実在

高まってるんだ

 

ただ

純粋な存在

として

 

私はここに

いる。

 

ただ

純粋な存在

として

 

あなたもここに

いる。

 

私達は

向かい合って

いる。

 

ただ

純粋な存在

として。

 

その事実だけを

そのまま

受け取るとき、

 

そこには

エネルギーの

渦が観える。

 

脳が感知する

渦ではない。

 

そこに実在する

ものを

 

そのまま

受け取っている

だけだ。

 

脳を使わずに

受け取っているものは

多い。

 

それを自覚することは

人生の

あらゆる場面の

意味を

 

根底から

覆すだろう。

 

一見、

ピンチに見える

出来事が

 

実は

とてつもない

愛に満たされている

ことを知ったり、

 

逆に

 

愛に満たされている

思い込んでいたものが、

 

実は

空虚の塊に過ぎない

ことを知ったり。

 

そういうことを

「わかる」

というのは

怖いことかもしれない。

 

でも本当は

私達人間は

最初から

わかっているのだ。

 

わからないフリを

しているだけ。

 

フリをするために

脳に

逃げている。

 

脳の創り出す

五感に

逃げている。

 

それだけの

ことだ。

 

もう

逃げる人生からは

卒業しようと

 

覚悟をすると

いい。

 

その覚悟は

自分自身の

鼓動の質を

変える。

 

人生の質を

変える。

 

すべては

実在している。

 

それらは

幻ではなく、

 

むしろ

五感で得るものの

方が

幻に近い。

 

薄っぺらい。

 

本当の存在、

本物の存在を

 

私達はもっと

知った方がいい。

 

世の中は

変わりつつあるように

見えるが、

 

それも五感。

 

本当は

変わるとか

変わらないとか

ではなく、

 

ずっとそこに

あるんだ。

 

存在しているものを

ただそのまま

感じ取れる度合いが

 

私達自身に

 

高まっている

だけなんだ。

 

つづく

 

私の原点

 

目の前にある

「現実」

を、

 

ただあるがままに

捉えよう、

 

真剣に思うように

なったのは、

ちょうど20年くらい前

だ。

 

しかし当然だが、

そう思うようになった

からと言って、

すぐにできるわけでは

ない。

 

そこから試行錯誤が

始まり、

 

ようやく

「あるがままに

観れるようになったな」

思えるようになるまで

10年くらいを要した。

 

すると、

急に

「実在」

がわかるようになった。

 

私達が「現実」と

呼んでいるものは

「現象」

であり、

 

あらゆる「現象」の

根っこには

「実在」

がある、と。

 

それはまるで

映画のようで、

 

映画のフィルムという

実体が

「実在」であり、

 

映し出される映像が

「現象」である、

という事実。

 

それがわかるように

なった。

 

ところが。

 

この世の中の

現実と

映画との大きな違い

があることも

わかった。

 

映画の場合は、

フィルムの通りに

映像が映し出される。

 

しかし今の私達の

この世の中の

現実では、

 

実在という

フィルムがあるのに、

 

そのフィルムの内容とは

まったく異なる映像が

映し出されることが

多い、

 

という

実に驚嘆すべき事実

にぶち当たった。

 

フィルムがないのに

映し出される映像。

 

それがだいたい

9割を占めるのだ。

この世の中は。

 

実在のない

現象。

 

それはいわゆる

「幻影」

のようなもの。

 

一つの「現象」が

次の「幻影」を

生み出し、

 

その「幻影」に

惑わされて

次の「現象」が

創り出されてしまう。

 

そんなことが

この世の中では

当たり前のように

起きている。

 

そして

それをすると、

私達人間は

単純に苦しみ、

 

幻影の中で

自分を失う

ということもわかった。

 

自分自身が

大切に持っている

フィルム、

つまりは「実在」を

 

ちゃんと映像として

映し出すこと。

 

実在に基づいた

現象を生み出すこと。

 

それこそが

私達人間が

 

人間としての

 

喜びや幸せを

感じ取るための

根本要因であり、

 

それを外しては

 

