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よし、
進めるか。
・・・と
淀みゼロ、
何の迷いもなく
そう思える
瞬間がある。
その時こそ、
進む
チャンスだ。
私はこの「感覚」を
とてつもなく
大事にしている。
逆に言えば、
この感覚が
なければ、
進まない。
もしくは、
ゆっくりしか
進まない、
ことにしている。
私の特技は
何か?
と
問われたら、
ひょっとすると
「待つ」
ことかも
しれない。
私は
ほぼほぼ
待っている。
「その時」
が来るのを。
待てるかどうか?
が
その後の展開を
大きく左右することを
いやというほど
体験したからだ。
「待つ」
ことと
「進む」
こと。
この二つの
メリハリを
つける。
中途半端は
極力
排除することに
している。
・・・・・・
結局、
待つか進むか?
の判断力が
一気に
高まるのだと
思う。
「真本音度合いを
高める」
ということは。
真本音度合いが
高まれば、
自らの
真本音からの
メッセージが
「直観」
という形で
届く。
真本音は、
つながっている。
自分の
真本音と、
他者の
真本音。
深い次元では
つながっている。
その「つながり」
からの
直観が来る。
その直観によって
「今だ」
「今、進む時だ」
と
わかれば、
あらゆる調和の
中で
進むことが
できる。
そして
その際には
自分の中では
一切の
迷いがなくなっている。
そして、
「現実」すらも
よーく
観えて来る。
・・・・・・
今、
進む時だ。
と
直観する人が
ここから
一気に増えると
私は
直観している。
ここから
脱皮し、
そこから
一気に
進む。
そんな人が
たくさんいる。
ぜひ、
自らの
その意志と
直観に、
素直に
動いてほしい。
つづく
うーむ。
脱皮が
始まるな。
そこかしこに
脱皮の
空気感が
漂っている。
人もそう。
組織も
そう。
脱皮前の
今のこの時期を
いかに過ごすか?
が
とてつもなく
大事だ。
・・・・・・
脱皮の直前は
極めて
不安定になる。
しかも
その不安定さは
耐えられる
ものではない。
足元から
地面が
崩れ落ちる
かのよう。
すべてに対して、
不安になる。
恐怖は湧くし、
苛立ちも
高まるし、
悲しくもなる。
そして、
絶望感。
何をどうしても
結局は
何も上手くいかない
のではないか、
という心に
常に
苛まれる。
これまで
がんばって
続けてきたことにも
意義が
見出せなくなる。
すべてを
ストップ
させたくなる。
すべてを
投げ出したく
なる。
すべてから
逃げ出したく
なる。
これが
脱皮前の
兆候だ。
大きな脱皮で
あればあるほど、
この傾向は
強くなる。
そして中には
本当に
逃げ出して
しまう人も
いる。
・・・・・・
対処法は、
・・・ない。
今は
じっと
耐えるしか
ない。
もちろん
逃げても
いけない。
脱皮とは
古い皮を
脱ぎ捨てること。
それは
当の本人から
してみれば、
自分のすべてを
脱ぎ捨てるに
等しい感覚だ。
だからこそ
不安定に
なるのだが、
ここは
耐えるしか
ない。
じっと
一つ一つの
不安定な
心を
見つめるのだ。
丁寧に。
本当は
見つめるような
余裕はないと
思う。
しかし
それでも
「ちゃんとここで
脱皮するために」
という
目的を意識しながら、
できるだけ
客観的に
見つめるのだ。
ここを
じっと耐えれば、
ある瞬間に
突然、
その時は
やって来る。
・・・・・・
物事の
決断をするのも
今は
やめておこう。
すべては
脱皮後に
すればいい。
今は、
日々、粛々と
自分の
すべきことを
すべき通りに
一つ一つ
今できる最大の
力で
やっていこう。
ここを越えることが
できれば
本当に
強くなる。
人も
組織も
同じ。
脱皮の経験こそが
人を
組織を
強くするんだ。
つづく
あぁこの人は、
本当に
がんばっている
人なんだな。
この明るい
笑顔の奥から
数々の
試行錯誤と、
それに真摯に
取り組む
熱意と、
そこで
浴び続けた
苦悩達が、
ダイレクトに
伝わって来るよ。
この人は
今のこの笑顔を
創り出すために
いったいどれだけの
辛さや悔しさや
悲しみを
味わったのだろう?
この自然な
笑顔に
たどり着くために
どれだけ
他の人達からの
苦しみを
受け取り続けた
のだろう?
人は
シンプルだ。
しかし
すぐに人は
複雑になる。
でも本当は
実に
シンプルだ。
なんだ、
単純なことだったな。
と、
一番初めの
あまりに当たり前の
答えに
帰り着くまでに、
私達は
本当に様々な
体験を、
気づきを、
経なければ
ならない。
それを一般的には
回り道と
言うのかも
しれないが、
そういった
回り道にも
めげずに、
ただひたすらに
誠実に立ち向かう。
立ち向かい
続ける。
そんな人が
私は大好きだ。
そして
そんな人にしか
発することが
できない
実にシンプルな
一言が、
その人からは
実に当たり前の
ように
トツトツと
語られる。
そんな一つ一つの
言葉達を
受け取り
噛み締めながら、
私は
いつも思うのだ。
人は
シンプル
だけど、
本当に
深いものだな、
と。
つづく
勇気を持って
何かに取り組もうと
したとき、
あなたの心は
どのように
動くだろうか。
そしてその結果、
あなたは
どのような行動を
取るだろうか。
一連の自分の
心の動きと
実際の
行動の取り方には
その人なりの
法則性が
ある。
それを私は
あえて
「クセ」
と
呼んでいる。
人生経験を
積むということは、
その「クセ」を
一つ一つ
増やしていくこと
だ。
とも言える。
しかし
「本来の自分を
生きる」
ということは、
それら一つ一つの
クセを
手放すこと
でもある。
クセを
超えることでも
ある。
クセを
増やし、
クセを
手放す。
いったい
私達は
何をしている
のだろうか?
・・・・・・
クセとは
能力である。
これがなければ
私達は
生きてはいけない。
例えば、
クセという能力
があるからこそ、
私達は
自転車に
乗れるようになる。
箸を
使えるようになる。
歯を
磨けるようになる。
記憶というのも
クセの一種
かもしれない。
九九を覚えるのも
クセを
つけているのかも
しれない。
ちょっと極端かも
しれないが、
でももし
クセという能力が
なければ、
私達にできることは
激減するだろう。
しかしその
一方で、
自分についた
クセを
「私自身である」
と
思い込むところが
私達にはある。
例えば、
こういった時には
私は
こういった心の動き
をして、
こういった行動を
取る。
というクセ。
これを
「私自身である」
と思い込む。
それが
自分であり、
自分である以上、
それは一生
変わらない、と
思い込む。
クセとは
とても強烈な
能力であるが、
クセは
クセに過ぎない。
それは、
あなたでは
ない。
あなたの
パターンでしか
ない。
・・・・・・
自分には
どのようなクセが
あるだろうか?
という視点で
客観的に
・自分の心の動き
と
・実際の行動
の
パターンを
見つめて
みるとよい。
同じようなパターンが
頻繁に
日々の中で
繰り返されている
ことに
びっくりするだろう。
狭いなぁ。
なんて狭く
窮屈な中で
私は生きて
いるのだろう。
・・・と
感じることが
できたら、
しめたものだ。
その感覚が
クセを超える
きっかけとなる。
クセは
大事。
しかしそれは
超えるもの。
手放す
もの。
クセをつけて、
それを
手放す。
この連続で
私達は
「本来の自分」
を
探究し続けて
いるのだ。
つづく
力を
抜いてみる。
呼吸にのみ
意識を
向けてみる。
自分の
存在のみに
なってみる。
すると
逆に、
自分には
いかに
「余分なもの」
が
たくさん
へばりついているか?
が
わかってくる。
その多くは、
自分の心
というよりも、
人から
受け取った
もの達だ。
自分への
蔑み。
人への
妬み。
悲しみ。
憤り。
そして、
絶望。
最近は
特にこういったものが
多い。
みんな、
苦しみの中で
生きている。
しかし
驚くほどに、
その苦しみに
本人が
気づいていない。
まずは
自分が苦しんで
いることを
知ることが
健康への
第一歩だ。
実は今、
あなたには
40度の熱が
あるんですよ。
と、
わざわざ
教えなければ
ならない。
当然だが、
苦しんでいることを
教えることは
とても辛い。
教えれば
大概、
その後は自覚
できるように
なるのだが、
今度は
その
「フタをしていた
苦しみ」
と
立ち向かわなければ
ならない。
だから
表面的には
さらに
苦しくなる。
でも、
自分が40度の熱を
発していることを
知らないままに、
自分が健康だと
思い込みながら
日々を過ごす
よりは
マシなのだ。
だって、
40度の熱を
出しながら、
毎日
フルマラソンに
出場しているような
人は多いから。
どうして
そんなに苦しみ
ながら
走らなければ
ならないの?
