チームパフォーマンスコーチ

人は自由になれる?

 

自由に生きる、

 

ということの

一つの重要な

要素は、

 

自由に決断できる、

 

ということだ。

 

しかしその

「自由に決断」

とは

どういうことだろうか?

 

私達は一見、

自由に見える時でも

 

実は様々な

束縛の中にある。

 

「今日、一日

自由に何をしても

いいよ」

 

と言われても、

本当に自由に

私達は

行動できるだろうか?

 

よくよく考えると、

こうしてこのように

ここで生きている

ということ

そのものが

束縛ではないのか?

 

・・・というような

方向に意識が向かうと、

 

心はどんどん

虚無の方向に行く。

 

虚しくなって

くる。

 

このように

思考をすること

自体も、

束縛かもしれない。

 

自分を束縛している

ものを

列挙し始めたら、

 

恐らく

キリがないだろう。

 

そう。

 

私達は皆、

束縛の中にいる。

 

無数の束縛の

中で

生きている。

 

それが

人生であり

人間だ。

 

自由に決断

できている!

 

たとえ感じたと

しても、

 

それは、

ただ単に

自分では気づいて

いない

まだ自覚できて

いない

束縛の中で

決断しているに

過ぎない。

 

という

事実がある。

 

まずはここを

ちゃんと

受け入れないと、

私達は

自由にはなれない。

 

自由になる、

とは

束縛を外すこと

ではない。

 

自由と束縛は

実は

まったく関係のない

ものだ。

 

実にたくさんの

束縛に中にいても

私達は自由に

なれる。

 

逆に、

仮に束縛のすべてを

取り払うことが

できたとしても、

それだけでは

私達は自由になれない。

 

自分の不自由を

環境のせいにする

人は多いが、

 

それは

観点がズレている。

 

環境のせいで

不自由になる

ことはない。

 

実は、

 

私達はもう最初から

「すべて」を決めている。

 

あらゆる束縛の

中で、

しかしその

決めていることを

決めている通りに

進もうとしている。

 

そして、

 

決めていることを

決めている通りに

進めている時にこそ、

 

私達は

「自由」を感じる。

 

だから

ひょっとすると、

 

真の自由とは

真の束縛

なのかもしれない。

 

自由に決断する

というのは、

 

真の束縛の通りに

決断する、

 

ということ

なのかもしれない。

 

つづく

 

世界へ

 

常に「世界」を

感じながら生きる。

 

ということを

大切にし始めたのは

いつからだろうか?

 

きっと

実在を感じ取れる

ようになった

11〜2年くらい前から、

かな。

 

この「世界」は

どうやら

自分が思っている以上に

奥深く、幅広く、

 

無限の「?」に

満ちている、と

痛烈に感じたんだよな、

 

きっとあの頃からだ。

 

そうしたら、

1分1秒、いつもいつも

「世界」を

感じ取っていたいと

欲求するように

なった。

 

だからそこから

私は自分を

「オープン」にした。

 

「世界」に対して

開いている状態で

生きることにした。

 

実際に

人間関係やコミュニケーションが

オープンになったのか

どうかは

わからない。

 

しかし私自身の

在り方としては、

 

「私」と「私以外(=世界)」

の間に存在していた

見えない壁のようなもの、

 

見えない境界の

ようなものを

 

すべて取り払った。

 

その状態で

日常を過ごすように

なった。

 

すると、

常に「世界」を感じ取り、

 

その「感触」を

得ながら、

 

「今ここ」にいる

自分を認識した。

 

すると、

今の1秒1秒が

とても愛おしくなり、

 

もっともっと

噛み締め、

味わいたくなり、

 

すると

この1秒1秒に

「生きている実感」を

得るようになった。

 

すると

その感覚自体が

人間にとっては

とても幸せなことなんだと

知った。

 

そして

「孤独」ではなくなった。

 

逆に言えば、

それまでの私はずっと

孤独だった。

 

どれだけ

様々な人と接しても、

仕事が順調でも、

仲間がいても、

 

孤独だった。

 

それが

いつの間にか

完全になくなった。

 

そしていつの間にか、

「世界」と「私」の

区別をつけながらも、

 

世界は私であり、

私は世界である、

 

という

感覚に満たされるように

なった。

 

そして

その状態における

その後の必然的な「出会い」は

 

恐らく、

私の「命」を

救ってくれた。

 

今はよくわかる。

 

以前の「孤独」のままの

私でいたならば、

 

きっと私は

ここまで生きてはいまい。

 

生命力が

持たなかったと

思うのだ。

 

それくらいに

人生に疲弊

していた。

 

今も、毎日のように

生命エネルギーを

使いまくっている。

 

一日が終わると、

全エネルギーを

使い果たしている。

 

でも

私は世界であり、

世界は私であり、

 

だから

世界が私を

常に守ってくれるし、

 

エネルギーを

与えてくれる。

 

どうしても

「感謝」という

ありきたりな言葉に

なってしまうのだが、

 

本当に

すべてに

感謝したい。

 

つづく

 

相手の立場に立てる?

 

視点を外す、

というのは

結構難しいこと

なのかな。

 

例えば私達は

 

「私」という視点

 

から

すべての物事を

捉えている。

 

まぁ当たり前

だね。

 

その

「私」という視点を

外すこと。

 

これは難しい

のかな?

 

きっと難しい

のだろうね。

 

よく、

相手の立場に

立ちなさい、

言われるけど、

 

これ

とても大事だけど、

 

立てる?

 

相手の立場に?

 

本当に?

 

結局、

相手の立場に立つ

と言いながらも、

 

立ったつもりになって

自分の視点から

発想しているだけ、

 

ということは

多いようだ。

 

まぁでも

それをわかった上で

相手の立場に立とう

とすることは

とても尊いと思う。

 

私の場合は

と言えば、

 

私は相手の立場に

立つこと、

とても苦手。

 

今書いたように、

相手の立場に立てた

と思いながらも

それは単なる思い込みで、

 

単なる自己満足で

 

判断してしまうこと

ばかり。

 

相手のことを

考えれば考えるほどに

自己満足に

なっていく。

 

そして

思った通りの展開に

まったく、

 

本当に、まったく!

 

ならんのよ。

 

だいたい、

思ったことの真逆に

物事は展開するね。笑

 

これは自信を

持って言える。

 

だから私は

(あくまでも私はね)

 

相手の立場に立つ

ことは

諦めた。

 

10年くらい前に。

 

その代わり、

 

相手と一つになる

 

ということを

やり始めた。

 

イメージじゃない。

 

実在で。

 

実在で一つになる。

 

すると

自分と相手の

区別がつかなくなる。

 

その状態で

「自分事として」

物事の発想を

するようになった。

 

すると、

 

その日から途端に

物事が

調和するようになった。

 

念のために

言うと、

 

調和するようになった

というのは、

「予測通りに物事が

進むようになった」

ということではない。

 

私の予測なんざ、

ほぼほぼ

当たらない。

 

でも、

すべてがちゃんと

調和してるな、と

わかるようになった。

 

だから

何がどう起きても、

それらの現実と

ちゃんと対峙し、

 

次の一手が

打てるようになった。

 

やるべきことと

やっちゃいけないことが

わかるようになった。

 

それは

相手の立場に

立っているからでは

ない。

 

