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- 2021年 8月
ものを言わぬ
人。
じっとこちらを
見ている。
まるで亡霊の
ような。
しかしそれは
紛れもなく
その人の実在。
ただ寂しそうに
こちらを
見つめている。
私はその
無表情の中に
本当の表情を
探そうとする。
私の解釈は
すべて手放し、
ただその
無表情に
透明な意識を
向ける。
と同時に、
様々な想い、
つまりは
恐らくその人の
と見られる想い達が
ダイレクトに
伝わってくる。
それは最初
言葉にならぬもの
であるが、
こちらの感覚
にすらなる前に、
私の目から
ツーっと
涙がこぼれた。
その後だ。
この人は今、
とても苦しんでいる
と
認識したのは。
何か
苦しい目に遭った
のではない。
それであれば
むしろ
わかりやすいだろう。
その苦しみは
自らが
日々、着実に
招いているもの。
その苦しみは
自らを
小さな枠の中に
無理に、強引に
閉じ込めようとする
その生き方に
よるもの。
ということが
わかった。
あえてそれを
言葉として
表すならば、
「ここから出してくれ」
だろう。
人は
自分で自分を
閉じ込める。
そして実は
その苦しみが
ひょっとすると
私達にとって
最大のものかも
しれないのだ。
これは、
コーチングでは
ないな、と。
「サポート」の
範疇ではないな、と。
この人は
「ヘルプ」を
求めている。
無表情のまま
ヘルプを。
私はその
能面のような
顔の奥に、
阿鼻叫喚を
感じ取り、
またため息を
ついた。
こんな人が
今、
本当に
増えている。
つづく
じっと私は
成り行きを
観察している。
いろんな
エネルギーが
融合したり
分離したり。
渦を巻いたり
爆発したり。
その中から
一本の細い
エネルギーの筋が
スーッと
降りてきた。
そして
地上に突き刺さる。
轟音と共に、
激しい光の
開放。
無数の火の玉
が四方八方に
飛び散っていく。
いったいこれは
どうなることか。
到底、手に負えない
現象の数々に
私はただ
茫然とするのみ。
本当に
観察することしか
できない。
気がつくと
私以外にも
この成り行きを
観察している人達が
いる。
私の周りに
集まってきている。
皆、茫然と
している。
「これも
自然の流れと
言うのか・・・」
と
一人が呟く。
「ここまで
頑張ったんだけどな」
と
さらに一人が。
努力というのは
このように
一切、報われない
ことがある。
どれだけ着実に
積み上げても
それでも
一気に崩れ去る
こともある。
そんな時は
茫然とするしかない。
しかし私達は
それでも
知っている。
この激しい現象の
最中にも、
次の新たな芽が
生まれつつある
ことを。
その芽をこそ、
私達は
探し出そうと
ここに
集まってきた。
「あるのか?
本当に・・・」
「あるさ。
我々がそれを
信じなきゃ」
「そう、
きっとあるさ」
と
皆が口々に
呟き合う。
希望というには
あまりにも
遠い
希望の光。
絶望という
言葉が
あまりにも軽く
響くこの惨状。
それでも
やはり
我々は
探し出さねばならない。
そうでなきゃ、
ここまで来た
意味はない。
「行くか?」
「そうだな」
「行くか・・・」
そろりと
少しだけ進む。
惨状は
さらに激しさを
増している。
それでも
さらに
そろりと進む。
今はこれしか
できないが、
たったわずかでも
できることを
するしか
ないではないか。
・・・。
思い出すな。
これが
始まりだったな。
つづく
悲しみ。
人間は
悲しい生き物だ。
その悲しみを
私は
この一週間、存分に
味わったように
思う。
この仕事に
就いてから
私は何度も何度も
泣き続けたが、
昨晩もついに
堪えきれなくなり、
ずっと
涙を流し続けた。
人間は
悲しいな。
この感覚は
何度体験しても
慣れることはない。
もし仮に
慣れたとしたら
私はその瞬間に
この仕事と
私自身の使命
を
捨て去るだろう。
悲しみの
ちょっとの隣には
もちろん、
憤りもある。
寂しさも
絶望も
ある。
でも考えてみれば
そういったもの達は、
ずっと
在り続けている。
なくなることは
あり得ない。
この世で生きている
限りは。
人生は
悲しいか?
人生は
悲しいな。
人は
孤独か?
人は
孤独だな。
例外のない
この世の中で
それでも私達は
生きていかねば
ならない。
生きているか?
