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- 2019年 6月
実在のレベル(心の中)
は整ってきたのに、
それを
行動に移せない、
つまりは、
現象化(現実化)できない、
という意味での
不一致による歪みが
様々な不調和を発生させた。
というのが、
ここ数年の世の中全体の
傾向だ。
しかしそれ以前は、
実在のレベル(心の中)
そのものが
まったく整っていなかった。
そんな時代が
長く続いた。
その頃に比べれば、
随分と
問題は浅くなってきた。
対策も
楽になってきた。
とはいえ、
この数年も
大変だった。
本当に。
・・・・・・
実在そのものが
整わないことによる、
実在と現象の不一致。
それが改善され、
実在は整ったが、
まだ現象化の力が弱い
ことによる不一致。
これがここ数年の
傾向。
そして今、
この傾向がまた崩れ、
私達は
さらに前に進もうと
している。
実在が整い、
それがそのまま
現象化されていく。
という実に健康的な
世の中に
ここから急ピッチで
近づいていくだろう。
ようやくここまで
来たんだなぁ、と
ちょっとだけ
感慨もひとしおだが、
しかし
感慨に浸っている
場合ではない。
これまでは
あえて言えば、
病気を治す時代。
ここからは、
健康体に近くなり
どんどん
進む時代だ。
そういった意味での
時代の「断絶」が
あった。
・・・そう、
過去形だ。
つまり既に
「断絶」を越えたように
私は思う。
・・・・・・
これからの時代を
私は
「自業自得の時代」
と呼ぼうかな。
そう。
ようやく「自業自得」が
機能する時代に
なれたのだ。
「自業自得」とは
とても良い意味で
私は捉えている。
良いことをしたら
良いことが返ってくるし、
悪いことをしたら
悪いことが返ってくる。
という実に
健康的な状態。
だからとても
わかりやすい。
自分に悪い「現実」が
来たら、
要するに
自分に問題があるのだ。
だから
しっかり「反省」すれば
いい。
反省して次に進めば
道は開いていく。
実に
健康的だ。
・・・・・・
ということは、
真本音の願いに
基づき
日々、行動する人は
そういった
道が開かれていく。
そうでなければ、
道は頓挫する。
迷って止まり続ける
人は、
そこから一歩も
動けなくなるし、
進もうとする人は
進むことができる。
要は
その人の意志(意思)に
よる。
意志(意思)が
そのまま
現実化し、
自分に返ってくる。
単純明快。
だから、
これからこそ、
自分の生き方を
大切にするといい。
迷ったら、
自分自身に問えばいい。
本当は
自分は
どうしたいのか?
と。
ここに真摯であれば、
真摯な現実が
返ってくるだろう。
つづく
人には弱さがあっていい
と私は思っているし、
弱さのあるところが
人間味であるとも
思っている。
弱さがあるからこそ
できることがあるし、
弱さがあるからこそ
切り拓ける境地すらある。
しかし。
それは
「あきらめる」
こととは違う。
「弱さ」
と
「あきらめ」
は
対極にある
とさえ私は思う。
・・・・・・
自分の弱さを
本当に知り、
それを
受け入れ、
それを
時には反省する。
そんな人は
とても強い人だと
思うし、
実際にそういう人は
最大速で進むことが
できる。
逆に、
弱さを認められない人ほど、
止まる。
そしてさらに、
止まっていることを
ごまかす。
そして最後は
あきらめる。
何をあきらめるか?
「人生を」
である。
自分の人生を
あきらめてしまう。
あきらめたからと
言って、
人生が終わるわけでは
ない。
その人は
「人生をあきらめ」
ながら
人生を生きている。
そんな人が
今のこの世は
多過ぎはしないか?
・・・・・・
私の企業サポートは、
本質的に観れば、
人生をあきらめて
しまっている人達に
まずは、
「あきらめるな!」
と必死に訴え、
あきらめを
取り除くことから
始まっている。
・・・ということではないか、と
今日、気づいた。
あきらめている人達を
あきらめないように
するのだから、
マイナスからの
スタートだ。
しかし
そんな企業が
8割以上なのではないか。
出会った頃から
「あきらめていない人達」
のみの集団となっている
組織を
私はまだ
数えるほどしか
知らない。
もちろん。
あきらめていることを
本人達は
自覚していない。
だからこそ
タチが悪いのだ。
これが今の
世の中だ。
残念ながら。
・・・・・・
しかし、
今の若者達は、
特に
20代以下の人達は、
あきらめていない
人の割合が
明らかに多い。
一方で、
ここまで社会を
引っ張ってきた
大人達は
あきらめてしまっている人の
割合が圧倒的だ。
つまり。
あきらめた人達が
あきらめていない人達を
迎え入れて
教育と育成をしている。
これが今のこの世の
実態だ。
だいぶ
ドギツイ書き方を
しているな、今日は。
でも
はっきり書くと
そうなのだ。
これを私は
変えたい。
もちろん
「変えたい」
などと言うのは
傲慢だと知っている。
それでも
私は
現場で
実態を
ナマで
毎日
感じ続けて
いるのだ。
これくらい
言っても
良いだろう。
何とかせんと
いかんだろうが。
・・・・・・
私は人間なので、
人間として
できることしか
できない。
いっそのこと
魔法使いにでも
なりたいと
ほぼ毎日思っているが、
思っているだけでは
何も始まらないので、
毎日、
できる最大を
し続けている。
おかげさまで
私の周りは
「あきらめない人達」
ばかりになってきた。
でもここで
満足していては
ならない。
もっともっと
この輪を
広げねば。
本当のことを言えば、
私は自分の能力の
小ささを
毎日、不甲斐なく
思っている。
もっともっと
私に力があれば。
でも私の望む力とは
それはもう
「人間の力」ではないような
気もする。
「人間の力」でない力で
この場を乗り越えたとしても、
そこに
意味はない。
ということも
よくわかる。
だから
人間として
がんばるしかない。
あきらめてはいない
若者達を、
あきらめた大人に
変貌させてしまう、
そんな企業を
私は減らしたい。
だから私は
今日も明日も
私の持てる最大の力を
振るう。
あーチクショー、
もっと私に力が
あればなぁー。
つづく
誠実で素直な
人ほど
人の話に耳を
傾ける。
それ自体はとても
素晴らしいことだが、
耳を傾ける
ことと
鵜呑みにする
ことは
まったく別物だ。
私はこう見えて、
人の話を
鵜呑みにすることは
ほぼ、ない。
ようにしている。
・・・・・・
しかし、
素直に聴くようには
している。
素直に
インプットするのだ。
自分に。
でも、
鵜呑みには
しない。
よく、
「人の数だけ
真実がある」
と言われる。
私も
企業様でのサポート現場
では、
本当にいつもそう思う。
Aさんの見方、
Bさんの見方、
Cさんの見方、
・・・。
それぞれの人の
視点に立てば、
なるほど、
本当にその通りだな、
と
思うことは多い。
しかしそれは
「その視点に立てば」
での
ことである。
あくまでも。
・その視点に立てば、
・こういう風に見える、と
・Aさんは思っている
という3つを私は
そのまま
あるがままに
自分にインプットする。
Bさんも、Cさんも
それぞれが
それぞれの視点で
どう見ているか、を
そのまま自分に
インプットする。
そしてその上で、
自分なりの解釈を、
・・・何もしない。
つまりは
インプットしたままの
その状態で
ずっといる。
すると、
ある時ある瞬間に、
ふと
わかるのだ。
「彼らはいったい
何をしているか?」
が。
数々の真実の
さらにその奥にある
「根源」のようなものが
ふと
観えるのだ。
それは
言葉や説明に
ならないこともある。
しかし
それを一瞬でも
感じ取れば、
彼らは
次に何をすれば良いか?
私は
そんな彼らに
どんなサポートをすれば
良いか?
