チームパフォーマンスコーチ

丸くはならんよ

年齢を
重ねれば
重ねるほど、

丸くなる

というのは
嘘ではないか、
と 
思ったりする。

私の場合で
言うと、

ふと、

昔の方が
丸かったのでは
ないか、

思ったんだ。

今は
キラキラに(笑)
尖っている。

キラキラだ。

ただ、
尖っている
ように
見せない術は
身に付けたのかも
しれない。
隠している
というわけではなく。

例えば、
昔よりも
今の方が
断然に
キツいことを
クライアントさんなどに
伝えているんだと
思う。

でも
相手にはきっと
そのキツさは
後から段々と
ジワリジワリと
くるんだろうな。

そんな伝え方を
している。

相手に
伝わらなきゃ
意味がない
からだ。

人生経験を
積むことで
そのような術を
身につけ、

そのような術が
身につけば
安心して
さらに
尖ることが
できるのでは
ないか。

きっと私は
死ぬ瞬間が
最も人生で
尖っているだろう。

それはそれで
面白い
人生だ。

そういえば
20歳くらいの
頃、私は

俺は一生
青春していたい!

などと
ほざいていたが、

そう
できているかも。

頑固とは
違う。

頑固は
いやだ。

青春だよ。

つづく

彼らこそ希望さ

一筋の
光が、

天から
降りてくる。

地には
それとは
別の

光の球。

球は
その
軸のような
光の流れを

そのまま

受け取る。

すると
目も眩む
新たな光が

押し寄せる。

世界全体に
波及する。

その連続の
中で、

私達は共に
歴史を
重ねてきた。

光を
忘れながら。

しかし
確かに
光は
そこに
在り続けた。

それを
経験を超えた
感性で
思い出す
若者たち。

希望
とは、

彼らの
ことだ。

私は
希望を
繋ぐ。

そのために
なら、

なんでも
やるさ。

私の
大好きな作家の
人生最後の
小説の

最後の
言葉。

私は
生き直すことが
できない。
しかし
私らは
生き直すことが
できる。

つづく

実在の雨

雨が
降りしきる
地面を
見つめていると、

雨粒の
一滴一滴から
生まれる
わずかずつの
波紋が、

すべて
メッセージの
ように
聴こえてくる。

一つの
リズムで。

心の深奥に
届かせようと。

言葉に
ならない
その
メッセージを

しかと
受け止める。

何か、
勇気のような
決意のような

静粛な
気持ちになる。

まるで、
日本刀を
構えている
ような、

命のやりとりに
向かう
直前のような、

極度の緊張
というよりも
むしろ、

それらを
乗り越えた
覚悟の状態、

開放の状態、


近い。

気づくと、
雨など
降っていなかった。

空は
晴れ渡って
いた。

では
今、みた雨は
なに?

今、
受け止めた
メッセージは?

まぁいい。

この
晴れた
日に、

雨を
感じながら
行こう。

つづく

魂のメッセージ

魂の言葉
というのが、
ある。

魂の叫び

行ってもいい。

多くの場合は、
ある人への
メッセージとして
浮上する。

しかしまた
多くの場合、

それは
非常に激しい
メッセージ
だったりする。

とてもとても
それをそのまま
本人に
伝えるのは
無理だろ、という。

その人の
心が
潰れてしまうのでは
ないか?

潰れないまでも
その人を
傷つけるのでは?

傷つけない
までも
その人との関係は
終わってしまう
のでは?

などなど、
不安は尽きない。

しかし、

それが
魂の言葉であると
わかってしまったら、

そう感じて
しまったら、

私は必ず、
伝える。

まずは、
必ず伝える、

私の中で完全に
決める。

すると
自然に、
その絶好の
タイミングがくる。

タイミングは
こちらで
意図的に
計ってはならない。
そんなことは
第一
無理だ。

伝えるという
覚悟を
持った上で、

意識をその人に
向け続ける。

その人と
離れているとき
ですらも。

すると、
「今だ!」
という瞬間が
わかる。

わかれば、
覚悟はもう
決まっているので、

自然にその
言葉が、

メッセージが、

そのまま
ダイレクトに
出る。

その人の
魂に直接
浴びせられる。

魂の言葉
だからね。

だから
魂と魂の共鳴が
起こるんだ。

その瞬間から
流れが
変わる。

潮目が
変わる。

物事の展開が
根底から
変わるんだ。

つづく

志の始まりとは

ほんの小さな
光が

クルクルと
漂っている。

儚げに。

消えてしまい
そうな
弱さだが、

私は
知っている。

こいつは
只者では
ない、と。

今は確かに
弱々だが、

きっと
大樹のような
巨大な

”志”

