創造

創造力を高める方法

 

人は誰にも

創造力

がある。

 

何かを生み出す

力だ。

 

その、

本来備わっている力

を発揮するには、

 

しかしそれ相応の

訓練が必要だ。

 

今回は一つ、

その訓練法を

お伝えしよう。

 

・・・・・・

 

「創造」には、

皆、

 

「創造の源」

 

がある。

 

あなたにとっての

創造の源を

探し出そう。

 

と言っても

やることは簡単。

 

「光」を

イメージしてみて

ほしい。

 

「創造の源」とは

一つの「光」である、

わざと思い、

 

その「光」は

どこだろう?

あなたの体の周りを

探してみてほしい。

 

例えば、

頭の50cmくらい

上にあるな、とか

 

自分の背後、

3mくらいのところに

あるな、とか。

 

多くの場合、

体の中というよりも

外にあるはずだ。

 

ほとんどの人が

「創造の源」と

離れてしまっている

からだ。

 

人によっては

宇宙の彼方に光がある

くらい

かなり遠くかも

しれない。

 

場所を特定できたら、

その「光」に

意識を向けてみよう。

 

それは

どれくらいの強さで

どんな色で

光っているだろうか?

 

それがわかったら

あとは簡単だ。

 

その「光」に

じっと意識を

向け続けるだけだ。

 

無心で

何も思考せずに、

ただじっと

意識を向け続ける。

 

それをしていると

何らかの発想が

ふと

呼び覚まされるかも

しれない。

 

それが

あなたにとっての

「創造」だ。

 

ただし、

最初からすぐに

できるわけではない。

 

まずもって

無心で意識を向ける

ということ自体が

難しいだろう。

 

ちなみに私は

これ、

やろうと思えば

何時間でもできると

思う。

 

「創造の源」である

「光」は、

そこに意識を向ければ、

ずっと無心で

いられるのだ。

 

そして

無心でいられれば

いられるほど、

 

あなたの人生にとって

必要な何かが

そこから発想される。

 

毎日、少しずつでも

良いから

練習しよう。

 

この練習は、

実は、

創造力以外にも

様々な効用を見せてくれる。

 

あえてそれは

ここでは書かないので

 

ぜひ自らそれを

体験してみてほしいな。

 

つづく

 

新しい世界に行こうではないか

 

新しい世界に

最初に降り立つ

というのは、

とても勇気の

要ることだ。

 

そこには

何があるのか、

さっぱり

予測ができない。

 

予測ができる

ということはもう

その時点で

新しい世界では

ない。

 

予測ができる

ということはもう

その時点で

「超えていない」。

 

完全に、

自分の範疇を

超えているので

あれば、

予測は不可能だ。

 

むしろ

予測をしない

方がいい。

 

自分の範囲よりも

大きな場所に

いるのだから、

自分の範囲で

考えることは

危険である。

 

予測し意図を持つ

ことはむしろ

死を意味するかも

しれない。

 

だから

開き直る。

 

しかない。

 

開き直って、

予測ではなく、

「創造」に

集中する。

 

つまりは、

 

私は何をここで

創り上げたいか?

 

その、

願いのみに

意識を集中し、

行動を集中させる

しかない。

 

あとは、

人智を尽くして

天命を待つ。

 

煮るなり焼くなり

好きにしてくれ。

 

と、

開き直るしかない。

 

そして

その状態に

入った時に初めて、

 

一瞬、

 

すべてがわかる。

 

という体験が

ある。

(かもしれない。)

 

理屈で

わかるのでは

ない。

 

完全に

意識化できる

わけでもない。

 

でも

たった一瞬でも、

 

すべてがわかる

 

のだ。

 

その一瞬の

確信のみで、

私達は

毅然と進む

ことができる。

 

・・・・・・

 

私達は

今、

ここにいる。

 

という

紛れもない

現実がある。

 

そもそも

その現実を

受け入れていない

人が多い。

 

そういった人は

皆、

自分の「思考」の

世界に

入り浸っている。

 

目の前の

Aさんの表情を

見ることよりも、

 

Aさんとは

こういう人だ、

 

と解釈する方を

優先する。

 

Aさんを

見つめているような

振る舞いはするが、

 

実は

Aさんではなく、

Aさんに対する

自分の解釈のみを

見つめている。

 

これでは

Aさんとの関係性に

変化は

訪れない。

 

Aさんと共に

「新しい世界」

入ることもない。

 

一生。

 

本当に、

そんな人生で

よいのか?

