2018年 2月 の投稿一覧

自己変革のフリをする人達・・・

私達の描く未来像には

二つの種類があります。

 

それは、

・実在の未来

・イメージの未来

です。

 

それは、

・真本音で描く未来

・反応本音で描く未来

とも言い換えることができます。

 

しかし、

反応本音で描く「イメージの未来」が

いけないわけではありません。

 

それをきっかけに

「真本音で生きる」ことに

つなげることができます。

 

そんなお話を

今は書かせていただいています。

(→前回記事)

 

今回は、

「イメージの未来」を活かす

3つ目のケースをご紹介します。

 

その目的は、

「これまでの自分を手放す」

です。

 

世の中には、

これまでの自分

今の自分

のことが大好きな人がいます。

 

ただしそれは、

反応本音のレベルでの

「大好き!」です。

 

自分のことを「大好き」で

あること自体はもちろん

悪いことではありません。

 

しかし反応本音レベルの

「大好き!」には

ごまかしが含まれます。

 

本当は、自分の中に

絶対に観たくない部分があり、

それにフタをし、

自分で自分をごまかすために

自分を「大好き!」に

させています。

 

もちろんその「大好き!」な自分は

本来の自分の姿とは

異なります。

自分自身の真本音の望む姿

とも異なります。

 

異なっているにも関わらず、

今のこの自分を「大好き!」と

思いながら、

決して自分を変えようとしません。

 

実は・・・。

 

そういう人ほど、

表面上は

「自分を変えます!」宣言を

します。

 

そして誰よりも高い意欲を見せ、

自己変革をしようとします。

 

しかしそれは、

自己変革をしている「フリ」

でしかありません。

 

頑張っている「フリ」でしか

ありません。

 

結局は、ああだこうだと理由をつけて

これまでの自分、

今の自分でいいや、

という結論に自分の中で至ります。

 

結局、

何も変わりません。

 

本人は

「私はここが変わりました!」

と自己アピールするのですが・・・。

 

しかし側から観れば、

何も変わっていないのです。

 

それどころか、

自己変革の自己アピールを

すればするほど、

これまでの自分への執着が

よりひどく増していきます。

 

実は、こういうタイプの方の

サポートが

最も難しいかも知れません。

 

でも、

このタイプの人がそのままで

いてもらっては

周りが迷惑です。

 

このタイプの人は、

周りにどれだけ迷惑をかけているか

まるでわかっていない場合が

多いのです。

 

そこで私がよく取る方法が、

「自己満足でもいいから

未来のイメージをする」

ということです。

 

今の自分の延長線上でも

よいのです。

とにかく

理想の未来像を描いて

いただきます。

 

もちろんそれは

真本音の未来像(実在の未来像)とは

まったく異なるものです。

 

しかしそれでも

「未来の視点」に立つことは

できます。

 

「未来の視点」から

今の自分を見て、

どう感じるか?

何を変えなければならないか?

 

それを発想し、

動いてみます。

 

実際に動けば、

必ずその人は、止まります。

 

それはそうです。

 

真本音とは異なる未来に

向かうわけですから。

 

自分の中に

言いようのない気持ち悪さが

発生します。

 

もしコーチングのサポートがなければ、

その人はその未来に向かって

ゆっくりと進んで行くでしょう。

気持ち悪さを感じないくらいに

ゆっくりと。

それをすることで自己満足感が

消えることはないからです。

 

ところが、

コーチングサポートを受ければ、

その人はその未来に

全力で向かうことになります。

 

すると、気持ち悪さを

ごまかすことができません。

 

必ず、止まります。

 

必ず、挫折します。

 

それをわかっていて

サポートするのはこちらが

とても辛いのですが、

しかしそれも大切な一歩です。

 

その人に湧き上がる

気持ち悪さ。

そして、挫折。

 

いったい、どうしてこんなにも

気持ち悪いのだろうか?

 

どうして、

挫折をしてしまうのだろうか?

 

そういった「?」がその人の中に

湧いてきたらしめたものです。

 

その人はそれを機に

変わり始める可能性があります。

 

これはちょっと意地悪な

サポート法かも知れません。

 

でも、残念ながら

このタイプの人へのサポート法で

これよりよい方法が

今のところ、私には思いつきません。

 

このタイプの人に

どれだけ

「あなたはこれまでの自分に執着している」

と厳しくフィードバックしても、

その場は神妙に捉えますが、

それもやはり「フリ」で、

何も変わらないのです。

 

自分に執着する度合いが凄く、

まったく人の声を

取り入れません。

取り入れる「フリ」はしますが。

 

ですから、

自ら望む(と思い込んでいる)未来に

全力で向かい、

自ら「何かが違うのではないか?」と

気づいていただくことしか

ないのではないかと

今の私は思っています。

 

かつて私も

自己満足や自己愛の人生を

送っていました。

 

そこから抜け出るのは

相当に大変でした。

 

よほど痛い目に合わないと

抜け出ることはできないのだと

思います。

私はそうでした。

 

ですから、

致命的な痛い目に合わずに

できるだけ早い段階で

その「気持ち悪さ」に気づいていただく、

そのきっかけを与えることが

他者ができる最大のサポートかな、

と現時点では思っています。

 

つづく

 

創業者のような決断・実行力をつけるには

私達が描く未来の発想には

二つあります。

 

一つは、「実在の未来」。

これは、私達が本当に望んでいる

未来であるのと同時に、

私達の心の中に「実在」として

最初から存在している未来です。

 

もう一つは、「イメージの未来」。

これは、単なる空想であり

妄想の一種です。

「こうなるといいな」レベルの

軽いイメージであり、

そこに真剣に向かおうとすると

逆にストレスが発生します。

 

この二つの未来発想の区別を

しっかりとつけた上で、

あえて「イメージの未来」を

描く必要のある場合があります。

・・・というお話をしています。

(→前回記事)

 

どんな場合に

「イメージの未来」を描くとよいか?

その二つ目のケースは、

実在の発想を呼び起こすため

です。

 

私はこれをよく、

次期経営者層の方や

会社の後継者の方に対して

行ないます。

 

私は仕事柄、

会社の「創業者」と

関わらせていただくことが多いのですが、

「創業者」とその「後継者」の

よくある決定的な違いが

「決断力」と「実行力」です。

 

あくまでも一般的な傾向ですが、

創業者の皆さんは、

自分で決めたことは必ず実行し、

きちんと成果を出します。

・・・という傾向があります。

 

まぁ、そうでないと

会社を起こして成長させる

ということはできないですよね。

 

それに対して「後継者」の皆さんは

なかなか創業者ほどの

決断力や実行力が出なくて

悩んでいる方が多いです。

・・・という私の印象です。

 

どうすれば、

創業者並みの決断力や実行力を

後継者の皆さんにも

つけることができるのだろうか?

ということについて、

私は随分と試行錯誤しました。

 

創業者と後継者のその

決断力・実行力の差の原因とは

何だろうか?と。

 

後継者の中には、ある意味、

創業者以上に

会社への想いの深い人もいます。

しかしそれでも、

決断力・実行力で負けてしまう。

もちろん、勝ち負けではありませんが、

創業者からしてみると

「あいつはまだまだ」

となってしまいます。

 

その根本的な「差」の原因は、

やはり、一つには

「実在の未来」が観えているかどうか?

ということになると思います。

 

創業者にとっては、

当初は、

会社=自分

です。

 

会社のことは、自分事です。

もしくは、会社は

自分の子供のようなものです。

「実在の未来」も

見つけやすいでしょう。

 

それに対して後継者は、

他人の生み出したものを

受け継ぐわけですから、

どうしても最初は自分事に

なりづらいです。

 

そのため、

「実在の未来」も

見つかりにくい。

 

しかし、

真本音でその会社を承継しよう

と思っている後継者には

必ず、その会社の「実在の未来」が

心の中に存在しています。

 

それが見つからない

理由は何だろうか?

 

どこにその「差」が

あるのだろうか?

 

それをずっと私は知りたかった

のですが、

ある時、ふと一つの「差」に

気づきました。

 

それは

「イメージ力」

の差ではないか?と。

 

創業者は、

未来への発想が浮かび、

「あっ、これをしたい!」

と思った瞬間に、

そのプロセスのイメージが

浮かびます。

 

「プロセスイメージ」。

 

つまりは、その未来を実現する

までの道のりのイメージです。

 

多くの場合は、

「実在の未来」が発想された瞬間に、

その「プロセスイメージ」までもが

ある程度明確になり、

「これはいける!」

と実感します。

 

人間、

「これはいける!」と

思えた瞬間の、その決断力と行動力は

凄いです。

 

創業者は、

それを天然にやっているのではないか、

と気づいたのです。

 

もしくは、

未来を描けても、

そのプロセスイメージが

今ひとつ浮かばないケースもあります。

その場合、

創業者は、プロセスイメージが浮かぶまで

徹底的にそれを考えます。

考えてもわからない場合は、

何らかの情報を仕入れます。

 

とにかく、

「これはいける!」という実感を

大切にし、

それが生まれるまでは

決して決断も実行もしません。

 

ところが、

後継者の方達は、

そこが中途半端なのです。

 

「こうしたい!」という未来が浮かんでも、

プロセスイメージが明確では

ありません。

 

明確ではないにも関わらず、

ある意味、やみくもに

スタートしてしまいます。

 

ところが、

自分自身が「これはできる!」と

完全に思い切れていませんので、

その決断力と実行力は

当然のことながら鈍ります。

 

要するに、

自分自身が本当に納得した上で

実行に移すかどうか?

の差ではないか、と。

 

ということは、

逆に言えば、

その「プロセスイメージ」力を

高めることをすれば、

決断力・実行力が高まるのではないか?

と私は考えました。

 

本来、・・・という話をすれば、

「実在の未来」を描ければ、

プロセスイメージは自動的にセットで

ついてきます。

 

もしくは、プロセス全体のイメージは

わからなくても、

「次の一歩」は明確に

確信としてわかります。

ですから、

たくましく実行に移せます。

 

後継者の皆さんは、

まずはその「実在の未来」が

なかなか自分の中から

掘り起こせません。

 

会社は、表面的には

他人(自分以外の人)から

与えられたものですので、

最初はそうなるのも当然です。

 

どうしても、

「イメージの未来」を描くことが

精一杯です。

 

・・・で、

私がとったサポート法は、

以下の通りです。

 

まずは、

「イメージの未来」でよいので、

後継者の人に

未来を描いていただく。

 

そして、そこに至る

プロセスイメージをしっかりと

していただく。

 

しかしもともとが「イメージの未来」

ですので、

プロセスイメージをしようと思っても、

なかなかはかどりません。

 

それでも、強引にでも

プロセスイメージを

発想していただきます。

 

「これはいける!」という確信には

ほど遠いとしても、

「まぁ何とか、いけるかも」

くらいになるまで

プロセス(道のり)のイメージを

していただきます。

 

で、

その通りに実行していただく。

 

実行していただいても、

所詮は「イメージの未来」への

道のりですので、

なかなか思うようには

進めません。

 

それでも、よいのです。

 

自分の描いたプロセスの

イメージ通りに動いてみます。

 

すると、もともとが「イメージの未来」

がスタートなので、

本人の中に違和感や気持ち悪さ、

モヤモヤなどが発生します。

 

それを大切にしながらも、

それでも実行していただきます。

 

すると、

「あー、気持ち悪い!

やっぱり、未来を変える!」

となります。

 

そうなれば、

未来を変えればよいのです。

 

しかし、それでも発想されるのは

「イメージの未来」です。

 

でもやはり、

プロセスイメージを

しっかりとしていただきます。

 

その上での、実行。

 

しかしやはり、気持ち悪い。

思うようにいかない。

 

「あー、気持ち悪い!

やっぱり、未来を変える!」

と、またなります。

 

するとまた未来を変えます。

 

でもやっぱり、

次も「イメージの未来」となります。

 

それでも、

プロセスイメージを明確にし、

実行。

 

やはり、気持ち悪くなり、・・・。

 

・・・これを続けます。

 

すると、

未来を描いたら自動的に

プロセスも描く、

というクセがついてきます。

 

プロセスイメージ力が

ついてくるのです。

 

つまり、

「未来像とプロセスイメージ」

が常にセット

になります。

 

すると逆に、

「スッキリとしたプロセスイメージに

つながる未来」

を探すようになります。

 

これは、頭で意図せずに

本能的にそうなります。

 

すると、ある時ある瞬間に、

「実在の未来」

とつながるのです。

 

これまで、

どれだけ未来を描いても

どこかで今一つ、

しっくり来なかったり、

ぴんと来なかったり、

・・・そんな連続だったのに、

 

「あぁ!これだ!」

「これが、やりたいんだ!」

「これなら、いける!」

という未来が、突然に

見つかるのです。

 

「実在の未来」に

たどり着いた瞬間です。

 

その時、

その後継者は、

創業者と同じ肚の据わり具合いを

見せます。

 

空気感が

創業者と、ほぼ同じ

になるのです。

 

それを実感すると、

あぁここに、新たな経営者が

生まれたな、

と私はとても嬉しくなります。

 

つまり・・・。

 

最初は「イメージの未来」でもよいので、

未来を描き、

ただし、そのプロセスイメージも

しっかりとし、とにかく実行に移す。

 

ということを通じて、

プロセスイメージ力をつけ、

プロセスイメージというものに対する

感性を磨き、

それを通じて「実在の未来」に

たどり着く。

 

・・・というステップですね。

 

これはかなり時間のかかる

こともありますが、

かなり着実なステップであると

私は思っています。

 

そして、今回はあえて

創業者と後継者

という言い方で文章を書きましたが、

実はこれは、

すべての人が行なうとよい

ステップかな、とも

思っています。

 

すべての人は

自分の人生の経営者

ですからね。

 

つづく

 

未来を描いたら、心がほぐれた

私達の心の中には

「実在」の世界が

広がっています。

 

その「実在」の世界とは

自分のみの世界では

ありません。

 

隣のAさんや遠くのBさんや、

知らないCさんや、

・・・様々な人と

つながっています。

 

そのつながりとは、

次元が高くなればなるほど

深くなり、

もともとは「一つ」であることを

高い次元の私達の意識は

よくわかっています。

 

さらに、

「実在」の世界においては

過去も未来も今も

すべて「一つ」です。

 

ですから

一年後の未来も、

20年後の未来も、

100年後の未来もすべて

今ここにあります。

 

私達が「現象(現実)」のレベルで

「自分の望む未来」

と呼んでいるものは、

「実在」のレベルでは、

 

「今ここにある未来」

 

と言ってよいでしょう。

 

今ここに実在している未来

なのです。

 

真本音で生きている人は

その「実在の未来」を

自らキャッチできるように

なります。

 

しかし残念ながら、

真本音を忘れてしまっている人には

それがキャッチできません。

 

すると、自分の未来を

「実在の未来」とは関係のない

単なる「イメージの未来」として

描いてしまいます。

 