が
ありありと
浮かんで来る。
これが私の
企業サポートの
本質だ。
・・・・・・
こうして文章に
すると、
何かとてつもなく
凄いことを
やっているように感じる
かもしれないが、
私がやっているのは、
「素直にインプットする」
ことだけだ。
それをすれば
あとは何となく
勝手に観えて来る。
これは
やろうと思えば
誰もができること。
しかしそのためには
自分自身の
真本音度合いが
高くなければならない。
真本音度合いが
高まれば高まるほど
・素直なインプット
と
・素直なアウトプット
の
両方ができるように
なる。
それができる人を
それぞれの企業の中に
増やしていく。
これも私の
企業サポートの
本質だ。
つづく
人生の始まり
というのは
やはり
大変なものだ。
いつの間にか
私達は
自分の人生が
あるのが当たり前だと
思い込むように
なってしまうが、
人生とは
あること自体に
ありがたみが
あるのだな、と
つくづく
思った。
・・・・・・
5歳の息子が
突然言った。
「家のベランダに
鳩がたくさんいるよ」
見ると
本当にそうだ。
何だろう?と
鳩達に意識を
向けると
すぐにわかった。
そうか。
祝福に来て
くれたのか。
「ありがとう」
と
伝えると、
鳩達は一斉に
飛び去った。
その数、
30〜40羽くらいか。
ちょっとびっくり。
でも
嬉しかったね。
今日、
新たな人生が
誕生したんだ。
つづく
道は目の前に
まっすぐ
伸びているのに、
先の方が
明る過ぎて
まるで見えない。
見えないのだが、
そこには
明る過ぎるほど
明るい未来が
待っている
のはわかる。
でも、
見えない。
見えないことによる
不安は
もちろんあるけれど、
見えないことが
また
面白く
刺激的だ。
見えても
見えなくても
この道を
進んで行くことに
変わりはない。
最大速で
進んで行くのだろう。
でも
見えない。笑
見えないけど
面白そう。
・・・こんな感じ。
真本音の道を
最大速で進むことを
覚悟した人なら
誰もが実感する
この感覚。
ひょっとすると
これこそが
人生の最高の醍醐味
の一つ
なのかもしれない。
この感覚までは
まだわからないけど、
この感覚に
もうすぐ達するだろうな、
という人が
今、
急増中。
いいことだなぁ。
そんな時代が
来たんだなぁ。
としみじみ。
・・・・・・
「最大速」
と言うと
大変なことにように
思われるが、
実は「最大速」こそが
「経済速度」
だ。
人にとっては。
最も楽に進めるし
最も燃費がいい。
なぜなら
内側から常に
エネルギーが
湧き続ける状態と
なるからだ。
外からエネルギーを
もらう必要が
なくなる。
でも面白いことに
内側からエネルギー
溢れるのに、
外からも
大量のエネルギーを
いただけるように
なる。
たくさんの人達から
心地良いエネルギーが
押し寄せてくる
のだ。
だから、
内からも外からも
満たされる。
満たされるから
幸せだし、
エネルギーは
高まっても高まっても
限界はなく、
無限に
幸せ度合いは
上昇する。
しかも
もうとっくの昔に
満たされているから、
そのエネルギーを
さらに
他者にプレゼントすることも
できる。
それをすることで、
さらに他者から
エネルギーが
返ってくる。
そんな人生。
とても良いと
思わない?
・・・・・・
さぁ、
始めようではないか。
そんな
人生を。
これまで
躊躇して始められなかった
人も、
そろそろ
良いのではないか。
世の中は
ずっと何も変わらずに
いるように
思うかもしれない。
しかし
見えないところで
世の中は
変転した。
この変転は
ここからも続く。
私の言うところの
「実在レベル」で
ということになるが。
実在レベルで
変転すれば、
それは時間差を経て
必ず現象化(現実化)
されてくる。
今はその
時間差も
みるみる減っている。
だからもう
始めようでは
ないか。
自分の
本当の願いに
向かって
堂々と
生きてみよう。
最初から大きな
歩みをしなくても
いい。
ほんの些細な
一歩でもいい。
でもその一歩は
自分の中の
大いなる願いに
基づくもので
あるといい。
時は来た。
・・・なんて言うと
ちょっと格好良過ぎ
かもしれないが、
でも本当に
時は来たのでは
ないか。
その躊躇を
取るといい。
さぁ、始めよう
ではないか。
つづく
時の流れに
もし
断絶というものが
あるならば、
次の大きな断絶は
もうすぐ
訪れるだろう。
いや、別に
恐ろしいことでは
ない。
これまでも
何度もあったことだ。
もちろん私達の多くは
それに
気づかずに来た。
次に来る断絶も
ほとんどの人が
気づかないだろう。
日常が変わる
わけではない。
世の中が大きく
変わるわけでは
ない。
しかし、
断絶、とは
一度、すべてが
リセットされ、
次の一瞬で
すべてが甦るような
ものだ。
気づかずにいれば
何も起きていないのと
同じであるが、
もし感性が豊かな
人であれば、
ここが
かなりのチャンスである
ことがわかるだろう。
・・・・・・
私達人間は皆、
思い込み
の集積で生きている。
思い込みが
次の現実を
創る。
もちろんそれを
なくすことは
必要のないことだし、
第一、無理だろう。
しかし、
それが
真本音の望む思い込みか
どうか?
は
私達の人生にとっては
とても重要だ。
どうせ思い込むなら、
自分が本当に
望む方向の
思い込みで
生きてみたいのでは
ないかな。
自分の本来の道を
阻害する思い込み
と
後押しをしてくれる
思い込み。
どちらを選ぶかと
言えば、
大概の人は後者だと
思う。
「断絶」は
自分の中の
自分の道を阻害する
思い込みを
手放すチャンスだ。
・・・・・・
とは言え、
ここではその
「手放し方」を書こうと
しているのではない。
なぜなら
顕在意識のレベルで
それをする方法は
ないからだ。
しかしその「手放し」は、
潜在意識のレベルでは
恐らく
多くの人が行なうだろう。
ただしそのためには
条件がある。
それは
私の表現を使えば、
真本音に素直に
生きていること
だ。
言い換えれば、
自分の本当の願いを
大事に日々、
生きていること
だ。
これまでコツコツと、
たとえ成果が
出なかったとしても、
ここを大事にして来た人は
今回の「断絶」によって
大きな力を
得ることになるだろう。
何やら
予言めいた言い方に
なっているが、
これは予言ではなく、
空気感だ。
「断絶」の空気感が
そこかしこに
漂っている。
すでにその影響を
受けている人も
多い。
皆、変化を始めている。
こういったことを聴けば、
あぁなるほど!
と
思う人も多いのでは
ないかな。
・・・・・・
人生は自分探究の
旅でもある。
その探究を
真摯にコツコツと
やり続けて来た人は
やはり最後は
強い。
ただし
「やり続ける」というのは
考え続ける、という
ことではない。
試行錯誤をし続ける、
つまりは
行動をし続ける
ということだ。
本当の自分の願いを
自分でしっかりと
見つめ、
それを行動に
起こし続ける。
その単純なことを
コツコツと
日々、
・・・そう、「日々」だ、
やり続ける人は
やはり強い。
チャンスを
ものにできる。
「断絶」を
チャンスとすることが
できるんだ。
つづく
随分前の話
なのだが、
「真本音」という概念に
気づき始めた頃、
私がいつも心の中で
呟いていた言葉がある。
「どうでもいいじゃん。
なるようになっていくから。」
だ。
当時の私は
「深刻」の塊だった。
心の中も
実際の人生においても
不調和の嵐だった。
それら一つ一つを
どのように越えていけば
よいのか?
さっぱりわからなかった。
私は自分の身を守る
ために、
誤魔化し誤魔化し
生きていたように思う。
そのツケが
いつも私には
襲いかかっていた。
この人生から
抜け出ねばならない。
と、
当時の私なりに
必死に思った。
その中でたどり着いたのが、
上記の言葉だ。
とにかく私は
朝から晩まで
その言葉を
心の中で呟き続けた。
呟いた瞬間は
一瞬、心が楽になるのだが、
すぐに直後に
深刻さが襲って来た。
しかしそれでも私は
何かにすがるように
その言葉を
呟き続けた。
今から振り返れば、
その辺りから
私の人生はゆっくりと
変わり始めた。
不調和の人生から
調和の人生へと。
・・・・・・
上記の言葉が
なぜ当時の私の中に
浮かんだのか?は
当時はわからなかったが、
今はよくわかる。
それは、
私自身の真本音からの
プレゼントだった。
このように、
自分の真本音が
自分自身にプレゼントする
「メッセージ」がある。
自分から自分への
メッセージであり、
それを呟き続けることで、
まずは心が開かれ、
その結果として
しだいに現実が
開かれていく。
だから私はこの言葉を、
『心の鍵』
と名づけた。
心を開くための
鍵となるメッセージだから
だ。
心の鍵を常に
自分に向けて投げ続けることで、
非常に地道ではあるが、
結果として
最短で人生が
開かれていく。
これは私だけではなく、
これまでの私の
クライアントさんの多くも
体験されてきたことだ。
・・・・・・
私は
私自身に
何をメッセージしたいか?