と
単純に
訊きたくなる。
40度の熱を出しても
フルマラソンに
出場することこそが
自分の成長であり、
人生の目的に
向かうことだ、
と
みんな、
思い込んでいる
ように
私には見える。
言っておくが
人生とは、
そんなに
辛いものでは
ない。
辛くしているのは
自分自身
だろうが。
その辛さは
必要の
ないものだ。
もっと
健全に
進まないか?
そのためには、
日々の
健康管理が
大事だ。
自分が
辛い
と感じていることを
ちゃんと自分が
把握して、
適切に
対処する。
そうすれば、
そんなに
辛いことは
起きないし、
そんなに
孤独にも
ならない。
あなたは
絶望的では
ない。
絶望に
陥っているのは、
あなた
自身だ。
ということを
ちゃんと
伝えたいね。
まずは
平熱に
戻ることだ。
自分を
平常に
戻すことだ。
そうすれば
道は
ちゃんと
観えてくる。
つづく
もうすぐ
私は
あなたと出会う。
出会いの
その瞬間、
あなたは
どんな表情
だろう?
私は
どんな表情
だろう?
私は最初に
あなたに
どんな言葉を
投げるのだろう?
あなたは
どのような
反応を
するだろう?
私は
あなただと
わかるだろうか?
いや、
きっと
わかるな。
あなたは
私だと
わかるだろうか?
そこはちょっと
自信ないな。
でも
いい。
きっと私は
あなたと向き合い、
じっと
あなたの目を
見つめるだろう。
その瞬間に
何かを
合点するはずだ。
恐らく、
遠くて深い
約束を
思い出すはずだ。
それは
すぐに言葉に
できるものでは
ないだろうな。
でもきっと
思い出すはずだ。
そして
その瞬間から
何かが始まる。
私の人生は
もう一つの
波を起こすのだと
思う。
それが何かも
今は
わからないが、
それが何かは
すでに私は
よく
わかっている。
私は
あなたと
出会うために
ここまで来たのだろう。
私達が
出会わなければ
できないことが
ある。
私達は
力を尽くして
それをすることに
なる。
それはきっと
その後に出会う
たくさんの人達の
人生に
新たな波を
起こすのだろう。
その波は
さらに次の
波へ。
それは
私達の想像を
超えたものと
なるだろう。
だからきっと
私は
勇気を持って
あなたに
伝えるはずだ。
約束の
言葉を。
私達にしか
わからない
合言葉を。
それは
本当に
勇気が必要な
言葉だと
思うけど、
でも
その一言を
何の淀みも
なく
深く
純粋に
そして
自然に
伝えられる
私になるための
これまでの
人生だったんだよ。
つづく
思い出す。
自分を
思い出す。
人生とは
そのための
旅なのかも
しれない。
本来とは
異なる自分を
自分だと
思い込み
私達の多くは
生きているが、
毎日、
ほんの少しずつ
でも
ちょっとずつ
ちょっとずつ
でも
思い出し
続ければ
それだけで
私達は
満たされる。
思い込みの
自分から
本来の
自分へ。
そして、
本来の自分
から
さらに
未知の自分
へ。
本来を
思い出すから
こそ、
次の
「未知」への
冒険が
始まる。
できれば、
人生の途上で
その段階に
行けると
いい。
そんな人が
増えると、
世の中は
かなり
活性化するだろう。
なぜなら
私達人間は
「未知」
に進むことが
大好きだから。
それが
本能だから。
「思い込み」
から
「本来」
へ。
「本来」
から
「未知」
へ。
・・・・・・
思い出す。
目の前の
この人が
「誰か?」
を
思い出す。
本来のこの人は
何者だったか?
を
思い出す。
これも
人生の醍醐味
の一つだ。
ひょっとすると、
自分自身を
思い出すよりも
目の前の
この人のことを
思い出す方が
早いかも
しれない。
そして
その結果、
本来の自分を
思い出す。
人と人は
お互いに
影響を与え合い
ながら、
思い出し
合う。
本当は
そのために、
出会う。
そんな関係が
増えるといい。
・・・・・・
関われば
関わるほど、
自分を
忘れていく。
関われば
関わるほど、
自分を
失っていく。
そんな世の中を
私達は
創ってしまったのでは
ないか。
でも、
それを変えられる
のも、
私達しか
いない。
本当は、
変えようと
思えば、
すぐに
変えられる。
明日から
でも、
今から
でも。
つづく
仲間というのは
いいなぁ、
と思う。
本当に
いいなぁ、と
思うが故に、
私は
こうも思うのだ。
一人ひとりが
まだ
自律できて
いないうちは、
仲間になっては
ならない、
と。
どれだけ
相性の良い人同士
でも、
自律する前に
仲間となってしまえば、
必ず、
依存が生まれる。
お互いが
寄りかからなければ
いられない
グループとなる。
「この仲間が
いるからこそ
私はがんばれる」
という状態。
じゃあ、
仲間がいなければ
どうなるの?
ということだ。
もちろん、
人というのは
依存し合う存在
だ。
依存し合わねば
存続できないように
できている。
だからこそ
良い依存関係が
大事であり、
私はそれを
依存ではなく
「調和」
と呼んでいる。
調和とは、
一人ひとりが
ちゃんと
大地に立っている
状態だ。
一人でしっかりと
歩くことができる
人同士が、
さらに
相乗効果で力を
発揮し合い、
共に進化し合う
状態だ。
そこからは
常に
新たな何かが
生まれるし、
ある意味、
すべての人が
「リーダー」
であり
「コーチ」
である。
すべての人が
「主役」
であり
「サポート役」
である。
その状態に
なるためには、
まずは
一人ひとりの
自律が
必須だ。
・・・・・・
これからの
時代。
誰かが
誰かを
支えるような
仲間は
もう要らない。
ぐらいに
私は
思っている。
ちょっと
極端かも
しれないが。
でも、
真本音のレベルでは
もう誰も
そういった仲間を
望んでいない。
特に
若い人達からは
それを
ひしひしと
感じる。
馴れ合いは
いやなのだ。
本当の
仲間。
共に
道を創る
仲間。
私自身も
そういった仲間を
慎重に
丁寧に
一人ずつ増やして
行こう。
私は、
仲間の在り方
こそが
ダイレクトに
世の中の在り方
に
インパクトを与える
のだと
思っている。
つづく
白い龍が
空を
駆け昇っていく。
まっすぐに
上のみを
見つめ。
龍は、
あらゆるものを
手放した。
手放さなければ
昇れない
からだ。
その龍の勢いを
見れば、
人は
「いいなぁ」
と
思うだろう。
自分もあんな風に
上昇したい、
と。
あんな風に
潔く
いろんなものを
手放せたら
いいのに、
と。
でもきっと
あの龍は
特別なんだ。
凡人の
自分とは違う、
と。
しかし実は
まったく
事実は
そうではない。
龍ほど
人の苦しみを
狂うほどに
感じた者は
いない。
あまりの
苦しさに
何度も
自身を失った
者はいない。
龍ほど
悩み続けた
者はいない。
あらゆる痛みを
限界を
超えるまで
受け続けた。
ずっと
ずっと
誰よりも
ずっと。
絶望もしたし、
諦めもしたし、
自らを
殺そうとも
した。
龍は
苦悩と共に
あった。
自分の
苦悩。
そして、
自分以外の
人達の
苦悩。
すべてを
味わった。
自分だけの
苦悩であれば、
どれだけ
楽だったろうか。
他のみんなの
苦悩まで
感じてしまう
その辛さ。
見えなくても
よいものまで
見えてしまう
その辛さ。
どれだけ
自分自身を
呪ったことだろう。
そういった
あらゆるものを
龍は
すべて
引き受けた。
本当は
引き受けたという
よりも、単に
諦めただけなのだが、
本当に
諦めたら、
気がついたら
すべてを
引き受けていた。
そうしたら
同時に
すべてを
手放していた。
すべてを
手放したら、
信じられないことに
すべてが
輝き出した。
手放すとは
見捨てることだと
ずっと
思い込んで
いたのだが、
そうでは
なかった。
手放すことで
すべては
生きるのだ。
活きるのだ。
本当に
手放して
初めて
それがわかった。
わかった途端に、
気がついたら、
垂直上昇を
始めていた。
それまでは
龍なんかでは
なかったのだが、
気がついたら
白い龍に
なっていた。
そんな自分の
姿に
自分で驚き
ながらも、
龍は
天を
垂直に
昇っていく。
恐らく
この先には
一つの
「臨界」
があるのだろう。
そして
さらにその先
には、
新たな世界
が
待っているのだろう。
つづく
