言語化

そのこだわりは執着です

私達人間は

真本音のこだわりを持つことで

進化します。

 

しかしその「こだわり」は

なぜ持つかと言うと、

「手放す」ためです。

(→前回記事)

 

真本音のこだわりは、

必ず

手放す時が来ます。

 

なぜならそれは

自分自身だからです。

 

私で言えば、

私が初めて見出せた

真本音のこだわりは

「向き合う」

でした。

 

私はそれを自分の人生理念として

大切にし続けました。

それこそ、

24時間、その言葉を

思い出し続けました。

 

特に人とコミュニケーションを

とるときは、

「向き合う」という言葉を

自分の体の中心に

貼り付けているようなイメージを

いつもしていました。

 

すると、本当に

人と向き合うことができた

からです。

 

それ以前の私は、

人と向き合うことが

至難の業でした。

 

向き合っているフリは

できましたが。

 

人生理念「向き合う」ということを

いつも意識し続けることで、

私は私にとっての至難の業だと

思っていたことを

乗り越えることができました。

 

で、ある時に

その「向き合う」という言葉が

どうでもよくなりました。

 

むしろ、

「向き合う」という言葉に

違和感を覚えるように

なりました。

 

「向き合おう」とすると

逆に力が入ってしまうような、

自然体が崩れるような

感覚となりました。

 

それはそうです。

だって、

本当は、

「向き合う」とは

私自身だったから

です。

 

たけうちなおと

という人間は、

「向き合う」が

現象化したものだった

のです。

 

向き合う=私。

私=向き合う。

 

ということです。

 

つまり、

真本音のこだわりとは

本来の自分自身を

ある一面から

表現しているに

過ぎません。

 

「向き合う」と「私」は

同じであり、

「一つ」です。

 

でも、以前の私は

もともと「一つ」であったものが、

分離してしまって

いました。

 

私は向き合うことが

できない人間だ。

 

・・・と私は思い込んで

いました。

本当はそうではないのに。

 

そこで、その分離をなくし、

本来の姿に戻るために、

私はあえて

「向き合う」という言葉を

言語化、明確化し

それを意識するように

したのです。

 

意識し続けることで、

その分離はだんだんと

修正され、

ある時ある瞬間に

「一つ」に戻ることが

できたのです。

 

その瞬間から私は、

「向き合う」ということを

わざわざ言語化すること自体に

不自然さと違和感を

覚えるようになったのです。

 

当然のことです。

 

実はこれは私だけでなく、

誰にでもよくあることです。

 

私達の多くは、

本来の自分を忘れています。

 

そして、

本来の自分を

自分から分離しながら

生きています。

 

それは非常に

不自然な状態です。

 

不自然が故に、

ストレスが生じます。

エンティティが

発生し続けます。

 

その不自然さを

修正するために必要なのが

言葉。

 

言語化することで

修正し、

修正できればもう

その言語は

必要ありません。

 

手放せば

良いのです。

 

ところが、

もうすでに

修正が完了し、

もうすでに

「一つ」に戻れているにも

関わらず、

「まだ自分はそれができていない」

と思い込み、

ずっと自分の「こだわり」に

こだわり続ける人がいます。

 

それは、

本質的なこだわりではなく、

ただの「執着」であり

「依存」です。

 

「執着」の段階に

入ってしまっているにも関わらず、

それにこだわり続ければ、

逆に、

ストレスやエンティティが

発生します。

 

だからこそ

大事なのです、

「手放す」ことが。

 

そこで、

自分自身にぜひ

問うてみてください。

 

私にとっての

最大のこだわりとは

何だろうか?

 

もうそのこだわりは、

私は

手放してもよいのではないか?

 

・・・と。

 

理屈でも何でもなく、

直観として

「そうだな。手放そうかな」

と思えたら、

その通りにすることを

お勧めします。

 

もうあなたは

それ、そのものに

戻れているのですから。

 

つづく

 

チームの理念は、できあがってから言語化する

「たけうちさん、

私はどうやら間違っていたようです。」

 

木村さんは、そう言われました。

(→前回記事)

そう言いながらも、その彼のあまりの清々しい表情に

一瞬私は惹き込まれました。

 

彼は続けました。

 

「弓江はいつも、このチームの真本音の視点から

意見を言い続けてくれていたんです。

それがようやく今、わかりました。」

 

チームの真本音

『全員がチームの代表として

お客様と向き合う』

 

弓江さんは常に、この視点を持ち続けた

唯一のチーム員であると、

木村さんは言われたのです。

 

これには弓江さんも納得されました。

 

「そうです。

言われてみれば、私はいつも

それを大切にしていました。

このチームの真本音と別の行動を見る度に

苛立っている自分がいました。

特に、木村リーダーが外れた行動をとると

イライラが止まりませんでした。」

 

このチームの真本音は木村さんが

表現した言葉です。

しかしそれは木村さんの「解釈」の言葉

ではありません。

 

つまり、木村さんの言葉でありながら、

木村さん一人の言葉ではありません。

 

こういったことが、真本音度合いが高まりますと

当たり前のように起こります。

 

チームの真本音というのは、

そのチーム員全員が自然に生み出します。

それは最初は言葉にはなりません。

しかしチームが真本音度合いを高めながら

一つになっていくと、自然にそれが

言語化されるようになります。

 

それこそが、そのチームにとっての

本当の「理念」です。

 

木村さんのチームには、その理念が

言葉ではなく、すでに「何となく」できあがっていました。

それはそれだけチームが一体化した証拠です。

 

その「何となく」できあがっていた理念を

木村さんは、あるがままにキャッチし

言語化したのです。

それが

『全員がチームの代表として

お客様と向き合う』

ということでした。

 

ですので、これは木村さん一人のものでは

ありません。

「みんなのもの」を木村さんがキャッチしただけ

ですので、弓江さんが共感するのは当然なのです。

 

今回は、木村さんのチームを例にして

お話しさせていただいていますが、

私は常に、このような理念の創り方を

大切にしています。

 

チームに理念が醸成される前に無理に

理念を言語化して創るのではなく、

無意識レベルで、チームに真本音の理念が

醸成されるのを促し、

それができた時点で言語化する、という

ステップです。

 

それをすれば、本物の理念になります。

皆の魂が入ります。

 

そして、やはり私は

チーム(組織)の理念は、言語化することを

お勧めします。

 

なぜなら、

言語化することで、簡単に意識を向けることが

できるからです。

そして言語化することで、

それが、本当に真本音によるものならば、

私達の心は非常にスッキリします。

これまでの迷いやモヤモヤが

払拭されるからです。

 

この時の木村さんが

まさしくそうでした。

 

チームの理念を言語化することで、

彼は、自分の中の淀みに気づいたのです。

 

そして、チーム員の中で、

最も理念に対して淀みない心で向き合っていのが

弓江さんであるということに気づいたのです。

 

『全員がチームの代表として

お客様と向き合う』

 

「私はこれと真逆のことをしていたかも

知れません。」

 

と木村さんは呟きました。

 

つづく