を、
まずは真剣に
考えてみよう。
しかしそのメッセージは、
自分を縛るもので
あってはならない。
呟くことで、
ギュッと心が固まってしまう
ものであってはならない。
無理に自分を鼓舞する
ものであってもならない。
呟くことで、
全身の力が
一瞬でもいいから
フッと抜けるもの。
しかし、かと言って
単なるやさしい言葉では
なく、
力の抜けた自分が
次の一歩に自然に
向かえるような、
そんなきっかけになる
言葉だ。
それを真剣に
見つけてみよう。
「心の鍵」探しは、
私のコーチングサポートの
根幹の一つであるし、
私が推奨する
セルフコーチング法の
基本に来るものだ。
セルフコーチングとは、
「問い」
だけではない。
「メッセージ」も
重要な要素だ。
自分への
メッセージ。
毎日でも
考えてほしいな。
つづく
悩む必要のない
ところと、
悩むべきところ。
この二つの区別が
本当につくように
なったら、
人生も仕事も
急加速する。
コーチングによる
サポートの際、
ひょっとすると
私は
ほとんどこの部分のみを
させていただいている
のではないか?
とさえ思える。
だって、
本当に悩むべきところ
が明確になれば、
クライアントさんは、
その時点で
スッキリする。
そして
サポートなどなくても、
勝手に答えを見つけ出し
邁進していく。
一度のコーチングが
終わり、
次のコーチングの日が
来て、
「例のあの件は
どうでした?」
と訊くと、
「あの件?
なんだっけ?」
と返ってくるケースが
とても多い。
そんなことはもう
とっくの昔に解決済みで
意識はもう
次の次の次くらいに
行っている。
人って
こんなもんなんだなぁ、
と
いつも思う。
人生や仕事が
進まない根本原因の
大半は、
悩みどころを
間違えている。
もしくは、
悩みどころが
ズレている。
のではないか。
・・・・・・
私達の真本音は、
「今ここで
自分のエネルギーを
全力で注ぎたいこと」
を、
常に決めている。
もしそこに
本当に真剣に取り組んだら、
真本音が
望んでいるだけに、
凄まじいパワーが
炸裂する。
凄まじいパワーが
炸裂すると言っても、
怒鳴ったり
叫んだり
妙に明るくなったり
するわけではない。
内側から
本当に凄まじいパワー
が湧くと
大概、我々は
穏やかになる。
心にゆとりが
出て、
物事がとてもよく
観えてくる。
だから、
今ここで何を
すればよいか?
次は
どのような一歩を
踏み出せばよいか?
が
ありありとわかる
状態となる。
それを私は
凄まじいパワー
と表現している。
だから、
凄まじいパワーが
発揮されている組織ほど、
皆、
穏やかで
自然な笑顔が
絶えないのだ。
・・・・・・
だから、
人の本質的な元気さは、
自分の悩みどころを
しっかりと知り、
そこにちゃんと
向き合っている、
ことにより
自然に高まっていく。
本当の悩みから
逃げていたり
目を逸らすことで、
元気を失っていくのだ、
私達は。
だから。
しっかり
悩もう。
今のうちに。
つづく
私の自宅の近くには
有名な神社があり、
先日、その神社のお祭りに
5歳の息子と一緒に参加した。
たくさんの子ども達が
集まって来ていた。
顔見知りの子は
ほとんどいないのに、
私の息子は
まるで親友達の中に
いるかのように
一瞬で溶け込んでいた。
子ども達は皆、
オープンだった。
とは言え、
子どもの心にも
いろいろと抱えている
ものはある。
淀みもあるし
ストレスもある。
険しさもあるし
憤りだってある。
そこは
大人と変わらない。
しかしやはり
子ども達は
まだ未発達の小さな体を
持て余しながらも、
ただただ
純粋に交じり合い、
笑い合っていた。
そんな姿を
見ながら、
このような世界に
なるといいな、
と
思った。
・・・・・・
ある見知らぬ子が
私のところに寄って来た。
そしてじっと
私の目を見つめた。
実はこれ、
よくあることだ。
幼い子や赤ちゃんほど
それをよくやられる。
(やられる、というのも変だが。)
そんな時、私は必ず
同じようにその子の目を
ただ黙ってじっと
見つめることにしている。
私達は数秒の間、
見つめ合った。
そして何も言わずに
その子は去って行った。
その数秒間で
私達は何をしたのか?
よくわからないまま
しているのだが、
でも実は
とてもよくわかっている。
私達は
「確認」をしているのだ。
そして
「エネルギーの交歓」を
しているのだ。
「確認」とは
「約束」の確認。
言葉にはならない
約束の確認。
そして
エネルギーの交換を
しながら、
私達は「合図」を
送り合っている。
それにより
私には、その子から
何らかの刺激が入り、
その子にも私から
何らかの刺激が入る。
それだけのことだが、
それが、
その子の人生にも
私の人生にも
必要で大切なことなのだ。
別にこれは、
私だけが特別に行なっている
ことではなく、
誰もが常に自然に
そして無意識に
行ない続けていることだ。
私はそういったことを
自覚できるので、
一つ一つ丁寧に
それを行なっているに
過ぎない。
特に子ども達には
丁寧に行ないたいのだ。
・・・・・・
私達は、
「確認」をし合い
「交歓」をし合い
「合図」をし合い
ながら
共に生きている。
それを躊躇なく、
純粋に
笑いながら
行ない合える
世界になるといいな、と
本当に思う。
そうなるために
私は
私のできることに
日々、全力を尽くしている。
私のビジョンは
約30年後の未来に
向かうもの。
30年後と言えば、
今の幼い子ども達が
社会の主役となっている
時代だ。
その時代に
あの子達が
真本音で語り合い、
生き合う世の中に
なれるよう、
今の大人である私達は
最大速で進もうでは
ないか。
つづく
いったい
何が起きているのか?
と
びっくりするくらいに
人が
変わっていく。
もちろん、
良い方向にだ。
変わる、と言っても
別人格になるのでは
なく、
本来のその人に
一気に近づいていく
のだが、
その変貌ぶりが
凄まじい。
「凄まじい」と
どうしても表現
したくなる。
今日も、
ある会社の幹部さんが
言われた。
「ふと、朝の4時に
目が覚めたんです。
で、ふと思ったんです。
決めたんです。
私が変わろう、と。」
自分の考え方から、
立ち振舞いから、
人の育成方針まで、
すべて
変えていく、と言う。
しかもその方向転換は、
私が密かに、
「この人の本来は
こうだから、
こう変化していくといいな」
と
コーチとして願っていた
方向と
完全に一致した。
だから一瞬私は
言葉を失うくらいに
驚いた。
でも、
これに近いことが
日々、あちこちで
頻発している。
いったい何が
起きているのだろうか?
と、言いたくもなる。
・・・・・・
人の変化は
組織の変化に
直結する。
人が変化しなければ、
組織は変化しない。
人が真本音度合いを
高めれば、
組織の真本音度合いも
高まっていく。
実に単純な法則が
ようやく
この世で機能し始めた
ように思う。
健全な世の中に
近づいているのだ。
もちろん、
健全ではない出来事も
頻発している。
しかし
そればかりに
目を奪われていては
ならない。
本質的には
今は
何が起きているのか?
それをあるがままに
私達は感じ取ろう。
世の中は、
間違いなく
進み始めている。
それを推進している
のは、
「人」だ。
一人ひとり
だ。
あなた、だ。
自分一人の変化
なんて、
世の中全体から見れば
大したことはない、
なんて
思わないでほしい。
一人の本質的な変化が
いかに
実在のレベルで
世の中全体に
インパクトを与えるか?