すべてのものには
エネルギーが
ある。
エネルギーを
発する
ということが
「存在する」
ということだ。
そして
すべてのエネルギー
には
それぞれの
波長があり、
強さがある。
もちろん
私達人間も
同様だ。
私の人や組織への
サポートの本質を
一言で表現すれば、
「エネルギーを高める」
ということに
なるのかもしれない。
ただし。
エネルギーが高まる
というのは
やる気が出る、
とか
気合いが入る、
とか
「うおっしゃーーーっ!」
と叫ぶように
なるとか。(笑)
そういう短絡的な
ことではない。
一般的には、
本当の意味で
エネルギーが高まれば、
その人は
安定し、
逆に
静かに落ち着く。
表面上の行動は
むしろ
穏やかになる。
しかし
とても
明るい。
明るいと言っても
明るさを
前面に出している
わけではない。
静かなのに、
明るいのだ。
「険しさ」が
なくなる、
という表現でも
良いかもしれない。
私は
どのような企業様でも
まずは
その時その時の
本質的な明るさ
を観る。
もしくは
感じる。
そして
エネルギーを高める
ための
方策を一つずつ
打っていく。
私がいつも
言葉にしている
「真本音度合いを
高める」
というのは、
エネルギーを高める
ための
最も基本的な
方策だ。
そして実際に
エネルギーが
高まり続けると、
どのような
人でも組織でも
ある「臨界点」
を超える。
一つの
枠が外れる
のだ。
すると、
まるでフタが取れた
かのように、
ワッとエネルギーが
溢れ出す。
眠っていた
(まだ隠されていた)
エネルギーが
まるで噴火のように
溢れるのだ。
そこからその
人や組織は
新たなステージに
入るのだが、
そのエネルギー量は、
私がいつも
拝見しているイメージで
言えば、
一気に10倍以上に
なる。
このエネルギーの
解放(開放)は、
感性の豊かな人で
あれば、
すぐに感じ取れる
はずだ。
・・・・・・
ところが。
本来は
エネルギーの開放は、
人にとって
非常に幸せなことで
あるにも関わらず、
それを
拒む人が
時々、いる。
エネルギーの開放は
本来の自分の
開放でも
あるのだが、
それを
拒む人が
いる。
その人達は
溢れ出すエネルギーの
放流の中で、
必死に
自分の身を丸くし、
固まり、
エネルギーの流れに
逆らおうとする。
本当は
エネルギーに
身を任せてしまえば
楽なのだが。
これまで私は
そういった
「拒む人達」
に対して、
随分とやさしいサポートを
してきたように
思う。
「大丈夫だよ」
「怖くないよ」
とゆっくりと
その人のペースに
合わせて。
しかし残念ながら、
どれだけそうしても
拒む人は
最後まで拒んでしまう。
そして結局は
まるで岩のように
その場に
張り付いてしまう。
そうなった時の
その人本人の
ストレスの凄さは、
尋常ではない。
もちろん
そのストレスは
周りにも波及し、
せっかくの
エネルギーの放流が
そこだけ大きく
歪んでしまうケースも
多い。
どうすれば
「拒む人」を
サポートできるか?
ここを随分と
試行錯誤して
きたが、
実は
世の中は変わった。
世の中全体の
真本音度合いは
随分と
高まってきた。
そして
エネルギーそのもの
も、
随分と高まった。
だから
サポートの方向性を
変えようかな、
と
今日、思った。
つまりは、
「拒む人達」
には
もっと
厳しくするのだ。
別に怒鳴ったり
むやみに
叱ったりする
わけではないのだが、
厳しくする。(笑)
今後のサポートは、
厳しさの中にこそ
「道」があるのかも
しれない、
という前提のもとで
行なおうと
思う。
つづく
昨日のブログでも
書いたが、
今、本当に
みんなが
「凄い脱皮」
をしようとしている
ようだ。
昨日以上に
今日、
さらに強く感じた。
私の周りは
とても真剣で
成長意欲の高い人が
多い。
だからあえて
申し上げるが、
あまり
無茶するな。
まぁ、
私が言えた義理では
ないが。
しかし
大真面目に
お伝えしよう。
無茶をしても
結果として
かなりの遠回りに
なってしまう。
無茶をしても
すっ転んで
しまうだけ。
脱皮の時期に
すっ転べば、
そのダメージ回復に
数年以上
かかるケースもある。
だから、
じれったくても
ここは
ゆっくり
じっくり
と。
一歩一歩を
しっかりと。
地に足をつけて
現実的に。
慎重に。
そして
丁寧に。
こういう進み方
ができることも、
人をサポートする
力を
大いに高めてくれる。
速くも
ゆっくりも
両方のスピードで
進める自分に
なること。
新幹線にも
なれるし、
鈍行にも
なれる。
あらゆる自分を
自由自在に
選択できること。
これこそが
大事。
転んでは
ならない時は、
転んでは
ならないのだ。
早く
次のステージに
行きたい気持ちは
重々に
わかる。
だからこそ今は、
私のこの
アドバイスを
聴いてほしい。
ゆっくり
じっくり
と。
慎重に。
丁寧に。
つづく
自分が大事に
していたことや、
自分がいつも
こだわっていたこと、
そして、
自分が
「これが自分だ」と
「自分ならではだ」と
力を込めてきていたこと。
それらが
ある日ある瞬間に、
突然のごとく
どうでもよくなる
ことがある。
それが
脱皮の瞬間
だ。
突然どうでも
よくなったら、
いっそのことを
それを
脱ぎ捨ててしまえば
いい。
勇気が要るかも
しれないが、
脱ぎ捨てて
しまえばいい。
すると、
フッと力が
抜ける。
最初は
ゼロになってしまった
感覚。
すべてを
失ってしまった
感覚になるかも
しれない。
無色透明に
なってしまったと
感じるかも
しれない。
でも、
それでいい。
その後、
奥の奥の方から
わずかずつ
「光」が
観え始めてくる。
その光は
徐々に大きくなり、
しだいに
あまりの眩さに
慄然とすることに
なるだろう。
それが
自分の全身に
行き渡った時、
あぁなるほど、
これが私の
本来のエネルギーだ
と
わかる。
わかれば、
それが「普通」と
なる。
そして
「次」に自分が
すべきことや
したいことが
観えてくる。
結果として、
それは
これまでとまったく
同じ道かも
しれない。
しかし、
一度、ゼロになった上で
その道に戻るのだから、
それはもう
強い。
またたとえ、
これまでとは
まったく別の道に
行くとしても、
いずれは
どこかで
これまでの道も
生きてくる。
そういった
人生の展開が
あるだろう。
ただし
それらを
意図的、思惑的に
考えながら
行なってはならない。
すべては
自分に委ねるのだ。
自分の「脱皮」に
委ねるのだ。
なぜこれを
書いているかと
言えば、
またもや
脱皮を迎えている
人や、
これから迎えようと
している人が
急増している感覚が
あるからだ。
ここ数日で
一気に高まった。
また私達は
次のステージに
向かうようだ。
つづく
がんばっていない
人には、
「がんばれ!」
と
私は伝える。
しかし、
よ〜くがんばっている
人には
「力を抜いて
適当に」
と
私は伝える。
本当の意味で、
「力を抜いて
適当に」
がどういうことかを
知ることができるのは、
すでにここまで
充分に
がんばっている
人のみだ。
がんばっても
いないのに、
力を抜いてしまえば、
それはただ
止まってしまって
いるだけ。
サボって
しまっている
だけ。
「がんばる」
というのは
当たり前のことだと
私は思うのだ。
・・・・・・
以前に
こう聴いたことが
ある。
「がんばる」
という言葉の
語源は
「我を張る」
だ、
と。
だから決して
良い意味では
ない、
と教えてもらった。
なるほどねぇ、
と
思ったが、
でもやはり私は
思うのだ。
我を張って
がんばることすら
したことのない人は、
まずは
我を張ってでも
良いので
がんばった方が
いい、と。
私はよく
「真本音で生きる
ことが大事」
と言う。
私の言葉を聴くと、
「じゃあ自分の
真本音とは何だろう?」
と
思い悩み、
逆に止まってしまう人が
いる。
しかし
そういった傾向が
現れるのは、
これまで
がんばってきていない
人にこそ
多い。
がんばっていない
人ほど、
すぐに深刻に悩んで
止まってしまう。
深刻さは
真剣さの
対極にある。
深刻さとは、
真剣に進まない
自分への
自己弁護の行為に
過ぎない。
・・・とまで言うと
ちょっとキツいか?
