たくさんの発想が

出ることが

良いことである、

とは

私は決して思わない。

 

心の中から

発想が溢れ出ることが

よくあるが、

それが良い状態である

とは

私は思っていない。

 

むしろ、

うるせーなぁ、

自分の心になかなかに

冷たい言葉を

投げかける。

 

そしてそんな時は

実際、

100個、1000個、・・・と

どれだけの発想が浮かび、

その一つ一つが

どれだけ魅力的でも、

 

ほぼほぼそのすべてを

私は捨てる。

 

心がうるさい時の発想は

すべて

捨てるのだ。

 

本当の発想は、

「静謐」の中から

生まれる。

 

その発想は

「確信」

である。

 

根拠のない確信

である。

 

逆に言うと私は、

根拠のある確信を

「確信」とは

呼んでいない。

 

だってそれは

根拠(理由)がなければ

確信ではないのだがら、

それは

確信ではないのだ。

 

確信に

理由は要らない。

 

確信に

解釈は要らない。

 

もっと言えば、

自信も要らない。

 

賛同も要らない。

 

確信は

確信だ。

 

それに出会ったら、

四の五の言っている

暇などない。

 

勝手に体が

動いてしまうのだ。

 

これが、

真本音の発想

である。

 

真本音の発想には

根拠はないが、

しかし本当は

根拠は大ありなのだ。

 

ただそれは

次元の高い根拠なので

言語化が非常に

難しい。

 

言語化できないものを

我々は「根拠」とは

言わないので、

結局は

「根拠はないけど

確信はある」

みたいな言い方に

どうしてもなってしまう。

 

でも本当はそれは

言葉にならないほどに強い根拠

という土台があるということなので、

私達の体は勝手に

その通りに動いてしまう。

 

次元の高い根拠とは

つまりは、

「すべてはつながっている」

もしくは

「すべては一つ」

という次元から来るもの

なので、

 

これをすれば必ず

皆も悦ぶ。

 

これをすれば必ず

調和する。

 

ということが

よ〜くわかっているのだ。

 

だから

言葉や理屈としての

根拠がなくとも

私達は安心して

動けてしまう。

 

要するに、

どの次元での根拠に

基づいて生きるか?

動くか?

という問題であり、

 

どうせなら

次元の高い根拠に

基づいて生きた方が良い。

 

それは必ず

悦びにつながるから。

 

真本音度合いを

高める、

 

とは

 

真本音発想を増やす

 

ことであり、

次元の高い根拠に

基づいて生きる自分に

なる、

ということなんだ。

 

それを今のこの世の中

において

実践していく。

 

それが私のサポートの

本質かな。

 

つづく