に、育つだろう。

誰も、最初は
志とは
これくらいな
ものだ。

生まれたての
赤ん坊の
ようなもの。

それが
だんだんと
逞しく育ち、

ある時期に
一気に
成長期を
迎える。

いつの間に
こんなにも
大きくなったんだ?

本人ですら
びっくりするくらいに。

自然に
発生し、
自然に
育つ、志。

私はそれをこそ
大切にしたい。

皆、誰もが
志を
芽生えさせ、
育てている。

しかし
その多くは
充分に育つ前に
消えてしまう。

可能であれば、
志になる
前の志に

自分で
気づけるといい。

志の
最初は
ほんのわずかな
感覚のみ、
かも知れない。

でもそれが
大事。

日常では
あまり得られない
独特の
感覚
が、あれば、

そこにじっと
意識を
向け続けよう。

つづく

対等だと?

上下の関係
だった
ものが、

左右の関係
になる。

どっちが
上とか下とか
ではなく、

ある意味、
対等な関係。

パートナー
的な。

こういうことは
なかなか
ないのだが、

が、
もし起こり得たら
大したものだ。

あの人と
早く
対等になりたい!


言う人が
いるが、

そう言っている
うちは
残念ながら
永遠に
対等にはなれない。

しかも
対等の関係
というのは

厳しいものだ。

お互いの
自律・自立が
完全に
求められる。

それに
耐えられるか?

下にいた方が
余程、楽だよ。


伝えたくなる。

しかし
そうは言っても、
やはり、

早く
対等に
なってほしい。

自律・自立
し合った
パートナーに
なりたいんだ。

そのためには
変な
対抗心など
手放して、

自ら本当に
目指したいものを

目指して
ほしいんだ。

つづく

根拠のない確信

私一人の
ことならば、

根拠のない
確信

のような
発想が出たら、

なんで
こんな発想が
出たのか
わからん!


思いながらも、

私は必ず
その通りに
動いてきた。

私の人生の
場合は、

それで
道が
開かれてきた
のだと思う。

私一人の
ことならば
必ず
そうするのだが、

最近は、

人を
巻き込みながら

そういった
根拠のない確信

発想されるように
なってきた。

人を巻き込む
ので、
正直
だいぶ怖い。

こんな場合は
その人に
ちゃんと話を
して、

その人が
怖気付く
ようなら、

もう
やめていた。

これまでは。

でも
ここからは、

それを
やめようかと
思っている。

つまり、
思い切り、
巻き込んで
しまう。

根拠のない
確信の
ままに。

それで
いいよ、

自分の中で
OKが出た。

つい
最近の
ことだが。

酷い目に
合わせるかも
しれんが、

ごめんな、


言いながら
きっと
巻き込んでしまう。

でも
やはり
一方で
根拠なく
思っている。

道は絶対
開かれるな、
と。

つづく

ここぞ、という時

大空に
突破口が
観える。

一点の。

あそこしか
ない。

出口だ。

この次元の。

この世界の。

この
一点が
観えるまでは、

決して
焦らない。

安易な
道には
入らない。

とにかく
地道に
粛々と。

土台を、

土壌を、

整える。

それのみに
集中する。

この
焦りとの
闘いを
制した者だけが

見出すことの
できる、

一点。

突破口。

それが
観えたら、

行け。

そこで
迷う必要は
ない。

遮二無二
行け。

突破口が
開いている
間に。

時間は
ない。

考えている
暇もない。

ただ、
行け。

全集中の

全速力だ。

つづく

今、重要な問い

今回も
このタイミングで
重要な問いを。

まず、

目を閉じて、
あるがままの
自分
になろう。

心のモヤモヤ
とか
焦りとか
憤りとか

あれも
これも
やらなきゃ
とか

そういった
心達を
ちょっと横に
起き、

あるがままの
自分に
なろう。

静かに
落ち着いて。

その状態で、
次の問いを。

・・・

今、
私の傍らには
誰がいる?

