段、
人と向き合うことを
仕事にしているので、
余計に
大事にしている。
一人の時間が
いかに重要か?を
知ったのは、
恐らく
大学で登山をしていた
時だ。
当時、私はよく一人で
山に入って行った。
自らテントを担ぎ、
誰ともほとんど会話せず
山の中を何日も
歩き回った。
そこには
独特の孤独感があったが、
病みつきになるような
幸せ感もあった。
一人で山の中にいたり、
一人でテントの中にいれば、
いろんなことを考えるだろう、
と思われるかも
しれない。
確かにグルグルと
いろんな思考は駆け巡って
いたかもしれないが、
しかしほとんどの時間は
「何もしていなかった」。
何もしない
時間。
これが人生に
測り知れない影響を
与えていた。
・・・・・・
山の中では
何もしなかったが、
帰って来てから
私は必ず
紀行文を書いた。
誰に読ませるもの
でもない。
しかし日記でも
ない。
書いている私の意識には
確かに、
「読んでもらう相手」
がいた。
その相手に私は
自分の感じたことを
克明に説明しようとした。
それをひたすらに
文章にした。
自分の感じたこと、
自分の気持ちを
私は妥協なく言葉で
表現しようとした。
どうしても良い言葉が
思いつかなければ、
本を読んだり
辞書を調べたりしながら
自分の感覚に最も近い
言葉を
探し続けた。
そんなことを
山に行くたびに
続けていた。
山の中では
「何もしなかった」のだが、
帰って来てから
文章を書くと、
面白いように自分の気持ち達が
湧いて出た。
へぇ、あの時、俺は
こんなことを感じて
いたのか。
こんなことを
考えていたのか。
など、
文章を書く段で初めて
気づくことばかりだった。
山では何もせず、
帰って来てから
文章を書いて
様々な何かに気づく。
この繰り返しで
私は私の人生の道が
ほぼ決まったのだと、
今から振り返れば
思う。
・・・・・・
今でも私は
同じようなことを
している。
ただ、
山に行くのがなくなった
だけだ。
今の私は
山に行かなくとも
山に行ったのと同じ状態に
なれる。
私は毎日、必ず
「一人で何もしない時間」
を取る。
思考もすべて
停止させる。
何もしないでいると、
すぐに、
自分と自分以外
の区別が
つかなくなる。
自分は世界であり
世界は自分である
ということが
当たり前の感覚になる。
しばらくその状態でいると、
その後、自然に
様々な
「気づき」
が始まる。
その「気づき」達は
かなり具体的なものが
多い。
ほとんどが
仕事に直結するもの。
そして私は
その「気づき」の通りに
行動を起こす。
すると、
すべてが
調和する。
これが私の日課
であり、
セルフコーチングの
基本だ。
そう言えば、
一人で山に入っていた時、
私は
自分と山との
区別がつかなくなることが
よくあった。
あれは
今のセルフコーチング法を
実践できるようになるための
練習をしていたのだな、
と思う。
・・・・・・
この私のやり方を
セルフコーチングとは
一般的には呼ばないのかも
しれない。
しかしこれは間違いなく
自分自身へのコーチングであり、
「気づきの源泉」
となるものだ。
自分で自分の道を
しっかりと選択し、
自らの未来を開くためには
なくてはならないものだ。
これがあるからこそ、
私はここまで来れたし、
未来が開く実感も
得ることができる。
これを私は
多くの人達に
できるようになってもらいたい。
そう。
今はまだ
ほとんどの人が
「何もしない」
ことができないのだ。
私のビジネスパートナーが
とても良い表現を
思いついてくれた。
『リブート』
つまり、
『再起動』
だ。
私はこれを毎日
行なっている。
リブートのための
セルフコーチング法。
この講座を
今、準備している。
つづく
私の人生において
最重要のテーマの一つは
『自由』
だ。
自由とは何か?
本当の自由とは?
ということを
もう30年以上、
探究しているのでは
ないか。
自由について、
いろんな角度から
このブログでも書いて
いきたいのだが、
今日は
こんな角度は
どうだろう。
「自由を求めるならば、
枠を大事にしよう。」
・・・・・・
枠は大事だ。
この世は
「枠」だ。
私達は
「枠」の中に生まれ、
さらに
「枠」をはめられ続け、
生きている。
男性女性の区別も
「枠」だ。
名前も「枠」だ。
生まれた地域も
環境もすべて
「枠」だ。
一日が24時間というのも
「枠」だし、
重力も「枠」だし、
体が一個しかないのも
「枠」だ。
私達の思考さえも
「枠」と言えるかもしれない。
この世は
「枠」
しかないではないか。
自由とは、
それらの「枠」を
取り払うことだろうか?
