私とは

何だろう?

 

私とは

何だろう?

 

私とは

何だろう?

 

・・・と

100万回繰り返し

自分に問うても、

答えは

決してわからない。

 

しかし、

 

私とは

何だろう?

 

という問いを

大事にしながら、

 

目の前にある

「現実」に

一つずつ丁寧に

向かっていくと、

 

答えは

徐々に

観えてくる。

 

これが

私達人間だ。

 

私達は

「社会的生き物」

だ。

 

社会を構成する

という前提のもとで

生まれている。

 

「社会」という言葉が

固ければ、

 

「人との関わりを

前提に」

 

と表現し直しても

いい。

 

そして

「現実との関わりを

前提に」

 

とも言える。

 

私達は、

「内に籠もる」

ようにはできていない。

 

「外と向き合う」

ように

できている。

 

ちゃんと

「外と向き合う」

ことで、

内を理解する。

 

そのように

できている。

 

・・・・・・

 

とは言え、

外にだけ

(現実にだけ)

向かえばいい、

 

というものでも

ない。

 

内をないがしろにし、

外にだけ向かえば

それはそれで

自分を見失う。

 

内だけでも

ダメ。

 

外だけでも

ダメ。

 

内と外の

コラボレーションによって

進化をするのが

 

私達人間の

本質だ。

 

・・・・・・

 

残念ながら、

今の私達の多くは、

 

内も外も

両方

大事にしていない。

 

していない、

というよりも

できていない、

ということかな。

 

内も外も

大事にする

そのやり方を

忘れてしまった人が

多いのが

今の社会だ。

 

だから

「自分」を生きて

いない。

 

それが

実に悲しいことだ

ということすら、

自覚していない。

 

このままじゃ

いかんだろ。

 

と、

やっぱりどうしても

私は

思ってしまう。

 

なんとか

せねば、と。

 

・・・・・・

 

世の中のために、

 

という言葉を

私はあまり

安直に使いたくは

ないのだが、

 

しかしこの想いは

どうしても私の中に

ある。

 

昔、

まだ真本音という

概念すらなかった頃、

 

私は

自己愛のみで生きて

きたし、

 

自己満足の毎日

だったし、

 

自分だけでなく

知らぬ間に

人も多く傷つけて、

 

仕事も

家族も

ボロボロにして

しまった。

 

思い返せば

とてもとても

ひどい人間だったが、

 

しかし、

 

そんな時代にも

私の中にずっと

あり続けたのが

この

「世の中のために」

だ。

 

恐らく、

生まれた時から

持ち続けている。

 

もちろん

それが「特別なこと」

とか

私が「特別な人間」

などとは

思わない。

(そのように傲慢に

思っていた時期は

あったが。)

 

すべての人が

「自分のために」

「世の中のために」

心の根底で

つながっているから。

 

それが今はよく

わかるから。

 

その当たり前の

事実を

皆、思い出せると

いいとは思うが、

 

まぁしかし

そんな硬いことは

言わない。

 

せめてみんな、

本当に真剣に

「自分のために」

生きてほしい。

 

それが結果的に

「世の中のために」

なるからだ。

 

これは私の

願いというよりも、

「祈り」

だな。

 

その祈りに素直に

私は

一日一日を

生きていく。

 

今日も、

 

東京のある街に

行ったら、

 

そこにいる人達の

そのあまりの

「自分を大切にしていない」

度合いの高さを

感じてしまい、

 

吐き気がして

気が遠くなった。

 

これまでも

よくそういったことは

あったのだが、

 

今日のはちょっと

強烈で、

 

こういうのを

感じると、

絶望的にもなったり

するのだが、

 

しかしそれでも、

私の中の「祈り」は

まったく衰えず、

光り輝いている。

 

私はただ

それを大切に

抱き続けて

いくだけだ。

 

今日やることを

自ら決めて

やるだけだ。

 

人生が終わる

最期の最期まで

私はやり続けるよ。

 

つづく