私は今こそ、
その人に
何を伝えよう?

私は今こそ、
その人と
何を始めよう?

・・・

あなたに
とって
とても存在感の
大きな人。

今こそ
隣にいてほしい
人。

たとえ実際に
そばには
いなくても

あなたの
心の
隣にいる。

そんな人。

しっかり
特定して
しっかり
明確にしよう。

つづく

永遠の苦悩

濃い緑に
反発するかの
ように

槍のような
視線を
注ぐ。

そいつは
何ものか?

じっと
見つめる。

恐れ慄く
ように
そいつは
一瞬、震えたが、

あとは何も
反応はなし。

息を詰める。

その力みを
逆に
突かれた。

そいつに
飛び掛かられた
私は
横転した。

そして
喰われる。

自分が
喰われるのが、

その感覚が
よくわかる。

喰われながら
自分が
消えていく。

自分であった
存在が
無惨に
切り刻まれる。

亡き者と
私は
なっていく。

もう何度、

こういったことを
繰り返して
いるのだろう?

永遠の
輪廻。

その輪から
抜け出せない。

私の弱さは
永遠なのか?

人の
愚かさは
永遠なのか?

今度こそ!

という
悔恨も、

永遠なのか?

いや、
そうじゃない。

という
ことを

永遠の時間を
使ってでも
私は
証明してやる。

永遠が
私を
呑み込むか?

私が
永遠を
抱き切るか?

つづく

賭けみたいなもんだ

自分に
刺激を
入れる。

魂が
揺らぐような。

しかも
それを
立て続けに。

ということを、
ここ数ヶ月、
私は
繰り返している。

原則、

魂とは
揺らぐものでは
ない。

魂の本音
である
真本音も。

しかし
それでも
あえて
ぐらつかせる。

とてつもなく
深い
刺激をもって。

そしてさらに、
ぐらついた
そのままの
状態で

人の前に
立ったり、

人と向き合ったり
もした。

キツかったよ、
それは。

しかし
あえてそれを
したんだ。

私は
確認を
したのだ。

「もう二歩」

一気に
先に進んでも
大丈夫か?
と。

そのような
自分に
なれているか?
と。

答えは、

なんとか
なるかな。

という
感じ。

ギリギリ。

しかし
まぁ、
いつも私は
ギリギリ
だったし。

強気で
行こうと
思う。

一歩
ではなく、

二歩
ずつ
進むよ。

つづく

超・長期的視点のススメ

最近、
人と話していて
改めて
気づいたこと
なのだけど、

私にとっては
当たり前
のことだったの
だけど、

私はいつも
超・長期的な視点
から
今を見つめ
続けているようだ。

今の時代、

例えば、
3年後のことすら
予測が
難しい。

5年後など、
世の中が
どうなっているか?
さっぱり
見えない。

だから、
長期的な視点を
持っても
無駄である、


考える向きも
多いだろうが、

私は
こんな世の中
だからこそ
超・長期的な
視点が
大事かなと
思うのだ。

超・長期的な
視点
と言うと、
具体的には
どれくらいか?

私の場合は
大体
2000年くらいだ。

今、
西暦2023年。

紀元前から
紀元後に
入って約2000年。

そのスパンで
常に
あらゆる物事を
見つめている。

そして、
その視点から
「ここからの30年」

「感じる」。

発想する
のではなく、
「感じる」
のだ。

その上で、
今日という一日を、

今という
この瞬間を
やはり
「感じ」

自分の行動を
決める。

これを
ずっと、

恐らくこの
13年くらい、

当たり前の
ように
続けている。

こういった
超・長期的視点を
持つことで

安定感を
覚え、

真本音発想を
しやすい人は、

実は結構
多いのでは
ないか。

と、
最近
気づいたんだ。

つづく

違和感だらけ

これまで
何とも
感じていなかった
ことが

少し
気持ち悪く
なる。

違和感を
覚えるように
なる。

・・・それは
成長・進化の
証だ。

その
気持ち悪さや
違和感に
しっかり
焦点を当てると
いい。

なぜそれが
気持ち悪い
のか?