私がなぜ
真本音という
存在に気づき、
真本音度合いを
高める人生に
転換できたかと言うと、
その最も大きな
理由は、
もともと
反応本音でいっぱい
だったからだ。
本当に反応本音だらけの
人生で、
その時の自分を
振り返ると、
まったくもってもう
目も当てられないが、
それでも
間違いなく私は
がんばってきた
からだ。
我を張ろうが
何だろうが、
確かに自分なりに
がんばってきた。
がんばるのが
当たり前だと
思いながら。
それは
まったくもって
自己満足の
そして自己愛の
がんばりであったが、
そのために
たくさん転んだし、
たくさん
ぶつかったし、
たくさん
傷つけ合ったが、
でも
もしあれらがなかったら、
「真本音」には
たどり着いて
いなかったろう。
だから
がんばってもいないのに、
真本音が、真本音が、
と言う人には
まずは
そんなことはどうでも
いいから、
自分なりに
がんばってごらん。
と、
私はやはり
伝えるのだ。
おかげさまで、
最近の私の
クライアントさん達には
私はいつも
もうそんなに
がんばらないで。
もっと
適当に。
自分が背負わないで。
もっと
力を抜いて
いい加減に行けば
いいですよ。
と
ばかり
お伝えしている。
みんな本当に
必死に
がんばってきた人達
ばかりだ。
だからこそ
「真本音」
が効く。
「真本音度合いを
高める」
ことが、
根っこから
効いてくる。
そう考えると、
今の世の中
がんばっている人は
多い気がする。
「がんばる」の
次のステージに
進む人が
多い気がする。
そういう人を
たくさん
サポートしたいな。
つづく
邪念があったって
いいじゃないか。
邪念があるのが
人間なのだし。
そここそが
人間の価値では
ないか?
邪念をなくそう
と
努力することより、
もっと
力を込めるべきことが
ないかい?
邪念があろうと
なかろうと、
私達には
できることがある。
邪念があろうと
なかろうと、
私達の中には
いつだって
真の願いが
ある。
自分の選んだ
人生の目的が
ある。
私はこのために
生きていきたいんだ!
という
あまりにも
深くて優しい
想いがある。
それを私は
真本音と名づけたが、
別にそれは
真本音と名づけ
なくなって
最初からずっと
ここにある。
その想いに
基づいて
次の一歩を決める
ことは
私達の誰だって
最初から
できることだ。
だから、
邪念のせいに
している
場合ではないんだよ。
邪念を
取り払ってから
私は進みます。
邪念のない
自分つくりをしてから
私は進みます。
・・・そんなのは、
単なる言い訳に
すぎない。
進もうと
思うのならば、
すぐに
進めばいいでは
ないか。
一気に100mも
進め、なんて
言ってない。
たったの一歩
進めばいい。
できる一歩を
進めばいい。
そうすれば、
その次の一歩を
また進むことが
できる。
人生は
短いが、
時間は
たっぷりある。
進むための
時間はね。
邪念が
どうのこうの
ではない。
進みたい
道があるならば、
誰からの
強制でもなく、
あなたのペースで
進めばいいんだよ。
つづく
暗い地下から
地上に出た直後は
とても眩しい。
それと同じく、
実在のレベルでの
ステップアップは、
ステージを
上がった直後は
眩しくてしょうがない
かもしれない。
こんな眩しい世界で
自分は
生きていけるのだろうか?
と
不安になるだろう。
しかし
何事も慣れだ。
人間の凄いところは、
「慣れる」という
能力だ。
環境に
適応していく
その力は、
時々、
目を見張るものが
ある。
一つの段差を
登り、
ステージが変わると、
しばらくは
そのステージを
なだらかに進む。
そのうちに
その世界にも
慣れてきて、
最初はあれほど
眩しくて、
目も開けられない
くらいだったのに、
だんだんと
物足りなくなって
くる。
ちょっと暗いなぁ
ここは、
なんて感じることさえ
ある。
そうするともう
私達は本能的に
さらに明るい世界を
望むようになる。
その辺りでまた
次のステップが
来る。
次の次元、
次の世界が
来る。
私達は皆、
これを繰り返して
いる。
・・・・・・
なだらかに
進み、
段差を
登り、
また
なだらかに
進み、
・・・と
続くのだが、
中には
なだらかに進む
という時間が
とてつもなく
短い人がいる。
つまりは、
段差に継ぐ
段差。
なだらかな部分は
ほとんどなく、
まるで、
崖をよじ登っている
ようだ。
毎日、
というよりも
一刻一刻、
次元が高まって
いく。
だからもう本当に、
毎日が
酸欠状態のようだ。
突然に
エベレストの山頂に
立たされたら
我々は
息もできずに
死んでしまうだろう。
それに近い
状態となる。
私もそういった
時期があったし、
私のクライアントさんも
そういった人が
いる。
そして恐らく、
そのタイプの人は
これから
急増していくだろう。
・・・・・・
あえて
そういったタイプを
『直登タイプ』
と
呼ぶことにするが、
この直登タイプの
人には
特殊なサポート方法が
必要だ。
ところが
そういったサポートの
仕方を
知っている人は、
私が知っている限りでは
いない。
ここが、
今、私は
この社会の
最大の問題の一つ
だと
認識している。
直登タイプの人が
その人の望む
最速のスピードで
本当に
直登して
行けるかどうか?
これが
今後、この社会が
健康に
ステップアップ
できるかどうか?
を
左右する。
しかし
多くの場合、
直登タイプの人は
本人に
その自覚がない。
しかも
もし自覚したとしても
「直登」は
残念ながら
自力では
極めて難しい。
普通の
ハイキングしか
したことのない人に、
いきなり
何の道具もなしに、
数千メートルの
垂直の崖を
攀じ登れ、
と
言っているような
ものだ。
この現状を
どうしたものか?
今の私が
最も頭を悩ませている
ことの
一つである。
つづく
本当は、
人の創造性は
計り知れない。
ゼロからイチを
生み出すことは
難しい、
と、一般的には
言われるが、
しかし本当は、
ゼロからイチを
生み出すことこそ
人の本分。
今のお仕事を
ずっと続ける中で、
いつしか私は
自然にそう
思えるようになった。
その一方で
多くの人が
「いやいや、
私には無理です」
と、
平気で言う。
自分に勝手に
制限や
リミッターを
加える。
これもまた
人の性分。
引き出そうと
思えば、
どこまでも
引き出せるのが
人の可能性。
しかし、
引き出そうと
本気で
思わなければ、
決して姿を
現さないのも
人の可能性。
そこが
人の面白み
だとも言える。
・・・・・・
好きなことを
やれ!
と、
よく言われる。
でも、
「好きなこと」とは
何だ?
たまたま
今、好きなこと?
昔からずっと
好きだったこと?
それとも
これから新たに
好きになるで
あろうこと?
だいたい、
「好き」という気持ちは
どこから来るの?
・・・・・・
私のクライアントさん
は、
私が「好き!」と
思える人達
ばかりである。
一人ひとりのお顔を
ほぼ毎日
思い浮かべたり、
意識を向けたり
しているが、
それをするだけで、
魂と心が
ホッコリする。
私の場合は、
この「ホッコリ」が
重要な気がする。
「好き」というのは
理屈では
ないのだと思う。
当たり前のことだが。
私は
ホッコリする人を
全力で
サポートする。
・・・・・・
「好き!」
という気持ちで
向かうと、
面白いことに
多くのクライアントさんが
自らの可能性を
自ら開くようになる。
私は
「好き」という言葉を
実際に使うわけでは
ないが、
恐らく私の
「好き」という気持ちは
空気感として
伝わっているのだと
思う。
そして、
私もそうだが、
人から「好き」という
空気を受けると
実に幸せであり、
この幸せ感は
自分を
自然に開いてくれる。
私が特に
注意しているのは、
無理に好きに
なろうと
しないこと。
「好き」は
自然に
やって来るから。
そのためには
私自身が
オープンでいることだ。
「好き」というのは、
きっと
オープンでいることで
私の中から
というよりも
その場で、
その現実で、
生み出される
ものなのだろう。
それこそ、
私達人間が
ゼロからイチを
生み出す
その代表的なものの
一つなのかも
しれないな。
つづく
まっすぐな
道があり、
レールまでが
引かれている。
あとはそこを
気持ちよく
進むだけ
なのだが、
なぜか、
そのレールに
乗ることを
しない。
それどころか、
道そのものから
外れ、
まったく
見当違いの方向に
向かってしまう。
人間であれば、
そういったことは
十分に
考えられるし、
誰しも
そのような経験は
あるかもしれない。
よく
「レールの引かれた
人生なんて
いやだ!」
という表現が
使われるが、
そもそも
そのレールを
引いたのは
ほとんどの場合、
その人
自身だ。
その人の
真本音だ。
レールがあることを
素直に
感謝すればいいのに、
と
よく私は思う。
レールがあることを
素直に
喜べばよいのに、
とも。
そうすれば
そのレールも
道も
すべてを
ひっくるめて、
楽しめるし、
その上での
「冒険」が
できる。
なぜなら
「レール」とは
進化をするもの
だから。
「レール」そのものが
進化をするのだ。
だから
「レールがあるから
つまらない」
というのは、
あまりにも
つまらない
捉え方だ。
はっきり言って、
「レールの進化」
は
とてつもなく
面白い。
そしてその
進化は、
まったくこれまでに
なかった
新たなものを
生み出す。
レールの人生
とは
惰性の人生
ではない。
レールをとことん
極めることで、
ゼロからイチを
生み出す
ことすら
できるのだ。
そして
それができれば、
さらにまったく
新しいレールを
この世に
もたらすことが
できるのだ。
それこそが
人生の醍醐味
だと
思わないかい?
