愚か

愚かだろう

 

自分のことを

愚かだと

知ることは

とても大事だ。

 

自分の愚かさが

見えていない人は

知らないうちに

愚かな振る舞いを

してしまう。

 

見えていない

のは

本人だけ。

 

周りはみんな

「愚かだな」

その人を内心、

馬鹿にする。

 

そういった

状況は

どの会社にも

どこにでも

ある。

 

何をもって

愚かか、

ということは

とりあえず

置くとして、

 

人間は皆、

愚かだ。

 

愚かな振る舞いの

多い人か

少ない人か

の違いは、

 

自分の愚かさを

どれだけ

認めているか

の違いだ。

 

極論か?

 

そうでもない

私は思うよ。

 

「あなたは

ここが愚かだ」

 

という

フィードバックを

私はこれまで

数え切れないくらいの

クライアントさん達に

してきた。

 

その度に

心が痛んだ。

 

辛いことを

伝えるからということも

あるが、

 

伝えながらも

自分自身の愚かさが、

その傷が、

疼くんだ。

 

本当は

自分で気づいて

ほしい。

 

でも

気づけないのも

また

人間なんだな。

 

だからどうしても

伝えなければ

ならない時が

ある。

 

自分のことは

さておいて。

 

愚かさを

認められぬ

弱さ。

 

これもまた

人間。

 

認められなくても

受け止められ

なくても、

 

それでも

あえて

伝えなければ

ならないから

 

心を痛めながら

伝える。

 

もしこの痛みが

なくなったら、

私自身が

本当に愚かだと

いうことだろう。

 

つづく

 

愚かで悲しいけど

 

もがいている人は

多い。

 

もがくのが

人だろう。

 

人の愚かさを

蔑んだり、

あざ笑う人が

いるが、

 

私にはどうしても

それができない。

 

もちろん

人は

愚かだ。

 

例えば、

もがく必要のない

ところで

もがいたりする。

 

例えば、

もがいている

フリをする。

しかも

その事実に自分自身が

気づかない。

 

例えば、

自分は被害者だ、

と言いながら

もがきながらも

他者を傷つける。

しかも

それに自身では

気づいていない。

という

人もいる。

 

本当に

愚かだと思う。

 

でもやはり

それが人だとも

思う。

 

この仕事に

真剣に向かえば

向かうほど、

人の愚かさを

許している自分がいる。

 

しかしだからこそ

私は

人に厳しくできる

のだと思う。

 

・・・・・・

 

昔、

学生時代の友人が

 

「やさしさとは

厳しさだ」

 

と言った。

 

おー、いいこと

言うねー!

 

と私は共感したが、

もちろんその時の私は

単に言葉の格好良さに

共感していただけだ。

 

今の私は

どうだろう?

 

ちょっとは

その言葉の真の意味は

わかったのかな?

 

時折、私は

自分でも驚くほどに、

人に対して

厳しくなる。

 

よくあれだけ

厳しくできたもんだ、

呆れることもある。

 

でも、

それこそが

その人への最大の

やさしさだ、と

 

やはり信じているから

できるのだと思う。

 

・・・・・・

 

やさしいフリは

もう

やめた。

 

やさしいフリは

人を結果的には

傷つけることを

何度も経験した。

 

いつから

フリ

をやめたのだろうな。

 

もう覚えていないが、

その代わりに

自分の中に

湧き上がる怒りや

憤りを

大切にするように

なった。

 

怒りや憤りを

しっかりと見つめていると、

その根底には

「愛」を感じた。

 

あーそうか、

この怒りをその人に

ぶつけることは

「愛」をぶつける

ことなんだ、

確信するようになった。

 

そんな時は

必ず、

怒りをぶつけるように

した。

 

そこに私は

躊躇をしない自分で

あろうと

ある時から決めた。

 

面白いことに、

そうしてから

私の人生の調和が

始まった。

 

・・・・・・

 

私は人格者では

ない。

 

ただの一人の

人間だ。

 

だから

私自身、愚かな部分を

無限に

持っている。

 

私はいつも

その自分の愚かさを

見つめている。

 

もしこれが

できなくなったら

今の仕事は

即、辞めるだろうな。

 

恐らく今、

私は

「人間」というものが

とても好きだ。

 

愚かな部分に

関しては

本当に嫌なのだが、

それでもきっと

人間が好きだ。

 

今日も

とても悲しいことと、

とても嬉しいことが、

両方あった。

 

