チームパフォーマンスコーチ

そのモヤモヤは

 

真本音度合いが

高まると、

 

突然に

理由もなく

モヤモヤしてくることが

ある。

 

しかしそのモヤモヤは

反応本音レベルの

それとは根本的に

違う感覚だ。

 

「本当に」

モヤモヤするのだ。

 

それは

実在レベルのモヤモヤ

だからだ。

 

そして

そういったモヤモヤは

大切にするといい。

 

モヤモヤに

しっかり意識を向け

 

それが

どのような感情を持ち

何を訴えているのか

を知るといい。

 

多くの場合

そのモヤモヤは

 

怒り

 

であったりする。

 

しかも

かなり強く深い

怒りだ。

 

もしくは、

 

悲しみ

 

であったりする。

 

かなり強く深い

悲しみだ。

 

いずれにしても、

 

何がそんなに

腹立たしいのか?

 

何がそんなに

悲しいのか?

 

しっかりと

理解するといい。

 

それは

自分自身の人生の

方向性を

明確に示してくれる

こともある。

 

そこまでいかなくても、

少なくとも

 

明日

 

という一日の

意味と

自分のすべきことは

 

明確に示して

くれるよ。

 

つづく

 

頼らなくてよかった

 

心の中に

濁流がある。

 

激しい水の流れは

私を呑み込んだ。

 

私はこのまま

流されていくのか?

 

とも思うのだが、

 

私はただ

襲いかかる濁流を

見つめ続けた。

 

目の前に

長く張り出した

大樹の枝があった。

 

恐らく

これにつかまれば

濁流からは

逃げられるだろうな、

と思うのだが、

 

私は決して

それには

手を伸ばさなかった。

 

私は何の抵抗も

なく、

 

しかしただ

毅然として

 

濁流を見つめた。

 

濁流は

凄い勢いで

私を流そうとするのだが、

 

しかし

私は流れなかった。

 

なぜ私は

流れずにいられるのだろう?

疑問に思いながらも、

 

私は毅然と

そこに

立ち続けた。

 

そのうちに

先ほど枝を張っていた

大樹が

濁流によって

流された。

 

あの時あの枝に

頼っていたら

私も一緒に

流されたんだな、と

わかった。

 

うん。

 

流されるなら

流されるで

いい。

 

でも私は

ここに立ち続けると

決めている。

 

決めているのに

流されたら、

それはそれで

そこまでだった

ということさ。

 

そんな、ある種

呑気な気持ちで

私はまた

濁流を

見つめ続けた。

 

濁流は

まるで何匹もの

飢えた狼のような

激しい表情で

私に吠えた。

 

でもやはり私は

ただそれを

あるがままに

正面から見つめた。

 

そしてついに、

 

ある瞬間に

私はわかったのだ。

 

私はもう

ここからは

流されないな、と。

 

どのような流れが

私を襲っても、

私はきっと

このままだろう、と。

 

そう思えた瞬間から

濁流達が

可愛らしく観えた。

 

私自身は

とても楽になった。

 

「安易な道」

「楽な道」

似ているようで

まったく違う。

 

本当に「楽な道」を

見つけ出すには

 

覚悟と決意が

必要だ。

 

自分の足で

立ち続けようとする

意志が必要だ。

 

大樹の枝に

つかまるよりも、

 

自らの足で

立ち続ける方が

 

楽だった。

 

安易な道に

行かなくてよかった。

 

つづく

 

凡だな

 

聖徳太子さんが

十七条憲法の第十条

で書かれた言葉がある。

 

・・・

我必ず聖に非ず。

彼必ず愚に非ず。

共に是れ凡夫ならくのみ。

・・・

 

良い言葉だな

と思う。

 

この中に

 

『凡』

 

という文字がある。

 

平凡の「凡」であるが、

実は私は結構この文字

好きである。

 

以下は一般的に

言われていることではなく、

私なりの捉え方

だ。

 

・・・・・・

 

『凡』

の本質的な意味は、

 

「枠の前に立つ」

 

ということだ。

 

・・・とある時私は

人と向かい合っている

瞬間に思った。

 

漢字を見ると、

風かんむりの中に

点が書いてあるが、

 

この点は人。

 

風かんむりは枠。

 

枠の中に人が

いる。

 

私はこれは

人という存在の

本質的な意味を

現していると思う。

 

私達は皆、

枠の前に立つ存在

だ。

 

まずはそれを

自覚することが

最も大事だと思う。

 

そして、

今自分の前には

どのような枠が

あるのか?

 

今の私は

どのような枠を

超えることが

今後の私の人生において

大切なことなのか?

 

こういった問いと

真摯に向き合うことが

「凡」の本質であり、

 

人の本質だと

思うのだ。

 

「凡」は辞書で引けば、

「普通」とか

「ありふれた」とか

あるが、

 

常に何らかの枠の前に

立ち、

枠を超えて行こうとする

そのものが、

 

本来は、

 

私達にとっては

ありふれた普通の

行為であり

人生であるのだと

思う。

 

そして

そういった人生を

誠実に進めることが

人としての

本質的な幸せでは

ないか。

 

逆に

「凡」である自分を

認めないところから

私達には

あらゆる苦難や苦悩が

始まるのではないか。

 

私はそう

思うのだ。

 

しかも。

 

「凡」の風かんむりの中に

もう一つ点を

入れると、

 

それは

 

『風』

 

の略字となる。

 

そのもう一つの点とは、

私は

「魂」であり

「真本音」であると

勝手に解釈をし、

 

枠の前に立つ自分に

ちゃんと

魂や真本音を宿し、

それに素直に枠に

向かうことで、

 

私達は風になる

 

ことができると

思っている。

 

ちょいと

格好良過ぎかな?

 

つづく

 

落ち着けばわかる

 

一見、答えが

絶対にわからないような

ことでも、

 

落ち着けば

わかる。

 

落ち着いていないから

わからないだけだ。

 

落ち着けばいい。

 

ただしそれは

表面上の落ち着きでは

意味がない。

 

中心の

落ち着きだ。

 

まぁ、

自分の中心がわかる

だけでも

その時点でもう随分と

落ち着いている

ということになるけどね。

 

中心がわからない

場合は、

少し時間はかかるが、

 

落ち着かない心を

一つずつ

見つめていくしかない。

 

自分の中で

暴れたり、縮こまったり

している

落ち着かない心達は

皆、

 

「自分のことを

理解してほしい」

 

と思っている。

 

その気持ちを

満たすことだ。

 

一つずつ丁寧に

自分の心の声やつぶやきを

拾い上げて、

 

ただ、見つめる。

 

見つめるだけで

いい。

 

その気持ちを

何とかしてなだめよう

とか

肯定してあげよう

とか

 

まったくしなくていい。

 

ただ、

少しあたたかい眼差しで

見つめること。

 

本当は

こういったことが

日頃からできていると、

 

毎日簡単に

落ち着くことが

できるんだけどね。

 

でも定期的に

ちゃんとこのようにして

自分の心を

見つめることだ。

 

一つずつちゃんと

やっていれば、

 

ある瞬間に

スッと

落ち着ける。

 

心の座り心地が

変わるのだ。

 

お尻の下に

いろんな余分なものが

挟まっていたような

居心地の悪さが

フッと抜け、

 

普通に

シャンと座れるような

感覚だ。

 

あ、落ち着けたな。

 

とすぐに

わかるだろう。

 

そうしたら

自分の中心はどこだろう?