つづく
進む人
と
進むない人
の
差は
開くばかりだ。
結局
どうするか?は
本人しだい。
他者がサポート
することは
もちろんできるが、
サポートは
あくまでも
サポート。
肝心の一歩は
本人の意志
によって
すべてが決まる。
ここまで来て
どうして
止まってしまうのだろう、
と
何度、私は
泣きじゃくったことか。
とはいえ、
今日はそんなことを
メインに書きたい
わけではない。
・・・・・・
今日、私が
本当に書きたい
のは、
進む人への
応援歌だ。
しかし。
進む人達は、
実は
そんなことは
望んでいない。
なぜなら
「進むことが
当然だ」
と
思っているから。
だから
普通に淡々と
進んでいる。
しかも
超加速している。
でも本人は
至って普通だ。
普通の状態の
人に
応援歌も何も
ないだろう、と
思う。
応援してるよ!
と言っても、
「何のこと?」
と返ってくる
だけだ。
でもさ。
私だって
人間だ。
応援したくも
なるよ。
だって
あなた方の
その歩みと
走りは、
あまりにも
素敵だから。
・・・・・・
私の周り
だけか?
素敵な人が
増えた。
本当に
増えた。
世の中、
捨てたもんじゃ
ないんだな、
と
つくづく思う
毎日だ。
ただ。
やはり
本番は
ここからだ。
素敵な人は
増えたが、
まだ
それだけだ。
何もまだ
私達は
成していない。
本当に
ここからの
一歩一歩だ。
すべてが
決まるのは。
・・・・・・
応援歌の
つもりが、
何も応援に
なっていないのだが、
それでも私は
常に
応援しています。
もちろん、
私自身も
最大速で
進みます。
共に
楽しみながら
進みましょう。
つづく
あえて言うが、
みんな
落ち着きが
なさ過ぎないか?
もっと本当に
自分自身と
しっかり
向かい合っては
どうか。
物事の決断を
するのに、
「妥協することでしか
答えを出せない」
と思い込んでいる
人が多い。
しかし、
妥協の中に
「答え」
はない。
決して。
そこに「答え」を
求めてしまうと、
必ず
不調和が起こる。
その不調和が
次の妥協を
生む。
その悪循環は
自ら断つ
しかない。
「妥協の中に
答えを見つける」
のではなく、
「自分はすでに
答えを決めている」
という真実を
知るべきだ。
「私はもう
答えを決めているから。
その真の答えを
思い出すだけだ」
という視点から
自分と
向き合ってほしいな。
「でも、そうしても
全然答えが
わからないんです」
とも言われるが、
しかしやっぱり
どうしても私から
観ると、
落ち着いて
自分と
向き合っているとは
思えないのだ。
ちゃんと
ジーッと
自分自身と
向き合う時間を
創ってほしい。
ジーッと
向き合っても
答えは簡単には
見つからないだろう。
でも、
見つからないなと
思うとすぐに
妥協点を探りに
かかる。
それを私は
「落ち着きがない」
と表現している。
思考が出るのは
構わない。
でも
あらゆる思考を
存在承認した上で
いったん
横に置いてほしい。
その思考の奥に
真の答えがある。
思考に埋没
するのではなく、
思考は思考で
置いておき、
ジーッと
自分自身の心を
見つめ続けて
ほしい。
観察を
続けるのだ。
答えがまったく
見えなくても
観察を
続けるのだ。
ジーッと。
ただ
ジーッと。
慣れるまでは
私はこれを
夜を徹して
朝までやり続けた
ことが
数えきれないほど
あった。
でもいったん
コツがわかれば、
かなりの短時間で
「自分が最初から
決めている答え」
がわかるように
なった。
それはまさしく
「思い出す」
という感覚と
同じだ。
「思い出す」
という感覚は
「確信」を
呼び起こす。
迷いのない
答えだ。
そうすれば
あとは勝手に
自分自身が
動いてくれる。
その状態に
なるまで、
ただただジーッと
自分と
向き合い続ける。
落ち着いて。
これをぜひ、
しっかりと
やってほしい。
つづく
人と向き合う
時に、
私が常に大事に
していることの
一つは、
その後の展開
を
すべて
完全に
手放すことだ。
つまり、
自分の意図している
方向への
働きかけを
ゼロにするのだ。
意識の上では。
これをすると、
その場は
「私」という個人の
創り出す
狭く窮屈で
偏った場から
開放される。
その場は、
「共に向き合い
共に創る」
という
場となる。
すると、
最初は例えば
二人で語り合い
二人の相乗効果で
場は創られて
行くが、
その後、
さらにそれすらからも
開放される。
ちょっと変な
表現になるが、
宇宙の摂理
に
委ねた場
となる。
すると、
思わぬ良い展開
となる。
だから私は
毎日のように
思っている。
なんであんな
展開に
なれたのかな。
もう完全に
俺の範疇を
超えた展開だったな。
俺の力では
どうにもできない
場だったな。
・・・と。
個人のコーチング
においても
企業でのミーティング
においても
本当に毎日の
ように
そう思えている。
だから私は
「痛感」するのだ。
人というのは
向き合う存在
である。
と。
向き合わねば、
人としての価値は
半減どころか、
何十分の1にも
ならないだろう。
・・・・・・
ただしこの状態が
起こるためには、
その前提として
必須のことが
ある。
真本音度合い
の上昇
である。
ある一定以上に
真本音度合いが
高まらなければ、
そのような
宇宙の摂理に
委ねる場とは
ならない。
と同時に、
そこにいる
一人ひとりが
まずは真剣に
一人で考える、
という
準備も必須だ。
真本音度合いの
高まった人が
前もって
真剣に考えたことを
その場で
開放し、
自らの意図も
すべて
開放する。
これによってのみ、
自分達の範疇を
超えた
創造的な話し合いが
実現する。
だから私は
この状態になるために、
まずは
一人ひとりを
サポートする。
一人ひとりが
自力で自身の
真本音度合いを
常に高め続けられる
状態にする
サポート。
そして、
真本音状態で
思考・発想する
サポート。
この二つの
サポートにおいて、
私が最も
重要視しているのが、
セルフコーチング法
だ。
セルフコーチング
の手法を抜きに
その二つの力を
身に付けることは
できない。
・・・・・・
だから結局
いつも同じ話に
なってしまうが、
自分との
向き合い方を
マスターすることが
人との
本当の相乗効果を
促す向き合い方を
マスターできる
のだ。
企業においては、
とにかくすぐに
ミーティングをしよう、
という風潮に
なるが、
私はきちんと
一人ひとりの準備が
整わない限りは
複数人による
発想の場は
「持たない方がよい」
くらいの極端な
言い方をしている。
ちゃんと
準備をして
ちゃんと
臨む。
向き合う
ということに対して、
もっともっとみんな
真剣になった方が
いいな。
つづく
私は私。
あなたは
あなた。
私と
あなたは
別物だ。
という
認識。
これがこの世の
常識であり
事実だ。
しかし、
本当は
実在のレベルの
次元の高い
ところでは、
私はあなた
であり、
あなたは私
であり、
すべては一つ
だ。
しかし
こんなことを書くと
「わけがわからない」
と思われてしまう
可能性の方が
高い。
でもこれは
確かに真実であり、
私達はすでに
これまでの人生で
こういったことを
何度も経験
してきているはずだ。
・・・・・・
例えば、
共に何かに
熱中している時。
大好きなアーティストの
ライブとか。
誰かの
応援とか。
合唱などで
一緒に歌っている
時とか。
そこにいるみんなが
本気を出して
同じものを
共有し、
同じことに
意識を向けている
時などは、
自分と周りとの
区別が
つかなくなっている
と思う。
皆が
一体化している。
例えば、
人と向かい合っている
時。
本当に意気投合し、
共感し、
ワクワクしながら
話し込んでいると、
自分とその人は
一体化している
はずだ。
時間とも
一体化し、
知らぬ間に
何時間も経っている
という
こともある。
それが
すべては一つ
となっている
状態だ。
これは正確には
「一つになる」
というよりも、
「もともと一つだと
いうことを
思い出している」
状態だ。
次元の高い
状態。
これが、
日常において
当たり前と
なったとしたら、
世の中は
もっと素晴らしいものに
なると
思えないかな?