は、
私が最も声を大にして
お伝えしたい事実の
一つだが、
しかしそれは
これからの私達の歩みの
途上で、
どんどん証明されて
いくだろう。
あなたはもっと
自信を持てばいい。
自分を
信じればいい。
あなたの道が
世の中の道に
なっていく。
つづく
ずっと空を
垂直に
昇って行くと、
「青空」だと
思っていたものには
実は
出口があることが
わかった。
そこを
通れば、
次の世界に
行ける出口だ。
なんだ。
壊さなくて
いいのか。
もっと
様々なものに
ぶち当たり、
体当たりで壊し、
傷つきながらも
ようやくにして
たどり着くのが
次の世界
だと
思い込んでいたよ。
なんだ。
出口が
あったんだ。
ちょっと
拍子抜けした。
出口に
近づくと、
すでにその扉は
開いていた。
なに?
ここを
くぐればいいの?
と
思った矢先に
もう
私は出口の
向こう側に
いた。
出口の向こうは
宇宙であると
ずっと
思い込んでいたのだが、
出口を抜けると、
そこは
「大地」
だった。
私は
大地に立っていた。
何という
安定感。
何という
安心感。
しかも、
私は大地と共に
飛ぶことすら
できた。
これまで
私は、
大地と自分は
別物だと
思っていた。
しかし
そうではなかった。
大地も
私だった。
私が
大地だった。
そこで
わかったのだ。
「世界」が
変わったのでは
ない。
新しい世界に
入ったのでも
ない。
「私」が
変わったのだ。
世界である
私は
これから
世界で
何を
するのだろうか?
つづく
私達の心の中は
「答えの宝庫」
だ。
自分の知りたい答えは
ほぼほぼ
自分の心の中に
揃っている。
例えば、
人生において
「次の選択をどうするか?」
とか、
仕事において
「あのお客様にどう提案するか?」
とか。
もし、
明らかに新たな情報を
得なければ出ないような
答えについても、
「どのような情報を
どこから得ればよいか?」
という
答えにつながるための答え
をもう、持っている。
私達はそのように
心の中に存在する
「答え達」を
浮上させながら
生きている。
「浮上」というのは
「顕在化」ということだ。
眠っていたもの、
隠れていたものを
「明らかにする」
とか
「光を当て明確にする」
ということだ。
ところが。
「答え」はあるのに、
その「浮上」(顕在化)が
できない。
心の中に
せっかくあるものを
眠ったままにさせて
しまう。
しかも、
「答え」とは違う選択を
してしまう。
ということは
実によくある。
なぜ「浮上」できないのか?
なぜ「答え」はあるのに、
それに気づかないのか?
その原因は
たったの一点だ。
「質問力不足」
だ。
・・・・・・
「答え」を得るには
「問い」が要る。
「問い」がなければ
「答え」は出ない。
これが単純な
原理だ。
発想力のある人とは
質問力のある人
とも言える。
自分に的確な問いを
投げられる人だ。
私はコーチングにおいて、
ほぼほぼいつも
クライアントさんに
「今、あなたの中に
どんな問いがありますか?」
という問いを
投げる。
この問い。
まずはこれが
最も重要だ。
これを自分で自分に
投げるとよい。
「今、私の中には
どんな問いがあるだろうか?」
このたった一つの問いを
一日中、
私は自分に投げ続けている
と言っても過言ではない。
この問いを
投げ続けるだけで
人生は変わる、
と私は思っている。
全然大袈裟な話では
ない。
本当にそうだと
思っている。
これが
セルフコーチングの
基本だ。
・・・・・・
私達は皆、
「問い」と共に生きている。
人生とは
「問い」によって拓かれる。
自律している人と
そうでない人の違いは
自分自身にちゃんと
「問い」を投げられるかどうか?
だ。
全然大袈裟な話
ではない。
少なくとも私のクライアントさん
は皆、
「質問力」を高めることで、
ある意味それだけで
人生を変えている。
今後このブログでは、
オススメの問い
を随時ご紹介していこうかな、
と
思っている。
つづく
人の「美しさ」とは
不完全なところに
こそ
あると思う。
人は
進化するもの。
というよりも、
「進化」を
カタチにすると
「人」になる
と
私はいつしか
思うようになった。
進化に必要
なのは
不完全さ。
人は常に、
(私達の真本音は
常に)
不完全であることを
望んでいる。
そういった
意味で、
「完全」や
「完成」は
ない。
もちろん、
形の上で
いったんの
完全、
いったんの
完成、
はある。
が、
その直後から
私達は
また
歩き始める。
完成した、
完全だ、
と思ったのも
つかの間、
すぐに私達は
「次」を
求める。
それが
人間なのだと
思う。
・・・・・・
昨日、
私はこのブログで
「美しい一日」
について
書いた。
それは
101%ではなく
100%の一日
である、
と書いた。
そしてそれこそが
「最大速で進む」
ことに
なると。
しかし、
その「100%」
とは、
その日
その時に
私達が感じる
「100%」であって、
例えば
その次の日に
同じレベルの
一日を創れたとして、
もう私達は
それを「100%」だとは
思えなく
なるだろう。
つまりは、
私達の「100%」
そのものが
進化をする。
それが
私達人間の
本質だ。
だから
もう一度言う。
私達は
無理をして
101%以上を
目指すのではなく、
100%を
しっかりと実現
することにより、
最大速で
進化を続ける
のだ。
そしてその
「100%で進む自分」
であることを
『等身大』
と言う。
等身大の自分
こそ、
自分の本来の
魅力が
溢れる自分
である。
そして当然だが、
その
「等身大」そのものが
進化をしていく。
等身大で
いることこそが
最大速の進化
を
呼ぶのだ。
・・・・・・
今日の私は
「何をしようか?」
そして
今日の私は
「何をしないか?」
を
毎日、
一日一日
しっかりと
決めよう。
その上で
真摯に
一日に向かって
行こう。
これを
本当にきちんと
できると、
だんだんと
肩の力が
抜けてくる。
本質的な
気楽さが
生まれる。
一日の
満足が
高まるからだ。
不安というものが
激減する。
自分は
やることを
ちゃんとやっている、
という実感は
私達を
とても強くする。
真摯に生きる
ことこそが、
私達を
最も楽に
してくれるのだ。
つづく
無理は
するな。
でも、
最大速で
進め。
・・・一見、
反対のことを
言っているようだが、
実は
違う。
最大速で
進もうとすると、
みんな
無理をする
傾向にあるが、
最大速を
出すということと
無理をする
ということは
全く別の話。
最大速を
出すためには
決して
無理はダメ。
無理をすることで
最大速が
出なくなる。
・・・・・・
では、
「無理」とは
何か?
101%以上の
ことだ。
いや、
100.1%以上
とも
100.01%以上
とも
100.001%以上
とも言える。
つまりは、
100%を超える
こと。
私は
「一日」という
人生の時間は
一つの作品では
ないか、
と思っている。
そう表現すると
ちょっと硬くなって
しまうかも
しれないが。
素晴らしい
芸術作品とは、
・足りないものが
まったくなく、
・やりすぎも
まったくない
ものだ。
例えば、
私は音楽を
よく聴くのだが、
ジャズのような
即興演奏ですら、
時々、
そういった作品
に出くわす。
そんな作品は、
魂への響き方が
まったく違うのだ。
心の感動
ではなく
魂が感動
しているのが
わかる。
これを私は
『美』
とも呼んでいる。
「美しい一日」。
こんな書き方を
すると
さらに硬くなって
しまうかもしれないが。
これは
・今日することを
すべてして、
・今日しないことは
一切しない、
ことで
実現できる。
今日は美しい
一日だったな、
と
思えると、
私は自分自身の
魂がとても
悦んでいることが
よくわかる。
それは、
物事が
上手くいったとか、
上手くいかなかった
とか、
関係がない。
何も進展せず、
停滞したままの
一日に
なっても、
美しい一日だったな、
と思える日は
何度もあった。
この、
美しい一日を
創り出している
その時が、
「最大速」
だ。
・・・・・・
最大速とは、
無理をすることで
実現できるもの
ではなく、
美しい生き方を
することで
実現できるもの。
もう
書く必要もない
だろうが、
それは、
格好がいい
とか
格好が悪い
とか
も関係ない。
表面上の
ことではないのだ。
そう観ると、
この世は
美しいものに
溢れているし、
また、
美しくないものも
溢れている。
私は
美しいものを
もっともっと
増やしていきたいな。
そのためには
私自身が
美しい人生を
創ること。
そのためには、
今日一日を
美しく生きる
ことだな、と
思っている。
つづく
ちょっと
皆さんに
考えてもらおうかな。
もし
自分が自分の
コーチに
なったとして、
今の自分に
一番伝えたい
メッセージは何?