どれだけ

いわゆる「成功」という

ものを手に入れても、

 

それが

幻影である以上、

 

私達は決して

幸せを感じることは

ない。

 

たとえ一時的に

感じたとしても、

その幸せは

次の「不安」と「枯渇感」を

生み出すだけの

幻影となってしまう。

 

ということが

わかるようになった。

 

と同時に、

 

無意識にせよ、

その辺りのことを

感覚的によく

わかっている人も

実はかなり多い、

 

ということも

わかり、

 

かつ、

 

自分の実在を

感じ取れる体験を

一度でも積めば、

その感性を

(人として誰もが

最初から持ち合わせている

その感性を)

 

私達は取り戻す

ことができる

という事実も。

 

そう。

 

もうおわかりかと

思うが、

 

実在から来ている

私達の想いを

『真本音』

 

幻影のみの

私達の想いを

『反応本音』

 

私は名付けた。

 

真本音度合いを

高める、

とは

 

実在を現象化する

度合いを

高めること。

 

つまりは

自分自身を

正常化し、

 

幻影の世界から

救い出すこと。

 

他ならない。

 

そしてもし

その状態で

人生を送り、

 

もしくは

ビジネスを行なう

ことができれば、

 

世の中はもっと

幸せなものに

なるだろう。

 

大変嬉しいことに、

 

今は

実在を感じ取れる

人が

本当に

急増している。

 

それは今の世の

希望だな

思うんだな。

 

つづく

 

自分の意思すら知らない

 

実在の私が

躊躇をしている

ようだ。

 

だから

顕在(現象)の私が

お尻を叩く。

 

「書け」

と。

 

「わかったよ」

と返事が返ってくる。

 

返事と言っても

私が私に向かって

呟くだけだが。

 

小学一年の時、

友達に

「竹内くんは

いつも独り言を

喋っているね」

と言われたのが

妙に記憶に残っている。

 

ずっと誰かと

喋っていたようだ。

 

私に自覚は

なかった。

 

今思えば、

私は当時から

実在の私自身と

会話をしていたのかも

しれない。

 

時々、

布団に顔をギュッと

押し当てて

目を瞑っていると、

 

目を瞑っているのに、

目の前が急に

明るくなり、

 

何かが見えた。

 

それは何か

書物のようで、

日本語ではない

何か知らない文字が

たくさん書かれていた。

 

絵もあったかも

しれない。

 

布団にギュッと

顔を押し付けると

そうなるので、

 

私は時々

自分の楽しみとして

それをやり続けていた。

 

きっとあれも

実在の私からの

何らかのメッセージ

だったのだろうと

今、ふと思った。

 

実在の自分が

現象の自分を

形創っている。

 

現象の自分とは

実在の自分の

反映でしかない。

 

反映でしかないが、

この世の現実で

生きているのは

現象の自分なので、

 

現象の自分は

現象の自分として

意思を持つ。

 

すると、

実在の自分と

現象の自分が

同じ自分なのに

分離されていく。

 

本当は

この二つの自分が

一致すればするほど

人は

幸せになる。

 

たった

それだけのこと。

 

分離を

一致されていく。

 

いわゆる

「自己統合」

というやつだ。

 

本当は

たったそれだけの

ことなのだ。

 

実在の自分の

意思を

私は

『真本音』

と呼んでいる。

 

霊感でも

何でもない。

 

今ここに

ちゃんと実在している、

 

つまりは

根を張っている、

 

本当の

自分の意思だ。

 

人は

本当の自分の意思

すら知らずに

生きている。

 

自分のことは

自分がわかれよ。

 

言いたいのだが、

私も含めて

まだまだだ。

 

まだまだ

なんだ、

この世の中は。

 

つづく

 

道は決まってる

 

雨が降ろうが、

槍が降ろうが、

 

私達は

自分の決めた

一本道を

 

進もうと

決めている。

 

その覚悟は

最初から備わっている

のに、

 

その覚悟そのものを

忘れてしまう。

 

目の前に

一本道が観えている

のに、

 

わざわざ目を瞑り、

「見えない、見えない」

と言う。

 

目を瞑り、

自分の中で空想を

生み出し、

 

イメージで道を

描き、

 

現実ではない

イメージの道を

目を瞑ったまま

進もうとする。

 

目が開いていない

ので、

当然だが

すっ転ぶ。

 

そして

「痛い痛い!」

と泣く。

 

なんでそんな

面倒なことをしながら

苦しむのか?