相手と

一つになっているから。

 

相手と一つになった

自分として

判断しているから。

 

私は私だ。

 

いろんなものと

一つになれる

私なんだ。

 

つづく

 

感覚を言葉へ

 

感覚を

言葉にする。

 

というのは

なかなか難しい

ものだが、

 

やってみると

いい。

 

ほんの些細な

ちょっとした感覚に

まずは

敏感になること。

 

セルフコーチングの

基本は、

 

まずは

自分の体の感覚を

感覚として

観察すること。

 

例えば、

何となく首筋が

重いな、

とか。

 

背骨にちょっとだけ

違和感たあるな、

とか。

 

今日は

胴体の中が

スースーする。

まるで空洞のようだ、

とか。

 

そして

わずかに感じる

その部分に

意識を向ける。

 

解釈とか

思考とか

まったくせずに、

 

意識のみを

向ける。

 

するとその

わずかな感覚が

ありありと

際立ってくる。

 

場合によっては

その感覚の

「中に入り込む」

状態になるかもしれない。

 

感覚が

際立ってきたら、

さらにそこに

全身全霊を込める

ようにして

意識を集中させる。

 

すると、

私の場合は

映像が浮かんでくる。

 

人によっては

何も浮かばない

かもしれない。

 

映像が浮かべば、

今度はその映像に

ずっと意識を向ける。

 

映像がなければ、

感覚にそのまま

意識を向け続ける。

 

すると

ある一定以上の

時間が過ぎると、

 

ふと、

何かを思い出す

感じで、

 

言葉が

浮上してくる。

 

・・・こんな感じ。

 

慣れないと

難しいかもしれない。

 

でも

練習する価値はある。

 

これができるように

なると、

人生の展開は

劇的に変化する。

 

自分の感覚をもとに

人生の選択を

していくからだ。

 

ちなみに

私のこのブログは

いつもこんな感じで

書いている。

 

自分のわずかな、

しかしそこにしっかりと

存在する感覚を、

 

今日という一日を

終えた

今日にしかない

その感覚を、

 

言葉にしている

のだ。

 

これも練習だと

思ってやっている。

 

だから、

「感覚」を日記にするのも

いいかもね。

 

練習してみて

ください。

 

つづく

 

真面目?

 

真面目な人っていうのは

どうしても

発想や行動が固く

なりがち

 

だと思うのだが、

 

でもやっぱり、

 

真面目な人を

見ると

応援したくなるね。

 

そこまで

一生懸命やる?

言いたくなるくらい

一生懸命やる。

 

時には

本当は必要のない

ことについても

一生懸命やり過ぎ

だけど、

 

まぁでも

それも人間かな、と。

 

どうかな、

 

でも結局は

真面目な人は

強いかな。

 

何か必要な習慣を

新たにつける

必要がある場合も、

 

真面目な人は

一生懸命やる。

 

するとやはり

成果が出やすい。

 

そう考えると、

 

私のクライアントさん

って、

 

一見すると

チャランポランに

見えて(失礼!)

 

でも、根は真面目

という人が

多いような。

 

多分、

私自身もすげー

真面目なんだと

思う。

 

例えば、

「真本音度合い」

という概念が

見つかった時、

 

本当に真面目に

「まずは自分の

真本音度合い、

上げなきゃ!」

必死になった。

 

今から考えると

あんなに真面目に

やらんでも

良かろうに、

 

とも思えるし、

 

むしろ

真面目にやり過ぎて、

真本音度合い

なかなか上がらなかった

のではないか、

 

という節も

見えるけど、

 

でもまぁ

そんな愚かさも含めて

人間なのかな、

とも思うね。

 

今この瞬間を

大事に生きようね!

 

メッセージすると、

 

「ウォ〜〜〜〜!

今ここで

何すればいいんだ!」

 

すげー真面目に

考え過ぎて

 

今本当にすべきことや

したいことが

わかんなくなる人。笑

 

そんな人、

応援したいね。

 

つづく

 

さぁ次の段差だ

 

私達は皆、

階段上に

成長していく。

 

一つのステージを

比較的ゆったりと

進み、

 

ゆっくり成長を

続け、

 

ある準備が整うと、

 

次の段差が

くる。

 

そしてその段差を

一気によじ登り、

 

次のステージに

入る。

 

段差と言うくらい

だから、

それはまるで

垂直の壁だ。

 

下から見上げれば、

到底越えられない

ように思える。

 

しかし私達は

そういった

到底無理な段差を

 

これまでいくつも

越えてきた。

 

だから

ここにいる。

 

段差の前に

くると、

 

私達は非常に

不安定になる。

 

不安と恐怖の

あまり、

 

まるでこれまでの

成長が嘘で

あったかのように、

 

以前の

未熟な自分が出たり、

 

昔の

ダメダメな自分が

出たりする。

 

これまでの努力が

まったく意味が

なかったのではないか、

 

と思ってしまうほど、

自分が乱れる。

 

しかしそれこそ、

段差の前まで

来れた証。

 

次のステージに

一気に

よじ登ろうと

している証だ。

 

さて、

 

ここで皆さんに

一つの問いを。

 

今また、

次のステージに向かう

段差の直前に

いる人が増えている。

 

もし皆さんが

そうであるならば、

 

「段差をよじ登る」

という

このプロセスそのものを

 

「ゆっくりと味わう」

ために

 

皆さんは何を

決める?

 

これまで

あまり意識をして

来なかった

何か

を一つ今回は

決めてみよう。

 

今回の段差越えは

恐らく、

 

これまでとは

ちょっと違う。

 

これまでの

越え方とは

異なる越え方が

必要だ。

 

そのために

どうすれば良いか?

皆さん自身が

よくわかっている。

無意識的に。

 

だから

それを自覚しよう。

 

だから

上記の問いを

何度も

自分に投げてみよう。

 

つづく

 

また夢ができた

 

やっぱりこの仕事が

好きなんだな、

と思う。

 

私は人と向き合うのが

好きなんだ。

 

当たり前のことなのだが、

改めて

最近は、一日一日

実感する。

 

以前、このブログでも

書いたが、

私は私の中心核が

入れ替わった。

 

実は、

その時から私は

「コーチ」ではない。

 

これまでは、

「◯◯のできるコーチ」

だったのだが、

 

今は

 

「コーチのできる◯◯」

 

となったのだ。

 

◯◯が何かは

まだ誰にも

喋ってないし、

しばらくは言わないつもりだ。

 

それは私の

新たな夢でもある。

 

ところが、

 

今日またさらに

新たな、◯◯が

できてしまった。

 

新たな夢が

浮上したんだ。

 

だから今の私には

新たな二つの夢が

ある。

 

今日浮上した

その夢は、

 

これまでの私が

最も思いつかなかった

分野のことだ。

 

私からは

最も遠い存在だった

と思う。

 

しかしそれが

ふと、

 

本当にふと、

 

夢になった。

 

あまりに信じられないので、

思わず自分自身に

コーチングした。

 

しかしどうやら

その夢は

私の真本音らしい。

 

ということは

それはいつかきっと

実現するのだろう。

 

やばい。

 

感動のあまり

震えてきた。

 

だけどまだしばらくは

誰にも言わない。笑

 

しかし、・・・

 

変化の激しい

毎日だ。

 

今は。

 

