チームパフォーマンスコーチ

虚勢を張れば張るほど、道は観えなくなる

自分の中に存在している

本当の「道」を

見極める。

 

そのためには、

真本音と反応本音の区別が

必要。

 

では、どうすればその区別を

つけられる自分になれるのか?

 

・・・そんなお話を

書かせていただいています。

(→前回記事)

 

反応本音に基づいて

生きているうちは、

私達は虚勢を張ります。

 

すべての人がそう、

というわけではありませんが、

一般的には

声が大きくなります。

 

威厳を出そうとします。

 

いつも無理にでも

元気な自分を

見せようとします。

 

以前の私が本当に

そうでした。

 

私はコーチというお仕事を

真本音・反応本音という

区別がつく何年も前からずっと

続けています。

 

20年くらい前の私の研修や

チームコーチングは

それはそれは

威厳に満ちたものでした。

 

若いくせに。

 

場に緊張感を

張り巡らせていました。

 

当時の私は30歳過ぎ

くらいです。

 

相手はほとんど

年上です。

 

40代50代の経営者の方も

多かったです。

 

そんな方々に向かって

平気で

「お前は甘い」

と「指導」していました。

 

本当にそういった

言い方をしていたのです。

 

私がきつく当たると

その方はビッショリと

冷や汗を流していました。

 

私はその人の

痛いところを

突き続けていました。

 

そうしてその人を

「矯正」して

経営をよくしよう、

俺がそれをしてやろう、

と思っていました。

 

そして、

そういった「指導」をする立場が

自分の役割なので、

自分は誰よりも人格者で

あらねばならないと

決めていました。

 

だから、

心の中に次々に現れる

負の方向の反応本音達を

力でねじ伏せて、

フタをして、

無きものとしていました。

 

で、ある時についに

体を壊してしまったのです。

 

あの時、

私の体が言うことを効かなく

ならなかったら、

私は真本音に気づくことは

できたでしょうか?

 

今でも

そう反芻します。

 

そんな当時、

ある時私はお客様の会社に

車で向かいました。

 

当時の私の睡眠時間は

とても短く、

1時間とか2時間の日々が

続いていました。

 

ですので私は

お客様の会社の近くに

15分くらい前に車で到着し、

車の中で

5分〜10分くらい仮眠をとる、

というのを習慣化していました。

 

5分10分の仮眠をとる

名人でした。

 

その日もちょっと前に到着し、

5分だけ仮眠をとりました。

 

その場合、

シートを倒すわけでは

ありません。

 

通常の座った状態のまま

ウトウトとするのが

コツです。

 

私はいつものように

ウトウトしました。

 

するとその瞬間に、

私は自分の腹から

とてつもない何かが

込み上げてくるのを

感じました。

 

それは、

大量の血でした。

 

ブバババババッ!!

と凄い音を立てながら、

私は口から大量の血を

吐き出しました。

 

血は口から溢れ、

私のスーツは

血まみれになりました。

 

うわっ!どうしよう!

・・・とびっくりした瞬間に

目が覚めました。

 

夢だったのです。

 

でも、

あまりにも鮮烈でした。

 

今でもそれは

現実としか思えないくらい

リアルでした。

 

今ならわかります。

 

確かにそれは

夢ではありませんでした。

 

それは「実在」でした。

 

私は「実在」を

感じただけです。

 

私の中から

これまでフタをしていた

反応本音達が溢れ出し、

真本音という存在に

気づいたのは、

その数日後でした。

 

その後、わずか

2〜3ヶ月で、

私は、当時の師匠のもとを

飛び出し、

当時雇われ社長をしていた

会社も飛び出し、

当時の家族からも

飛び出し、

両親のもとからも

飛び出し、

お客様からも

飛び出し、

友人関係からも

飛び出し、

すべてをリセット

することになります。

 

人生がその時一度、

終わったのだな、と

今でも思います。

 

終わったと同時にそれが、

真本音の人生、

真本音の道の

始まりでした。

 

私の中からは徐々に

虚勢は去っていったと

思います。

 

虚勢を張る人生が

いかに辛い人生か。

痛いほど私は

知っています。

 

虚勢を張るエネルギーと

時間があれば、

もっと自分の本当の

願いに向かえばいい。

 

そんな単純なことなのですが、

なかなかそれができないのも

人間です。

 

でもまずは、

虚勢を張っている

自分自身を

自分で認識することですね。

 

そんな自分を

見つめるのです。

 

観続けるのです。

 

それだけで、

そこからは

抜け出せるでしょう。

 

すると

虚勢を張ることそのものが

遊び心のような感じとして

受け取れるようになります。

 

なんだ、

可愛いな、俺、

と。

 

そうなればもう

いつでもそこからは

抜け出せます。

 

虚勢から抜け出すことで、

真本音の道が

初めて観えてきます。

 

つづく

 

私ほど酷い人は、見たことがない

私達の中にはすでに「道」があり、

その「道」を進むことは

とても勇気の要ることだけれども、

いざその「道」に入ってしまえば、

人としての本来の幸せを

存分に感じることができます。

 

・・・というお話をここまで

させていただいています。

(→前回記事)

 

では、その「道」が

本当の「道」なのかどうか、を

どこで判断すればよいでしょうか?

 

本当の「道」かどうか?

 

とはつまり、

 

真本音の道かどうか?

 

ということです。

 

これを見極めるためには、

真本音と反応本音の区別を

つけられる自分になることが

前提となります。

 

真本音と反応本音の

区別。

 

これは実は、

目と鼻の区別がつくのと

同じくらいに簡単です。

 

でもしかし、

それができる人が

現時点では少ないのが

今の社会です。

 

どうして目と鼻の区別が

つかないの?

目は目だし、

鼻は鼻だし、

目を見て「鼻だ」とは

思わないでしょ。

 

・・・などといつも私は思ってしまう

のですが、

でもそういう私自身も以前は

まったくこの区別がついて

いませんでした。

 

人のことを言えません。

 

だいぶ前のブログでも

書きましたが、

以前の私は本当に酷くて、

いまだに、

以前の私ほど反応本音まみれの

人と出会ったことが

ありません。

 

もちろん以前は、

真本音と反応本音という

区別そのものもありませんでした。

 

でもそれにしても

酷かった。

 

私は、心にフタをする

名人でした。

 

例えば、Aさんのことを

憎んで憎んで憎んで・・・

憎み切っていたのにも関わらず、

そういった心にフタをし、

自分で醜い心を見えないようにし、

「自分はなんてきれいな心の

持ち主なんだ」

と本気で思い込んでいました。

 

その頃の私ともし今

出会ったならば、

出会った瞬間に、

「あぁこの人はダメだな。

どんなサポートも効果がないだろう」

と最初からサポートをしない

と決めるでしょうね。

 

それだけ酷い状態でした。

 

これ、本当にマジなんです。

よく

「たけうちさん、そうは言っても

口で言うほどは酷くなかったでしょ」

と言われるのですが、

本当に、マジなんです。

 

手のつけようのない人間、

とは私のことを言うのだと

今でも本当に思っています。

 

そんな私でも

真本音と反応本音の区別が

つくようになりました。

 

ということは、

人類すべての人が

これはできることであると

私は本当に思っています。

 

では、

それだけ酷かった私が

どのようにして

区別がつけられるようになったか?

 

その第一歩目は、

 

「反応本音を隠さない」

 

ということでした。

 

つまりは、

すべての反応本音を

観察する、ということです。

 

やはりここでも

「観察」

は重要なのです。

 

人間誰しも

見たくない心はあります。

 

こんな心が

自分の中にあってほしくない、

あってはならない、

人として。

・・・そう思う心はあります。

 

でも、

どんな心があっても

よいのです。

 

何があってもOK。

というおおらかな気持ちで

自分の心と向き合うこと。

 

これが重要です。

 

重要ですが、

すぐにできるわけではありません。

 

そこでお勧めは、

自分の心の声を

どんどん紙に書いてみる

ということです。

 

「書く」という行為は

かなり強力です。

 

書いているうちに、

フタが外れるのです。

 

勇気を持って

ちょっとだけ醜い自分の心を

書き始めてみると、

まるでダムが決壊したかのように、

フタをしていた心たちが

溢れ出ます。

 

それをそのまま

書き殴っていくのです。

 

私は初めてこれをやった時、

涙が止まらなく

なりました。

 

あまりに酷い言葉の

数々だったからです。

 

自分が書いている言葉なのに、

自分の言葉とは信じられないくらい

酷い言葉たち。

 

情けなくて悔しくて、

惨めで、

本当に人としての自分を

許せない気持ちになりながらも

それでも

書き続けました。

 

するとある瞬間に

フッと

楽になるのです。

 

私はこれをパソコンで

やっていたのですが、

そのあまりに酷い言葉の数々を

印刷し、

印刷したものを

燃やしました。

 

燃えていく紙を見つめながら

私は自分の心が

燃えていくのを感じました。

 

と同時に

さらに心が楽になるのを

感じました。

 

かといって、

次の日からすぐに

心が変わるわけではありません。

 

次の日もまた、

同じように酷い言葉達が

自分の中から溢れました。

 

でも同じく、

すべてを書きました。

 

そして

燃やしました。

 

これを繰り返すうちに、

数日のうちには、

私はかなりおおらかになっている

自分に気づきました。

 

そうか。

こんな気持ち達を持っているのが

私という人間なんだな。

であれば、それはそれで

しょうがないか。

 

というような、

そんな気持ち。

 

さらにそれを続けると、

そのうちに酷い言葉達は

もう出なくなりました。

 

何かが完了した感覚。

 

出し切った感覚。

 

と同時にわかったのです。

「あの酷い心は

確かに私の心ではあったが、

ただ、私の中に溜まっていた

だけのものなんだな」

と。

 

そうです。

心の中に溜まっているもの。

それが反応本音です。

 

もちろん反応本音とは、

悪いものばかりでは

ありません。

 

人としての喜びとか

嬉しさと、幸せとか

前向きな気持ちとか、

やってやろうという意欲とか、

色々なものがあります。

 

でもそれらの全ては

溜まっている気持ち達。

 

吐き出されれば

消えていきます。

 

すべてが吐き出されても

それでも自分の中に

残っているもの。

 

すべてを吐き出しても

揺るがずに

そこにあり続けるもの。

 

それが

真本音です。

 

私は、

自分の気持ち達を書き続け、

吐き出し続けることによって

初めて真本音の存在を

実感できたのです。

 

つづく

 

自分の道を観るのを躊躇している人へ

私達の中にはすでに

決めている道があります。

 

というお話を

前回いたしました。

(→前回記事)

 

ところがその道を

見つめることができない、

という人がいます。

 

その道を

観るのが怖い

のです。

 

観てしまうと

自分は間違いなくその道を

突き進んでしまうだろう。

何の躊躇もなく

その道に入るだろう。

 

・・・ということが

本人にはよくわかっているのです。

だから逆に、

観るのが怖い。

 

観てしまったら、

これまでの人生、

これまで創り上げてきたもの、

これまでの自分

それらすべてを

自分は捨ててしまうのではないか、

という恐れがあるのです。

 

ですので今、

自分の中に道があるなぁ、

という実感を持ちながらも、

しかしそれを観ることが怖くて

茫然と立ちすくんでいる人が

増えています。

 

その気持ち。

 

同じ人間として

私は強烈によくわかります。

 

私もそこで

相当に苦しみました。

 

しかし、

自分の本当の道を観つめ、

そこを進むことを選択した経験者として

お伝えするならば、・・・

 

苦しいのは、

その場所だけです。

 

その道を観つめる

その直前が

苦しいだけです。

 

いざ、

それを観てしまえば

すべての合点がいきます。

 

これまでの自分の人生の

合点がいくのです。

 

なぜ自分は

ここに生まれてきたのか?

 

なぜこのような

人生だったのか?

 

なぜこのような

自分だったのか?

 

すべての合点がいく

のです。

 

そして

何も捨てる必要がないことが

わかります。

 

ただし、

捨てる必要はありませんが、

「手放す」必要のあるものは

ありありとわかります。

 

「手放す」とは

捨てるということでは

ありません。

 

「距離を置く」

ということです。

 

今の距離よりも

もう少しそれを遠ざける

ということです。

 

存在そのものを

捨てたり抹消する必要は

ありません。

 

「距離感」というものは

とてつもなく、と言ってよいほど

大事です。

 

私達の真本音は

すべての物事と

適正な距離をとる

ということを大切にしています。

 

距離感を大切にすることで

調和度合いは

圧倒的に高まります。

 

そういった意味で、

今は何との距離が近すぎて、

何との距離が遠すぎるのか?

がありありとわかります。

 

そしてその修正を

したくなります。

 

間違えてならないのは

「しなければならない」

のではなく、

「自然にしたくなる」

のです。

 

そしてその通りに実行すれば、

もの凄い安心感と

安定感を

得ることができます。

 

その状態で、

「道」に入って行くのです。

 

そして「道」に入れば、

前回記事でも書きましたが、

かつて経験したことのない

充実感を

私達は得ます。

 

常に魂と心が

満たされている状態、

そして、常に

自分の中心からエネルギーが

湧き続けている状態と

なります。

 

そしてそのエネルギーは

他者にもそのまま

照射されます。

 

そのエネルギーを私は

「愛」

と呼んでいますが、

愛のエネルギーを常に

他者に注ぎ続けることのできる

自分となるのです。

 

ですからますます

すべてが調和して

いきます。

 

そういった「現実」が

起こり始めるのです。

 

要するにそれは単純に言えば、

幸せな日々

なのです。

 

ですから、

苦しみは今、躊躇しているその場所

にしかありません。

 

しかと目を開き、

自分の道を観つめれば、

すべてが自然に

動き始めるのです。

 

「道」を歩き始めるのが

普通の状態。

 

人間として極めて

普通の生き方なのです。

 

つづく

 

自分の中には確かに道がある

「直観力」とは

もともと私達誰にも備わっている

当たり前の力です。

 

それを発揮するためには、

私達は人間としての

「普通の生き方」

をすることが大切です。

 

それができていないので、

本来持っている直観力が

発揮されなくなっているのが

現在の私達です。

 

では、

「普通の生き方」を取り戻すために

大事なのは何でしょうか?