意識を向けてみよう。

 

中心軸

でもいい。

 

つまりは自分の中の

ブレない部分だ。

 

その存在を

感じ取れて、

かつ

心の座りが良くなったら、

 

その落ち着いた状態で

ようやく

 

今、迷っていること

今、悩んでいること

考えよう。

 

案外、

一瞬で答えが

出るかもよ。

 

つづく

 

もうすぐ完了だ

 

自分の中に

 

「花が咲いた」

 

ことを自覚しよう。

 

あなたはここしばらく

だいぶ

苦しんだはずだ。

 

ひょっとすると

これまでの人生で

最大ともいえるくらい

不安定に陥った

かもしれない。

 

絶望や虚無や

虚しさや、

 

エネルギーがゼロに

なったり

 

すべてに意味を

見出せなく

なったり。

 

その多くは

あなた自身が

自らにもたらしたもの

だ。

 

自分の

脱皮のために。

 

だいぶ

苦しかったろうな。

 

でも、

あなたの今回の

その大きな脱皮は

 

もうすぐ完了

しようとしている。

 

しっかり完了させる

ためには、

 

今回の脱皮によって

あなたの中に

何が芽生え、

 

そして

どんな花が咲こうと

しているのか?

 

もしくは、

どんな花がすでに

咲いたのか?

 

それをあるがままに

見つめることだ。

 

ひょっとすると

それは

まだほんの小さな

芽かもしれない。

 

しかしその芽は

今後のあなたの人生を

大きく変える。

 

それくらいの

インパクトを持った

芽だ。

 

あなたの宝物に

育つ芽だ。

 

しっかりと

見つめよう。

 

「この2週間で、

私は何が変わった?」

 

そう

問いかけ続けよう。

 

ほんのわずかな

変化が

 

あなたの芽の

ヒントだ。

 

つづく

 

駆け抜けたい

 

全力で走って

いた。

 

妙にスピードが

速いなぁ、

 

と思っていたら、

 

いつの間にか、

新幹線に乗っている

自分に気づいた。

 

しかも

運転席のすぐ上くらいの

屋根の上に

私は座っている。

 

なるほど、

こりゃ速いはずだ。

 

妙に納得をして

私はその速さを

味わった。

 

周りの世界が

もの凄いスピードで

駆け抜けていく。

 

本当は

駆け抜けているのは

私(新幹線)なのだが、

 

しかし私は自分が

静止しているような

感覚となった。

 

そうか、

これくらいの

スピードになると

自分は止まっているように

感じるのだな、

 

とわかった。

 

安定しているのだ。

 

それは、

実際に止まっている

時よりも

 

雲泥の差で

 

安定しているように

感じられた。

 

左側を見ると、

海が広がっていた。

 

今まさに

朝日が昇ったところだ。

 

空も海も

キラキラ輝いている。

 

右を向けば、

富士山が

大きく裾野を伸ばしている。

 

朝日を受けながら

やさしくこちらを

見守っている。

 

海と富士山の

間を

超スピードで

駆け抜ける。

 

気持ちいいなぁ、

と思わず感嘆。

 

富士山も海も

ほんの一瞬しか

見えなかったが、

 

その一瞬の光景は

私の中に

永遠に刻まれた。

 

一瞬だからこそ

永遠に。

 

そうか、

私はこういった

人生を

望んでいるのだな

と思った。

 

私はやはり

超スピードで

駆け抜けたい。

 

まっすぐに

進みたい。

 

そして

周りの世界との

対面はその分

ほんのわずかずつに

なるけども、

 

だからこそ

その珠玉の一瞬を

永遠に自分の胸に

刻みながら

進みたい。

 

いつの間にか、

新幹線と私は

一つになっている。

 

新幹線は私であり

私は新幹線。

 

新幹線とは

チームだ。

 

そんなチームを

私は創りたい。

 

つづく

 

本来を戻そう

 

「本来の自分」

「今の自分」

ズレていないか?

 

「本来の自分」

今、どこにいる?

 

あなたの身体と

一致している?

 

それとも

少しズレている?

 

それとも

自分の身体から

離れてしまっている?

 

もし離れていると

したら、

どこにいる?

 

前? 後ろ? 横?

上? 下?

 

どれくらい

離れている?

 

 

「本来の自分」の場所

がわかったら、

 

「本来の自分」に

戻ってきてもらおう。

 

自分の身体と

一致させよう。

 

完全に

一致させよう。

 

すると、

フッと楽になるはずだ。

 

どことなく無理をしていた

感覚が

抜けるはずだ。

 

「本来の自分」が

戻ったら、

 

目を閉じて

深呼吸して

 

自分自身に

問うてみよう。

 

なぜ、いつの間にか

「本来の自分」が

「今の自分」から

ズレてしまったのだろうか?

 

と。

 

どこに問題があり、

 

自分は何を

修正すれば良いのだろうか?

 

とね。

 

つづく

 

走り出したな

 

気がつくと

森の中にいる。

 

少し

薄暗い。

 

白い大きな花が

いくつか咲いている。

 

その場所に

私は静かに

座っている。

 

物音はなく

とても静か。

 

私は、自分の

心の音

のみを聴いている。

 

その音は

言葉にはならないが、

 

言葉以上の

メッセージを

確かに私に伝えている。

 

もうすぐ

夜が明ける

とわかる。

 

問題は、

そこからだ。

 

夜明けと共に

すぐに

動くか?

 

それとも

もうしばらく、

 

少なくとも

今日一日は

 

静かにここに

いるか?

 

その答えが

もうすぐ出る

気配がある。

 

私は一切の

思考をやめ、

 

ただ

心の音のみに

意識を向ける。

 

意識が完全に

空になる。

 

「自分」という

認識がなくなる。

 

「世界」と「自分」の

区別が

なくなる。

 

・・・と、

 

ふと気がつくと、

 

私はもう

走り始めていた。

 

夜明け前

だと言うのに。

 

すでに

全力ダッシュ

だった。

 

なんだ、

そういうことかよ。

 

と、

私は半ば呆れ

ながらも

自分自身にちょっと

文句を言う。

 

でももう

走り出している。

 

もう

止まることはない。

 

しかも

もう、止まるという

選択肢がない

という事実を

目の当たりにして

 

私は心の底から

喜んでいる。

 

内側から

エネルギーが

溢れてくる。

 

すでに

先程までいた

森は

 

後ろの彼方に

見えなくなった。

 

もう

今は

前しか向かない。

 

決めるまでも

なかったな。

 

やはり最初から

決まっていたな。

 

なら

最初からそう言え、

 

私は自分にちょっと

文句を言った。

 

つづく

 

正しいかどうか

 

今、やろうとしている

ことが

正しいかどうか?

 

は、

やってみなければ

わからない。

 

だからまずは

捨て身になる気持ちで

やってみる。

 

すると当然、

正しかったな

思える時もあれば、

そうでない時も

ある。

 

でも、

 

正しいかどうか?