生きているな。
悲しみは
生きていることの
証だ。
つづく
今日、
向き合わねば
ならぬ
人がいる。
今日、
もし向き合わねば
お互いの人生が
大きく変わって
しまう。
今日、
もし向き合わねば
お互いの周りの
人達の人生も
大きく変わって
しまう。
そんな重要な
節目がある。
今日で
なければダメ。
昨日でも
明日でも
ダメ。
今日の私と
今日のあの人で
なければ
ダメなのだ。
これが
人と人の関わり。
その節目を
ちゃんと丁寧に
一つずつ
果たしていく。
それが
調和の人生の
最低条件だ。
そして
人を大切にする
とは、
このようなタイミングを
大切にする
ということでもある。
ただ闇雲に
関わればいい
というものではない。
一人、一人、
丁寧に。
一つ、一つ、
丁寧に。
つづく
自分の踊りを
極めようと
ますます研鑽する人
と、
自分の踊りを
諦めてしまう人。
その二極化が
さらに進んでいる。
せっかくもうあと
一歩で、
一作目の踊りが
完成し、
それが基礎となり
今後ますます自分らしく
魅力に富んだ踊りを
次々に発明できるのに、
その直前で
踊りの開発を
放棄してしまう。
そんな人だって
いる。
人の踊りを
踊ったり、
もしくは
踊りそのものを
やめてしまったり。
それは
面白くないと
思うんだが・・・。
踊るのが
怖いのかい?
自分の踊りを
みんなに見せるのが
怖いのかい?
それともただ
面倒臭いだけ?
誰もが
その人にしか
できない踊りがある。
それを見れば、
みんなが
拍手喝采する。
だって
その人にしか
できないから。
とても独自の
魅力に溢れているから。
別に
拍手喝采のために
踊らなくても
いい。
でも、ちゃんと
自分の踊りが
できれば少なくとも、
自分が自分に
拍手喝采は
したくなるもんさ。
それは
自己満足とは
言わない。
それは本当に
嬉しいことだよ。
さぁ・・・、
それは本当に
あなたの踊りか?
自分のやりたい
踊りか?
自分ならではの
踊りだろうか?
つづく
今、目の前に
20年前の
私がいる。
20年前と言えば、
そろそろ限界を
迎えようとしている
私だ。
私は幸せだ、
と
思い込みながら、
本来の私とは
まったく別の毎日を
送り続けていた
日々。
もちろん
「真本音」とは
まだ出会っていない。
でもその時の私は
「私はもはや
完成された」
と思っていた。
そんな当時の私が
今、
目の前にいる。
思い出したよ。
当時の私は
鏡で自分の顔を
見るのが嫌だった。
なぜなら
自分の顔を見ると、
流していない
涙が見えたから。
自分は幸せな
はずなのに、
鏡の中の自分の
目からは、
血の涙が
流れ続けているのだ。
それは
どす黒く、
ネバネバした
とても嫌な涙だった。
そんな涙を
流し続けている
どす黒い顔をしている
私が
今、ここで
私の目の前で
じっと
私を見つめている。
過去の自分と
対峙、だ。
きっと
何かを伝えに
来たのだろう。
そうか・・・。
伝わった。
彼は私に
「助けてくれ」
と
言っている。
もう限界だ、
と。
そう言えば、
また思い出した。
真本音を見つけた
直後の私には
よく、
未来の私が
私を助けに来て
くれた。
その時その時で
大変的確な
アドバイスをくれたっけ。
もちろん
そんな妄想のような
アドバイス、
信じない私もいたが、
しかし結局は
どうにもこうにも
そのアドバイスを
拒絶できず、
その通りに動いた
私がいた。
おかげで
道が開いたっけな。
そうか。
今の私が
助けに行くわけか。
20年の時を
超えて、な。
つづく
人には怒り
というものがある。
それは
マグマのように
熱く、
心と体を
焼き続ける。
その怒りを
抑えねば、
と
多くの人は努力する。
怒りとは
一つの
エネルギーだ。
それを
抑えつけようとしても
それは土台
無理な話だ。
変な抑えつけを
すれば
せっかくのエネルギーが
腐る。
腐ったエネルギーは
自分の心を
腐らせる。
もちろん
怒りに任せて
人を傷つけては
ならない。
しかし
怒りによって
自分を傷つけても
ダメだ。
怒りを
愛せ。
そんなことは
無理だと
決めつけるな。
怒りは
自分の心だ。
自分の心で
あるならば、
それは必ず
愛しきることは
できる。
抑えつけるから
怒りは腐り
さらに反発する。
抑えつけるから
手に負えなく
なる。
怒りは
自分の心だ。
自分の心は
何があっても
愛せ。
愛するとは
肯定すること
ではない。
愛するとは
ただあるがままに
向き合うこと。
可能であれば
抱きしめながら
向き合うことだ。
怒りの中身は
何であっても。
どのような怒りで
あっても
それは自分だ。
自分だ。
自分なら
自分で
愛せ。
つづく
自分の生の姿を
自分は見たことが
ない。
誰もが
そうだろう。
私の姿は
鏡を通してしか
知らない。
だから自分が
普段どのような
空気感を
発しているか?