それは、

自分が本当に望む未来

とは別のカタチです。

 

自分の望む未来とは

別の未来を目指すことで、

私達の中には

多大なるストレスが生じます。

 

自分で自分のビジョンを

せっかく描いたのに、

そこに向かえば向かうほど

苦しい人生になる場合、

その根本的原因は

そこにあります。

 

「実在の未来」を

自らキャッチできるように

なること。

 

そのためには、

「今を大切に生きる」

ことが必須です。

 

つまり、

今を真本音で生きる

ことが日々できれば、

ある時ある瞬間に、

「実在の未来」が

急に目の前に開けてきます。

 

「あぁそうか、

私はこんな未来を実現するために

生まれてきたんだったな」

ということが、

それがまるで当たり前で

あるかのように、

忘れていたことを思い出す

感覚で、

顕在化します。

 

ですので、

「今を大切に生きる」

ことを第一にし、

その結果として

「自分の本当に望む未来を知る」

という順番が

自然です。

 

・・・という原理原則を

わかった上で、

私はあえて、

「イメージの未来を描く」

というサポートを

することがあります。

 

その人が

本当に望む未来とは

違う可能性が高い。

反応本音レベルの

発想である。

ということをわかった上で

それでも

未来をイメージしていただくのです。

 

どんな場合にそれが有効か、

というパターンがいくつか

ありますので、

それをご紹介します。

 

一つ目は、

「イメージの未来」を描くことで、

その人の視界が広がる場合

です。

 

私達はどうしても、

目の前の物事をこなす、

ということに意識を捕らわれ過ぎる

傾向にあります。

 

例えば、

毎日の仕事が忙しいと、

目の前の仕事を必死にこなす

だけで日々の時間が

過ぎていきます。

 

すると、

視界が非常に狭くなります。

 

視界が狭まれば

発想も狭まります。

 

発想が狭まれば、

問題解決力とか

悩んでいること迷っていることの

答えを見つける力が

著しく減退します。

 

ちょっと広い視野から

ものを考えればすぐに

見つかりそうな答えが

なかなか見つからなく

なるのです。

 

側から見れば、

「こうすればいいじゃん」

とすぐにわかることでも、

本人からしてみれば、

まったくの視界外。

思考外です。

 

視界が狭まれば、

とても些細なことや

普通なら気にもならないことが

気になり出し、

悩まなくてよいことで

悩み始めてしまう

という傾向も出ます。

 

そういった

狭い世界に入ってしまっている

その人の顕在意識を、

一度、その狭い世界から

解放する。

 

一度、抜け出してみて、

もっと広い視野で

今の現実を眺めてみる。

 

そんなことをする場合に

有効な方法の一つが、

自由に未来を描く、

ということです。

 

これはコーチングの手法として

一般的に使われている

ことですね。

 

そしてこれは個人だけでなく、

組織にも言えることです。

 

例えば、

私がコーチの仕事を始めた

初期段階でのお話ですが、

ある20名くらいの

中小企業さんがありました。

 

そこの社員さん達は

日々の業務をこなすだけで

精一杯でした。

 

ある意味の職人集団で、

社員さん同士の団結力は

ほぼ、ない状態で、

それが社長さんの悩みの種

でした。

 

そこで、

何とかならないか?という

ご依頼を受けました。

 

当時はまだ

真本音という概念そのものに

私が気づく前の時代でしたが、

私は全社員さんを集めて、

4つのグループに分け、

次のような問いを投げました。

 

「もし、魔法使いが現れて、

何でも望む未来を叶えてあげよう、

と言われたら、

どんな未来を叶えてもらう?」

 

これをまずは

一人ずつ発想していただき、

その後、グループごとに

みんなで一つの答えを

出していただきました。

 

若い方が多かったこともあり、

それが結構

盛り上がりました。

 

「お前、そんなことを

考えていたのか!」

 

という笑いが、

あちこちで聞かれました。

 

そしてまた

1ヶ月後に同じように

全社員さんを集め、

今度は、

 

「もし1000万円のお金が

手に入ったら、

それでどんな事業をしたい?」

 

という問いを投げて

みました。

 

これもかなり

盛り上がりました。

 

こんな感じで、

未来に対する自由発想を

毎月、続けました。

 

そこで出される発想は

もちろん、

お遊びのような発想です。

 

今から見れば、

反応本音レベルの発想ですし、

「実在の未来」とは

ほど遠い発想です。

 

しかし、

それを続けて4ヶ月目。

 

いつものように

楽しく発想する場が終わり、

皆がそれぞれの職場に

戻ろうとした時に、

ある一人のパートの女性が

みんなに声をかけました。

 

「ねぇ、

会社の自販機の周りにさ、

いつも空き缶が散乱してるけど、

みんなできれいにしない?

掃除係を当番でやるとかさ。」

 

すると、

 

「あっそうだね。

そうしようよ。」

 

と、すぐに別の人が反応

しました。

 

これがすべての

始まりでした。

 

ここからその会社の

雰囲気が変わり始めました。

 

皆で力を合わせて

何かを行なう、

という雰囲気が生まれたのです。

 

一年後、

その会社の売上は

2倍になりました。

 

皆で力を合わせて

新規営業をするという展開が

その後、始まったからです。

 

それは、社長が考えても

みなかった展開でした。

 

しかも、社員さんの中から

「社長、我社は将来、

全国展開しましょうよ!

俺、支店長やりたい!」

という声が出始め、

皆で、本当のビジョンを描く

という展開にもなりました。

 

さらに次の年には

1.5倍以上の売上と

なりました。

 

実はこの会社、

私が単独でサポートさせていただいた

初めてのお客様です。

 

私のチームコーチングの

スタートでした。

 

もっとも当時はまだ、

コーチングそのものが

日本に入ってきていませんので、

チームコーチングという

概念はありませんでしたが。

 

しかし、

未来を描くということは

とても楽しいことなのだな、

ということを

身をもって知りました。

 

たとえ「イメージの未来」だとしても、

それがきっかけで

「今を大切に生きる」

ということにつながれば、

「実在の未来」につながる、

という最初の体験だったのかも

しれません。

 

つづく

 

未来を描くことで、道が閉ざされる

現象レベル(現実世界)においては、

私達は

今この瞬間

に生きています。

 

現象レベルにおいては、

過去も未来も

存在しません。

 

もちろん実在レベル(心の中の世界)では

過去も未来も

実在としてしっかりと

存在しています。

 

しかし、

現象レベルでは

「今」

しかありません。

 

過去と未来の存在は

ここにはないのです。

 

今がすべて、

なのです。

 

ですから、

現象レベルにおいて

「自分を大切にする」

とは、

「今を大切にする」

とイコールです。

 

今を大切にしない人に

望む未来は

訪れない

ようにできています。

 

私達のこの顕在意識も

現象レベルのものです。

 

この顕在意識に

自分自身の確かな未来、

つまりは

真本音のビジョン

が浮かび上がるためには、

今を大切に生きる

という大前提が必須です。

 

要するに

一言で言えば

こうなります。

 

「今を大切にすることで初めて、

本当に望む未来が観える。」

 

そして逆に表現すれば、

 

「今を大切にできていない人には

望む未来は決して観えない。」

 

という大原理です。

 

ところが、

いかがでしょうか?

 

「未来志向」という

言葉があります。

 

まずは未来を

描きなさい、と

よく言われます。

 

まずは自由に未来を描き、

その未来から逆算して

今の行動を決定しなさい、と。

 

上記の原理だからすれば、

それは自然の流れからは

反しているということになります。

 

実際に、

ずっと以前は私も

まずは未来を描くという

サポートの仕方をしていたことが

あります。

 

しかしほぼ9割以上、

上手くいきませんでした。

 

未来を描いているその時点では

気持ちが良いのですが、

その未来に向かって

行動を始めると、

途中で皆、あきらめてしまうのです。

 

そして、

「あんな未来、描かなればよかった」

と言う人も出てしまいました。

 

今から考えると

そうなるのは当然です。

 

その人達は、

今を大切にしていなかった。

その状態で自由に描いた未来とは

反応本音レベルのものだった

からです。

つまり、

本当に望む未来とは別の未来、

ただ単に

「こうなればいいな」

くらいの空想、

今の状況下で反応的に湧く

だけの妄想、

に過ぎなかったからです。

 

それでは

行動に移せば苦しくなるのは

当然です。

 

すぐにあきらめるのも

当然です。

 

ですから、

個人に対しても組織に対しても

現在の私のサポートの基本は

「今」に集中する

ところから始まります。

 

「今」を大切にするとは

どういうことか?

を頭の理解ではなく、

全身で理解できるように

なることを

最初のステップとしています。

 

それはつまり、

今の自分の心と向き合い、

今の目の前の現実と向き合い、

次の一歩を

自らの真本音で決断し、

その通りに行動する

ということの連続です。

 

これをし続けると、

その人の真本音度合いは

どんどん高まります。

 

そして、

ある一定以上の真本音度合いに

なれば、

ある時ある瞬間から

その人の発する空気感が

変わります。

 

その空気感は

独特のものです。

 

それは、

 

「未来と繋がった空気感」

 

と言ってよいでしょう。

 

つまり、

その人の実在レベルですでに

存在していた未来

(本当に望む道と、その先にある未来)

が、

顕在化しようとする空気感

です。

 

この空気感の変化は

個人も組織も同じです。

 

個人も組織も

その空気感を漂わせるように

なったら、そこで初めて

私は、

「では、未来を描きましょう!」

とお勧めします。

 

すると、

真本音の未来が

浮上し始めます。

 

その未来とは、

「こうなれたらいいな」

レベルのものでは

ありません。

 

「あっそうだよね。

こうなるよね。

これを実現するのは

当然のことだよね」

という非常に確信に満ちた

力強いものとなります。

 

「イメージの未来」

ではなく、

「実在の未来」

だからです。

 

単なるイメージの未来や

無理な未来を描いても、

現実逃避につながります。

 

今と向き合い、

今を大切に生きることで

本当に望む未来が観えます。

 

そして

本当に望む未来が

明確になることで、

今をもっともっと

大切にできるようになります。

 

この順番を

私達は

大切にしましょう。

 

つづく

 

真の仲間と、なぜ出会うのか?

イメージしたことは

実現する。

 

・・・とよく言われますが、

本当にそうでしょうか?

 

イメージしても

実現しないこと、

たくさんありませんか?

 

それはイメージの仕方が

弱いからだ、

とも言われますが、

本当にそうでしょうか?

 

どれだけ克明に

イメージしても、

実現しないことは

たくさんありませんか?

 

私達の心の中は

『実在』の世界

です。

 

しかし、

「実在」と「イメージ」は

根本的に異なります。

 

「実在」とは

言葉の通り、

実際に存在するもの

です。

 

「イメージ」とは

単なる幻影です。

 

言葉は悪いですが、

妄想です。

 

空想です。

 

実際に存在するものと

幻影の違い。

 

それは根本的な

違いです。

 

私達の心の中には

「自分が人生で進む道」

が、

実在として

そこに存在しています。

 

その「道」を

自ら見つけることができれば、

その「道」は実在ですから、

一気に現象化します。

 

現象化とは、

心の中にある実在が

この現実世界に

投影・反映されることを

言います。

 

つまり、

「実在」が投影されて

「現象」(現実)となります。

 

それが要するに

「実現」ですね。

 

ところが、

「実在」と「イメージ」の

区別がついていないので、

それを恐らく

「イメージすることは実現する」

と表現しているのでしょう。

 

私達にとって大事なのは、

自分の中にすでにある、

 

『実在の道』

 

を見つけることです。

 

それはすでにあるので、

「イメージ」のように

自分の顕在意識で

創り上げるものでは

ありません。

 

それはまるで

宝物探しのようです。

 

心の中の

宝物探しの冒険に

出るのです。

 

それが、

自分自身の人生の道を

探す、ということの

本質です。

 

さて。

 

ここからが肝心です。

 

これからの人生の

イメージの道ではなく、

「実在の道」

を見つけることができたと

します。

 

すると、

何が起こるでしょうか?

 

実は、

「実在の道」とは

自分だけのものではありません。

 

それは、

多くの仲間達と共有し、

共に歩く道

なのです。

 

ですから、

自分の中に存在する

「実在の道」と

まったく同じ道を持っている

Aさんが、

必ずどこかにいます。

 

もちろん、

一人だけではありません。

Aさん、Bさん、Cさん、・・・。

何人もの

仲間達がいます。

 

「実在の道」を

見つけるということは、

そういったAさんら仲間達との

出会いの始まり

でもあるのです。

 

道を見つければ、

出会う。

 

・・・というようになっています。

 

ところが、

これも、実は、ということ

なのですが、

「実在の道」とは

一気に道のすべてが

見通せるわけではありません。

 

次回以降で

詳しく書こうと思いますが、

多くの場合、

「道」と言っても、

「次の一歩」が観えるだけ

です。

 

「次の一歩」が観えて、

その「一歩」を踏み出せば、

さらに「次の一歩」が

観えてくる。

この

連続によって徐々に

道が明確になり、

そして

ある時ある瞬間に、

一気に先が見通せるように

なります。

 

もちろん例外もありますが、

これが最も一般的な

「実在の道」の進み方です。

 

しかも、

道を進むことよりも前に

「出会い」が先にくることも

あります。

 

何年も前に出会ったAさんが、

実は、共に道を歩む仲間だった

ということもあるのです。

 

そのように、

「道」そのものは実在しており、

全体像ももちろんしっかり

あるのですが、

その全体像のほんの

ワンピースを

一つずつ明確にしていく、

しかも、時にはランダムに。

 

・・・というように、

まるでジグソーパズルを

しているかのように

私達は道を進んで行きます。

 

だからこそ面白い、

とも言えますが。

 

初対面で

会った瞬間に通じ合える、

そんな人は

間違いなく「仲間」です。

 

そして、

「実在」を感じ取れるように

なった人は、

目を閉じるだけで

わかるはずです。

 

もう、「仲間達」は

最初から共にいるのだと。

 

これから出会う

たくさんの仲間達も

すでに実在レベルでは、

自分と共にいるのだと。

 

今日も深夜3時過ぎから

この文章を書いていますが、

目を閉じると、

いえ、

目を閉じなくても、

私は「仲間達」の存在を

今ここに感じます。

 

そしてその「仲間達」と一緒に

この文章を書いている。

・・・そんな感覚です。

 

文章だけではない、

私のすべての活動の

一つ一つは、

現実世界ですでに

出会っているかどうか?に

関係なく、

共に道を歩む仲間達と共に

力を合わせ

魂を込めて

行われているのです。

 

それが、

私達人間の

「普通の生き方」

です。

 

つづく

 

あなたは本当は孤独ですか?

私には、

私のことを真に

理解してくれて、

私にとっての真の

仲間であると

思える人が

何人いるだろうか?