 

というのは

本当にわかるもの

だろうか。

 

本当にわかるのは

何年も経ってから、

 

いや、

100年後くらい、

 

いや、

やはり永遠にわからんかも

しれない。

 

第一、

何をもって

「正しい」

のだろうか?

 

「正しい」というのは

解釈であって、

 

ある人から見れば

正しくとも

別の人から見れば

正しくないことは

たくさんある。

 

たくさん、というか

ほとんどが

そうではないか。

 

・・・なんてことは

重々わかった上で

それでも私達は

正しさを

求める。

 

「答え」は

欲しいよな。

 

そりゃそうだろう。

 

でも

残念ながら

答えは誰も与えて

くれない。

 

自分で決めるしか

ない。

 

いつの間にか私は

50代になり、

それなりの経験も

積んだもんだから、

 

人の振る舞いを見れば

それなりに

アドバイスしたくなる。

 

それは正しいよ。

 

それは間違っているよ。

 

でも

そんなことを

している場合では

ないわな。

 

それでは

時代は何も

進まない。

 

私達はこれから

未開の地を

行こうとしている。

 

いや、

人類はずっと

そうだった。

 

でもこれまで以上に

私達は

「人間の道」とは何か?

突きつけられる。

 

人として

生きるというのは

どういうことなのか?

 

問われ続ける。

 

考えなくては、

生きていけなくなる。

 

ちゃんとした考え

なくしては

生きていけなくなる。

 

難易度の高い

時代だよ。

これからは。

 

覚悟せんといかん。

 

だからこそ

私達は

 

「正しさ」

 

を超えねばならない。

 

正しいかどうか?

 

という次元ではない

もう一つ上の次元で

 

物事を捉え

推進せねばならない。

 

「正しさ」について

論ずれば、

恐らく一生かかっても

答えは出ない。

 

だから

この次元にいては

ならない。

 

もう早いところ

次に進まねばならんのだ。

 

つづく

 

お〜、迷うなぁ

 

どんな人でも、

自分なりの価値観

というものがある。

 

これまで生きてきた

中で

培われた価値観。

 

こんなことを

大事にしよう。

 

でも

これにこだわることは

やめよう。

 

私も随分と

そういったものを

見つけてきた。

 

そしてある時には、

これまで大事にしてきた

価値観を

根本的に手放さなければ

ならないこともあった。

 

そしてその経験を経て

逆に、

その「手放し」こそが時には

大事であるという

価値観を持った。

 

でも今、

 

かつて私が

完全に手放した価値観を

もう一度

手に取るべきでは

ないか?

 

という問いの前に

私はいる。

 

かつて手放した

わけなので、

私にとってそれは

 

不要のもの

 

であり、

 

あってはならないもの

 

だった。

 

それがあることで

昔の私は

道を誤りかけた

こともあった。

 

だからそれは

私から見れば、

危険なもの

とも言える。

 

その価値観を

手放してからは

私は

人生がかなり

調和した。

 

仕事も。

 

でも、その

手放したものが

今、

私の目の前に

戻ってきた。

 

私はその価値観を

もう一度、

自分の中に

戻すのか?

 

それとも

やはりやめるのか?

 

その選択の前に

いる。

 

どうしようかな?

 

かつての私と

今の私の違いは、

 

今の私には

真本音レベルで

つながった

ビジネスパートナー達

がいる。

 

仲間がいる。

 

彼らに相談

してみようかな。

 

その価値観、

戻ってくるのは

20年ぶりくらいか。

 

20年間で

私も変化した。

 

今の私には

必要なことなのかな?

 

う〜ん。

 

相談しよう。

 

つづく

 

意図通りに行かない

 

人生は

何が起こるか

わからない。

 

私はますます

自分の意図通りに

何も進まなくなった。

 

なのにすべてが

調和するのだ。

 

びっくりすること

ばかりだ。

 

びっくりするのだが、

でも実は

最初からすべて

わかっていたんだな、

ともわかるし、

 

進んでいるその時も

わけがわからなく

なりながらも、

その奥ではずっと

すべてわかってやっている

自分の存在がある、

のもわかる。

 

自律という言葉を

私はよく使うが、

 

自律には2段階が

あるように思う。

 

第1段階は、

 

ちゃんと自らしっかり

考えて、

自らの意図を明確に

して、

その意図通りに

すべてを進める

 

という段階。

 

まずはやっぱり

これだ大事だな。

 

これをするためには

すべてに対して

自分が

「当事者である」

という自覚を

持たねばならない。

 

依存心では

決してできないこと

であり、

自分は中心である

という覚悟も

そこで学べる。

 

そしてそれをしっかり

現実の実践の中で

養い、

 

自分の意図を持ち

物事を着実に

当事者として進める

ようになった後に、

第2段階に入る。

 

その第2段階が、

 

自分の意図を

超える

 

という段階であり、

 

すべてを

委ねる

 

という段階だ。

 

この順番を間違えて、

第1段階を経ずして

第2段階をやろうと

すれば、

すべてが依存的になり

無責任になる。

 

第1段階の後に

自然に第2段階に入る

のが良い。

 

そして第2段階に入ると

自分の意図を持ち

自分の意図に固執

すればするほど、

 

意図通りには

行かなくなる。

 

意図は持つのだが、

その意図を

完璧に手放し、

 

すべてと共に

流れていく

 

ようにすることで

思わぬことばかりが

起こるが、

しかし当初の意図以上の

展開が起こり、

 

びっくりしながら

感動しながら

 

そして

常に面白さを感じながら

 

進むことができる。

 

私はこれをいつも

「真本音度合いを高める」

というサポートを

通じて

クライアントさん達に

ご体験いただいているが、

 

サポートしている側

である私自身が

 

あまりに意図通りに

行かないので

笑ってしまうというのが

最近の傾向だ。

 

すべては

意図通りには

行かない。

 

しかし、

願いは叶う。

 

・・・この醍醐味を

私は多くの方が

味わえるといいなぁと

思うし、

 

私自身も

もっともっと

味わい続けたいと

思っている。

 

つづく

 

何物かと共に問うてみる

 

目を閉じて、

 

私は今、

どこにいるのだろうか?