誰も
わかっちゃいない。
自分のことを
一番知っているのは
自分自身だ、
という考えは
やはり傲慢だろう。
自分のことを
一番わかっていない
存在こそが
自分である、
くらいのことは
言えるのではないか。
私はそれを
10年くらい前に
痛切に知った。
もうちょうど
10年になるんだな。
2010年から2011年
にかけて、
私は自分の
「実在」
を、
次々に体感することに
なった。
そこで観たものは、
自分の知らない
自分ばかりだった。
自分の知らない
自分が
無限に溢れ出てくる。
そのほとんどは
到底、自分とは
思えない
自分の姿だった。
自己イメージが
一気に変わった。
「これが私だ」
というイメージが
いかに
浅く淡く儚いものかを
毎日、
痛感し続けた。
では、
「これが私だ」と
思い込んでいた私が
描いていた
あの夢は、
あのビジョンは、
いったい何だったの
だろうか?
という疑問と
疑念。
いったんは
すべてが
わからなくなった。
すべてが
白紙になった。
ある意味、
あの時に私は
生まれ変わったのかも
しれない。
自分が自分のことで
信じていたもの、
自分が自分のことで
守っていたもの、
自分が自分のことで
描いていたもの。
それらが
気泡のように
消えてしまう。
今、
そんな体験をしている人
は多いのではないか。
でも、
それを恐れては
ならない。
それは大事な
ステップだ。
本来の自分を
取り戻すための、ね。
つづく
どんな花を
咲かせたいか?
イメージしてみよう。
なりたい自分像を
花に喩えるのだ。
ただし、
理屈じゃない。
直観的に
映像化する。
私はこんな時、
いつも
スーッと一本の
まっすぐな茎を持つ
青紫の一輪の花を
イメージする。
なぜか
そのイメージが
湧いてくる。
20年間、
変わらない。
その茎は
とても細いので
力強さは
全然感じない。
しかし
常にまっすぐだ。
とは言え、
いつもしなやかに
しなる。
風にしなるが
すぐに元のまっすぐに
戻る。
そして
青紫の花びらは
派手さは全くない。
一言で言えば
地味だ。
でもどこか
可愛らしい。
こんな花のイメージを
見つめていると
到底、自分のことだとは
思えないのだが、
なぜかいつも
そのイメージが
浮かぶ。
その
青紫の一輪の花が、
今、
超巨大になって
私の目の前にある。
50mくらいの
巨大さだ。
細いと思っていた
茎も、
高さが50mもあれば
大樹の幹のように
太い。
いったい
どうしたことだろう?
いつの間に
こんなにデカく
なったのか。
しかしこんなに
デカくなっても
地味なものは
地味だ。笑
何も語らず、
何も訴えず、
ただまっすぐに
立っている。
デカくなろうが、
小さかろうが、
そんなことは
意に介していない。
あぁ確かに
そういう泰然とした
自分ではありたいものだ。
つづく
今日は皆さんに
問いを出そう。
次の問いに
直観的に
答えてみよう。
・・・
今日という一日の
始まりと終わりで
私はどんな変化を
創り出そう?
・・・
この問いに
直観的に答えた
上で、
さらに次の問いに
直観的に
答えてみよう。
・・・
その変化は
どんな影響を
生み出すだろう?
・・・
ちなみに、
私自身に最初の問いを
投げてみたら、
「直観の仕方」
という
答えが浮かんだ。
今日は日曜だが
結構仕事があって、
恐らく仕事を通じて
直観の仕方に
新たな方法が見つかる
のではないかな。
そして
二つ目の問いに
ついては、
「生産性大幅UP!」
と出た。
おぉ、
これは嬉しいねぇ。
さて
皆さんはどうかな?
つづく
まるで
渦を巻くような
私の中心軸が
観える。
中心軸が
超高速回転を
しているのだ。
こういうときは
きっと
何かを振るい落とそう
としているのだろう。
そして結果として
私自身が
開放される。
開放前の
超高速回転。
人は自分を
開放する。
何度も何度も。
そうしながら、
本来の自分を
取り戻していく。
本来の成長とは
服を着込む
ことではない。
分厚く
理論武装を
していくことでは
ない。
真逆だ。
どんどん
余分な服を
脱ぎ捨てていく。
素っ裸に
近くなっていく。
それが
本来の自分に
戻ることであり、
本質的な
進化だ。
今のこの
私自身の超高速回転を
観ていると、
今回はきっと
随分余分なものを
脱ぎ捨てるのだろう。
もう
余分なものは
なくなったな、と
これまでも
思ってきたのだが、
でも何度
そう思っても、
次から次へと
脱ぎ捨てるものは
ある。
それが
人間なんだな。
今回の開放は
きっと
大きい。
それにより
私自身がまた
どのように変化するか
は
まだわからないが、
特に気にせずに
進もうと思う。
進みながら
いろいろわかって
くるだろう。
変化したことは
わかるが、
何が変化したかは
わからない。
・・・というのを
楽しむのも
人生の醍醐味だと
思うんだ。
つづく
時間を
大切にする。
その最も
基本は、
今、
何をしないか?