・・・・・・
一つになっている
状態は
本来は
特別な状態では
なく、
何かに
高揚している
状態でもなく、
非常に
静かで
力が抜けていて
普通で
自然な
状態だ。
実は、
真本音度合いが
高まり、
人としっかりと
向き合うと、
いつも
この状態が
当たり前となる。
むしろ、
そうでない時の
方が
「珍しい」状態で、
違和感を
覚えてしまう。
そして、
その状態で
発想される
あらゆることは、
とても
創造性に
富んでいる。
一人で発想する
よりも
数十倍もの
素晴らしい発想が
生まれる。
人と人が
向き合うとは、
本来の私達、
つまりは
一つである私達を
思い出す
最も簡単で
自然な方法なのだと
私は
思っている。
・・・・・・
もっと
人と人は
向き合ってほしいな、
と
いつも思う。
でもそれが
できないのには
とても単純な
原因がある。
要するに、
自分自身と
ちゃんと向き合えて
いないから
だ。
自分と
向き合える人は
人とも
向き合える。
単純な
ことだ。
私が
セルフコーチングの
手法を
多くの方々に
お伝えしたいのは
こういった
シンプルな
理由からだ。
つづく
今日も
何人もの初対面の
方々と
向かい合った。
真本音とか
反応本音とか、
そういったことを
初めて知る
方々だ。
そういった方達に
とても本質的な
お話を
あえてしてみる。
「真本音」という
言葉を
ダイレクトに
投げかけてみる。
すると、
その瞬間の
彼らの
魂の揺れ。
その「揺れ具合い」
は、
この数ヶ月で
また
随分と変化した、
と実感する。
その感覚を
どう言葉で
表現するといいかな・・・。
そうだな。
あえて言えば、
揺れ方
半端ねーっ!
・・・て感じ。
グワングワンと
彼らの
魂の響きが
私の耳に届く。
くすぶっていた
何かが
一気に浄化され
昇天する感じ。
もちろん、
表面的に何かが
起こるわけじゃ
ない。
皆さん、
普通に落ち着いて
聴いてくださって
いる。
のだが、
グワングワンと
空気が
波打っているのを
私は
ダイレクトに
感じるのだ。
もちろん
決して悪いもの
ではない。
こういった
反応を観るにつけ、
あぁ世の中の
実在も
本当に整って
きたのだなぁ、
と私は
感嘆する。
よくぞここまで
来れたなぁ、と。
もちろん、
まだまだ全然、
だ。
真本音度合いを
高めるという
意味では、
まだスタートライン
にも立っていない
くらいの感覚だ。
やるべきことを
これから
やっと
やり始める
感覚だ。
でも
「やり始める」
ことが
できるのだ。
これまでは
「始める」ことすら
できなかったの
だから、
この悦びは
大きいね。
これから
世の中の仕組みは
大きく
変わっていく。
AIを初めとした
社会の根本的変化の中で、
私達は
仕組みに埋もれて
しまい、
人としての尊厳を
失くす方向に
行くのか?
それとも、
新たな仕組みから
さらに次の
進化した仕組みを
生み出せる
人としての
本来の姿を
取り戻して
行くのか?
その瀬戸際に
今の私達は
いる。
日々、
私達の生き方が
本当の意味で
問われるのは、
まさしく
ここからだ。
つづく
子どもの頃の
ような
無邪気さで
大人になってからも
生き続けるのは
難しい。
そりゃそうだ。
いろんな経験を
積むからね。
無邪気な自分に
戻れよ、
と言っても
それは無理な
ことだろう。
でも。
一つ確かに
言えるのは、
子どもの頃の
無邪気さは、
あなたの中には
確かに
まだ
存在している
ということ。
存在しているけど
出さない
だけのこと。
出さなくなった
理由は
人それぞれ
だろう。
人生経験に
よるものだろう。
でもやっぱり
それは、
ちゃんと
そこにある。
本来、
人生経験とは
自らの
選択肢を広げる
ためにある。
しかし
多くの人達は、
経験を積めば
積むほど、
経験に
縛られ、
自らの選択肢を
狭めていく。
しょうがないことだと
思うけれど、
やはり
もったいないことだ。
ではなぜ
そうなるか?
原因は
至って単純だ。
要するに、
自分と
きちんと
向き合って
いないからだ。
一つの経験や
体験に対して、
自分自身の心を
しっかりと
見つめていない。
本当は
見つめていれば、
一つの物事に
対して、
実に様々な自分が
(自分の心が)
発生するのが
わかるだろう。
それらすべてを
反応本音
と言う。
発生した
様々な反応本音を
あるがままに
見つめれば、
自分という人間は
なんて豊かな
存在なのだろう、
と
誰もが実感できる
はずだ。
と同時に、
どのような
物事に直面しても、
何があっても、
揺るがずに
変わらない
自分自身も
確かに存在する
ということを
感覚として
得ることが
できるだろう。
それを
真本音
と言う。
つまり、
ちゃんと自分と
向き合い続ければ、
自らの
真本音と
反応本音の
両方を、
経験を積めば
積むほど
より理解することが
できる。
そういう人ほど、
自分を
自然に好きに
なれる。
いろんな
嫌な部分もあるが、
自分という人間は、
可愛らしいもんだ
と
思えるようになる。
すると
自分以外の
すべての人に対しても
同じように
捉えられるように
なる。
そういう人は
無邪気に
なっていく。
もちろん
良い意味でね。
経験を積む前
の無邪気さと、
経験を積んでも
積んでも
滲み出る無邪気さ。
両方とも
本物の無邪気さ
だけど、
後者を醸し出して
いる人を
拝見すると、
やはり私は
感動するね。
人としての
豊かさを
体現しているから。
おかげさまで
私の周りには
そういう人が
とても多い。
おいおい、
もうちょいと
大人になれよ、
と
冗談めかして
突っ込みたくなるほど、
みなさん
無邪気だ。
かといって
多くの人は
企業経営者なので、
ちゃんと
責任を負いながら
生きている。
人間って
凄いもんだな、
と
いつも
思えるね。
つづく
私の意識は
常に、
未来を
見つめている。
「未来」
というのは、
2046年のことだ。
つまり、
今から27年後の
未来だ。
そこで
何が起きているのか?
どんな
未来が築かれているか?
などを
予測している
わけではない。
ただ、
「見つめている」
のだ。
潜在意識の部分も
含めれば、
私は24時間常に
そこを
見つめ続けている。
その状態で、
「今」
に何をするか?