 

こんな問いを自分自身に

投げたことはありますか?

 

随分前の私は、

この問いへの答えは

「0人」

でした。

 

『真本音』と出会う前の

時代の私です。

 

もちろんそれまでに

親友と言える友人とも

随分と出会ってきました。

その当時には

すでに妻も子供も

いました。

 

共に必死になって仕事をする

職場の仲間もいました。

 

師匠だっていました。

 

しかし、

私のことを本当の意味で

理解してくれているかどうか?

と問うと、

 

あぁ、そんな人は

一人もいないんだ。

 

という事実に気がついて

愕然としました。

 

そしてこう思いました。

 

それが人間なんだ、と。

 

それが

人生というものだ、と。

 

所詮、我々は

孤独なのだと。

 

自分のことを本当に

理解できるのは

自分だけなのだ、と。

 

みんな、

そうなのだ、と。

 

・・・もちろんそれは、

その当時の私の

単なる思い込みです。

 

なぜなら、

今の私には

真の仲間と言える人、

真に私のことを理解して

くれている人、

が本当にたくさん

いるからです。

 

下手をすると、

出会ったその瞬間、

目と目が合った

その瞬間にもう

そう思える時も

何度もあります。

 

それこそ、

思い込みではないか?

と言われそうですが、

いいえ、

それは真実です。

 

なぜなら今の私は

『実在』

を感じ取ることが

できるからです。

 

今、こうしてこの文章を

書いている私は、

自宅の書斎に一人で

います。

 

今、深夜の3時です。

 

ところが、

目を閉じると、

実に多くの人達の

「気配」

を感じます。

 

これも

思い込みでは

ありません。

 

「実在」です。

 

つまり、

実際にここに存在する

ものです。

 

ちなみにこれは

霊感とは違います。

 

私には

霊感はありません。

 

ただ私は

「実在」を

感じ取ることができるように

なったのです。

 

ですので、

常に私は仲間達と

こうして共にいることが

できます。

 

現象(現実)のレベルでは、

(3次元のレベルでは)

遠く離れていても、

実在のレベルでは

距離も時間の差異も

ありません。

 

だから常に

一緒にいるのです。

 

共に

同じ願いを持ち、

同じ方向を向き、

同じ試行錯誤を

している仲間達。

 

この「実在」を感じ取る

という力は、

もちろん私だけに特有の

ものではありません。

 

誰もが普通に

感じ取れるものです。

 

つまりこれも

「普通の生き方」の

一つです。

 

えぇ?

そんなの普通じゃないよ。

と言われそうですが、

いえいえ、

これこそが私達人間誰もが

もともと持っている

コミュニケーションの力の

一つです。

 

『実在コミュニケーション』

 

・・・とも私は呼んでおり、

これは「真本音コミュニケーション」

の形の一つです。

 

真本音で生きることで

こうした力を開花することが

誰もができます。

 

実在コミュニケーションが

できるようになれば、

「直観力を高めよう」どころの

話ではなくなります。

 

「直観」が

通常の思考と同じか

それ以上に普通の状態に

なります。

 

もう本当に

迷わなくなります。

いえ、

正確には迷うことはありますし、

迷うこと自体に

生きる上での大きな意味が

ありますが、

迷いそのものを

本当に楽しめるようになります。

 

心の調子が良いとか

悪いとか、

関係なくなります。

 

心の調子が悪い時は

人間である以上

私にもあります。

 

特に毎日、多くの方達の

ストレスを受け続けていますので、

その影響もあり

ストレスの塊みたいなものに

心が閉ざされてしまうことも

しょっちゅうです。

 

絶望感。

倦怠感。

孤独感。

怒り。

憎しみ。

時には、狂気。

・・・

 

様々な反応本音達に

心が閉ざされることは

この仕事をしていれば

本当に毎日です。

 

でも

それが一体、

何だと言うのでしょうか。

 

心の状態が

絶望的に悪くなったとしても

ただ、

それだけのことじゃん。

 

・・・というように

心の状態の良い悪いに

捕らわれない

自分になれるのです。

 

どんな心になっても

おおらかな気持ちで

それを楽しみながら

観察できる自分。

 

真本音という大地に

立てていることによって

そうなれるのですが、

私が本当に

そうなれたのは、

実在コミュニケーションが

できるようになってからかも

しれません。

 

ですのでこれも

すべての人に

できるようになってほしいな、と

私は願うのです。

 

「実在」のことを書くのは

ある意味勇気の要ることですし、

恐らく誤解も生じるでしょうが、

でもそれでもこのブログでは

そこに挑戦したいな、と

思っている私が

ここにいます。

 

さて、明日から

どんな文章を

私は書くのでしょうね?

 

つづく

 

みんな、真本音で生きようよ

どのような心があろうとも、

それらをただ

あるがままに

観察することのできる

自分。

 

なんの操作もなく、

なんの評価もなく、

なんの解釈もなく。

 

ただその存在を

存在のままに

承認できる自分。

 

そんな自分になれた時、

それができているその「自分」とは

いったい何者でしょうか?

 

当然、

今ものを考えたり

ものを見ているこの自分は

私達自身の

顕在意識です。

 

しかし、

顕在意識そのものは

非常に不安定な

存在です。

 

すぐに揺らぐし、

すぐに不安になるし、

すぐに自信をなくします。

 

なのに

この安定感は

どうしたことでしょう?

 

すべての自分と

あるがままに向き合う

自分になることにより、

私達のこの

もともと不安定だった顕在意識は

とてつもない

安定感を得ます。

 

まるで、

永久不滅の

大地に立っているようです。

 

この

大地は何でしょう?

 

この

安定感は何でしょう?

 

この

安心感は何でしょう?

 

この

満たされた感覚は?

 

この

自然に溢れる確信は?

 

・・・これが、

私の言うところの

『真本音』

です。

 

最も醜い自分自身と

完全に向き合える人のみが

初めて実感できる

心の大地です。

 

心の大地とはつまり、

「魂」そのものです。

 

もしこの

真本音という大地を

実感できるようになりましたら、

ぜひ

自分自身に問うてみてください。

 

自分の真本音に問う、

最初の質問です。

 

『私は今この瞬間、

どんな生き方を

したいのだろうか?』

 

・・・と。

 

それは極めて

シンプルな答えとして

返ってくるでしょう。

 

もし理由づけや

説明の必要な

複雑な言葉であれば、

残念ながらそれはまだ

真本音ではありません。

 

その一言を

つぶやくだけで、

身も心もすべてが

スッとする、

説明不要の

納得の一言が返ってこれば、

それは紛れもなく

真本音の答えです。

 

その「生き方」が

真本音で生きるための

最初のキーワードと

なります。

 

これを私は

 

『人生理念』

 

と呼んでいます。

 

人生理念は、

日常のあらゆる場面で

その一言をつぶやけば、

「本来の自分」

を思い出させてくれるでしょう。

 

私は本当は

どんな生き方を

今ここで実践したい

人間であるか?

 

・・・を思い出させてくれます。

 

いつもそれを

つぶやきながら

今この瞬間を大切に

自分の行動や振る舞いを

決めていくことが、

真本音で生きる

ファーストステップです。

 

これができている状態が

人としての「普通の生き方」

です。

 

そして、

これができていることで

私達の魂と心の

一貫性が取れ、

心から淀みが消えていきます。

 

淀みが消えることで

自然に浮上するのが、

『直観』

です。

 

次に自分が何をすればよいか?

をありありと教えてくれる

確信の答えです。

 

あとはその確信に

従って動く

だけのことです。

 

思えば・・・。

 

私達人間は、

この、

真本音と反応本音の区別が

つかなくなったところから

「普通の生き方」が

できなくなったのだと思います。

 

本当は、

「区別をつける」などという

言葉そのものが不自然なくらい、

その二つは

あまりにも違います。

 

目と鼻の区別をつけるのと

同じくらいに

それは簡単なことだった

はずです。

 

しかし私達人間は、

自分の真本音のことを

あまりにも忘れて

しまいました。

 

あまりにも

無視し続けて

しまいました。

 

だから、

人としての「普通の生き方」も

人としての「本来の幸せ」を

感じることも、

できなくなってしまいました。

 

もう一度、私達は

人間としての

原点に戻る必要があると

私は思います。

 

自分を理解する。

 

反応本音達を理解し、

真本音を理解する。

 

そこから始めるのが

最も大切なことだと

私は思うのです。

 

つづく

 

本当の自分と出会う方法

私達の心の中には

自分の観たくない反応本音が

たくさんあります。

 

自分が知りたくない

反応本音のパターン(クセ)も

たくさんあるでしょう。

 

それを観て、

知ってしまったら、

自分のことを

嫌いになってしまうかも。

いや、

嫌いになるだけならまだましで、

自分のことを否定したり、

自分の過去の振る舞いを

後悔したり、

自分を責め続けることに

なるかもしれない。

 

過去の変えることのできない

後悔の事実達を

フラッシュバックしながら

生きていかねばならないかも。

 

・・・そんな恐れが

ほとんどの人にあるでしょう。

 

だから、

観たくないものには

フタをして、

前向きに生きていこう。

 

・・・これも多くの人が

無意識に行なっている

ことです。

 

しかし残念ながら、

こういった生き方は

自分の心をさらに

深刻にするだけです。

 

なぜなら、

フタをしているだけで、

本当は自分のことを

自分はよくわかって

いるからです。

 

自分を責めたくないから

フタをする。

しかし、

フタをしたその中で、

その人は自分をもう

責め続けているのです。

 

しかも、

自分を責めていることに

自分が気づいていない、

という状態ですから

「そこに気づけよ!」

と自分に苛立ちながら、

さらにその「責め」を

増幅させてしまうのです。

 

自分のことを

観ない。

 

その事実だけで、

人は自分を

責めるのです。

 

ですから、

一番楽な生き方とは、

一つ一つを

ちゃんと観察すること。

 

後悔するなら

後悔するでもいい。

 

一つ一つを

ちゃんと後悔しながら

進むこと。

 

一つ一つを

ちゃんと反省しながら

進むこと。

 

一見、その方が

深刻な人生になりそうですが、

それが本当にできている人は

だんだんと自分に対して

「おおらか」に

なっていきます。

 

自分ときちんと

向き合っていることを

自分が一番よく

わかっているからです。

 

そういう人は

自分のことを

自然に許せるように

なります。

 

確かにその行為は

酷かった。

するんじゃなかった。

でも、しょうがない。

私も人間だ。

間違いはある。

次はそうならないように

注意しよう。

 

・・・そんな感じに

なっていきます。

 

そしてそれをさらに

続ければ、

そんな間違う自分を

「可愛らしいな」

と思えるようになります。

 

もちろんそれは

自己満足とは違った

状態です。

 

自己満足の「可愛らしいな」は、

自分の観たくないものに

フタをした状態で

無理にそう思い込もうと

している状態です。

 

しかし、

自分と向き合い続けることで

自然に生まれる

「可愛らしいな」は

愛の一つのカタチです。

 

これができる人は

他人に対しても

同じ目線を向けることが

できるようになります。

 

人のことを

許せる自分になれます。

 

そこにあるものを

そのまま観る。

 

観るだけでよいのです。

 

それをどうこう

しようとしない。

 

それが

『存在承認』です。

 

存在承認を

し続けることで、

私達は初めて

ある一つのことに

気づくでしょう。

 

その気づきとは、

頭で理解する気づきではなく、

感覚として覚える

気づきです。

 

実感する気づき

です。

 

それをあえて

言葉にすれば、

次のようになります。・・・

 

すべての自分の心を

観続ける自分。

 

すべてを

存在承認し続ける

自分。

 

あれ?

 

この観続けている

この自分は

誰だ?

 

すべてを客観的に

観ているこの、

ここにいるこの

自分は

何者だ?

 

私は、

誰だ?

 

・・・ということです。

 

何度も書きますが、

理屈ではなく、

実感として

体感として

それを感じ取ります。

 

すべてを観つめている

その主体である

自分自身の存在を

ある瞬間に

ありありと自覚するのです。

 

そうです。

 

その主体こそが

『真本音』

です。

 

本当の

自分です。

 

つづく

 

自分を矯正する人生は、深刻になるだけ

「虚勢を張る」ということについて

書かせていただきましたが、

(→前回記事)

それは、

「反応本音のクセ」

の一つです。

 

反応本音とは、

私達人間が現実(現象)世界と

関わる中で、

現実(現象)からの影響を受けることで

発生する心です。

 

一つの現実に対して

様々な反応本音が大量に

発生します。

 

そのうちの一つを

私達は選択し、

その反応本音に基づいて

私達は行動します。

つまり、

次の自分の言動や振る舞いを

決定します。

 

その、

反応本音の選び方を

私達は無意識に

パターン化します。

 

それが

反応本音のクセ

となります。

 

「虚勢を張る」

というのはそういったクセの

一つです。

 

もちろん、

それ以外のクセもあります。

 

例えば、

「虚勢を張る」のとは

真逆のクセがあります。

 

それは、

「自分を卑下する」

です。

 

自分なんて

どうせダメだから。

自分なんて

どうせできないから。

自分なんて

価値のない人間だから。

自分なんて

どうせ上手くいかないから。

自分なんて

・・・

と、最初から諦めて

物事に挑戦しない、とか

積極的に取り組まない

などの出方をします。

 

また、例えば、

「人に迎合する」

というクセの出方も

よくあります。

 

自分を出すことよりも、

人の意見に合わせたり、

イエスマンになったりしながら、

その場を取り繕う

ことをすぐにしてしまいます。

人間関係において、

波風を立たせたくない

のです。

波風が立つくらいなら、

自分が我慢すればよい、

と、ほとんどの物事に対して

打算的に考えています。

 

その逆に、

「人を否定する」

というクセもあります。

 

自分の考えが一番正しいと

思い込み、

他の人はすべて未熟だと

思い込み、

自分の考えに合わないことは

すべて否定しようとします。

要するに、

頑固ということなのですが、

悪い意味での

評論家っぽくもあり、

口を出す割には

口だけしか出さない。

自分が責任を負って

すべてを引き受けることは

しません。

理論的に否定するだけの

口だけ大将です。

 

・・・というように

反応本音のクセを書き出せば

本当にキリがないくらいに

様々なパターンがあり、

その一つ一つを

しっかりと見ていくと、

かなり深刻に思えます。

 

自分の

・心と

・行動(振る舞い)と

・起こす現実

に悪循環を起こし、

結果として自分の望まない

人生を創り出します。

 

しかも

面白いことに、

一つの反応本音のクセを

治そうとして

たとえそれができたとしても、

さらに次のクセが

出来上がるだけなのです。

 

一つのクセを見つめると、

深刻になり、

そのクセを必死に治しても、

さらに次のクセが

出来上がる。

 

それに対して

また深刻になり、

クセを矯正しようとする。

 

でもまた次のクセが

浮上する。

 

・・・という感じで、

本当にキリがありません。

 

それをやり続けているうちに

人生が

終わってしまうでしょう。

 

しかもその人生とは、

深刻なクセを治すための

深刻な人生だった、

ということになります。

 

しかし

「深刻な人生」

「真剣な人生」

は根本的に異なります。

 

残念ながら

深刻さからは何も

生まれません。

 

反応本音を矯正し続ける人生

からは

何も生まれないのです。

 

むしろ

自分の本当の「道」を

見出すためには、

その深刻さのサイクルから

抜け出す必要があります。

 

そのための

第一歩とは

何でしょうか?