 

その最初のキーワードが

『観察』

でした。

 

この「観察」について

前回まで書かせていただきました。

(→前回記事)

 

ここからは次の

キーワードをご紹介します。

 

「普通の生き方」を取り戻す

次のキーワードは、

 

『道』

 

です。

 

私達の中には

「道」がすでに

できています。

 

私達は自分自身の

「道」を

決めているのです。

 

それに一度でも気づいた人は

もう決してその道を

変えることはありません。

 

どんな環境に自分がいようとも、

そこでどのような現実が

起きようとも、

どのような妨害や障害に

遭おうとも、

その道をあきらめたり、

変更することは

ありません。

 

それは

本人にとっては

とてつもなく太く、

まっすぐで

安定して

気持ち良い

これ以上ない「確かさ」を湛えた

道なのです。

 

一瞬でもそれを

感じ取った人は

そのあまりの存在感に

ある意味、

我を忘れます。

 

しかしそれは本当は

「我を忘れる」のではなく

「我を思い出す」

という状態です。

 

本当の自分、

本来の自分を

思い出すのです。

 

あぁなんだ、

これが私の人生だった、

これが

私の生まれた意味だった、

と単純に

思い出すのです。

 

思い出したらもう

そこを進むだけです。

 

間違っていただきたくないのは、

それは、

「あぁこの会社は違ったな」

とか

「この仕事は違ったな」

とか、

そういったレベルの話では

ないということです。

 

どのような会社にいても

どのような仕事に就いていても、

要するに

どのような環境にいても、

その「道」を進むことは

できるのです。

 

むしろ、

「この環境は違う」

とか

「環境が悪いから自分は

自分の人生を歩めないのだ」

と言っているうちは、

決してその「道」は

見つかりません。

 

一人ひとりに必ず

その人ならではの

「道」

はあります。

 

そしてその「道」を

辿ることは、

今この瞬間から

すぐにできることです。

 

その「道」に

気づいた瞬間から

できることなのです。

 

何の難しさも

複雑さも

準備も

必要ありません。

 

そしていざ

その「道」を歩み始めれば、

人生の時間の

一刻一刻は

本当に満ち足りたものに

なるでしょう。

 

なぜならそこには

「自分を生きている」

という実感が

半端ないからです。

 

傲慢ではなく、

本当に心の底から

「世界の中心は自分である」

と思えます。

しかしかと言って、

自分以外の全ての存在が

ありがたくてしょうがありません。

 

「自分」と「自分以外のもの」

という分離は

あるのだけれども、

しかし確かに

すべては一つであると

感じ取ってもいます。

 

つまりそれは

高い次元の自分の意識が

発動しているからですが、

それは

「道」を歩み始めることで

成されるのです。

 

そういった

自分の「道」。

 

これを見つけるためには

やはり、

自分自身を「観察」することが

必須です。

 

特に、自分の心を

区別しながら観察することが

重要です。

 

その区別こそが、

「真本音」と「反応本音」

です。

 

つづく

自己理解の第一歩は、心の声理解である

「自分の心に意識を向ける」

そのファーストステップは、

「今、自分が感じていること」に

意識を向けるということです。

(→前回記事)

 

「感じていること」とは、

自分の「感情」が生まれる

一歩手前の段階です。

 

私達は、

①何かを感じる

ことによって

②感情が生まれる

のです。

 

①がなければ

②はありません。

 

①も②も両方理解することが

自分を理解する

最も基本となります。

 

どんな①が来れば、

どんな②になるのか?

・・・自分はそこに

どのようなパターンを

持っているのか?

 

それが自己理解の

基本だからです。

 

さて。

 

①に目を向けるようになると、

私達は実に様々なことを

一日の中で感じ取っていることに

驚くでしょう。

 

ほんの些細なことで

私達の心は

まるで風を受けた風船のように

揺れに揺れます。

 

私達の心は

揺れるようにできているのです。

 

それを

揺れていないふりをしたり、

揺れていることに麻痺したり

するのはまったくの

無意味です。

 

揺れをそのまま感じ取ること

こそが健康であり、

自分の心を強くする

一歩にもなります。

 

揺れている自分を

あるがままに見つめる

自分になることで、

直観力も大きく増します。

 

そのためにも、

①に敏感になれたら次は、

②に目を向けましょう。

 

つまり自分の感情と

向き合うのです。

 

ただしその感情とは、

激しいものばかりでは

ありません。

 

激しい感情は

わかりやすいです。

 

ものすごく怒りを感じたら、

誰もが自分は腹が立っている

とわかるでしょう。

 

そういった激しいものだけでなく、

ほんの些細な、

フッと現れては消えていくような

わずかな感情の動きにも

目を向けます。

 

その際に一つ、

重要なポイントがあります。

 

それは

『心の声』

です。

 

私達の感情には必ず

「心の声」が

セットでついてきます。

 

例えば、

Aさんの一言でムッとした場合、

怒りの感情と共に、

必ず何らかの「心の声」を

私達はつぶやいているはずです。

 

「なんてひどいことを言うんだ」

とか

「きつ過ぎる」

とか

「それを言わないでくれーーっ!」

とか。

 

時と場合でまったく異なる

「心の声」が発生するでしょう。

 

しかもその「心の声」は

さらに次の「心の声」を

呼び起こします。

 

例えば、

「Aの馬鹿野郎!」

とか

「こいつは大っ嫌いだ!」

とか

「殴ってやりたい!」

とか。

 

そしてさらに別の

「心の声」も続くかもしれません。

 

このように、

感情を理解するとは、

同時に、

「心の声」を理解することでも

あるのです。

 

逆に言えば、

自分の「心の声」に

意識を向けておけば、

自分の感情を理解することに

つながるケースも多いです。

 

私はよくコーチングの場で

「その時、どのような心の声を

つぶやいていましたか?」

という問いを投げます。

 

それを続けると、クライアントさんは

私がその問いを投げなくても

自分から「心の声」を

口にするようになります。

 

それができるということは

それだけ自分を客観的に

観れるようになってきた

ということでもありますし、

自己理解も進みます。

 

するとさらに私は

次のようなことも

クライアントさんにお勧めします。

 

それは、意図的に

自分で「心の声」をつぶやき、

「心の声」通りに行動する

ということです。

 

実はこれはいつも私達が

無意識にやっていることなのですが、

それを意図的に行なうと、

自己コントロール力が

格段に増すのです。

 

今日もたまたま

それを実践したクライアントさんの

コーチングだったのですが、

その方はそれをやってみて、

 

「すべての行動はこうやって

自分で決めていたんだということが

本当にわかりました。

私はすぐに人のせいにしたり、

辛いことがあると逃げようと

思っていましたが、

なんだ、すべて自分で決めて

行動していたんだ、という

当たり前のことに気づきました」

 

・・・という感想を

言われていました。

 

無意識に行なっていることを

意識化するというのは、

自律性や主体性の一歩にも

なります。

 

では、・・・

 

ここまでのお話を

少しまとめます。

 

『直観力を高めるには』

というテーマで、

ここまで書かせていただいています。

 

直観力を高めるためには、

人間として普通の生き方をすることが大事。

普通の生き方とは、

まずは自分の心に意識を向けること。

意識を向けるとは、観る(観察する)、ということ。

まずは何を観ればよいかと言うと、

それは

・自分が今、感じていること

・それにより引き起こされる感情と心の声

である。

 

・・・ということになります。

 

実はこれは私の言うところの

「セルフコーチング」の基本でもあります。

 

そしてこの基本を実践するだけでも

直観力はアップし始めます。

 

しかし、本題は

まだまだこれからです。

ここまでは序章にしか

すぎません。

 

つづく

今ここで私は何を感じているのだろうか

自分の心を観察する

と言っても、

どうすればよいか?

まったくイメージを持てない

人も多いと思います。

 

実際に、

企業研修の場で

「自分の心を観てみてください」

と私が言っても

大半の方がキョトンと

されています。

 

心とは

目に見えないものです。

 

しかし、

脳を使わなければ、

心とは

ありありと観えてきます。

 

心とは

「実在」です。

 

つまり、

実際に存在するもの

です。

 

3次元のレベルで

それを把握しようとするから

難しいのであって、

もっと高い次元の眼差しを

向ければ、

それはありありと

そこに在るのがわかります。

 

心の「実在」を

感じ取れるようになると、

現代の世の中は

いかに多くの人達の心が

ボロボロであるかが、

本当によくわかります。

 

中には瀕死の重傷を

負っている人もいます。

かと言って

そういった人も

毎日を当たり前のように

お仕事をしながら、

がんばりながら

過ごしています。

 

自動車は

ガソリンが切れれば

ガス欠を起こします。

決して動くことは

ないでしょう。

 

しかし人の心は、

ガス欠を起こしても、

それでも動かしてしまうことが

可能と言えば可能です。

 

ガス欠状態でも

気合だけで動かしている人が

今、いかに多いことか。

 

私からしてみると、

本当によくやってるなぁ、

とある意味驚嘆します。

 

なぜこの人は

こんなにもエネルギーがないのに

これだけ動いていられるのか?

と驚嘆するのです。

 

しかし当たり前ですが、

それは決して良いことでは

ありません。

 

エネルギーのないのが

当たり前。

その状態でもがんばるのが

人間だ。

その状態でもがんばるのが

社会人だ。

その状態でもがんばるのが

ビジネスマンだ。

 

・・・そんな常識は

本当に私達は

捨てるべきです。

 

もっと自分を

エネルギーで満たすことを

考えましょう。

 

そして、

本来のエネルギーとは

自動車のガソリンのように

外から与えられるものでは

ありません。

 

人の心の本来のエネルギー

とは、

内側から自然に

湧き続けるものなのです。

 

つまり私達人間は

すべての人が

心のエネルギーを

自家発電できるのです。

 

しかし残念ながら

それができている人は恐らく、

1割にも満たないでしょう。

 

その事実を

まずは感じ取るためにも

自分自身の心に

意識を向ける必要が

私達にはあります。

 

では、

心に意識を向けるとは

実際には何をすれば

よいでしょうか?

 

その第一歩は、

「今自分が感じていること」

に意識を向ける

ということです。

 

「感じていること」

 

まずはこれが麻痺している人が

あまりに多いです。

 

企業サポートの中での

私の実感値で言えば、

恐らく、

7割以上の人が

麻痺しています。

 

今、自分は

何を感じているのか?

 

イライラしているのか、

心地が良いのか、

悲しいのか、

嬉しいのか、

モヤモヤしているのか、

スッキリしているのか、

恐れているのか、

安心しているのか、

・・・・・・。

 

まず単純に

「快」の状態なのか?

「不快」の状態なのか?

を自覚するとよいでしょう。

 

まず、これが

できていません。

多くの人が。

 

例えば、

Aさんから一言を

もらった。

 

その一言によって、

自分の心が

どう動いたのか?

 

「快」の方向に動いたのか?

「不快」の方向に動いたのか?

 

その時その瞬間の

特に、人との関わりの現場

において、

自分の心がどう感じているのか?

に敏感になることが

とても重要です。

 

今日一日を振り返って

どうだったか?

