凡だな

 

聖徳太子さんが

十七条憲法の第十条

で書かれた言葉がある。

 

・・・

我必ず聖に非ず。

彼必ず愚に非ず。

共に是れ凡夫ならくのみ。

・・・

 

良い言葉だな

と思う。

 

この中に

 

『凡』

 

という文字がある。

 

平凡の「凡」であるが、

実は私は結構この文字

好きである。

 

以下は一般的に

言われていることではなく、

私なりの捉え方

だ。

 

・・・・・・

 

『凡』

の本質的な意味は、

 

「枠の前に立つ」

 

ということだ。

 

・・・とある時私は

人と向かい合っている

瞬間に思った。

 

漢字を見ると、

風かんむりの中に

点が書いてあるが、

 

この点は人。

 

風かんむりは枠。

 

枠の中に人が

いる。

 

私はこれは

人という存在の

本質的な意味を

現していると思う。

 

私達は皆、

枠の前に立つ存在

だ。

 

まずはそれを

自覚することが

最も大事だと思う。

 

そして、

今自分の前には

どのような枠が

あるのか?

 

今の私は

どのような枠を

超えることが

今後の私の人生において

大切なことなのか?

 

こういった問いと

真摯に向き合うことが

「凡」の本質であり、

 

人の本質だと

思うのだ。

 

「凡」は辞書で引けば、

「普通」とか

「ありふれた」とか

あるが、

 

常に何らかの枠の前に

立ち、

枠を超えて行こうとする

そのものが、

 

本来は、

 

私達にとっては

ありふれた普通の

行為であり

人生であるのだと

思う。

 

そして

そういった人生を

誠実に進めることが

人としての

本質的な幸せでは

ないか。

 

逆に

「凡」である自分を

認めないところから

私達には

あらゆる苦難や苦悩が

始まるのではないか。

 

私はそう

思うのだ。

 

しかも。

 

「凡」の風かんむりの中に

もう一つ点を

入れると、

 

それは

 

『風』

 

の略字となる。

 

そのもう一つの点とは、

私は

「魂」であり

「真本音」であると

勝手に解釈をし、

 

枠の前に立つ自分に

ちゃんと

魂や真本音を宿し、

それに素直に枠に

向かうことで、

 

私達は風になる

 

ことができると

思っている。

 

ちょいと

格好良過ぎかな?

 

つづく

 

なんだ、つまらないな

 

私の仕事は

人の苦しみを受け取る

仕事である。

 

と書くと、

自己犠牲のように

思われるかもしれないな。

 

でも、

自己犠牲ではない。

 

自己犠牲ではないが、

確かに

苦しい。

 

今日も、ある人の

コーチングをしていたが、

その人の持つ苦しみを

そのまますべて受け取り、

私は

あまりの苦しみに

意識を失いそうになった。

 

しかしおかげで

そのコーチングで

何をすべきか?を

知ることができ、

 

その通りのことを

することで

その人は苦しみから

解放され、

同時に私も解放された。

 

しかも面白いことに、

その苦しみは

その人本人には

自覚のなかったものだ。

 

自覚がないのに

確かに苦しんでいる。

 

多くの人が

その状態だ。

 

自分の苦しみを

そのまま

苦しめるようになるというのは

なんと健康的なことか、

ということを

私はこの仕事を通じて

知った。

 

潜在的にせよ、

その人は確かに

苦しんでおり、

その同じ苦しみを

私はそのまま感じ取る。

 

それだけを見れば

なんと苦しい仕事か、

とも思うが、

しかしその後の「解放」も

共に感じ合うことが

できる。

 

それはその人にとっては

「本来の自分」に戻る

大切なステップであり、

「本来の自分」に

一歩戻ることが

人としての「最大の幸せ感」の

一つでもある。

 

その「最大の幸せ感」を

私もそのまま

感じることができる、

ということで言えば、

この仕事は

なんと幸せな仕事か、

とも言える。

 

・・・・・・

 

ところで、

「本来の自分」に戻る、

と私達は

どうなるだろうか。

 

今日の別のクライアントさんは

まさしく「本来の自分」に

戻れた直後の状態だった。

 

どんな感じですか?

 

と私が問うと、

 

「それがまったく

普通なんですよね。

ただ淡々としています」

 

というお答えだった。

 

そう、

そうなのだ。

 

私達は「本来」を

取り戻すと、

まったくもって

「普通」

となる。

 

これを

 

『凡』

 

という。

 

平凡の「凡」である。

 

辞書を引けば、

「すぐれ劣りのないこと。

目立つ点のないこと。

ありふれていること。」

などとある。

 

一般的には

つまらない

というイメージがあるだろう。

 

実際に

当の本人は「本来の自分」に

戻ると、

かなりその「つまらない」という

感覚に近いものとなる。

 

しかし実は

その本質は

一般的な「つまらない」とは

まったく異なるものだ。

 

その「つまらない」とは、

言葉を換えれば、

 

「やろうと思えば

何でもできてつまらない」

 

という意味での

「つまらない」なのだ。

 

実はこれも言葉にすると

ちょっと違和感があるが、

これに近い。

 

不安も恐れもあるし、

実際に自分の能力だって

変わっていないが、

しかし

「やろうと思えば

何でもできるし、

自分が望むことは

すべてその通りに叶っていくな」

ということを

「思い出している」のだ。

 

「自然の摂理」を

理屈ではなく「実感」として

思い出している。

 

だから、

「なんだ、つまらないな」

となる。

 

自分の中に

喜びもある。

悲しみもある。

苦しみもある。

嘆きもある。

怒りもある。

憤りもある。

望みもある。

願いもある。

祈りもある。

 

すべてが

ただ、

ある。

 

そのまま、

ある。

 

なんだ。

すべて「そのまま」では

ないか。

 

ということが

そのままわかるのだ。

 

この状態は

さらに言葉を換えれば、

 

「完全に自由になれた」

 

状態でもある。

 

私達は

完全なる自由を手に入れると

「つまらないな」

となるのだ。

 

さらに

実感としてわかるのは、

自分の中にある

無限のエネルギーの

存在だ。

 

正確に言えば、

宇宙全てのエネルギーが

自分と共にある

という実感だ。

 

なんだ。

いつでも無限のエネルギーが

ここにあるじゃないか。

「つまらないな」

という感じだ。

 

これらを一言で

表現すれば

 

『凡』

 

となる。

 

そしてこれが

「本来の自分を取り戻した」

状態であり、

 

私のサポートの目的の

第一段階は

これである。

 

すべてのクライアントさんが

まずはこの状態にまで

戻ること。

 

それが

「第一段階」

だ。

 

つまり、

これができて初めて

私達は

「スタートラインに立てた」

ということになる。

 

・・・・・・

 

なんだ、自分は

何でもできるじゃないか。

 

思い出した時点が

スタートライン。

 

人生の本番は

ここからだ。

 

何でもできるのだから、

何をするか?

自ら決める必要が

ある。

 

何でもできることが

わかっている状態で

道を決める。

 

実はこれこそが

最も難しいことの一つ

だ。

 

本当は

ここからこそが

「コーチング」の

スタートだ。

 

ちょいと

長くなったな。

 

この話、

続けようと思えば

永遠に書き続けられるけど、

 

この続きは、

またその気になったらね。

 

つづく