 

それは、

 

『どうでもいいじゃん』

 

という一種の

おおらかさを持つこと

なのです。

 

「何があってもいいじゃんか」

とか

「どんなクセがあっても

構わないよ」

という

おおらかな目線で

自分の心と行動を

見つめることです。

 

ただし、

あるがままに

見つめること。

要するに

『観察』であり

『観る』ことです。

 

やはりまずはそれが

すべての土台に来ます。

 

そしてその上で

一つ、

とても重要なことをします。

 

それがすべての

始まりとなります。

 

続きは次回に。

 

つづく

 

苦しんでいるのに、救えない・・・

「虚勢を張る」ということについて

書かせていただいています。

(→前回記事)

 

虚勢を張ることに

パワーを使い続けている人は

自分が真本音で決めている「道」を

見つけることはできません。

 

虚勢を張る心というのは

単なる反応本音の一種に

過ぎません。

 

しかしこれをし続けますと、

心全体がまるで

発泡スチロールのように

なっていきます。

 

心が動かなく

なるのです。

 

血が通わなくなります。

 

固まります。

 

しかも、

叩けばすぐに崩れて

しまうほどに、

弱いのです。

 

そんな

発泡スチロールのような自分を

一番わかっているのは

自分自身ですから、

そんな自分を守るために

その人はさらに虚勢を張る

ようになります。

 

そのうちに

そんなことをし続けている

自分に対して

罪悪感が増してきます。

 

「罪悪感」。

 

これは私達の心にとっては

最もキツく

苦しいものです。

 

なぜなら罪悪感とは

自分を責め続ける気持ち。

ですから、

喩えて言うならば、

自分の心に自分で

ナイフをぐさぐさと

突き立てているような

ものです。

 

自分で自分の心を

傷つける行為が

罪悪感を持つことです。

 

これは本当に

キツい。

 

心のエネルギーが

一気に奪われます。

 

要するに心は

格段に弱まります。

 

それにより

ますます発泡スチロール化

が進みます。

 

そしてますます

虚勢を張ります。

 

虚勢を張る、というのが

クセになり、

虚勢を張ることでしか

生きていけなくなります。

 

発泡スチロール化した

弱い自分の心を

少しでも傷つけそうな

人を見つけたら、

その人をまずはこちらから

攻撃するようになります。

 

攻撃される前に

攻撃するのです。

 

人を攻撃する

とは、

完全に

弱さの現れ以外の

何物でもありません。

 

しかし

人を攻撃しながら

それがさらなる罪悪感になり

内側から

自分で自分を攻撃

するようになります。

 

まさしくそれは、

心の八方塞がり。

 

延々と続く

悪循環です。

 

この状態では、

たとえ目の前に

自分の本当に望む道が

現れたとしても、

それに気づくことは

あり得ません。

 

ところが、

虚勢を張る自分とか、

罪悪感とか、

人を攻撃するクセは、

治そうと思っても

そうそう簡単には

いきません。

 

すべては

自己防衛の手段

なのですから、

治そうと思っても

不安感が増すだけです。

 

人は、

不安の方向に努力することは

難しいです。

 

その方向に進めば進むほど

安心感が増すとか、

希望の光を感じるようになるとか、

とにかく、

居心地の良い方向にしか

努力はできません。

 

「悪いものを治そう」

だけでは

続かないのです、

何事も。

余程、追い詰められない

限りは。

 

以前の私もそうでしたが、

こういった状態に

陥っている人に

たくさん出会います。

 

その度に

私は思います。

 

私達はもっと自分を

「救おう」

としなければならない、

と。

 

「治そう」とか

「修正しよう」ではなく、

「救おう」

としなければならない

のではないかと

私は本当に思うのです。

 

ところが

他者がその人を救う

ということは

できません。

 

自分のことを救えるのは

自分のみ

なのです。

 

私はコーチとして

多くの人と関わらせて

いただきながら、

「この人を救ってあげたい」

と、本当に毎日のように

思います。

 

でも、

「この人を救ってあげたい」

というこの気持ちの

なんと傲慢なことか。

 

上から目線とか

そういったレベルの

ことではなく、

何か、根本的に

人としての尊厳を

無視している気持ちであると

私は思うのです。

 

でもそれでも

「救ってあげたい」

と思ってしまいます。

 

それくらいに

苦しんでいる人が

今はあまりに

多いです。

 

しかも、

それだけ自分の魂や心が

苦しんでいることを

本人が気づいていない。

 

なんで気づかないままで

いられるのだろうか?と

不思議でならないのですが、

麻痺したままでいる。

 

私はその度に、

本当に失礼で良くない

表現ですが、

昔、中学生時代に

理科の授業で行なった

カエルの解剖を

思い出します。

 

解剖をされるカエルは

麻酔薬に浸けられます。

 

麻酔薬に浸けられた

カエルは

自分のお腹を

引き裂かれているのに

気づいていません。

むしろ、

気持ちの良さそうな

顔をしていることに、

当時の私はかなり

ショックを受けた覚えがあります。

 

その状態と同じ人が

今の世の中には

いっぱいいるのです。

 

思わず、

「救ってあげたい」と

思ってしまいます。

 

でも、

それは傲慢ですし、

どれだけそう思っても

不可能なことです。

 

私達人間は、

自分を救うのは自分だけである

という「摂理」の中で

生きています。

 

しかもそれが

人としての尊厳です。

 

それを私は

コーチとして決して

忘れてはならないと

いつも自分を戒めています。

 

だからこそ、

発見できたのかも

しれません。

 

自分で自分を救う

方法を。

 

その方法を

示すことが、

私の役割となりました。

 

その方法を

実際に使うかどうかは

本人しだいです。

 

努力するのも

本人しだい。

 

私ができるのは

方法を示すことだけ。

 

しかもその方法は

自然の摂理に沿った

ものでなければなりません。

 

でも私は

多くの方と向き合いながら

それを見つけることが

できました。

 

それは、

自分の本当に望む道を

見つける方法、

という言い方もできます。

 

ではその方法とは?

 

これを次回以降、

ゆっくりじっくりと

お話しさせていただきます。

 

つづく

 

虚勢を張れば張るほど、道は観えなくなる

自分の中に存在している

本当の「道」を

見極める。

 

そのためには、

真本音と反応本音の区別が

必要。

 

では、どうすればその区別を

つけられる自分になれるのか?

 

・・・そんなお話を

書かせていただいています。

(→前回記事)

 

反応本音に基づいて

生きているうちは、

私達は虚勢を張ります。

 

すべての人がそう、

というわけではありませんが、

一般的には

声が大きくなります。

 

威厳を出そうとします。

 

いつも無理にでも

元気な自分を

見せようとします。

 

以前の私が本当に

そうでした。

 

私はコーチというお仕事を

真本音・反応本音という

区別がつく何年も前からずっと

続けています。

 

20年くらい前の私の研修や

チームコーチングは

それはそれは

威厳に満ちたものでした。

 

若いくせに。

 

場に緊張感を

張り巡らせていました。

 

当時の私は30歳過ぎ

くらいです。

 

相手はほとんど

年上です。

 

40代50代の経営者の方も

多かったです。

 

そんな方々に向かって

平気で

「お前は甘い」

と「指導」していました。

 

本当にそういった

言い方をしていたのです。

 

私がきつく当たると

その方はビッショリと

冷や汗を流していました。

 

私はその人の

痛いところを

突き続けていました。

 

そうしてその人を

「矯正」して

経営をよくしよう、

俺がそれをしてやろう、

と思っていました。

 

そして、

そういった「指導」をする立場が

自分の役割なので、

自分は誰よりも人格者で

あらねばならないと

決めていました。

 

だから、

心の中に次々に現れる

負の方向の反応本音達を

力でねじ伏せて、

フタをして、

無きものとしていました。

 

で、ある時についに

体を壊してしまったのです。

 

あの時、

私の体が言うことを効かなく

ならなかったら、

私は真本音に気づくことは

できたでしょうか?

 

今でも

そう反芻します。

 

そんな当時、

ある時私はお客様の会社に

車で向かいました。

 

当時の私の睡眠時間は

とても短く、

1時間とか2時間の日々が

続いていました。

 

ですので私は

お客様の会社の近くに

15分くらい前に車で到着し、

車の中で

5分〜10分くらい仮眠をとる、

というのを習慣化していました。

 

5分10分の仮眠をとる

名人でした。

 

その日もちょっと前に到着し、

5分だけ仮眠をとりました。

 

その場合、

シートを倒すわけでは

ありません。

 

通常の座った状態のまま

ウトウトとするのが

コツです。

 

私はいつものように

ウトウトしました。

 

するとその瞬間に、

私は自分の腹から

とてつもない何かが

込み上げてくるのを

感じました。

 

それは、

大量の血でした。

 

ブバババババッ!!

と凄い音を立てながら、

私は口から大量の血を

吐き出しました。

 

血は口から溢れ、

私のスーツは

血まみれになりました。

 

うわっ!どうしよう!

・・・とびっくりした瞬間に

目が覚めました。

 

夢だったのです。

 

でも、

あまりにも鮮烈でした。

 

今でもそれは

現実としか思えないくらい

リアルでした。

 

今ならわかります。

 

確かにそれは

夢ではありませんでした。

 

それは「実在」でした。

 

私は「実在」を

感じただけです。

 

私の中から

これまでフタをしていた

反応本音達が溢れ出し、

真本音という存在に

気づいたのは、

その数日後でした。

 

その後、わずか

2〜3ヶ月で、

私は、当時の師匠のもとを

飛び出し、

当時雇われ社長をしていた

会社も飛び出し、

当時の家族からも

飛び出し、

両親のもとからも

飛び出し、

お客様からも

飛び出し、

友人関係からも

飛び出し、

すべてをリセット

することになります。

 

人生がその時一度、

終わったのだな、と

今でも思います。

 

終わったと同時にそれが、

真本音の人生、

真本音の道の

始まりでした。

 

私の中からは徐々に

虚勢は去っていったと

思います。

 

虚勢を張る人生が

いかに辛い人生か。

痛いほど私は

知っています。

 

虚勢を張るエネルギーと

時間があれば、

もっと自分の本当の

願いに向かえばいい。

 

そんな単純なことなのですが、

なかなかそれができないのも

人間です。

 

でもまずは、

虚勢を張っている

自分自身を

自分で認識することですね。

 

そんな自分を

見つめるのです。

 

観続けるのです。

 

それだけで、

そこからは

抜け出せるでしょう。

 

すると

虚勢を張ることそのものが

遊び心のような感じとして

受け取れるようになります。

 

なんだ、

可愛いな、俺、

と。

 

そうなればもう

いつでもそこからは

抜け出せます。

 

虚勢から抜け出すことで、

真本音の道が

初めて観えてきます。

 

つづく

 

私ほど酷い人は、見たことがない

私達の中にはすでに「道」があり、

その「道」を進むことは

とても勇気の要ることだけれども、

いざその「道」に入ってしまえば、

人としての本来の幸せを

存分に感じることができます。

 

・・・というお話をここまで

させていただいています。

(→前回記事)

 

では、その「道」が

本当の「道」なのかどうか、を

どこで判断すればよいでしょうか?

 

本当の「道」かどうか?

 

とはつまり、

 

真本音の道かどうか?

 

ということです。

 

これを見極めるためには、

真本音と反応本音の区別を

つけられる自分になることが

前提となります。

 

真本音と反応本音の

区別。

 

これは実は、

目と鼻の区別がつくのと

同じくらいに簡単です。

 

でもしかし、

それができる人が

現時点では少ないのが

今の社会です。

 

どうして目と鼻の区別が

つかないの?

目は目だし、

鼻は鼻だし、

目を見て「鼻だ」とは

思わないでしょ。

 

・・・などといつも私は思ってしまう

のですが、

でもそういう私自身も以前は

まったくこの区別がついて

いませんでした。

 

人のことを言えません。

 

だいぶ前のブログでも

書きましたが、

以前の私は本当に酷くて、

いまだに、

以前の私ほど反応本音まみれの

人と出会ったことが

ありません。

 

もちろん以前は、

真本音と反応本音という

区別そのものもありませんでした。

 

でもそれにしても

酷かった。

 

私は、心にフタをする

名人でした。

 

例えば、Aさんのことを

憎んで憎んで憎んで・・・

憎み切っていたのにも関わらず、

そういった心にフタをし、

自分で醜い心を見えないようにし、

「自分はなんてきれいな心の

持ち主なんだ」

と本気で思い込んでいました。

 

その頃の私ともし今

出会ったならば、

出会った瞬間に、

「あぁこの人はダメだな。

どんなサポートも効果がないだろう」

と最初からサポートをしない

と決めるでしょうね。

 

それだけ酷い状態でした。

 

これ、本当にマジなんです。

よく

「たけうちさん、そうは言っても

口で言うほどは酷くなかったでしょ」

と言われるのですが、

本当に、マジなんです。

 

手のつけようのない人間、

とは私のことを言うのだと

今でも本当に思っています。

 

そんな私でも

真本音と反応本音の区別が

つくようになりました。

 

ということは、

人類すべての人が

これはできることであると

私は本当に思っています。

 

では、

それだけ酷かった私が

どのようにして

区別がつけられるようになったか?

