クセ

クセはクセである

 

勇気を持って

何かに取り組もうと

したとき、

 

あなたの心は

どのように

動くだろうか。

 

そしてその結果、

あなたは

どのような行動を

取るだろうか。

 

一連の自分の

心の動きと

実際の

行動の取り方には

 

その人なりの

法則性が

ある。

 

それを私は

あえて

「クセ」

呼んでいる。

 

人生経験を

積むということは、

その「クセ」を

一つ一つ

増やしていくこと

だ。

 

とも言える。

 

しかし

「本来の自分を

生きる」

ということは、

 

それら一つ一つの

クセを

手放すこと

でもある。

 

クセを

超えることでも

ある。

 

クセを

増やし、

クセを

手放す。

 

いったい

私達は

何をしている

のだろうか?

 

・・・・・・

 

クセとは

能力である。

 

これがなければ

私達は

生きてはいけない。

 

例えば、

クセという能力

があるからこそ、

 

私達は

自転車に

乗れるようになる。

 

箸を

使えるようになる。

 

歯を

磨けるようになる。

 

記憶というのも

クセの一種

かもしれない。

 

九九を覚えるのも

クセを

つけているのかも

しれない。

 

ちょっと極端かも

しれないが、

 

でももし

クセという能力が

なければ、

私達にできることは

激減するだろう。

 

しかしその

一方で、

 

自分についた

クセを

 

「私自身である」

 

思い込むところが

私達にはある。

 

例えば、

 

こういった時には

私は

こういった心の動き

をして、

こういった行動を

取る。

 

というクセ。

 

これを

「私自身である」

と思い込む。

 

それが

自分であり、

自分である以上、

それは一生

変わらない、と

思い込む。

 

クセとは

とても強烈な

能力であるが、

 

クセは

クセに過ぎない。

 

それは、

あなたでは

ない。

 

あなたの

パターンでしか

ない。

 

・・・・・・

 

自分には

どのようなクセが

あるだろうか?

 

という視点で

客観的に

 

・自分の心の動き

・実際の行動

パターンを

見つめて

みるとよい。

 

同じようなパターンが

頻繁に

日々の中で

繰り返されている

ことに

びっくりするだろう。

 

狭いなぁ。

 

なんて狭く

窮屈な中で

私は生きて

いるのだろう。

 

・・・と

感じることが

できたら、

しめたものだ。

 

その感覚が

クセを超える

きっかけとなる。

 

クセは

大事。

 

しかしそれは

超えるもの。

 

手放す

もの。

 

クセをつけて、

それを

手放す。

 

この連続で

私達は

「本来の自分」

探究し続けて

いるのだ。

 

つづく

 

自分を矯正する人生は、深刻になるだけ

「虚勢を張る」ということについて

書かせていただきましたが、

(→前回記事)

それは、

「反応本音のクセ」

の一つです。

 

反応本音とは、

私達人間が現実(現象)世界と

関わる中で、

現実(現象)からの影響を受けることで

発生する心です。

 

一つの現実に対して

様々な反応本音が大量に

発生します。

 

そのうちの一つを

私達は選択し、

その反応本音に基づいて

私達は行動します。

つまり、

次の自分の言動や振る舞いを

決定します。

 

その、

反応本音の選び方を

私達は無意識に

パターン化します。

 

それが

反応本音のクセ

となります。

 

「虚勢を張る」

というのはそういったクセの

一つです。

 

もちろん、

それ以外のクセもあります。

 

例えば、

「虚勢を張る」のとは

真逆のクセがあります。

 

それは、

「自分を卑下する」

です。

 

自分なんて

どうせダメだから。

自分なんて

どうせできないから。

自分なんて

価値のない人間だから。

自分なんて

どうせ上手くいかないから。

自分なんて

・・・

と、最初から諦めて

物事に挑戦しない、とか

積極的に取り組まない

などの出方をします。

 

また、例えば、

「人に迎合する」

というクセの出方も

よくあります。

 

自分を出すことよりも、

人の意見に合わせたり、

イエスマンになったりしながら、

その場を取り繕う

ことをすぐにしてしまいます。

人間関係において、

波風を立たせたくない

のです。

波風が立つくらいなら、

自分が我慢すればよい、

と、ほとんどの物事に対して

打算的に考えています。

 

その逆に、

「人を否定する」

というクセもあります。

 

自分の考えが一番正しいと

思い込み、

他の人はすべて未熟だと

思い込み、

自分の考えに合わないことは

すべて否定しようとします。

要するに、

頑固ということなのですが、

悪い意味での

評論家っぽくもあり、

口を出す割には

口だけしか出さない。

自分が責任を負って

すべてを引き受けることは

しません。

理論的に否定するだけの

口だけ大将です。

 

・・・というように

反応本音のクセを書き出せば

本当にキリがないくらいに

様々なパターンがあり、

その一つ一つを

しっかりと見ていくと、

かなり深刻に思えます。

 

自分の

・心と

・行動(振る舞い)と

・起こす現実

に悪循環を起こし、

結果として自分の望まない

人生を創り出します。

 

しかも

面白いことに、

一つの反応本音のクセを

治そうとして

たとえそれができたとしても、

さらに次のクセが

出来上がるだけなのです。

 

一つのクセを見つめると、

深刻になり、

そのクセを必死に治しても、

さらに次のクセが

出来上がる。

 

それに対して

また深刻になり、

クセを矯正しようとする。

 

でもまた次のクセが

浮上する。

 

・・・という感じで、

本当にキリがありません。

 

それをやり続けているうちに

人生が

終わってしまうでしょう。

 

しかもその人生とは、

深刻なクセを治すための

深刻な人生だった、

ということになります。

 

しかし

「深刻な人生」

「真剣な人生」

は根本的に異なります。

 

残念ながら

深刻さからは何も

生まれません。

 

反応本音を矯正し続ける人生

からは

何も生まれないのです。

 

むしろ

自分の本当の「道」を

見出すためには、

その深刻さのサイクルから

抜け出す必要があります。

 

そのための

第一歩とは

何でしょうか?

 

それは、

 

『どうでもいいじゃん』

 

という一種の

おおらかさを持つこと

なのです。

 

「何があってもいいじゃんか」

とか

「どんなクセがあっても

構わないよ」

という

おおらかな目線で

自分の心と行動を

見つめることです。

 

ただし、

あるがままに

見つめること。

要するに

『観察』であり

『観る』ことです。

 

やはりまずはそれが

すべての土台に来ます。

 

そしてその上で

一つ、

とても重要なことをします。

 

それがすべての

始まりとなります。

 

続きは次回に。

 

つづく