 

問うてみる。

 

そして

「世界」を感じて

みる。

 

意識を外へ外へ

大きく大きく

広げていく。

 

イメージではない。

 

ただ、

あるがままを

実感する。

 

すると、「世界」では

今まさにこの瞬間に

様々なものが

うごめいている

ことがわかる。

 

うねったり

ぶつかったり

ひしゃげたり

 

ひっついたり

一つになったり

離れたり

 

様々な動きの中で

しかしそのさらに

大きな何かが

 

「世界」のすべてを

包んでいることが

ある瞬間にまた

ふっと

わかる。

 

その大きな「何か」に

意識を向け続けると、

 

「自分」と「世界」の

区別が

わからなくなってくる。

 

その大きな「何か」

とは

自分自身ではないか、

とさえ

思えてくる。

 

でもある意味

きっとそうなのだろう。

 

とてつもなく大きな

自分が

「世界」を包み、

 

その「世界」が

小さな自分を

包んでいる。

 

でも結局は

大きな自分と小さな自分は

同じ自分で、

 

その中に「世界」

はあり、

 

そして結局は

「世界」も「自分」

なのだ。

 

ということが

感覚として

理解できる。

 

それを自覚した時、

 

その瞬間に

その大きな自分を

さらに大きく包み込む

何物かの存在を

感じるのだ。

 

その存在は

私や世界に

ありとあらゆるエネルギーを

常に

与えてくれている。

 

そしてそのエネルギーを

私はその何物かに

返している。

 

つまり、そこには

循環が生じている。

 

エネルギーの

循環だ。

 

これがある限り、

私達は生きていける

思う。

 

そして

この循環をさらに

大きく深くしていくのが

私達の存在の意味

なのだと、

 

それも何故だか

確信としてわかる。

 

そんな

エネルギー循環を

感じながら、

 

大きな自分も

小さな自分も

 

そして「世界」も

 

すべてを

感じながら、

 

問うてみる。

 

私は今、

どこにいるのだろうか?

 

そして私は今、

ここで

何をしようと

しているのだろうか?

 

その「答え」が

今日を生きる

指針となる。

 

つづく

 

約束の存在を思い出そう

 

広大な大地に

私は立っている。

 

風が吹いている。

 

北を見ると

白く険しい山が

彼方に見える。

 

南を見ると

大地は果てしなく続き

先は何も見えない。

 

東を見ると

あれは馬かな?

遠くにたくさんの馬が

見える。

 

西を見ると

テントがいくつも。

 

ここはどこだ?

 

私はここで何を

している?

 

ふと声を

かけられた。

 

後ろを振り向くと

若い女性の笑顔。

 

私の知らない言葉で

笑いながら何かを

話しかけてくる。

 

どうやら私の

知り合いかな。

 

気がつけば

いつの間にか

若い数人の男女が

私を囲んでいる。

 

皆、笑顔だ。

 

いつも一緒にいる

連中のようだ。

 

私には何の記憶も

ないのだが、

彼らと一緒にいることが

当たり前のように

思える。

 

とても心が

落ち着く。

 

年長者のような男性が

何かを真剣に

私に語りかける。

 

言葉はわからないが

とても大事な

話なのはわかる。

 

なぜか私は

頷いている。

 

と同時に

私の心の中に

何かが芽生えた。

 

それは

可愛らしい小さな

花。

 

青紫色を

している。

 

それを観た瞬間に

私は

ここに帰った。

 

私はいつもの

仕事机に

座っていた。

 

夢か?

 

幻か?

 

いや、どちらも

違うな。

 

青紫色の花は

私の心の中心に

咲いたままだ。

 

それを見つめて

いると、

 

あぁこれは

「約束」だな、と

わかった。

 

私は、彼と

彼らと

 

とても大事な

約束をした。

 

彼らが誰かは

わからない。

 

いつの時代かも

わからない。

 

でも確かに

私は

約束をした。

 

その約束は必ず

果たさねば

ならない。

 

そのために私は

ここに来たのだ。

 

そういえば

私には他にも

たくさんの約束が

あるような気がする。

 

たくさんの人と

たくさんの約束を

交わしてきたような

気がする。

 

しかもその約束には

すべて

期限がある。

 

その期限を

ギリギリになりながらも

ここまではすべて

間に合わせてきた。

 

きっとそうだ。

 

そしてまた

もうすぐ一つの約束の

期限が迫っているんだな。

 

期限付きの

約束。

 

いや、

 

約束とは本来

期限があるものだ。

 

これは私だけでは

ないはず。

 

皆、誰もが

「約束」を抱いている。

 

そのすべてには

「期限」がある。

 

期限を守りながら

約束を果たすことが、

 

私達の為すこと

であり、

 

そこに真摯になることが

自らの望む人生に

直結するのだと

 

私は思うね。

 

つづく

 

トツトツと時間は進む

 

時間を見つめる。

 

ということを

最近の私は

よくやる。

 

またいつものごとく

変なことを言ってるな、

と思われるかも

しれないが、

 

ぜひやってみて

ほしい。

 

1分1秒、

一つ一つ

トツトツと刻んでいく

この時間。

 

その一瞬一瞬を

全意識で

見つめるのだ。

 

すると、

 

あぁこの一つ一つの

時間の刻みによって

私の人生は

あるのだな、

改めて思うよ。

 

最近は街を一人で

歩いている時は、

気がつけばいつも

これをしている。

 

すると、

目に映るものすべてが、

 

自分を包む世界の

すべてが、

 

本当に自分と共に

あるのだな、

と感じ、

 

こういうの

何と言うのだろうか、

 

やっぱり

 

感謝、

という言葉になるのかな。

 

表現できないような

あたたかな気持ちに

なれる。

 

私は

現役引退を

78歳の4月と

決めている。

 

まぁ勝手に決めている

わけだが、

でも、真本音で決めている

ので、

きっとそうなるのだろう。

 

するとあと

26年。

 

これを長い、

と感じるか、

 

短い、と

感じるか。

 

私が自分で

成し遂げたいと思っている

自分のビジョンから

すれば、

 

短過ぎるだろう、

 

と感じるし、

 

ここまでの道のりや

今の毎日の充実度に

目を向ければ、

 

本当にこんな毎日が

あと26年も続くのか?

 

長過ぎないか、

 

とも感じる。

 

いずれにしても

変わらないのは、

 

一つ一つ

1秒1秒

時間は、今この瞬間に

刻まれていく

という事実であり、

 

私という人間は、

その時間と共に

今ここにあるという

真実だ。

 

私達人間は、

真本音で

この、時間というものを

信じられないくらいの

深さでもって

大切にしているし、

愛している。

 

自分を愛する

とは

この一刻の時間を

愛するということだ。

 

そう考えると

あと26年、

 

おぉそりゃ

短いなぁ、

 

と思うな。

 

この一刻、

 

ここでしか

できないことを

やる。

 

この一刻、

 

ここで

やってはならないことは

決して

やらない。

 

そんな生き方を

これからもずっと

このまま

大切にしていきたいな。

 

つづく

 

涙が出る出る

 

あー、この人は

素晴らし過ぎるな。

 

お手上げだ。

 

・・・そう思う瞬間に

出会えるのが、

この仕事をさせていただく

最大の喜びの

一つかな。

 

素晴らし過ぎて

言葉にできない。

 

声も出せない。

 

心の中で

両手を挙げて

降参するしかない。

 

こういう時には

私はその人に

どう言葉をかければ

良いのか、

 

いまだに

わからない。

 

ただし、

そう思える瞬間は

何もその人が

もの凄い何かを達成した

とか、

 

驚嘆するような

行動を起こしたとか、

 

そういう時では

ない。

面白いことに。

 

それよりも

ほんの一瞬の

ほんの些細な

その人の振る舞い、

 

ちょっとした

表情、

 

ちょっとした

一言。

 

その多くは

淡々としたものであり、

あまりにその人にとっては

自然なことなので、

 

きっと当の本人は

私の感動など

まるで気づいていない

だろうし、

 