こんなにも

私自身が変化しているのは

いつ以来だろうかな。

 

しかし、

どれだけ変化しても、

 

「コーチ」では

なくなっても、

 

私は「コーチ」という仕事

が好きだし、

 

これからもずっと

続けるだろう。

 

「コーチのできる◯◯」

 

としてね。

 

つづく

 

懐かしい風だ

 

今日、

あるクライアントさんから

懐かしい風

が吹いてきた。

 

コーチングの

真っ最中のことだ。

 

そのクライアントさんは

ある会社の社長さん。

 

今、非常に難しい

経営の舵取りを

されている。

 

道が開くか、

閉ざされるか。

 

今の一歩一歩が

すべてを決める。

 

ある意味、

心が壊れてしまうような

濃密な日々の中、

 

ついに

懐かしい風が

吹いた。

 

これは、

「次元を超える風」

だ。

 

詳しくはここでは

書かないが、

私が

『8次元』

と呼んでいる

意識の次元がある。

 

そこに到達すると、

その風が

いつも吹いてくる。

 

この社長さんも

ついにそこに

たどり着いたか、

感無量。

 

これでこの人と

この会社の道は

開かれていくな、

こっそり心の中で

涙を流した。

 

8次元とは

「すべては一つである」

ということを

思い出している

次元だ。

 

理屈ではない。

 

感覚として、

そして

実在として

思い出している。

 

だから

「すべては一つ」

というところからの

発想が

これから自然発生する

だろう。

 

「すべてが一つ」

からの発想とは

つまり、

すべての存在が悦ぶ

発想だ。

 

これが企業活動の

基点となると

強い。

 

世の中の全員が

こうなるといいな、

この風を感じる度に

いつも

思うんだ。

 

つづく

 

好きな音楽

 

よく私は人から

芸術肌だ、

言われる。

 

確かにそうかも。

 

結構、

芸術は好きだし。

 

音楽とか絵画とか。

 

なぜなら芸術には

その作者の

人生が、

 

生き方が、

 

ダイレクトに

反映されているから。

 

要するにそこに

「人間の生の姿」

感じるから。

 

特に、

その、生の姿でも

「進化する姿」

を感じるものには、

 

表現のしようのない

感動を覚える。

 

だから、

芸術が好き

と言っても、

 

まったくもって

詳しくはなく、

 

「進化」を感じ取れる

ある一人の芸術家の

作品と出会うと、

 

その人ばかりを

追う。

 

そう考えると、

芸術そのものが

好きというより、

 

やっぱり

その人のことが

好きなんだな。

 

その人の

生き様が

好きなんだな。

 

例えば、私は

音楽をよく聴くが、

 

本当に数名の人

しか聴かない。

 

のめり込んで

しまうのだ。

 

特にのめり込んだ

のは、

 

マイルス・デイヴィス

ベートーヴェン

かな。

 

マイルスは

どの時代も

全作品、大好きだし、

 

ベートーヴェンは

最近、

のめり込み始めた

のだけど、

 

ピアノソナタの

32作品と

弦楽四重奏の

16作品ばかり

聴いている。

 

作品ごとに

進化していく

その歩みと共に、

 

その時その瞬間

にしか

生み出せない

一つ一つの

「最善であり最高」

感じるからだ。

 

しかも

作曲家である

ベートーヴェン

だけでなく、

 

演奏している人の

生き様も

そこに紡がれる

から、

たまらない面白さ。

 

真本音度合い

とか

次元とか、

 

その作品から

伝わってくる

「実在」の感覚も

 

モロに

楽しんでいる。

 

本当は私自身も

ピアノを弾いたり、

トランペットを

吹いたり

できるようになりたいな、

とは思うけど、

 

いやいや、

 

私には私の

すべきことがある。

 

もし

自分が演奏を

始めると、

 

たとえそれが

趣味だとしても、

 

きっと私は

(上手い下手は別として)

そっちに人生の大半を

費やしてしまう

だろう。

 

のめり込んじゃう

から。

 

その危険性を

知っている。

 

だから私は

私の人生で

やろうと決めていること

真一文字で進む。

 

そんな私を

マイルスもベートーヴェンも

いつも

励ましてくれる。

 

パワーを

くれるんだ。

 

つづく

 

ずっと祈っている

 

子ども達が

公園で遊んでいる

風景を見ると、

 

いつの間にか

心の中で

ずっと祈っている

自分に気づく。

 

この子達が

スクスク育ち、

 

この子達の

感性が

素直に発揮できる

世の中に

なりますように。

 

今は残念ながら、

 

感性が豊かで

あればあるほど、

 

大きな傷を

心に受けてしまう

という、

 

そんな傾向のある

世の中だ。

 

鈍感な方が

楽に進める

世の中だ。

 

しかしやはり

私は

これではいけない

と思う。

 

豊かな心を

持つ人達が

 

さらに豊かな

世の中を

創り出していく。

 

そんな当たり前の

世の中に

なってほしい。

 

そのために

できることを

私は

私なりに

全力で行なっている。

 

一日一日

今日にしかできない

ことを

全力で行なっている。

 

今のこの日々を、

 

あと25年、

私は続けると

決めている。

 

あと25年で

どれだけのことが

できるかな?

 

おかげさまで

良い仲間も

増えた。

 

感性の豊かな

仲間達だ。

 

私の半分くらいしか

生きていない

若い人達もいる。

 

彼らと一緒に

いる時も、

 

気がつくと

私はいつも

祈っている。

 

ずっと

祈り続けているのだと

思う。

 

それだけで

私自身も

心が豊かになれるしね。

 

つづく

 

行っちまうか

 

進んでみなければ

わからない景色は

確かにある。

 

勢いだけで

進むことを私は

オススメしないが、

 

たまには

良いかも知れない。

 

今、ここは

あえて

勢いだけで

行っちまおうか。

 

・・・と。

 

それだけの自覚が

あれば、

それも良いかも。

 

ふと思った。

 

よくよく考えれば、

以前の私は

ずっとそうだった。

 

おかげで

随分と痛い目に

遭った。

 

痛い目に遭ったが、

私の場合は

痛い目に遭わないと

直らないものは

 

やはり確かに

あったのだ。

 

上手く進む

よりも、

 

ゴツゴツと

いろんなところに

ぶつかりながら

行くのも、いい。

 

本人に

その自覚と覚悟が

あれば。

 

道。

 

自分の道。

 

それは誰にも

ある。

 

しかも相当に

ハッキリクッキリ

している。

 

しかも

目の前に

まっすぐに

展開している。

 

にも関わらず、

私達の多くは

その自分の道に

気づかない。

 

目を瞑って

いるからだ。

 

目を開けば

すぐにわかるのに、

 

閉じているから

いつまで経っても

道は観えない。

 

そして、

痛い目に遭わないと

目を開けない人も

いる。

 

私がそうだった。

 

であれば、

それはそれでいい。

 

道。

 

しかし私は

自分の本当の道を

本当に知りたい、

という

意志だけはずっと

強く持ち続けた。

 

だから

痛い目に遭っても

耐えれたのだと

思う。

 

道を知りたい。

 

自分の道を

知りたい。

 

その渇望さえ

あれば、

 

今は

勢いだけで行っても

良いのではないか。

 

つづく

 

重荷チェック

 

自分の背後に

意識を

向けてみよう。

 

背中よりも

もうちょっとだけ

上の部分。

 

肩に近いところ。

 

もしくは、

肩甲骨に

近いところ。

 

そこから

ほんのわずかだけ

離れた空間。

 

そこに

何かいないか?