コーチとして
自分自身を
クライアントに
したとして、
そのクライアント
には
本当に心の底から
成長(進化)を
願っているとして、
自分に
一番伝えたい
メッセージは何?
そして、
自分に
一番問いかけたい
ことは何?
どんな問いを
大事にして
一日一日を
過ごしてもらいたいと
願う?
本当に
ゆっくりじっくりと
これを
考えてみてほしい。
「自分を大事に
する」
その第一歩は
これだと
私は
思うんだな。
そして
これが
セルフコーチングの
基本の基本。
これ、
本当に毎日
しっかりと
続けたら、
それだけで
人生より良くなると
思わないかい?
つづく
自分の個性を
自分で
決めつけるのは
実にもったいない
ことだ。
自分らしさは
大事だが、
これが自分らしさだ、
と
決めつけない
方がいい。
これが
自分の個性だ、
などと
自己分析や
自己判断は
しなければ
しないほど
良い。
・・・と
言いたくなる
くらいに、
皆、
自分のことを
誤解している。
・・・・・・
最近またこのブログでも、
脱皮の話を
書くようになったが、
脱皮をすることで
個性が
根本から
変わる人がいる。
本当は、
「変わる」
のではなく、
まだ隠れていたものが
「芽を出す」
というのが
正確な表現だ。
私達には
隠れた個性が
本当に
たくさんあるのだ。
例えば、
最近の私の
クライアントさんである
A社長は、
これまで
自他共に認める
「リーダー」
だった。
とにかく
皆を
引っ張る引っ張る。
彼の言うことは
ある意味
「絶対」であり、
彼の出す方針
の通りに
進むことが
即、
会社の発展に
つながってきた。
そのA社長が
脱皮された。
その瞬間から
彼自身は
「引っ張る」ことを
やめてしまった。
「引っ張る」ことに
情熱が
出なくなって
しまったのだ。
彼は今、
「牽引型リーダー」
から
「調和型リーダー」
へと
変貌を遂げつつある。
そこを私が
サポートさせて
いただいているのだが、
私からしてみれば、
これまで
「牽引型」であったことが
不思議でならない。
だって、
その人の本来の
個性の
真逆だから。
よくそんなやり方で
ここまで
やってこれたものだと、
逆に感動する。
しかし
彼は、その業界では
ほぼ最高レベルの
仕事をする
会社を創り上げた。
だから
能力値が
驚くほどに
高いのだと思う。
その「能力」と
彼の「本来の個性」が
これからいよいよ
「合致」
していく。
これは
凄いことになりそう
だと、
私は
ワクワクが
止まらない。
・・・・・・
自分のことは
自分が一番よく
わかっていない。
「これが私の個性だ」
なんて
決めつけている
暇があったら、
ただ純粋に
自分の「願い」に
意識を
向け続けた方が
良い。
本当に。
人間は
無限だ。
無限に
「自分」は
開発される。
自分で自分に
枠をはめるなど、
人生の
99.9%以上の楽しみ
を
自ら捨てている
ようなものだ。
そういった意味で
もっと
どんどん
冒険しよう。
自分で
自分を
決めつけるのを
やめてしまおう。
あなたは
そんなもんじゃ
ないんだ。
つづく
よし、
進めるか。
・・・と
淀みゼロ、
何の迷いもなく
そう思える
瞬間がある。
その時こそ、
進む
チャンスだ。
私はこの「感覚」を
とてつもなく
大事にしている。
逆に言えば、
この感覚が
なければ、
進まない。
もしくは、
ゆっくりしか
進まない、
ことにしている。
私の特技は
何か?
と
問われたら、
ひょっとすると
「待つ」
ことかも
しれない。
私は
ほぼほぼ
待っている。
「その時」
が来るのを。
待てるかどうか?
が
その後の展開を
大きく左右することを
いやというほど
体験したからだ。
「待つ」
ことと
「進む」
こと。
この二つの
メリハリを
つける。
中途半端は
極力
排除することに
している。
・・・・・・
結局、
待つか進むか?
の判断力が
一気に
高まるのだと
思う。
「真本音度合いを
高める」
ということは。
真本音度合いが
高まれば、
自らの
真本音からの
メッセージが
「直観」
という形で
届く。
真本音は、
つながっている。
自分の
真本音と、
他者の
真本音。
深い次元では
つながっている。
その「つながり」
からの
直観が来る。
その直観によって
「今だ」
「今、進む時だ」
と
わかれば、
あらゆる調和の
中で
進むことが
できる。
そして
その際には
自分の中では
一切の
迷いがなくなっている。
そして、
「現実」すらも
よーく
観えて来る。
・・・・・・
今、
進む時だ。
と
直観する人が
ここから
一気に増えると
私は
直観している。
ここから
脱皮し、
そこから
一気に
進む。
そんな人が
たくさんいる。
ぜひ、
自らの
その意志と
直観に、
素直に
動いてほしい。
つづく
うーむ。
脱皮が
始まるな。
そこかしこに
脱皮の
空気感が
漂っている。
人もそう。
組織も
そう。
脱皮前の
今のこの時期を
いかに過ごすか?
が
とてつもなく
大事だ。
・・・・・・
脱皮の直前は
極めて
不安定になる。
しかも
その不安定さは
耐えられる
ものではない。
足元から
地面が
崩れ落ちる
かのよう。
すべてに対して、
不安になる。
恐怖は湧くし、
苛立ちも
高まるし、
悲しくもなる。
そして、
絶望感。
何をどうしても
結局は
何も上手くいかない
のではないか、
という心に
常に
苛まれる。
これまで
がんばって
続けてきたことにも
意義が
見出せなくなる。
すべてを
ストップ
させたくなる。
すべてを
投げ出したく
なる。
すべてから
逃げ出したく
なる。
これが
脱皮前の
兆候だ。
大きな脱皮で
あればあるほど、
この傾向は
強くなる。
そして中には
本当に
逃げ出して
しまう人も
いる。
・・・・・・
対処法は、
・・・ない。
今は
じっと
耐えるしか
ない。
もちろん
逃げても
いけない。
脱皮とは
古い皮を
脱ぎ捨てること。
それは
当の本人から
してみれば、
自分のすべてを
脱ぎ捨てるに
等しい感覚だ。
だからこそ
不安定に
なるのだが、
ここは
耐えるしか
ない。
じっと
一つ一つの
不安定な
心を
見つめるのだ。
丁寧に。
本当は
見つめるような
余裕はないと
思う。
しかし
それでも
「ちゃんとここで
脱皮するために」
という
目的を意識しながら、
できるだけ
客観的に
見つめるのだ。
ここを
じっと耐えれば、
ある瞬間に
突然、
その時は
やって来る。
・・・・・・
物事の
決断をするのも
今は
やめておこう。
すべては
脱皮後に
すればいい。
今は、
日々、粛々と
自分の
すべきことを
すべき通りに
一つ一つ
今できる最大の
力で
やっていこう。
ここを越えることが
できれば
本当に
強くなる。
人も
組織も
同じ。
脱皮の経験こそが
人を
組織を
強くするんだ。
つづく
あぁこの人は、
本当に
がんばっている
人なんだな。
この明るい
笑顔の奥から
数々の
試行錯誤と、
それに真摯に
取り組む
熱意と、
そこで
浴び続けた
苦悩達が、
ダイレクトに
伝わって来るよ。
この人は
今のこの笑顔を
創り出すために
いったいどれだけの
辛さや悔しさや
悲しみを
味わったのだろう?
この自然な
笑顔に
たどり着くために
どれだけ
他の人達からの
苦しみを
受け取り続けた
のだろう?
