2023年 2月 の投稿一覧

メッセージを受け取り

さて、
そこに、
その足元に

花が咲いて
いるだろう。

その花が
多くなってくると、

もう
節目だ。

今のステージの
最後のメッセージを
花々は
あなたに
告げているだろう。

それをまずは、
言葉として
ではなく、

感覚として
そのまま
受け取ろう。

花々から
ダイレクトに
伝わってくる
感覚
だ。

それのみを
ただ
あるがままに
感じ、
味わおう。

ひょっとすると
それは
幸せな感覚とは
別物かも
しれない。

ちょっとした
痛みを伴う
かもしれない。

それでも
いい。

大切な
メッセージだ。

感覚を
そのままに。

大事に大事に
受け取り、
自分の体に
沁み込ませ、

その上で
その感覚を
言語化しよう。

言葉として
表してみよう。

それは大切な
指針と
なるだろう。

そのメッセージを
胸の中心に
しっかり抱きながら、

さぁもうすぐ
節目だ。

つづく

本当の正月だ

ここにきて
やはり、
節目だな

と思う。

今、2023年が
始まってもう
丸2ヶ月経つ
わけだが、

どうも
本当の
2022年から2023年
への
節目は、

2月28日と3月1日
の間にある。

つまりは、
本質的な正月、

という表現で
良いのかな?

本質的な正月は
3月1日ということだ。

毎年、という
わけではなく、
今年は。

ここに大きな
節目があるという
ことは、

3月1日から
一気に次のステージに
進む人は
多いだろう。

まるで
生まれ変わる
くらいに。

これまでとは
別人の自分として
人生を
進み始める。

内面的にも
外面的にも。

たとえ
外面的(現実的)に
何の変化が
なかったとしても、

内面的に
ガラッと変わるんだ、
というくらいの
心構えと準備は
しておいた方がいい。

さぁ、
2月28日までに、
何を
完了させておかねば
ならない?

つづく

心が痛い?

心がモヤモヤ
していると、

目の前の現実を
あるがままに観る
ということが
できなくなる。

すると
落ち着いた対応が
できなくなる。

現実さえ
しっかりと見つめる
ことができれば、

それだけでも
私達の
対応力は増す。

現実さえ
しっかり向き合う
ことができれば、

それだけで
私達の
次元が高まる。

だから
心のモヤモヤは
できるだけ
取り除いた方がいい。

取り除くためには、
常日頃から、
ちょっとしたモヤモヤでも
しっかり見つめる
癖をつけておくことだ。

モヤモヤを
放置しない。

放置すれば、
時間が経つに連れて
それは増殖する。

モヤモヤは
出たら
すぐに!
対応する。

これは
お部屋が
散らかったら
すぐに
片付けるのと
同じことだ。

そういった習慣を
続ければ、
大掃除など
必要なくなる。

モヤモヤが
出たら
見つめる。

見つめるだけでも
良いのだ。

見つめれば
心が痛くなる
かもしれない。

でも、心とは
痛くなるものだ。

体が怪我すれば
痛くなるのと
これも同じ。

痛いと感じる
ことこそ
健康の証。

痛いことを
避けるのではなく、

痛みを感じなく
なるくらいに
麻痺させてしまうことこそ
避けるべき。

心がちゃんと
痛いうちに
ちゃんと
対応しよう。

つづく

断絶がきた

これまで来た道
と、

ここから進む道。

この二つが
まったくもって
ここで

断絶する

ということが
あっても良いでは
ないか。

むしろこの
断絶こそ、

これまでの
成果ではないか。

この断絶を
生み出すために
こそ

これまでの人生
あったのでは
ないか。

断絶を
恐れるな。

これは
自らが
生み出したもの。

自らが
願い続けたもの。

これまでの
精進の
一つのカタチだ。

断絶を
恐れるな。

断絶を超え、
ここから
まったく新たな道を

生まれたばかりの
気持ちを
もって。

つづく

確信=現実へと

心の奥の方にある
確信と、

目の前の現実に
起きている出来事と、

その繋がりは
どうかな?

確信通りに
現実は動いているかな?