悲しい時は

本当に悲しくなり、

嬉しい時は

本当に嬉しくなる。

 

あー俺は

人間なんだ、と

今日も

思った。

 

だから明日も

人間のできる最大を

やろうと、

心に決めている。

 

つづく

 

愚かでもいいじゃないか

すべての人の中に

愚かさはあります。

 

自分の愚かさを

一番わかっているのは

自分自身だと

言えるでしょう。

 

しかし、

愚かさが限度を超えてしまうと

私達は

自分の愚かさに

フタをします。

 

愚かさに

向き合えなく

なるのです。

 

自分は愚かではない。

自分は愚かではない。

自分は間違ってはいない。

自分は間違ってはいない。

自分は精一杯やっている。

自分は精一杯やっている。

・・・・

 

必死に自分に

言い聞かせるようになります。

 

愚かさを見ずに

前向きに

行こうとする。

 

本当のことを言えば、

これこそが最も

愚かなことです。

 

自分の愚かさにフタをして

前向きに生きる人は、

ほんのわずかな成果に

焦点をいつも当て、

ほんのわずかな成果を

クローズアップさせ、

そこで自己満足します。

 

その成果の影で、

いったいどれだけの人に

迷惑をかけているか、

いったいどれだけ多くの

悪影響を

周りに与え続けているか、

には

まったく目を向けません。

 

残念ながら、

そういう人からは

周りの人の心は離れていきます。

 

しかし誰もその人に

「あなたは愚かだよ」

とは言ってはくれません。

なぜなら、

何を言ってもこの人には

届かないだろう、と

皆、あきらめているからです。

 

孤立無援。

 

愚かさにフタをして

前向きに生きている

つもりになっている人を見ると

私はいつも

この言葉が浮かびます。

 

私達の真本音(魂)は、

自分の愚かさを

責めることは

いっさいありません。

 

「愚かだから自分は

ダメな人間だ」

と自分を評価することも

いっさいありません。

 

真本音(魂)は

ただただ、

あらゆる自分を

見つめ続けます。

 

あるがままの自分を

見つめ続けます。

 

時々、次のような

お声をいただきます。

 

「真本音を大事に

生き始めたら、

自分の愚かさが

どんどんクローズアップされて

苦しくなった」

と。

 

恐らくその人は、

自分の愚かさに

フタをしていたのでしょう。

 

しかし真本音で

生きるようになって、

心の安定度合いが

一気に高まったのでしょう。

 

心が安定したことで、

愚かさと向き合おうと、

無意識に決意を

されたのでしょう。

 

そして、

フタを取り払った

のでしょう。

 

フタの奥から溢れる

愚かさの数々。

 

フタをする度合いが

高ければ高いほど、

その苦しみは

大きくなります。

 

しかし、

これまではただ

フタをしていただけであって

本当はその人は

その苦しみと共に

ずっと生き続けていたはずです。

 

つまり、

麻痺していた苦しみが

顕在化しただけのこと。

 

ですが、

顕在化することで、

すべての苦しみは

徐々に浄化されていきます。

 

自らの愚かさと

向き合う人を私はいつも

「美しいな」

と感動してみています。

 

自らの愚かさと

向き合う人は

自分以外の人々の

愚かさとも

向き合うことができ、

自分以外の人々の愚かさを

許すことができます。

 

人の大きさとは、

自分自身の愚かさと

向き合った度合いで

決まるのではないか、と

私はよく思います。

 

人は

愚かなもの。

 

愚かな部分を

持っているもの。

 

でも、人は

それだけではありません。

 

様々なものを

持つのが

私達人間です。

 

性善説とか性悪説とか

そういったものを超えて、

あらゆるものを

包含できるのが

人としての尊厳であり

人としての凄みです。

 

人は皆、

大きいのです。

 

本当は。

 

でも、

本当は大きいはずの自分を

小さくしてしまうのが、

自分の愚かさを認めないこと、

自分の愚かさにフタをすること、

自分の愚かさから逃げること、

です。

 

人は

小さくなってしまうと

自分自身の真本音すら

信じられなくなります。

 

そして、

愚かさにフタをするのと

同じように、

真本音にも

フタをしてしまいます。

 

真本音は

そのような自分に対しても

抗うことはしません。

 

フタをされたままの状態で、

再びフタを開けてもらえるのを

ただただ

じっと待っています。

 

愚かでも

いいじゃないですか。

 