を
すべて決めている。
「すべて」
だ。
・・・・・・
ビジョンとは
そういうものだと
私は思っている。
常に自分が
見つめ続ける未来
が、
ビジョンであり、
それは、
「今」と共に
ある。
ビジョンと今は
つながっている。
というよりも、
「一つ」に
なっている。
実在のレベルでは
そういった状態に
なれて初めて、
それはビジョンと
なる。
27年後の未来は
私からしてみれば、
あまりにも
「近い」のだが、
しかし、
その時に世の中は
こうあってほしい、
という
私の願いからすると、
今の状態は
あまりにも
そこからは遠い。
いったい
どうやってそこまで
たどり着けば
よいのだろう?と、
顕在意識の私は
ついつい思って
しまうのであるが、
もちろん
ビジョン実現の
自信も
ないのだが、
しかしそれでも
私は確信を持って
「今、ここで
自分が何をするか?」
を
決め続けている。
そこには
一切の迷いは
ないし、
この「一歩」が
27年後に直結し、
「一つ」になっている
ことも
感覚で理解できる。
だから
「状態」としては
極めて遠いのだが、
「進んでいる実感」
と
「このまま行けば
たどり着ける、
という根拠のない
確信」
は、
常に感じ取れている。
これが
「真本音で生きる」
ということなのだと
思う。
私は
「今やってはならない」
と思うことは、
何がどうあっても
決してやらない。
そして、
「今すべきだ」
と思うことは、
何がどうあっても
必ずやる。
その一瞬一瞬の
選択の中で
ここにいる。
・・・・・・
こういった感性は
すべての人が
もともと持ち合わせている
ものだ。
真本音度合いが
高まれば、
皆、思い出せる。
だからそうしよう
というのが
私のサポートの根幹に
くるが、
この感性を
サポートなしでも
最初から充分に
持ち合わせている
若い人達の存在を、
最近は
特に多く感じるように
なった。
ただしその
「若い人達」というのは、
現時点では
「幼児」と言われる
人達だ。
私の息子も
含めて、であるが。
この感性を
今の世の中が
潰してしまう可能性は
残念ながら
大いにある。
大人達が
子ども達を
「未熟なもの」として
思い込み、
「すべてを教えなければ」
とするところから、
感性潰しは
始まってしまうだろう。
もちろん、
彼らは未熟だ。
いろいろ、
教えなければ
ならない。
私の息子に関しても、
毎日、
叱らなければならない
ことばかりだ。
それはそれ。
しかし、
彼らの感性を
潰してはならない。
彼らは
「ビジョン」を持ち
ここにいるのだから。
いや、本当は
すべての人が
そうなのだが、
特に彼らのビジョンは
顕在意識に非常に
近いところにある。
ちょっとのきっかけで
それが浮上し、
「自分は何のために
生きればよいか?」
を、
彼らは明確に
知るだろう。
その感性を
我々大人が
潰してはならない。
大人達が
彼らに
「教えるべきこと」
と、
逆に彼らから
「学ぶべきこと」
の
区別をつけること。
これが
今の世の中の
最重要テーマの一つ
であり、
そのためにも私は
大人達の
真本音度合いを
高めるサポートが
必須だと
思っている。
つづく
私は、
真面目さ、って
大事だな、
と思う。
結局最後は
真面目な人が
急成長している。
ウサギとカメで
言えば、
カメタイプで、
毎日真面目に
コツコツと
進む人ほど、
ある瞬間に
まるでウサギのように
大ジャンプしたり
する。
とは言え。
真面目な人は
ちょっと力が
入り過ぎかな。
最近、
新たなクライアントさんが
何人も増えた。
真面目な方が
多い。
すると、
コーチングなどでの
私の問いかけに
一生懸命答えようと
してくださる。
一生懸命、
心をオープンにしようと
してくださる。
そして、
一生懸命、
行動をしようと
してくださる。
それは私は
とてもいいなぁ、と
思いながら
拝見しているのだが、
私のコーチングを
重ねていくと、
なぜかみんな
どんどん
いい加減になっていく。笑
「なぜか」
・・・じゃないな。
「必然的に」
だな。
いい加減というのは
もちろん良い意味で
だ。
いつも
100%の力を
出そうとしている
真面目な人が、
コーチングを
続けていくと、
そうではなくなる。
要するに、
力を抜けるように
なってくる。
その代わりに、
「ここぞ!」という
時には、
1000%の力を
発揮できるように
なる。
これが、
「真本音度合いが高まる」
ということだ。
ただし。
こういったお話を
すると、
「そうか、真面目じゃ
なくてもいいんだ」
と、
不真面目な人はすぐに
考える。笑
そうじゃない。
真面目な人だから
こそ、
いい加減になった時の
パワーの発揮が
凄いのだ。
まずは基本、
真面目な方が
いい。
真面目な人が
私は好きだし。
私のクライアントさんで、
いつも
とてもしっかりと
「反省」をされる
人がいる。
その人は
いつもは力を抜いて
いる。
自然体だ。
でも、
日々しっかりと
自分を振り返り、
反省をすべき
ところでは、
とことん反省し、
次に活かしている。
その姿を
拝見していると、
この人は本当に
真面目だなぁ、
と感動する。
真本音度合いの低い
不真面目な人には、
「まずは真本音度合いを
高めなさい」
とは、
最近はやらない。
「真本音度合い云々
よりも、
まずは毎日
真面目に生きなさい」
と
やることにしている。
ちゃんと日々、
やることを
やる。
これはやっぱり
基本だと思う。
そういった人の
真本音度合いアップの
サポートを
私はしたいと
思っている。
つづく
私達は人間だから、
いろんな心が
ある。
この心は好きだが、
この心は嫌い。
できれば
こういった考え方に
縛られる自分からは
卒業したい。
こんな風に感じて
こんな風に思ってしまう
自分は
本当に嫌だ。
・・・というように、
自分の望まない心達は
私達の中には
無数に存在するだろう。
傲慢な自分。
情けない自分。
後ろ向きな自分。
いい加減な自分。
勝手な自分。
・・・いろんな自分が
いる。
もう、
いいじゃないか。
そういった自分の
ことで
悩み続けるのは。
そういった
気に入らない自分を
どうにかこうにか
しながら
消そう、とか
コントロールしよう、とか
そういったことで
悩み続ける時間は
もう、
いいじゃないか。
私達は
人間なのだから。
いろんな心が
あるのが
人間なのだから。
あるがままで
良いではないか。
それよりも。
もっと大事な
ことがあるだろう?
私達が
すべきことが。
正確に言えば、
本当に心の底から、
魂から
したいことが。
自分との
約束が。
人生の
目的が。
「こんな自分だから
まだダメだ」
「まだまだ未熟だから
私は進めない」
「もっと精進してから
人生の目的に
向かうんだ」
という声を
本当によく聴くが、
はっきり言うが、
その時点でもう
間違ってるよ。
自分がここにいる
ということを、
人間として
ここに存在している
ということを、
もっと
毅然と見つめて
ほしい。
心は、
いろんな心が
発生するようにできている。
だから、
どんな心が
発生したって
それでいい。
それと
「進めない」
というのは
まったく別のことだ。
自分に自信が
ないから
毅然とできない。
というのも
本当はまったく
関係のないことだし、
自分が嫌いだから
毅然とできない、
というのも
関係ないのだ、
本当は。
私達は
今すぐにでも
毅然と立つことは
できるんだ。
毅然と
進むことは
できるんだ。
その事実から
目を逸らし続けている
その姿勢こそに
大きな問題が
あるんだ。
あなたの中に
揺るがぬ願いが
あるだろう。
それは、
心がどのような状態に
なったとしても
関係なく
揺るがないままで
あるだろう。
それを
大事にしようよ。
それが
本来のあなた
なのだから。
心は、
大事にしよう。
大事にする、
とは
「どんな心があっても
いいや」
と
いい意味で諦める
ことだ。
すべてを
存在承認することだ。
あるがままに
すること。
それが心を
大事にするという
こと。
それさえ
できれば、
進め!
進みたいのだろう?
なら、
進め!
毅然と。
つづく
半世紀以上も
生きていると、
1分1秒という
一刻一刻の時間が
とても
愛おしくなる。
そんな感覚
わかりますよね?
私は時々、
何もせずに
目を瞑り、
1秒1秒の時間が
過ぎていくこと
のみを
感じるようにしている。
それ以外の
ことは考えない。
ただ
時間の流れのみ
を
見つめる。
すると
不思議な感覚に
なる。
そこに
「永遠」
を感じるのだ。
1秒という
時間の奥には
「永遠」
がある。
そこはまるで
無限の宇宙の
ようだ。
しかも
とてつもなく
神秘的だ。
その「永遠」は
真っ暗闇の
ように
感じることも
あれば、
白色に輝く
光の世界のように
感じることも
ある。
どちらが良い悪い
ではなく、
どちらも
そこにはあるのだろう。
そして
その「世界」を
この1秒に
込めている。
「永遠」を
込めている。
これが
私達の本来
なのだろう。
私達は
1秒という永遠
を
生きている
存在なのだ。
この3次元の
世の中では、
1秒という時間は
過ぎてしまえば
消えていく。
しかし本当は
消えては
いない。
その1秒は
「永遠」の中に
入るのだ。
いや、
もっと正確に言えば、
その1秒は
「永遠」から
やって来て、
「永遠」に
帰っていくのだ。
言葉にすれば、
そんなようなことを
感覚として
得るわけなのだが、
そうなるともう、
この1秒が
とてつもなく
愛おしくなる。
そして当然ながら、
最高の1秒に
したいな、と
思うし、
それが
できている実感は
恐らく人間としての
最高の幸せの
一つだろう。
だから私はよく、
時間の流れ
のみに意識を
向け、
そこに「永遠」を
感じたら、
その視点で
今からの予定を
立てる。
この後の時間を
何のために
どのように
活用するか?
すると、
一日はとても
輝くものに
なるんだな。
つづく
夢を観た。
私はアスファルトの
道を
歩いていた。
見上げる空には
低い雲が
立ち込めていた。
重い雲だなぁ、
と
思っていると、
向こうの方に
一部だけ
輝いている箇所が
あった。
雲が輝いている?