もちろんそれは
予測通りに現実が
動いているかどうか?
とは
根本的に異なることだ。

予測と現実の
繋がり、

ではなく

確信と現実の
繋がりだ。

これを
よく観察しよう。

この繋がりが
ここのところ
急激に太くなり、
より確かなものと
なっている人は
多いのではないか。

ここまで着々と
地道に真本音で
生きてきた成果だ。

その成果は
ここからさらに
大きくなるよ。

普段の自分の
生き方、
進み方。

誠実さ。

真摯さ。

そういったものが
ようやく
現実的に発芽する
時代になったんだ。

つづく

頭、痛くないか?

頭が痛い、


感じたら、

その、
頭の部分に
ちゃんと意識を
向けてみよう。

その痛みは
何を
語りかけている?

何か
やらねばならぬ
ことがあるのでは?

やり残したことが
あるのでは?

完了感。

・・・ちゃんとそれが
湧き上がるまで、
きっちり
やり遂げるべきことを

99%くらいで

満足して
終えてしまって
いないかい?

99%では
何もやっていないのと
同じだ。

・・・くらいに
捉えた方がいいよ。

特に
今はね。

頭は本当に
痛くないかい?

やり残している
ことは
ないかい?

つづく

私の不安への対し方

自分の意志の
強さを
確認したい。

自分は本当に
強い意志を持つ
人間なのだろうか?

本当に自分の
望む方向に
人生の舵を切って
やっていけるの
だろうか?

そういった気持ちから
一歩を踏み出す
前で
躊躇してしまう人は
多い。

そういう気持ちに
なること自体が
実に人間らしい。

むしろその気持ちに
しっかり
寄り添うといいな、
と思う。

私にも
不安はある。

不安が出る度に、
もしそれが
10の不安だとしたら、

それを
100くらいの大きさに
感じ取ってしまう
くらいに、
私はその不安と
徹底的に向き合う。

その不安を
否定することは
一切しない。

しかし
受け入れるわけでも
ない。

ただ、
向かい合う。

不安は私を
飲み込もうと
するが、

もしその力が
あまりに強大な場合は、
私はいっそのこと
不安にわざと
飲み込まれる。

全身全霊
すべて、不安。

不安が私だ、
くらいに
不安と一つになる。

それは大変
苦しいことだが、
それでも
やり続ける。

心が
落ちていく。

もうすべて
ダメなんじゃないか
と絶望する。

それでも私は
決して
不安を否定しない。

こういった
生きる姿勢を
大切にし続けると、

ある時からまったく
不安に左右されなく
なった。

不安は同じように
湧くのだが、
それによって自分の行動が
変化することはない。

むしろ今は、
不安こそが私の進みを
後押ししてくれて
いるのではないか、と
思えるくらいだ。

不安は私と
敵対するものでは
ない。

不安は
仲間だ。

つづく

それは私の波紋だ

自分がいつも
どのような波紋を
広げているか、

観察をしよう。

自分の一言、
自分の振る舞い、
自分の行動、
自分の姿勢、
・・・

ほんの些細な
ことでも、
私達は必ず
波紋を広げる。

自分の波紋が
周りの誰に
どのような影響を
及ぼしているか?