を
決めることだ。
人とのコミュニケーションを
大切にする。
その最も
基本は、
今、
何を喋らないか?
を
決めることだ。
いずれも
自分がやらないことを
決める。
スッキリと。
これが
調和を生み出す。
私達は
余分なことを
し過ぎだ。
不調和の
ほとんどの原因は、
余分な何かを
する
ところにある。
余分な行動、
余分な決断、
余分な一言、
余分な気遣い、
余分な迷い、
・・・
何をしないかを
決めるとは
本質的には
今、
手放すものを
決める
ということだ。
やはり、
手放すことは
大事。
手放す力
を
つけよう!
という言い方でもいい。
これが
人生展開を
大きく左右するな。
つづく
自分の内側に
縮こまっているよりも
外へ外へ
意識を向けよう。
答えは自分の
中にはなく、
答えは世界が
教えてくれる。
ただし、
それは
自分の願いと
結びつかねば
ならない。
願いと世界が
繋がる時、
初めてそこに
カタチが
現れる。
私達は
願いをカタチにする
ために
ここにいる。
カタチの仕方を
世界は
教えてくれる。
世界とは
私自身であり、
私とは
世界である。
今、世界の風は
強く、
流れは速く、
そして
とても透明だ。
今はまっすぐに
その風を
受けてみるといい。
だから
内側に縮こまって
いる場合ではない。
答えが
わからなければ、
外に
向かえ。
私達は
世界であり、
世界は
私達だ。
つづく
今の私は
本来の私じゃない。
・・・という
強烈なメッセージが
その人から
ダイレクトに届く
ことは多い。
イメージで言えば、
まるで魂のような
強烈な光が
その人の体から
私へと
撃ち込まれる。
その光を
強い圧迫のもとに
受け取ると、
一瞬であるが、
本来のその人
の姿が
目に映るのだ。
どころか、
まるで私とずっと
そこに一緒に
いたかのような
感覚となる。
すると、
実際に今
目の前にいるその人
の姿が、
急激に
嘘っぽく見えてくる
から不思議だ。
この人は今、
一生懸命に私に
語りかけているが、
その一言一言は
この人の本来の言葉
ではないのだな、
と
よくわかるようになる。
で、
多くの場合、
ダイレクトに問うて
みる。
それは
本来のあなたの
想いですか?
と。
その途端に
その人は
大きく揺らぐ。
グラグラ揺れて、
まるで
陽炎のように
なる。
人は
弱い。
本来の自分では
ない自分のままでは
強烈に
弱い。
その状態で
現実に立ち向かおう
としても
道を開くなど
土台無理な話だ。
本来の自分
でない自分で
いったい
何をしようとするのか?
そこに
どんな価値がある?
なぜそんなに
本来ではない自分に
執着する?
とは思うのだが、
でもそれもまた
人間。
本来の自分と
そうでない自分。
せめて
自分のことは
それくらいは
自分で
区別をつけられるように
なると
いいよなぁ。
つづく
明るい光の中の
一本道を
私は
まっすぐ走っている。
なぜか
息は切れない。
どころか、
スピードを上げれば
上げるほど、
体は楽になっていく。
まだまだ
スピードアップしたいと
望むのだが、
一方で
これ以上はまずい
と
冷静に見つめる
自分もある。
上手く言えないが、
これ以上のスピードを
出せば、
私の体は分子レベルで
崩壊するような気がする。
今はここまで、
今はここまで、
と
自制しながらも
今出せる最大スピードを
維持する。
周りの光は
渦を巻いているように
見える。
いっそのこと
私も光そのものに
なってしまいたい。
しかしそれは
この世から消える
ことだともわかる。
やはりこれが
今の最大か。
正直に言えば、
今はまだ
止まっているのと
変わらない。
進んでいるうちには
入らない。
とすら
私は思う。
この世の進みは
遅い。
何もかもが
遅い。
何もかもが
焦ったい。
私はこの人生で
「待つ」ことを
学んだ。
変な言い方だが、
「待つ」力を
養った。
今こそ
待たねば。
自らは走りながらも
待つのだ。
私の周りに
気配がある。
ずっと私は
独りだったが、
少し前から
気配が漂うように
なった。
それが日々、
実感を増している。
もうすぐ
合流だ。
合流できたら
一つ
ステージが変わる。
ステージが
変われば、
もう少し
スピードアップは
できるだろう。
合流を
待つ。
今は合流を
待つ。
つづく
一点。
今、
見つめるべき
一点は
何だろう?
