美しい

ちゃんと感じた上で決めよう

 

美しいものと

醜いもの。

 

世の中には

どちらもある。

 

心の中も

同様だ。

 

両方あるのが

事実であり

真実だ。

 

それをそのまま

受け止めることが

現実と向き合う

第一歩だ。

 

とは言え、

 

醜いものを見ても

「醜い」とは

思ってはならない、

 

と言う人が

いる。

 

それも不自然だ。

 

良いではないか、

 

何を思ったって。

 

人間は

感じる生き物であり

解釈する生き物だ。

 

美しいものは

美しい。

大好きだ。

 

醜いものは

醜い。

大嫌いだ。

 

・・・それでいい。

 

素直でいい。

 

ただ、

その心の「反応」を

そのまま

行動の「反応」として

出してはならない。

 

すべてを

あるがままに受け止めて、

 

それによる

心の動きもあるがままに

受け止めて、

 

すべてを

素直に受け止めて、

 

その上で

 

次、

自分はどう動こうか、

真本音で決める。

 

それだけの

ことだ。

 

反応のままに

行動することを

「素直」とは言わない。

 

自分にとっての

真の素直さとは

「真本音で動く」

ことだ。

 

だから、

素直に受け止めて

素直に動く、とは

 

現実と向き合って

真本音で動く、

 

ということと

まったくもって

イコールなんだよ。

 

つづく

 

つくづく、美しいなぁ、と

 

もし

未来を見通す力が

あったならば、

人生はもっと楽だろうな、

と思う人は

多いかもしれない。

 

私もそう思う時があるが、

しかし、

やはり、

未来がわからないところに

人生の醍醐味は

あるのだろう。

 

そしてこの

3次元の世界の

意味や意義も

あるのだろう。

 

・・・・・・

 

もし

未来がわかって

しまったら、

 

私達は

「覚悟を持つ」

という体験が

できるだろうか?

 

とも思う。

 

あの独特の

体験。

 

未来がわからない

ままに、

「この道を行こう」

完全に決めた時の

あの感覚。

 

あの

すがすがしさ。

 

それまで

自分を縛っていた

あらゆるものから

解放され、

 

自分は本当は

自由だったんだ、

 

理屈を超えたところで

その真実を

思い出す、

 

あの感覚。

 

あれは

未来がわからない

からこそ

得られるものの

一つではないか。

 

・・・・・・

 

人は進む。

 

未来が見えても

見えなくても、

 

人は進む。

 

どうせ進むなら、

この世界にいる

私達は

 

未来が見えないままに

進もう。

 

それが

私達がここに来た

意味だから。

 

覚悟を持った

人は

 

美しい。

 

新たなステージに

進む

その姿は、

 

未来が見えない

人生だからこそ

出会うことのできる

 

宝物の一つだと

 

私は今日も

つくづく思ったよ。

 

つづく

 

その美しさに泣く

 

大の大人が

泣く姿を

私は随分と見てきた。

 

その姿の多くは、

美しかった。

 

なぜならそれは

解放・開放の

涙だったから。

 

泣くのは決して

悪いことではない。

 

私も真本音度合いが

高まってから

本当に涙もろくなった。

 

自分の心が

形になって現れるのは、

決して

悪いことではない。

 

・・・・・・

 

真本音の涙

というものがある。

 

心が泣く、

というよりも

魂が泣いている

場合だ。

 

この違い、

わかるだろうか?

 

よく、

「なんで自分が

泣いているのかさっぱり

わからない」

言いながら

泣き続けるクライアントさん

がいる。

 

この場合は大抵、

魂の涙だ。

 

・・・・・・

 

私は人前では

泣かないことにしている

のだが、

 

どうしても

堪えられないことが

ある。

 

それは、

クライアントさんが

ずっと超えられなかった

壁を

乗り越えた瞬間、

というケースもあるが、

 

それよりも多いのは、

 

人と人が

関係性を本質的に

大きく塗り替える瞬間

だ。

 

人というのは

本当に大変で、

 

心のレベルではなく、

魂のレベルで

憎しみ合っている

関係がある。

 

それが

会社の幹部さん同士

というケースも

実に多い。

 

そういった関係は

もう、

誰もが修復は無理だ

と思い込んでいる。

 

もちろん

何をしても不可能な場合も

あるのだが、

 

それでもそれを

乗り越える人達も

いる。

 

あらゆる憎しみを

乗り越えて、

再び繋がり合う人達。

 

それを目の当たりに

した時、

 

私は自分の涙を

堪えられなくなる。

 

・・・・・・

 