 

と思うのだが、

みんなそれを

やっている。

 

もちろん私も

ずっとやっていた。

 

私達は

目の開き方を

忘れてしまった。

 

実在の道が

そこにあるのに、

 

妄想の道ばかりに

行くことに

慣れてしまった。

 

そして

いかにしたら

妄想の道を上手く

進めるか?

 

を開発し、

それを「成功哲学」とか

「なんとか成功法」とか

呼んで重宝している。

 

いやいや、

それは妄想の道だ。

 

妄想の道を

どれだけ上手く

進んでも、

 

私達に真の幸せは

訪れない。

 

何がどう上手く

いっても、

私達は常に何かが

枯渇し、

疲弊し、

喉の渇きがなくならない。

 

上手く道は

進めているのに、

なんでこんなに

幸せ感がないのか?

というところで

 

上手くいけばいくほど

悩むことに

なる。

 

そうかきっと

道が間違っていのだ!

一つの結論を

出し、

 

さらに次の新たな

妄想の道を

創り出す。

 

妄想の連続。

 

妄想の人生。

 

・・・もうそろそろ

そこから脱け出さないとね。

 

それはそれで

人生の一つの醍醐味

かもしれないが、

 

そろそろもう

時間がない。

 

妄想はやめて

目を開かないとね。

 

目を開けば、

実在の道がある。

 

それは

まっすぐ一直線に

伸びている。

 

完全に

決めてしまっている

道。

 

その道に入ると

初めて私達は

 

自由

を感じるんだ。

 

妄想から

実在へ。

 

妄想の時代から

実在の時代へ。

 

今はその

転換点だ。

 

つづく

 

一年待った

 

2020年は

面白い感覚の年

だった。

 

ちょうど一年前くらいに

感じていたのは、

 

2019年と2020年は

つながっている、

という感覚。

 

つまり

節目がない。

 

もっと言えば、

2020年、という存在

自体を

あまり感じない。

 

という感覚が

昨年末にあり、

 

実はその感覚は

結局今日まで

消えなかった。

 

私の中では

いまだに

2020年は始まって

おらず、

 

2019年の年末に

いる状態のまま

一年が過ぎてしまった

のだ。

 

しかしその一方で

2020年は

随分と新しいことを

始めた。

 

さっき数えてみたら、

この一年で

6つの新たな挑戦を

した。

 

そのことごとくが

想定以上に

良い成果を出せた。

 

なかなかこんな

一年はないな、

というくらいに

現実は動いた。

 

しかしでもやはり、

2020年という

存在感はなく、

 

一年前のそのまま

の場所に

私はいる感じがする。

 

恐らく、

実在のレベルでは

その通りなのだろう。

 

実在のレベルでは

あえて

何も動かさず、

 

同じ場所にいて、

 

しかし

現実(現象)のみを

動かした。

 

そんな一年

だったのだろう。

 

逆に言えば、

それの意味する

ところは大きい。

 

この一年で、

実在と現象の

一致感は

格段に増した。

 

要するに、

実在の状態が

すぐに現象化する

ようになった。

 

タイムラグが

かなり縮まった。

 

実在が現象を

待つ。

 

・・・ということを

行なったのでは

ないかな、と思う。

 

そしてこの12月辺りから

ようやく

実在が動き始めた。

 

これまでに

ない、

実在〜現象の一致感

で。

 

そういうことで

言えば、

いよいよ

だ。

 

今年の年末年始は

大きな節目と

なりそうだ。

 

つづく

 

現象の奥の本質

 

「潮流」が

また変わった。

 

世の中の

潮流だ。

 

イメージで言えば、

90度、カクンと

横に曲がったかの

ようだ。

 

基本的には

これは

良いことだと思う。

 

これでまた、

出会うべき人と

出会いやすく

なるだろう。

 

投じた石は

波紋を広げやすく

なるだろう。

 

・・・・・・

 

実在のレベルの

変化を

今後は敏感に

察知できるかどうか?