 

その第一歩目は、

 

「反応本音を隠さない」

 

ということでした。

 

つまりは、

すべての反応本音を

観察する、ということです。

 

やはりここでも

「観察」

は重要なのです。

 

人間誰しも

見たくない心はあります。

 

こんな心が

自分の中にあってほしくない、

あってはならない、

人として。

・・・そう思う心はあります。

 

でも、

どんな心があっても

よいのです。

 

何があってもOK。

というおおらかな気持ちで

自分の心と向き合うこと。

 

これが重要です。

 

重要ですが、

すぐにできるわけではありません。

 

そこでお勧めは、

自分の心の声を

どんどん紙に書いてみる

ということです。

 

「書く」という行為は

かなり強力です。

 

書いているうちに、

フタが外れるのです。

 

勇気を持って

ちょっとだけ醜い自分の心を

書き始めてみると、

まるでダムが決壊したかのように、

フタをしていた心たちが

溢れ出ます。

 

それをそのまま

書き殴っていくのです。

 

私は初めてこれをやった時、

涙が止まらなく

なりました。

 

あまりに酷い言葉の

数々だったからです。

 

自分が書いている言葉なのに、

自分の言葉とは信じられないくらい

酷い言葉たち。

 

情けなくて悔しくて、

惨めで、

本当に人としての自分を

許せない気持ちになりながらも

それでも

書き続けました。

 

するとある瞬間に

フッと

楽になるのです。

 

私はこれをパソコンで

やっていたのですが、

そのあまりに酷い言葉の数々を

印刷し、

印刷したものを

燃やしました。

 

燃えていく紙を見つめながら

私は自分の心が

燃えていくのを感じました。

 

と同時に

さらに心が楽になるのを

感じました。

 

かといって、

次の日からすぐに

心が変わるわけではありません。

 

次の日もまた、

同じように酷い言葉達が

自分の中から溢れました。

 

でも同じく、

すべてを書きました。

 

そして

燃やしました。

 

これを繰り返すうちに、

数日のうちには、

私はかなりおおらかになっている

自分に気づきました。

 

そうか。

こんな気持ち達を持っているのが

私という人間なんだな。

であれば、それはそれで

しょうがないか。

 

というような、

そんな気持ち。

 

さらにそれを続けると、

そのうちに酷い言葉達は

もう出なくなりました。

 

何かが完了した感覚。

 

出し切った感覚。

 

と同時にわかったのです。

「あの酷い心は

確かに私の心ではあったが、

ただ、私の中に溜まっていた

だけのものなんだな」

と。

 

そうです。

心の中に溜まっているもの。

それが反応本音です。

 

もちろん反応本音とは、

悪いものばかりでは

ありません。

 

人としての喜びとか

嬉しさと、幸せとか

前向きな気持ちとか、

やってやろうという意欲とか、

色々なものがあります。

 

でもそれらの全ては

溜まっている気持ち達。

 

吐き出されれば

消えていきます。

 

すべてが吐き出されても

それでも自分の中に

残っているもの。

 

すべてを吐き出しても

揺るがずに

そこにあり続けるもの。

 

それが

真本音です。

 

私は、

自分の気持ち達を書き続け、

吐き出し続けることによって

初めて真本音の存在を

実感できたのです。

 

つづく

 

自分の道を観るのを躊躇している人へ

私達の中にはすでに

決めている道があります。

 

というお話を

前回いたしました。

(→前回記事)

 

ところがその道を

見つめることができない、

という人がいます。

 

その道を

観るのが怖い

のです。

 

観てしまうと

自分は間違いなくその道を

突き進んでしまうだろう。

何の躊躇もなく

その道に入るだろう。

 

・・・ということが

本人にはよくわかっているのです。

だから逆に、

観るのが怖い。

 

観てしまったら、

これまでの人生、

これまで創り上げてきたもの、

これまでの自分

それらすべてを

自分は捨ててしまうのではないか、

という恐れがあるのです。

 

ですので今、

自分の中に道があるなぁ、

という実感を持ちながらも、

しかしそれを観ることが怖くて

茫然と立ちすくんでいる人が

増えています。

 

その気持ち。

 

同じ人間として

私は強烈によくわかります。

 

私もそこで

相当に苦しみました。

 

しかし、

自分の本当の道を観つめ、

そこを進むことを選択した経験者として

お伝えするならば、・・・

 

苦しいのは、

その場所だけです。

 

その道を観つめる

その直前が

苦しいだけです。

 

いざ、

それを観てしまえば

すべての合点がいきます。

 

これまでの自分の人生の

合点がいくのです。

 

なぜ自分は

ここに生まれてきたのか?

 

なぜこのような

人生だったのか?

 

なぜこのような

自分だったのか?

 

すべての合点がいく

のです。

 

そして

何も捨てる必要がないことが

わかります。

 

ただし、

捨てる必要はありませんが、

「手放す」必要のあるものは

ありありとわかります。

 

「手放す」とは

捨てるということでは

ありません。

 

「距離を置く」

ということです。

 

今の距離よりも

もう少しそれを遠ざける

ということです。

 

存在そのものを

捨てたり抹消する必要は

ありません。

 

「距離感」というものは

とてつもなく、と言ってよいほど

大事です。

 

私達の真本音は

すべての物事と

適正な距離をとる

ということを大切にしています。

 

距離感を大切にすることで

調和度合いは

圧倒的に高まります。

 

そういった意味で、

今は何との距離が近すぎて、

何との距離が遠すぎるのか?

がありありとわかります。

 

そしてその修正を

したくなります。

 

間違えてならないのは

「しなければならない」

のではなく、

「自然にしたくなる」

のです。

 

そしてその通りに実行すれば、

もの凄い安心感と

安定感を

得ることができます。

 

その状態で、

「道」に入って行くのです。

 

そして「道」に入れば、

前回記事でも書きましたが、

かつて経験したことのない

充実感を

私達は得ます。

 

常に魂と心が

満たされている状態、

そして、常に

自分の中心からエネルギーが

湧き続けている状態と

なります。

 

そしてそのエネルギーは

他者にもそのまま

照射されます。

 

そのエネルギーを私は

「愛」

と呼んでいますが、

愛のエネルギーを常に

他者に注ぎ続けることのできる

自分となるのです。

 

ですからますます

すべてが調和して

いきます。

 

そういった「現実」が

起こり始めるのです。

 

要するにそれは単純に言えば、

幸せな日々

なのです。

 

ですから、

苦しみは今、躊躇しているその場所

にしかありません。

 

しかと目を開き、

自分の道を観つめれば、

すべてが自然に

動き始めるのです。

 

「道」を歩き始めるのが

普通の状態。

 

人間として極めて

普通の生き方なのです。

 

つづく

 

自分の中には確かに道がある

「直観力」とは

もともと私達誰にも備わっている

当たり前の力です。

 

それを発揮するためには、

私達は人間としての

「普通の生き方」

をすることが大切です。

 

それができていないので、

本来持っている直観力が

発揮されなくなっているのが

現在の私達です。

 

では、

「普通の生き方」を取り戻すために

大事なのは何でしょうか?

 

その最初のキーワードが

『観察』

でした。

 

この「観察」について

前回まで書かせていただきました。

(→前回記事)

 

ここからは次の

キーワードをご紹介します。

 

「普通の生き方」を取り戻す

次のキーワードは、

 

『道』

 

です。

 

私達の中には

「道」がすでに

できています。

 

私達は自分自身の

「道」を

決めているのです。

 

それに一度でも気づいた人は

もう決してその道を

変えることはありません。

 

どんな環境に自分がいようとも、

そこでどのような現実が

起きようとも、

どのような妨害や障害に

遭おうとも、

その道をあきらめたり、

変更することは

ありません。

 

それは

本人にとっては

とてつもなく太く、

まっすぐで

安定して

気持ち良い

これ以上ない「確かさ」を湛えた

道なのです。

 

一瞬でもそれを

感じ取った人は

そのあまりの存在感に

ある意味、

我を忘れます。

 

しかしそれは本当は

「我を忘れる」のではなく

「我を思い出す」

という状態です。

 

本当の自分、

本来の自分を

思い出すのです。

 

あぁなんだ、

これが私の人生だった、

これが

私の生まれた意味だった、

と単純に

思い出すのです。

 

思い出したらもう

そこを進むだけです。

 

間違っていただきたくないのは、

それは、

「あぁこの会社は違ったな」

とか

「この仕事は違ったな」

とか、

そういったレベルの話では

ないということです。

 

どのような会社にいても

どのような仕事に就いていても、

要するに

どのような環境にいても、

その「道」を進むことは

できるのです。

 

むしろ、

「この環境は違う」

とか

「環境が悪いから自分は

自分の人生を歩めないのだ」

と言っているうちは、

決してその「道」は

見つかりません。

 

一人ひとりに必ず

その人ならではの

「道」

はあります。

 

そしてその「道」を

辿ることは、

今この瞬間から

すぐにできることです。

 

その「道」に

気づいた瞬間から

できることなのです。

 

何の難しさも

複雑さも

準備も

必要ありません。

 

そしていざ

その「道」を歩み始めれば、

人生の時間の

一刻一刻は

本当に満ち足りたものに

なるでしょう。

 

なぜならそこには

「自分を生きている」

という実感が

半端ないからです。

 

傲慢ではなく、

本当に心の底から

「世界の中心は自分である」

と思えます。

しかしかと言って、

自分以外の全ての存在が

ありがたくてしょうがありません。

 

「自分」と「自分以外のもの」

という分離は

あるのだけれども、

しかし確かに

すべては一つであると

感じ取ってもいます。

 

つまりそれは

高い次元の自分の意識が

発動しているからですが、

それは

「道」を歩み始めることで

成されるのです。

 

そういった

自分の「道」。

 

これを見つけるためには

やはり、

自分自身を「観察」することが

必須です。

 

特に、自分の心を

区別しながら観察することが

重要です。

 

その区別こそが、

「真本音」と「反応本音」

です。

 

つづく

自己理解の第一歩は、心の声理解である

「自分の心に意識を向ける」

そのファーストステップは、

「今、自分が感じていること」に

意識を向けるということです。

(→前回記事)

 

「感じていること」とは、

自分の「感情」が生まれる

一歩手前の段階です。

 

私達は、

①何かを感じる

ことによって

②感情が生まれる

のです。

 

①がなければ

②はありません。

 

①も②も両方理解することが

自分を理解する

最も基本となります。

 

どんな①が来れば、

どんな②になるのか?

・・・自分はそこに

どのようなパターンを

持っているのか?

 

それが自己理解の

基本だからです。

 

さて。

 

①に目を向けるようになると、

私達は実に様々なことを

一日の中で感じ取っていることに

驚くでしょう。

 

ほんの些細なことで

私達の心は

まるで風を受けた風船のように

揺れに揺れます。

 

私達の心は

揺れるようにできているのです。

 

それを

揺れていないふりをしたり、

揺れていることに麻痺したり

するのはまったくの

無意味です。

 

揺れをそのまま感じ取ること

こそが健康であり、

自分の心を強くする

一歩にもなります。

 

揺れている自分を

あるがままに見つめる

自分になることで、

直観力も大きく増します。

 

そのためにも、

①に敏感になれたら次は、

②に目を向けましょう。

 

つまり自分の感情と

向き合うのです。

 

ただしその感情とは、

激しいものばかりでは

ありません。

 

激しい感情は

わかりやすいです。

 

ものすごく怒りを感じたら、

誰もが自分は腹が立っている

とわかるでしょう。

 

そういった激しいものだけでなく、

ほんの些細な、

フッと現れては消えていくような

わずかな感情の動きにも

目を向けます。

 

その際に一つ、

重要なポイントがあります。

 

それは

『心の声』

です。

 

私達の感情には必ず

「心の声」が

セットでついてきます。

 

例えば、

Aさんの一言でムッとした場合、

怒りの感情と共に、

必ず何らかの「心の声」を

私達はつぶやいているはずです。

 

「なんてひどいことを言うんだ」

とか

「きつ過ぎる」

とか

「それを言わないでくれーーっ!」

とか。

 

時と場合でまったく異なる

「心の声」が発生するでしょう。

 

しかもその「心の声」は

さらに次の「心の声」を

呼び起こします。

 

例えば、

「Aの馬鹿野郎!」

とか

「こいつは大っ嫌いだ!」

とか

「殴ってやりたい!」

とか。

 

そしてさらに別の

「心の声」も続くかもしれません。

 

このように、

感情を理解するとは、

同時に、

「心の声」を理解することでも

あるのです。

 

逆に言えば、

自分の「心の声」に

意識を向けておけば、

自分の感情を理解することに

つながるケースも多いです。

 

私はよくコーチングの場で

「その時、どのような心の声を

つぶやいていましたか?」

という問いを投げます。

 

それを続けると、クライアントさんは

私がその問いを投げなくても

自分から「心の声」を

口にするようになります。

 

それができるということは

それだけ自分を客観的に

観れるようになってきた

ということでもありますし、

自己理解も進みます。

 

するとさらに私は

次のようなことも

クライアントさんにお勧めします。

 

それは、意図的に

自分で「心の声」をつぶやき、

「心の声」通りに行動する

ということです。

 

実はこれはいつも私達が

無意識にやっていることなのですが、

それを意図的に行なうと、

自己コントロール力が

格段に増すのです。

 

今日もたまたま

それを実践したクライアントさんの

コーチングだったのですが、

その方はそれをやってみて、

 

「すべての行動はこうやって

自分で決めていたんだということが

本当にわかりました。

私はすぐに人のせいにしたり、

辛いことがあると逃げようと

思っていましたが、

なんだ、すべて自分で決めて

行動していたんだ、という

当たり前のことに気づきました」

 

・・・という感想を

言われていました。

 

無意識に行なっていることを

意識化するというのは、

自律性や主体性の一歩にも

なります。

 

では、・・・

 

ここまでのお話を

少しまとめます。

 

『直観力を高めるには』

というテーマで、

ここまで書かせていただいています。

 

直観力を高めるためには、

人間として普通の生き方をすることが大事。

普通の生き方とは、

まずは自分の心に意識を向けること。

意識を向けるとは、観る(観察する)、ということ。

まずは何を観ればよいかと言うと、

それは

・自分が今、感じていること

・それにより引き起こされる感情と心の声

である。

 

・・・ということになります。

 

実はこれは私の言うところの

「セルフコーチング」の基本でもあります。

 

そしてこの基本を実践するだけでも

直観力はアップし始めます。

 

しかし、本題は

まだまだこれからです。

ここまでは序章にしか

すぎません。

 

つづく

今ここで私は何を感じているのだろうか

自分の心を観察する

と言っても、

どうすればよいか?

まったくイメージを持てない

人も多いと思います。

 

実際に、

企業研修の場で

「自分の心を観てみてください」

と私が言っても

大半の方がキョトンと

されています。

 

心とは

目に見えないものです。

 

しかし、

脳を使わなければ、

心とは

ありありと観えてきます。

 

心とは

「実在」です。

 

つまり、

実際に存在するもの

です。

 

3次元のレベルで

それを把握しようとするから

難しいのであって、

もっと高い次元の眼差しを

向ければ、

それはありありと

そこに在るのがわかります。

 

心の「実在」を

感じ取れるようになると、

現代の世の中は

いかに多くの人達の心が

ボロボロであるかが、

本当によくわかります。

 

中には瀕死の重傷を

負っている人もいます。

かと言って

そういった人も

毎日を当たり前のように

お仕事をしながら、

がんばりながら

過ごしています。

 

自動車は

ガソリンが切れれば

ガス欠を起こします。

決して動くことは

ないでしょう。

 

しかし人の心は、

ガス欠を起こしても、

それでも動かしてしまうことが

可能と言えば可能です。

 

ガス欠状態でも

気合だけで動かしている人が

今、いかに多いことか。

 

私からしてみると、

本当によくやってるなぁ、

とある意味驚嘆します。

 

なぜこの人は

こんなにもエネルギーがないのに

これだけ動いていられるのか?