というのももちろん大事ですが、

それ以上に、

 

「今この瞬間、

自分はどう感じているのか?」

 

に敏感になることこそが、

人として「普通に生きる」ためには

必須です。

 

人生とは、

現場です。

 

現場とは

今この瞬間です。

 

今この瞬間に

感じていることを

自覚することが

生きる

ということなのです。

 

まずはこの当たり前のことを

できる自分に

戻ることです。

 

これが、

ファーストステップ

です。

 

つづく

 

観察するだけで私達は自由になれる

「直観力」を増すには、

「普通の生き方」を取り戻すことが

重要。

そしてそのための第一のステップが

『観察』

であり

『観る』

ことです。

・・・というところまで

お話ししました。

(→前回記事)

 

「観る」とは、

あるがままを見る、

ということなのですが、

実はこれはさらに本質的なことを

言えば、

「脳を使わずに見る」

ということにもなります。

 

こういう書き方をすると

かなり難しい印象を

受けるかもしれません。

 

しかしあえてここでは、

本質的な表現を

使わせていただきます。

 

「観る」とは

ここにあるすべてのものを

脳を使わずに見ることであり、

感じることであり、

それをしている自分自身は

その瞬間は、

「ここに在るだけの存在」

となります。

つまり、自分には

何の解釈もなく

何の評価もなく

何の判断もない

状態です。

 

これは正しい、とか

それは素晴らしい、とか

反対に

これはおかしい、とか

これはつまらない、とか

そういった

自分の中から発生する心、

つまりは反応本音からは

完全に解放されています。

 

ただし、解放とは、

それらの反応本音をゼロにするとか

抹消するということでは

ありません。

 

それらの反応本音それ自体も

観ている状態です。

 

つまり、

自分の心の中にあるものも

外にあるものも、

すべての存在を

観ている状態であり、

それをしている自分自身は

すべてから解放されています。

 

「ただ在る」

 

それ以上でも

それ以下でも

ない状態となっています。

 

そこには

何があっても

よいのです。

 

そして、

すべてから

解放されています。

自由です。

 

これこそが

「自然体」と言えるもの。

 

私達人間にとって

「普通」の状態です。

 

いやいや、

そんな、まるで悟りを開いたかのような

状態が普通であるはずかない、

それは修行を積んだ

特別な人が手に入れる

特別な状態だ、

と思われる人もいるかも

しれません。

 

いやいや、

その固定観念こそが

私達の生き方と

今のこの世の状態を

創り出してしまっています。

 

それは本当に

特別な状態ではなく、

誰もがもともと持っている

普通の状態です。

 

別にその状態になることで

人格者になるわけでも

ありませんし、

超人になるわけでも

ありませんし、

稀有の存在になるわけでも

ありません。

 

何があっても

オールOK。

しかしその「オールOK」とは

解釈による「オールOK」ではなく

本当にただそこに在るだけの

「オールOK」です。

 

そうなれた時、

私達は

今ここに在るすべてのものを

リアルに

ダイレクトに

実感できます。

 

それはある意味

実に感動的です。

かといって

気持ちが高ぶる感動ではなく、

トツトツとした

魂が静かになるような

安心感と安堵感に満たされた

感動です。

 

その時の実感をあえて

心の声として表現すると、

「あぁなんだ。

すべてが普通ではないか」

・・・というような感じに

なります。

 

すべての存在に対してそれが

「存在していることを承認」

しています。

 

すると自分自身から

とてつもないエネルギーが

発生します。

 

それは、すべてを存在承認しながら

その「分離」を楽しんでいるが故に

発生するエネルギーです。

 

そのエネルギーは

分離して存在している

あらゆるものを

大切にしよう、

それらと

一つになろう、

というエネルギーです。

 

それを私達の言葉で

『愛』

と言います。

 

この「愛」を発する状態で

すべての物事と向き合い、

関われば、

あらゆる物事が

調和していきます。

 

物事がすぐに

頓挫する人生を送る人と、

物事がどんどん

調和する人生を送る人の

違いが

この「愛」の発生量です。

 

私達がもともと持っている

このエネルギーを

使いながら生きるかどうか?

なのです。

 

・・・

だいぶ今回は

本質をそのまま躊躇なく

表現する文章に

なってしまいました。

 

できましたら、

今回の文章は

頭で解釈するよりも

魂でそのまま

感じ取っていただけると

よいかな、

と思っています。

 

次回からは、

自分の心の「観察」の仕方、

自分の心を「観る」コツ

などを

お伝えいたします。

 

つづく

 

人としての生き方を取り戻す最初のステップとは

「直観力」を増すには、

「普通の生き方」を取り戻すことが

大事です。

・・・ということを前回記事で

書かせていただきました。

(→前回記事)

 

人間としての

普通の生き方・・・。

 

これも前回書きましたが、

まずそのためには、

私達は私達の心にもっと

意識を向けなければ

なりません。

 

私達の心とは

宇宙と同じです。

 

とてつもなく広く

とてつもなく深いです。

 

そこには

すべての真実が

存在しています。

 

すべての答えが

すでにあるのです。

 

にも関わらず、

私達は外に答えを

求めます。

 

本当の答えとは

外にはありません。

 

自分の人生の答えは

自分の中にあります。

 

ただその答えを見出す

きっかけとして

外からの刺激が

必要な時があります。

 

外に意識を向け、

内側にも意識を向ける。

 

両方を観察する。

 

それがまずは、

人としての普通の

生き方です。

 

つまり最初のテーマは

『観察』

です。

 

私達は、あまりにも

観察をしていません。

 

例えば、

机の上に

ペットボトルが置いてあった

とします。

 

それを見た私達は

「あっ、ペットボトルがあるな」

と思います。

 

それで終わりです。

 

しかしそれは

観察ではありません。

 

「ペットボトルがあるな」

という解釈をしているに

過ぎません。

 

観察とは、

そのペットボトルを

あるがままに

よく見ることです。

 

あるがままに見る。

・・・これを

『観る』

と表現することにします。

 

ペットボトルを観る

ことにより、

そのペットボトルの

細かい部分が目に入る

と思います。

 

例えば、

ラベルの模様とか、

そこに書かれている文字の形

とか。

ペットボトルに刻まれている

ギザギザの形とか。

 

もしお手元に

ペットボトルがあれば、

ぜひ一度、まじまじと

観てみてください。

 

普段、気づいていないものを

たくさん観ることが

できます。

 

それが

観察です。

 

ペットボトルの観察が

できたら、

今度は、外にあるあらゆるものを

観察してみてください。

 

観てください。

 

例えば、

いつも会社に行く道のりで

目に映る様々なもの。

 

それらをよく

観てください。

 

世界が違って

観えるはずです。

 

それができたら今度は

人を観察してみてください。

 

いつも接している

職場の人とかご家族とか

お友達とか。

 

電車の中の見知らぬ人でも

よいです。

 

いろんな人を

観てください。

 

ひょっとするとそれだけで

人生観が変わるかも

しれません。

 

実際に昔、

私がそれをしてみた時は、

私は本当に

人生観が変わったと

思いました。

 

自分がいかに

世界を観ていなかったか、

現実を観ていなかったか、

人を観ていなかったか、

ということにかなりの

ショックを受けました。

 

そのように、

外の世界を観察し続けたら、

今度はいよいよ

同じような感覚で、

自分自身を観察します。

 

まずは鏡で

自分の顔や姿を

ありありと観てみてください。

 

どんな表情、

どんな空気感でしょうか。

 

そして

自分の心を観察します。

 

「心を観察する」のと

「心の中で解釈する」のは、

根本的にまったく

異なります。

 

自分の心をまるで

他人の心のように、

あるがままに

観てみてください。

 

最初はそれがどういうことか

まったく理解できない人も

いるかもしれません。

 

でもそれでも、

観察しようとしてみて

ください。

 

どうしてもそれができない人は、

自分の心の中に浮かんでくる

自分の気持ち達を

何か紙にそのまま

書いてみてください。

 

そして紙に書かれた

自分の気持ち達を

観察します。

 

そういったことを

続けてみてください。

 

すると、

ある時に自然にわかるはずです。

 

自分の心の

あまりの広がりと

深さを。

 

心とは宇宙と同じ

であることを。

 

それを実感できるまで

続けていただくとよいですね。

 

心が宇宙と同じくらい

広くて深いものであると

実感できたら、

それだけでもう

人間を観る目が違ってくる

はずです。

 

つづく

 

私達は人間であることを見失っていないか

「直観」とはまるで、

過去の出来事を思い出す

かのような感覚で

現れます。

・・・ということを、

前回の記事で書きました。

(→前回記事)

 

なぜなら「直観」とは

高い次元の自分自身からの

メッセージでもあるからです。

 

今、どうすれば良いか?

次の一歩は何が最善か?

 

その答えはもう

私達自身がよくわかっているのです。

正確には、

高い次元の私達自身が

知っているのです。

 

それを思い出すような感覚で

浮かび上がらせながら進むのが、

直観で生きる、ということで、

それは何も特別なことでは

ありません。

 

それが私は

「人が普通に生きている状態」

であると思います。

もしそれができていないのであれば、

今の状態が「普通ではない」

ということです。

 

そういった意味では

私達は

「普通」に戻らねばなりません。

 

「普通の生き方」

に戻すのです。

 

実は、「直観力を高める」ための

方策を一言で表現すれば

そうなるのです。

 

『普通の生き方に戻す』

もしくは、もっと端的に

『普通に生きる』

ということです。

 

では、

現在の私達は

何が「普通ではない」のでしょうか?

 

そのまず根本的な一つは、

「自分のことを

あまりにも見ていない」

「自分のことを

あまりにも知らない」

「自分の心に

あまりに目を向けていない」

「自分とあまりに

向き合っていない」

・・・ということになります。

 

日々のお仕事や生活のために

「すべきことをこなす」

ことにのみに私達は時間と意識を

使っているのではないでしょうか。

 

自分を見つめるよりも

ネットを見たり、テレビを見たり、

人の様子を伺ったり、

人の評価を気にしたり。

 

自分以外の何かに

意識を向け過ぎです。

 

いえ、外の世界に意識を向けることは

大事なのですが、

後々の記事で書きますが、

外の世界に意識を向けているように

見えて実は、それもできていない、

というのが今の私達の状態です。

 

上手く表現できませんが、

「外の世界も見ていないのに、

自分の心にも意識を向けていない」

という状態です。

 

つまりは、

「何も見ていない」

状態と言ってもよいでしょう。

 

これが、

現代人の特徴の一つだと

私は日々、実感しています。

 

私達現代人は、

「何も見ないまま」に

毎日を過ごしているのです。

 

「何も見ないまま」に

ただ、自分自身で勝手な解釈をし、

その解釈が事実であると誤解し、

その解釈に揺らされ

その解釈に脅され

ながら生きています。

 

要するにそれは

「生きている」

とは言えない状態だと

私は思います。

 

どう見ても、

「普通」ではありません。

 

かなりドギツい言い方を

していますが、

決して大袈裟ではないと

思います。

 

何も見ずに解釈のみで生きる

というのは

本当に辛いし苦しい生き方だと

思います。

 

その状態で

「直観」など出ようはずが

ありません。

 

高い次元の自分と

つながれるはずも

ありません。

 

さらにドギツく言えば、

なんか、人間ではない、ような

気さえするのです。

 

人間ではない生き方を

まるでそれが人間の生き方で

あるかのように思い込み

日々を過ごしている。

 

そんな状態。

 

ここを私達は

抜け出さねばなりません。

 

早急に。

 

残念ですが、

これまで様々な組織を

拝見してきましたが、

そのほとんどの組織が

そういった状態でした。

 

そこを「普通」の状態に

戻すのが

私の役割であると

いつも認識していました。

 

私の中では、

「すごい組織を創ろう」

というのとは違い、

「普通の組織になろう」

という感覚です、いつも。

 

普通の人間として、

普通に生きて、

普通にみんなでチームを創り、

普通に共に幸せになっていく。

 

そんな当たり前のことが

できるようになればよいなと

思います。

 

そんな組織が増えることで、

社会全体が

「普通」に戻っていくのではないかと

私は思っています。

 

では、

「普通の生き方」に戻すには

どうすればいいか?

 

次回はそこから

始めます。

 

つづく

 

直観と直感の感覚には、大きな違いがあります

前回記事から

「直観」と「直感」の違いについて

書かせていただいています。

(→前回記事)

 

直観力の高め方について

これから書かせていただく予定ですが、

その前にもう一つ重要なことを

お伝えしたいと思います。

 

それは、

「直観の感覚」

についてです。

つまりは、

「直観と直感の感覚の違い」

についてです。

 

直観と言うと、

ひらめき、とか、気づき、の

イメージがありますので、

ハッとして、

「あっそうか! こうすればいいんだ!」

と、まるで目が覚めるような

ことが起こるのだろう、

と思われるかもしれません。

 

もちろん、ある意味においては

そうなのですが、

実は、

ハッと気づくような感じ、

というのは、それほどのパワーは

持っていません。

 

その瞬間のパワーは強く、

その瞬間は本当にそれが

正解であるかのような気持ちになるし、

目の前が開ける感じもするのですが、

しかしそれがずっと

長続きするとは限らないのです。

 

例えば、一日経てば

やっぱりそれほどの発想ではないなぁ、

となったりもします。

 

そういった

ハッとした感覚というのは、

どちらかと言えば、

「直感」の方に近いです。

 

では、

「直観」の感覚とは

どのようなものでしょうか。

 

それを一言で表現すれば、

 

『思い出す感覚』

 

に非常に似ています。

 

「あぁそうだった。

こうするんだった」

と、

これからの未来のことだと言うのに、

まるで過去を思い出すかのような

感覚なのです。

 

なぜなら「直観」とは、

高い次元の自分の意識からの

メッセージだからです。

 

高い次元においては、

過去も今も未来も

「一つ」です。

分離していません。

 

その次元からの発想なので、

喩えて言えば、

「もうそれを成した後の未来の自分が

これまでやってきた自分の道のりを

思い出している」

ような感覚として

私達の心に浮かび上がってくるのです。

 

ですから、

そこにはそれほどの

感動はありません。

 

答えを見つけた感動というよりも、

あぁそう言えばそうだったな、

という安堵感のようなもの。

忘れていたことを

思い出したような

ちょっとほのぼのとした感覚、

それが起こります。

 

ですから実に

淡々としています。

 

さらに喩えて言えば、

学校のテストをして、

テストの後で、

答え合わせをしているような感覚

とも言えます。

 

あっそうだった。

この問題の答えはこうだった。

なんでこんなことを

思い出せなかったのかな。

こんな簡単なことだったのに。

 

・・・みたいな感じです。

 

それが直観の感覚。

 

真本音度合いが高まり、

高い次元の意識が活性化すると、

こういった発想が、

毎日のように、・・・というよりも

いついかなる時にも

今この瞬間に

起こり続けます。

 

それが当たり前の状態であり、

普通の状態なのです。

 

しかもこういった直観が

最も多く働きやすいのが、

人と向き合っている瞬間

なのです。

 

本当の意味で人と向き合い、

語り合っているその瞬間に

私達は様々なことを

「思い出す」のです。

 

あぁ、こうすればよかったんだ、

と。

 

そういった意味で、

コミュニケーションというのは

私達人間が持つ

大いなる力の最も代表的な一つ

であり、

組織やチームというものが

私達人間にとってなくてはならないもの

である最大の理由の一つです。

 

人は人と向き合うことで

直観が働き、

未来に向けての最善の道を見出す

答え合わせのようなことが

できるのです。

 

ですから、

直観力を高める方法は

大きく分けて二つになります。

 

一つは、

一人で直観力を高める方法。

 

もう一つは、

人と向き合いながら

直観力を高める方法です。

 

これからは

この二つの視点から

お話しをします。

 

二つを同時に行ない続けることで、

効果は何倍にもなります。

 

直観力を高め合うチームになる。

・・・これが私が組織をサポート

させていただく理由の

一つでもあるのです。

 

つづく

 

直観と言っても、二つあるんです

「自分の直観を

どうしても信じられないのです。」

 

・・・そんな方と出会いました。

 

実は、結構そういった方は

いらっしゃいます。

 

その多くの場合は、

「直観」と「直感」の区別が

ついていないのです。

 

「直感」とは

広い意味でのひらめき。

単なる思いつき程度のものも含めた

広い意味での気づきです。

 

もちろん、こういったものも

必要です。

 

しかし直感の多くは、

反応本音レベルのものや、

低い次元の意識から発生するものも

あります。

その場合は、

それほどの力強さはありません。

 

ですので、

ひらめいたのだけれども、

あくまでただ、ひらめいただけで、

自分の行動を変えるほどの

パワーを持っているわけでは

ありません。

 

それに対して、

「直観」とは

真本音から発生するものであり、

高い次元の自分の意識からの

メッセージです。

 

多くの場合、

そこには強いパワーが内包

されており、

直観を得ることで、私達は

動きたくてしょうがなくなります。

 

根拠のない自信、

という言葉がありますが、

どうしてそう思うのか?という理由を

本人もよくわからないのに、

でもどうしてもそれをしたい!

