たくさんぶつかったからこそ

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がんばっていない

人には、

 

「がんばれ!」

 

私は伝える。

 

しかし、

よ〜くがんばっている

人には

 

「力を抜いて

適当に」

 

私は伝える。

 

本当の意味で、

「力を抜いて

適当に」

がどういうことかを

知ることができるのは、

 

すでにここまで

充分に

がんばっている

人のみだ。

 

がんばっても

いないのに、

力を抜いてしまえば、

 

それはただ

止まってしまって

いるだけ。

 

サボって

しまっている

だけ。

 

「がんばる」

というのは

当たり前のことだと

私は思うのだ。

 

・・・・・・

 

以前に

こう聴いたことが

ある。

 

「がんばる」

という言葉の

語源は

「我を張る」

だ、

と。

 

だから決して

良い意味では

ない、

と教えてもらった。

 

なるほどねぇ、

思ったが、

 

でもやはり私は

思うのだ。

 

我を張って

がんばることすら

したことのない人は、

 

まずは

我を張ってでも

良いので

がんばった方が

いい、と。

 

私はよく

「真本音で生きる

ことが大事」

と言う。

 

私の言葉を聴くと、

「じゃあ自分の

真本音とは何だろう?」

思い悩み、

逆に止まってしまう人が

いる。

 

しかし

そういった傾向が

現れるのは、

 

これまで

がんばってきていない

人にこそ

多い。

 

がんばっていない

人ほど、

すぐに深刻に悩んで

止まってしまう。

 

深刻さは

真剣さの

対極にある。

 

深刻さとは、

真剣に進まない

自分への

自己弁護の行為に

過ぎない。

 

・・・とまで言うと

ちょっとキツいか?

 

私がなぜ

真本音という

存在に気づき、

真本音度合いを

高める人生に

転換できたかと言うと、

 

その最も大きな

理由は、

 

もともと

反応本音でいっぱい

だったからだ。

 

本当に反応本音だらけの

人生で、

 

その時の自分を

振り返ると、

まったくもってもう

目も当てられないが、

 

それでも

間違いなく私は

がんばってきた

からだ。

 

我を張ろうが

何だろうが、

確かに自分なりに

がんばってきた。

 

がんばるのが

当たり前だと

思いながら。

 

それは

まったくもって

自己満足の

そして自己愛の

がんばりであったが、

 

そのために

たくさん転んだし、

たくさん

ぶつかったし、

たくさん

傷つけ合ったが、

 

でも

もしあれらがなかったら、

「真本音」には

たどり着いて

いなかったろう。

 

だから

がんばってもいないのに、

真本音が、真本音が、

と言う人には

 

まずは

そんなことはどうでも

いいから、

自分なりに

がんばってごらん。

 

と、

私はやはり

伝えるのだ。

 

おかげさまで、

最近の私の

クライアントさん達には

私はいつも

 

もうそんなに

がんばらないで。

もっと

適当に。

自分が背負わないで。

もっと

力を抜いて

いい加減に行けば

いいですよ。

 

ばかり

お伝えしている。

 

みんな本当に

必死に

がんばってきた人達

ばかりだ。

 

だからこそ

「真本音」

が効く。

 

「真本音度合いを

高める」

ことが、

根っこから

効いてくる。

 

そう考えると、

今の世の中

がんばっている人は

多い気がする。

 

「がんばる」の

次のステージに

進む人が

多い気がする。

 

そういう人を

たくさん

サポートしたいな。

 

つづく

 

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