と驚嘆するのです。

 

しかし当たり前ですが、

それは決して良いことでは

ありません。

 

エネルギーのないのが

当たり前。

その状態でもがんばるのが

人間だ。

その状態でもがんばるのが

社会人だ。

その状態でもがんばるのが

ビジネスマンだ。

 

・・・そんな常識は

本当に私達は

捨てるべきです。

 

もっと自分を

エネルギーで満たすことを

考えましょう。

 

そして、

本来のエネルギーとは

自動車のガソリンのように

外から与えられるものでは

ありません。

 

人の心の本来のエネルギー

とは、

内側から自然に

湧き続けるものなのです。

 

つまり私達人間は

すべての人が

心のエネルギーを

自家発電できるのです。

 

しかし残念ながら

それができている人は恐らく、

1割にも満たないでしょう。

 

その事実を

まずは感じ取るためにも

自分自身の心に

意識を向ける必要が

私達にはあります。

 

では、

心に意識を向けるとは

実際には何をすれば

よいでしょうか?

 

その第一歩は、

「今自分が感じていること」

に意識を向ける

ということです。

 

「感じていること」

 

まずはこれが麻痺している人が

あまりに多いです。

 

企業サポートの中での

私の実感値で言えば、

恐らく、

7割以上の人が

麻痺しています。

 

今、自分は

何を感じているのか?

 

イライラしているのか、

心地が良いのか、

悲しいのか、

嬉しいのか、

モヤモヤしているのか、

スッキリしているのか、

恐れているのか、

安心しているのか、

・・・・・・。

 

まず単純に

「快」の状態なのか?

「不快」の状態なのか?

を自覚するとよいでしょう。

 

まず、これが

できていません。

多くの人が。

 

例えば、

Aさんから一言を

もらった。

 

その一言によって、

自分の心が

どう動いたのか?

 

「快」の方向に動いたのか?

「不快」の方向に動いたのか?

 

その時その瞬間の

特に、人との関わりの現場

において、

自分の心がどう感じているのか?

に敏感になることが

とても重要です。

 

今日一日を振り返って

どうだったか?

というのももちろん大事ですが、

それ以上に、

 

「今この瞬間、

自分はどう感じているのか?」

 

に敏感になることこそが、

人として「普通に生きる」ためには

必須です。

 

人生とは、

現場です。

 

現場とは

今この瞬間です。

 

今この瞬間に

感じていることを

自覚することが

生きる

ということなのです。

 

まずはこの当たり前のことを

できる自分に

戻ることです。

 

これが、

ファーストステップ

です。

 

つづく

 

観察するだけで私達は自由になれる

「直観力」を増すには、

「普通の生き方」を取り戻すことが

重要。

そしてそのための第一のステップが

『観察』

であり

『観る』

ことです。

・・・というところまで

お話ししました。

(→前回記事)

 

「観る」とは、

あるがままを見る、

ということなのですが、

実はこれはさらに本質的なことを

言えば、

「脳を使わずに見る」

ということにもなります。

 

こういう書き方をすると

かなり難しい印象を

受けるかもしれません。

 

しかしあえてここでは、

本質的な表現を

使わせていただきます。

 

「観る」とは

ここにあるすべてのものを

脳を使わずに見ることであり、

感じることであり、

それをしている自分自身は

その瞬間は、

「ここに在るだけの存在」

となります。

つまり、自分には

何の解釈もなく

何の評価もなく

何の判断もない

状態です。

 

これは正しい、とか

それは素晴らしい、とか

反対に

これはおかしい、とか

これはつまらない、とか

そういった

自分の中から発生する心、

つまりは反応本音からは

完全に解放されています。

 

ただし、解放とは、

それらの反応本音をゼロにするとか

抹消するということでは

ありません。

 

それらの反応本音それ自体も

観ている状態です。

 

つまり、

自分の心の中にあるものも

外にあるものも、

すべての存在を

観ている状態であり、

それをしている自分自身は

すべてから解放されています。

 

「ただ在る」

 

それ以上でも

それ以下でも

ない状態となっています。

 

そこには

何があっても

よいのです。

 

そして、

すべてから

解放されています。

自由です。

 

これこそが

「自然体」と言えるもの。

 

私達人間にとって

「普通」の状態です。

 

いやいや、

そんな、まるで悟りを開いたかのような

状態が普通であるはずかない、

それは修行を積んだ

特別な人が手に入れる

特別な状態だ、

と思われる人もいるかも

しれません。

 

いやいや、

その固定観念こそが

私達の生き方と

今のこの世の状態を

創り出してしまっています。

 

それは本当に

特別な状態ではなく、

誰もがもともと持っている

普通の状態です。

 

別にその状態になることで

人格者になるわけでも

ありませんし、

超人になるわけでも

ありませんし、

稀有の存在になるわけでも

ありません。

 

何があっても

オールOK。

しかしその「オールOK」とは

解釈による「オールOK」ではなく

本当にただそこに在るだけの

「オールOK」です。

 

そうなれた時、

私達は

今ここに在るすべてのものを

リアルに

ダイレクトに

実感できます。

 

それはある意味

実に感動的です。

かといって

気持ちが高ぶる感動ではなく、

トツトツとした

魂が静かになるような

安心感と安堵感に満たされた

感動です。

 

その時の実感をあえて

心の声として表現すると、

「あぁなんだ。

すべてが普通ではないか」

・・・というような感じに

なります。

 

すべての存在に対してそれが

「存在していることを承認」

しています。

 

すると自分自身から

とてつもないエネルギーが

発生します。

 

それは、すべてを存在承認しながら

その「分離」を楽しんでいるが故に

発生するエネルギーです。

 

そのエネルギーは

分離して存在している

あらゆるものを

大切にしよう、

それらと

一つになろう、

というエネルギーです。

 

それを私達の言葉で

『愛』

と言います。

 

この「愛」を発する状態で

すべての物事と向き合い、

関われば、

あらゆる物事が

調和していきます。

 

物事がすぐに

頓挫する人生を送る人と、

物事がどんどん

調和する人生を送る人の

違いが

この「愛」の発生量です。

 

私達がもともと持っている

このエネルギーを

使いながら生きるかどうか?

なのです。

 

・・・

だいぶ今回は

本質をそのまま躊躇なく

表現する文章に

なってしまいました。

 

できましたら、

今回の文章は

頭で解釈するよりも

魂でそのまま

感じ取っていただけると

よいかな、

と思っています。

 

次回からは、

自分の心の「観察」の仕方、

自分の心を「観る」コツ

などを

お伝えいたします。

 

つづく

 

人としての生き方を取り戻す最初のステップとは

「直観力」を増すには、

「普通の生き方」を取り戻すことが

大事です。

・・・ということを前回記事で

書かせていただきました。

(→前回記事)

 

人間としての

普通の生き方・・・。

 

これも前回書きましたが、

まずそのためには、

私達は私達の心にもっと

意識を向けなければ

なりません。

 

私達の心とは

宇宙と同じです。

 

とてつもなく広く

とてつもなく深いです。

 

そこには

すべての真実が

存在しています。

 

すべての答えが

すでにあるのです。

 

にも関わらず、

私達は外に答えを

求めます。

 

本当の答えとは

外にはありません。

 

自分の人生の答えは

自分の中にあります。

 

ただその答えを見出す

きっかけとして

外からの刺激が

必要な時があります。

 

外に意識を向け、

内側にも意識を向ける。

 

両方を観察する。

 

それがまずは、

人としての普通の

生き方です。

 

つまり最初のテーマは

『観察』

です。

 

私達は、あまりにも

観察をしていません。

 

例えば、

机の上に

ペットボトルが置いてあった

とします。

 

それを見た私達は

「あっ、ペットボトルがあるな」

と思います。

 

それで終わりです。

 

しかしそれは

観察ではありません。

 

「ペットボトルがあるな」

という解釈をしているに

過ぎません。

 

観察とは、

そのペットボトルを

あるがままに

よく見ることです。

 

あるがままに見る。

・・・これを

『観る』

と表現することにします。

 

ペットボトルを観る

ことにより、

そのペットボトルの

細かい部分が目に入る

と思います。

 

例えば、

ラベルの模様とか、

そこに書かれている文字の形

とか。

ペットボトルに刻まれている

ギザギザの形とか。

 

もしお手元に

ペットボトルがあれば、

ぜひ一度、まじまじと

観てみてください。

 

普段、気づいていないものを

たくさん観ることが

できます。

 

それが

観察です。

 

ペットボトルの観察が

できたら、

今度は、外にあるあらゆるものを

観察してみてください。

 

観てください。

 

例えば、

いつも会社に行く道のりで

目に映る様々なもの。

 

それらをよく

観てください。

 

世界が違って

観えるはずです。

 

それができたら今度は

人を観察してみてください。

 

いつも接している

職場の人とかご家族とか

お友達とか。

 

電車の中の見知らぬ人でも

よいです。

 

いろんな人を

観てください。

 

ひょっとするとそれだけで

人生観が変わるかも

しれません。

 

実際に昔、

私がそれをしてみた時は、

私は本当に

人生観が変わったと

思いました。

 

自分がいかに

世界を観ていなかったか、

現実を観ていなかったか、

人を観ていなかったか、

ということにかなりの

ショックを受けました。

 

そのように、

外の世界を観察し続けたら、

今度はいよいよ

同じような感覚で、

自分自身を観察します。

 

まずは鏡で

自分の顔や姿を

ありありと観てみてください。

 

どんな表情、

どんな空気感でしょうか。

 

そして

自分の心を観察します。

 

「心を観察する」のと

「心の中で解釈する」のは、

根本的にまったく

異なります。

 

自分の心をまるで

他人の心のように、

あるがままに

観てみてください。

 

最初はそれがどういうことか

まったく理解できない人も

いるかもしれません。

 

でもそれでも、

観察しようとしてみて

ください。

 

どうしてもそれができない人は、

自分の心の中に浮かんでくる

自分の気持ち達を

何か紙にそのまま

書いてみてください。

 

そして紙に書かれた

自分の気持ち達を

観察します。

 

そういったことを

続けてみてください。

 

すると、

ある時に自然にわかるはずです。

 

自分の心の

あまりの広がりと

深さを。

 

心とは宇宙と同じ

であることを。

 

それを実感できるまで

続けていただくとよいですね。

 

心が宇宙と同じくらい

広くて深いものであると

実感できたら、

それだけでもう

人間を観る目が違ってくる

はずです。

 

つづく

 

私達は人間であることを見失っていないか

「直観」とはまるで、

過去の出来事を思い出す

かのような感覚で

現れます。

・・・ということを、

前回の記事で書きました。

(→前回記事)

 

なぜなら「直観」とは

高い次元の自分自身からの

メッセージでもあるからです。

 

今、どうすれば良いか?

次の一歩は何が最善か?

 

その答えはもう

私達自身がよくわかっているのです。

正確には、

高い次元の私達自身が

知っているのです。

 

それを思い出すような感覚で

浮かび上がらせながら進むのが、

直観で生きる、ということで、

それは何も特別なことでは

ありません。

 

それが私は

「人が普通に生きている状態」

であると思います。

もしそれができていないのであれば、

今の状態が「普通ではない」

ということです。

 

そういった意味では

私達は

「普通」に戻らねばなりません。

 

「普通の生き方」

に戻すのです。

 

実は、「直観力を高める」ための

方策を一言で表現すれば

そうなるのです。

 

『普通の生き方に戻す』

もしくは、もっと端的に

『普通に生きる』

ということです。

 

では、

現在の私達は

何が「普通ではない」のでしょうか?

 

そのまず根本的な一つは、

「自分のことを

あまりにも見ていない」

「自分のことを

あまりにも知らない」

「自分の心に

あまりに目を向けていない」

「自分とあまりに

向き合っていない」

・・・ということになります。

 

日々のお仕事や生活のために

「すべきことをこなす」

ことにのみに私達は時間と意識を

使っているのではないでしょうか。

 

自分を見つめるよりも

ネットを見たり、テレビを見たり、

人の様子を伺ったり、

人の評価を気にしたり。

 

自分以外の何かに

意識を向け過ぎです。

 

いえ、外の世界に意識を向けることは

大事なのですが、

後々の記事で書きますが、

外の世界に意識を向けているように

見えて実は、それもできていない、

というのが今の私達の状態です。

 

上手く表現できませんが、

「外の世界も見ていないのに、

自分の心にも意識を向けていない」

という状態です。

 

つまりは、

「何も見ていない」

状態と言ってもよいでしょう。

 

これが、

現代人の特徴の一つだと

私は日々、実感しています。

 

私達現代人は、

「何も見ないまま」に

毎日を過ごしているのです。

 

「何も見ないまま」に

ただ、自分自身で勝手な解釈をし、

その解釈が事実であると誤解し、

その解釈に揺らされ

その解釈に脅され

ながら生きています。

 

要するにそれは

「生きている」

とは言えない状態だと

私は思います。

 

どう見ても、

「普通」ではありません。

 

かなりドギツい言い方を

していますが、

決して大袈裟ではないと

思います。

 

何も見ずに解釈のみで生きる

というのは

本当に辛いし苦しい生き方だと

思います。

 

その状態で

「直観」など出ようはずが

ありません。

 

高い次元の自分と

つながれるはずも

ありません。

 

さらにドギツく言えば、

なんか、人間ではない、ような

気さえするのです。

 

人間ではない生き方を

まるでそれが人間の生き方で

あるかのように思い込み

日々を過ごしている。

 

そんな状態。

 

ここを私達は

抜け出さねばなりません。

 

早急に。

 

残念ですが、

これまで様々な組織を

拝見してきましたが、

そのほとんどの組織が

そういった状態でした。

 

そこを「普通」の状態に

戻すのが

私の役割であると

いつも認識していました。

 

私の中では、

「すごい組織を創ろう」

というのとは違い、

「普通の組織になろう」

という感覚です、いつも。

 

普通の人間として、

普通に生きて、

普通にみんなでチームを創り、

普通に共に幸せになっていく。

 

そんな当たり前のことが

できるようになればよいなと

思います。

 

そんな組織が増えることで、

社会全体が

「普通」に戻っていくのではないかと

私は思っています。

 

では、

「普通の生き方」に戻すには

どうすればいいか?

