本当の自分

本当に、あなたはあなたか?

 

心の中の

余分なものが

 

一つ一つ

消えてゆく。

 

一つ消えるごとに

何かから

自由になり、

解放感が増していく。

 

一つずつ

自分自身を

取り戻していく。

 

私達は

日常生活の中で

いつの間にか、

「自分」

ではなくなっている。

 

余分なものが

心の中に積み重なり、

「自分」を

覆い尽くす。

 

「自分」が

見えなくなる。

 

そしていつの間にか

覆い尽くしている

その、余分なもの達の

塊を

「自分である」

と勘違いするように

なる。

 

しかしそれは

本当の「自分」

ではない。

 

・・・・・・

 

真本音度合いが

高まる

ということは、

 

「自分である」と

勘違いしていたものを

一つ一つ

取り除いていく

ことでもある。

 

当たり前のことだが、

「自分」を

取り戻せば取り戻すほど、

 

私達は

居心地が良くなる。

 

安定する。

 

安心する。

 

そして、

元気が戻る。

 

余裕ができる。

 

ゆとりを持って

周りを見つめる

ことができるように

なる。

 

・・・・・・

 

あなたの本当の

「自分」は、

 

いったい、

どのような余分なものに

覆われて

しまっているのだろうか?

 

今の自分を

「覆われてしまっている自分」

であると、

あえて決めつけをして

自分自身を

見つめ直してみてほしい。

 

今、知っている

この自分は、

本当の自分では

ないのだ。

 

・・・と、

あえて、わざと

そう思ってみてほしい。

 

自分の中に余分なものは

必ずあるのだ、と

その前提の上で

自分自身と

向き合ってみてほしい。

 

もはや、

それくらいの見方を

することが

必要なのではないか、と

 

最近、よく思うように

なった。

 

・・・・・・

 

本当の自分だろうが、

余分な自分だろうが、

自分は自分だろうが。

 

という

考え方もある。

 

それはそれで

一つの捉え方であり

生き方であると

私も思う。

 

しかし今、

「それは単なる

自分自身への

誤魔化しであり、

その誤魔化しの生き方に

もう、耐えられない」

空気感でもって

SOSを発信し続けている人が

 

あまりに

多いのだ。

 

それもまた事実。

 

誤魔化しの

利かない時代に

なった。

 

本当に、

一人一人の

生き方が問われる

時代になった。

 

それ自体は

とても良いことだし、

ぐんぐん進む人も

急増中だが、

 

その一方で、

あまりの苦しみに

阿鼻叫喚となっている人も

急増しているのだ。

 

私も人間。

 

残念ながら

他の人を救う、などと

いうことはできない。

 

今の私にできることは

ただ一つ。

 

自分の中の余分な

もの達を、

一つ、一つ

手放しながら、

本当の「自分」を思い出す

ための方法、

 

つまり、

セルフコーチング法を

 

丁寧にお伝えすること

だけだ。

 

できるだけ多くの

方々に、

お伝えすることだけだ。

 

つづく

 

本当の自分と出会う方法

私達の心の中には

自分の観たくない反応本音が

たくさんあります。

 

自分が知りたくない

反応本音のパターン(クセ)も

たくさんあるでしょう。

 

それを観て、

知ってしまったら、

自分のことを

嫌いになってしまうかも。

いや、

嫌いになるだけならまだましで、

自分のことを否定したり、

自分の過去の振る舞いを

後悔したり、

自分を責め続けることに

なるかもしれない。

 

過去の変えることのできない

後悔の事実達を

フラッシュバックしながら

生きていかねばならないかも。

 

・・・そんな恐れが

ほとんどの人にあるでしょう。

 

だから、

観たくないものには

フタをして、

前向きに生きていこう。

 

・・・これも多くの人が

無意識に行なっている

ことです。

 

しかし残念ながら、

こういった生き方は

自分の心をさらに

深刻にするだけです。

 

なぜなら、

フタをしているだけで、

本当は自分のことを

自分はよくわかって

いるからです。

 

自分を責めたくないから

フタをする。

しかし、

フタをしたその中で、

その人は自分をもう

責め続けているのです。

 

しかも、

自分を責めていることに

自分が気づいていない、

という状態ですから

「そこに気づけよ!」

と自分に苛立ちながら、

さらにその「責め」を

増幅させてしまうのです。

 

自分のことを

観ない。

 

その事実だけで、

人は自分を

責めるのです。

 

ですから、

一番楽な生き方とは、

一つ一つを

ちゃんと観察すること。

 

後悔するなら

後悔するでもいい。

 

一つ一つを

ちゃんと後悔しながら

進むこと。

 

一つ一つを

ちゃんと反省しながら

進むこと。

 

一見、その方が

深刻な人生になりそうですが、

それが本当にできている人は

だんだんと自分に対して

「おおらか」に

なっていきます。

 

自分ときちんと

向き合っていることを

自分が一番よく

わかっているからです。

 

そういう人は

自分のことを

自然に許せるように

なります。

 

確かにその行為は

酷かった。

するんじゃなかった。

でも、しょうがない。

私も人間だ。

間違いはある。

次はそうならないように

注意しよう。

 

・・・そんな感じに

なっていきます。

 

そしてそれをさらに

続ければ、

そんな間違う自分を

「可愛らしいな」

と思えるようになります。

 

もちろんそれは

自己満足とは違った

状態です。

 

自己満足の「可愛らしいな」は、

自分の観たくないものに

フタをした状態で

無理にそう思い込もうと

している状態です。

 

しかし、

自分と向き合い続けることで

自然に生まれる

「可愛らしいな」は

愛の一つのカタチです。

 

これができる人は

他人に対しても

同じ目線を向けることが

できるようになります。

 

人のことを

許せる自分になれます。

 

そこにあるものを

そのまま観る。

 

観るだけでよいのです。

 

それをどうこう

しようとしない。

 

それが

『存在承認』です。

 

存在承認を

し続けることで、

私達は初めて

ある一つのことに

気づくでしょう。

 

その気づきとは、

頭で理解する気づきではなく、

感覚として覚える

気づきです。

 

実感する気づき

です。

 

それをあえて

言葉にすれば、

次のようになります。・・・

 

すべての自分の心を

観続ける自分。

 

すべてを

存在承認し続ける

自分。

 

あれ?

 

この観続けている

この自分は

誰だ?

 

すべてを客観的に

観ているこの、

ここにいるこの

自分は

何者だ?

 

私は、

誰だ?

 

・・・ということです。

 

何度も書きますが、

理屈ではなく、

実感として

体感として

それを感じ取ります。

 

すべてを観つめている

その主体である

自分自身の存在を

ある瞬間に

ありありと自覚するのです。

 

そうです。

 

その主体こそが

『真本音』

です。

 

本当の

自分です。

 

つづく