後になって記憶にも

上らない、

そんな「普通」の

瞬間ばかりだ。

 

でもそういった

「普通」の中にこそ、

 

人の本当の魅力

 

というのは

滲み出るのだ。

 

そして私は

それを感じると、

 

その場では

何気ないふりを

しているが、

 

後になって、

 

多くは、

夜になって、

 

その瞬間のことを

思い出し、

 

さめざめと

泣いたりする。

 

自分がなぜ

これほど泣けるかは

わからない。

 

心の感動とは

別物だ。

 

まぁやはり

魂の感動という

やつなのだろう。

 

そういった涙の

後は、

 

とても心は

澄み渡る。

 

まるで

気持ちのよい心のシャワー

を浴びたようだ。

 

そしてそれは

私に

根本的な活力を

与えてくれる。

 

人間には

そんな素晴らしさと

力があるのだと、

 

その度に

思うのだ。

 

いつもは

そうした涙が出たとしても

その後で

このブログを書くのだが、

 

今日は何となく、

泣きながら

書いてみました。

 

つづく

 

せめぎ合えばいい

 

自分を縛る自分。

 

自分を開放しようと

する自分。

 

私達の中には

二つの自分が

せめぎ合っている。

 

どちらが良い悪い

ではない。

 

両方とも

大事な自分だ。

 

この二つの自分は

表面上は

せめぎ合っていても、

 

本当は

協力し合っている

のだ。

 

ある時は自分を

縛り、

ある時は自分を

開放し、

 

・・・を繰り返しながら

自分を徐々に

ステップアップさせていく。

 

その「縛り」と「開放」

がいかに調和するか?

 

ここがポイントであり、

 

真本音度合いが高まる

とは

この調和度合いが高まる

ことでもある。

 

本当に縛るべき時に

自分を縛り、

 

本当に開放すべき時に

自分を開放する。

 

それにより私達は

自分の望むスピードで

人生と

進化を

進めることができる。

 

だから、

 

縛る自分をなくそう

などと

してはならない。

 

すべての自分には

大切な役割がある。

 

その役割を

ちゃんと全うさせて

あげることこそが

 

自分自身への愛

である。

 

さて。

 

ではまた今回も

問いを一つ。

 

 

『これからの3ヶ月間だけ

限定で、

私は自分自身の何を

縛り続けようか?』

 

 

ちゃんと縛りつける

ことで、

 

ちゃんと開放できる

もんだ。

 

つづく

 

断絶すべき時がある

 

一つだったものが

二つに

断絶する。

 

二つに割れた

その存在は

 

「これは私ではない」

 

お互いをお互いから

引き剥がす。

 

それは一見すると

大きな悲しみや

憤りが

あるかもしれない。

 

しかし、

その引き剥がしが

どうしても必要な

時が、

 

人生には

あるのだ。

 

断絶の裂け目は

ある時、突然に

訪れる。

 

それを確認すると

私はいつも、

 

人生というのは

移り変わって

いくのだな、

 

人は

変化を求める

生き物なのだな、

 

強く思う。

 

同じところに

ずっといたい。

 

同じ場所で

安定していたい。

 

とは

誰もが思うことだが、

いや実は、

それは私達の真本音が

求めてはいない。

 

同じ場所で

ずっといることは

衰退を意味する

からだ。

 

それを私達の

本能は

よくわかっている。

 

だから

「裂け目」を

創る。

 

ずっと同じままで

いようとは

しない。

 

だから

「裂け目」とは

決して悪いものでは

ない。

 

人生を次に進める

ための兆しだ。

 

その兆しに

敏感になることは、

自分の望むスピードで

人生を進めるための

大事な指針となる。

 

「裂け目」とは

チャンスなのだ。

 

そして

断絶が始まったら、

 

時には

 

強引にでもそれを

進める

勇気と覚悟が

私達には必要だ。

 

断絶すると

決めたら、

 

断固として

断絶するのだ。

 

一つが二つに

分かれることは

悪いことではない。

 

もちろんそれを

一時的な反応本音や

我欲によって行なえば、

 

それは単なる

崩壊に過ぎなくなるが、

 

真本音の意思により

進む断絶は、

 

それこそが

「愛」だ。

 

「断絶の愛」を

実行できる人こそ、

結果的には

「すべてと一つ」に

なれるのだと

私はつくづく実感している。

 

裂け目に目を向け、

断絶と向き合い、

愛を実行する。

 

その手前にいる

人は

今、多いのではないか。

 

つづく

 

もう一つの難しい問い

 

昨日に続いて

今回も難しい問いを

ご紹介しよう。

 

これも

私自身が常に

自分自身に投げ続けている

問いであり、

 

昨日の問いと

セットで投げ続けると

良い。

 

 

『私は、自分自身との

どんな約束を果たすために

この人生を生きている?』

 

 

私は今でもずっと

この問いと共に

生きているな。

 

つづく

 

真剣な人にこそ効く問い

 

自分自身に対して

あえて

とても難しい問いを

投げ続けることも

私はオススメする。

 

すぐには

答えられない問い。

 

たとえ答えが出ても、

さらに深く

さらに「本当の」

答えが

まだまだ眠っていそうな問い。

 

そういった問いは

同じ問いを

毎日のように

連続して投げ続ける

ことが大事だ。

 

今回は、

私が私自身にいつも

投げ続けている問いを

一つご紹介する。

 

下手をすると

24時間ずっと

投げ続けている日も

あるような気もする。

 

 

『もし私が完全に自由

であるならば、

私は一生をかけて

何を生み出し続けようか?』

 

 

こういった難しい問い

と、

死ぬほど真剣に

向き合い続けると、

 

セルフコーチング力は

高まるよ。

 

つづく

 

出会いの瞬間の光

 

人と出会う時、

私は

稲妻のようなスパークが

走るのを

感じることがある。

 

運命的な出会い

だからかどうか、

わからない。

 

その瞬間は

スパークは走るのだが、

その人とはそれきり、

となったことも

ある。

 

あのスパークは

何だろう?

と疑問に思っていた。

 

今日、

ちょっとだけ

その意味がわかった。

 

今日もスパークが

走ったのだ。

 

私は今日、

その人と出会ったが、

ほとんどその人とは

言葉を交わしていない。

 

でも一瞬だけ

目が合い、

その瞬間に走ったのだ。

 

スパークの意味。

 

それをあえて

一言で言えば、

 

「水面に反射した太陽の光」

 

に近い。

 

反射した太陽の光が

目に届くと、

一瞬眩しくなるが、

 

あんな感じのようだ。

 

つまりその人は

「太陽の光を反射できる人」

ということ。

 

それはつまり

その人が

「コーチに向いている」

という合図のようだ。

 

と、

後になってわかった。

 

人の真本音の光を

そのまま受けて

反射できる人は

 

「真本音の鏡」

 

となれる。

 

その素養を持った人は

「コーチ」として

多くの人の開花を

サポートできるだろう。

 

ということは、

彼ともうちょっと

話をしてみたいな、

 

後になって

思ったよ。

 

つづく

 

待つんだ

 

最近、

重要な問いが

よく浮かぶ。

 

今回も一つ、

とても重要な問いを

ここに書いておこう。

 

 

『あなたは今、

何を待たなければ

ならないか?』

 

 

そう、

あなたは待たなければ

ならない。

 

焦って動いては

ならない。

 

「それ」が

来るまで。

 

ちゃんと準備が

整ってから、

あなたは発進しようと

している。

 

今、発進したら、

「それ」を

取りに戻らねば

ならなくなる。

 

それは大きな

時間の損失だ。

 

それならば

今は

ちゃんと待った

方がいい。

 

あなたは今、

何を待っている?