 

・・・こんな表現を

すると、

怖いかも知れないが、

 

そこに

何かが張り付いて

いないか?

 

もしくは

何か重いものが

乗っかってないか?

 

チェックを

してみよう。

 

もし

少し居心地の悪い

ものが

存在している気が

したら、

 

そこに意識を

向けてみよう。

 

それは

今のあなたの

歩みを

阻害しているもの

 

の可能性が

高い。

 

それは

自分自身の心

かも知れないし、

 

誰かからもらってしまった

エンティティ(濃いストレス)

かも知れない。

 

もし可能であれば、

それがわかるまで

意識を向けてみると

いい。

 

解釈するよりも

ただ

意識を向けること。

 

すると自然に

わかるだろう。

 

どうしても

わからなければ

それでもいい。

 

そして次に、

その重い部分、

違和感のある部分に

向かって、

 

慈しみ

の意識を向けよう。

 

「慈しもう」

とすればいい。

 

その状態を

キープしていると、

それは

徐々に浄化される。

 

決して、

その重いものと

戦ったり、

拒絶してはならない。

 

拒絶すれば

より強い反発が

返ってくるだけ。

 

慈しめばいい。

 

すると、

徐々にそれは

軽くなり、

最後にはスッキリする。

 

肩の荷が下りた

気がするなぁ。

 

思えれば

完了だ。

 

無意識レベルの

話だが、

このように私達は

 

私達自身の歩みを

阻害する何かを

持ち続けながら

進むケースが多い。

 

それはまるで

ブレーキを入れながら

自転車を漕いでいる

ようなものだ。

 

時々、

チェックをしてみると

いいね。

 

つづく

 

大事な出会い方

 

人と人が

出会うとき、

 

そこには

エネルギーの交差が

起こる。

 

そこで

バチっと火花が

飛び散り、

 

その火花が

双方の人生に

刺激を与える。

 

のみならず、

その火花は

周りにも伝播する。

 

特に

お互いを

求め合っていた

人同士の場合は、

 

その火花の

インパクトは大きい。

 

そしてやはり、

出会いにも

「予感」というものが

ある。

 

もうすぐ

大事な人と

出会えるな。

 

ずっと待ち望んで

いた人と

交差するな。

 

という予感。

 

それが今の私に

ある。

 

実在のレベルでは、

もうその人の

影は

観えているし、

 

その影を

わざと「影」に

自分がしているのも

わかっている。

 

本当はその人が

誰なのかは

よくわかっているの

だが、

 

それは

出会ってからの

お楽しみ。

 

未来がわからない

のが

この世界の楽しみ

なので、

 

それを今は

存分に

味わっている。

 

ここから

私が大事にすべきは

 

意図をまったく

持たないでいること。

 

出会いに

意図は持たせない。

 

ある時、まるで

偶然かのように

それは訪れる。

 

それまでは

忘れておこう。

 

これもまた

人生の醍醐味の

一つだな。

 

つづく

 

また意識が飛んだ

 

最近の私自身の

変化として

自覚しているのは、

 

無我夢中に

なるようになった

 

という

ことだろうか。

 

これまでも

もともと集中力は

かなり高い方だと

思う。

人によく言われた。

 

しかし

コーチングをしている

時とか、

人と向き合っている

時とかは、

 

集中しつつも、

どこか意識が

拡散し、

 

別のところから常に

自分自身を

客観視している

自分がいた。

 

それが私自身の

長所でもあると

思っていたのだが、

 

それが

なくなった。

 

コーチングに

無我夢中に

なるのだ。

 

だから

「時間」を忘れる。

 

コーチングの最中、

自分の

意識が飛ぶ。

 

気がついたら

終わっている。

 

という状態。

 

昔は

こんな感じだった

のかもしれない。

 

でも

昔と今とでは

似て非なるもの

のような気もする。

 

どちらにせよ、

今の私にとっては

 

これはとても

良いこと

 

だと

感じている。

 

プロとして

意識が飛ぶことは

良くないことだと

私はずっと

思ってきたが、

 

今は

まぁ良いかな、

 

自然に思える。

 

それでしか

できないことを

きっと

しているのだろう。

 

人との

向き合い方は

人それぞれだと思う。

 

ベストだと思える

向き合い方を

すれば良いと思うが、

 

「向き合い方

そのものを

進化させよう」

 

という

意志は持ち続けた

方がいい。

 

いろんな向き合い方に

挑戦すると

いい。

 

人と向き合う

とは、

 

自分自身の進化にも

直結するからね。

 

つづく

 

今、気づこう

 

「気づき」

になる前の

「気づきの感覚」。

 

これに敏感に

なれると

強い。

 

あっもうすぐ

私は何かに

気づくな。

 

・・・と

わかるからだ。

 

そんなことが

できるのか?

言われそうだが、

 

できるのだ。

私達人間は。

 

「気づきの感覚」

が訪れると、

 

私はまずは

自分に問う。

 

「今すぐに

気づけるか?」

と。

 

YESだ、と

返ってきたら、

 

私はちょっと

目を閉じて、

息を整える。

 

そして

心を静かにする。

 

すると、

「気づき」を得られる

心の場所に

今の私の心が

あるかどうか、

わかる。

 

つまりは

私の顕在意識が

「気づきの場所」

にいるかどうか、

ということだ。

 

ズレてるな、

思えば、

 

私は

私の顕在意識の

場所を変える。

 

心の中を

浮遊し、

心の中の場所を

移動するのだ。

 

特に意図する

ことはなく、

 

ただ、

「その場所まで

移動しよう」

と思うだけで、

スーッと移動を

し始める。

 

そして、

 

あぁ着いたな。

 

わかる。

 

気づきの場所に

到着したら、

私はまた

目を閉じて

息を整える。

 

あとは

何も考えず、

 

心を無にして

待つだけだ。

 

すると、

イメージではないが

感覚として、

 

のようなものが

来る。

 

あっ来たな、

すぐにわかる。

 

すると私はその

光と

一体化する。

 

光そのもの

となる。

 

すると

その瞬間に

 

まるで

何かを思い出す

かのような感覚で、

 

「気づき」

を得る。

 

それは

今のこの瞬間の

私にとっては

とても大事な

内容のことが多い。

 

私は

以上のことを

一日のうちに

何度も行なう。

 

コーチングの最中にも

何度も行なう。

 

私のクライアントさんは、

私が

「ちょっとお待ち

くださいね」

と言いながら、

少しの時間、

目を閉じることを

皆、ご存知だ。

 

そして

それがコーチングそのもの

の展開を

大きく変えることも

日常茶飯事で、

 

皆、それを

当たり前のように

受け入れて

くださっている。

 

私はこういった

セルフコーチングを

誰もができるように

なるといいな、と

思っている。

 

別に

目を閉じなくても

いいけどね。

 

気づくことに

気づける力。

 

これは

人生を大きく

展開させてくれる。

 

つづく

 

どう決めるか

 

少し前の

コーチングで、

 

ある社長さんが

今後の経営の進め方で

随分と

悩んでおられた。

 

どちらに

進むのか?