人は
シンプルだ。
しかし
すぐに人は
複雑になる。
でも本当は
実に
シンプルだ。
なんだ、
単純なことだったな。
と、
一番初めの
あまりに当たり前の
答えに
帰り着くまでに、
私達は
本当に様々な
体験を、
気づきを、
経なければ
ならない。
それを一般的には
回り道と
言うのかも
しれないが、
そういった
回り道にも
めげずに、
ただひたすらに
誠実に立ち向かう。
立ち向かい
続ける。
そんな人が
私は大好きだ。
そして
そんな人にしか
発することが
できない
実にシンプルな
一言が、
その人からは
実に当たり前の
ように
トツトツと
語られる。
そんな一つ一つの
言葉達を
受け取り
噛み締めながら、
私は
いつも思うのだ。
人は
シンプル
だけど、
本当に
深いものだな、
と。
つづく
勇気を持って
何かに取り組もうと
したとき、
あなたの心は
どのように
動くだろうか。
そしてその結果、
あなたは
どのような行動を
取るだろうか。
一連の自分の
心の動きと
実際の
行動の取り方には
その人なりの
法則性が
ある。
それを私は
あえて
「クセ」
と
呼んでいる。
人生経験を
積むということは、
その「クセ」を
一つ一つ
増やしていくこと
だ。
とも言える。
しかし
「本来の自分を
生きる」
ということは、
それら一つ一つの
クセを
手放すこと
でもある。
クセを
超えることでも
ある。
クセを
増やし、
クセを
手放す。
いったい
私達は
何をしている
のだろうか?
・・・・・・
クセとは
能力である。
これがなければ
私達は
生きてはいけない。
例えば、
クセという能力
があるからこそ、
私達は
自転車に
乗れるようになる。
箸を
使えるようになる。
歯を
磨けるようになる。
記憶というのも
クセの一種
かもしれない。
九九を覚えるのも
クセを
つけているのかも
しれない。
ちょっと極端かも
しれないが、
でももし
クセという能力が
なければ、
私達にできることは
激減するだろう。
しかしその
一方で、
自分についた
クセを
「私自身である」
と
思い込むところが
私達にはある。
例えば、
こういった時には
私は
こういった心の動き
をして、
こういった行動を
取る。
というクセ。
これを
「私自身である」
と思い込む。
それが
自分であり、
自分である以上、
それは一生
変わらない、と
思い込む。
クセとは
とても強烈な
能力であるが、
クセは
クセに過ぎない。
それは、
あなたでは
ない。
あなたの
パターンでしか
ない。
・・・・・・
自分には
どのようなクセが
あるだろうか?
という視点で
客観的に
・自分の心の動き
と
・実際の行動
の
パターンを
見つめて
みるとよい。
同じようなパターンが
頻繁に
日々の中で
繰り返されている
ことに
びっくりするだろう。
狭いなぁ。
なんて狭く
窮屈な中で
私は生きて
いるのだろう。
・・・と
感じることが
できたら、
しめたものだ。
その感覚が
クセを超える
きっかけとなる。
クセは
大事。
しかしそれは
超えるもの。
手放す
もの。
クセをつけて、
それを
手放す。
この連続で
私達は
「本来の自分」
を
探究し続けて
いるのだ。
つづく
力を
抜いてみる。
呼吸にのみ
意識を
向けてみる。
自分の
存在のみに
なってみる。
すると
逆に、
自分には
いかに
「余分なもの」
が
たくさん
へばりついているか?
が
わかってくる。
その多くは、
自分の心
というよりも、
人から
受け取った
もの達だ。
自分への
蔑み。
人への
妬み。
悲しみ。
憤り。
そして、
絶望。
最近は
特にこういったものが
多い。
みんな、
苦しみの中で
生きている。
しかし
驚くほどに、
その苦しみに
本人が
気づいていない。
まずは
自分が苦しんで
いることを
知ることが
健康への
第一歩だ。
実は今、
あなたには
40度の熱が
あるんですよ。
と、
わざわざ
教えなければ
ならない。
当然だが、
苦しんでいることを
教えることは
とても辛い。
教えれば
大概、
その後は自覚
できるように
なるのだが、
今度は
その
「フタをしていた
苦しみ」
と
立ち向かわなければ
ならない。
だから
表面的には
さらに
苦しくなる。
でも、
自分が40度の熱を
発していることを
知らないままに、
自分が健康だと
思い込みながら
日々を過ごす
よりは
マシなのだ。
だって、
40度の熱を
出しながら、
毎日
フルマラソンに
出場しているような
人は多いから。
どうして
そんなに苦しみ
ながら
走らなければ
ならないの?
と
単純に
訊きたくなる。
40度の熱を出しても
フルマラソンに
出場することこそが
自分の成長であり、
人生の目的に
向かうことだ、
と
みんな、
思い込んでいる
ように
私には見える。
言っておくが
人生とは、
そんなに
辛いものでは
ない。
辛くしているのは
自分自身
だろうが。
その辛さは
必要の
ないものだ。
もっと
健全に
進まないか?
そのためには、
日々の
健康管理が
大事だ。
自分が
辛い
と感じていることを
ちゃんと自分が
把握して、
適切に
対処する。
そうすれば、
そんなに
辛いことは
起きないし、
そんなに
孤独にも
ならない。
あなたは
絶望的では
ない。
絶望に
陥っているのは、
あなた
自身だ。
ということを
ちゃんと
伝えたいね。
まずは
平熱に
戻ることだ。
自分を
平常に
戻すことだ。
そうすれば
道は
ちゃんと
観えてくる。
つづく
もうすぐ
私は
あなたと出会う。
出会いの
その瞬間、
あなたは
どんな表情
だろう?
私は
どんな表情
だろう?
私は最初に
あなたに
どんな言葉を
投げるのだろう?
あなたは
どのような
反応を
するだろう?
私は
あなただと
わかるだろうか?
いや、
きっと
わかるな。
あなたは
私だと
わかるだろうか?
そこはちょっと
自信ないな。
でも
いい。
きっと私は
あなたと向き合い、
じっと
あなたの目を
見つめるだろう。
その瞬間に
何かを
合点するはずだ。
恐らく、
遠くて深い
約束を
思い出すはずだ。
それは
すぐに言葉に
できるものでは
ないだろうな。
でもきっと
思い出すはずだ。
そして
その瞬間から
何かが始まる。
私の人生は
もう一つの
波を起こすのだと
思う。
それが何かも
今は
わからないが、
それが何かは
すでに私は
よく
わかっている。
私は
あなたと
出会うために
ここまで来たのだろう。
私達が
出会わなければ
できないことが
ある。
私達は
力を尽くして
それをすることに
なる。
それはきっと
その後に出会う
たくさんの人達の
人生に
新たな波を
起こすのだろう。
その波は
さらに次の
波へ。
それは
私達の想像を
超えたものと
なるだろう。
だからきっと
私は
勇気を持って
あなたに
伝えるはずだ。
約束の
言葉を。
私達にしか
わからない
合言葉を。
それは
本当に
勇気が必要な
言葉だと
思うけど、
でも
その一言を
何の淀みも
なく
深く
純粋に
そして
自然に
伝えられる
私になるための
これまでの
人生だったんだよ。
つづく
思い出す。
自分を
思い出す。
人生とは
そのための
旅なのかも
しれない。
本来とは
異なる自分を
自分だと
思い込み
私達の多くは
生きているが、
毎日、
ほんの少しずつ
でも
ちょっとずつ
ちょっとずつ
でも
思い出し
続ければ
それだけで
私達は
満たされる。
思い込みの
自分から
本来の
自分へ。
そして、
本来の自分
から
さらに
未知の自分
へ。
本来を
思い出すから
こそ、
次の
「未知」への
冒険が
始まる。
できれば、
人生の途上で
その段階に
行けると
いい。
そんな人が
増えると、
世の中は
かなり
活性化するだろう。
なぜなら
私達人間は
「未知」
に進むことが
大好きだから。
それが
本能だから。
「思い込み」
から
「本来」
へ。
「本来」
から
「未知」
へ。
・・・・・・
思い出す。
目の前の
この人が
「誰か?」
を
思い出す。
本来のこの人は
何者だったか?