いや、
そうではない
と
私は思う。
だって
「枠」はなくならないし。
それどころか、
「枠」があること自体が
この世の意味だし
意義だし
価値だから。
「枠」の否定は
むしろ
不自由の象徴
のように
私には映る。
それは、
この世界の否定
だからだ。
否定は
不自由だ。
かといって
肯定も
不自由だ。
肯定も否定も
どちらでもいいじゃないか、
というのが
本来だし、
そこはちょっと
「自由」な感じがする。
・・・・・・
「枠」を取り払おうと
する人は
多いが、
その姿はとても
不自由に
映る。
私には。
私は
こう思うのだ。
「自由」とは、
どのような「枠」の中でも
自由でいること。
わけわからんかな?
でもこれは
本質だと思っている。
・・・・・・
「私は自由に生きたいから、
好きなことしか
やらないんだ」
という人を見ると、
本当に不自由な人だな、
と思う。
なぜならそれは
「好きなことしかできない」
人生だから。
好きなことのできる
環境であれば
自由になれて、
そうでない環境で
あれば、
自由になれない、
ということでしょ。
これって完全に
環境に左右されている
人生だ。
つまりは、
人生のハンドルが
「環境」にある。
人生のハンドルが
「自分」にはない。
それを「自由」とは
到底言えないだろう。
どんな環境においても
自由に生きれる人が
「自由」な人だと
私は思う。
嫌いなことは
やらない。
好きなことだけ
やる。
のではなく、
すべてを
自分らしく自由に
できることが
「自由」ではないかな。
もちろん、
「嫌だぁ、やりたくない!」
という気持ちが
湧くだろう。
しかしその気持ちが
あることで
不自由になるなんて
弱過ぎないかい。
「嫌だぁ、やりたくない!」
という気持ちすら
あるがままにさせて
おけばいい。
自由にさせて
おけばいい。
でもって
ちゃんとやるべきことを
自分の意志と意思で
行なっていく。
これができている時
私達は
「自由」を手に入れている
のだと私は思うけど、
どうかな?
・・・・・・
その人が自由かどうか?
は
顔を見ればすぐに
わかる。
自由な人は
険しさがない。
不自由な人は、
どれだけ好きなことを
やっていても
必ず顔に
険しさが出る。
自由な人は、
絶対に
何かを否定はしない。
無理な肯定も
しない。
そんなものからは
自由になっているからだ。
好きは好き。
嫌いは嫌い。
自由は自由。
不自由は不自由。
やりたいことは
やりたいこと。
やりたくないことは
やりたくないこと。
以上。
となっている人が、
自由ではないか。
だから自由な人は
「枠」を本当に大事に
している。
それはこの「世界」を
大事にしていることと
イコールだから。
そこにあるものすべて
(つまりは、枠のすべて)
を大事に
しているんだ。
自由だから。
つづく
人に励ましてもらいながら、
勇み足で進むよりも、
着実に一歩ずつ
自力で進んだ方が
よい。
その方が結果的には
超加速になってゆく。
ということを
最近はつくづく
感じる。
私のクライアントさんで
自力で進もう
という意志を持った
人達の成長ぶりが
なかなかに
凄い。
面白いことに
自力で進もう
という意志を持つ人にこそ
サポートは
意味を成す。
自力で進む人にこそ
コーチングは
効果を発揮する。
そういった意味では、
この人は
コーチングなんぞ
必要ないだろうな、
と
思える人ほど
コーチングを受けた方がいい、
とも言える。
・・・・・・
私のコーチングを
受けたクライアントさんの
多くは、
私の手に負えなく
なる。(笑)
そうなる状態を
私はとても強く
望んでいる。
私の範疇には
収まらず、
いったいこの人を
どうサポートしたら
よいのだろうか?と
まったくもって
わからなくなる。
実は、
ここからが本当の
コーチングのスタートだ。
ここからが
コーチングの醍醐味
だ。
手に負えない人を
どうサポートするか?
これこそが
コーチングスキルの
本質なのだと
私は思う。
・・・・・・
私の仕事は
本当に
幸せな仕事だ。
この仕事のおかげで
私の人生は
想像以上に充実した
ものになっている。
クライアントさんは
手に負えない人達
ばかりなので、
毎日、何が起こるのか
本当にわからない。
でも何が起きても
ちゃんと対応できるように
しておかねばならない。
だから
毎日、緊張の連続だ。
が、しかし
その分、
毎日、喜びの連続だ。
今、
私と同じ仕事を
目指してくれる人が
何人かいる。
私はその人達と共に
現場に入っている。
やはりコーチは
現場の中でしか
育成できないということが
わかったからだ。
おかげで
今、一緒にがんばっている
彼らは、
メキメキと力を
つけている。
そして
私の手に負えなく
なりつつある。
これも私の
喜びの一つだ。
そんな、
コーチを目指す人達を
一人、また一人、と
着実に増やしていきたいと
思っている。
つづく
AかBか?