 

会社の方向性を

決定づける

根本的かつ重要な

迷いだ。

 

いろいろお話を

お聴きした後で、

 

私は問うた。

 

何を一番、

大事にされたいですか?

 

しばらく考えられて、

社長さんがお答えに

なったのが、

 

「生き方です」

 

だった。

 

社長ご自身の、

という意味だ。

 

いい答えだなぁ、

思った。

 

そうお答えに

なりながら、

 

社長ご自身も

覚悟が決まった

ようだ。

 

やはり

自分の生き方で

行こう、と。

 

自分の本当に

望む生き方を

実践するならば、

 

今回は、

どんな選択を

しようか、と。

 

ここの覚悟が

できると

あとは簡単な

ケースが多い。

 

「生き方」に

焦点を当てたことで

この社長さんからは

次元の異なる

新たな道が発想された。

 

それは一見すると

非常に困難な

道のようだが、

 

本質的には

真逆に感じた。

 

つまりは、

「道がぐんぐん

開かれる感覚」

が、

その場に漂った。

 

この空気感が

出る時は、

いい。

 

とてもいい。

 

きっとこの社長さんは

次元の異なる

パワーと迫力を

出しながら

道を創って行かれる

のだろう。

 

実は

こういうケースは

とても多い。

 

最後は

「生き方」

で決めること。

 

本当に望む

生き方で

決めること。

 

そこに

真本音の道は

ある。

 

つづく

 

最速?

 

今、

最速で進んでいる

という

実感はあるかな?

 

普段、

それを感じているか

どうか?

ということよりも、

 

今、そう問われて

自分が素直に

どう答えるか?

 

が大事だね。

 

自分が出せる

最速は

出せているなぁ、と

 

素直に思える人は

それでOK。

 

そう思えない人は

なぜだろう?

問うといい。

 

何が

最速を

阻害しているの

だろう?

 

それは

自分自身だろうか?

 

それとも

外部環境の何か

だろうか?

 

少し自分なりに

分析するといい。

 

阻害要因が

わからない場合は

逆に、

 

では

何があれば

最速になれるかな?

 

何が

足りないかな?

 

何が

必要かな?

 

など、

問うといい。

 

ここで、

「最速じゃないと

いけないのですか?」

言われそうだが、

 

そうです。

いけないんです。

 

答えよう。

 

今は、ね。

 

今は、そこが

大事。

 

もちろん

いろんな「最速」が

ある。

 

理想通りの

「最速」でなくても

いい。

 

でも、

今、最も大事なのは、

 

「私は最速だ」

 

素直に思える

生き方、進み方を

毎日続けることだ。

 

そうでない場合は

ちゃんと

原因を見つめ、

 

「最速を出そう」

 

もしくは

 

「最速を出せる

自分になろう」

 

もしくは

 

「最速を出せる

環境を整えよう」

 

真剣になることだ。

 

今は、ね。

 

今だからこそ、ね。

 

つづく

 

空っぽ

 

一度、

「空っぽ」

になってみると

いい。

 

本当に

なれるかどうかは

別として、

 

真剣に

「空っぽになろう」

としてみると

いい。

 

演技でも

いいから、

 

「空っぽ」で

人と

向き合ってごらんよ。

 

その人の

「すべて」が

入ってくるから。

 

その人は

これまでとは

別人だから。

 

というのはさ、

 

本当は

神秘

なんだよ。

 

この人は

この人。

 

あの人は

あの人。

 

そう決めつけて

いるのは

自分だけでさ。

 

人はさ、

 

奥深いよ。

 

誰もが。

 

そんなに

浅いもんじゃ

ないよ。

 

自分が浅く

見てるだけ。

 

だいたいさ、

 

自分自身が

人だと

言うだけで、

 

人のことを

わかったつもりに

なっちゃ

いかんわな。

 

自分のこと

わかる?

 

本当の自分の

姿、

わかる?

 

わかんないよ、

そんなの。

 

自分自身も

浅く見ない方が

いいよ。

 

やはり

神秘だよ。

 

人を愛する、

ってさ、

 

本当は

簡単なことじゃ

ないかな。

 

難しいと

決めつけている

だけで。

 

空っぽに

なると

わかるよ。

 

それが。

 

何故だか

すごくよく

わかるんだよ。

 

空っぽ

っていうのは

 

豊かだな。

 

空っぽ

っていうのは

 

自由だな。

 

つづく

 

その言葉

 

私は

「言葉」

を大事にしたい。

 

コーチングに

おいて

 

よく私は、

 

「その今のお答えを

もっと、あなたらしく

言い換えると

どうなりますか?」

 

という

問いを投げさせて

いただく。

 

そして時には、

意味合いとして

まったく同じでも、

 

本当に

その人らしい

一言を見つけるために

 

長い時間をかける

こともある。

 

例えば

その人が

 

「楽しい」

 

という言葉を

言われたとして、

 

99.9%は

ピンと来るとしても

 

ほんのほんのわずかの

違和感があり、

しかも

これはとてもその人に

とって

重要なキーワードだと

思えれば、

 

上記の問いを

投げる。

 

その結果、

 

「楽しい」

ではなく、

 

「楽しく」

 

となったり

する。

 

一文字変わる

だけだ。

 

しかしその一文字

で、

その人の想いが

100%込められる

感覚がするので

ある。

 

このほんのわずかな差

が、

とてつもなく大きいと

 

ある時に

強烈にわかった。

 

100%の言葉は

その人の

魂の言葉だ。

 

つまりは

真本音の言葉だ。

 

それは

その人の中に

ずっと残る。

 

というよりも、

これまでもずっと

 

そこにあった

 

ものだ。

 

そこにあった

言葉を

掘り起こすのと、

 

今ここで

言葉をつくる

 

のでは

雲泥の差だ。

 

そして

100%の言葉は

このように一度、

顕在化すれば

 

ずっとその人の

心の中心に

据えられ、

意識される。

 

たとえ

時間が経ち

その言葉自体を

忘れてしまっても、

 

「楽しく」

という視点の

アンテナは立ち続け、

 

その人にとっての

必要な情報が

インプットされたり、

 

その人の無意識の

アウトプット(=行動)

につながる。

 

私達の顕在意識は

「言葉」

によって生きている。

 

どのような言葉を

持つかで

人生は変わる。

 

どのような言葉を

使うかで

人生は変わる。

 

決して大袈裟な

表現ではない。

 

だから私は

私の語る言葉の

一つ一つを

大事にしたいし、

 

人の語る

言葉の一つ一つも

大事にしたい。

 

言葉を大事に

するということは

 

人生を大事にする

ということだと

思うのだ。

 

つづく

 

可愛らしい

 

私のクライアントさん

のほとんどは

 

向き合うだけで

こちらが

癒される。

 

その人の

生命力そのものが

 

ダイレクトに

伝わり来る。

 

その居心地よさを

味わいたくて

私はこの仕事を

続けているのではないか

思ってしまうほどだ。

 

しかし実は

その居心地の良さ

とか

生命力とかは、

 

私のクライアントさん

特有のものでは

ない。

 

すべての人が

持ち合わせている

ものだ。

 

しかし残念ながら、

それが

出る人と出ない人が

いる。

 

その根本原因は

実にシンプル。

 

「生き方」

 

だ。

 

その人の生き方。

 

そこに尽きる。

 

自分が本当に

望む生き方を

 

毎日、

 

今この瞬間に、

 

できているか

どうか?