これだけは
見つめ続け
なければならない。
これだけは
目を離しては
ならない。
そんな
一点は
何だろう?
今の流れは
急流だ。
過去に経験が
ないほどの
スピードだ。
流れには
乗っている。
気持ちよく
風も切っている。
このまま行けば
良いのだろうが、
こんな時ほど
勢いだけに
依存するのは
危険なことだ。
こんな時ほど
自分自身の中には
注意を喚起すべき
一点
が生まれる。
それは
ますます流れに
委ねるための
指針となる。
最大スピード
だけど
ちゃんと一歩一歩
着実に
物事を進めるための
大いなる視点
となる。
濃い一点が
発生している
はずだ。
濃い墨汁が
ポツンと
置かれたような。
静かに自分と
向き合い、
静かにその
一点を
見つけ、
見つめると
いい。
つづく
時々、
とても強いフィードバックを
することがある。
否定的なこと
ではない。
むしろ
肯定的なことが
多い。
例えば、
あなたには
こんな力がありますよ。
とか
あなたは
こんなことを
願っていますね。
とか。
あえて
断定的、絶対的な
趣で
お伝えする。
そうするには
もちろん
それだけの理由が
ある。
その人から
凄まじいエネルギーが
私に向かって
襲いかかってきている
からだ。
まるで竜巻のような
エネルギー。
そしてその向こうに
裂け目が
観えるのだ。
その人自身の
裂け目。
その裂け目からは
さらに
凄まじい光が
溢れようとしている。
こんな時は
急がねばならない。
変な表現に
なるが、
コーチングなぞ
している暇はない。
一刻も早く
伝えなければ、
そのタイミングは一瞬で
過ぎ去ってしまう。
だから
伝える。
ダイレクトに。
伝えられた本人は、
多くの場合、
私のフィードバックを
受け止められずにいる。
私の言うことを
信じられないのだ。
それでいい。
その場は
どんな状態になっても
いい。
ただそれでも
断定的に
インパクトを持って
伝えるべきだ。
そうすれば
その「裂け目」は
その人に
残る。
あとはその人自身が
それを
自ら育てていく。
無意識に。
ところが、
最近はそんな私の
フィードバックを
そっくりそのまま
受け取り、
受け入れる人が
増えてきた。
なるほど。
そうかもしれません。
・・・と。
これも一つの
潮流なのか。
私はそこに
希望を感じる。
つづく
霧雨の中に
立っている。
周りは
暗い霧に閉ざされ、
私以外は
何も見えない。
存在のない
世界に
一人。
雨粒にならない
くらいの雨粒は、
私の肌に
こびりつく。
濡れた服も
こびりつく。
寒い。
移動して
どこか暖かな部屋に
行きたい。
しかしここが
どこか
わからないのだ。
いつからここに
立っているのか、
何のためにここに
立っているのか、
思い出せない
のだ。
人の気配は
なく、
私は孤独だ。
しかも
不快しかない。
いっそのこと
すべて
絶望してしまえば
開き直れるかも
しれないが、
そこまででも
ない。
この
中途半端さ。
中途半端な
苦痛。
中途半端な
孤独。
だから呆然と
佇むしかない。
辺りはさっきより
薄暗くなって
きている。
きっとこのまま
夜を迎えるのだろう。
私はいつまで
ここに
いるのだろうか?
何のために
ここに
いるのだろうか?