どこに
違和感を
覚えるのか?

ズレること
なく、
その
本質的な理由を
探そう。

それが
あなたの
ここからのテーマの
大いなる
ヒントとなる。

この世の中は
違和感
だらけだ。

私達の生活は
違和感
だらけだ。

それらを
素直に感じ取る
感性を

取り戻そう。

つづく

その期待は捨てよう

内面に、

繭のような
存在が
ある。

繭であるなら、
何かが生まれそうな
ものだが、

その気配は
ない。

繭の中にも
また
繭があり、

その中にも
また
繭がある。

最後まで
繭だけ。

そのような
存在の
ようだ。

ここから
何かが
生まれるだろう、

期待しながら
待っても、

意味はない、

わかる。

そういった
時は
潔く、その繭は
捨てよう。

手放す
というよりも
捨てる。

その潔さが
大切だと
わかる。

新たな何かが
生まれる
というのは、

そうそう
簡単なこと
ではない。

期待のみ
塊として
出来上がることは

想像以上に
多い。

ただの
期待の塊。

であれば
捨てるべき。

捨てて初めて
次に
進める。

捨てることで
始まる。

捨てなければ
決して
何も始まらない。

人生は
そのように
できているようだ。

期待のみ
持ち続けて
人生を終えても
しょうがない。

捨てて
スッキリ、

まずは
軽くなろう。

つづく

魂の本音

柔らかな
心。

その中心

強固な
核がある。

強固と
言っても

カチカチに
固いわけでは
なく、

とても
柔軟性があり
しなやかだ。

それを

と呼んでも
いい。

魂が
しっかりと
確立されている
からこそ、

私達の
心は
安心して
柔らかいままで
いられる。

心は
柔らかい
からこそ
価値がある。

ところが
自分の魂を
自分で
閉ざしてしまうと、

心は
カチカチに
なる。

すると
それはすぐに
崩れる。

心は
固めては
ならない。

いつも
自由に
ウロウロと
させてあげる
ことが
とても大切。

だから、
心で生きる、
というよりも

魂で
生きること。

それを
することで、
心も
活きてくる。

魂と心は
コラボする。

それにより
その人の
魅力は
開放され始める。

魂の本音を
真本音、

心の本音を
反応本音、

・・・と私は
呼んでいる。

つづく

軽い方がいい

基本、
もっと

気を楽に

した方が
いいよ。

あなたの
場合はね。

背負い過ぎ
だと
思うんだ。

精神的
にね。

立派な
ことだけど、

それでは
動けない。

本来の
俊敏さが
出ない。

ここからは
身軽さ、

気楽さ、


ポイントだ。

でないと
やれないこと
ばかりさ。

風の声、

大地の
響き、

空の
導き。

そういった
ものに
誠実に
応えるには、

疲弊は
禁物。

本来の
あなたで
いなきゃ。

あなたの
ままで
いなきゃ。

つづく

出発前

夕焼け
なのか?

朝焼け
なのか?

判別の
つかない

赤い空が
広がって
いる。

溶け込み
そうだ。

我を
忘れる。

赤は
命の色。

赤は
私を
掻き立てる。

しかし
そうそう
掻き立てられた
ままで
進むことは
すまい。

今こそ
じっくり
落ち着いて
行こう。

この私の
脚は、
一刻も早く
飛び出しそう
だが。

こんな時に
浮き足立たない
ような
自分になろう、

自分を
鍛え続けた。

20歳前の
時から。

35年以上
鍛え続けた
のだ。

風の
冷たさと

陽の
あたたかさ。

私は
自分の体温を
感じ取る。

私は

ここにいる。


のみに
意識を集中
させて行こう。

早る細胞
には

待て!


