わからない

この楽しみこそ

 

これは、

今の自分には

わからない

ことなのだ。

 

と、

わかることが

ある。

 

きっと

未来の自分、

 

ひょっとすると

それは

明日の自分かも

しれない、

 

1時間後の自分かも

しれない、

 

10年後の自分かも

しれない、

 

・・・けど、

 

でもとにかく、

未来の私にしか

出せない、

今、ここにいる

この私には

出せない答えなんだ。

 

今の私が

出してはならない

答えなんだ。

 

・・・と

わかる。

 

この感覚は

とても大事だ。

 

そうしたら

今、ここで

答えを出すことは

あきらめて、

 

では、

答えのわからない

自分は、

今これから

何をしようか?

 

と。

 

「答えを出すために

何をしようか?」

 

という観点も

大事かも

しれないが、

 

それ以上に

 

「答えをわかっていない

この自分だからこそ、

何をしようか?」

 

という

この感覚も

大事だ。

 

コーチという

役割をしていて、

私は痛感する。

 

「答えがわからない」

ということが

いかに

素敵なことか。

 

これこそ

人間の醍醐味

ではないか。

 

人生の醍醐味

ではないか。

 

問いがある

ということは

イコール、

必ず答えがある

ということだ。

 

にも関わらず、

答えがわからない。

 

わかるべき

時が来るまで

わからない。

 

・・・これ、

凄く面白い!

 

だからこそ

人生が進む。

 

冒険が

始まる。

 

未知の領域へ

進んで行ける。

 

「わからないまま

進む」

 

・・・その楽しさ。

 

だから私は

いつも自分に

問いばかり

投げ続ける。

 

問いは全部、

それ専用の手帳に

書き続けている。

 

その手帳を

いつも見ながら、

 

答えがわからない

モヤモヤを

 

楽しみ尽くして

いる。

 

これが

セルフコーチングの

基本だ。

 

この

楽しみこそが。

 

つづく

 

わからない!

 

わからない

ことを

 

「わからない」

 

と言える

すがすがしさ。

 

本当に

わからんわぁ、

全身の力が抜けて

 

本当に心から

あきらめる

すがすがしさ。

 

・・・こういった

体験はあるかな?

 

「わからない」

には

2種類ある。

 

一つは、

 

まだまだ

しっかり考えていない

ことによる

「わからない」。

 

もう一つは、

 

あらゆる手段を

尽くして

答えを探究

し尽くして、

 

やれること

すべてやって

それでも

どうしても答えの出ない

「わからない」。

 

もちろん

すがすがしいのは

後者だ。

 

そしてその

すがすがしさは

 

こんなにまで

探究し続けても

わからないという、

こんなにも

奥深いテーマと

出会えたなんて、

なんと幸せだろう

という

すがすがしさでもある。

 

と同時に、

 

答えのわからない

問い

はない。

 

もちろんその

答えとは、

その人にとっての答え

ということだが。

 

その人に浮かぶ

問いには

その人なりの答えが

必ずある。

 

その答えが

見つかることで

その人は次のステージに

一気に進む。

 

答えがわからない

ということは、

 

それだけそのステージに

入ることの

難易度が高いということ。

 

そして難易度が高いほど、

それを越えた時の

開放感も

その後のまだ見ぬ世界の

広さも大きさも

凄いということになる。

 

そういった

本能的感覚的な

期待感も含めて

すがすがしい

と思えるのだ。

 

探究が

まだまだ足りないうちに

「わからない」

とあきらめるのは

実にもったいない。

 

そして、

 

本当の納得の答えに

たどり着く前に

中途半端な答えを

出しておしまいにする

のも、

実にもったいない。

 

うー、わからない!

笑いながら言える

くらいに

 

とことん

探究しようでは

ないか。

 

つづく

 

わからないなぁ

 

「わからない」

ことは

とても良いことだ。

 

「わからない」

から

「わかろう」

とする。

 

それが

生きる原動力の

一つだ。

 

幼い子ども達も

そうだ。

 

好奇心の塊。

 

わからないことを

わかろうとし、

 

わかった瞬間に

 

とてつもない

笑顔となる。

 

これこそが

私達の生きる力。

 

よく思う。

 

ある人が

言われた。

 

「夢は

そう簡単にわからない

からこそ

楽しいじゃないか」

 

「夢は

そう簡単に叶わない

からこそ

楽しいじゃないか」

 

と。

 

私もそう思う。

 

そして私は

 

「未来は

わからないからこそ

楽しい」

 

とも思う。

 

1秒先の未来が

わからない。

 

というのが

この3次元の世界の

最大の魅力の

一つだ。

 

だから私達は

必死になって

未来を予測したり

見通そうとする。

 

未来を

自ら創り出そうと

する。

 

その一連のあらゆる

プロセスに

価値がある。

 

そして

その価値は、

 

「今この瞬間」

 

を最高のものに

することで

さらに高まる。

 

「最高」とは

「最善」

ということだ。

 

「最善」とは

自分の「理想」の想いと

今の「現実」とを

両方大事にして

初めて得られる

発想であり、判断であり

選択だ。

 

最善の選択を

今この瞬間に

し続ける生き方。

 

この生き方自体が

 

「わからない」

 

完全調和する。

 

今この瞬間を

本当に大切に

生きている人は

 

「わからない」

を本当に

楽しめるのだ。

 

それこそが

真本音で生きる

ということだ。

 

つづく

 

わからないままでいい

 

扉が開いてみなければ、

わからないことは

たくさんある。

 

扉が閉まっているんだから、

あーだこーだと

今、考えても

しょうがない。

 

開かなければ

わからないのなら、

 

開ければいい。

 

今ここで

考えごとをしていても

開くわけではない。

 

開くまで

行動し続けることだ。

 

未来やビジョンや

目指す姿が

わかった上で進めれば

一番良いかもしれないが、

 

わからないままで

進まねばならない時

は多い。

 

そっちの方が

多い。

 

でも進めば

いつかはわかる。

 

そこまで

進まないから

いつまで経っても

わからない。

 

だから

進むしかない。

わからないままに。

 

・・・・・・

 

わからない時は

わからないのが不安

だから、

 

ついつい

真本音でないにも

関わらず、

反応本音のみで

未来を設定してしまう。

 

反応本音の目標を

設定してしまう。

 

だから後で

混乱が来る。

 

中途半端な設定は

やめた方がいいね。

 

わからない時は

わからないままに、

 

その気持ち悪さの

ままに、

 

わからない!という

焦りも不安も含めて、

 

そのままで

 

進むといい。

 

わかる一歩のみ、

次の一歩のみ、

進めばいい。

 

できれば

わからないという

行き方自体を

楽しむといい。

 

それができるように

なると、

逆に

人生は安泰だ。

 

表面上は

安泰には程遠いが、

本質は

安泰となる。

 

ちゃんと進み続ける

者は、

本質はいつも

安泰だ。

 

・・・・・・

 

かと言って

闇雲に進んでは

ならない。

 

ちゃんと落ち着いて

一歩一歩を

進むこと。

 

次の一歩すらわからない、

とは

言うなかれ。

 

そんなことは

ない。

 

次の一歩は

本当に真剣に見つけようと

思えば、

必ず見つかるものだ。

 

次の一歩すら

わからないなら、

まだ、

真剣さが足りん、

っちゅーことだな。

 

つづく