を
思い出す。
これも
人生の醍醐味
の一つだ。
ひょっとすると、
自分自身を
思い出すよりも
目の前の
この人のことを
思い出す方が
早いかも
しれない。
そして
その結果、
本来の自分を
思い出す。
人と人は
お互いに
影響を与え合い
ながら、
思い出し
合う。
本当は
そのために、
出会う。
そんな関係が
増えるといい。
・・・・・・
関われば
関わるほど、
自分を
忘れていく。
関われば
関わるほど、
自分を
失っていく。
そんな世の中を
私達は
創ってしまったのでは
ないか。
でも、
それを変えられる
のも、
私達しか
いない。
本当は、
変えようと
思えば、
すぐに
変えられる。
明日から
でも、
今から
でも。
つづく
仲間というのは
いいなぁ、
と思う。
本当に
いいなぁ、と
思うが故に、
私は
こうも思うのだ。
一人ひとりが
まだ
自律できて
いないうちは、
仲間になっては
ならない、
と。
どれだけ
相性の良い人同士
でも、
自律する前に
仲間となってしまえば、
必ず、
依存が生まれる。
お互いが
寄りかからなければ
いられない
グループとなる。
「この仲間が
いるからこそ
私はがんばれる」
という状態。
じゃあ、
仲間がいなければ
どうなるの?
ということだ。
もちろん、
人というのは
依存し合う存在
だ。
依存し合わねば
存続できないように
できている。
だからこそ
良い依存関係が
大事であり、
私はそれを
依存ではなく
「調和」
と呼んでいる。
調和とは、
一人ひとりが
ちゃんと
大地に立っている
状態だ。
一人でしっかりと
歩くことができる
人同士が、
さらに
相乗効果で力を
発揮し合い、
共に進化し合う
状態だ。
そこからは
常に
新たな何かが
生まれるし、
ある意味、
すべての人が
「リーダー」
であり
「コーチ」
である。
すべての人が
「主役」
であり
「サポート役」
である。
その状態に
なるためには、
まずは
一人ひとりの
自律が
必須だ。
・・・・・・
これからの
時代。
誰かが
誰かを
支えるような
仲間は
もう要らない。
ぐらいに
私は
思っている。
ちょっと
極端かも
しれないが。
でも、
真本音のレベルでは
もう誰も
そういった仲間を
望んでいない。
特に
若い人達からは
それを
ひしひしと
感じる。
馴れ合いは
いやなのだ。
本当の
仲間。
共に
道を創る
仲間。
私自身も
そういった仲間を
慎重に
丁寧に
一人ずつ増やして
行こう。
私は、
仲間の在り方
こそが
ダイレクトに
世の中の在り方
に
インパクトを与える
のだと
思っている。
つづく
白い龍が
空を
駆け昇っていく。
まっすぐに
上のみを
見つめ。
龍は、
あらゆるものを
手放した。
手放さなければ
昇れない
からだ。
その龍の勢いを
見れば、
人は
「いいなぁ」
と
思うだろう。
自分もあんな風に
上昇したい、
と。
あんな風に
潔く
いろんなものを
手放せたら
いいのに、
と。
でもきっと
あの龍は
特別なんだ。
凡人の
自分とは違う、
と。
しかし実は
まったく
事実は
そうではない。
龍ほど
人の苦しみを
狂うほどに
感じた者は
いない。
あまりの
苦しさに
何度も
自身を失った
者はいない。
龍ほど
悩み続けた
者はいない。
あらゆる痛みを
限界を
超えるまで
受け続けた。
ずっと
ずっと
誰よりも
ずっと。
絶望もしたし、
諦めもしたし、
自らを
殺そうとも
した。
龍は
苦悩と共に
あった。
自分の
苦悩。
そして、
自分以外の
人達の
苦悩。
すべてを
味わった。
自分だけの
苦悩であれば、
どれだけ
楽だったろうか。
他のみんなの
苦悩まで
感じてしまう
その辛さ。
見えなくても
よいものまで
見えてしまう
その辛さ。
どれだけ
自分自身を
呪ったことだろう。
そういった
あらゆるものを
龍は
すべて
引き受けた。
本当は
引き受けたという
よりも、単に
諦めただけなのだが、
本当に
諦めたら、
気がついたら
すべてを
引き受けていた。
そうしたら
同時に
すべてを
手放していた。
すべてを
手放したら、
信じられないことに
すべてが
輝き出した。
手放すとは
見捨てることだと
ずっと
思い込んで
いたのだが、
そうでは
なかった。
手放すことで
すべては
生きるのだ。
活きるのだ。
本当に
手放して
初めて
それがわかった。
わかった途端に、
気がついたら、
垂直上昇を
始めていた。
それまでは
龍なんかでは
なかったのだが、
気がついたら
白い龍に
なっていた。
そんな自分の
姿に
自分で驚き
ながらも、
龍は
天を
垂直に
昇っていく。
恐らく
この先には
一つの
「臨界」
があるのだろう。
そして
さらにその先
には、
新たな世界
が
待っているのだろう。
つづく
すべてのものには
エネルギーが
ある。
エネルギーを
発する
ということが
「存在する」
ということだ。
そして
すべてのエネルギー
には
それぞれの
波長があり、
強さがある。
もちろん
私達人間も
同様だ。
私の人や組織への
サポートの本質を
一言で表現すれば、
「エネルギーを高める」
ということに
なるのかもしれない。
ただし。
エネルギーが高まる
というのは
やる気が出る、
とか
気合いが入る、
とか
「うおっしゃーーーっ!」
と叫ぶように
なるとか。(笑)
そういう短絡的な
ことではない。
一般的には、
本当の意味で
エネルギーが高まれば、
その人は
安定し、
逆に
静かに落ち着く。
表面上の行動は
むしろ
穏やかになる。
しかし
とても
明るい。
明るいと言っても
明るさを
前面に出している
わけではない。
静かなのに、
明るいのだ。
「険しさ」が
なくなる、
という表現でも
良いかもしれない。
私は
どのような企業様でも
まずは
その時その時の
本質的な明るさ
を観る。
もしくは
感じる。
そして
エネルギーを高める
ための
方策を一つずつ
打っていく。
私がいつも
言葉にしている
「真本音度合いを
高める」
というのは、
エネルギーを高める
ための
最も基本的な
方策だ。
そして実際に
エネルギーが
高まり続けると、
どのような
人でも組織でも
ある「臨界点」
を超える。
一つの
枠が外れる
のだ。
すると、
まるでフタが取れた
かのように、
ワッとエネルギーが
溢れ出す。
眠っていた
(まだ隠されていた)
エネルギーが
まるで噴火のように
溢れるのだ。
そこからその
人や組織は
新たなステージに
入るのだが、
そのエネルギー量は、
私がいつも
拝見しているイメージで
言えば、
一気に10倍以上に
なる。
このエネルギーの
解放(開放)は、
感性の豊かな人で
あれば、
すぐに感じ取れる
はずだ。
・・・・・・
ところが。
本来は
エネルギーの開放は、
人にとって
非常に幸せなことで
あるにも関わらず、
それを
拒む人が
時々、いる。
エネルギーの開放は
本来の自分の
開放でも
あるのだが、
それを
拒む人が
いる。
その人達は
溢れ出すエネルギーの
放流の中で、
必死に
自分の身を丸くし、
固まり、
エネルギーの流れに
逆らおうとする。
本当は
エネルギーに
身を任せてしまえば
楽なのだが。
これまで私は
そういった
「拒む人達」
に対して、
随分とやさしいサポートを
してきたように
思う。
「大丈夫だよ」
「怖くないよ」
とゆっくりと
その人のペースに
合わせて。
しかし残念ながら、
どれだけそうしても
拒む人は
最後まで拒んでしまう。
そして結局は
まるで岩のように
その場に
張り付いてしまう。
そうなった時の
その人本人の
ストレスの凄さは、
尋常ではない。
もちろん
そのストレスは
周りにも波及し、
せっかくの
エネルギーの放流が
そこだけ大きく
歪んでしまうケースも
多い。
どうすれば
「拒む人」を
サポートできるか?