それをすれば必ず道が開く!

という強い気持ちが湧き上がります。

 

私のクライアントさんで、

ある商品を開発し、大ヒットを生み、

日本全国で一つのブームを起こした人が

います。

 

その人がその新商品を

社内に提案した時、

社内ではその人以外全員が

反対したそうです。

 

でもその人は、

絶対これを世の中に出す!

という根拠のない自信が湧き、

その自分の直観を信じて、

強引にその商品のプロジェクトを

推進したそうです。

 

マーケティングリサーチなどをしたり、

理論的にその商品が売れる根拠を

社内に示したりしたそうですが、

「実はそれはすべて、

まずは私の直観ありき。

それに合わせた理論づけでした」

と、その人は舌を出してニッコリ。

 

で、いざ商品を世に出し、

宣伝を始めた途端に

爆発的に売れ、

その人自身の当初の予定の

何倍もの利益を出すことが

できたそうです。

 

その後、その会社は

いくつものヒット商品を生み出すことに

なるのですが、

理論的に答えを導き出そう

というよりも、

まずは人間としての直観に

素直になろう、

という社内文化がそうさせたのだと

その人は言います。

 

そういった意味で、

「直観」とは、「確信」と

言い換えることもできます。

 

よくよく考えますと、

高い次元の意識というのは、

すべては一つ、

というところからの意識です。

すべてがつながっています。

 

その意識からの直観であれば、

皆が喜ぶのは当然です。

 

ただし、

「皆が喜ぶ」と言っても、

低い次元の皆の意識が喜ぶ

というものもあれば、

高い次元の皆の意識が喜ぶ

というものもあります。

 

世の中には

両方のヒット商品がありますが、

今後は

高い次元の皆の意識が喜ぶ

商品やサービスが

求められていく度合いが

高まるでしょう。

 

つまり、

低い次元の皆の意識調査をすることで

生み出される商品・サービスよりも

高い次元の皆の意識を

高い次元の自分の意識として

直観的に感じ取ることで

生み出される商品・サービスが

世の中に浸透していく時代に

なっていくでしょう。

 

そういった「直観力」が

これからはますます求められます。

 

では、「直観力」を高めるには

どうすればよいでしょうか?

 

次回からはそんなテーマで

記事を書かせていただきます。

 

つづく

 

答えがわからない、のには意味がある

迷いを「問い」の形にする重要性を

前々回の記事でお伝えしました。

(→【迷いと向き合い、人生を進める方法】)

 

しかし、

「問い」はわかったけど、

「答え」がどうしてもわからない、

という人がいらっしゃるかもしれません。

 

ですので、このお話、

もう少し続けます。

 

まずは、

「問い」がわかったら

ご安心ください。

 

「答え」は必ず

わかります。

 

ただし、いつわかるか?は

わかりません。

 

最善のタイミングで

わかります。

 

最善のタイミングでわかるためには、

その「問い」をいつも

自分自身に投げ続けることが

大切です。

 

「答え」が浮かばなくても

自分に投げ続けるのです。

 

これを

「自問自答」と

言います。

 

「問い」を自分に投げれば、

グルグルとその「問い」について

考え続けてしまうことに

なると思います。

 

そうなった場合はもちろん、

徹底的に考えるとよいでしょう。

 

しかしその一方で、

次のような問いも

自分自身に投げてみてください。

 

「この問いの答えは、

今、見つかるだろうか?」

 

これに対して、

「今は見つからないな」

と自然に思ったら、

今は見つかりません。

その場合は、

「答え」についてグルグル考えることを

やめるとよいです。

 

あきらめるのです。

今は、見つからないと。

 

そして、

次の問いを自分に投げて

みてください。

 

「答えが見つかるために、

私が何かすべきことは

あるだろうか?」

 

「ない」

と明確に思えたら、

あとは「答え」が出るのを

待つだけです。

 

「あるのではないか」と

思ったら、

「答えを見つけるために

自分は何をしようか?」

ということを

考えてみてください。

 

そういった場合の多くは、

何か自分に「インプット」が

必要なのです。

 

何らかの情報を得るとか、

人に会って何かのアドバイスや

刺激を得るとか、

もしくは、何かの経験をするとか。

 

「答え」を呼び起こす

何らかのきっかけが

必要です。

 

そのきっかけを

自分自身に与えるのです。

 

「答えを見つけるために

自分は何をしようか?」

 

この問いを自分に

投げ続けます。

 

そして、ふと

「これをしよう」と

思えることがあれば、

それを素直に実行します。

 

するとそれがきっかけとなり

「答え」に結びつく可能性が

あります。

 

とにかく言えるのは、

私達の真本音は

「答えの見つかるタイミング」

をとても大切にしている

ということです。

 

その「タイミング」とは、

「こういった情報を得た後で、

答えを明確にしよう」

とか、

「こういった経験を積むことで

答えを明確にしよう」

などの、

真本音の意図に基づいています。

 

私達の真本音とは、

私達自身の「進化」をとても

重要視していますので、

「答え」を見つけるという結果だけでなく、

そのプロセスも大切にするのです。

 

「答え」を見つけるプロセスにおいて

自分は何を得るのか?

を大切にしているのです。

 

そういった

自分自身の真本音の意図に

素直に従うことが、

結果としては

最速で進むことにつながります。

 

もちろん、

「問い」がわかった瞬間に

「答え」がわかることもあります。

 

それらもすべて

真本音の意図です。

 

真本音の意図に委ねることで、

私達は自分自身の

意識の次元を高めていくことが

できるのです。

 

つづく

 

本当にほしいものは手に入る、のは本当です

「自分には力がないなぁ・・・。」

 

「もっとこういう力がほしいなぁ・・・。」

 

そんな気持ちが

心の底から芽生えたとしたら、

喜んでください。

 

なぜならその力は

必ず手に入るからです。

 

心の底から、・・・というよりも

魂から

「ほしい!」

と思えるものは、

必ず手に入るように

できているのです。

 

「ほしい!」という欲求は、

「これから私はそれを手に入れるよ」

という、

自分自身からのメッセージです。

 

覚悟の証です。

 

ただしその「ほしい!」は、

中途半端では

ダメです。

 

淀みのない「ほしい!」

であることが重要です。

つまりは、

真本音で思う「ほしい!」

ということですね。

 

真本音で「ほしい!」と

思っていることに気づいたら、

顕在意識の私達は、

「それを手に入れよう」

と決めましょう。

 

できるかどうか?

ではありません。

 

そんなのできっこない、

と思ったとしても、

決めてしまうのです。

 

結果が出るかどうか

わからない。

それを手に入れるための

行動ができるかどうかさえも

わからない。

まったく

自信がない。

 

・・・それでもよいのです。

 

ただただ、

「それを手に入れよう」と

決めればよいのです。

 

決める、

だけです。

 

もしその「決める」ことすら

できないのであれば、

「私はそれを手に入れる」

という言葉を

心の中で口ずさんでください。

1万回くらい。

 

いえ、

10万回口ずさんでも

よいです。

 

とにかく、

一日中、心の中で

口ずさんでください。

 

ある時、

あぁ決めれたな、

と思える瞬間が来ます。

 

真本音で「ほしい!」と

思っていることを、

顕在意識が

「手に入れよう」と

決めることで、

私達の中では

『一貫性』

が生まれます。

 

魂と心が

一本の方向性で完全に

結ばれた状態です。

 

それが起こると、

自然に私達の行動が

変わります。

 

意図せずとも、

その「ほしい!」ものを

「手に入れる」ための

今この瞬間の判断を

自然にするようになるのです。

 

それは、

ひらめきや直観として

認識されます。

 

「あっ、今こうしよう」

と淡々と思えるのです。

 

そうしたら

その通りに行動します。

 

一つ一つの行動は、

そんなに奇抜なことでは

ありません。

 

「今こうしよう」と

自然に思えることを

ただ淡々と、

一つずつ

積み上げていくだけです。

 

その継続により、

その「ほしい!」ものは

必ず「手に入る」のです。

 

継続が大事だ、

というのは本当です。

 

継続することで

大抵のものは

手に入ります。

 

ただしその継続の前には、

魂と心の一貫性が

大事であり、

そのためには

本気の「ほしい!」、つまりは

真本音の「ほしい!」

であることが大事なのです。

 

こんな力がほしいけど、

今の自分にはない。

悔しい。

本当に悔しい。・・・

 

もし本気でそう思えるのであれば、

喜んでください。

それはもう、

手に入ったも同然なのです。

 

つづく

 

迷いと向き合い、人生を進める方法

人生に迷っている人が

増えています。

そして、

「迷い」には2種類あります。

 

・低い次元の意識による迷い

・高い次元の意識による迷い

です。

 

・・・ということを前回の記事で

書かせていただきました。

(→前回記事)

 

では、この二つの迷いを区別する

にはどうすればよいでしょうか?

 

まず大事なのは、

「迷い」を「問い」の形として

明確にすることです。

 

例えば、

「私は今、転職すべきだろうか?」

というような、

問いの形にするのです。

 

迷いとは、

答えがわからずに悶々と

することです。

どんな「?」に対して、

自分は悶々としているのかを

明確にするわけです。

 

「問い」が明確になれば、

次に、

その「問い」の「手前の問い」を

見つけます。

 

「手前の問い」とは、

その問いの答えがわかることで、

最初の問いの答えも

自動的にわかる問い

のことです。

 

上記の例で言えば、

「私は今、転職すべきだろうか?」

という問いがわかれば、

その「手前の問い」としては、

例えば、

「私は本当は、どんな仕事を

したいのだろうか?」

とか、

例えば、

「私は今の職場で、

すべきことはすべて

やり尽くしただろうか?」

などが考えられます。

 

もちろんこれは

本当に「例えば」です。

人によって

全然違う問いが

出てくるでしょう。

 

しかも「手前の問い」は

ほとんどの場合、

たった一つです。

最もピンとくる問いを

見つけることです。

 

さて。

 

「手前の問い」を特定できたら、

人によっては

「手前の問い」のさらに手前に

問いがあるかもしれません。

 

そして、

さらにさらにその手前にも・・・。

 

つまりこのように

迷いの「問い」を明確にし、

その「手前の問い」を明確にし、

必要があれば

さらにその「手前の問い」を

明確にし、

さらにさらにその「手前の問い」を

明確にし、

・・・と、

自分が納得できるまで

それを続けます。

 

この「問い探し」をした時に、

この「問い探し」自体に

自分が真剣になれるかどうか?

です。

 

早く「問い」を見つけたい。

早く「その答え」を

明確にしたい。

 

そんな想いが湧き上がり、

「問い探し」に真剣になれるので

あれば、

その人の悩みとは

「高い次元の意識による悩み」

です。

 

どうしても「問い探し」に

真剣になれない。

それをしようとすると

無気力感や虚脱感や倦怠感が

発生する、

という場合は残念ながら、

それは「低い次元の意識による悩み」

です。

つまりは、

自己満足の悩みであり、

現実逃避するための悩みであり、

悩む必要のない悩み

です。

 

そういった場合は、

悩んで止まっていることよりも、

今目の前にある現実に

立ち向かっていくことこそが

大事です。

 

「自分が今、

立ち向かうべき現実とは

何だろう?」

という問いを自分自身に

投げかける必要があります。

 

以上のように、

自分の中に発生している

「問い」

を、明確にするのは

セルフコーチングの基本です。

 

私はいつもそこに

敏感になっています。

 

「あっ、今、自分の中に

問いが発生したな」

とわかった瞬間に私はすぐに

自分の心と向き合い、

「問い」を明確にします。

 

そして「手前の問い」が

ある場合も、

すぐにすべてを明確にします。

 

これを日々続ければ、

人生の展開がすごぶる

速くなりますし、

快適になります。

 

自分の人生と向き合うとは、

自分の中の「問い」と

向き合う、

ということなのかもしれません。

 

つづく

 

それは本当の迷い? 自己満足の迷い?