 

つづく

 

あなたは親だ

 

親の心

というのは、

実際に親になってみないと

わからないものだろうか?

 

そんなことはない、

私は思う。

 

なぜなら私達は

この世に

赤ん坊として生まれて来て、

 

一度は

抱っこをされた。

 

だから今、

ここで生きている。

 

抱っこをしてくれた

その人が

本当の親かどうかは

関係なく、

 

抱っこをされた

その瞬間に私達は

 

子どもとして生まれた

自分自身と、

 

抱っこをしてくれている

その人自身を、

 

区別のない存在

として

 

「一つ」として

 

感じ取っている。

 

その「一つ」の

感覚によって

 

私達は「親の心」を

知るのだ。

 

現実のレベルでは

血が繋がっているかどうか?

大きな問題となることが

多いが、

 

実在のレベルでは

実はそこは

それほど大きな問題

ではない。

 

子を抱っこすれば

誰もが本能的に

親の心となる。

 

それが顕在意識化

するかどうかは

別として、

 

本能として

そうなる。

 

そしてその

「親の心」を

抱っこされた側も

 

「一つ」として

 

感じ取る。

 

だから、

この世に存在する

すべての人は

 

「親」

であり

「子」

でもある。

 

そして私が

常に言い続けている

 

「人の本能の中心には

進化欲求がある」

 

ということを

もっとぶっちゃけた

表現で言い換えれば、

 

人の中心には

次の「祈り」がある。

 

『子が育ちますように』

 

 

親の経験が

あろうとなかろうと、

 

今、親だろうと

子どもだろうと、

 

高齢だろうと

中年だろうと

若者だろうと

幼子だろうと

 

まったく関係なく、

 

私達の中心には

生まれてこの方

常に

ずっと

恐らく永遠に

 

この祈りがある。

 

これが

すべての根本で

あると、

私は企業サポートの

現場において

ある時から確信するように

なった。

 

そして

その祈りをいかに

喚起するか?

 

もともと持ち合わせている

その人のその祈りを

 

いかに表出するか?

 

私のサポートの

根本だ。

 

しかしもちろん

そのような話を

企業のサポート現場で

することはなかったし、

 

恐らく

このブログも含めて

このような話をするのは

初めてではないかな。

多分。

 

 

人は

親だ。

 

そして、

 

人は

子だ。

 

これが真実だ。

 

ここに素直に

なることは

恐らく、

 

あらゆる調和と

進化につながる。

 

なんか無性に

これを伝えたくなった。

 

だから

書いてみた。

 

つづく

 

謙虚に静かに

 

今、世界中で

何が起ころうとも、

 

地球は

静かだ。

 

静かにすべてを

見守っている。

 

私達は

自分達の手に負えない

ことに見舞われると、

その多くを

地球のせいにするが、

 

果たして

それで良いのだろうか。

 

もう少し私達は

私達自身に

責任を負った方が

良いと

私は思う。

 

生きるとは

本来、

そういうことではないか。

 

最近、

 

クライアントさん達の

エネルギーの開放が

凄まじい。

 

そういったことは

もちろん

ご本人よりも

側から観ている

第三者の方が

よくわかる。

 

これまで

閉ざされていた

エネルギーが

開放される。

 

その瞬間に

私はこれまでいったい

どれだけ

立ち会わせていただいた

だろうか。

 

その度に

いつも思う。

 

人のエネルギーは

人の手には

負えないな、と。

 

この人のこの

エネルギーは

この人の手には

負えないな、と。

 

いつもそう思うのだが、

しかしそれでも

手に負えるように

してしまう。

 

それもまた

人間の凄まじさ。

 

進化の凄まじさ

だ。

 

でも本当に

そうなるためには、

 

私達はもっと

謙虚であるべきだ。

 

私達は

私達自身のエネルギーに

謙虚であるべきだ。

 

責任を負うために

まず必要なのは

謙虚さであると

私は思う。

 

どうだこの

エネルギーは!

やっているうちには、

 

その人は

自身のエネルギーに

呑まれて終わる。

 

まさしく

身を滅ぼす

というやつだ。

 

無責任

極まりない。

 

せっかく

そんな素晴らしい

エネルギーを

いただいたのに。

 

自分一人で

手に入れたわけでは

あるまいに。

 

しかし

これは俺のものだ!

となった瞬間から

そこまでの道のりは

すべてオジャンになる。

 

残念ながら

そういう人は

多かった。

 

思えば、

この地球という大地に

存在させてもらっているのも

私達の

エネルギーの一つの現れだ。

 

感謝せよ、と

言うと

少々押し付けがましいが、

 

せめてもうちょっと

謙虚になれないものか、

 

我々は。

 

何が起ころうと

地球は静かだ。

 

それと同質なものを

私達は

すでに自分の内側にも

持ち合わせている。

 

それを私は

「真本音」と

呼んでいる。

 

真本音は常に

静かに自分自身を

見つめている。

 

見守っている。

 

そこにももっと

謙虚に

私達はあろう。

 

それが

生きるということ

ではないか。

 

つづく

 

太陽は私だ

 

真本音には

力がある。

 

それは太陽のような

存在だ。

 

どれだけ世界が

重い雲に閉ざされても、

 

その雲の向こうには

必ず青空があり、

 

そこには

太陽が浮かんでいる。

 

雲の向こうに

ほんのわずかでも

太陽の光が

透けて見えるだけで、

 

私達は

希望を得ることが

できる。

 

そして、

雲というのは

一時的なものに過ぎない

という真実を

 

思い出すことが

できる。

 

それが

真本音という存在だ。

 

しかし、

 

真本音が本当に

その力を発揮するのは、

 

「あれは太陽だ」

 

という認識のままでは

難しい。

 

つまり、

 

私は私で、

あれは太陽で、

 

・・・というように、

自分と太陽が

分離していては

 

それはあくまでも

「希望」のままで

終わってしまうのだ。

 

本当の意味で

雲を晴らし、

 

自らの道を創るには、

 

「私自身が

太陽であった」

 

と知ることだ。

 

つまりは、

「自分」と「真本音」

とは

別物であったり

分離しているものでは

ない。

 

自分は真本音であり、

 

真本音こそが

自分自身である。

 

という真理を

思い出さなければならない。

 

とは言え、

 

最初は残念ながら

多くの場合、

 

自分と太陽とは

分離している

 

ように見える。

 

自分の真本音なのに、

自分ではないように

見える。

 

最初はみんな

そうだ。

 

だからこそ、

まず私達がすべきは

 

真本音の通りに

「行動する」

ということだ。

 

太陽の意思に

素直に

動いてみる

ということだ。

 