迷ったら、
AかBかを迷っている
自分自身を
本当に
大事にしよう。
決して、
「迷っているなんて
ダメだ」
とは
思わないこと。
迷いは
大事だ。
もちろん、
不必要な迷いも
あるが、
まずは
今ここで迷っている
自分自身を
そのまま、あるがままに
大事にしよう。
すると、
場合によっては、
その迷いを超えた
答えが
生まれることもある。
あくまで
「こともある」
だが。
・・・・・・
時々、
「どれが本当の自分
なのでしょうか?」
というご質問をいただく。
その人は
「本当の自分として
生きたい」
という想いを
お持ちなのだが。
その想い自体は
とても大切だが、
そこに捕らわれすぎると
苦しくなるし、
視野が極端に
狭くなる。
ここでも大事なのは、
「どれも、
ここにあるものは
すべて
本当の自分だろう」
という
大らかさと、
「どれが本当の自分か?
を悩んでいる自分自身を
大事にしよう」
という大らかさだ。
そうやって
思い悩んでいる自分も
本当の自分の
一つだ。
・・・・・・
似た表現で、
私はよく
「本来の自分として
生きよう」
という言い方を
するし、
「本来でない状態で
生きている人が多い」
という言い方も
する。
だから
「どれが本来なんだ?」
という疑問が湧くのは
当然だと思うし、
そういう疑問を
私自身が喚起させて
しまっている
とも思う。
でもやはり
その疑問(=問い)を
持つこと自体は
とても重要で、
これがなければ
始まらないのだが、
しかしやはり
ここでも
「正しい答えを出そう」
とは
思い過ぎない方がいい。
それをすると
余計に
答えが遠のいて
しまう。
「どれが本来か?」
という問いと
共に
「どれでもいいじゃない」
という大らかさを
持って初めて、
私達は
その問いの持つ
真の意味と
真の答えに
たどり着けるんだ。
つづく
自分一人の力で
太刀打ちできることを
ミッションにする、
なんてことをするほど
私達人間は
甘くできていない。
自分一人では
到底実現できないことを
私達の真本音は
自分の人生の目的
と役割
として、
自らの魂に刻み込んで
いる。
だから、
自分の本当のミッション
に気づいた人の
多くは、
その内容に
愕然とする。
私は
こんなことを
望んでいるのか・・・、
と。
顕在意識のレベル
では、
「そんなの絶対
無理だ!」
と
拒絶や抵抗感が
生まれるのだが、
しかしその一方で、
心の奥の方で、
確かに
喜んでいる自分が
いるはずだ。
その喜びは
最初は微小な
ものだが、
しかし実は、
それこそが
真の喜びであり、
本来の自分の
幸せそのものなのだ、
ということを
私達は
日に日に
いやでも
実感することになる。
なぜなら、
自分の本当のミッション
を自覚した者は
意図せずとも、
その方向に
進んでしまうから。
その方向に
現実が動いていることに
気づくことで
どうしても
喜んでしまう自分を
否定できなく
なるから。
そう。
ミッションとは
実現できるかどうか?