 

そう。

もう、ここだけ

だ。

はっきり言って。

 

それができている

人は

本来持っている

生命力が

発現する。

 

それがその人

独自の

波動となる。

 

その人にとっての

最も自然な

波長となる。

 

私は「魅力」とは

波長

だと思っている。

 

本来のその人の

波長でいられる時、

 

その人は

間違いなく

魅力的だ。

 

赤ちゃんが

可愛らしいのは、

その子本来の

波長が

放たれているから。

 

大人も

同じだ。

 

本来の波長の

時、

 

誰もが

可愛らしくなる。

 

おっさんだろうと

可愛らしくなるのだ。

 

そういう意味で、

私のクライアントさんは

皆、可愛らしい。

 

コーチングの準備で

クライアントさんに

意識を向け、

 

クライアントさんの

お顔を思い出すと、

 

それだけで

フッと笑ってしまう。

 

道端で

歩いていて思い出しても

フッと笑ってしまう。

 

そういう人達が

ビジネスをやるのだから、

 

そりゃ

人が惹きつけられるわな。

 

人たらし

という言葉があるが、

 

みんなそうなる。

 

本当は

人類全員が

人たらしなんだけどな。

 

つづく

 

あなたはあなただろ

 

あなたのその

安定感が

 

どれだけみんなを

救っているか、

 

あなたは

気づいていない。

 

あなたのその

厳しさが

 

どれだけ

あたたかいかを

 

あなたは

気づいていない。

 

あなたは

あまりに謙虚だ。

 

いや、

謙虚という言葉

自体が軽く見える。

 

あなたは

すべてを尊重する。

 

人だけでは

ない。

 

物も、お金も

空も、花も、

風も、光も、

 

世界のすべてだ。

 

なぜそんなにも

あらゆるものを

愛せるのだろう。

 

凄いんだなぁ、

という

眼差しで見ても、

 

あなたはいつも

キョトンとしている。

 

きっと

当たり前のこと

なんだね。

 

あなたと共に

進もうとすると

 

やっぱり

怖い。

 

あなたは捨て身な

ことを

平気でする。

 

しかもそれを

楽しんでいる。

 

まるで

お絵描きを

しているように。

 

なぜそんなに

無邪気で

いられるのだろう。

 

あなたは

前も

後ろも

横も

斜めも

 

すべてを見ている。

 

慈しんでいる。

 

自分の愚かさも

他人の愚かさも

 

すべてを

にこやかに

見つめている。

 

そして

何も言わない。

 

でも

たったそれだけで

私も

誰もが

救われるのだ。

 

それだけで

勇気が

湧いてくるのだ。

 

私は

あなたのような人に

なりたいと

思うのだが、

 

きっと

そう思うだけで

もうそれは

不自然なんだろう。

 

それにもし

あなたにそう

伝えたら、

 

あなたは笑いながら

答えるだろう。

 

あなたは

あなただろ。

 

・・・と。

 

私はあえて

あなたから離れて

進むことにする。

 

それが私の

道のような気がする。

 

きっと

それを伝えても

あなたはにこやかに

答えるのだろう。

 

やっぱり

あなたは

あなただな。

 

・・・と。

 

そして

普通の顔をして

こう付け加えるだろう。

 

離れて進んでも

いつも一緒に

いるしな。

 

・・・とね。

 

つづく

 

見当がつかん

 

今日は私の

53回目の誕生日

なのだが、

 

たまには

自分で自分に

プレゼントしてみよう。

 

一つ

問いのプレゼント。

 

・・・

 

これから私は

これまで知らなかった

私自身の何かを

開放しようと思う。

 

それを

開放するためには、

 

これまであえて

やろう

と思いながらも

止めてきたことを

 

もう一度

やろうと思う。

 

さて、

それは

何だろう?

 

・・・

 

という問いが

浮かんだ。

 

さっぱり

わからん。笑

 

でもこれ、

皆さんにも結構

当てはまる問いの

ようだから、

 

皆さん自身も

考えてみると

いいね。

 

共に

考えてみよう。

 

つづく

 

進むか、戻るか

 

人生においては

どうしても

覚悟を問わねば

ならない時がある。

 

覚悟を問わずに

曖昧なまま

進むわけには

いかない時がある。

 

もちろん、

 

人間には恐怖が

あるので、

どうしても覚悟を

持てないことも

あるだろう。

 

その場合は、

やり直しだ。

 

もう一度、

少し戻って

やり直す。

 

人生には

やり直しも可能だ。

 

何度もやり直し、

ようやく覚悟を

持ち、

 

一つの境界を

超える。

 

何度も何度も

挑戦しようとし、

何度も何度も

境界の手前で

引き返す人もいる。

 

それはそれで、

その人の選択であり、

人生だ。

 

大事なのは、

ちゃんとすべてを

自分で決めること。

 

覚悟を持ち

境界を超え、

さらに先に進むか?

 

それとも

今回はいったん

逃げるか?

 

「逃げる」というように

表現すると、

とてもイヤな感覚を

覚えるかもしれないが、

 

事実、それは

逃げることだから。

 

そこは曖昧に

してはならない。

 

一番いけないのは、

逃げていることを

誤魔化すこと。

 

曖昧なまま

そこにずっと

留まること。

 

わぁ、ダメだった、

逃げちまったぁ!

 

・・・で良いのだ。

 

逃げることを

自覚し、

 

逃げるなら

しっかりと

自分の意思で

逃げること。

 

それさえできれば、

やり直しは

効くんだ。

 

以上を踏まえて、

もう一度、

 

今一度、

 

自分自身の

「覚悟」

を問うてほしい。

 

本当に

このまま進むのか?

 

この、すぐ先に

待つであろう

「境界」

を超えるのか?

 

次のステージに

入るのか?

 

「進む」

ということを決めるなら、

 

怖かろうが、

自信がなかろうが、

 

膝が

ガクガクになろうが、

 

捨て身になって

進むことだ。

 

「境界」さえ越えれば、

まったく新たな

自分が

 

そこに現れるよ。

 

つづく

 

私の原点

 

目の前にある

「現実」

を、

 

ただあるがままに

捉えよう、

 

真剣に思うように

なったのは、

ちょうど20年くらい前

だ。

 

しかし当然だが、

そう思うようになった

からと言って、

すぐにできるわけでは

ない。

 

そこから試行錯誤が

始まり、

 

ようやく

「あるがままに

観れるようになったな」

思えるようになるまで

10年くらいを要した。

 

すると、

急に

「実在」

がわかるようになった。

 

私達が「現実」と

呼んでいるものは

「現象」

であり、

 

あらゆる「現象」の

根っこには

「実在」

がある、と。

 

それはまるで

映画のようで、

 

映画のフィルムという

実体が

「実在」であり、

 

映し出される映像が

「現象」である、

という事実。

 

それがわかるように

なった。

 

ところが。

 

この世の中の

現実と

映画との大きな違い

があることも

わかった。

 

映画の場合は、

フィルムの通りに

映像が映し出される。

 

しかし今の私達の

この世の中の

現実では、

 

実在という

フィルムがあるのに、

 