伝えた上で。



一滴
ずつ。

ただし、
深い
一滴を。

つづく

これはきっと何か・・・

一日24時間、
とても
短いのであるが、

一日を終えると
まるで
一生を終えたかの
ような

感覚に
なる。
最近は、ずっと。

毎日、
人生を終えては、

次の日に、
新たな人生を
始める。

いつも一緒に
いる人と
会ったとしても、

まるで
初対面のような
不思議な
感覚。

この感覚は
嫌いでは
ないので、

それを
味わいながら
生きる。

そう、
まさしく
「生きる」
という表現が
最もピンとくる。

私は
生きている。
人として。

この
人として
という表現にも
格別の
感慨のような
ものがある。

これは
きっと
何かが
始まるのだろう。

と、
根拠のない
予感。

つづく

今は進む時

この道は
違うのでは
ないか?

そう
思っても、

今は
進め。

迷っても
進め。

やめたく
なっても。

なぜなら
今、
あなたは

開花に
向かっている
から。

開花
直前は
迷いの結晶体

なる。
自分自身が。

必要な
ステップだ。

その迷いは
健康的な
もの。

その
自信のなさ
もそう。

今は
止まる時では
ない。

今は
進む時。

何が
あろうとも、

どのような
状態でも、

今は
進む時、

というのは
変わらない。

つづく

馬鹿な直観

山のてっぺん

いることは
わかるのだが、

その
肝心の山が
見えない。

自分の立っている
足元が
見えない。

だから
前にも後ろにも
横にも
移動できない。

何の壁も
ないのに、

八方塞がり
だ。

風も強い。

これ以上
強くなれば、
私は
転げ落ちるしか
ない。

すぐ下が
草地であれば
良いのだが、

ひょっとすると
垂直に落ちる
断崖かも
しれない。

なにしろ
自分が立っている
この山の
形がわからない
のだ。

・・・

そんな状態
なのに、

後ろから
私を押す
風がある。

落ちて
しまう恐怖。

でも
直観的には

この風に

追い風に

この身を
委ねよ、


くる。

怖い。

しかし
迷う時間は
きっと
1秒もない。

私は
風に押される
ままに
一歩を前に
踏み出した。

その瞬間、
本当に
落ちた。

・・・

よく
死ななかった
と思う。

気がつくと
私は
谷底にいた。

すぐ目の前に
壁がある。

見覚えのある
壁。

そうだ、
私は
この壁を
攀じ登り、

先ほどの
てっぺんまで
行ったのだった。

もう二度と
あんなことは
すまい、


思うのだが、

私の直観は

またここを
登れ

と言う。

おいおい、
勘弁してくれよ!


内心
叫びながらも、

気がつけば
もう
その壁に
取り付いている。

同じことを
繰り返し
同じ失敗を
繰り返す
だけではないか。


理屈的には
思うのだが、

でも
直観は
そうは言わない。

ただ、

登ろう!


のみ。

そう。

どれだけ
納得が
行かなくとも

私は
私の直観に
従う。

どれだけ
馬鹿だと
思っても。

これまでも
そうだったし、

これからも
そうだ。

つづく

逃げても無駄だ

行手を
遮るもの。

道を
阻むもの。

あるのが
当然だ。

その
対峙の仕方

肝要だ。

目の前に
ある
「それ」を、

まざまざと
見つめ
観察しよう。

まざまざと。

場合に
よっては、

その
眼差しだけで

「それ」は
溶け始める
かも。

それを
期待しても
いけないが。

これからの
時代は、
できれば
正面突破が
いい。

実際は
結果として
迂回することに
なるかも
しれないが、

心意気や
覚悟としては、

正面突破で
行こう!


完全に決める
ことを
オススメする。

覚悟が
道を開く、

ということが
これからの時代
さらに
やりやすく
なる。

逆に言えば、

覚悟が
なければ
何をやっても
道は開かれない。

上手く
ごまかしながら
進もうと
すればするほど、

さらに
「それ」は
凄い形相で
覆いかぶさって
くる。

「逃げ」

「それ」

呼ぶのだ。

道を開く
のは
自分しかない。

自分の
「生き様」

すべて決まる
と、

我々は
認識しよう。

つづく

あなたとの一足

なぜ、
私達は
出会ったのだろう?