 

自分の狭い

解釈の世界の中に

いるだけの

人生で

よいのか?

 

それで、

人生を終える

瞬間に、

満足感は

得られるのか?

 

自分の人生の

目的を果たせたと、

魂の悦びに

震えることは

できるのか?

 

・・・・・・

 

私達は

生きている。

 

生きる

とは

進化である。

 

進化の悦びを

得る、

ために

今ここにいる、

 

というのが

私達人間の

厳然たる事実

である。

 

と、

私は

人と向き合う現場で

確信できた。

 

ありがたい

経験だった。

 

人と向き合い

ながら、

自分と

向き合うことが

できた。

 

今のこの

お仕事に

本当に感謝

している。

 

明日向き合う人

と、

私はどのような

会話をするのだろう?

 

そして

どのような

「新しい世界」への

扉を

開くのだろう?

 

いったい

何を

創造したいと、

願うのだろう?

 

つづく

 

真の破壊を成そう

 

人生においては、

様々な覚悟が

必要です。

 

その中でも、

私達人間が私達自身に

与える最大級の覚悟

の一つは

 

「自己破壊の覚悟」

 

でしょう。

 

破壊。

 

・・・怖いですね。

 

これまでに構築したもの、

これまで継続してきたもの、

これまで育んできたもの、

 

それらを

破壊することは、

とてつもなく怖く、

そして

いやなことです。

 

よく、

「創造のための破壊」

と言われますが、

でも実は、

創造を視野に入れた破壊

とは、

もうその時点で

中途半端なものに

なってしまいます。

 

破壊するなら、

破壊のみに

徹する。

 

徹底的に

破壊のみに

集中する。

 

それが必要な時が

私達の人生には

必ず訪れます。

 

訪れますが、

破壊を回避することも

また

できます。

 

徹底的な破壊ではなく、

中途半端な破壊で

済ますこともできます。

 

しかしそれをしても、

残念ながら

その後の「創造」は、

中途半端になりますし、

新たに創造したものは、

それまでの次元と

何ら変わりません。

 

徹底的に

破壊すべきものを

破壊する。

 

その勇気を持つことが

必要です。

 

・・・・・・

 

先ほど書きました

「自己破壊」。

 

破壊の中でも

これほど怖いものは

ありません。

 

自己破壊とは

もちろん、

自分の体を破壊する

ことではありません。

 

自分の心を

破壊するのです。

 

正確に言えば、

自分の

「心のパターン」を

破壊します。

 

しかしながら、

「心のパターンを

破壊すればいいんだ」

という程度の覚悟では

絶対に成せません。

 

自分そのものを

無にするくらいの

覚悟を持った時に

初めてそれは

成されます。

 

なぜこのようなことを

書くかと言いますと、

今、

自己破壊の前で

戸惑っている人が

増えているからです。

 

自己破壊とは、

その人自身の

真本音の意志の

一つです。

 

もちろん、

自己破壊しても

本当に自分がなくなる

ことはなく、

破壊することで

その後に

「本来の自分」が

目覚めます。

 

しかしやはり、

「本来の自分が目覚める

から、破壊しよう」

では、

決して破壊は

成されないのです。

 

それどころか、

当の本人にとっては

そんな理屈は

どうでもよく、

自分が壊れていく

恐怖感のみがあまりに

大きく、

その恐怖に

恐れおののくばかりです。

 

ですから私は

あえて申します。

 

その恐怖に

毅然と立ち向かって

ください。

 

自分がなくなってしまう

という

あまりに深い喪失感に、

毅然と

立ち向かってください。

 

「私」が消えてしまう。

 

明日から「私」の人生で

なくなってしまう。

 

そのような

悲しみに

毅然と

立ち向かってください。

 