こうやって
何もわからなく
なる時、
そんな時に
限って、
私は自分の
命の鼓動を
感じる。
ドク、ドク、・・・と
一定のリズムで
鼓動は続く。
こうやって私は
生きているし、
ここには
確かに
命がある。
私は日々、
この命を感じながら
存在し続けている
存在だ。
すべてが
わからなくなった
時には、
その事実だけが
たった一つの
真理のように
私に
突きつけられる。
私は
生きている。
だから
苦痛を感じる。
だから
孤独を感じる。
生きるとは
感じること。
何もわからなく
なっても
感じ続けること。
これから
夜が来るのだろう。
だから
ますます
わからなくなるのだろう。
でもきっと
私は夜通しここに
立ち続けるのだろう。
私はただ
待ち続けるの
だろう。
世が開けて、
次に何かが
見えるのを。
命を感じながら
待ち続けるの
だろう。
つづく
目の前の
物事
一つに、
一つ、
魂を込める。
一つ、一つ、
に
丁寧に
魂を込める。
誠実さとは
そういうことだと
思う。
疲れたら
休めばいい。
魂を
込められない
なら、
休めばいい。
ちゃんと
自分の状態を
整えて、
ちゃんと
物事に向き合える
自分になれたら、
一つ、
誠実に
魂を込めて
取り組む。
真摯に生きる
とは
そういうこと
だろう。
自分の人生を
生きる
とは
そういうこと
だろう。
こなせば
魂は
擦り減っていく。
こなせば
命は
擦り減っていく。
それは
疲弊の人生だ。
単純な
ことだ。
目の前の
一つに
一つ
魂を。
つづく
誰にも
発想の源
がある。
それは
すべての意図を
超えた
場所にある。
心で言えば、
奥の奥の
そのまた奥に
ある。
もしそこに
たどり着くことが
できれば、
それは
その人の
源泉だ。
常にそこから
人生における
あらゆる
大切で重要な
発想が
トツ、トツ、トツ、・・・
と生まれ続ける。
それを
拾い上げる度に
その人は
一つずつ
自由となっていく
だろう。
自由とは、
人によって
異なる。
その人には
その人なりの
自由
を感じる人生が
ある。
この人生の歩みを
続けることで
「私は自由だ」
と思える、
そんな歩み方が
ある。
それらはすべて
源泉から
生まれる発想の
一つ一つを
実践し続けることで
成されていく。
源泉を
見つけよ。
と
すべての人に
伝えたい。
源泉を
見つけよ。
それ以外の場所
からの発想は
すべて
あなたを縛る
ことになるから。
つづく
地に足をつけて
立っていると、
そのまま上を
見上げると、
空を自由に
飛び回る自分を
見つけることがある。
二つの自分が
同時に存在している。
奴は空の上から
何を眺めているのだろう?
と
疑問に思っていると、
奴の想いが
伝わってくる。
自分同士の
会話。
コンビネーション。
自己対話力が
高まると、
こういうことが起こるので
楽しい。
二つの自分に
なれるということは、
もっと増やせるのでは
ないか、と
そう思うのは
自然の流れだろう。
だから
3つ目の自分が
出てきた。
ということは、
4つ目も。
5つ目も。
いや、
もっともっと!
と
やっている内に、
自分が
どんどん増えていく。
気がつけば
世界全体を
無数の自分が
覆い尽くす。
自分が無限に
なることで
世界と一つに
なっていく。
そして
ある瞬間にフッと
まるで
何かから開放された
ように、
ストンと
今ここにいる自分に
戻る。
今ここにいるのだけど、
世界も自分である
という
感覚はそのままだ。
自分が光に
包まれているか、
光そのものが
自分なのか、
よくわからないが、
実に満ち足りた状態で
ここにいる。
そして
この状態で仕事に
取り掛かると、
実に素晴らしく
捗る。
生産性100倍。
すると、
そんな自分の中に
さらに明るい
新たな光が
生じている。
その光の中に
入ると、
またフッと
ここに戻る。
するとさらに
自分は
静謐になっている。
こんな時だ。
新たな道が
観えてくるのは。
つづく
転換点に
いる時は、
不安定さを感じる
ものだが、
しかしそんな時は
自分の中心軸に
意識を向けるといい。
中心軸は
スーッとまっすぐか?
細くても
構わない。
スーッと
一直線に
伸びているか?
それを
確認しよう。
心がどれだけ
不安定でも
中心軸が一直線なら
大丈夫。
常に
「中心軸の自分」として
現実に向かおう。
転換点とは、
未知の領域への
入り口なので、
不安定なのは
当たり前。
むしろその
不安定さを
味わおう。
もし
中心軸が曲がっていたり、
途切れていたり、
中心軸そのものが
なくなっていたり
したら、
その転換点は
恐らく転換点ではない。
転換点だと
思っているだけで、
実は「止まってしまっている」
可能性がある。
そんな場合は
今一度、
自分の生き方を
再確認する必要がある。
そのためにも
現実とちゃんと
向き合おう。
自分が今、
本当に取り組むべきことは?
自分にとって今、
最も大切な課題は?
そういった基本的な
ことを、
改めてちゃんと
見つめ直そう。
本当は今、
取り組むべきことが
あるにも関わらず、
そこから目を逸らすことで、
私達にはまるで
自分が転換点にいるような
感覚となる。
転換点なので、
ここを越えればまた
安定するさ、と
自分に希望を与えるが、
残念ながら
そのような展開は
ない。
本来の転換点
とは、
転換点であるが
故に、
中心軸はより
明確に
明快に
現れるものだ。
つづく
何かが
おかしい。
理由は
わからないが、
どうしても
スッと
こない。
何かが
引っ掛かっている。
その微妙な
感覚。
そこにいかに
敏感でいられるか?