ここを随分と
試行錯誤して
きたが、
実は
世の中は変わった。
世の中全体の
真本音度合いは
随分と
高まってきた。
そして
エネルギーそのもの
も、
随分と高まった。
だから
サポートの方向性を
変えようかな、
と
今日、思った。
つまりは、
「拒む人達」
には
もっと
厳しくするのだ。
別に怒鳴ったり
むやみに
叱ったりする
わけではないのだが、
厳しくする。(笑)
今後のサポートは、
厳しさの中にこそ
「道」があるのかも
しれない、
という前提のもとで
行なおうと
思う。
つづく
昨日のブログでも
書いたが、
今、本当に
みんなが
「凄い脱皮」
をしようとしている
ようだ。
昨日以上に
今日、
さらに強く感じた。
私の周りは
とても真剣で
成長意欲の高い人が
多い。
だからあえて
申し上げるが、
あまり
無茶するな。
まぁ、
私が言えた義理では
ないが。
しかし
大真面目に
お伝えしよう。
無茶をしても
結果として
かなりの遠回りに
なってしまう。
無茶をしても
すっ転んで
しまうだけ。
脱皮の時期に
すっ転べば、
そのダメージ回復に
数年以上
かかるケースもある。
だから、
じれったくても
ここは
ゆっくり
じっくり
と。
一歩一歩を
しっかりと。
地に足をつけて
現実的に。
慎重に。
そして
丁寧に。
こういう進み方
ができることも、
人をサポートする
力を
大いに高めてくれる。
速くも
ゆっくりも
両方のスピードで
進める自分に
なること。
新幹線にも
なれるし、
鈍行にも
なれる。
あらゆる自分を
自由自在に
選択できること。
これこそが
大事。
転んでは
ならない時は、
転んでは
ならないのだ。
早く
次のステージに
行きたい気持ちは
重々に
わかる。
だからこそ今は、
私のこの
アドバイスを
聴いてほしい。
ゆっくり
じっくり
と。
慎重に。
丁寧に。
つづく
自分が大事に
していたことや、
自分がいつも
こだわっていたこと、
そして、
自分が
「これが自分だ」と
「自分ならではだ」と
力を込めてきていたこと。
それらが
ある日ある瞬間に、
突然のごとく
どうでもよくなる
ことがある。
それが
脱皮の瞬間
だ。
突然どうでも
よくなったら、
いっそのことを
それを
脱ぎ捨ててしまえば
いい。
勇気が要るかも
しれないが、
脱ぎ捨てて
しまえばいい。
すると、
フッと力が
抜ける。
最初は
ゼロになってしまった
感覚。
すべてを
失ってしまった
感覚になるかも
しれない。
無色透明に
なってしまったと
感じるかも
しれない。
でも、
それでいい。
その後、
奥の奥の方から
わずかずつ
「光」が
観え始めてくる。
その光は
徐々に大きくなり、
しだいに
あまりの眩さに
慄然とすることに
なるだろう。
それが
自分の全身に
行き渡った時、
あぁなるほど、
これが私の
本来のエネルギーだ
と
わかる。
わかれば、
それが「普通」と
なる。
そして
「次」に自分が
すべきことや
したいことが
観えてくる。
結果として、
それは
これまでとまったく
同じ道かも
しれない。
しかし、
一度、ゼロになった上で
その道に戻るのだから、
それはもう
強い。
またたとえ、
これまでとは
まったく別の道に
行くとしても、
いずれは
どこかで
これまでの道も
生きてくる。
そういった
人生の展開が
あるだろう。
ただし
それらを
意図的、思惑的に
考えながら
行なってはならない。
すべては
自分に委ねるのだ。
自分の「脱皮」に
委ねるのだ。
なぜこれを
書いているかと
言えば、
またもや
脱皮を迎えている
人や、
これから迎えようと
している人が
急増している感覚が
あるからだ。
ここ数日で
一気に高まった。
また私達は
次のステージに
向かうようだ。
つづく
がんばっていない
人には、
「がんばれ!」
と
私は伝える。
しかし、
よ〜くがんばっている
人には
「力を抜いて
適当に」
と
私は伝える。
本当の意味で、
「力を抜いて
適当に」
がどういうことかを
知ることができるのは、
すでにここまで
充分に
がんばっている
人のみだ。
がんばっても
いないのに、
力を抜いてしまえば、
それはただ
止まってしまって
いるだけ。
サボって
しまっている
だけ。
「がんばる」
というのは
当たり前のことだと
私は思うのだ。
・・・・・・
以前に
こう聴いたことが
ある。
「がんばる」
という言葉の
語源は
「我を張る」
だ、
と。
だから決して
良い意味では
ない、
と教えてもらった。
なるほどねぇ、
と
思ったが、
でもやはり私は
思うのだ。
我を張って
がんばることすら
したことのない人は、
まずは
我を張ってでも
良いので
がんばった方が
いい、と。
私はよく
「真本音で生きる
ことが大事」
と言う。
私の言葉を聴くと、
「じゃあ自分の
真本音とは何だろう?」
と
思い悩み、
逆に止まってしまう人が
いる。
しかし
そういった傾向が
現れるのは、
これまで
がんばってきていない
人にこそ
多い。
がんばっていない
人ほど、
すぐに深刻に悩んで
止まってしまう。
深刻さは
真剣さの
対極にある。
深刻さとは、
真剣に進まない
自分への
自己弁護の行為に
過ぎない。
・・・とまで言うと
ちょっとキツいか?
私がなぜ
真本音という
存在に気づき、
真本音度合いを
高める人生に
転換できたかと言うと、
その最も大きな
理由は、
もともと
反応本音でいっぱい
だったからだ。
本当に反応本音だらけの
人生で、
その時の自分を
振り返ると、
まったくもってもう
目も当てられないが、
それでも
間違いなく私は
がんばってきた
からだ。
我を張ろうが
何だろうが、
確かに自分なりに
がんばってきた。
がんばるのが
当たり前だと
思いながら。
それは
まったくもって
自己満足の
そして自己愛の
がんばりであったが、
そのために
たくさん転んだし、
たくさん
ぶつかったし、
たくさん
傷つけ合ったが、
でも
もしあれらがなかったら、
「真本音」には
たどり着いて
いなかったろう。
だから
がんばってもいないのに、
真本音が、真本音が、
と言う人には
まずは
そんなことはどうでも
いいから、
自分なりに
がんばってごらん。
と、
私はやはり
伝えるのだ。
おかげさまで、
最近の私の
クライアントさん達には
私はいつも
もうそんなに
がんばらないで。
もっと
適当に。
自分が背負わないで。
もっと
力を抜いて
いい加減に行けば
いいですよ。
と
ばかり
お伝えしている。
みんな本当に
必死に
がんばってきた人達
ばかりだ。
だからこそ
「真本音」
が効く。
「真本音度合いを
高める」
ことが、
根っこから
効いてくる。
そう考えると、
今の世の中
がんばっている人は
多い気がする。
「がんばる」の
次のステージに
進む人が
多い気がする。
そういう人を
たくさん
サポートしたいな。
つづく
邪念があったって
いいじゃないか。
邪念があるのが
人間なのだし。
そここそが
人間の価値では
ないか?
邪念をなくそう
と
努力することより、
もっと
力を込めるべきことが
ないかい?
邪念があろうと
なかろうと、
私達には
できることがある。
邪念があろうと
なかろうと、
私達の中には
いつだって
真の願いが
ある。
自分の選んだ
人生の目的が
ある。
私はこのために
生きていきたいんだ!
という
あまりにも
深くて優しい
想いがある。
それを私は
真本音と名づけたが、
別にそれは
真本音と名づけ
なくなって
最初からずっと
ここにある。
その想いに
基づいて
次の一歩を決める
ことは
私達の誰だって
最初から
できることだ。
だから、
邪念のせいに
している
場合ではないんだよ。
邪念を
取り払ってから
私は進みます。
邪念のない
自分つくりをしてから
私は進みます。
・・・そんなのは、
単なる言い訳に
すぎない。
進もうと
思うのならば、
すぐに
進めばいいでは
ないか。
一気に100mも
進め、なんて
言ってない。
たったの一歩
進めばいい。
できる一歩を
進めばいい。
そうすれば、
その次の一歩を
また進むことが
できる。
人生は
短いが、
時間は
たっぷりある。
進むための
時間はね。
邪念が
どうのこうの
ではない。
進みたい
道があるならば、
誰からの
強制でもなく、
あなたのペースで
進めばいいんだよ。
つづく