よく観察しよう。

いつも丁寧に
観察を続ければ、

あぁ、人間社会
とは、
このようにお互いが
影響を及ぼし合いながら
動いているのだな、

わかる。

周りへの波紋の
広がり方を
観ることで、

自分という人間の
個性も
少しずつ理解できる。

自分という人間は
自分自身が
最もよくわかっていない。

だから
周りへのつぶさな観察
によって
知るしかない。

そういった意味での
自己理解が
進めば、

だんだんと
波紋の広げ方そのものを
コントロールできるように
なる。

それは、
現実レベルでの
道を開く大いなる力
となる。

よくお伝えする
ことではあるが、

自分の意識を
自分の内側に
籠らせておいては
ならない。

外の世界こそに
すべての指針が
ある。

意識を
オープンに。

そうすれば
自分の影響力の
大きさ、凄さも

きっと
わかるよ。

つづく

腹は据わったかな

太い中心軸が
ある。

真本音度が
高まれば、

自分の中に
中心軸がある、
というよりも

太い中心軸の
中に、
自分の全身が
入っている、

という
感覚になる。

圧倒的に
揺るがない存在
だ。

中心軸に
身を委ねるような
感じ。

すると、
自分の思考を超えた
振る舞いを
知らず知らず無意識に
とり始めるのが
私達だ。

第一、
空気感が
違ってくる。

中心軸となりきった
人の醸し出す
空気感とは、

覚悟の空気感

だ。

腹が据わった
淀みのない
空気感。

これは
心の動きとは
関係がない。

心がどれだけ
揺れ動いていても、
根底がドッシリしているので、

心の状態が
どうなっても
関係がなくなる。

つまりは
状況に揺らされない
進み方ができる。

こうなるともう、
物事の決断が
速くなる。

決めるべきことを
淡々と
スピーディーに
決めていく。

だから
人生の展開も
速くなる。

もちろん
決断は速ければ良い
ということでは
ないが、

最大速で進むべき
時に
最大速を出せる
ようになる。

これは
年齢とか経験は
まったく関係のない
次元での話だ。

本当にまったく
関係ない。

若いうちから
腹の据わった生き方が
できるといい。

人生が
ぐんぐんと進むから。

そのためのサポートを
私はしたいのだ。

つづく

無限に伸びるもの

人には誰にも
素質
がある。

素質とは、
先天的にその人が
持っている力。

先天的な才能
と言っていい。

素質とは
努力をすれば
すぐに
グングン伸びるもの。

真本音度が
高まれば、
この、素質が目を覚ます。

発芽して
開花し始める。

そうなると
人生の展開が
とても面白くなる。

なのだが、
実は
そこで満足して
しまっている人は
多い。

最近、
特に私が関わる方々に
強調しているのは、

素質は
無限に伸びる
から、

途中で満足せず、
生きている間は
ずっと、
素質を極めるための
探究を続けましょう、

・・・ということだ。

そうすれば
もっともっと
素敵なことができる。

素質を極める
ということは、
自分という人間を
極めるのと
同じだと思う。

人生を終える
その時まで、
自分自身を
探究し続けよう。

それが
人としての
根本的な幸せの
一つだから。

人は
“進化”のカタチ
だから。

つづく

本当は孤独ではない

階段が
見える。

無限に登る
ような
階段が。

しかも
逆流する
エスカレーターの
ような。

そこを必死に
登っていく。

先は見えない。

ただ、
光がある。

その光を
目指して。

・・・

私は
何者か?

なぜ
こんな生き方を
するのか?

この先に
何があるのか?

・・・

せめて
逆流のエスカレーターが
止まってくれることを
祈る。

祈りながら
登り続ける。

唯一の希望は
この先に見える
あの光だ。

まだまだ
遠いのだが。

・・・

もう
やめないか?

ここまで来れば
充分ではないか?

馬鹿らしいと
思わないか?

・・・

心の動きに
苦しくなる。

しかし
じっと耐えながら
進む。

結局、
一度も止まらずに。

・・・

このまま
人生を終えても
よいのか?

もっと楽な道を
スムーズに
進めば良いのでは?

こんなに頑張っても
ただの自己満足
ではないか?