そのフィルムの内容とは

まったく異なる映像が

映し出されることが

多い、

 

という

実に驚嘆すべき事実

にぶち当たった。

 

フィルムがないのに

映し出される映像。

 

それがだいたい

9割を占めるのだ。

この世の中は。

 

実在のない

現象。

 

それはいわゆる

「幻影」

のようなもの。

 

一つの「現象」が

次の「幻影」を

生み出し、

 

その「幻影」に

惑わされて

次の「現象」が

創り出されてしまう。

 

そんなことが

この世の中では

当たり前のように

起きている。

 

そして

それをすると、

私達人間は

単純に苦しみ、

 

幻影の中で

自分を失う

ということもわかった。

 

自分自身が

大切に持っている

フィルム、

つまりは「実在」を

 

ちゃんと映像として

映し出すこと。

 

実在に基づいた

現象を生み出すこと。

 

それこそが

私達人間が

 

人間としての

 

喜びや幸せを

感じ取るための

根本要因であり、

 

それを外しては

 

どれだけ

いわゆる「成功」という

ものを手に入れても、

 

それが

幻影である以上、

 

私達は決して

幸せを感じることは

ない。

 

たとえ一時的に

感じたとしても、

その幸せは

次の「不安」と「枯渇感」を

生み出すだけの

幻影となってしまう。

 

ということが

わかるようになった。

 

と同時に、

 

無意識にせよ、

その辺りのことを

感覚的によく

わかっている人も

実はかなり多い、

 

ということも

わかり、

 

かつ、

 

自分の実在を

感じ取れる体験を

一度でも積めば、

その感性を

(人として誰もが

最初から持ち合わせている

その感性を)

 

私達は取り戻す

ことができる

という事実も。

 

そう。

 

もうおわかりかと

思うが、

 

実在から来ている

私達の想いを

『真本音』

 

幻影のみの

私達の想いを

『反応本音』

 

私は名付けた。

 

真本音度合いを

高める、

とは

 

実在を現象化する

度合いを

高めること。

 

つまりは

自分自身を

正常化し、

 

幻影の世界から

救い出すこと。

 

他ならない。

 

そしてもし

その状態で

人生を送り、

 

もしくは

ビジネスを行なう

ことができれば、

 

世の中はもっと

幸せなものに

なるだろう。

 

大変嬉しいことに、

 

今は

実在を感じ取れる

人が

本当に

急増している。

 

それは今の世の

希望だな

思うんだな。

 

つづく

 

妥協すんな

 

「妥協」

というのは、

妥協だと思うと

妥協になる。

 

しょうがない

妥協するか、

 

となると

妥協となる。

 

私は何をどうしても

これが嫌だ。

 

妥協をするくらいなら、

仲違いを選ぶ。

 

妥協は

不調和の象徴だと

思うのだ。

 

ただ、

 

「妥協」という言葉の

使い方とか

定義の仕方は

人によって違う。

 

私の言う「妥協」とは、

自分も相手も

納得していない状態

だ。

 

「妥協」に対して

私は

 

「最善」

 

という言葉を

よく使う。

 

最善を尽くす

のは

私は好きだ。

 

いや、

人生とは本来

最善を尽くすもの

だと思っている。

 

自分の思う通りに

いかないのが

人生。

 

自分の理想通りに

いかないのが

人生。

 

「理想」を常に

大切に胸に抱き続ける

ことは

とても大事だと思う。

 

しかし私達の目の前

には

「現実」があり

「他者」もいる。

 

自分の理想のみを

押しつけて進む

こともまた

不調和の象徴だ。

 

理想を抱きつつも、

現実と向き合い、

 

今できる最善は

これだ!

 

と決めること。

 

それが大切であり

それは「妥協」とは

異なり、

 

納得がいっている。

 

妥協も最善も

結局は同じ選択かも

しれない。

 

しかし

 

しょうがない、

妥協するか。

 

 

今はこれが

最善だな。

 

 

この違いは

大きい。

 

いや、「大きい」

というレベルでは

ない。

 

似て非なるもの。

 

本質が

まったく異なるもの。

 

だから私は

「最善」だと思えるまで

決して

選択をしない。

 

決断を

しない。

 

そのかわり、

「最善」だと思えれば

直ちに進む。

 

結局は、

妥協で進むよりも

最善で進む方が、

 

何十倍も

速く進めるし、

 

何百倍も

エネルギーは

高くなる。

 

だから、

 

先に進むために

妥協はするな。

 

先に進みたいならば、

決して

妥協はするな。

 

いついかなる時も

最善を尽くそう。

 

つづく

 

新たな私の1ヶ月

 

私は何者だろう?

 

という問いを

初めて持ったのは

19歳の時だった。

 

それから30数年

経つ。

 

もちろん、

今でもこの問いは

ここにある。

 

そして

いくつかの答えを

見つけてきた。

 

その時その時代

の私にとっての

ぴったりの答え達。

 

私はその答えに

できるだけ忠実に

生きた。

 

もちろん完璧には

いかなかったが、

常にそれを

目指した。

 

その時その時代

で答えは変わったが、

 

本質は

変わらない。

 

言葉にはならない

本質が

ずっとあった。

 

これは私なりの

生き方であったが、

 

この生き方の

おかげで

今の現実がある。

 

昔は

未熟だった。

 

そして

今も未熟だ。

 

それでいい。

 

未熟だからこそ

私は常に

本質を求める。

 

この部分だけは

確かに

妥協は一切

なかった。

 

未熟さは

無限にあったが。

 

私が新しい答えを

手に入れてから

約1ヶ月が過ぎた。

 

激変した。

 

自分自身が。

 

自分で自覚

できるくらいに。

 

そしてその

激変は

ここからさらに

加速していく。

 

仕事が変わる

わけではない。

 

個性が変わる

わけでもない。

 

対人関係が

変わるわけでも、

 

環境が変わる

わけでもない。

 

ただ、

 

私にとっての

人生の意味が

変わった。

 

時間の意味が

変わった。

 

今の私は

1ヶ月前の私とは

まったく異なる

 

時間との関わり方

 

をしている。

 

毎日が

とてつもなく

新鮮だ。

 

ようやくここにきて

また、

 

人生の醍醐味を

味わえている。

 

深く感謝。

 

つづく

 

もう見えるだろう

 

人には

目指すものがある。

 

それが何か

わかりません。

 

という人は

多いが、

 

それは

気づいていない

だけ、

 

顕在化されて

いないだけ、

 

現象化されて

いないだけ。

 

自分自身の

準備が整って

いないのだ。

 

「準備」と言っても

環境的なことでも

物理的なことでも

能力的なことでも

ない。

 

まぁ、時には

そういうことも

あるが、

 

「準備」とは

もっと本質的な

ことだ。

 

つまりは、

自分の意志

の準備であったり、

 

自分の覚悟

の準備であったり、

 

自分の生き方

の準備であったり。

 

どんな時も

自分自身を

じっと見つめている

自分がいる。

 

それを私は

「真本音」と呼ぶが、

 

自分の真本音が

自分自身に

OKを出すかどうか?