そして

自分の「電源」は

自分で切るのです。

 

完全に

「デリート」

するのです。

 

それができるのは

自分だけです。

 

・・・・・・

 

私は「自己破壊」を

これまで何度も

経験していますが、

初めての時は、

怖くて怖くて

一晩中、朝まで

泣き続けました。

 

でも、

この「破壊」をしなければ、

私は私の望む人生、

そして私の使命を

果たせないことも

よくわかっていました。

 

「破壊」とは

無になることではなく、

新たな「命」が

始まることも

頭ではわかっていました。

 

でも、

自分が自分で

なくなってしまう

あの感覚の前では

すべてが机上の空論に

思えました。

 

それでも

一晩泣き続けた後に

意を決して

私は自分を

「デリート」しました。

 

で、

次の瞬間に

「普通」に

戻りました。

 

私は

私でした。

 

でも、

何かが全然

違う。

 

自分を

取り戻した感覚。

 

満たされた

感覚。

 

あの日から私は

急激に

「実在」を感じ取る

力が伸びました。

 

私に必要な力が

目覚めたのですね。

 

破壊の勇気を

出した人のみが

得られるものが

あります。

 

しかしそれは、

何度も言いますが、

得られるものを得る

ための破壊では

中途半端で

得られません。

 

徹底的な

破壊を。

 

完全デリート

を。

 

今、あなたには

それが必要です。

 

つづく

 

今日と明日はつながっていない

今日という日は

いったい

何のために

あるでしょうか?

 

このような問いを

自身に

投げたことは

ありますか?

 

今日という一日が

存在している

意味。

 

自分の人生に

とって。

 

そして

世界にとって。

 

当たり前のことですが、

今日がなければ

明日も

ありません。

 

今日という一日が

明日という

新たな一日を

決めます。

 

そんなことは

当たり前だと

誰もが思いますが、

しかし本当は、

今日という一日と

明日という一日は、

完全に

分離しています。

この

3次元世界に

おいては。

 

・・・・・・

 

完全に分離

しているのに、

なぜ

続いていくのか?

 

それは、

この3次元世界に

存在している

慣性の法則

の影響に過ぎません。

 

「慣性」を

別の表現で言い換えれば、

「惰性」

とも言えます。

 

要するに、

今日の惰性のまま

明日を迎えている

のが

私達のほとんどです。

 

ちなみに

「惰性」を辞書で引きますと、

 

今まで続いてきた習慣や癖

 

とあります。

 

そうです。

癖なんです。

 

今日と明日が

続いているのは、

そういった私達の

癖でしかありません。

 

なんで

こんな極端なことを

書くのかと言いますと、

「私達はもっと

自由になれる」

と言いたいのです。

 

「癖に負けるな」

と言いたいのです。

 

癖って

強いんです。

 

なぜなら

私達人間にとっては

癖とは

とても大切な

「能力」だから。

 

癖という能力が

なければ、

私達は

何もできなくなるでしょう。

 

例えば、

自転車に乗れるように

なるのも、

要するにそれは

自転車に乗れる癖を

自分自身につけている

ということになります。

 

癖という能力が

なければ、

私達は、何度練習しても

自転車には乗れません。

 

そういった意味で、

私達の心と体とは

癖の塊です。

 

癖の宝庫です。

 

でも、

それが「癖」であるとは

認識していません。

 

で、

自分で認識していない

「癖」に捕らわれたまま

「明日」を

迎えます。

 

昨日と同じ延長線上に

ある

新たな日を

迎えます。

 

・・・・・・

 

癖は

大事ですが、

癖を超える

日々を

今の私達は

創り出さねば

なりません。

 

本当の

「創造力」

とは、

そういうことを言います。

 

癖の延長線上にある

創造力は

本来の創造力ではないと

私は思っています。

 

癖によって

新たな一日を

迎えるのではなく、

 

常に

原点に戻り、

毎日を

原点から

始めること。

 

それができるように

なると、

一日一日が

劇的に変化し

進化し始めます。

 

実は、

真本音で生きるとは

そういうこと

なんですけどね。

 

私が推奨している

セルフコーチングとは、

癖を大事にしつつも、

そういった癖を

超えていく力を

発揮するものです。

 

すべての人が

癖に捕らわれた人生から

自分自身を

解放できるといいなぁと

私は思います。

 

癖が

自分の人生を決める

のではなく、

自分が

自分の癖を活かす人生。

 

そんな人生に

シフトチェンジ

しませんか?