これが私は
人生を決めると
思っている。
何かが
おかしい。
何だろう?
この「?」と
どれだけ向き合うか、
によって
人生は決まる。
向き合った結果、
その「何か」を
もし掴むことができたら、
では私は
どうするか?
という、次の
「?」に
向かう。
そして
ほんのわずかでも
答えらしきものを
見つけたら、
即座に
実行に移してみる。
進んでみる。
つまりは
「?」に敏感に
なりながら、
進み続ける。
止まらない。
・・・これが
自分らしい人生を
創り出す。
「自分らしさ」を
誤解している人は
多い。
「自分らしさ」を
頭で考えているのだ。
そこに答えは
ない。
「私は今、自分らしい」
などと
自己評価している
うちは、
自分らしくは
ないのだ。
それは頭で考えた
解釈に過ぎないし、
幻想に過ぎない。
自分らしさとは
「行動」である。
自分らしさは
それを見た
周りの人達が決めて
くれる。
「あぁ、あの人らしいな」
と。
本人は
そんなところに
視点はない。
本人はただ、
自らに自然に湧く
「?」を抱きながら、
遮二無二
進んでいるだけだ。
つづく
身に沁みる経験
というのが
誰にもあると思う。
身に沁みる経験
とは、
ほぼほぼ
自らが引き寄せている。
だから、
なぜ身に沁みたか?
を
ちゃんと深堀りする
必要がある。
そこでの気づきが
自分にとっては
とてつもなく大事な
指針となる。
身に沁みたら、
その
身に沁みている
心の感覚に
素直になること。
自分の都合の
良いように
頭で強引な解釈を
しないこと。
そして、
必要以上に
自分を責めないこと。
オススメの
問いは、・・・
身に沁みた私の心は
何を叫んでいる?
身に染みた私の心は
何を後悔している?
私にどんな強い
願いがあるから、
こんなに身に沁みて
いるのだろう?
今回の経験で
私の願いは
変化するだろうか?
今の私に必要な
栄養は?
この経験で
私が取り戻したものは?
私は何に
凝り固まっていた?
この経験を通じて、
私は何を変化させ、
何を変化させずに
進もうか?
・・・
身に沁みたら、
ちゃんと最後まで
とことん
身に沁みよう。
つづく
一度、
「世界」そのものと
なってみよう。
「世界全体」
が
自分なのだ。
私は「世界」だ。
と
断定してみよう。
すると
まるで地球が
自分の掌に
乗っかっているような
気分になる。
それでいい。
なら、
掌の地球を
眺めてみよう。
その中の
一点が
自分だ。
「世界」となっても
「自分」はいる。
そこに。
「世界」となり
世界の中の
一点である
「自分」を見つめる。
一体
と
全体。
実はこの
両方の視点を
持つということが
本来の
私達人間の
「自然」な姿だ。
「一体全体」を
常に感じながら、
「一体」として
ここで生きる。
これが
あらゆる私達の
在り方だ。
ところが
いつの日か
私達はそれを忘れ、
「一体」である
自分しか感じずに
生きるようになった。
それでは「ここ」で
自分が何をすれば
良いか?
が
わからなくなるのは
当然だ。
だから今こそ、
「全体」の視点を
取り戻さねば
ならない。
奇妙なことに、
インターネットの
ように
全体と繋がりやすい
ものが
当たり前のように
世の中に存在するように
なったら、
私達はさらに
「一体」の自分しか
見えなくなってしまった
ようだ。
全体と
繋がりやすい環境
だからこそ、
ちゃんと
「全体」を思い出さねば
逆に危険だ。
「全体」とは
今の私達が感じている
ようなものでは
ない。
「全体」とは
もっと
満たされたものだ。
その「感覚」を
思い出さねば、
私達はさらに
「全体」を失うことに
なるだろう。
「一体全体」
私は何をすれば
良いのか?
つづく
今、
自分の中心核に
生まれたものが
あるだろう。
まずは
その光を
感じてみよう。
そのあたたかさと
パワーと
包まれる感覚と
爽快さと
毅然とした
風を
感じてみよう。
多くの人は
自分に中心核が
あることを
忘れている。
でも
毎日のように
ずっとそこに意識を
向け続ければ、
すぐに
わかるはずだ。
新たな何かが
生まれた感覚が。
そしてその
光が。
今、
それが
あるだろう。
意識を向ければ
すごい存在感
だろう。
新たな自分
と表現しても
良いくらいだろう。
その中心核の
光は、
あなた自身に
何を語りかけている?