ではない。
その方向に
本気で
一歩
進むだけで、
大いなる喜びが
来るものだ。
残念ながら、
それを体験してしまうと
もう、
これまでのあらゆる喜びが
霞んでしまうほどだ。
これを
真本音の喜び
と
私は呼んでいる。
・・・・・・
もちろん、
真本音の喜び
とは
一つだけではない。
ミッションに向かう日々
が始まることで、
もっと日常的な
ほんの些細な
現象の一つ一つにも
真本音の喜びは
生まれるようになる。
喜ぶことに
素直になれる、
という表現でも
いいかも。
例えば、
ちょっとした道端の
花を見るだけで
泣けて来ることがある。
青空を見るだけで
全身がジンジンと
しびれることがある。
目の前の人の
何気ないたった一言を
聴くだけで、
世界のすべてが
薔薇色に見えることだって
あるくらいだ。
そこまで喜びを
感じられるようになると
次に起こるのは、
ほしいものは
すべて手に入る
という現実だ。
ただしその「ほしいもの」
とは、
本当の本当の本当に
ほしいもののことだ。
100%ほしい
と思っているもの
だけだ。
だから中途半端に
ほしいものは逆に、
どんどん
手放すことになる。
だから多くの場合は
生活がとても
シンプルになっていく。
とはいえそれは
単に質素になっていく
のとも違う。
本当にほしいものは
ちゃんと
集まって来るからだ。
それは
一見すると
不思議な現象である。
でもあまりにも
自然の摂理そのもの
でもある。
自分のほしいもの達は
ここにある
ことが最も自然だな、
と
思えるのだ。
ここにあるのが
最も自然なものが
ここに集まって来る。
ということだ。
・・・・・・
自分の本当のミッションに
気づき始めている人が
急増中だ。
だからこの文章を
書いているのだが、
どうか、
自分自身のミッションを
見つめることに
(気づくことに)
躊躇しないでほしい。
だってあなたは
そのために
ここに生まれて
来たのだから。
そして、
ミッションを自覚することが
ゴールでもない
ということを
よくわかってほしい。
ミッションの自覚とは、
本来の人生の
スタートを意味する。
やっと人生が
始まるのだ。
年齢は関係ない。
自覚から
人生は
始まる。
早く、
人生を
始めてほしい。
私は
そういう人を
サポートしたいのだ。
つづく
人生の
大きな選択が
できたら、
一度、
休むといい。
今、
疲れているだろう?
それはそうだ。
あなたは
とてつもなく
大きな山を
越えたのだ。
恐らく、
最も辛い道のり
だったろう。
最も
自分にとって
弱い部分に
焦点の当たる日々
だったろう。
最も行きたくない
と思う方向に
あなたは
必死に意識を
向け続けたのではないか。
でもそれは
あなたが次の
新たなステージに
入るためには
必須のことだった。
それを
あなたの真本音は
よくわかっており、
しかし
あなたの反応本音は
とても抵抗をし、
その狭間で
あなたは相当に
揺れ動いたはずだ。
しかしそれももう
終わったことだ。
人の心には
「ぶり返し」というのがあり、
あなたのその苦しみが
感覚として
フラッシュバックすることは
今後もあるかも
しれない。
しかし安心すれば
いい。
それは単なる
幻影だ。
もうあなたは
それをすでに
超えたのだ。
今は少し
休むといい。
心や体というよりも
魂が疲れてしまって
いるはずだ。
魂の疲れは
気合いで何とかなる
ものではない。
充分な休息が
必要だ。
そして
エネルギーが
甦ってくる頃に、
あなたの次の
道のりへの
想いやビジョンが
溢れ出てくるはずだ。
それを
待てばいい。
一つのステージが
終わり、
次のステージが
始まる。
節目だね。
おめでとう!
やっぱり
その言葉が
ぴったりだね。
自分自身に
その言葉、
贈ってあげて
ください。
つづく
私とは
何だろう?
私とは
何だろう?
私とは
何だろう?
・・・と
100万回繰り返し
自分に問うても、
答えは
決してわからない。
しかし、
私とは
何だろう?
という問いを
大事にしながら、
目の前にある
「現実」に
一つずつ丁寧に
向かっていくと、
答えは
徐々に
観えてくる。
これが
私達人間だ。
私達は
「社会的生き物」
だ。
社会を構成する
という前提のもとで
生まれている。
「社会」という言葉が
固ければ、
「人との関わりを
前提に」
と表現し直しても
いい。
そして
「現実との関わりを
前提に」
とも言える。
私達は、
「内に籠もる」
ようにはできていない。
「外と向き合う」
ように
できている。
ちゃんと
「外と向き合う」
ことで、
内を理解する。
そのように
できている。
・・・・・・
とは言え、
外にだけ
(現実にだけ)
向かえばいい、
というものでも
ない。
内をないがしろにし、
外にだけ向かえば
それはそれで
自分を見失う。
内だけでも
ダメ。
外だけでも
ダメ。
内と外の
コラボレーションによって
進化をするのが
私達人間の
本質だ。
・・・・・・
残念ながら、