人生の展開も

ビジネスの展開も

掛かっているのでは

ないか。

 

私達に普段

見えている

「現実」は

 

すべて現象。

 

それは

本質が一つのカタチ

として

現れているに過ぎない。

 

映像としての

現実の奥には、

 

映像になる前の

本質的な現実が

ある。

 

それが

「実在」だ。

 

実在のレベルで

何が起こり、

それがどのように

現象化しているか?

 

これをキャッチするには

澄んだ心が

必要だが、

 

澄んだ心さえ

手に入れれば、

 

それは誰もが

できることだ。

 

・・・・・・

 

ここ数年、

実在の変化は

激しかった。

 

その変化が

本当の意味で

現象化するのは

 

ここからだろう。

 

それを

「不安」と感じて

揺らされ

踊らされるか?

 

それとも

それをあるがままに

受け止めて、

しっかりと自らの

意思で対応するか?

 

それによって

人生の展開は

 

それこそ

本質的に

変わるな。

 

つづく

 

この道は幻影か

 

目の前に続く

一本道を

ずっと自分の道だと

信じて進んできた。

 

道の先は

霧の中だが、

 

しかしこの道を

行くことが

自分にとっての最善

なのだと

信じて進んできた。

 

ところが、

 

ずっとまっすぐに

進んでいると思っていた

その道は、

 

実は

ほんのわずかずつ

右に曲がっていた。

 

まっすぐだと

思い込んで進んだが、

少しずつ右に右に

ズレ続け、

 

その道は

大きな大きな

円を描き、

 

ふと気がつくと

もといた場所に

戻っていた。

 

・・・冬山では

霧のために視界が

遮られた時、

このような状態で

同じ場所をグルグル

周り、

体力が尽き

遭難に至る、

ということがよくある。

 

それと同じことを

人は

人生でも

行なう。

 

私はこれを

「幻影の道」

呼んでいる。

 

この道は

同じ場所を

周回し続ける。

 

進んでいるように

見えて、

実はまったく

進んでいない。

 

成長し続けている

ように見えて、

実は何も

変わっていない。

 

ただ、

疲弊を

していくだけ。

 

しかし

多かれ少なかれ

私達はもともとは

この「幻影の道」に

いる。

 

しかし

ある時にその周回から

逸脱をする。

 

グルグルから

抜け出すのだ。

 

抜け出した私達は

「自由」になり

今度は「まっすぐ」に

進むが、

 

しかし実はそれさえも

また、

さらに大きな周回に

過ぎない。

 

でもいつかまた

その大きな周回からも

脱出する。

 

そして「まっすぐ」

行くが、

でもやはりそれすらも

さらにさらに大きな

周回である。

 

・・・このようにして、

私達は、

「幻影の道」

を抜け出しては

さらに大きな「幻影の道」

に入り、

 

を繰り返し、

 

そしてついには

本当にまっすぐな道

に至る。

 

これを私は

「実在の道」

呼んでいる。

 

実在の道

幻影の道

か、

 

は、

後になってわかる

ことだ。

 

残念ながら

「今ここ」では

わからない。

 

でも、

ちゃんと

一日一日・一歩一歩を

自分の真本音を大切に

丁寧に進めば、

 

今いる幻影の道からは

自然に

脱することができる。

 

私が「脱皮」と

呼んでいるのは

このことだ。

 

脱皮を繰り返せば、

自分がいかに

小さな世界で

グルグル回っていたか

よくわかる。

 

あれは「幻影の道」

だったと

よくわかる。

 

だからと言って

ガックリする必要は

ない。

 

それが

私達人間の成長であり

進化であり、

 

それらすべてを

含めて

それが私達の道なんだ。

 

幻影だろうが

実在だろうが

 

堂々と

今を進もう。

 