人生に迷っている人が

増えています。

 

しかしそれは

健全なことです。

 

これまではどちらかと言えば、

本当はみんな迷っているのに、

迷っていることに気づいていない

状態でした。

 

しかし今は、

自分が本当は凄く迷っていることを

多くの人が自覚し始めています。

 

健全になってきたのです。

 

迷う、ということは

良いことです。

 

なぜなら、

答えがもうすぐ見つかる

からです。

 

迷いの感覚とは、

答えが見つかった証です。

 

答えが見つからない内は

私達には迷いの感覚は

訪れません。

 

つまり、

・答えがわかった。

・それを顕在化したい。

・だから迷いの感覚を発生させる。

・・・ということを私達はしています。

 

ですから、

迷ったら必ず

その「迷い」としっかりと

向き合うことです。

 

決して「迷い」から

逃げてはいけません。

 

「迷い」とは

人生を大きく進めるチャンス

なのです。

 

ただし・・・。

 

「迷い」には2種類あります。

 

①低い次元の意識による迷い

②高い次元の意識による迷い

です。

 

①の場合は残念ながら、

本当の「迷い」ではありません。

 

本当には迷っていないにも関わらず、

迷っていると思い込んでいる状態です。

 

なぜわざわざそんなことを

するかと言えば、

それは現実逃避をするためです。

 

本当は、前に進めるにも関わらず、

前に進みたくないために、

わざと「迷う」という状態を

無意識的に創ってしまうのです。

 

もしくは、

向き合いたくない「現実」から

目をそらすために、

わざと関係ないことで「迷う」という状態を

創ってしまいます。

 

そういった場合の多くは、

答えは見つかりません。

なぜなら、

答えはないからです。

つまり、

迷わなくてよいところで

迷っているのです。

 

私はこれを

「逃避のための迷い」

とか

「自己満足の迷い」

と呼んでいます。

 

それに対して②の「迷い」は、

本当の迷いであり、

しっかりと向き合うことで

人生を進めることのできる

大切な迷いです。

 

まずはこの二つの迷いの

区別をつけることが

大事です。

 

そのためにもまずは、

自分の中にある「迷い」を

しっかりと見つめることです。

 

では、

どうすればこの二つの迷いの

区別をつけることができるでしょうか?

 

それについては

少し長くなりますので

明日の記事で書かせていただきますね。

 

つづく

 

我欲とは、人にとってなくてはならないもの

ここのところ

「意図を手放す」

というテーマで記事を書かせて

いただいています。

(→前回記事)

 

これは、

「次元を上げる」という意味では

非常に重要な部分ですので、

さらに詳しく見ていきましょう。

 

まず、

「意図」

とは何でしょうか?

 

ここではちょっと乱暴な

書き方を、

あえてしますね。

 

「意図」とは

我欲です。

 

我欲とは、

「すべてが分離している」

という前提において、

自分だけが良ければよい、

という意識の塊から

発せられるものです。

 

我欲と言うと、

それは良くないもの、

という印象があるかもしれませんが、

我欲はもちろん

すべての人にあり、

我欲があるからこそ

人間であるとも言えます。

 

「私にはもう我欲はありません」

と言う人がたまにいますが、

嘘です。笑

乱暴な言い方ですが、

自らの我欲を見つめていない

だけのことです。

 

我欲があるのが、

人としての尊厳である、

と私は思います。

 

人の素晴らしさとは、

高い次元から低い次元まで

すべての次元の意識を

包含しているところです。

 

それこそが

人であることの意味と

価値です。

 

「私には我欲がありません」

とか

「我欲を捨てなければなりません」

というのは、

人としての価値と意義を

自ら放棄していることになります。

 

とは言え、

我欲のみを尊重し、

我欲のみに巻かれて動けば、

ほぼ必ず

不調和が起きます。

 

争いや諍いが

起きます。

 

我欲とは、

人として

あるべきもの。

 

しかしその我欲は

我欲単体であるべきもの

ではなく、

高い次元の意識によって

活かされるもの

なのです。

 

高い次元の意識は

愛のエネルギーが

高いです。

(愛とは、については

またいずれ触れることに

なります。

今はあえて飛ばします。)

 

高い次元の意識が

我欲を活かすということは、

我欲が

愛のエネルギーで満たされる

ことになります。

 

愛のエネルギーで

満たされた我欲は、

「その人がこの世で発揮すべき個性」

となります。

 

別の表現を使えば、

「その人のミッション(使命)」

への道しるべとなるのです。

 

「意図」とは

我欲です。

 

ただしその我欲は

ここまでご説明したように、

高い次元の意識とつながっている場合と

つながっていない場合が

あるのです。

 

つまり、「意図」にも

ざっくり言うと、

2種類あるのです。

 

①単なる我欲のみによる意図

②高い次元とつながった我欲による意図

の2種類です。

 

私が

「意図を手放す」

と言っている「意図」とは

①の方です。

 

①の意図を手放すことで、

②の意図が発動するからです。

 

②の意図が発動すれば、

すべてが調和します。

 

争いも諍いも

非常に起こりづらくなります。

 

スムーズに道が

開きます。

 

・・・ということなんですね。

 

そして前回の記事で

申しました通り、

①の意図を手放すためには、

しっかりと思考レベルで

①の意図について考え尽くすことです。

 

①の意図を持ってはならない、

とか、

①の意図は、私にはもうない、

と言っている内は、

自分の知らないところで

①の意図に自ら

取り込まれてしまうのです。

 

自分と

向き合いましょう。

 

自分の心の中にある

あらゆる意識と

向き合いましょう。

 

高い次元から

低い次元まで、

たくさんの意識があるのが

私達人間です。

 

そこが

人の素晴らしさであり、

だからこそ我々は

進化できるのですから。

 

つづく

 

意図から自由になるために、とことん意図する

自分自身の思考レベルでの

思惑や意図に捕らわれ、

それを達成するために

必死になって策謀を重ね、

焦りながらも結果を出そうとする。

 

・・・そんな疲れる人生から

私達は自分を解放することが

できるのです。

 

前回の記事で

私は上記のように書かせて

いただきました。

(→前回記事)

 

今回は、この件について、

もう少ししっかりと

書かせていただきますね。

 

「意図を持たずに生きる」

という言い方をしますと

誤解をされることが多いです。

 

そっか、意図を持たなくていいんだ。

何も考えずに行けばいいんだ。

・・・という誤解です。

 

逆です。

 

自分の意図に執着せずに、

自分の意図から自由になるためには、

とことんまで

意図を考えることが重要なのです。

 

意図から自由になるためには

意図をしっかり考える。

 

一見、矛盾しているようですが、

そうではありません。

 

例えば、

肩に力が入っている場合、

肩の力を抜く最も簡単な方法は、

「肩の力を抜こう」

とすることではなく、

「思いっきり肩の力を入れてしまう」

というやり方です。

 

とことんまで

肩の力を入れると、

フッと、力が抜けます。

 

その要領と

同じことなのです。

 

例えば、明日

大事な営業があるとします。

 

どうしても受注を

しなければならない。

 

果たして良いクロージングが

できるだろうか?

 

不安に苛まれていると

します。

 

そんな時に、

「不安になるな、不安になるな」

「気楽に行け、気楽に行け」

と、どれだけ自分に言い聞かせても、

余計にガチガチになる

だけでしょう。

 

そんな時は、

とことんまでクロージングの

イメージをするのです。

 

思いっきり自分の意図を

明確にし、

意図に基づいて、

「こうしたい」「こうなりたい」

「こんな展開になれたらいい」

という自分の思惑を

しっかりとイメージ化するのです。

 

イメージしてイメージして

イメージし尽くせば、

ある瞬間に、

フッと楽になります。

 

まぁこれだけイメージしたのだから

何とかなるだろう、

と自分の中で「完了感」が

生まれるのです。

 

そして次の日に、

実際にお客様にお会いする直前にも

前日のイメージをしっかりと

思い出します。

 

まぁこれだけイメージしたのだから、

やるだけのことはやったな。

 

そんな気持ちを持ちながら

お客様の前に出ます。

 

そして「今ここ」に意識を向ければ、

自分がイメージしてイメージして

明確にし尽くした「意図」が

どうでもよくなります。

 

意図やイメージを

ポンっと手放すことが

できるようになるのです。

 

するとどうなるか?

 

「今ここ」に

完全に集中することが

できます。

 

そして、

次にどんな一言をお客様に

投げれば良いか?など、

直観がどんどん働くように

なります。

 

その直観こそが、

真本音の意思です。

 

その真本音の意思に

委ねれば良いのです。

 

直観のままに

直観に素直に

行動をするのです。

 

それが

「自分に委ねている」

状態です。

 

私達人間には

考える力があります。

 

考えることを放棄するのは

単なる怠慢です。

 

怠慢な人には残念ながら

直観は生まれません。

 

考え尽くすからこそ

直観は生まれます。

 

思考とは

直観の呼び水なのです。

 

ただし、

上記のように、

よく考え、よく意図を持ち、

その上で意図を手放し、

直観に委ねる、

ということを続けていますと、

考えたりイメージをするのに要する時間は

どんどん少なくなります。

 

考えなくても

直観のみが、

次々に湧き起こる状態に

なっていきます。

 

そうなると本当に

楽ですね。

 

しかしその境地まで行くには、

よく考える、

ということが必須なのです。

 

つづく

 

自分の意図に疲れてしまう人生にサヨナラしよう

前回、「自分に委ねる」ということについて

書かせていただきました。

(→前回記事)

 

今回も、もう少しこの件について。

 

「自分に委ねる」ことのできる人は

ある時には突拍子もない行動に

出たりします。

 

ただしその「突拍子のなさ」は、

本人がそう思う、

というだけのことであり、

周りがどう見るか、ということでは

ありません。

 

つまりは、

これまでの本人の思考と行動パターンを

大幅に逸脱するからこそ

「突拍子もない」と本人が感じる

ということですね。

 

そういった意味での

突拍子のない行動を取る時、

本人の顕在意識は

ドギマギしています。

 

それはそうです。

 

これまでにないパターンの

動きを取るわけですから。

 

しかしそのドキマギを

横に置いて、

何の躊躇もなくその行動を

取ることで、

私達は自然に

「肚が据わる」

という状態に入ります。

 

「開き直る」

と言ってもよいかもしれません。

 

この状態は、

真本音が選択している行動

でなければ生じません。

反応本音レベルの

突拍子のない行動では、

開き直るどころか、

心も体も浮ついてしまいます。

 

顕在意識では

「おいおい、大丈夫かぁ」

となっていても、

周りから見れば、

実に落ち着き、確信に満ちた

表情や空気感を

醸し出す状態が、

開き直っている状態です。

 

この状態に入れば、

道は必ず開かれます。

しかも、

なんでこんなに簡単に開くの?

というくらいに

スムーズにすべての事が

運びます。

 

実在レベルでは

凄いエネルギーが発生し、

それがモロに

すべての人に波及し

強い影響を与えているのです。

 

こちらが、一つ動けば、

10の成果が上がる。

・・・というくらいの印象を

本人は覚えるでしょう。

 

そして一度これを体験すると、

これが

「当たり前」

となります。

 

突拍子もないと思っていた

自分の行動が、

「普通の行動」となります。

 

ますますその人は

肚が据わります。

 

こうして人は、

自分の幅を広げていきます。

 

これが

自由になる

ということです。

 

さて。

 

突拍子もない行動に

慣れてきますと、

基本的に、突拍子もない行動

自体が本人の中からは

なくなってしまいます。

 

すべてを淡々と

決めた通りに行動するだけ

の自分。

 

しかも自分で何かを意図するのでなく、

ただ、自分に委ねているだけ

という感覚です。

 

すると今度は、

余分な行動が激減します。

 

いえ、正確に言えば、

これまでは本人にとっては

それらはすべて

必要な行動である、と

思い込んでいたのですが、

何となく、

どうでもよくなってしまうのです。

 

結果、

どうでもいいと思うことは

すべて行動しなくなります。

 

すると、

じっとしている時間が

増えます。

 

何もしない時間が

増えるのです。

 

そして、

本当に必要だと思う行動のみ

何の迷いもなく、

何の淀みもなく

実行に移します。

 

しかもそこに

思考レベルの思惑や意図はなく、

ただ、

そう思う自分に委ねるだけ

という感覚。

 

しかしそれをすれば、

その一石だけで、

波紋は大きく深く広がり、

物事が想定以上のスピードで

展開していく。

 

そうなるともう、

生産性は

大袈裟ではなく

10倍以上になるのでは

ないでしょうか。

 

自分自身の思考レベルでの

思惑や意図に捕らわれ、

それを達成するために

必死になって策謀を重ね、

焦りながらも結果を出そうとする。

 

・・・そんな疲れる人生から

私達は自分を解放することが

できるのです。

 

束縛からの解放

というのは、

「結果を出さなくてもいい」

とか

「責任を負わなくてもいい」

ということではなく、

むしろ、真逆です。

 

束縛から解放されて

本当の意味で自分に委ねることの

できる人は、

「出すべき結果をきちんと出し」

「負うべき責任をきちんと果たす」

ことが自然に

できるようになるのです。

 

現実が思うようにいかないので

あれば、

意図を持ち過ぎです。

 

意図に

執着し過ぎです。

 

執着では

結果は出ません。

 

これからの世の中の潮流においては

ますますその傾向が

高まります。

 

自分の真本音の想いに

素直に、

その時その瞬間に現れる

真本音の意志に

そのまま身を委ねる。

 

そんな生き方(行き方)を

一歩ずつでも

実行してみてください。

 

つづく

 

人の最大の力とは、適応力かも

『自分に委ねる』

という言葉を

私は時々、使います。

 

「自分に委ねる」とは

どういうことでしょうか?