 

つづく

 

破壊するなら徹底的に

私達人間の持つ

大いなる力を一つ挙げよ、

と言われたら、

私は

「再生する力」

であると答えるでしょう。

 

「再生」という言葉の意味は、

死んだものが生き返ること

ということなのですが、

要するに、

「やり直しが効く」

ということです。

 

私が出会うクライアントさんは

真面目な人が

多いです。

 

真面目な人は皆、

真剣に「後悔」をします。

 

「自分のせい」

にします。

 

他人のせいにするよりも

まずは自分を責めます。

 

決してそれが良いことであると

私は思っていません。

 

自分を責め続けることで

自己満足をしている人も

いますし、

自分を責め続けることで

自分が本来為すべきことに

まったく手をつけられない

という人もいるからです。

 

しかしそういうことを

差し引いても、

「自分が悪いのではないか」

「自分が別の選択をしたら

良かったのではないか」

という見方をする人は、

どうしても応援したく

なりますね。

 

そういう人達に

必ずお伝えするのが

「再生の力」

です。

 

人は、

何かの大きな失敗を

犯したとしても、

きちんと後悔と

反省をするならば、

必ず再スタートを切ることが

でき、

進化の道を歩むことが

できるのです。

 

100積み上げたものが

すべて壊れて

0に戻ってしまったとしても、

また1、2、3、・・・と

一つずつ積み上げることが

できるのです。

 

そして

そのように「進み続ける」

ということ自体に

私は大いなる価値があると

思いますし、

「進み続ける」人は

その人なりの充実感と

幸せを得ることができるのです。

 

問題は・・・、

進んでいるつもりに

なっている人。

 

本当はまったく進まない

どころか、

人の足を引っ張ることに

エネルギーを費やしながらも

その自覚がまったく

ない人です。

 

・・・・・・

 

自己満足。

 

私も随分と

その状態で生きて

きました。

 

自己満足に陥っているときは

本人には

まったくその自覚は

ありません。

 

私は自己満足では

ないか?

 

という問いが発生した時点で

大丈夫なのです。

 

問題は、

そういった問いや

視点がまったく

生まれない人です。

 

その人が

本人の自覚のないところで

周りの人達のエネルギーを

いかに奪い取っているか。

 

周りの人達の

真本音度合いを

いかに奪い取っているか。

 

そしてそれが

組織であれば、

その人のために

いかに組織が疲弊しているか。

 

それを

その人本人にご理解

いただくのは

至難の業でです。

 

しかしそれでも

やらねばならない時が

あります。

 

その組織の生死が

かかっている時です。

 

こういうときは

「第3者」が

役に立ちます。

 

「第3者」とは

私のような者です。

 

つまり、

組織に属さないけど、

その組織に深く関わる者

です。

 

・・・・・・

 

いったいこれまで私は

どれだけ多くの人達の

心を壊してきたでしょうか。

 

「あなたは間違っている」

「あなたの生き方そのものが

完全に自己満足だ」

 

そういった

普通の人には言えない一言を

私はこれまで

どれだけ多くの人達に

ダイレクトに

お伝えしてきたでしょうか。

 

それをお伝えするたびに

私の心は

ズタボロになります。

 

それはつまり、

相手の心のズタボロを

そのまま受け取っているのです。

 

それはとても

つらい行為です。

 

でも一方で

私はわかっています。

 

それをすることで

その人の実在が

輝くことを。

 

心はズタボロでも、

その人の魂が

一気に輝きを放つことを。

 

その人の心から

魂が

解放されるその

爽快さを。

 

自己満足をしている人は

自分を誰かが

躊躇なく責めてくれることを

望んでいます。

 