何だろ、あれは?
そう思い、
そちらの方に
走って行った。
すると確かに
そこは、
雲が金色に
輝いていた。
その輝きに
地面も
染まっている。
しかし
ほんの一部の
箇所だけだ。
すげーなぁ、
こんなことが
あるんだな。
と、
金色の雲を
見上げた。
すると私の体は
上昇を
始めるではないか。
私はその
金色の雲に
吸い込まれて
行った。
雲の中に
入る。
金色の中に
入る。
さらに
上昇をする。
すると、
雲が途切れた。
雲の上の
空に出たようだ。
するとそこには
まばゆいばかりの
太陽が
あった。
・・・と思ったのだが、
違った。
なんとその
輝きは
人だった。
一人の人が
空中に
浮かんでいる。
そしてまるで
太陽のように
輝いていた。
私は
その人のところに
行きたくなった。
すると私の体は
その人の方向に
スーッと
上がって行く。
しかし、
その輝く人も
まるでそれが
合図であったかの
ように、
上昇を始めた。
せっかく私が
上昇しているのに、
その人も
上昇して行く。
だから
追いつけない。
おいおいおい、
ちょっと
待ってよ!
と、
私はその人に
向かって叫んだ。
でもその輝く人は
お構いなしに
上昇を続けた。
どれだけ
上昇を続けても
空は途切れなかった。
まるで
永遠に続くかのようだ。
いったいどこまで
この空は
続くんだ?
と思ったら、
その輝く人が
初めて
口を開いた。
「人が上昇しようと
思い続けるならば、
この空は
永遠に続くんだよ」
へぇ、そうなんだ。
すると、
その人はさらに
言った。
「それって
宿命だよな。
でもとても
素敵なことだと
思わないかい?」
まぁ確かに
そうだな。
でもさ、
いい加減、
止まってくれないか?
どれだけ上昇しても、
君に
追いつけないじゃ
ないか。
「何言ってんだ、
君だって
私と同じスピードで
上昇してるじゃないか」
あっ、なるほど。
知らぬ間に
私は凄いスピードで
上昇を続けていた。
その輝く人と
同じスピードだ。
その輝く人に
追いつくことは
できないが、
距離が
広がることも
ない。
おーなかなか
これは気持ちが
いいなぁ。
・・・と
思ったところで、
私はふと
自分がもとの
地面に立っていることに
気がついた。
あれ?
俺はさっきの道に
いるな。
今のは幻だったかな?
とは思ったが、
しかし
先ほどよりは
明らかに
私の気分は爽快だった。
しかも、
大地を踏みしめる
その感覚には
さっきとは
比べ物にならないくらいの
安定感があった。
地に足がついた、
という表現が
ぴったりだ。
まっいいか。
と思い
私は道を
歩き始めた。
歩き始めると
さらに自分の
安定感を覚えた。
おーさっきよりも
随分と
気持ちがいいぞ。
私は
気分良く
鼻歌交じりに
歩いた。
すると。
いつの間にか、
雲がなくなっているのに
気がついた。
で、わかった。
なんだ、
さっきの重い雲は
俺が創り出して
いたのか、と。
そしてさらに。
ふと、
空にいる自分を
感じたのだ。
あれ?
俺、今、
空にもいるぞ。
そして
今もまだ
どんどん上昇を
続けている。
しかも、
こうして
この大地にも
立っているな。
そうか、
両方の俺が
いるんだ。
と
わかった。
さっきの俺も
俺だ。
ここにいる俺も
俺だ。
そうか。
人は
両方の自分が
いるんだ。
両方の自分を
感じれば、
こんなにも
気分がいいんだ。
さてと。
道の続きを
行こうか。
私はますます
気分良く
道を進んだ。
青空の下の
道を。
つづく
自分が
すべての中心である
という考え方は
一見、とてもワガママで
自己中心的で
危険な感じも
するかもしれないが、
一度、
本気でそう思って
みることを
お勧めする。
「すべての中心」
とは
本当にすべて
の中心だ。
自分が社長とか
社員とか
関係ない。
自分は
世の中の中心であり、
社会の中心であり、
地球の中心であり、
宇宙の中心である、
と
真剣に全力で
思ってみるのだ。
その気持ちで
一日を
過ごしてみて
ほしい。
すると
普段当たり前だと
思っている物事が、
どのように
変わって見える
だろうか。
試してみて
ほしい。
中途半端な
中心意識は
私は
害ばかりが
あるように思うが、
本当に真剣に
自分が中心
と思い、
責任を持って
行動することは
特にこれからの
時代においては
とても大切なこと
ではないか。
とはいえこれは
理屈ではない。
「感覚」の
話だ。
その「感覚」を
一日とは言わず、
毎日体験してみて
ほしい。
・・・・・・
なぜこんなことを
書くのかと言えば、
「実在」のレベルでは、
すべての人が
「中心」だからだ。
なぜなら
すべてが「一つ」
であるから。
なんか久しぶりに
こういうことを
書いている
気がするが、(笑)
高い次元では
すべてが一つであり、
それが
分離して今の
私達がある。
分離してはいるが、
すべての人が
「私が中心だ」
と真剣に生きることで、
すべては
調和する。
というのが
真実だ。
あの人が
こうだから、
私はこうなって
しまう。
会社が
こうだから、
私はこれしか
できない。
すべては
○○のせいだ。
・・・というのが
なくなると、
世の中は
グッと変わるだろう。
ただしこれは
精神論でも
あるべき論でも
ないし、
理屈でもない。
体験から
入り、
「思い出す」しか
ない。
本来の私達を
思い出すしか。
だから一度ぜひ
やってみて
ほしいな。
つづく
人には皆、
エネルギーの流れ
というものがある。
そのエネルギーは
その人その人で
異なるもので、
それがその人の
個性の源となる。
人とお会いする時、
私はいつも
そのエネルギーを
感じるようにする。
私が感じ取るのは、
エネルギーの大小
というよりも、
今のその人にとって
そのエネルギーが
必要な循環を
続けているかどうか?
だ。
健全な循環を
感じ取れれば、
ひとまずは
安心。
あとはその循環が
よりスムーズに
行くように
サポートする。
もちろんこういった
話そのものを
することはない。
ただ、
コーチングをすることで
循環力(あえて言えば)
が増すようにする。
これが私の
コーチングサポートの
本質だ。
これを氣功的な
やり方ですることも
できるが、
あえて私は
それをしない。
それよりも私は
「言葉の力」
を使う。
言葉というのは
やはり凄いのだ。
その人にとって
今、最も必要な
言葉を使い、
その人にとって
今、最も必要な
問いを投げる。
そして、
その人にとって
今、最も必要な
メッセージを贈る。
これをすることで、
その人の
エネルギー循環は
明らかに変化する。
もちろん、
的確ではない言葉
を投げることで
循環が滞ることも
ある。
良きにつけ
悪きにつけ
言葉の威力は
大きい。
その人にとっての
良い言葉を選び、
それを投げ、
その人が
自分自身と
しっかりと向き合う
場を創ることで
エネルギー循環を
健全で
最善のものと
する。
私はこれが
コーチングの本質だと
思っている。
そして当然、
それは
自分で自分に対しても
行なうことは
可能だ。
それを私は
セルフコーチング
と呼んでいる。
つまり
セルフコーチング
とは、
自分自身の
エネルギー循環を
マネジメントすること
だ。
これができると
人生も仕事も
劇的に
楽になる。
実は先日の
10連休。
私は恐らく、
社会人になってから
初めてと言っても
よいくらいに、
のんびりと過ごした。
仕事はちょくちょく
あったのだが、
家族との時間を
充分に取ることが
できた。
自分自身は
充分に休息をした
と思っていたのだが、
10連休が終わって
いつものような
毎日が再開されて
気づいたのだ。
なんだ、俺、
いつも10連休のような
もんじゃんか、
と。
何も変わらない
のだ。
もちろん、
仕事をすれば
予定はどんどん入って
くるし、
緊張もするし、
疲労もする。
しかし、
だからと言って
エネルギー循環が
変わるわけではない。
私は常に
自分のエネルギー循環を
最善のものに
できている。
セルフコーチングを
毎日、しっかりと
行なっているからだ。
だから
とても楽なんだ。
もちろん
休日はなきゃいけない
と思っている。
体は休めた方が
いい。
仕事以外の楽しみも
あった方が
いいだろう。
人生をより豊かに
するために。
でも、
休日も平日も
自分のエネルギー循環は
変える必要はない。
いつも毎日、
最も居心地の良い
エネルギー循環に
なるように
整えておくこと。
これこそが、
人生を楽しむ
根幹にくるものでは
ないかと
最近、
特に強く思うな。
つづく