その
真の答えを
そろそろ
出そうではないか。

準備はもう
いいだろ、
これ以上。

あとは
進むだけだろ。

もう既に
圧倒的に
軽やかになっている
その足を、

一足、
一足、

自分の望む
ペースで
出し続けるだけだろ。

人間なんで、
もちろん
迷いの気持ちは
あるさ。

進み始めても
それは
生まれ続ける
だろう。

人間なんでね、
私達は。

迷っても
いいじゃないか。

むしろ
迷いながらも
丁寧に
出し続ける
その一足こそ、

価値があるのでは
ないかな。

千里、

いや

万里の道も
一歩から。

一足を出さねば
何も
始まらない。

つづく

尖った志

何かが静かに
近づいて
くる。

この
感覚は?

鋭い
棘のような
感じ。

しかし
様々な方向に
同じところから
たくさん
尖っている。

触れた瞬間に
傷つきそう。

だが、
とても
あたたかい。

まず最初に
浮かんだのは、

という言葉。

次に、

開花。

だが、
まだ
早い?

今の私では
触れるのは
とても
キツそうだ。

今はまだ
トゲトゲだが、

ここから
大きな志に
育っていくのか?

きっとこれは
怒りからくる
私の志だ。

そう、

最近は
とても
怒っている。

変わろうと
しない
人達への
怒り。

変わろうと
しない人ほど
エネルギーは
低く、

だから
私の怒りを
直接ぶつけることが
できない。

その
ジレンマ。

ここのところ
日々、
そういった体験が
あり、

積もりに
積もった
憤りが、

ついに
新たな志を
生んだのか?

今、
それは
ほんの
目の前に
ある。

だが
まだ
触れることが
できない。

しばらくは
観察を
続けていよう。

つづく

無駄話をやめよう

相手を
本当の意味で
「尊重」
していたら、

相手の話で
聴くべきじゃない
ことは

聴いては
ならない。

聴き流す、

もしくは

否定しなければ
ならない。

こう書くと、
極端だろうか。

しかし
決して
極端ではない。

その場では、

その場でしか
話せない
会話がある。

それは
硬い話という
ことではなく、

例えば
雑談だとか
馬鹿話とかでも
いい。

その場でしか
その人と
できない会話が
ある。

なのに
それをせずに

本当の意味で
無駄な話を
してしまう。

そういった
人間関係が
多い。

本当にすべき
話をせずに
無駄話だけを
繰り返すことで、

その人との
関係性は
根底から
薄くなっていく。

本来、
相性の良い二人
でも、
それが
消えていく。

じゃあ、

本当に必要な
会話かどうかを
どこで
見分けるか?

簡単で
ある。

「相手に意識を向ける」

これのみ
だ。

これがちゃんと
できていれば、

感覚的に

今、
自分がしようと
思っている話が、

この場で

この人に

我々に

必要かどうか?