 

もし皆さんが

自分に委ねたら、

皆さんはどうなるでしょうか?

 

実は、

「委ねる」という言葉は

一種の魔物です。

 

「委ねる」という言葉は

聴き心地がよいので、

それができたら楽チンだな、

と思われるかもしれません。

 

もちろん、

本当にそれができたら

楽チンです。

 

ですが、

本当にそれをするだけの勇気が

なかなか出てこないのです。

 

もし、

「東京スカイツリーのてっぺんに

ハンモックを用意しました。

このハンモックは実験により、

決して落ちることはないし、

人を落とすこともないことが

判明しています。

そのハンモックに

東京スカイツリーのてっぺんで

1時間ほど身を委ねて

楽しんでみませんか?」

と言われて、

何の迷いもなく喜んでできる人は

どれだけいるでしょうか?

 

勇気を持って挑戦する人は

何割かいるかも知れません。

 

しかしハンモックに身を委ねている間、

本当にリラックスして

その時間を楽しめる人は

なかなかに少ないのでは、と

思います。

 

「自分に委ねる」とは、

実は、これくらいの怖さが

あります。

 

でも、

それをわかっていて、

あえて私は

「自分に委ねる」ことを

お勧めしています。

 

なぜなら、

人って

本当に凄いからです。

何が凄いって、

その適応能力です。

 

例えば、

上記のスカイツリーのハンモックの

喩えで言えば、

勇気を出して

スカイツリーのてっぺんの

ハンモックに身を委ね、

この時間を楽しもうと

全身の力を抜いたとします。

 

すべてを開き直って

力を抜いたとします。

 

すると、なんと

その状況に合わせるように、

自分自身に羽が生えるのです。

つまりは、

自分で空を飛ぶ力が

急激に発達するのです。

 

自力で空を飛べるのであれば、

東京スカイツリーのてっぺんだろうが、

どこだろうが、

安心してハンモックを楽しめます。

 

こういった適応力が

私達人間には

本質的に備わっています。

 

そしてそれこそが、

次元を上がる

ということなのです。

 

次元を上がることで、

これまで怖かったことが

怖くなくなります。

 

しかもそれは

根拠なく怖くなくなる

のではなく、

ちゃんと怖くなくなるだけの

力が発揮されるように

なるのです。

 

私はこの

本質的な成長力こそが、

恐ろしいまでの人の凄みであると

実感しています。

 

では、

「自分に委ねる」とは

実際には何をすることでしょうか?

 

単純です。

 

自分自身の真本音に

委ねる、ということです。

 

私達の真本音は、

時には突拍子もないことを

しようとします。

 

多くの人は、

それを顕在意識で止めて

しまいます。

「それは無理だよ」と、

自分の頭で解釈します。

 

その解釈を

やめるのです。

 

真本音で「こうしよう」と

思ったら、

その瞬間に行動に

移すのです。

 

それが、

「自分に委ねる」

ということ。

 

皆さんもぜひ、

やってみませんか?

 

つづく

 

今まさに次元を上がろうとしている人へ

以前にも一度、書かせていただきましたが、

次元を一つ上がる、

というのは相当に大変なことです。

 

ですが、

今はそれを成そうという人が

急増しています。

 

次元が一つ上がるというのは、

私がいつも表現している

「脱皮」

というもののの中でも

最大級のものです。

 

その直前にいる人が今、

急増しているのです。

 

次元が上がる直前まで来ますと、

人は、どんな人であっても

極度の不安定になります。

 

すると、

自分の最も弱い部分が

クローズアップされます。

 

例えば、

以前は新しいことにチャレンジしよう

という場面になると

非常に臆病になり、そこから

逃げ出そうとする、

・・・そんなパターンを持っていた人が

自分の努力によって

新たなことにも躊躇なく

チャレンジできる自分創りが

できていたとしましょう。

 

次元を上がる手前に来ると、

その人は、

まるでこれまでの努力が

まったく水の泡ではないか、と

思ってしまうくらいに

臆病になります。

 

新たなことに対するチャレンジ

どころか、

ほんの些細なことに対しても

気弱になり、

少し極端に言えば、

生きることそのものに対しても

気弱になります。

 

いったい自分は

どうしてしまったのだろう?

 

これまで自分で自分を

成長させて来たのに、

これまでのがんばりは、

いったい何だったのだろう?

 

・・・とショックを受けることに

なります。

 

しかし本当は

次元を上がるという

滅多にないような脱皮の手前の

不安定期にいるだけのこと

なのです。

 

それを教えてくれる人が

傍らにいればよいのですが、

ほとんどの人が

わけがわからないままに

もがき苦しみます。

 

私はこの時期こそ、

人が人生において

最もサポートが必要な瞬間であると

思っています。

 

もしこの文章を読んで、

ひょっとして自分は

次元が上がる直前かもしれない、

と思われた方は

以下のことをお勧めします。

 

まず、

自分自身の「中心軸」を

意識します。

 

「中心軸」とは

・おへその奥の体の中心と

・頭のてっぺんの中心を

結んだものです。

 

まずは、自分自身のその「中心軸」

を感じ取ってください。

 

そして、

どれだけ心が不安定に

揺れ動いているとしても、

その「中心軸」には

何ら影響がないことを

自覚してください。

 

「中心軸」はとてもしっかりし、

しかもしなやかで柔軟性もあり、

光り輝いているはずです。

 

まずはその安定感を

自覚してください。

 

そしてそれができたら、

常に「中心軸」に意識を向け、

そここそが自分の立ち位置であることを

自覚し続けてください。

 

すべての現象を

「中心軸」から観察するように

します。

 

特に、自分自身の心の動きを

あるがままに観察してください。

 

心は大揺れに揺れている

と思います。

 

その揺れを止めようとせず、

それをそのままに

しておきます。

そして、

ただ観察のみをします。

 

その揺れは、まるで

終わることのない大嵐のように

感じるかもしれません。

しかし

それでよいのです。

 

心の大揺れ具合を

「中心軸」から観察し続ければ、

だんだんと慣れて来ます。

 

どれだけ揺れていても、

その揺れ自体を

「おぉ、すごいなぁ・・・」

と客観的に映画を観るかのように

少しずつ楽しめるように

なります。

 

そこまでできたら

ほぼ大丈夫です。

 

その状態を日々、

維持してください。

 

次元を一つ上がるまでの時間は

人それぞれです。

 

数日で終わる人もいれば、

数ヶ月かかる人もいます。

 

大事なのは、

今のその状態に抗おうとせずに

ただ「あるがまま」を

観て、感じてください。

 

すべての自分の行動は、

「中心軸」にいる自分で

決めます。

 

それだけであとは、

自然の成り行きに

任せましょう。

 

次元を一つ上がることが

できれば、

それまでの大揺れが

嘘だったかのように、

晴れやかで安定した自分に

なれます。

 

パワーも

見違えるほどに内側から

湧き上がって来ます。

 

パワーは湧いて来ますが、

自分自身は

淡々としています。

 

極めて普通の状態。

 

でも、頭はクリアで、

目に映るすべてのものが

輝いて見えるでしょう。

 

すべてを

愛おしく感じるでしょう。

 

無理に、意図的に、

そういった状態をつくろうとは

しないでください。

 

ちゃんと時が来れば

自然にそうなれます。

 

せっかくなので、

滅多にない「今」を

楽しんでくださいね。

 

つづく

 

人は、課題に取り組みたい生き物

どれだけ意識の次元が

上がったとしても、

私達の前には

次から次へと

「課題」が現れます。

 

こう書くと、

えぇ!そうなの?

次元上がれば何の悩みもなく

過ごせるんじゃないの?

・・・と思う人も

いらっしゃるかも知れません。

 

しかし私達人間は

「課題」のない日々を、

極度に嫌がります。

 

私達は平穏無事な日々を

望んでいますが、

いざ、それが手に入ってしまうと

途端につまらなくなり、

生きる気力そのものを

失います。

 

前に進まなくなる、

からです。

 

これまでも何度も

書かせていただいてますが、

私達すべての人間の

根本欲求(本能)の中心には

「進化への意欲」

があります。

 

進化とは

「次元を上がること」

です。

 

次元を上がる実感がなくなることを

私達は皆、

極度に嫌がります。

 

自転車の運転と同じで、

前に進めている時は

安定していますが、

止まってしまうと途端に

不安定になります。

 

それが、

人間という存在の

本質です。

 

ですから

私達の真本音は

私達自身に常に

「人生の課題」

を与えます。

 

その「課題」に取り組むことで、

進化スピードは

加速します。

 

その加速感が

さらなる安定を

もたらします。

 

最近の私はどうも

不安定だ。

 

最近の私は

調子が悪い。

 

最近の私は

モヤモヤが続いている。

 

・・・そんな感覚があれば、

 

今、私の真本音は

私自身にどんな課題を

与えているだろうか?

私はその課題に、

真摯に向き合っているだろうか?

 

・・・をチェックしてみてください。

 

真本音から与えられる

課題のことを私は単純に

 

『真本音の課題』

 

もしくは

 

『真本音のテーマ』

 

と呼んでいます。

 

真本音の課題に取り組むことは

人生の悦びです。

 

その課題の解決策が

まったく見えなくても、

暗中模索だったとしても、

その課題に向かっている

というその事実だけで、

私達は悦びを覚えるのです。

 

毎日に

張りが出ます。

 

毎日に

目的意識が芽生えます。

 

内側から

エネルギーが湧き続けます。

 

そして

すべてのことに自然に

感謝の念が湧いてきます。

 

ちなみに、

私の今の真本音の課題の一つは

「後継者育成」

です。

 

私と同じような役割で

私と同じような力を持ち、

私と同じように人や組織を

サポートできる人を

世の中に増やしていくこと

です。

 

この課題に気づき

取り組み始めたのが2015年

です。

 

そこから、

様々な人と出会うことが

できました。

 

まだまだ少人数ですが、

私の人生の展開を大きく

変化させた大切な出会い

ばかりです。

 

このブログも、

出会いのきっかけとなるといいな、

との想いから

始めました。

 

昨年の8月7日にスタート

しましたが、

まだ一日たりとも、

休んでいません。

 

記事の書き溜めは

しません。

 

必ず毎日一記事ずつ

書いています。

 

その方針も自分で

決めました。

 

それが、出会いを助長してくれると

何となく思うからです。

 

実は最近、

一週間ほど39度の熱が

続いていました。

 

そうなると一記事を書くのに

4〜6時間かかります。

 

しかしどれだけ

体調がヒョロヒョロでも

その分のパワーは

必ず湧いてくるので

人間というのは

不思議なものですね。

 

真本音の課題は

私達に

根源的なパワーを

与えてくれます。

 

あなたの今の

真本音の課題とは、

何でしょうか?

 

つづく

 

もう私達は未来を知っている

一本道を歩いて来たら、

目の前に分岐が現れました。

 

道は二つに

分かれています。

 

右の道を、A

左の道を、B

とします。

 

Aを行くか?

Bを行くか?

答えを出すのに非常に

苦労したとします。

 

どうしても

決められない。

 

どうしても決められないけど、

決めなければならない。

 

自分の気持ちをしっかり

見つめると、

Aに行きたい気持ちが51%

Bに行きたい気持ちが49%

であることが

わかりました。

 

そんな場合、

あなたはどちらの道を

選びますか?

 

第3の道は

ないものとします。

AかBか、

必ずどちらか一方に

決めなければならないと

します。

 

あなたはどうしますか?

 

恐らく、

多くの人が、

51%であるAを選ぶと

思います。

 

ほんのわずかでも

気持ちが多く傾いている方に

向かうと思います。

 

ところがその場合、

Aに行ったとしても、

「本当はBの方が

よかったのではないか?」

という気持ちが

49%も残っているのです。

 

49%の気持ちが

後ろに引っ張られながら

Aの道を進むことになります。

 

するともし、Aの途上で

何か壁にぶつかった場合、

「ほらやっぱりBの方が

よかったじゃん」

と、その時点で進むことを

諦めてしまう。

・・・そんな恐れが高まるでしょう。

 

迷いながら進む、

葛藤しながら進む

というのは、そういうことです。

 

では、どうして私達は

迷ってしまうのでしょうか?

 

その最もシンプルな答えは、

「未来がわからないから」

ですね。

 

AかBか、どちらに行けば

どうなるか?

そういった未来の結果が

明確にわかるのでしたら、

私達は迷うことはありません。

 

未来がわかっていて

進むのであれば、

たとえ壁があっても、

それを乗り越えられます。

 

では、

未来がわかる方法は

ないのでしょうか?

 

実は、

あるのです。

 

ただし、正確に言えば、

未来がわかるわけではありません。

ですが、

未来がわかっているのと同様の

選択をすることが

できるのです。

 

それが、

高い次元の自分の意識で

物事を進める

・・・ということです。

 

この3次元の世界では、

時間は過去から未来へと

一方向に同じスピードで

流れ続けています。

ですから、未来を見ることが

できません。

 

しかし、高い次元においては、

過去・今・未来という分離そのものが

もともとありません。

 

過去も今も未来もすべて

ここにあるのです。

すべてが、「一つ」なのです。

 

その自分自身からの

判断や選択に素直になれば、

上手く行くだろうか?

上手く行かないだろうか?