それをしなければ

一生かかっても

 

自分と太陽は

 

分離したままだ。

 

それでは

人生の意味は

 

ない

 

のだ。

 

そこまであえて

言い切るくらいの

覚悟で、

 

自らの真本音の

意思を尊重して、

 

行動する

 

挑戦する

 

続けてほしいのだ。

 

自分の人生を

評価するのは、

 

その後でいい。

 

つづく

 

答えが出そうだ

 

あぁもうすぐ

とても大事な

答えが出るな。

 

この仕事をしていると

その予兆が

ありありと

わかるようになる。

 

「答えの存在感」

というやつだ。

 

答えの中身は

わからない。

 

しかしその存在と

その濃さ、強烈さ、

などは

よくわかる。

 

もちろんそういった

答えは重要だし、

 

その答えの中身を

知ることは

その後の人生や

ビジネスを

根底から大きく揺さぶる

ことになるだろう。

 

そんな

「答えの存在感」

今、私はとても多くの

人達に感じる。

 

多くの人が

今後の人生を左右する

ような

そんな答えを

もうすぐ見出そうと

している。

 

ちゃんと

見出せるといいな、

願う。

 

できれば

最善のタイミングで

見出せればいいな

と。

 

答えを自覚する

ために必須なこと、

 

それは

間違いなく

 

「問い」

だ。

 

答えの前には

問い、

あり。

 

その問いに

自ら気づけなければ

答えには永遠に

たどり着けない。

 

だから

こんな時に本当に

思うのだ。

 

皆、

セルフコーチング力が

必要だ、と。

 

セルフコーチング力

とは、

自らに問う力

だ。

 

自問自答力だ。

 

これはやはり

人生を変える。

 

必要な答えが

必要な瞬間に

手に入るかどうか。

 

これが

人生を決定する。

 

これはもう

断言しても良いだろう。

 

あなたの中には

今、

どんな問いがある?

 

自分の中の問い

必死になって

見つけ出した方が

いい。

 

特に今は、ね。

 

今は

一日中、

自分自身に問う

と良い。

 

私の中の問いは何か?

 

私の中の問いは何か?

 

・・・と。

 

24時間、やり続ける

くらいがいいよ。

 

今はね。

 

つづく

 

アンバランスのバランス

 

バランス

というものは

とても大事なことだと

思うのだが、

 

しかし私は

意図的にバランスを

取ろうとはしない。

 

バランスを意図すると

結果的には

「表面的な安定」

しか得られないことを

いやというほど

体験してきたからだ。

 

私自身も。

私がサポートさせて

いただいた人や

組織も。

 

端的に言えば、

「表面的な安定」

とは

「バランス」の真逆だ

とさえ思ってしまう。

 

本来のバランス

とは

表面上は結構、

荒れていたりする。

 

例えば、

人の心で言えば

 

とても感情が豊かで

ちょっとしたことに

すぐに一喜一憂する

人がいるとして、

 

その人が

「一喜一憂はいや」

だからと言って

バランスを取ろうとする。

 

一喜一憂のデコボコを

もっとなだらかなものに

しようと努力する。

 

そしてそれがもし

上手く成されたとしたら、

 

私はそこに

不安定さを感じる。

それも強く。

 

逆に、

「一喜一憂する自分」を

もうそういうものだと

諦め、

 

そんな自分に

委ね、

 

あるがままに

一喜一憂すると、

 

その人は

根底から安定し、

その人にしかない

 

「アンバランスのバランス」

を実現する。

 

表面的には

アンバランスに見える

のだが、

しかしそれこそが

その人にとっての

バランスであり、

 

それによって

その人本来の魅力や

安定感が生まれ、

 

真本音の人生が

始まるのだ。

 

人の個性

という意味で言えば

以上のようなことを

よく感じるのだが、

 

組織の個性

ということでも

まったく同様であると

私は思うのだ。

 

表面上、

安定している組織は

はっきり言って

面白くも何ともない。

 

しかも

ほとんどの場合

脆弱だ。

 

自分達の範疇を

超える現実が来ると、

すぐにその安定は

崩れ去る。

 

本当にバランスの

取れた組織は

 

表面的には常に

「何か」が起こり、

 

いつも流動的で、

 

昨日と同じ場所に

いない。

 

そしてその原動力は

恐らく

「成長意欲」

だ。

 

私の言葉で言えば

「進化意欲」

だ。

 

進化する人や組織が

表面上、安定するなんて

それこそ

不自然なことだ。

 

だから、

 

不安定な状態を

恐れる必要は

まったくない。

 

次々に

「何か」が起こる

ことを

恐れる必要は

まったくない。

 

もう毎日、

大変だよ!

 

という状態こそが

実は

最善のバランス

なんだよな。

 

つづく

 

荒れてるんだよ

 

人の感情は

よく荒れる。

 

「いや、私は荒れない」

と言う人も

いるが、

 

いやいや、

 

それは

荒れていることに

気づいていないだけ。

 

・・・と

あえて断言してしまっても

いい。

 

台風が来たら

海が荒れるように、

 

何か出来事があれば

私達の心は

ちゃんと荒れるように

できている。

 

そう。

 

荒れることが

「健康」だ。

 

決して悪い

ことではない。

 

大切なのは

荒れているその心を

自覚していること。

 

ちゃんと

見つめていること

だ。

 

それができれば

私達は

自分を自分で

コントロールできる。

 

コントロールできない

のは

しっかり最後まで

見つめていないからだ。

 

私のクライアントは

社長さんが多い。

 

すると「経営」を

しなければならないので、

そりゃもう

荒れるに荒れる。

 

しかし

その「荒れ具合」を

見つめないままに

先に進もうとする人も

多い。

 

そうすると必ず

どこかで

すっ転ぶ。

 

見つめないから

すっ転ぶ。

 

だから社長さんほど

私は

セルフコーチングを

しっかりとやっていただく。

 

それにより

ほとんどの人が

 

荒れること自体は

なくならないが

 

荒れても大丈夫な

状態となる。

 

どれだけ荒れても

静かに粛々と

進むことができるように

なる。

 

その方が間違いなく

実績につながる。

 

何度もくどいようだが、

 

見つめないから

足を取られる。

 

見つめるから

コントロールできる。

 

この単純明快な

原理を

 

私達はもっと真摯に

受け止めよう。

 

人間として。

 

つづく

 

もつれた気持ちは観察しよう

 

心が混乱している

時は大概、

 

心の中で

いろんな「糸」が

絡み合っている場合が

多い。

 

そんな時は、

「糸」を一本一本丁寧に

見つめると良い。

 

つまりは、

一つ一つの気持ちを

見つめるといい。

 

混乱の原因は、

一本の「糸」を見つめる

その途中で、

次の別の「糸」に

意識が移ってしまう

からだ。

 

意識は

次から次へと

様々な「糸」を渡り歩き、

そのうちに

わけがわからなくなる。

 

そうならないためには

ちょっと我慢しながら

一本を

しっかりと理解し切るまで

観察する。

 

あぁなるほど。

この「糸」は

こんな想いがあるの

だな。

こんな願いが

あるのだな。

こんなことを大切に

しているのだな。

こんなことを恐れて

いるのだな。

こんなことが不安

なんだな。

 