何を
促している?
そして
何を
望んでいる?
つづく
もし今、
自分の安定度が
かなり
減退しているな、
と
感じたら、
あまり無理を
せず、
ペースを落として
みるといい。
今の時期、
エネルギーが
グングン高まっている
人が多い。
エネルギーの
急激な高まりは、
エネルギーの
制御不能状態を
起こすかもしれない。
そのため
今、不安定で
あるならば、
それは
エネルギー不足に
よるものではなく、
エネルギー過多に
よる
可能性が高い。
エネルギー過多
と言っても、
今はエネルギー過多
かもしれないが、
だんだんと
バランスは良くなるはずだ
だから
どうしても安定しない
場合は、
自分の行動する速度を
少しずつ落とし、
できるだけ
ゆとりを持ったスケジュールで
一日を過ごすと
良いかな。
スケジュールを
どうしても緩めることが
できない場合は、
できる範囲で
たとえ数分でも
一呼吸置く時間を
何度か確保することと、
できるだけ
睡眠をとることだ。
スピードを落とす
ことで逆に
生産性は
高まるはず。
今は変化の
時。
自分が日々、
大きな変化を
し続けているのだという
前提で
自己管理を
しよう。
つづく
これまでの世界
と
これからの世界。
これまでの世界
を
1とする。
もし、
これからの世界
が
1000であると
するならば、
あなたは
自分を
どう変える?
1の世界が
1000の世界と
なる。
当然、
これまでの自分では
太刀打ちできない。
1と1000。
これは
難易度を表している
わけではない。
むしろ、
自由度を表している
と
受けとめると良い。
これまでの
自由度が1。
ここからの
自由度が1000。
これは
大変だ。
実に
大変だ。
自由になる
というのは
大変なことだ。
すべて自分で
決めなければ
ならなくなる。
しかも
1が1000になる。
これまでの
比ではない。
比ではない
というよりも
世界そのものが
根底から
変貌する。
だから
自分をどう変えよう?
と
発想したところで、
発想しきれる
ものではない。
でも、
そうだとしても、
今の私達は
真剣に考えてみる
べきだ。
自由度が
1から1000に
変わる。
じゃあ、
私は私を
どう変えようか?
今日から、
少しずつでも
どう変えようか?
私達は
人生の舵を
大きく切らなくては
ならない。
つづく
皆が本当に
調和するためには、
一人ひとりが
明確に
自分の意思を持つ
しかない。
自分の願いを持つ
しかない。
一人ひとりが
自分の意思で
自分の道を歩む。
それは人々を
分離させるのではなく、
調和を生み出す。
いまだに、
一人ひとりが
意思を持ったら
組織はバラバラになる、
と
思い込んでいる人は
多い。
真逆だ。
意思を失った人ほど
脆弱な存在は
ない。
そして
その集まりである
組織ほど
脆弱な存在は
ない。
それはあまりに
当たり前なことだけど、
その当たり前を
私達はついつい
忘れてしまう。
人を
コントロールせねば
人は
動かない。
いやいやいや。
コントロールされて
本当に嬉しい人は
一人でもいるだろうか?
コントロールされて
本気で動く人が
いるだろうか?
もちろん、
生死に関わるくらいに
追い詰められれば
話は別だけど。
意思のない
調和はない。
とはいえ、
自分の意思で
生きるのと、
自由に生きるのは
また異なることだ。
自分の意思で
生きるためには、
あえて
不自由に向かって
いかねばならない時は
多い。
それも含めての
広義の自由
という言い方も
できるけどね。
意思。
最近、この言葉を
私はよく使う。
使う必要が
あるからだ。
あなたの
意思は何ですか?
という問いを
本当によく投げる。
自分の意思を
自分が無視するほど、
心が淀む
ことはない。
つづく
勢いが
出てきた時ほど、
勢いだけで
進むことはやめよう。
勢いがあれば
あるほど、
今、目の前の
一歩を。
そこに誠実に。
真摯に。
静かに現実を
眺めよう。
勢いを
自らの純粋性に
変える。
勢いという
エネルギーを
鎮まる方向に
使う。
エネルギーが
高ければ高いほど、
それは容易だ。
そしてすべてが
より
クリアに観えてくる。
自分が次に
何をすべきかが
ハッキリとわかる。
そうしたら
タイミングを大事に。
勢いだけで
進めば、
このタイミングをいつか
外す。
そしてすっ転んで
勢いを失くす。
純粋にクリアに
現実を観察し、
タイミングを極めて
静かに
次の一歩を。
これをすれば、
さらに
勢いがつく。
そして勢いが
ついたら、
それをまた
鎮める方向に。
最速で進むには、
鎮まった自分が
必要なんだ。
つづく