 

次回はそこから

始めます。

 

つづく

 

直観と直感の感覚には、大きな違いがあります

前回記事から

「直観」と「直感」の違いについて

書かせていただいています。

(→前回記事)

 

直観力の高め方について

これから書かせていただく予定ですが、

その前にもう一つ重要なことを

お伝えしたいと思います。

 

それは、

「直観の感覚」

についてです。

つまりは、

「直観と直感の感覚の違い」

についてです。

 

直観と言うと、

ひらめき、とか、気づき、の

イメージがありますので、

ハッとして、

「あっそうか! こうすればいいんだ!」

と、まるで目が覚めるような

ことが起こるのだろう、

と思われるかもしれません。

 

もちろん、ある意味においては

そうなのですが、

実は、

ハッと気づくような感じ、

というのは、それほどのパワーは

持っていません。

 

その瞬間のパワーは強く、

その瞬間は本当にそれが

正解であるかのような気持ちになるし、

目の前が開ける感じもするのですが、

しかしそれがずっと

長続きするとは限らないのです。

 

例えば、一日経てば

やっぱりそれほどの発想ではないなぁ、

となったりもします。

 

そういった

ハッとした感覚というのは、

どちらかと言えば、

「直感」の方に近いです。

 

では、

「直観」の感覚とは

どのようなものでしょうか。

 

それを一言で表現すれば、

 

『思い出す感覚』

 

に非常に似ています。

 

「あぁそうだった。

こうするんだった」

と、

これからの未来のことだと言うのに、

まるで過去を思い出すかのような

感覚なのです。

 

なぜなら「直観」とは、

高い次元の自分の意識からの

メッセージだからです。

 

高い次元においては、

過去も今も未来も

「一つ」です。

分離していません。

 

その次元からの発想なので、

喩えて言えば、

「もうそれを成した後の未来の自分が

これまでやってきた自分の道のりを

思い出している」

ような感覚として

私達の心に浮かび上がってくるのです。

 

ですから、

そこにはそれほどの

感動はありません。

 

答えを見つけた感動というよりも、

あぁそう言えばそうだったな、

という安堵感のようなもの。

忘れていたことを

思い出したような

ちょっとほのぼのとした感覚、

それが起こります。

 

ですから実に

淡々としています。

 

さらに喩えて言えば、

学校のテストをして、

テストの後で、

答え合わせをしているような感覚

とも言えます。

 

あっそうだった。

この問題の答えはこうだった。

なんでこんなことを

思い出せなかったのかな。

こんな簡単なことだったのに。

 

・・・みたいな感じです。

 

それが直観の感覚。

 

真本音度合いが高まり、

高い次元の意識が活性化すると、

こういった発想が、

毎日のように、・・・というよりも

いついかなる時にも

今この瞬間に

起こり続けます。

 

それが当たり前の状態であり、

普通の状態なのです。

 

しかもこういった直観が

最も多く働きやすいのが、

人と向き合っている瞬間

なのです。

 

本当の意味で人と向き合い、

語り合っているその瞬間に

私達は様々なことを

「思い出す」のです。

 

あぁ、こうすればよかったんだ、

と。

 

そういった意味で、

コミュニケーションというのは

私達人間が持つ

大いなる力の最も代表的な一つ

であり、

組織やチームというものが

私達人間にとってなくてはならないもの

である最大の理由の一つです。

 

人は人と向き合うことで

直観が働き、

未来に向けての最善の道を見出す

答え合わせのようなことが

できるのです。

 

ですから、

直観力を高める方法は

大きく分けて二つになります。

 

一つは、

一人で直観力を高める方法。

 

もう一つは、

人と向き合いながら

直観力を高める方法です。

 

これからは

この二つの視点から

お話しをします。

 

二つを同時に行ない続けることで、

効果は何倍にもなります。

 

直観力を高め合うチームになる。

・・・これが私が組織をサポート

させていただく理由の

一つでもあるのです。

 

つづく

 

直観と言っても、二つあるんです

「自分の直観を

どうしても信じられないのです。」

 

・・・そんな方と出会いました。

 

実は、結構そういった方は

いらっしゃいます。

 

その多くの場合は、

「直観」と「直感」の区別が

ついていないのです。

 

「直感」とは

広い意味でのひらめき。

単なる思いつき程度のものも含めた

広い意味での気づきです。

 

もちろん、こういったものも

必要です。

 

しかし直感の多くは、

反応本音レベルのものや、

低い次元の意識から発生するものも

あります。

その場合は、

それほどの力強さはありません。

 

ですので、

ひらめいたのだけれども、

あくまでただ、ひらめいただけで、

自分の行動を変えるほどの

パワーを持っているわけでは

ありません。

 

それに対して、

「直観」とは

真本音から発生するものであり、

高い次元の自分の意識からの

メッセージです。

 

多くの場合、

そこには強いパワーが内包

されており、

直観を得ることで、私達は

動きたくてしょうがなくなります。

 

根拠のない自信、

という言葉がありますが、

どうしてそう思うのか?という理由を

本人もよくわからないのに、

でもどうしてもそれをしたい!

それをすれば必ず道が開く!

という強い気持ちが湧き上がります。

 

私のクライアントさんで、

ある商品を開発し、大ヒットを生み、

日本全国で一つのブームを起こした人が

います。

 

その人がその新商品を

社内に提案した時、

社内ではその人以外全員が

反対したそうです。

 

でもその人は、

絶対これを世の中に出す!

という根拠のない自信が湧き、

その自分の直観を信じて、

強引にその商品のプロジェクトを

推進したそうです。

 

マーケティングリサーチなどをしたり、

理論的にその商品が売れる根拠を

社内に示したりしたそうですが、

「実はそれはすべて、

まずは私の直観ありき。

それに合わせた理論づけでした」

と、その人は舌を出してニッコリ。

 

で、いざ商品を世に出し、

宣伝を始めた途端に

爆発的に売れ、

その人自身の当初の予定の

何倍もの利益を出すことが

できたそうです。

 

その後、その会社は

いくつものヒット商品を生み出すことに

なるのですが、

理論的に答えを導き出そう

というよりも、

まずは人間としての直観に

素直になろう、

という社内文化がそうさせたのだと

その人は言います。

 

そういった意味で、

「直観」とは、「確信」と

言い換えることもできます。

 

よくよく考えますと、

高い次元の意識というのは、

すべては一つ、

というところからの意識です。

すべてがつながっています。

 

その意識からの直観であれば、

皆が喜ぶのは当然です。

 

ただし、

「皆が喜ぶ」と言っても、

低い次元の皆の意識が喜ぶ

というものもあれば、

高い次元の皆の意識が喜ぶ

というものもあります。

 

世の中には

両方のヒット商品がありますが、

今後は

高い次元の皆の意識が喜ぶ

商品やサービスが

求められていく度合いが

高まるでしょう。

 

つまり、

低い次元の皆の意識調査をすることで

生み出される商品・サービスよりも

高い次元の皆の意識を

高い次元の自分の意識として

直観的に感じ取ることで

生み出される商品・サービスが

世の中に浸透していく時代に

なっていくでしょう。

 

そういった「直観力」が

これからはますます求められます。

 

では、「直観力」を高めるには

どうすればよいでしょうか?

 

次回からはそんなテーマで

記事を書かせていただきます。

 

つづく

 

答えがわからない、のには意味がある

迷いを「問い」の形にする重要性を

前々回の記事でお伝えしました。

(→【迷いと向き合い、人生を進める方法】)

 

しかし、

「問い」はわかったけど、

「答え」がどうしてもわからない、

という人がいらっしゃるかもしれません。

 

ですので、このお話、

もう少し続けます。

 

まずは、

「問い」がわかったら

ご安心ください。

 

「答え」は必ず

わかります。

 

ただし、いつわかるか?は

わかりません。

 

最善のタイミングで

わかります。

 

最善のタイミングでわかるためには、

その「問い」をいつも

自分自身に投げ続けることが

大切です。

 

「答え」が浮かばなくても

自分に投げ続けるのです。

 

これを

「自問自答」と

言います。

 

「問い」を自分に投げれば、

グルグルとその「問い」について

考え続けてしまうことに

なると思います。

 

そうなった場合はもちろん、

徹底的に考えるとよいでしょう。

 

しかしその一方で、

次のような問いも

自分自身に投げてみてください。

 

「この問いの答えは、

今、見つかるだろうか?」

 

これに対して、

「今は見つからないな」

と自然に思ったら、

今は見つかりません。

その場合は、

「答え」についてグルグル考えることを

やめるとよいです。

 

あきらめるのです。

今は、見つからないと。

 

そして、

次の問いを自分に投げて

みてください。

 

「答えが見つかるために、

私が何かすべきことは

あるだろうか?」

 

「ない」

と明確に思えたら、

あとは「答え」が出るのを

待つだけです。

 

「あるのではないか」と

思ったら、

「答えを見つけるために

自分は何をしようか?」

ということを

考えてみてください。

 

そういった場合の多くは、

何か自分に「インプット」が

必要なのです。

 

何らかの情報を得るとか、

人に会って何かのアドバイスや

刺激を得るとか、

もしくは、何かの経験をするとか。

 

「答え」を呼び起こす

何らかのきっかけが

必要です。

 

そのきっかけを

自分自身に与えるのです。

 

「答えを見つけるために

自分は何をしようか?」

 

この問いを自分に

投げ続けます。

 

そして、ふと

「これをしよう」と

思えることがあれば、

それを素直に実行します。

 

するとそれがきっかけとなり

「答え」に結びつく可能性が

あります。

 

とにかく言えるのは、

私達の真本音は

「答えの見つかるタイミング」

をとても大切にしている

ということです。

 

その「タイミング」とは、

「こういった情報を得た後で、

答えを明確にしよう」

とか、

「こういった経験を積むことで

答えを明確にしよう」

などの、

真本音の意図に基づいています。

 

私達の真本音とは、

私達自身の「進化」をとても

重要視していますので、

「答え」を見つけるという結果だけでなく、

そのプロセスも大切にするのです。

 

「答え」を見つけるプロセスにおいて

自分は何を得るのか?

を大切にしているのです。

 

そういった

自分自身の真本音の意図に

素直に従うことが、

結果としては

最速で進むことにつながります。

 

もちろん、

「問い」がわかった瞬間に

「答え」がわかることもあります。

 

それらもすべて

真本音の意図です。

 

真本音の意図に委ねることで、

私達は自分自身の

意識の次元を高めていくことが

できるのです。

 

つづく

 

本当にほしいものは手に入る、のは本当です

「自分には力がないなぁ・・・。」

 

「もっとこういう力がほしいなぁ・・・。」

 

そんな気持ちが

心の底から芽生えたとしたら、

喜んでください。

 

なぜならその力は

必ず手に入るからです。

 

心の底から、・・・というよりも

魂から

「ほしい!」

と思えるものは、

必ず手に入るように

できているのです。

 

「ほしい!」という欲求は、

「これから私はそれを手に入れるよ」

という、

自分自身からのメッセージです。

 

覚悟の証です。

 

ただしその「ほしい!」は、

中途半端では

ダメです。

 

淀みのない「ほしい!」

であることが重要です。

つまりは、

真本音で思う「ほしい!」

ということですね。

 

真本音で「ほしい!」と

思っていることに気づいたら、

顕在意識の私達は、

「それを手に入れよう」

と決めましょう。

 

できるかどうか?

ではありません。

 

そんなのできっこない、

と思ったとしても、

決めてしまうのです。

 

結果が出るかどうか

わからない。

それを手に入れるための

行動ができるかどうかさえも

わからない。

まったく

自信がない。

 

・・・それでもよいのです。

 

ただただ、

「それを手に入れよう」と

決めればよいのです。

 

決める、

だけです。

 

もしその「決める」ことすら

できないのであれば、

「私はそれを手に入れる」

という言葉を

心の中で口ずさんでください。

1万回くらい。

 

いえ、

10万回口ずさんでも

よいです。

 

とにかく、

一日中、心の中で

口ずさんでください。

 

ある時、

あぁ決めれたな、

と思える瞬間が来ます。

 

真本音で「ほしい!」と

思っていることを、

顕在意識が

「手に入れよう」と

決めることで、

私達の中では

『一貫性』

が生まれます。

 

魂と心が

一本の方向性で完全に

結ばれた状態です。

 

それが起こると、

自然に私達の行動が

変わります。

 

意図せずとも、

その「ほしい!」ものを

「手に入れる」ための

今この瞬間の判断を

自然にするようになるのです。

 

それは、

ひらめきや直観として

認識されます。

 

「あっ、今こうしよう」

と淡々と思えるのです。

 

そうしたら

その通りに行動します。

 

一つ一つの行動は、

そんなに奇抜なことでは

ありません。

 

「今こうしよう」と

自然に思えることを

ただ淡々と、

一つずつ

積み上げていくだけです。

 

その継続により、

その「ほしい!」ものは

必ず「手に入る」のです。

 

継続が大事だ、

というのは本当です。

 

継続することで

大抵のものは

手に入ります。

 

ただしその継続の前には、

魂と心の一貫性が

大事であり、

そのためには

本気の「ほしい!」、つまりは

真本音の「ほしい!」

であることが大事なのです。

 

こんな力がほしいけど、

今の自分にはない。

悔しい。

本当に悔しい。・・・

 

もし本気でそう思えるのであれば、

喜んでください。

それはもう、

手に入ったも同然なのです。

 

つづく

 

迷いと向き合い、人生を進める方法

人生に迷っている人が

増えています。

そして、

「迷い」には2種類あります。

 

・低い次元の意識による迷い

・高い次元の意識による迷い

です。

 

・・・ということを前回の記事で

書かせていただきました。

(→前回記事)

 

では、この二つの迷いを区別する

にはどうすればよいでしょうか?

 

まず大事なのは、

「迷い」を「問い」の形として

明確にすることです。

 

例えば、

「私は今、転職すべきだろうか?」

というような、

問いの形にするのです。

 

迷いとは、

答えがわからずに悶々と

することです。

どんな「?」に対して、

自分は悶々としているのかを

明確にするわけです。

 

「問い」が明確になれば、

次に、

その「問い」の「手前の問い」を

見つけます。

 

「手前の問い」とは、

その問いの答えがわかることで、

最初の問いの答えも

自動的にわかる問い

のことです。

 

上記の例で言えば、

「私は今、転職すべきだろうか?」

という問いがわかれば、

その「手前の問い」としては、

例えば、

「私は本当は、どんな仕事を

したいのだろうか?」

とか、

例えば、

「私は今の職場で、

すべきことはすべて

やり尽くしただろうか?」

などが考えられます。

 

もちろんこれは

本当に「例えば」です。

人によって

全然違う問いが

出てくるでしょう。

 

しかも「手前の問い」は

ほとんどの場合、

たった一つです。

最もピンとくる問いを

見つけることです。

 

さて。

 

「手前の問い」を特定できたら、

人によっては

「手前の問い」のさらに手前に

問いがあるかもしれません。

 

そして、

さらにさらにその手前にも・・・。

 

つまりこのように

迷いの「問い」を明確にし、

その「手前の問い」を明確にし、

必要があれば

さらにその「手前の問い」を

明確にし、

さらにさらにその「手前の問い」を

明確にし、

・・・と、

自分が納得できるまで

それを続けます。

 

この「問い探し」をした時に、

この「問い探し」自体に

自分が真剣になれるかどうか?