・・・いえ、

それは「望む」などという

生易しいものでは

ありません。

 

それは、

「祈る」

と言ってもよいでしょう。

 

私はその「祈り」を

感じ取ったとき、

私自身の人としての心を

いったん横に置いて、

魂だけの自分となり、

魂の言葉を

その人に直接

浴びせます。

 

それが私の役割の

一つであると

思っています。

 

・・・・・・

 

どれだけ心を

壊されても、

その人の魂の光が

健全であれば、

その人は間違いなく

再生します。

 

「破壊者」。

 

時々、私は自分のことを

そう思います。

 

でも、

徹底的な破壊なくして

本来の創造は

あり得ません。

 

一番いけないのは

中途半端な

破壊です。

 

一度、すべてを更地に

するからこそ、

その後に健全な

建物を建てることが

できるのです。

 

高次元の私は

目の前のその人が

私自身であることを

よくわかっています。

 

私は私自身に対して

徹底的な破壊を

行ないます。

私自身が

再生することを

祈りながら。

 

それが私の役割の

一つです。

 

第3者だからこそ

できることです。

 

つづく

 

虚無に負けるな

人生に辛さを感じている人、

特に、

「虚無感」に苛まれている人が

今、本当に増えているのを

実感しています。

 

ですから今日は、

「虚無」について

書かねばなりません。

 

「虚無」とは

何だと思いますか?

 

「虚無」と言うと

何もない状態であると

思われる人が多いでしょう。

 

しかし。

 

「虚無」

とは、何もない

というものではありません。

 

もっと言えば・・・。

 

「無」という一文字も

見てみましょう。

実は、・・・。

 

「無」

と言うのも、何もない

というものではありません。

 

それは、

「無」

という一つの

かたまりなのです。

 

我々人間が解釈した

「何もない」

というものの、

かたまりに過ぎないのです。

 

解釈の

かたまり。

 

ただの想像の

かたまり。

 

本当に何もない

わけではありません。

 

実在のレベルで言えば、

「何もない」

という状態は本来は

あり得ないのです。

 

「何もない」状態は

ないのです。

 

ところが私達は

「無」とか「虚無」を

極度に恐れます。

 

我々人間の持つ

あらゆる恐怖感の

根底にあるものが

「無」や「虚無」への

言いようのない恐れです。

 

「無」になりたくない。

 

「虚無」に陥りたくない。

 

私達の恐れは

すべてここから

きています。

 

しかし、

「無」も「虚無」も

本当はありません。

 

ないものに対して

私達は恐怖しているのです。

 

よく、

次元が高まると

何もなくなる。

すべてが無になる。

 

という言い方をされる人が

います。

 

しかしそれは実は

無とは似て非なるもの

です。

 

それは、無ではなく、

「すべてがある」

状態です。

 

どういうことかと言いますと、

光をイメージするとよいでしょう。

 

赤い光、青い光、緑の光、・・・

様々な波長のすべての光が

合わさると、光は

無色透明になります。

 

無色透明ですから、

一見すると何もないように

見えますが、実は

すべてがそこに

あるのです。

 

すべてが完全に

存在する状態になると、

表面的には無と同じに

なります。

 

しかし、それは無ではなく、

一般的には

「空」(くう)

と言われる状態です。

 

「空」とは

あらゆるものを

生み出す源です。

 

すべてが最初から

そこにあります。

 

実は、

「創造する」

とは、

「すべてがある」状態から

一部分を分離させること

を言います。

 

「すべてがある」状態から

一部分だけを焦点化する

という言い方もできます。

 

次元が高まると、

すべては「一つ」に

なっていきます。

つまりそれは

「空」に近づく

ということです。

 

逆に言えば、

次元が高まり「空」に近づくことで

私達は、あらゆるものを

自由自在に

分離させたり焦点化させることが

できるようになります。

つまり、

望むものを「創造」できるのです。

 

次元が高まれば高まるほど、

望む現実を手に入れられる

という理由の本質は

そこにあります。

 

ちょっとわかりづらいお話に

なってしまったかも

しれません。

 

言いたいのは、

無などない

ということです。

 