今の私達の多くは、
内も外も
両方
大事にしていない。
していない、
というよりも
できていない、
ということかな。
内も外も
大事にする
そのやり方を
忘れてしまった人が
多いのが
今の社会だ。
だから
「自分」を生きて
いない。
それが
実に悲しいことだ
ということすら、
自覚していない。
このままじゃ
いかんだろ。
と、
やっぱりどうしても
私は
思ってしまう。
なんとか
せねば、と。
・・・・・・
世の中のために、
という言葉を
私はあまり
安直に使いたくは
ないのだが、
しかしこの想いは
どうしても私の中に
ある。
昔、
まだ真本音という
概念すらなかった頃、
私は
自己愛のみで生きて
きたし、
自己満足の毎日
だったし、
自分だけでなく
知らぬ間に
人も多く傷つけて、
仕事も
家族も
ボロボロにして
しまった。
思い返せば
とてもとても
ひどい人間だったが、
しかし、
そんな時代にも
私の中にずっと
あり続けたのが
この
「世の中のために」
だ。
恐らく、
生まれた時から
持ち続けている。
もちろん
それが「特別なこと」
とか
私が「特別な人間」
などとは
思わない。
(そのように傲慢に
思っていた時期は
あったが。)
すべての人が
「自分のために」
と
「世の中のために」
は
心の根底で
つながっているから。
それが今はよく
わかるから。
その当たり前の
事実を
皆、思い出せると
いいとは思うが、
まぁしかし
そんな硬いことは
言わない。
せめてみんな、
本当に真剣に
「自分のために」
生きてほしい。
それが結果的に
「世の中のために」
なるからだ。
これは私の
願いというよりも、
「祈り」
だな。
その祈りに素直に
私は
一日一日を
生きていく。
今日も、
東京のある街に
行ったら、
そこにいる人達の
そのあまりの
「自分を大切にしていない」
度合いの高さを
感じてしまい、
吐き気がして
気が遠くなった。
これまでも
よくそういったことは
あったのだが、
今日のはちょっと
強烈で、
こういうのを
感じると、
絶望的にもなったり
するのだが、
しかしそれでも、
私の中の「祈り」は
まったく衰えず、
光り輝いている。
私はただ
それを大切に
抱き続けて
いくだけだ。
今日やることを
自ら決めて
やるだけだ。
人生が終わる
最期の最期まで
私はやり続けるよ。
つづく
宇宙の中心に
自分がいるイメージを
してみよう。
宇宙全体から
中心である自分を
見つめる感じだ。
全体から
自分を見ると、
どう見えるかな?
自分は
どんな光を
発しているだろうか?
自分は
宇宙全体に
どのような影響を
及ぼしているだろう?
そして
宇宙全体から
どのような影響を
受けているだろう?
「自分」と「宇宙」は
常に
互いに
エネルギーのキャッチボールを
し続けている。
それはまるで
呼吸のように。
吐いては吸い、
吸っては吐いて、
共に
存在し合っている。
本来は
共に進化をし合えると
良いのだが。
どうかな?
では、今度は、
中心である自分の
場所に戻ろう。
自分から
宇宙全体を
眺めると、
どう見えるかな?
いったん自分を
離れてから
もう一度、今
自分に戻ったわけだけど、
何か
宇宙の感じ方に
変化はあるかな?
宇宙は
自分に
何を呼びかけて
いるだろう?
どんなメッセージを
投げかけて
いるだろうか?
・・・・・・
私達は
「中心」
だ。
すべての「人」が
宇宙の「中心」
にいる。
というのが
実在のレベルでの
真実だ。
それを
忘れてしまうことで
私達は
自分を失う。
常に
「中心」としての
自覚を持ち続けることが、
自分の人生を
本来の自分として
生きるための
大事な在り方
なんだ。
つづく
もし
未来を見通す力が
あったならば、
人生はもっと楽だろうな、
と思う人は
多いかもしれない。
私もそう思う時があるが、
しかし、
やはり、
未来がわからないところに
人生の醍醐味は
あるのだろう。
そしてこの
3次元の世界の
意味や意義も
あるのだろう。
・・・・・・
もし
未来がわかって
しまったら、
私達は
「覚悟を持つ」
という体験が
できるだろうか?
とも思う。
あの独特の
体験。
未来がわからない
ままに、
「この道を行こう」
と
完全に決めた時の
あの感覚。
あの
すがすがしさ。
それまで
自分を縛っていた
あらゆるものから
解放され、
自分は本当は
自由だったんだ、
と
理屈を超えたところで
その真実を
思い出す、
あの感覚。
あれは
未来がわからない
からこそ
得られるものの
一つではないか。
・・・・・・
人は進む。
未来が見えても
見えなくても、
人は進む。
どうせ進むなら、
この世界にいる
私達は
未来が見えないままに
進もう。
それが
私達がここに来た
意味だから。
覚悟を持った
人は
美しい。
新たなステージに
進む
その姿は、
未来が見えない
人生だからこそ
出会うことのできる
宝物の一つだと
私は今日も
つくづく思ったよ。
つづく