感覚としてわかる。

これが
私達人間の
「普通」の
コミュニケーション能力
だ。

一言で
言えば、

「向き合えばわかるさ」

である。

つづく

尊重、とは

人と人は
皆、違う。

当たり前だ。

言葉にすれば
みんな
それをわかっている。

しかし、

日常生活に
おいては

全然
わかっていない。

違う、
ということは

基本に
その違いを
尊重する気持ちが
なければ、

当然、

人間関係は
成り立たない。

その
「尊重」

できないのだ。

かく言う私も
昔は
よくわかって
いなかった。
言葉では
わかっていたが。

「尊重」の
基本は、

「相手に意識を向ける」

ことだ。

この一語に
尽きる。

自分の思考に
意識を向けながら、

相手を
よく見ずに
会話をすれば、

それが
いかなる会話に
なっていたとしても、

それは
「尊重」
ではない。

つまりそれは
「向き合う」
ということと
イコールだ。

「向き合う」
とは
イコール
「尊重」
だ。

こう言い切って
いい。

そして
その状態
だからこそ、

時には
相手を
「否定」することも
できる。

「尊重」という
土台の上での
「否定」は、

「愛」である。

今後は
こういったことも
強調して
いろんなところで
お伝えしていきたいな、

思っている。

つづく

異常に相性が良い、とは

人と人には
やはり
相性というものが
ある。

そして
「相性が良い」
ということには
2種類ある。

普通に相性が
良い

のと

異常に相性が
良い

・・・のと。

たま〜に
後者の二人組と
出会う。

面白いことに
後者の場合、

私が出会ったその
時点では、
その二人は
とても仲が悪かったり
する。

両方ともに
「苦手意識」
を持ち、

できればずっと
(もしくは一生)
あの人とは
関わりたくない、


思っていたり
する。

私がこの仕事を
やっている
生きがいの
一つは、

そういった
二人組を、
本来の
異常な相性の良さ

発揮できる状態まで
サポートする
こと。

これが結構
難しいのだが。

しかし、
よくよく考えると
実にもったいない
話だ。

人間関係
というのは、
一度崩れてしまうと
なかなか
修復が難しい。

でもそれを
「難しい」と
一言で片付けて
しまったら、

それは
人類の進化を
諦めた、

というのと
同じことでは
ないか。

少なくとも
本来は相性が良い
のに、
お互いに
離れようとしている
人達に対しては、

少なくとも
私自身は
諦めずに、

他者として
できる
最大のことはしたい

いつも
思っている。

異常に
相性の良い二人は、

とにかく
まずは
正面からしっかり
「向き合う」
状態を創り出せば、

そこから
何とかなるケースが
多い。

それにしても、
なぜ
異常に相性が良い
のに
こんなに仲が
悪いのか?

よく
そう問われるが、

私がいつも
感じていることは、

本当の相性の
良さとは、

お互いが
自律した時に
発現するものだ、

ということだ。

大前提が
「自律」だ。

依存的生き方を
している間は、
本来の相性の
良さは
決して出てこない。

決して。

そして
依存的関わりを
する中で
多くの人が、

私はこの人とは
相性が良いけど、
この人とは
悪い、


勝手に決めつけて
いるようだ。

異常に相性の
良い人同士が
向き合い、
共に歩み出すと、

それはそれは
そのシナジーは

凄まじい

と言っても
差し支えないものが
ある。

そういう人達を
社会において
掘り起こしていく
のも、

やっぱり
私の
生きがいなのだ。

つづく

加速したがってるな

これまでに
経験のない
加速をしたい!

という
意欲の高い人が
またもや
増えてきた。

私は
そういう人をこそ
サポートしたい。
いつも言う
ことだが。

しかし
面白いことに
多くの場合、

自分自身が
そのような意欲を
持っていることに
本人が
気づいていない。

しかし
明らかに
そういう人は
空気感が違う。

一種の
焦りのような
ものも大きい。

そういう人
には、
最近の私は
ダイレクトに
伝えることにしている。

ものすごい
加速を
したいのでは
ないですか?