という葛藤や不安をすべて超えたところでの

確信的な決断をすることが

できるようになります。

 

「なんかそれ、

答えを教えてもらって進むみたいで

つまらないじゃないか」

そう思われる人もいるかも

知れませんね。

 

でもご安心ください。

 

たとえ高次元の自分で

進んだとしても、

壁や課題はいっぱいいっぱい

現れます。

 

実は、

私達の真本音は、

どの道を選ぶか?については

何もこだわっていません。

 

大事なのは、

どの道を選んだとしても

一歩一歩をどのように進むか?

です。

 

高次元の迷いのない自分で

進めば進むほど、

そのレベルに見合った

壁や課題は降って来ます。

 

それらを一つずつ乗り越えることに

私達は人生の生き甲斐を感じます。

 

高次元の道であればあるほど、

難易度は高まりますが、

それが楽しくてしょうがなく

なります。

 

なぜならそれはまさしく、

進化への道のり

だからです。

 

つづく

 

座標軸が一本増えれば世界が変わる

一般的に言われている

ことですが、

物理的な視点から言えば、

「1次元」とは

直線を意味します。

 

そして、

「2次元」とは

平面(縦×横)を意味します。

 

さらに、

「3次元」とは

立体(縦×横×高さ)を意味します。

 

このように、

次元が増えるごとに

座標軸が増えます。

 

座標軸が増えるということは

自由度が上がるということです。

 

そして、

もし1次元の世界で生きている人間が

いるとしたら、

1次元の人は2次元の世界を

決して見ることはできません。

 

2次元の人は3次元の世界を

決して見ることはできません。

 

しかし逆はできます。

 

3次元の人は

2次元や1次元世界を見ることが

できますし、

2次元の人は

1次元世界を見ることができます。

 

直線世界の人の前に

もし壁があったとします。

 

どうしてもそれを

乗り越えることができません。

 

しかし平面の世界の人から見れば、

壁の横を通り過ぎれば

良いだけのことがわかります。

しかし、

直線の世界の人にはそもそも

「横を通り過ぎる」

ということ自体を理解できません。

 

今度は、

平面世界の人に大きな壁が

立ち塞がっていたとします。

その壁は、

横にも無限に続いていて、

どうしても乗り越えることが

できません。

 

しかし、

立体世界の人から見れば、

横に行くのではなく、

ピョンっと上にジャンプすれば

乗り越えられることが

わかったりします。

 

ところがやはり、

平面世界においては

「上にジャンプする」

ということ自体が

理解不可能です。

 

さて、

3次元世界に住む私達に

壁があったとしましょう。

上を乗り越えることも、

横を通り過ぎることも

できなかったとします。

 

私達には

八方塞がりに見える状態

です。

 

しかしもし

4次元世界の人がいたとしたら、

私達には想像をし得ないような

解決策が

わかるのかも知れません。

 

以上は、

物理的な視点からの

お話ですが、

人の意識ということにおいても

本質は同じです。

 

つまり、

次元が高まれば高まるほど、

心の座標軸が増えていきます。

心の自由度も

視野の広さも

視点の多さも

増えていきます。

 

ですから、

高い次元の自分の意識で

いればいるほど、

壁が壁でなくなります。

 

どうしても解決でなかった

問題も、

高い次元から見ることで

簡単に道が見えたりするのです。

 

真本音度合いが増すことで

道が開きやすくなる

というのは、

こういうことでもあるのです。

 

以前にも書きましたが、

高い次元といっても、

それは特別なものではなく、

誰の中にもすでに

存在しています。

(→【人間である以上、誰もにもともとあるもの】)

 

ただ、それを

忘れているだけ。

使わなくなってしまっただけ。

 

それは実にもったいない

ことです。

 

同様に、

組織の次元とは

そこにいる人達の意識の次元で

決まってきます。

 

壁を乗り越えられる

組織であるのかどうか?の

本質的な要因が、

ここにあるのです。

 

つづく

 

せっかく自由になれたのに、自分が自由に動けない

10年間、家の中で

一人で閉じこもっていたとします。

 

雨戸も閉め、

外の光がほとんど入らない中で

10年間一人でした。

 

しかし、

電気は使えるし、テレビもインターネットも

見ることはできました。

読みたい本があれば

読むこともできたし、

着るものや食事にも困りませんでした。

つまりは、生活には支障がなかった、

とします。

 

そんなあなたが、ついに

外に出る日がきました。

 

玄関の扉を開けた途端、

まず真っ先に目に飛び込んで

きたのは、

真っ青な雲一つない空でした。

 

太陽の光でした。

 

あなたは、一瞬

クラクラと佇みます。

 

空気を吸い込んでみると、

明らかに家の中とは違う

生きている空気、

流れている空気

でした。

 

世界はなんて

気持ちがいいんだ!

 

あなたは素直にそう感じ、

喜びました。

 

なぜ私はこれまで

家から出なかったのだろうか?

 

これならもっと

早く出ていればよかった。

 

そう思いながら、

あなたは走り出しました。

 

ところが・・・。

 

ドタッと

足がもつれて転んでしまいました。

 

あなたは起き上がり、

今度は歩いてみました。

 

もちろん家の中でも

歩くことはできました。

だから体は普通に動くものと

思っていました。

 

とは言え、

ずっと家の中でしたから、

体は鈍りに鈍っていました。

 

少し歩いただけで

もう、疲れを感じました。

 

あなたは

座り込んでしまいました。

 

こんなに気持ちがいいのに、

体が思うように動かない・・・。

 

あなたは落胆しました。

 

なら、こんな気持ちよさ、

体験しなければよかった。

 

あなたは

家の中に戻り、

また雨戸を閉めました。

 

私はもう、

家の中で楽しむ人生で

いいんだ。

 

あなたはそう決めましたが、

しかしどうしても、

先ほどの外の世界の気持ちよさ

を忘れることができません。

 

しかも今度は逆に、

これまで家の中で楽しいと

思ってきたあらゆることに

魅力を感じなくなっている自分に

気づきました。

 

家の中にいても

楽しくないどころか、

ストレスばかりが積もっていく。

 

しかし、外に出ても

まったく思うように動けない。

 

あなたは、

自分の人生を

放棄したくなりました。

 

・・・・・・

 

家の中を、「これまでの次元」、

外を、「もう一つ上の次元」

と置き換えてみてください。

 

今、

上記のお話のような状態の人が

急速に増えています。

 

上記の喩え話で言えば、

いざ、家の外に出たときに、

自由に動ける自分であるために、

家の中にいるうちから、

自分自身の準備を整えておく。

 

・・・それが、

真本音で生きる、ということです。

 

家の中で真本音で生きていれば、

外に出た自分は

自由に走り回ることができます。

 

なぜなら、

真本音で生きていると、

現在の最高次元の自分よりも

さらに一つ上の次元の自分からの

メッセージが届くことも

あるからです。

 

「今のうちに

こういうことをしとけよ」

という、

準備のためのメッセージです。

 

それを、

家の中にいるうちに、

着実に実行していれば、

私達は、外の世界をすぐに

満喫できるようになるのです。

 

せっかく次の次元に

上がれるのに、

その境目で、

人生を放棄したくなる。

 

・・・実にもったいないことです。

 

そして、

以上は、個人だけの話ではなく

組織についてもまったく同様です。

 

この、実にもったいないことに

ならないようにサポートするのが

私の役割であると

日々認識しております。

 

つづく

 

本当に言葉を大切にすると、言葉は少なくなる

言葉とは

カタチです。

 

一つの記号とも

言えます。

 

ですから、

「山」

という一言をつぶやいたとしても、

この一言から想像される山のイメージは

人それぞれです。

 

しかし、

「山」

という言葉を聴くことによって

「海」ではないことはわかりますし、

思考や発想の方向性を

合わせることもできます。

 

「今週末、一緒に

山にキャンプに行かないか?」

と言われて、

「じゃあどんな水着で行こうかな」

と考える人はほぼ

いないでしょう。

 

しかしやはり方向性は

定まるものの、

詳細なイメージは

きちんと共有しなければ

誤解を生むことにもなります。

 

「山に行こう」と言われて、

すぐ近くの裏山をイメージする人も

いれば、

富士山に行くイメージをする人も

いるでしょう。

 

私達は、

言葉という「記号」を活用しながら

お互いの想いやイメージを

一致させようとします。

それが私達の普段の

コミュニケーションです。

 

ところが。

 

以上はあくまでも

3次元という限定された部分に

限って言えることです。

 

高い次元の私達の意識は

すべて

つながっています。

 

いえ、というよりも

「一つ」です。

 

「一つ」である我々は

本当はもともと最初から

すべてを共有している

とも言えます。

 

もちろん

人生経験も違いますし、

実際に頭の中で展開される

イメージも、

人それぞれ異なるでしょう。

 

しかし、

そういった表層的ではない部分で、

私達はまったく同じことを感じ、

まったく同じ想いを

抱いています。

 

ですから、

高い次元の意識を

発動している人達同士が会えば、

コミュニケーションにおける

「説明としての言葉」

は、ほぼ必要なくなります。

 

「山に行こうよ」

と言われれば、

「あっそうだよね。

私もそうしようと思ってた」

となりますし、

どんな山に行きたいか?も

ほぼ説明なしで

お互いに理解・共有できて

います。

 

これが仕事上で起こると、

なかなかに凄いです。

 

まず、

とてつもなく打合せ時間は

短くなります。

 

齟齬も誤解もなくなります。

 

ほんの一言二言

言葉を交わすだけで、

お互いにすべてを納得し、

自分のすべきことが

明確になります。

 

そしてその通りに動けば、

きちんと成果が

出ます。

 

とてつもなく

仕事が楽になります。

 

ここまで来ると逆に、

私は「言葉」の有り難みを

より強く感じます。

 

たった一言の

言葉という記号があることで、

各々がここまで感じ取ってきたことの

確認と今後の方向性が

一瞬で明確に、シンプルに

なるからです。

 

言葉っていうのは

ありがたいなぁ、と

いつもつくづく思います。

 

ですから私は

言葉をとても大切にします。

 

余分な一言は

決して言いません。

 

思ってもいないことを

口にしたり、

迎合のためのやりとりは

絶対にしないことに

決めています。

 

そうすると、

言い合いや自己主張ばかりの

コミュニケーションになってしまう

イメージがあるかもしれませんが、

高い次元の自分で動けば、

すべては

淡々と調和します。

 

こちらの想いと相手の想いが

「一つ」なのですから

当たり前と言えば当たり前です。

 

例えば上司と部下の関係で言えば、

上司が部下を何かの件で叱らなければ、

と思った場合、

そのお叱りの言葉を口に出す前に、

部下が自分で自分の過ちに気づき、

自主的にそれを直そうとします。

 

なんだ、結局叱る必要なかったな、

ということが、私の場合は

毎日のように起きています。

 

決して大袈裟な表現では

ありません。

高い次元のコミュニケーションとは

そういうものです。

 

高い次元の自分で生きることは

決して特別なことではない、

というお話を

以前いたしました。

(→人間である以上、誰もにもともとあるもの)

 

高い次元の自分として生きるのは

もちろん、

苦しいことでもありません。

疲れることでもありません。

 

まったく逆。

 

だからこそ

私達の中には

エネルギーが満ちてきます。

 

そのエネルギーを使って

自分が本当に望む現実を

創り上げることができます。

 

どうせ同じ人生を

生きるのであれば、

常にエネルギー満タンの自分で

いたくありませんか?

 

つづく

 

すべては私である感覚を探そう

海に沈む夕日を眺めた時、

美しいなぁ、

と思う人は多いと思います。

 

しかし、

あの美しさは

私の中にもあるものだ、

という感じ取り方をする人は

どれだけいるでしょうか?

 

こんな書き方をすれば、

「いやそれは気持ち悪いでしょ」

とか

「そんな感じ方する人って

傲慢じゃないの?」

とか

「自己陶酔だ〜」

とか、

そんな声が聴こえてきそうです。

 

確かにそれを

頭(思考レベル)で思っていたら

そうかもしれません。

 

しかし

いかがでしょうか?

 

ほんのわずかでも

皆さんの中には

その「感覚」が

存在していないでしょうか?

 

あくまで

「感覚」

です。

 

世界は美しい。

だから私も美しい。

・・・という

「感覚」

です。

 

ほんのわずかでも

確かにそれ、

あるかもしれない、

と思えたのでしたら、

今度はその感覚を

体のどこで感じ取っているのか?

を特定してみて

ください。

 

すぐにはわからない人は、

美しいものを観察しながら、

身体中に意識を向け、

その美しさを最も敏感に

感じ取っている部分を

探します。

 

体の部分が特定できたら、

そこが皆さんの

高次元の自分の意識を

最も感じ取りやすい場所

です。

 

とても単純に言えば、

その、体の部分が

・気持ち良いという感覚にあるか?

・気持ち悪いという感覚にあるか?

にいつも意識を向けておいて

ください。

 

気持ち良い時は、

高次元の自分の意識が

出やすくなっている瞬間です。

 

気持ち悪ければ、

低次元の自分で

考えたり動いたりしています。

 

そして、

自分が

・どのような想いに基づいて、

・どのように物事を発想し、

・どのように行動している時が

気持ち良い時なのか?