憎しみほど、

超えるのに大変な

ものはない。

 

でも、

それを超える人々を

私はたくさん

観てきた。

 

目に

焼き付けてきた。

 

その度に

私は、

 

人の美しさ

 

を実感した。

 

人は

醜い部分は

いっぱいある。

 

その醜さ故に

私も

死にそうになったことは

何度もあるが、

 

それでもやはり、

人は

美しい。

 

そこに私は

目を奪われるのだ。

 

つづく

 

美しい一日だったな

 

無理は

するな。

 

でも、

 

最大速で

進め。

 

・・・一見、

反対のことを

言っているようだが、

 

実は

違う。

 

最大速で

進もうとすると、

みんな

無理をする

傾向にあるが、

 

最大速を

出すということと

無理をする

ということは

全く別の話。

 

最大速を

出すためには

決して

無理はダメ。

 

無理をすることで

最大速が

出なくなる。

 

・・・・・・

 

では、

「無理」とは

何か?

 

101%以上の

ことだ。

 

いや、

100.1%以上

とも

100.01%以上

とも

100.001%以上

とも言える。

 

つまりは、

100%を超える

こと。

 

私は

「一日」という

人生の時間は

 

一つの作品では

ないか、

 

と思っている。

 

そう表現すると

ちょっと硬くなって

しまうかも

しれないが。

 

素晴らしい

芸術作品とは、

 

・足りないものが

まったくなく、

・やりすぎも

まったくない

 

ものだ。

 

例えば、

私は音楽を

よく聴くのだが、

 

ジャズのような

即興演奏ですら、

 

時々、

そういった作品

に出くわす。

 

そんな作品は、

魂への響き方が

まったく違うのだ。

 

心の感動

ではなく

魂が感動

しているのが

わかる。

 

これを私は

 

『美』

 

とも呼んでいる。

 

「美しい一日」。

 

こんな書き方を

すると

さらに硬くなって

しまうかもしれないが。

 

これは

・今日することを

すべてして、

・今日しないことは

一切しない、

ことで

実現できる。

 

今日は美しい

一日だったな、

思えると、

私は自分自身の

魂がとても

悦んでいることが

よくわかる。

 

それは、

物事が

上手くいったとか、

上手くいかなかった

とか、

関係がない。

 

何も進展せず、

停滞したままの

一日に

なっても、

 

美しい一日だったな、

 

と思える日は

何度もあった。

 

この、

美しい一日を

創り出している

その時が、

 

「最大速」

 

だ。

 

・・・・・・

 

最大速とは、

無理をすることで

実現できるもの

ではなく、

 

美しい生き方を

することで

実現できるもの。

 

もう

書く必要もない

だろうが、

 

それは、

格好がいい

とか

格好が悪い

とか

も関係ない。

 

表面上の

ことではないのだ。

 

そう観ると、

この世は

美しいものに

溢れているし、

 

また、

美しくないものも

溢れている。

 

私は

美しいものを

もっともっと

増やしていきたいな。

 

そのためには

私自身が

美しい人生を

創ること。

 

そのためには、

今日一日を

美しく生きる

ことだな、と

思っている。

 

つづく

 

応援しています

 

自己犠牲は

決して

美しいとは

思いません。

 

でも、

 

どのような時にも、

誠実に

人と向き合い、

自分がどのような

状態であっても、

ただ、

目の前の人に

すべてのパワーを

注いでいく。

 

そんな潔さを

私は

美しいな、と

思います。

 

一日を終え、

すべてのパワーを

使い切り、

ボロボロの状態で

倒れ込むその姿は、

決して格好いいものでは

ないけれど、

 

でもその生き方に

私は

美しさを感じます。

 

自己犠牲では

ここまでのことは

できません。

 

自己犠牲とは

自己満足だから。

 

人は、

どこかで自分自身の

ことを

とてもよく

わかっています。

 

自分が本当に

潔く生きているか、

そうではないか。

 

潔く生きている人は

自分自身を

毅然と見つめることが

できます。

 

人を毅然と

見つめることが

できます。

 

そして、人を

毅然と助ける

ことができます。

 

人を助ける、とは

本来

自己犠牲ではなく、

 

自分自身をも

助けることに

なります。

 

人に対する

救いの手は、

自分自身に対する

救いの手でも

あるのです。

 

だから、

救う時は

全力で救う。

 

救ってはならない時は

決して

救わない。

 

その判断を

毅然と下すその

生き方が、

私は美しいと

思います。

 

やはり、・・・

 

人は美しく

あってほしいと、

私は願います。

 

あなたの

ように、ね。

 

つづく