しかし、この世には

「無」を感じさせる物事が

たくさんあります。

 

であるが故に

私達は惑わされます。

 

前回の記事でも

書かせていただいた

エンティティも、

ある意味、

「無の象徴」と言えます。

 

エンティティとは、

無への恐れ、という念が

実体化したものです。

 

無への恐れの実体なので、

まるでそれが無そのもののような

恐ろしさを感じます。

 

ですので私達は

エンティティから逃げようと

します。

 

逃げようとすれば、

逆に背後からエンティティに

取り込まれます。

 

知らず知らずの間に

取り込まれています。

 

すると、

どうせすべては

無に帰するのではないか、

という絶望感が

発生します。

 

それにより、

あらゆる気力やパワーが

失われます。

 

何日か前の記事にも

書かせていただきましたが、

このエンティティの氾濫が

今は激しくなっています。

 

エンティティ自体は

実は全然大したことのない

弱いものなのですが、

弱いが故に、

私達の心の弱い部分と

共鳴します。

 

私達は今こそ、

強い意志(意思)を持たねば

なりません。

 

自分の人生は

自分のものである、

ということ。

 

人生に

正しい、間違っている、

という答えはなく、

答えは自分で決めていくのだ

ということ。

 

自分で自分の願いを持ち、

自分で自分の課題を持ち、

自分で自分の決断をし、

それを実行する。

 

つまり

自分で決め

自分で動く。

 

自分で選択し、

自分で進む。

 

この、当たり前を続ける

覚悟。

 

それを持っている人に

エンティティは

絶対に寄りつけません。

 

当然、

心に弱さはあってもよいです。

 

ただ、一方で

心には揺るがぬ部分も

確かに存在しています。

 

それを私は

真本音と名づけています。

 

誰もにある揺るがぬ部分。

 

真本音。

 

それを大切にし、

次の一歩を

踏みしめる。

 

ただそれだけのこと。

 

その意志(意思)に

エンティティは近づけません。

 

もし仮に

一度はエンティティに

取り込まれたとしても、

真本音のパワーによって

エンティティは

すぐに成仏します。

 

私は自分のミッションとして

あえて、

向き合う方々のエンティティを

すべて受け取り吸収します。

 

私が吸収すれば、

目の前の人はエンティティから

解放されるからです。

 

そして後の時間で、

すべてのエンティティと向かい合って

すべてを浄化します。

 

真本音のパワーで浄化

するのです。

それはまさしく「成仏」と言える

ものです。

 

ですから、

成仏する瞬間の彼らの声を

私は毎日のように聴いています。

 

エンティティ達は皆、

最期にこう言うのです。

 

「ありがとう。」

 

彼らは、

無ではなく、

「すべてがある」世界に

戻っていきたいのです、

本当は。

 

つづく

 

勢いに任せた前向きさから脱することこそ重要

葛藤を伴った前向きさ。

 

それは非常に不安定なものです。

(→前回記事)

 

常に前向きであろうと頑張り過ぎる人ほど、

私は注意をします。

その前向きさに合わせて物事を進めれば、

多くの場合、どこかで無理と不調和が生じるからです。

 

これを、

反応本音レベルの前向きさ、

と言います。

 

それに対して、

真本音レベルの前向きさ、

というものがあるのですが、しかし実はこれは

あまり的確な表現ではありません。

 

なぜなら真本音に素直に生きている人は、

自分が前向きかどうか、

なんてことは眼中にないからです。

 

前向きだろうが、後ろ向きだろうが、

今自分のすることは、今する。

ただそれだけのことだからです。

 

その姿を周りの人達が見ると、

「あの人はなんであんなにいつも前向きなんだ?」

という印象になるだけのことです。

 

真本音で生きるとは、

本人にとってはとてつもなく自然な状態です。

 

私のコーチングは、まずはクライアントさんが

そのような状態になる(・・・というよりも「戻る」)ことを

大切にしています。

 

単に勢いに任せて目標設定やコミットメントをして

勢いに任せて突き進む、ということを

私は、極力止めます。

 