つづく

 

永遠なんだよ

 

物事に

終わりはない。

 

終わったな、

という感覚は

あるが。

 

それは一つの

区切りだ。

 

区切ったら

すぐ「次」が

始まる。

 

だからそれは

終わりではなく

始まりでもある。

 

物事に

終わりはない。

 

人生も

同様だ。

 

・・・・・・

 

私達は

何かを残して

ゆく。

 

人生において。

 

いや、私なんかは

何も残せない。

 

と思う人は

多いようだが。

 

しかし、

その人がそこにいた、

という

ほんのわずかな一瞬の

空気感と

存在感さえ、

 

永遠に

残るのだ。

 

それが

「実在」

というものだ。

 

世の中には

ほんの一瞬だけ

この世に生まれ、

そして

すぐに死んでしまう

赤ちゃんがいる。

 

「私はそんな

赤ちゃんを

抱きしめて、

あなたの命には

大いなる意味が

あるんだよ、

という想いを込めて

笑顔を贈りたい。

それが

私の夢です。」

 

と言われる

経営者がいた。

 

そう。

 

ほんのわずかな

一生だとしても、

 

それは永遠に

ここに

残るのだ。

 

それが

「実在」だ。

 

最近、

この2〜3ヶ月

かな。

 

久しぶりに

たくさんの本を

読んでいる。

 

たまたま本屋さんで

出会った一冊の本が

きっかけで、

 

立て続けに

次から次へと

本を購入し、

 

今は

約30冊を

同時に読み続けて

いる。

 

ある一つのことを

研究した本も

あれば、

 

哲学書や

昔の文学や

大学の名誉教授の

書かれた

人生の成果や

 

ある作家が

生涯を通じて

書き続けている

小説や

 

ジャンルは

いろいろだ。

 

ちょっとずつ

併読しているので

 

わけが

わからなくなる。笑

 

何がどこに

書かれているのか、

頭は混乱

混沌となる。

 

しかしそれを

私は望んでいる

ようだ。

 

これまで

あまり読んだことの

ない傾向の本も

あるのだが、

 

「実在」について

書かれてあるものや、

 

言葉は使われなくても

あぁこの人は

「実在」を感じ取りながら

書いてるんだな、

思われるものが、

 

私が想像していたよりも

ずっと多いことに

私はちょっと

嬉しくなっている。

 

「実在」を

感知できるということは

 

常に

「永遠」を

感知できるということだ。

 

「永遠」の視点で

「今」を

観て、感じることが

できるということだ。

 

その感性を、

すべての人が

思い出せるといいな

と思う。

 

もともと

すべての赤ちゃんは

実在を感じながら

生まれてくるの

だから。

 

実在と現象の

合間にいるのが

赤ちゃんだから。

 

私達はみんな

それを

経験しているのだから。

 

その感覚を

思い出せれば、

 

あらゆる命に

永遠の価値がある

よくわかるんだけどな。

 

つづく

 

それは本当の意思か?

 

川の水面に空が

映っている。

 

まるで

鏡のように。

 

それを見つめていると、

どちらが本物の空なのか、

わからなくなった。

 

実在と幻影。

 

その本質は

まったく異なるものだが、

姿と形は

よく似ていることが多い。

 

似ているどころか、

表面だけを見れば、

完全に一致することも。

 

実在と幻影。

 

私達の心の中には

この二つがある。

 

その区別が

つかないからこそ、

私達は戸惑い、

迷う。

 

・・・・・・

 

ある時、私は

「風」になろうと思った。

 

風になれば、

川の水面は揺れる。

 

揺れれば、

そこに映っている

幻影も揺れる。

 

そうなれば、

本物の空と

映っているだけの空の

区別がつく。

 

私のやっている

サポートの本質とは

これである。

 

というよりも、

たったこれだけのことを

しているだけだ。

 

・・・・・・

 

あなたが捕らわれている

確かなものとは、

 

実は単なる幻影かも

しれない。

 

幻影に捕らわれ、

幻影の意思のままに

動けば、

 