・・・

自分が自分を
責め立てる。

年齢を
重ねるほどに。

しかしそれでも
進み続ける。

味方が
一人もいなくとも、

誰にも
理解して
もらえなくとも、

自分に絶望しか
なくなったと
しても、

きっと私は
止まらない。

ここまで来て
ようやくそう
思えるようになった。

きっと私は
もう
何があっても
止まらない。

・・・

まぁ、
わかったよ。

お前の
意志は。

ここまで来たら
もう、
好きにやれば
いいさ。

・・・

スッと
軽くなる。

ずっと後ろに
引っ張られていた
感覚が
ついになくなった。

エスカレーターも
止まった。

そしてなんと
上に向かって
動き始めた。

そうなって
ようやく私は
止まり、
少し休んだ。

休んでいても
エスカレーターが
上に
運んでくれる。

でもスピードは
まだ遅い。

少し休んだら
また進もう。

少しゆとりが
でき、
ようやく
わかってきた。

・・・

なんだ、私は
孤独では
なかったな。

こんなにも
支えられて
きたのか・・・。

つづく

毎日、空っぽ

本当の発想
とは、

空っぽに
なってからこそ
始まる。

これまで
自分が
考えに考え続けた
あらゆる発想たちを

出し尽くして。

すべて
出し尽くして、

もう頭と心の中が
空っぽだ、

全部、
なくなった、
と。

そこから
こそが
真の発想の
スタートだ。

私自身、
自分のあらゆる仕事に
おいて、
それを大切に
しているし、

コーチングによる
人のサポート時にも
それを大切に
している。

これまで生まれた
発想の範疇では、

これまでの
範疇のことしか
できないから。

空っぽになった
ということは、

同じステージの
発想はもうすでに
なく、

次のステージに
進むことでしか、
発想は生まれない
という状態。

これまでと
同じ次元では
もう何も出ず、

次の次元に
進むことでしか、
発想は生まれない
という状態。

だから空っぽ
とは、
次の扉を開ける
きっかけ
だ。

だから、
自分の発想を
小出しにする
ということを私は
好まない。

それでは
進化はないでは
ないか。

その時に
そこに在るものは、
すべて出す。

という
生き方、進み方。

毎日、
出し尽くす
という
生き方、進み方。

これを続けて
初めて、
私達は
本来の次元の
自分自身と
出会うことができる。

本来、活躍したい
ステージに
たどり着ける。

のんびり
マイペースで、
などとは
言っておれない
ここからの時代だ。

人生を
間に合わせる
ためにも、

躊躇せずに
出し切ろう。

毎日、
空っぽ。

毎日、
進化。

つづく

ここで大事な問い

問いを
一つ。

・・・

もっと
スピードを意識して
進めた方が
よいことは何?

・・・

スピードは
速めれば良い
というものではない。

その物事に
最も適した
スピードがある。

スピードが
ズレれば、
調和性も低くなる。

もっと速めるべきは
グンと速め、

もっとじっくり
行くべきものは
一歩一歩丁寧に
ゆっくりと。

そのメリハリを
これまで以上に
つけよう。

つづく

現実の歪みから自由になるには

いくら空気が
クリアであっても、

自分自身が
曇った眼鏡を
かけていれば、

世界は全て
曇って見える。

眼鏡を外さねば
ならないが、
多くの場合、本人は
自分が眼鏡をかけて
いることを
自覚していない。

・・・というよりも
そもそも
自分流の眼鏡を
かけるのが
人間だ、
とも言える。

経験を重ねる
うちに、
気がつけば
その眼鏡なしには
生きられなく
なっている。

眼鏡こそが
自分である

というくらいに
なっていることも。

では、
眼鏡から自由に
なるためには
どうすればよいか?

私が最も
オススメする方法は、

徹底的に
自分の眼鏡を
理解する

ということだ。

どうせなら
眼鏡を拒絶する
のではなく、
徹底的に探究する。

自分は
どんな時に
どんな眼鏡を
かけるのか?

そして、

それぞれの
眼鏡の特徴は?

何にどのような
色をつけて
それを見るのか?

現実を
どのように
変化させて(歪めて)
見ているのか?