勢い任せの前進ではなく、

本当に真本音に根ざした前進であれば、

そのクライアントさんの天然の魅力や個性や力が

発現し始めます。

 

木村さんの天然の力は

『創造力』

です。

(→前々回記事)

 

そしてその創造力とは、

『調和力』

を伴ったものです。

(→前回記事)

 

調和力という言葉は聞き慣れないと思います。

これも私の造語になるのでしょうか。

いつ間にか企業現場で自然に使うように

なっていました。

 

調和力を持った人は凄いです。

 

その人は特に何もしなくても、

その人がその場にいると明らかに

そこにいる人達の調和度合い(調和性)が高まるのです。

 

単純に言えば、例えば、

その人がいなければ言い争いになりそうな議題でも

穏やかにコミュニケーションが進んでいきます。

それだけでなく、

一人一人が個別で考えても決して出てこないような

斬新で本質的なアイデアが、

その場で生み出されるようになります。

 

調和力を持った人が、

そこにいるかいないか?

その違いだけ、でです。

 

ですので、私は組織コーチングをする場合、

その組織の中で調和力を持ち合わせている人を

いつも探します。

そしてその人の調和力を引き出すコーチングを

します。

そしてその人を、要(かなめ)として活用しながら

組織活性化を推進します。

 

その方が何倍も効果が違ってくるからです。

 

つまり調和力とは、

その人の存在そのものが発揮する

独特の力です。

 

木村さんにはそれがあったのです。

 

しかも木村さんの場合は、

その調和力という土台の上で、

新たな道を創り出していく逞しさ(創造力)も

ありました。

 

彼はもともと自信家の個性を前面に出していましたが、

実はその「自信家ぶり」自体は決して悪いことではないのです。

彼のその自信の根元にあったのは、

自分は新たな道を切り開いていける、という確信から

来るものだったのです。

 

しかし反応本音のみで生きていた彼は、

自己保身のために、その自信家ぶりを発揮して

いました。

それにより周りからの信頼を減らしていたのですから、

非常に勿体ない個性の使い方をしていたわけです。

 

要するに、

真本音で生きれば、自分の個性は

良い発揮の仕方をするわけです。

しかし真本音度合いを下げることで、

自分の個性を、自分を下げる方向に使ってしまう。

・・・そういった場面をこれまで私は

本当に数え切れないくらいに見てきました。

 

つくづく「勿体ない」の一言なんですよね。

 

木村さんの上司である平井さんは

こういった彼の特性を何となく掴んでいました。

だから、

「木村が真本音度合いを高めれば

必ず凄いことになる」という確信を持ち、

私に木村さんのコーチングを依頼されました。

 

そして、彼の天然の力が発揮され始めたのを見て、

すかさず、木村さんに「環境」を与えたのです。

それが、新規事業プロジェクトのリーダーという

立場です。

 

平井さんのマネジメントは「見事!」と

言うほかありません。

 

さて、話をもとに戻しますが、

新規事業プロジェクトのリーダーという役割を

平井さんから指示された時の木村さんは、

なぜ自分が?と疑問に思い、それを断ろうとしました。

 

そのタイミングで私のコーチングがありました。

 

私は木村さんに、なぜ平井さんが

木村さんをリーダーにしようとしたか?の理由を

詳細に説明しました。

 

調和力と創造力のお話も当然しました。

 

木村さんは、非常に恐縮されました。

「私のことを買いかぶり過ぎだと思うんです。

平井も、たけうちさんも」

と彼は言いました。

 

真本音度合いを高めることで

妙に謙虚になる人は、結構います。

恐らく、

これまでの自分の「芯のなさ」を知ってしまった故だと

思います。

 

ですから、謙虚になること自体は悪いことでは

ありません。

しかしだからと言って、

行動まで謙虚になる必要はありません。

 

本質的な謙虚になった人ほど、

大胆な行動をとっていただくことが

成果に結びつきます。

 

その環境を与えられる、という「現実」を

私は待っていました。

 

謙虚になった木村さんが、

目の前の「現実」に対して大胆に向かっていく。

 

これが、私のコーチングサポートの

次のステップでした。

 

つづく