だからこの「糸」は

ここに存在しているのだな。

 

・・・と、

その存在理由までもが

しっかりわかれば、

「糸」は落ち着く。

 

落ち着いたら

次の「糸」の観察に

入る。

 

ちょっと面倒だが

結局は

これをしっかりやることが

最短の道だ。

 

そして

すべての「糸」を

見つめ終えたら、

 

たくさんの「糸」達が

もつれるのではなく、

並んで整然と

自分の前にあるのが

わかるだろう。

 

「糸」と「糸」の

区別がついている

状態だ。

 

それでOKだ。

 

あとは「糸」達を

どうこうしようなどとは

思う必要はない。

 

「糸」達は

そのままに。

 

その上で純粋に

自分自身に

問えばいい。

 

「本当は私は

何をしたいのだ?」

 

と。

 

すると、

「糸」達に捕われない

純粋な

真本音の答えが

浮上する。

 

浮上したら

その真本音の気持ちを

「糸」達に

伝えれば良い。

 

すると「糸」達は

勝手にあなたに

協力してくれる。

 

それが

「糸」達(=反応本音)と

真本音の

関係だ。

 

つづく

 

否定のプレゼント

 

世界の中心に

自分が立っている

という

イメージをしよう。

 

世界の中心

ということは

宇宙の中心でもある。

 

そんな傲慢な・・・、

とは思わないで

ほしい。

 

大事なことなんだ。

 

すべての中心

自分が立っている。

 

そうイメージ

する。

 

もし、

上手くできない場合は

これに毎日

チャレンジしてほしい。

 

人間には「慣れ」という力が

あり、

これは結構

半端なく凄い。

 

ちゃんと継続すれば

だんだんとそれが

当たり前になってくる。

 

そしてある時に

世界の中心にいる自分

はっきり認識する。

 

宇宙の中心

すべての中心

にいる自分を

 

まるで真理を思い出す

かのように

 

認識できる。

 

そうなれた時に、

次のように

呟いてみてほしい。

 

「私はすべて

このままでいい。」

 

全身に

この言葉が沁み渡る

感覚がすれば

OKだ。

 

違和感があれば

違和感がなくなるまで

これも毎日、続けてほしい。

 

やはりいつか

慣れる時がくる。

 

すべての中心に

いる自分が、

自分に対して

すべてこのままでいい、

承認する。

 

これが完全に

成された時に

 

そこで初めて

 

発生する

気持ちがある。

 

その気持ちを

一言で表現すれば

 

「私はこのままでは

ダメだ。」

 

となる。

 

注意してほしいのは、

「私はすべてこのままでいい」

という言葉の

反動(反作用)として

「私はこのままではダメだ」

と浮かび上がる気持ちとは

それは

根本的に本質的に

別物である

ということだ。

 

「すべてこのままでいい」

完全に

受け入れた者のみが

 

その完全承認の

後に

 

手に入れることの

できる

これはプレゼントだ。

 

自分から自分への

プレゼントだ。

 

「私はこのままでは

ダメだ」

という言葉自体は

否定的だが、

これはプレゼントなので、

 

愛に満ちている。

 

この一言を

感じるだけで、

言いようのない

「満たされ感」に

包まれるのだ。

 

その状態で

最後にもう一つだけ

自分に問うてほしい。

 

「では、私は私を

変えるために、

今日から何を

テーマとしようか?」

 

この問いに対しては

何らかのキーワードが

浮かぶはずだ。

 

それはシンプルな

たった一つの言葉

かもしれない。

 

それが浮かんだら、

それをテーマに

日々を過ごそう。

 

それはあなたを

次のステージへと

導いてくれるはずだ。

 

つづく

 

丘の上の風の中で

 

丘の上に立って

街と海を

見降ろしている。

 

私の傍には

仲間達がいる。

 

今、初めて

この丘の上に立った

仲間も何人か。

 

初めての彼らは

皆、

茫然としている。

 

「こんなに

荒れていたんですね・・・。」

 

その現実を

受け止め切れない

ようだ。

しかし、

懸命に受け止めようと

している。

 

「そうなんだ。

びっくりした?」

 

「・・・・・。」

 

「どうする?

どうしたい?」

 

「・・・・・。」

 

「自分で決めれば

いいよ。」

 

「・・・・・。」

 

風は心地良い。

 

こんなに心地良いのに

随分と

荒れてしまったな。

 

「でもな、

これでも随分と

回復したんだよ。」

 

無言でいた

彼らが

やっとポツリと

呟く。

 

「・・・もっと早く

ここに立てば良かった。

私が不甲斐ない

ばかりに・・・。」

 

「まぁな・・・。

でも、今、ここに立てたぞ。

さぁ、立った以上は

決めるんだ。

どうする?」

 

「ここに立って

こうしてすべてを

見渡せた今、

これを見なかったことには

できません。

ここに立つ者としての

責任があります。

私は望んでここまで

来たのです。

時間はかかりましたが・・・。

ようやく辿り着いた

のです。

だからもちろん、

一緒に私もまいります。」

 

「もうわかってると

思うが、

大変だぞ。」

 

「はい。

わかっててここまで

来ましたから。」

 

「でも実際に見ると

怖気づくだろ。

正直なところ。」

 

「・・・はい。

ビビりました。

・・・でも、

行きます。」

 

「なんだかんだ言って、

強くなったな。」

 

私はもう一度、

海の方を見た。

 

「では、そろそろ

行こうと思うが、

その前に一つだけ

みんなに伝えておこうかな。」

 

私は次に

街を見た。

 

そして、

そこにいる

皆を見た。

 

「無茶をするな、

と言ってもみんなは

勝手に無茶をするんだろう。

自分の意思で

来たんだから、

これからも自分の意思で

やってもらえればいい。

だが・・・、」

 

「わかってますよ。」

 

と、

彼らが言葉を

引き継いだ。

 

「困ったときは

私を頼れ、でしょ。」

 

「ふっふっふ、違うな。

君らはもうちゃんと

私や仲間に頼ることも

できるじゃないか。

自分の命の意味を

わかっているじゃないか。

今さらそんなことは

言わんよ。」

 

皆、少しキョトンとした。

 

「私が言いたいのは

たった一つだ。

どうせやるなら、

もっと好きにやれ!

だ。

どうせ無茶するなら、

無茶を超えろ!

だ。

無茶のその先に

あるものを掴め!

だよ。

・・・あっ、3つも言っちゃった。」

 

皆がドッと笑った。

 

「君らはもう

無茶をするかしないか、

の次元にはいない。

その先にすでに

いる。

だからここまで来れた。

そんな自分を

祝福するといい。

そして、

自信を持って

行けばいい。」

 

彼らはニッコリ

笑い、

そして静かに

丘から去った。

 

私はしばらく一人で

風を楽しみ、

腰を上げた。

 

まだ私にも

すべきことがある。

 

もう一山も二山も

越えなければ

ならないが、

ゴールは見えてきた。

 

待ってろよ。

もうすぐ行くぞ、

呟くと、

 

風が静かに

微笑んだ。

 

つづく