そういったことを
客観的に
自分を観察しながら
探究すれば、

逆に
眼鏡の活かし方

観えてくる。

外し方も
わかってくる。

こんな時は
この眼鏡を
あえて使おう、と
自己コントロールが
できるようになる。

基本、やはり
何でもそうだ。
拒絶からは
何も生まれない。

そこにある
ものは、
そこにあるの
だから、

そこにある
ものを
徹底的に理解
探究しよう。

その方が
何十倍も
楽しいしね。

つづく

何だこの種は・・・

種のような
もの。

何が生まれるかは
わからない。

ただ、
とてつもなく
濃縮されたものを
感じる。

そんな不思議な
何かが、
心の中心に
発生した。

今はただ
それを
大切に保管している。

水をやれば
よいのか、
栄養を与えるのか、
光を与えるのか、

何も
わからない。

わからない場合は
何もしない、

決めている。

ただ
それを
そのまま
大切に
見つめている。

私達の中に
芽生えるものは
多い。

しかし
芽生える前の
ものは
さらに多い。

それを

と表現するなら、

種こそを
まずは自らが
気づいてあげると
いい。

気づいたら
大切にする。

ちゃんと
芽が出るように。

何かが
生まれるように。

私達は時折、
恐れの気持ちから
種を
自ら潰してしまったり、

潰さないまでも
埋めてしまったり
する。

昔の私は
そればかりをしていた
と、
今はわかる。

だから今は
気をつけている。

まずは、
ほんのわずかな
兆しから
種を見つけること。

見つけたら
それを
ただ、そのまま
大切にすること。

時折、
見つめたり
向かい合えば
いい。

いつか必ず、
最善のタイミングで
それは
変化を起こすだろう。

それを
楽しみに
待っていよう。

つづく

断絶に陥ったら

断絶に
陥る。

動けなく
なる。

八方塞がりに
感じる。

人生では
時々こういう目に
遇う。

その場合、
大切なのは

その断絶は
自ら
創り出したものか、

それとも
人から
与えられたものか、


区別だ。

残念ながら、
ここを
見誤っている人は
多い。

区別をつける
ために
必要なことは、

自分の願いを
思い出すこと。

その願いの
エネルギーを
自分の中で
高めようとすること。

もし
高まるので
あれば、

その断絶は
人から与えられた
ものだ。

その場合は、
願いを常に
自分の中心に置き、
意識しながら
現実に
真正面から
向かっていけばいい。

堂々と。

さて問題は、
その断絶が
自分原因の場合だ。

それは
ここまでの生き方を
何かしら
根本的に変換する
必要がある。

何が
このような断絶を
引き寄せてしまったのか?