です。

 

早く「問い」を見つけたい。

早く「その答え」を

明確にしたい。

 

そんな想いが湧き上がり、

「問い探し」に真剣になれるので

あれば、

その人の悩みとは

「高い次元の意識による悩み」

です。

 

どうしても「問い探し」に

真剣になれない。

それをしようとすると

無気力感や虚脱感や倦怠感が

発生する、

という場合は残念ながら、

それは「低い次元の意識による悩み」

です。

つまりは、

自己満足の悩みであり、

現実逃避するための悩みであり、

悩む必要のない悩み

です。

 

そういった場合は、

悩んで止まっていることよりも、

今目の前にある現実に

立ち向かっていくことこそが

大事です。

 

「自分が今、

立ち向かうべき現実とは

何だろう?」

という問いを自分自身に

投げかける必要があります。

 

以上のように、

自分の中に発生している

「問い」

を、明確にするのは

セルフコーチングの基本です。

 

私はいつもそこに

敏感になっています。

 

「あっ、今、自分の中に

問いが発生したな」

とわかった瞬間に私はすぐに

自分の心と向き合い、

「問い」を明確にします。

 

そして「手前の問い」が

ある場合も、

すぐにすべてを明確にします。

 

これを日々続ければ、

人生の展開がすごぶる

速くなりますし、

快適になります。

 

自分の人生と向き合うとは、

自分の中の「問い」と

向き合う、

ということなのかもしれません。

 

つづく

 

それは本当の迷い? 自己満足の迷い?

人生に迷っている人が

増えています。

 

しかしそれは

健全なことです。

 

これまではどちらかと言えば、

本当はみんな迷っているのに、

迷っていることに気づいていない

状態でした。

 

しかし今は、

自分が本当は凄く迷っていることを

多くの人が自覚し始めています。

 

健全になってきたのです。

 

迷う、ということは

良いことです。

 

なぜなら、

答えがもうすぐ見つかる

からです。

 

迷いの感覚とは、

答えが見つかった証です。

 

答えが見つからない内は

私達には迷いの感覚は

訪れません。

 

つまり、

・答えがわかった。

・それを顕在化したい。

・だから迷いの感覚を発生させる。

・・・ということを私達はしています。

 

ですから、

迷ったら必ず

その「迷い」としっかりと

向き合うことです。

 

決して「迷い」から

逃げてはいけません。

 

「迷い」とは

人生を大きく進めるチャンス

なのです。

 

ただし・・・。

 

「迷い」には2種類あります。

 

①低い次元の意識による迷い

②高い次元の意識による迷い

です。

 

①の場合は残念ながら、

本当の「迷い」ではありません。

 

本当には迷っていないにも関わらず、

迷っていると思い込んでいる状態です。

 

なぜわざわざそんなことを

するかと言えば、

それは現実逃避をするためです。

 

本当は、前に進めるにも関わらず、

前に進みたくないために、

わざと「迷う」という状態を

無意識的に創ってしまうのです。

 

もしくは、

向き合いたくない「現実」から

目をそらすために、

わざと関係ないことで「迷う」という状態を

創ってしまいます。

 

そういった場合の多くは、

答えは見つかりません。

なぜなら、

答えはないからです。

つまり、

迷わなくてよいところで

迷っているのです。

 

私はこれを

「逃避のための迷い」

とか

「自己満足の迷い」

と呼んでいます。

 

それに対して②の「迷い」は、

本当の迷いであり、

しっかりと向き合うことで

人生を進めることのできる

大切な迷いです。

 

まずはこの二つの迷いの

区別をつけることが

大事です。

 

そのためにもまずは、

自分の中にある「迷い」を

しっかりと見つめることです。

 

では、

どうすればこの二つの迷いの

区別をつけることができるでしょうか?

 

それについては

少し長くなりますので

明日の記事で書かせていただきますね。

 

つづく

 

我欲とは、人にとってなくてはならないもの

ここのところ

「意図を手放す」

というテーマで記事を書かせて

いただいています。

(→前回記事)

 

これは、

「次元を上げる」という意味では

非常に重要な部分ですので、

さらに詳しく見ていきましょう。

 

まず、

「意図」

とは何でしょうか?

 

ここではちょっと乱暴な

書き方を、

あえてしますね。

 

「意図」とは

我欲です。

 

我欲とは、

「すべてが分離している」

という前提において、

自分だけが良ければよい、

という意識の塊から

発せられるものです。

 

我欲と言うと、

それは良くないもの、

という印象があるかもしれませんが、

我欲はもちろん

すべての人にあり、

我欲があるからこそ

人間であるとも言えます。

 

「私にはもう我欲はありません」

と言う人がたまにいますが、

嘘です。笑

乱暴な言い方ですが、

自らの我欲を見つめていない

だけのことです。

 

我欲があるのが、

人としての尊厳である、

と私は思います。

 

人の素晴らしさとは、

高い次元から低い次元まで

すべての次元の意識を

包含しているところです。

 

それこそが

人であることの意味と

価値です。

 

「私には我欲がありません」

とか

「我欲を捨てなければなりません」

というのは、

人としての価値と意義を

自ら放棄していることになります。

 

とは言え、

我欲のみを尊重し、

我欲のみに巻かれて動けば、

ほぼ必ず

不調和が起きます。

 

争いや諍いが

起きます。

 

我欲とは、

人として

あるべきもの。

 

しかしその我欲は

我欲単体であるべきもの

ではなく、

高い次元の意識によって

活かされるもの

なのです。

 

高い次元の意識は

愛のエネルギーが

高いです。

(愛とは、については

またいずれ触れることに

なります。

今はあえて飛ばします。)

 

高い次元の意識が

我欲を活かすということは、

我欲が

愛のエネルギーで満たされる

ことになります。

 

愛のエネルギーで

満たされた我欲は、

「その人がこの世で発揮すべき個性」

となります。

 

別の表現を使えば、

「その人のミッション(使命)」

への道しるべとなるのです。

 

「意図」とは

我欲です。

 

ただしその我欲は

ここまでご説明したように、

高い次元の意識とつながっている場合と

つながっていない場合が

あるのです。

 

つまり、「意図」にも

ざっくり言うと、

2種類あるのです。

 

①単なる我欲のみによる意図

②高い次元とつながった我欲による意図

の2種類です。

 

私が

「意図を手放す」

と言っている「意図」とは

①の方です。

 

①の意図を手放すことで、

②の意図が発動するからです。

 

②の意図が発動すれば、

すべてが調和します。

 

争いも諍いも

非常に起こりづらくなります。

 

スムーズに道が

開きます。

 

・・・ということなんですね。

 

そして前回の記事で

申しました通り、

①の意図を手放すためには、

しっかりと思考レベルで

①の意図について考え尽くすことです。

 

①の意図を持ってはならない、

とか、

①の意図は、私にはもうない、

と言っている内は、

自分の知らないところで

①の意図に自ら

取り込まれてしまうのです。

 

自分と

向き合いましょう。

 

自分の心の中にある

あらゆる意識と

向き合いましょう。

 

高い次元から

低い次元まで、

たくさんの意識があるのが

私達人間です。

 

そこが

人の素晴らしさであり、

だからこそ我々は

進化できるのですから。

 

つづく

 

意図から自由になるために、とことん意図する

自分自身の思考レベルでの

思惑や意図に捕らわれ、

それを達成するために

必死になって策謀を重ね、

焦りながらも結果を出そうとする。

 

・・・そんな疲れる人生から

私達は自分を解放することが

できるのです。

 

前回の記事で

私は上記のように書かせて

いただきました。

(→前回記事)

 

今回は、この件について、

もう少ししっかりと

書かせていただきますね。

 

「意図を持たずに生きる」

という言い方をしますと

誤解をされることが多いです。

 

そっか、意図を持たなくていいんだ。

何も考えずに行けばいいんだ。

・・・という誤解です。

 

逆です。

 

自分の意図に執着せずに、

自分の意図から自由になるためには、

とことんまで

意図を考えることが重要なのです。

 

意図から自由になるためには

意図をしっかり考える。

 

一見、矛盾しているようですが、

そうではありません。

 

例えば、

肩に力が入っている場合、

肩の力を抜く最も簡単な方法は、

「肩の力を抜こう」

とすることではなく、

「思いっきり肩の力を入れてしまう」

というやり方です。

 

とことんまで

肩の力を入れると、

フッと、力が抜けます。

 

その要領と

同じことなのです。

 

例えば、明日

大事な営業があるとします。

 

どうしても受注を

しなければならない。

 

果たして良いクロージングが

できるだろうか?

 

不安に苛まれていると

します。

 

そんな時に、

「不安になるな、不安になるな」

「気楽に行け、気楽に行け」

と、どれだけ自分に言い聞かせても、

余計にガチガチになる

だけでしょう。

 

そんな時は、

とことんまでクロージングの

イメージをするのです。

 

思いっきり自分の意図を

明確にし、

意図に基づいて、

「こうしたい」「こうなりたい」

「こんな展開になれたらいい」

という自分の思惑を

しっかりとイメージ化するのです。

 

イメージしてイメージして

イメージし尽くせば、

ある瞬間に、

フッと楽になります。

 

まぁこれだけイメージしたのだから

何とかなるだろう、

と自分の中で「完了感」が

生まれるのです。

 

そして次の日に、

実際にお客様にお会いする直前にも

前日のイメージをしっかりと

思い出します。

 

まぁこれだけイメージしたのだから、

やるだけのことはやったな。

 

そんな気持ちを持ちながら

お客様の前に出ます。

 

そして「今ここ」に意識を向ければ、

自分がイメージしてイメージして

明確にし尽くした「意図」が

どうでもよくなります。

 

意図やイメージを

ポンっと手放すことが

できるようになるのです。

 

するとどうなるか?

 

「今ここ」に

完全に集中することが

できます。

 

そして、

次にどんな一言をお客様に

投げれば良いか?など、

直観がどんどん働くように

なります。

 

その直観こそが、

真本音の意思です。

 

その真本音の意思に

委ねれば良いのです。

 

直観のままに

直観に素直に

行動をするのです。

 

それが

「自分に委ねている」

状態です。

 

私達人間には

考える力があります。

 

考えることを放棄するのは

単なる怠慢です。

 

怠慢な人には残念ながら

直観は生まれません。

 

考え尽くすからこそ

直観は生まれます。

 

思考とは

直観の呼び水なのです。

 

ただし、

上記のように、

よく考え、よく意図を持ち、

その上で意図を手放し、

直観に委ねる、

ということを続けていますと、

考えたりイメージをするのに要する時間は

どんどん少なくなります。

 

考えなくても

直観のみが、

次々に湧き起こる状態に

なっていきます。

 

そうなると本当に

楽ですね。

 

しかしその境地まで行くには、

よく考える、

ということが必須なのです。

 

つづく

 

自分の意図に疲れてしまう人生にサヨナラしよう

前回、「自分に委ねる」ということについて

書かせていただきました。

(→前回記事)

 

今回も、もう少しこの件について。

 

「自分に委ねる」ことのできる人は

ある時には突拍子もない行動に

出たりします。

 

ただしその「突拍子のなさ」は、

本人がそう思う、

というだけのことであり、

周りがどう見るか、ということでは

ありません。

 

つまりは、

これまでの本人の思考と行動パターンを

大幅に逸脱するからこそ

「突拍子もない」と本人が感じる

ということですね。

 

そういった意味での

突拍子のない行動を取る時、

本人の顕在意識は

ドギマギしています。

 

それはそうです。

 

これまでにないパターンの

動きを取るわけですから。

 

しかしそのドキマギを

横に置いて、

何の躊躇もなくその行動を

取ることで、

私達は自然に

「肚が据わる」

という状態に入ります。

 

「開き直る」

と言ってもよいかもしれません。

 

この状態は、

真本音が選択している行動

でなければ生じません。

反応本音レベルの

突拍子のない行動では、

開き直るどころか、

心も体も浮ついてしまいます。

 

顕在意識では

「おいおい、大丈夫かぁ」

となっていても、

周りから見れば、

実に落ち着き、確信に満ちた

表情や空気感を

醸し出す状態が、

開き直っている状態です。

 

この状態に入れば、

道は必ず開かれます。

しかも、

なんでこんなに簡単に開くの?

というくらいに

スムーズにすべての事が

運びます。

 

実在レベルでは

凄いエネルギーが発生し、

それがモロに

すべての人に波及し

強い影響を与えているのです。

 

こちらが、一つ動けば、

10の成果が上がる。

・・・というくらいの印象を

本人は覚えるでしょう。

 

そして一度これを体験すると、

これが

「当たり前」

となります。

 

突拍子もないと思っていた

自分の行動が、

「普通の行動」となります。

 

ますますその人は

肚が据わります。

 

こうして人は、

自分の幅を広げていきます。

 

これが

自由になる

ということです。

 

さて。

 

突拍子もない行動に

慣れてきますと、

基本的に、突拍子もない行動

自体が本人の中からは

なくなってしまいます。

 

すべてを淡々と

決めた通りに行動するだけ

の自分。

 

しかも自分で何かを意図するのでなく、

ただ、自分に委ねているだけ

という感覚です。

 

すると今度は、

余分な行動が激減します。

 

いえ、正確に言えば、

これまでは本人にとっては

それらはすべて

必要な行動である、と

思い込んでいたのですが、

何となく、

どうでもよくなってしまうのです。

 

結果、

どうでもいいと思うことは

すべて行動しなくなります。

 

すると、

じっとしている時間が

増えます。

 

何もしない時間が

増えるのです。

 

そして、

本当に必要だと思う行動のみ

何の迷いもなく、

何の淀みもなく

実行に移します。

 

しかもそこに

思考レベルの思惑や意図はなく、

ただ、

そう思う自分に委ねるだけ

という感覚。

 

しかしそれをすれば、

その一石だけで、

波紋は大きく深く広がり、

物事が想定以上のスピードで

展開していく。

 

そうなるともう、

生産性は

大袈裟ではなく

10倍以上になるのでは

ないでしょうか。

 

自分自身の思考レベルでの

思惑や意図に捕らわれ、

それを達成するために

必死になって策謀を重ね、

焦りながらも結果を出そうとする。

 

・・・そんな疲れる人生から

私達は自分を解放することが

できるのです。

 

束縛からの解放

というのは、

「結果を出さなくてもいい」

とか

「責任を負わなくてもいい」

ということではなく、

むしろ、真逆です。

 

束縛から解放されて

本当の意味で自分に委ねることの

できる人は、

「出すべき結果をきちんと出し」

「負うべき責任をきちんと果たす」

ことが自然に

できるようになるのです。

 

現実が思うようにいかないので

あれば、

意図を持ち過ぎです。

 

意図に

執着し過ぎです。

 

執着では

結果は出ません。

 

これからの世の中の潮流においては

ますますその傾向が

高まります。

 

自分の真本音の想いに

素直に、

その時その瞬間に現れる

真本音の意志に

そのまま身を委ねる。

 

そんな生き方(行き方)を

一歩ずつでも

実行してみてください。

 

つづく