ダメダメな自分でも

いいじゃないですか。

 

私達が持っている

最大の力の一つは

「向き合う力」

です。

 

あるがままの自分と

しっかりと

向き合ってほしいな、と

私はいつも切に

祈っています。

 

つづく

 

人は愚かだ、ということを受け入れよう

時々、私は

「たけうちさんは性善説ですよね?」

と訊かれます。

 

私がいつも真本音の話ばかりを

しているからでしょう。

 

いえ、私は性善説では

ありません。

 

人は、愚かです。

 

私は断言します。

 

人は、愚かです。

 

自分自身を含めて、私は人の愚かさを

嫌というほど、見たり、体験してきました。

 

愚かさということで言えば、

私ほど愚かな人間はいないのではないか、と

本気で思ってもいます。

 

しかしそれは

「すべて」ではない。

 

それは、自分の一部です。

 

人の一部です。

 

人には、素晴らしい部分も

愚かな部分も、

あらゆるものが詰まっています。

 

それらをすべて、あるがままに

受け取ることのできる人こそが、

真の強さを手に入れることができます。

 

いえ、「強さ」と言うと

だいぶ本質から離れてしまうかな。

 

自分がどうであろうと、

環境がどうであろうと、

希望を持とうが、

絶望に打ち拉がれようが、

関係なく、

次の一歩を淡々と、

自分の本当にすべきことを、

し続ける。

 

自分の本当にしたいことを、

し続ける。

 

それが、

真本音で生きる

ということです。

 

愚かでもいいではないか。

 

私には私のすることがある。

 

だからそれをする。

 

・・・このシンプルさ。

 

これが、

真本音で生きる

ということです。

 

すべての人が悲しみを

抱えています。

 

すべての人が怒りを

抱えています。

 

それをそのまま人にぶつけてしまう、

そんな生き方もあります。

 

でもそういった悲しみや怒りを

そのまま受け止めて、

何も否定せずに受け止めて、

しかしそれに捕らわれることもなく

次にすべきことをする、

という生き方もできるのです、

我々人間は。

 

それができている人は、

常に、心も魂も満たされています。

 

そういった生き方ができるといいな、

そういった生き方をサポートしたいな、

・・・それが私の想いです。

 

人はもっともっと

人間らしく生きられるはずです。

 

人間らしく生きる、とは

真本音で生きる、ということです。

 

真本音で生きる、とは

特別な人生を生きることではありません。

真に自分らしく

真に人間らしく

生きるということです。

 

それができれば、

すべてが調和します。

 

組織は調和し、

社会も調和します。

 

「調和させよう」と思いながら生きても

調和はしません。

 

「真の自分として生きよう」

とすることで、調和は

自然発生するのです。

 

私は、「チームコーチング」というサポート手法を

使います。

 

それは、これまでの企業現場の中で

自然に培われてきた手法です。

 

私にとっては当たり前のように使ってきた

手法なのですが、

どうも、世の中にはそういった手法が存在していないのだ、

ということに気づき始めました。

 

なぜこの当たり前のやり方が

世の中には存在していないのか?が

不思議でなりません。

 

しかし存在していないのであれば、

多くの人にお伝えした方がよいですね。

 

単純に今は、そう考えています。

 

チームコーチングの基本は、

「二人コーチング」

です。

(→前回記事)

 

二人を同時にコーチングする

のです。

 

これができるようになれば、

もっと多勢でのチームコーチングも

可能になります。

 

ただし、

二人コーチングは、いつでもどこでも

できるわけではありません。

 

二人の準備が

必要です。

 

つまりは、二人がそれぞれ

自分の真本音の人生を歩み始めること。

それがなければ

本当の調和は訪れないからです。

 

木村さんと弓江さんの話に戻せば、

私は二人の調和性は抜群であると、

認識していました。

 

しかし、それは二人共の

準備ができる

ことが前提です。

 

準備ができる前に二人を同時にコーチングしても

二人ともを打ち消し合ってしまうでしょう。

 

ですからチームコーチングとは

「始めるタイミング」

が命です。

 

ここが、コーチとしての腕の

見せ所です。

 

私は、「今」が

木村さんと弓江さんの「二人コーチング」の

始まりの時だと確信しました。

 

私は二人を呼び出しました。

 

木村さん、

弓江さん、

私。

 

3人でテーブルを囲みました。

 

「準備完了」。

二人の真本音からは

そんなメッセージを受け取った

気がしました。

 

つづく