しっかり
見つける必要がある。

が、
それがまた
難しい。

あらゆるエネルギーが
湧いてこないから。

そこでオススメ
なのは、

「普通の生活」


しようとする
ことだ。

願いとか
直観とか
そういったことは
いったん忘れて、

朝起きてから
夜寝るまで、

この一日を

普通に過ごそうと
する。

やるべきことを
一つずつ
やる。

嫌なことでも
好きなことでも
目の前に与えられた
ことを
一つ一つ丁寧に
こなしていく。

「こなしていく」
だけでいい。

ただし
できるだけ
丁寧に。
誠実に。

自分自身が
原因で
断絶に陥った人は、

自分が
自分に
呆れている

という状態だ。

つまりは
自分のことが
大っ嫌いに
なっている。

自分への
信頼がなくなって
いるのだ。

それを
取り戻す必要があり、
そのためには、

一つ一つ
目の前のことを
する

という
謙虚な生活姿勢だ。

面倒でも何でも
ちゃんと
一つ一つ
やっていけば、

まぁそんな自分なら
許してあげようかな、

どこかで自分を
許し「始める」。

そこまでは
地道にしっかり
毎日を生きることだ。

いずれにしても
断絶に入ったら、
それを何とかするのは
自分自身しかない。

自分の人生
だからね。

つづく

遠過ぎるのだろうか

遠い遠い存在で
あるはずのものが、

急に
近くなる。

近くなったら、
これまでまったく
見えてなかった
ものたちが、

明らかに
なる。

明らかになる
ことで、
ますますそれが
輝くことも
あれば、

逆に
光を失うことも
ある。

近づくことを
ずっと
望んでいたのに、

近づくことで
壊れてしまう
ものもある。

近づけば
よい、

というものでも
ない。

が、
近づきたい
という素直な気持ちも
大切だ。

永遠、
という時間が
我々には
あるわけではない。

すべて
限られた中で
生きている。

すべてに
近づくことは
できない。

きちんと
一つずつ
選ばねば。
自らの
意志として。

遠いところに
ある存在。

もうすでに
近いところに
ある存在。

そのすべてを
その距離の
ままで、

しっかりと
観察しよう。
丁寧に。

そうすれば、
距離
そのものに
感謝が湧くだろう。

距離の意味が
わかるかも。

この世は
様々な存在が
あるが、

「距離」も
存在の一つ。

距離ともしっかり
向き合おう。

「距離感」こそ
調和の大事な
要素でもあるし。

つづく

あまりにクネクネした道だ

人生が
クネクネ道に感じる
ことがある。

まぁ実際、
現実レベルでは
そうだよね。

何も障害がなく
スムーズに
一本道として進む
ということは
ほぼ、あり得ない。

本能的に
そういった進み方を
私達人間は
望んでいないし。

試行錯誤のない
進み方に
何の価値も
感じない。

基本、
それが人間
というものだ。

不可能を
可能にする。

できなかったことが
できるようになる。

視野が
開ける。

視座が
高まる。

見えなかった世界が
見えるようになる。

・・・そういった体験
や経験を
私達は望んでいるし、

そのプロセスに
人としての幸せと
「活性」を感じる。

自分の成長を
自覚する
喜び。

心が健康ならば、
皆、それを
望んでいる。

幼い子ども達を
見ていれば
よくわかることだ。

そういった意味で
クネクネ道を
楽しむ、というのが
私達の進み方だし、

クネクネ道に
見えるのも、
私達のもともとの
特質の一つだろう。

よく言うことだが、
私達の真本音は

順風満帆に
進むことではなく、

充実した試行錯誤を
しながら進む
ことを
大切にしている。

だから、
クネクネをあるがままに
受け入れる。

ということが
本当にできれば、

実はクネクネと
見えていた道が、

それこそが
一本道であったと、

自分の人生の
本来の道、
最短の道であったと

よくわかるように
なる。

クネクネこそ
最短。

そう捉えて、
一歩一歩を丁寧に
誠実に
歩もう。

走ろう。

魂を込めて
最善を
尽くそう。

つづく

何を愛するか

何にでも
揺らめき
は大事だ。

揺らめきが
なければ
進化はない。

綻び
と言っても
いい。

完璧ではなく、
綻んでいる
ところ。

それがあるからこそ
私達は
人間でいられる。

そして人間とは
「進化」のカタチだ。

なので、
綻びを許さない、
とか
揺らめきを許さない、
というのは
人間として生きる
ことを

そのものを

否定、拒絶している
ことに
なってしまう。

それはとてつもなく
疲弊する
生き方だ。

綻びと、
揺らめきを
あえて
放置する勇気が
私達には必要だ。

「私」
という人間を
観よう。

その実相を。

どれだけの
綻びと、
どれだけの
揺らめきが
ある?

それを
一つずつ
丁寧に見つめよう。

そして
そのすべてを
愛そう。

それが
「私」を
愛するということだ。

「人」を
観よう。

その実相を。

そのすべての
綻びと、
揺らめきを
愛そう。

難しそうかい?

