自転車に慣れない内は

補助輪をつけて

練習をする。

 

私達の人生そのものに

おいても、

補助輪が必要なときが

ある。

 

例えば、

一つの出会い。

 

ある人と出会い、

その人が

自分自身の補助輪に

なってくれた、

 

ということが

私にはたくさんある。

 

あの人が

いてくださったおかげで

今の私がある、

という人が

私にはたくさんいる。

 

とても

ありがたいことだ。

 

そして私は

そのご恩を、

 

私が誰かの補助輪に

なることで

お返ししようと

いつも考えてきた。

 

そこで

とても大事だと思うのが、

 

「私はこの人の

補助輪である」

 

という自覚だ。

 

補助輪が

本体と入れ替わって

しまってはならないし、

 

補助輪が

永遠にそこにあっても

ならない。

 

補助輪はあくまでも、

補助輪なしで

ちゃんと走れるように

なるための、

 

一時的な

 

支えである。

 

これを忘れてしまうと、

あらゆることに

不調和が起こる。

 

これは別に

私に限った話ではない。

 

すべての人が

誰かの

何かの

補助輪的な役割を

担っているし、

 

担い合っている。

 

私は今、

誰の何に関する

補助輪か?

 

という問いは

とても重要だ。

 

そして、

 

その人のその事に関する

補助輪として、

 

私は何を

すれば良いか?

 

私は何を

してはならないか?

 

は、

さらに重要だ。

 

補助輪は、

なくなるために

存在している。

 

もうこの人には

補助輪は

必要ないな、

 

わかったら、

 

補助輪が自ら

外れるべきだ。

 

補助輪の役目を

手放すべきだ。

 

それができてこその

補助輪。

 

その人の

自立・自律のために

あるのが、

補助輪だ。

 

つづく