あなたも次に行こう

 

ずっと空を

垂直に

昇って行くと、

 

「青空」だと

思っていたものには

実は

出口があることが

わかった。

 

そこを

通れば、

次の世界に

行ける出口だ。

 

なんだ。

 

壊さなくて

いいのか。

 

もっと

様々なものに

ぶち当たり、

体当たりで壊し、

 

傷つきながらも

ようやくにして

たどり着くのが

次の世界

だと

思い込んでいたよ。

 

なんだ。

 

出口が

あったんだ。

 

ちょっと

拍子抜けした。

 

出口に

近づくと、

すでにその扉は

開いていた。

 

なに?

 

ここを

くぐればいいの?

 

思った矢先に

もう

 

私は出口の

向こう側に

いた。

 

出口の向こうは

宇宙であると

ずっと

思い込んでいたのだが、

 

出口を抜けると、

そこは

 

「大地」

だった。

 

私は

大地に立っていた。

 

何という

安定感。

 

何という

安心感。

 

しかも、

私は大地と共に

飛ぶことすら

できた。

 

これまで

私は、

 

大地と自分は

別物だと

思っていた。

 

しかし

そうではなかった。

 

大地も

私だった。

 

私が

大地だった。

 

そこで

わかったのだ。

 

「世界」が

変わったのでは

ない。

 

新しい世界に

入ったのでも

ない。

 

「私」が

変わったのだ。

 

世界である

私は

 

これから

世界で

 

何を

するのだろうか?

 

つづく

 

私は私を知らない

 

私自身も含めて、

 

人は

自分のことを

誰よりも

よくわからないように

 

できているのでは

ないか。

 

鏡がない限り、

自分の姿は

自分では見れない。

 

ナマの自分を

離れたところから

見ることは

一生、

できないのだ。

 

自分が

どのような表情を

して、

どのような空気感を

出して、

 

無意識のうちに

どのような振る舞いを

しているのか?

 

それを

正確にわかる人は

世の中に

一人もいないのでは

ないか。

 

だからこそ

人は、

 

自分以外の人との

関わりの中で

生きていく。

 

他人を通じて

自分を知る。

 

自分の影響は

他人の反応で

知るしかない。

 

人は、

他の人と関わる

という前提で

創られた存在

なのだと

私は思う。

 

だからこそ、

素直な人は

強い。

 

周りからの意見や

反応を

まっすぐに

受け止める人は

 

どんどん

成長・進化する。

 

その

まっすぐさ

は、

年齢は関係ない。

 

まっすぐな人は

いつまで経っても

若々しい。

 

目が、

輝いている。

 

人は

人と関わるからこそ、

の存在だから、

 

人を尊重し

人から学び

人との関わりに対して

どこまでも

真剣になる。

 

そんな人が

増えてほしいし、

 

増やしていかねば

ならない。

 

だから私は

今日も明日も

明後日も、

 

お一人お一人と

丁寧に

向かい合い

続けよう。

 

つづく

 

リセットしても私は私だ

 

私は

毎日毎日、

私を

リセットする。

 

何もない世界に

ポツンと

一人。

 

佇む私を

そのまま

感じ取る。

 

人生で培った

あらゆるもの、

 

人生で得た

あらゆるもの、

 

人生で育んだ

あらゆるもの、

 

それらを

いったんすべて

手放す。

 

能力も

ない。

 

志も

ない。

 

生きる目的も

ない。

 

何もない。

 

そんな自分に

いったん

本当に

戻る。

 

人間は

面白い。

 

それができたと

しても、

「真っ白」

にはならない。

 

やはり

「これが私だ」

と思える

個性が

残るのだ。

 

すべてを

リセットすることで

初めて

自覚することも

ある。

 

私は

私である。

 

という

事実が

迫ってくる。

 

・・・・・・

 

一方で、

すべてをリセット

すると、

 

自分が

なくなる感覚も

起こる。

 

いや、

正確に言えば

「なくなる」

のではない。

 

「すべてと

一つになる」

 

と言った方が

いいかな。

 

すべてと

つながり、

一つであり

全体である

私がいる。

 

そう、

そうなっても

やはり

そこには

「私」

がいるのだ。

 

つまり

「私」

とは、

あまりにも

存在が大きい。

 

この存在感を

すべての人が

体験できると

いいな、

いつも思う。

 

そうすれば

自分自身を

ないがしろにする人は

激減するだろう。

 

自分という

人間の

存在そのものの

大きさと

尊さを

皆、知れるのになぁ、

いつも思う。

 

・・・・・・

 

そしてそれを

実感するとき、

 

実に簡単に

思えることが

ある。

 

それは、

 

「人は

変われるんだな」

 

という

真実だ。

 

いや、これも

もっと正確な

言い方がいいな。

 

「人は

変わるために

存在している」

 

が正確だ。

 

変わらなきゃ

おかしいのだ。

 

変わらなきゃ

自然の摂理に

反しているのだ。

 

しかし、

「変わる」

とは

「自分を失う」

ことではない。

 

「自分を

取り戻す」

ことであり、

 

「本来の自分」

をさらに

際立たせて行く

ことだ。

 

それを

「成長」と

言うし

「進化」と

言う。

 

・・・・・・

 

今日も、

いい出会いが

あったなぁ。

 

なんで

こんなに素敵な

人と

出会えるんだろう?