難しそうでも
やろう、
とする意志。

その意志そのものが
愛というエネルギーを
発し、

そのエネルギーが
すべての
綻びと揺らめきを

内側から
活かすんだ。

それこそが、
進化の一つの
カタチだ。

つづく

ヒントはわずかなんだ

一本の
志。

スックと
毅然と
立つ。

中心には
強い光が
あり、

それを
小出しに
している。

少しずつ
少しずつ
闇雲にならぬ
よう、

光を発する。

その光を
時々思い出し
ながら、
私達は
人生を進め、

ある
ふとした時に、

それが
自分の大いなる
志に基づく
ものであったと
気づく。

志が
本来の光を
発し始めるのは、

そこからだ。

自らの志は
自ら 
見つけなければ
ならない。

発見。

志は最初から
そこにある
のだが、

それは
まさしく
発見
というにふさわしい。

発見できて
初めて、
人生は
本格的に幕を
開く。

残念ながら
幕を開かないままに
人生を終えてしまう
人は多い。

自らの志に
気づけぬまま。

志のヒント

光だ。

わずかずつ
奥の方から
漏れ続ける
光。

自分から自分
への
ヒント。
メッセージ。

それを
受け取る自分に
なるには、

今を
素直に
生きる
しかない。

つづく

世界は揺らめいている

非日常の空間に
身を置けば、

それだけで
刺激が入り、
普段では出ないような
発想が出たりする。

大事なことで
ある。

しかし、
「非日常」と言うだけ
あって、
私達はなかなか
「日常」から
出ることは難しい。

毎日同じ
ルーティン。

毎日同じ
生活。

毎日同じ
サイクルが
続く。

・・・と
思いがちだが、
実はそうではない。

もし
「非日常」を体験
したければ、

意識を「世界」に
向け続けよう。

意識を「外」に
向け続けよう。

私達は
「内面」にいるから
「いつもと同じ」
となってしまう。

なぜなら
心の中の自分の位置
を、
私達は常に定めて
そこから動こうとはしない
からだ。
本能的に。

意識を「外」に
向け続け、

「世界」を感じ
続ける。

可能であれば
24時間ずっと。

眠っている時間
以外はずっと。

すると
自然にわかる
だろう。

一日として
同じ日はない、
と。

昨日の「世界」と
今日の「世界」は
まったく違う。

もっと言えば、

5分前の「世界」と
今の「世界」は
まったく違う。

私達のこの3次元の
世界は、
ずっと固定されている
ように思われがち
だが、

それは
内面の私達が
勝手にそう決めつけて、
思い込んで
いるだけで、

実際の「世界」は
変化し続けている。

この世の現実は
映し出された
現象(映像)に
過ぎない。

・・・ということが
よくわかる。

それは常に
揺らめいている。

一瞬として
安定しない。

固定されない。

ゆらゆらと
変化を続け、

独特の
波長を放ち、

儚く、脆く、
幻影的だ。

まるで夢の
ように。

・・・ということが、
真剣に「世界」を
感じ続ければ続けるほど
わかってくる。

「日常」とは
いったい何だろうか?

思わず問いたく
なる。

そしてその
「世界」の揺らめきの
中で、

私達自身も
揺らめいている。

一つとして
固定化されたものなど
なかったのだ。

それらを体感すると、
その一瞬、

今この一瞬、

この一瞬にしか
存在しない
今。

その希少性を
肌でわかりながら、

「今」だからこその
発想が
浮かぶようになる。

そしていわゆる
「毎日が刺激的」
となるわけだ。

私達は実は
そういった「世界」に
住んでいるんだよ。

つづく

10年前の彼から

体の中の
違和感に
焦点を当てる。

滞りが
ある。

誰のものだ?

一つは
私自身の
もの。

発想しなければ
ならない
何かが
あるようだ。

まだ
発想しきれて
いない
何か。

じゃあそれは
この後、しっかり
セルフコーチング
しよう。

しかし
それだけじゃ
ないな。
まだある。

誰のものだ?

あぁ、
彼だ。

10年前に
出会い、
少しだけ話した
彼だ。

すっかり
彼のことは
忘れていたが・・・。

そうか、
10年前、
私は彼から重要な
メッセージを
いただいたんだ。

でも、
その時の私には
それを
重要なものであると
認識することが
できなかった。

のみならず、
キャッチすることすら
なかった、
真面目に。

もう一度、
今、
10年前のあの時に
戻ろう。

彼から
いただいたメッセージ
を、
もう一度、
胸の真ん中で
しっかりと
受け止めてみよう。

あ、
スッキリした。

10年前の
滞りが、
今、ここで浮上した
わけだ。

気づくのに
10年かかった
わけだ。

でもきっと
気づくタイミングは
今が
最善なんだろう。

つづく

命の宿命

今、
あなたの芯
には
何がある?

何かそこに
芽生えたものは?

もし
芽生えたとしたら
何が?
新たな
命として。

人は、
一つずつ
命を紡いでいく。

一つずつ
命を
生み出していく。

一つずつ
命を
込めていく。

自分自身に
対しても
そうだ。

私達は
一つの命を
大切に保存しながら
生きている
のではない。

新たな命を
生み出し続け
ながら、

その連続として
生きている。

生み出せなく
なった時が、
いわゆる
死、だ。

死ぬまで
生きる。

それは
命を
生み出し続ける
ことだ。

つづく

望みがあるのは

意識を
外へ外へ
向ければ、

つまり

自分の
内の世界から
出れば出るほど

生きるのは
楽になる。

一般的には
逆だと
捉えられている
かもしれないが。

本当はね、

内が
外で、

外が

なんだよ。

自分のことを
本当に
理解したいのなら、

意識を
外へ外へ
向け続けよう。

内面を
探しても、
本当に望むものは
何も見つからない。

内が
外で、

外が

だからね。

みんな、
望む人生を
送りたいと
思っている。

死ぬ時に
いい人生だった、

言いたいと。

じゃあ
望む人生は
どこにある?