だ。

 

「準備OK」だな

と。

 

ただしそれは

自己評価とは

ちょっと違う。

 

ちょっと、

じゃないな。

 

本質的に

違う。

 

真本音は

自分自身を評価は

しない。

 

ただあるがままに

見つめ続ける

だけだ。

 

そして、

評価ではなく、

 

事実、として

摂理、として

 

「準備OKだな」

と。

 

う〜、ここのところの

説明は

難しいね。

 

でもまぁ、

そのOKが出ることで

私達は

自分の未来が

観えるようになる。

 

つまりは、

自分が何を

本当は

目指したいと

決めているのか?

 

急にわかるように

なる。

 

せめてそこまでは

ぜひ

がんばってほしい。

 

自分の目指している

もの、

 

本当に、

 

目指しているもの

が、

わからないままに

人生を終えてほしく

ないのだ。

 

目指しているもの

くらい

わかってほしいのだ。

 

それがわかれば、

もう

 

モチベーションアップ

とか、

前向きに生きろ

とか、

 

そんな必要は

ない。

 

自然に内側から

エネルギーが

溢れてくる。

 

勝手に動き

出して行くよ、

人は。

 

そっからが

本当の人生

だろ?

 

本当の人生、

早く始めようよ。

 

つづく

 

無限の幹だった

 

どうやら

深い森の中心に

私はいるようだ。

 

そこには

巨大な一つの

幹があった。

 

「大樹」と言えば

よいのだろうが、

 

それはあまりにも

大きくて、

見上げても

遥か上空まで

幹しか見えない。

 

この幹の周りを

人が手を繋いで

囲むとしたら、

 

いったい何人、

いや何十人の人が

必要だろうか。

 

そんな巨大な

幹だ。

 

私はただ

茫然とそこに

佇んでいた。

 

先程から

幹から何かが

伝わってきている。

 

何か

メッセージのような

ものか。

 

私は

あまりに神聖なので

近づき難いその幹に、

 

思い切って

近づいてみた。

 

体が痺れる

くらいの波動。

 

右手で

その幹に

触れてみる。

 

瞬間、

 

私の中に

同じ幹が生まれた。

 

思わず私は

その幹を

ハグする。

 

いったい、

目の前にある幹を

ハグしているのか、

それとも

私の中に生まれた幹を

ハグしているのか、

 

区別が

つかなった。

 

私は幹に

吸い込まれた。

 

目の前の幹

なのか、

自分の中の幹

なのか、

 

またもや

区別がつかない。

 

そんなことは

どうでもいいや、

という気になった。

 

そしてしばらくすると、

自分と幹の区別すら

つかなくなった。

 

私の意識は

遥か上空まで

伸びていた。

 

そして

思わぬことを

口走った。

 

まだまだ

細いな。

 

この幹のことか?

 

う〜ん、

まだまだだな。

 

確かに幹は

無限へと

伸び続けている。

 

そこに

終わりはない。

 

しかしあまりにも

それは

細いのだ。

 

ついさっきまでは

あんなに巨大に

見えたのに、

 

今は、

一本の細い糸

のように見える。

 

でも私は

この幹を

守っていかねば

ならない。

 

育てて

いかねば

ならない。

 

本来の太さを

取り戻すまで。

 

無限の

さらにその先を

突っ切るまで。

 

幹は

まだ未熟だ。

 

しかし

幹には

無限の可能性が

秘められている。

 

つづく

 

どっちの痛みだ?

 

心の痛みと

魂の痛みの

区別がつくようになると、

 

人のサポートは

非常にやりやすく

なる。

 

対応を

誤らなくなる。

 

今のこの人の

行動は、

 

心の痛みに

よるものか?

 

それとも

 

魂の痛みに

よるものか?

 

それによって

対応は

180度変わるからだ。

 

心の痛みは

現象であり、

 

魂の痛みは

実在だ。

 

・・・と書くと

わけがわからなくなる

と思うが、

 

基本的に

現象の痛みとは

幻影だ。

 

つまり本当は

「ここ」にはない。

 

その苦しみは

幻で、

その幻を人は

自ら創り続け、

 

その中に埋没し、

溺れる。

 

溺れた状態から

その人を救い出そう

としても

実は、キリがない。

 

何度救えたとしても、

その人は

同じ幻影を自ら

創り続けるからだ。

 

だから、

「幻影創り」そのものを

 

その癖を

 

直さなければ

ならない。

 

しかし実はこれは

それほど難しい

ことではない。

 

真本音度合いを

高めれば良い

からだ。

 

それをすることで

癖創り(幻影創り)は

だんだんと

止まる。

 

その人は

幻影に苦しむ人生

から

脱け出せる。

 

問題は、

 

魂の痛み

の方だ。

 

これは通常は

あまりに苦しい

ため、

 

多くの人は

この痛みに

麻痺がかかっている。

 

痛みを

自覚できない。

 

自覚できないが、

それは

とてつもない痛みなので、

 

その痛みを

感じていなくても

その痛みが

怖いので、

 

そこから逃れるための

行動パターンを

自ら無意識に

創り出す。

 

そしてその結果、

今度は

心の痛みを伴うような

現実を創り出して

しまう。

 

つまりは、

実在の痛みから

逃れるために

幻影の痛みを

創り出す、

 

・・・というのが

我々人間が

常にやり続けている

ことだ。

 

だからもちろん

対処法としては

真本音度合いを

高めることは必須だ。

 

しかしながら、

それによって

心の痛み(幻影)は

消えていくが、

 

実在の痛み(魂の痛み)は

残る。

 

実在している

からだ。

 

むしろ人によっては

真本音度合いが

高まることで、

 

麻痺が取れて、

痛みを感じるように

なることも。

 

しかしその痛みは

やはり

尋常な痛みや苦しみ

ではない。

 

尋常ではない

のだが、

 

それでもしかし、

 

麻痺していたのが

痛みを自覚できるように

なるのは

大きな進歩だ。

 

痛みがわかれば

対処ができるから。

 

いやむしろ、

対処ではなく

根本解決ができる

のだ。

 

だから

変な言い方だが、

 

私はクライアントさんが

魂の痛みを感じるように

なると、

 

やった!

 

と、密かに

喜んでいる。

 

これでこの人は

生きながらにして

生まれ変わることが

できるからだ。

 

生まれ変わる

と言っても、

別の人間や人格に

なるのではない。

 

これまでずっと

苦しめられてきた

痛みから

解放されるのだ。

 

その人の

本来の姿、

 

本来の行動、

 

本来の人生を

 

その人は

痛みのないところで

健康的に

創り出せるように

なるのだ。

 

こんな

嬉しいことはない。

 

しかしそのためには

魂の痛みを

超えていかねば

ならない。

 

これが私のサポート

の本質であり、

 

これができる人を

私は「コーチ」と

呼んでいる。

 

「コーチ」を

増やしたい。

 

一人ひとり

丁寧に。

 

つづく

 

プレゼント

 

「問い」というのは

プレゼントだと

私は思っている。

 

すぐに答えは

出なくてもいい。

 

しかし

その問いが

常に心の中心を

占めることで、

 

時には

人生の展開を

根こそぎ変えてしまう

ことすらある。

 

それが

問いの力だ。

 

そういった意味で、

今回も

一つ、

問いをプレゼントしよう。

 

 

『本来であれば

すでにあなたと出会えて

いるべき人で、

しかしまだ出会えていない人

がいたとしたら、

その人と出会えるために、

あなたは何を変える?』

 

 

つづく