 

と、

心では思う

のだが、

 

でも一方で、

 

当たり前だよな。

 

という気持ちと、

 

これが自然だな。

 

という気持ち。

 

そして、

 

こいつも

俺じゃん。

 

という

傲慢というよりも

ユニークな

気持ちが

現れる。

 

俺が

俺と

出会う。

 

それが

本来の

「出会い」

ではないか。

 

そして、

 

俺が

俺と

コラボする。

 

それが

本来の

「人生」

ではないか。

 

つづく

 

私の心は私のことを何も知らない

私とは何者か?

 

・・・を自分の心に問うても、

その答えは

永遠に出て来ません。

 

なぜなら

私達の心の中には

その答えは

ないからです。

 

私達の心とは、

外部との接触の中で

その「反応」として

創り上げられるもの

です。

 

つまり、

「経験」によって

生み出されるもの。

 

これこれこういう経験を

積み重ねたことにより、

これこれこういう反応の

パターンができあがった。

 

・・・というもの。

 

それはあくまでも

「反応のパターン」

でしかありません。

 

ところがその

反応のパターンを

私達は

「自分である」

と思い込みます。

 

こういう時には

こういう反応の仕方をするのが

自分である、

という認識です。

 

しかしそれは

どこまで行っても

反応のパターンでしか

ありません。

 

「私」でも「自分」でも

ありません。

 

ところが私達は

その「反応のパターン」の中に

「私とは何者か?」

の答えを見出そうと

します。

 

ですから、真の答えに

行き着くことが

できません。

 

反応のパターンは

反応のパターン。

それは

「私」ではないからです。

 

心で考えても

答えが出ない。

 

であれば、いったい

私達はどうすれば

よいのでしょうか?

 

実は・・・。

 

「私」というものは

本来はありません。

 

いやいやいや。

 

私はここにいるし、

私は私だし。

 

ちゃんと個人としての

私が存在するではないか。

 

それを否定しては

何も進まないではないか。

 

・・・普通は

そう思いますね。

 

でもまぁ、

ちょっとお付き合い

ください。

 

「私」は

ないのです。

 

便宜上、

私達は「私」を

カタチ創っている

だけのことです。

 

かと言って、

その「私」に価値がない

わけではありません。

価値があるからこそ、

あえて「私」を

創っているのです。

 

「私」を創ることで

「あなた」が

できます。

 

「あなた」ができることで、

「私とあなた以外」も

できます。

 

すべてが

分離します。

 

すべての

区別が始まります。

 

分離と区別をして

初めて

得られるものがあります。

 

それが

「進化」

です。

 

私達は進化を

したがっています。

 

だから、

「私」と「あなた」と

「私とあなた以外」を

分離させました。

 

分離することで

起こるのは

すれ違い

です。

 

不理解であり、

誤解であり、

拒絶であり、

否定です。

 

別物であるからこそ

初めて発生する

それら。

 

それらを乗り越えて

また

「一つ」に戻ろうとする。

その過程を経てこそ、

「進化」は

実現します。

 

別物が

一つになろうとする時に

発生するエネルギーが

あります。

 

それを

「愛」

と呼びます。

 

「愛」とは

進化のために必要な

エネルギーです。

 

私とは何者か?

 

この答えをもし本当に

知りたいと思うのであれば、

「すべてが一つ」である自分を

思い出す以外に

方法はありません。

 

分離された「私」

だけでものを考えても

決して到達できない

答えなのです。

 

あぁそうか。

「私」と「あなた」は

一つなんだ。

 

「私」は「あなた」であり、

「あなた」は「私」であり、

「私」と「あなた」は

「私とあなた以外のもの」

でもあるんだ。

 

・・・ということを

理屈ではなく、

実感としてわかること。

 

その「真理」を

「当たり前のことだ」と

思い出すこと。

 

その状態になって初めて

私達は

「私は何者か?」

を本質理解できます。

 

そして、

人生における

「私の為すべきこと」と

「私の成すべきこと」を

知ることができます。

 

何のために生きればよいか?

そして、

何を目指して生きればよいか?

を、

まったく惑うことなく

決めることができます。

 

「すべては一つ」であり、

「すべては私」である、

ということ。

そして、

その上で

「この分離した私がここにいて」

「分離した私だからこそ

できることがある」

ということ。

 

それらをすべて

完全理解した自分から

発せられるあらゆる

願い・想い・意志・意思・・・。

 

それを私は

『真本音』

と呼んでいるのです。

 

つづく