それは
意識を
外へ外へと
向け続けることで
初めてわかるもの。

内が
外で、

外が

だからね。

つづく

ここからの時代の土台は

強固な土台を
築くことは
大切だが、

土台は、
固めてしまっては
ならない。

最近、
私のビジネスパートナー達と
ミーティングしていた時に
一人が話したことだけど、

耕し続ける

ことが
大切だな、と。

「耕し続ける」
ことこそが、土台を
本当の土台たらしめる
のではないか。

なぜなら
土台とは、

いや
土台だからこそ、

進化し続ける必要が
あるから。

特にここからの
時代、

固まる

とは
イコール衰退だ。

固めてしまっては
ならない
時代。

衰退なら
まだしも、

固めた瞬間に
一気に崩壊する
かも。

では、

あなたの土台
とは何だろう?

あなたは
何を
耕し続けることで、

自らの土台を
永続的に安定した
ものとする?

つづく

怒りを真本音と共に

じっと
自分の手を
見る。

手は何かを
語ろうと
している。

相手から
何かを受け取った
合図だ。

私は手の
感覚に
意識を向けるように
した。

相手に
向かい合った
まま。

相手の手は
私の手に
何か“電波”のような
ものを
送り続けている、
のがわかった。

しかもそれは
かなり
強烈だ。

私は心の中で
少し
覚悟を固めた。

何があっても
瞬時に
素直に
動こう、と。

そしてあとは
場に
委ねた。

“場”とは
“世界”である。

今ここに
小さく区切られて
いるにせよ。

“世界”に委ねる
覚悟を持てば、
いつも何らかの
チャンネルが
変わる。

私の中に
瞬時に

“怒りの感情”


湧いた。

次の瞬間、
私は
相手にそのまま
怒りをぶつけていた。

相手は
目を見開き、
驚きながらも

・・・そりゃそうだ、
まさか私が
ここで怒るとは
思ってもいないだろう・・・

急に全身が
萎むように
なった。

そして俯きながら
涙を流した。

50歳を超えた
男性が、
まるで子供のように
泣くなんて、

本人にだって
信じられない
ことだろう。

でも
必要だから
このような展開に
なった。

“真本音の怒り”

私が呼ぶもの。

それは
ちゃんと
合図がくる。

合図にのっとって
私はただ
委ねる。

強烈な一言と
共に、
私の魂の込められた
怒りの塊が、

躊躇なく
相手の魂を
直撃する。

滅多に使う
ことはない。

が、
必要があれば
いつでも使う
用意はある。

これが私の
コーチング。

真本音に委ねた、
相手と自分の
コラボとしての

魂と心の
やりとりだ。

つづく

反省は終わらない

人生の
反省は
どこまで
繰り返せば
良いのだろう。

きっと
終わりは
ないのだろう。

後悔。

悔恨。

ふとした時に
蘇る。

その度に
痛い。

しかし
いくら現実の
レベルでは
解決したとしても、

痛いものを
痛いと
認識する
その素直さは、

失っては
ならない
と思う。

痛いことを
したのだ。

その痛みは
すでに
私のものだ。

その痛みが
私の人生で
あり、

今の私
そのものだ。

年齢を
重ねれば
痛みはますます
増すかもしれない。

しかしその
事実こそを
大切に、

歪めず
逸らさず
まっすぐに。

痛いなぁ・・・。

つづく

腕が重い

もし、
利き腕とは逆の
腕が
重くなってきたら、

その重みは
しっかり
感じ取った方が
いい。

その重みは
どこから
来ている?

誰のもの?

誰から
もらった?

その重みは
何を
メッセージしている?

あなたは
何をどう
対処しなければ
ならない?

重みの
奥にあるもの。

その実在。

それは
何を見つめている?

何を
目指している?

あなたはそのために
何をしようと
する?

何をしたいと
思う?

あなたが
何かを為すまで、

その重みは
続く。

それだけ重要な
メッセージだ
というわけさ。

つづく