を理解できるようになると

とてもよいです。

 

そういった自分の傾向を

大切にしながら

日々を過ごせば、

高次元の自分の意識が

出やすくなり、

真本音度合いも高まります。

 

大切なのは

すべて「感覚」で

行なうことです。

 

「感覚なんてわからない」

と言われる人も

いるかも知れませんが、

感覚というのは

養うことができます。

 

自慢ではありませんが、

昔の私は

こういうことが誰よりも

からっきしダメな人間でした。

 

でもやり続ければ、

ある時から途端に

わかるようになりました。

 

ほとんどの力は

継続によって

身につけることができます。

 

こういうことは

継続することを

お勧めしますよ。

 

つづく

 

人間である以上、誰もにもともとあるもの

現在このブログでは、

今年に入ってから

「意識の次元」ということについて

様々な視点から

書かせていただいています。

 

その中でよく、

高い次元の意識

という表現を使いますが、

こういった書き方をすると

それは何か特別なものであり、

特別な人のみが持っているものであり、

自分には馴染みのないもの、

という印象を持ってしまう方も

いらっしゃるかもしれません。

 

私にはそんな

高い次元の意識なんて

ありませんから・・・、

と。

 

まっ、面白いことに

高い次元の意識で動いている人ほど

そう言われる傾向が

あるのですが。

 

・・・それは置いておいて、

高い次元の意識はもともと

誰にでも存在しています。

ただそれを

使っているか、使っていないか、の

違いだけなのです。

 

例えば、海岸から

海を眺めているイメージを

してみてください。

 

海は広大ですね。

広くて深くて、

本質的にとても安心できますが、

でも一方で、

海は荒れると怖いです。

 

私達人間の心を

私はよく、海に喩えます。

 

人の心の中は

海のように広くて深いものです。

何が潜んでいるか

まったく未知数でもあります。

 

時々、すごく怖いものも

出てきたりしますよね。

 

しかし、海はなぜ、

海としてそこに存在できて

いるのでしょうか?

 

答えは簡単です。

 

地球があるからです。

地球という大地の塊が

あるからです。

 

海は液体ですので、

大地がなければ存在し得ません。

 

もし地球がなくなれば

海もなくなります。

 

海は、

広大で深遠で神秘的です。

 

しかし海は、

地球に支えられています。

 

高い次元の意識とは、

地球のようなものです。

 

そして海は

低い次元の意識と

ここでは喩えるとしましょう。

 

高い次元の意識

という存在があるからこそ、

低い次元の意識

が存在し得るのです。

 

ですから私達が

今ここに存在しているのであれば、

私達には

高い次元の意識という大地が

間違いなく存在しているのです。

 

そしてその大地は、

地球は、

一つです。

 

高い次元の私達も

もともとは一つなのです。

 

私が、

真本音と呼んでいるものは、

高い次元の意識、

つまりは地球から発せられる

あらゆる想いです。

 

ただしその想いは、

私達それぞれの

「個性」

も大事にします。

 

すべてが一つだから、

個性なんてなくていい、

ということではありません。

 

私達人間の素晴らしいところは、

高い次元から低い次元まで

あらゆる次元の意識が

混在しているところです。

 

「一つ」である部分と

「分離」している部分。

 

その絶妙のハーモニーが

「人間」です。

 

ですので、

「人間」としての私達の真本音は

高い次元も低い次元も

すべての意識を尊重した

次の一歩を示してくれます。

 

つまり、真本音とは

反応本音を活用しながら

生きていくのです。

 

反応本音は

100人いれば、100通りです。

 

真本音と反応本音が結びつけば、

そこに、

『真の個性』

が発現します。

 

真の個性に基づいて生きている人は

周りとの調和度が

凄いです。

 

自分自身は自由だし、

自分らしさを存分に発揮しているのに、

周りとは調和するのです。

 

(本当は、

自分の個性を発揮せずに

周りと調和することは

調和とは言いませんが。

それは、迎合と言います。)

 

真の個性、

真の自分らしさを

際立たせながら、

周りと調和する。

 

そんな組織になれたら、

素晴らしいと思いませんか?

 

つづく

 

溢れ出るエネルギーほど大切にしよう

最近、増えているのですが、

急激なエネルギー上昇をする人が

います。

 

真本音の度合いが高まり、

常に高い次元の自分の意識に

基づいて

物事の決断と行動を続けることで

そうなるのですが、

その上昇度合いが

あまりに急激なのです。

 

どんな傾向の人が

そうなりやすいかと言いますと、

「これまで自分を抑え続けてきた人」

です。

 

これは、

現象レベルというよりも

実在レベル(心の中)において

ということです。

 

本当は

エネルギーが高まってきているのに、

心の中で自分を抑え続けてきた人。

 

しかし、ついには何かの拍子に

その押さえつけていた枠のようなものが

一気に取れてしまう。

それにより

エネルギーが一気に溢れ出ます。

 

それはもちろん

良いことなのですが、

あまりに急激な場合、

溢れ出るエネルギーに

その人本人が呑み込まれてしまう

ことがあります。

 

パワーが強過ぎて

制御が効かなくなるのです。

 

その結果、

そのエネルギーを何かに

ぶつけなくてはいられない状態に

なったりします。

 

それが、

喜びなどのエネルギーに変換されれば

まだ良いのですが、

人によっては、

怒り系の気持ちに結びつくことが

あります。

 

何か知らないけど、

いろんなことに腹が立つ。

・・・という状態になります。

 

真本音度合いが高まることで

発せられるエネルギーは

強大です。

 

発すれば発するほど

どんどんさらに

溢れてきます。

 

それに対して、

反応本音によって生まれる

エネルギーは

それほど強いものでは

ありません。

 

エネルギーそのものを

存在承認し、

あるがままに感じることで

すぐに消えていきます。

 

あぁこれは、

真本音レベルのエネルギーだな

と思われた場合は、

そのエネルギーを

体の中心部分に抱くように

大切にしまってください。

 

最初は

溢れるエネルギーを抑えるのは

大変かもしれませんが、

体の中心部分であれば、

そのエネルギーはすべて

収まります。

 

そして、必要な時に必要なエネルギーが

外に向かって発現されるように

なります。

 

では、

体の中心とはどこか? ですが、

単純です。

 

おへその奥のちょうど中心部分

です。

(人によって少しズレるケースも

あります。)

 

そこは

無尽蔵にエネルギーを

蓄えることができるのです。

 

そうすることで、

落ち着くことができるでしょう。

 

体の中心に

エネルギーのすべてを集約したら、

少しそこに意識を

向けてみてください。

 

何とも言えない明るさと

深さと

安堵感を

感じると思います。

 

このエネルギーこそが

私達人間が誰もが持ち合わせている

真のエネルギーです。

 

意識の次元が高まれば

高まるほど、

そのエネルギーの度合いは

2次曲線的に高まります。

 

そういったエネルギーを

常に感じることで、

自分自身が常に満たされ、

そして周りの人達を満たすことが

できるようになります。

 

一人一人がそうなれると、

すごい組織になると

思いませんか?

 

つづく

 

なぜあの人はそんなにゆとりがあるのか

どうすればもっと

ゆとりを持って生きることが

できるのでしょうか?

 

そんなご質問を

本当によくいただきます。

 

ゆとり、というと、

まず第一に思い浮かべるのは

時間です。

 

時間的なゆとりが

あるかどうか?

 

いつも仕事が溢れていて、

大忙しになればなるほど、

ゆとりはなくなります。

 

・・・と一般的には

考えられています。

 

しかし私はこれまで

本当に仕事量の凄い人で

あればあるほど、

ゆとりを持っている

という現実を

多く見てきました。

 

一番、ゆとりがないのは

中途半端に忙しい人

のような気がします。

 

中途半端に忙しい人は、

仕事をこなそうとします。

 

仕事をこなす

というのは、反応本音レベルの

行為です。

 

すると、ちょっと忙しくなると

すぐにゆとりがなくなります。

 

ゆとりがなくなれば、

視野が狭くなり、

いろんな仕事のミスが起き、

さらにゆとりがなくなります。

 

私は、ゆとりとは

時間があるかないか?

ではないと思っています。

 

ゆとりとは、

心の(もしくは魂の)エネルギーの

大小で決まると

思っています。

 

心の中にいつも

エネルギーが満ちている人は

どんな状況でも

ゆとりがあります。

 

実際に、

恐らく私は20年前の私の仕事に

比べれば、

今の仕事量は10倍くらい

多いかもしれません。

 

でも明らかに

20年前よりも今の方が

ゆとりがあります。

 

心が常に

エネルギーに満ちているから

です。

 

現実世界では

想定外のことがたくさん

起こります。

 

想定外がない、

という方が不自然でしょう。

 

例えば、想定外の

仕事が割り込んできた

とか。

 

「私の仕事は、想定外の仕事が

どんどん割り込んでくるので

ゆとりを持てないんです」

 

と言われる人が

本当に多いのですが、

それは、想定外がいけないのではなく

仕事をこなそうとしているから

ゆとりがなくなるのです。

 

しかも仕事をこなす人ほど

想定外が多くなります。

 

真本音で生きるということは

想定外が想定外では

なくなる、ということです。

 

高い次元の私達は

すべてをわかっているから

です。

 

3次元にいる私達の

顕在意識が

「うわっ、想定外だ!

まいった〜〜!」

とやっていても、

どこか根底では、

すべてを楽しんでいる自分が

います。

 

ここでこんな想定外を

私は私にもたらしたんだ、と

どこか客観的な目で

自分と現実を見つめています。

 

そこに、

その現実の意味を解釈として

考える必要はありません。

ただそれを

楽しめばよいのです。

 

高い次元の私達の意識は

それができます。

 

低い次元の自分は

オロオロとうろたえている。

でもその一方で

高い次元の自分は

そのオロオロも含めて

すべてを楽しんでいる。

 

そんな状態で生きていくのは

人間として生きることの

醍醐味の一つかも

しれません。

 

つづく

 

自信の持てる自分になろう、などと思わなくていい

自分に自信がないのです。

 

・・・そう言い続けるクライアントさんが

時々います。

 

どれだけ真本音度合いが上がっても

そう言い続けるのです。

 

そんな場合、

いつも私はお伝えします。

 

自信など、

ない方がいいですよ。

 

自信など、

余分なものです。

 

・・・と。

 

実際に、

高い次元の私達の意識からすると、

自信のある・なしは、

どちらでもよいことです。

 

自信があるからできる。

自信がないからできない。

ということは

一切ありません。

 

自信のある・なしは

自分の行動に関与しないのです。

 

もし、関与しているのであれば、

それは、

真本音度合いが高まっていない

からです。

低い次元の自分のみで

物事を捉えているからです。

 

ある人は言います。

 

「自信をつけるために

経験を積もう」

と。

 

もちろん経験は大切なことですが、

経験を積んで自信を得なければ

先に進めない、

というのは、現実逃避の

一種です。

 

先に進まない言い訳に

過ぎません。

 

ですから私は

「私には経験がないから進めません」

とか

「私には自信がないからできません」

と言っている人を見ると、

いつも

傲慢だなぁ、と思います。

 

もちろん、

自信満々な人を見ても

傲慢だなぁ、と感じることは

多いですが。

 

いずれにしても

自信のある・なしによって

物事の判断や選択を変えることを

私は「傲慢」と感じます。

 

今日、コーチングさせていただいた

あるクライアントさんは、

「いやぁ、私、本当に

自信ないんですよねぇ。

困ったもんですね」

と笑いながらも、

自分の決めたことをすべて

やり遂げていました。

 

やり遂げたと言っても

それが自信につながるわけでは

ありません。

相変わらず、ずっと

「自信ないんですよね」のままです。

 

そのクライアントさんに関して言えば、

自信がないが故に

すべての物事に謙虚に真摯に

対することができています。

 

その「自信のなさ」は

その人の真本音が

選んでいることだからです。

 

真本音と反応本音は

敵対するものではありません。

 

反応本音とは、もともと

現実世界で生きやすいように

という目的で

真本音が生み出したものです。

 

私達の心の中には

様々な反応本音が存在していますが、

私達の真本音は

それら反応本音を活用しながら

生きていこうとします。

 

そのクライアントさんの真本音は

「自信がない」という

自分自身の反応本音を

活用しているのです。

 

わざと「自信がない」という

心の状態をつくりながら、

すべての物事と真摯に向き合おう

とされているのです。

 

もちろん、人によっては

「自信がある」という反応本音を

真本音が活用するケースもあります。

 

大事なのはこのように、

真本音と反応本音が

つながっていることです。

 

どの反応本音を活用するか?は

真本音の自由です。

 

どれを活用するとしても

真本音が選ぶ反応本音であれば

すべて、物事は調和の方向に

進みます。

 

ですから反応本音だけを見て、

これは良い、これは悪い、

これを直さなければ、・・・

などと考えるのは、

まったく意味がないということですね。

 

ですから、

面白いです。

真本音度合いが高まれば高まるほど、

自信をなくすクライアントさんが

よくいるのです。

 

その人にとっては

自信のない状態こそが、

調和を生むのですね。

 

これまでの自分の

反応本音のパターンのみを

評価判断し、

そのパターンを変えよう、とすることは

まったく意味がありませんし、

そこにエネルギーを費やす必要は

ありません。

 

それよりも、

自分の真本音を理解することです。

 

自分の本当の想い

本当の願いを

自分自身が理解することです。

 

つまりは、

真本音度合いを自ら上げる

ことです。

 

私達の真本音は、

・・・つまりは、現時点で最も高い次元の

私達の意識は、

低い次元の意識達を

活用します。

 

高い次元から低い次元まで

様々な意識に溢れるのが

私達人間です。

それこそが、

人間の面白さです。

 

低い次元を否定するのではなく、

そこにあるすべてを活用することが、

人として生きることを

楽しむことではないでしょうか。

 

人間を味わう、

ということではないでしょうか。

 

つづく