・・・と。

最近は
この一言で

それだけで
本人が
「そうだった!」
と気づかれるケースが
増えてきた。

わかりやすい
世の中に
なってきたな、

思う。

自分が
加速したがって
いることに
本人が気づけば、

あとは
早い。

加速を阻害する
物事を、

内的にも
外的にも

明らかにして
一つずつ
それらを取り払う。

本人の意志と
意欲は高いので、

取り払うだけで
あとは
ぐんぐん
加速する。

ただし問題は
ここからだ。

これまでに
経験のない
加速をするため

これまでに
経験のない現象が
立て続けに
起こる。

そこで、
これまでの
心と行動の癖が
出てしまうと、

急減速して
しまう。

そうならない
ように、

すべての
事象、現象に
対して

真本音で
立ち向かう

ための
サポートをする。

その人は
走りながら
真本音度合いを
高めていくことに
なる。

結局は
これこそが最も
健康的であり
自然な
進み方なのだと
思うね。

つづく

混乱を目の前にして

たくさんの人達が
蠢いている
ように見える。

混乱している
ように見える。

しかし
よく目を凝らせば、

彼らの動きは
極めて
シンプルだ。

ある一人の
人が
すべてを
牛耳っている。

本人も
周りも
意図せぬままに。

あの人の
牛耳り方を
少し変えるだけで
すべてが
大きく
変わっていくだろう。

少なくとも
今の
無駄な混乱は
なくなるだろう。

混乱には
二つある。

必要な混乱と
無駄な混乱だ。

残念ながら
無駄な混乱が
今の社会は
多い。

そして、
必要な混乱は
無理に
収めさせてしまう
という
現象もよく見る。

必要な混乱は
より深め
より広げると
いい。

しっかり
混乱を味わい
完了させることで、
次のステージに
行ける。

無駄な混乱に
ついては、
無駄な混乱
なので、
根本からなくした
方がいい、

・・・と
思われがちだ。

もちろん
そのような場合も
あるが、

多くは、

混乱の仕方を
少し変えることで、
それが
無駄な混乱から
必要な混乱へと

転換できる。

そして
そうするための
有効な手立てが、

一人を変える

という
ことだ。

混乱を起こしている
キーマンがいる。
大概の場合。

そのキーマンに
アプローチする。

ただし、
当然のことながら
人を外側から
変える
などということは
できない。

その人が
内側から
自分を変える、

つまりは
自らの意志で
自分を変える、

という方向の
刺激を
入れ続ける。

そういった
場合の
私の基本的な
アプローチ法が

その人の
真本音度合いを
高める

ということだ。

真本音度合いを
高めること
自体は、
その人にとって
とても幸せな
ことだ。

それをすることで、
その人は
勝手に
調和の方向に
進み始める、

というケースが
多い。

もちろん
すべてこれで
上手くいくわけでは
ない。

が、
まずはこれが
基本。

すべては
ここから
始まる。

つづく

悲しみの希望

もう
これまでの
私じゃない。

と、
半分くらいは
悲しみに
満ちながら、

その事実を
受け止める。

これまで、
小出しにして
きた力も

ここからは
全開放へと
向かうのだろう。

もちろん
それは、
本来の私への
滑走路となる。

それ自体は
悦ばしいこと
ながら、

これまでの
私が
消えてしまう
という
その悲しみは
確かに
あるのだ。

それが
人間だから。

わかっている。

そうは
言っても、
私は
私だ。

しかし今回は
悲しみが
あまりに
大きいので、

きっと
これまでとは
また違う
脱皮になるのだろう
という
気がしている。

眠っている力
の開放は、

「希望」
という言葉が
ふさわしい。

しかし
希望には
悲しみも
寄り添っている。

それが
人間だろう。

今、
望むことと
言えば、

できるだけ
静かに
行きたいな。

これまでは
激しかった
からね。

ゴツゴツと
いやというほど
ぶつかり続けての
脱皮だった。

もう
年齢も年齢
だからね。

静かに
行きたい。

できれば。

人生の終わり

刻々と
近づいてきている。

とにかく
そこまで
無事に
辿り着きたい。

やることが
たくさん
残っているからね。

ちゃんと
やり切って、

生き切って、

死にたい
もんだ。

一日一日
を、

希望と共に
悲しみと共に

開花
していく。

やっと
ここまで
これたよ。

つづく

自由に関する、今必要な問い

自由だと
思っていたのに、

実は

どツボに
はまっていた
だけ。

本当は
八方塞がりで、

選択肢は
なく、

一つのことしか
できない、

一つの道しか
進めない、

しかも
行先がどんどん
狭まり、

もうすぐ
行き止まりに
なる。

・・・という
感覚。

自由に
やってきた
はずなのに。

そう。

私達人間は
自由に
やれば、ほぼ
必ず

そうなる、

時が来る。

ある種、
健康的な
進み行きとも
言える。

自由、


慣れていない
のだ。

自由な
つもりで
自分をだんだんと
無意識に
不自由な方向に
導いてしまう。

気がつけば
もう
身動きが
取れなくなってる。

さて、
質問だ。

このタイミング
だからこそ、
必要な問い。

・・・

今の私に、
人生の進み行きの
選択肢が
6つ以上
あるだろうか?

・・・

もし
6つ以上
ない場合は、

今一度、

原点に
戻った方が
良いと思うよ。

つづく