いつかはそれは

消え、

あなた自身の意思も

消える。

 

すべての幻が

消え去った時、

 

あなたは何もない

孤独の世界に

ポツンと突っ立っている

自分を発見するだろう。

 

虚しさと虚無感。

 

絶望感。

 

それにより、

この世に確かなものなど

一つもない、

あなたは思い込んで

しまうかもしれない。

 

虚しさに基づき、

それが真実だと思い込み、

次の自分の道を

決めてしまう。

 

しかしその道すらも

幻影なのだ。

 

幻影で築いた道は、

どこまで行っても

幻影のまま。

 

そこから抜け出す

唯一つの方法は、

 

自分の中の

実在

を見つけることだ。

 

・・・・・・

 

自分の中の

実在。

 

揺るがぬ意思。

 

それは、

揺るがないようにしよう!

と努力して創り上げた

ものではない。

 

始めから、初めから、

揺るがないもの。

 

そこにただ

在るものだ。

 

それは、

顕在意識レベルの

表現を使えば、

 

あなた自身の

「願い」

である。

 

揺るがぬ願い。

 

人生を通じて、

一生

持ち続ける

願い。

 

一生持ち続けるが、

それは変化をしない

ということではない。

 

それは着実に

進化をする。

 

その進化に

歩調を合わせれば、

あなたの心も身体も

進化する。

 

だから常に

実在に

立ち返るといい。

 

そこを

毎日の原点と

するといい。

 

もし自分の実在が

わからないのであれば、

 

わかろうと

するだけでもいい。

 

今のこの私の意思は、

実在か、幻影か?

 

それを一つずつ

確認しながら

進めばいい。

 

それだけでだんだんと

区別はついて

来るもんだ。

 

・・・・・・

 

本物の空なのか?

 

水面に映っている

空なのか?

 

本当はそんな区別は

最初から

ついている。

 

私達は本当は

すべてをわかっている。

 

だから

「人間」を

やってるんだよ。

 

つづく

 

この1〜2年が楽しみだ

 

「実在」と「現象」の

区別を

つけるといい。

 

「実在」とは

心の中での現実。

 

心の深奥で

起きていること。

 

「現象」とは

心の外での現実。

 

表面的に

起きていること。

 

私達はどうしても

現象に

捕らわれがちだ。

 

そりゃそうだ。

 

それが

現実だから。

 

しかし、

現実とは

上記の二つの「世界」

で成り立っている。

 

あえて「世界」

という表現を使ったのは、

それくらいに

二つが別個だからだ。

 

実在が幸せでも

現象が不幸せ

 

ということもあるし、

 

実在が不幸でも

現象では幸せを

感じている

 

ということもある。

 

最も大事なのは、

実在と現象が

一致することだ。

 

この二つの現実の

一致こそが、

私達人間にとっての

真の幸せに

つながっていく。

 

・・・・・・

 

私が、

人や組織のサポートで

常に大事にしていることは、

 

実在と現象の

片一方だけに

偏らないことだ。

 

どちらか一方だけで

判断しない。

 

むしろ、

その二つの

つながり

影響の仕方

を観る。

 

基本的には、

実在が現象に

影響を与えるという

矢印の向きはあるのだが、

 

逆流することも

ある。

 

今、この人(もしくは、組織)は

実在が

どのような状態で、

現象が

どのような状態か?

 

どちらをどう

強化することで、

二つが一致しながら

進化していくか?

 

というのが

私のサポートの

基本指針となる。

 

これができる

コーチを

私は育成したい。

 

と、

この5年間、

ずっとやって来た。

 

いや、本当は

十数年、

それを望んで来た。

 

ようやく今、

6名の候補が

集った。

 

この6名に関しては、

現在、

とてつもない開花の

途中だ。

 

この1〜2年で

私の仕事が

なくなるかもしれない。

 

そうなってほしいな、

真に願っている。

 

つづく

 

五感を超えよう

 

「自分」と「世界」との

境界をなくして

じっとしていると、

 

様々なことを

感じることができる。

 

いや。

 

「感じる」

というのは実は

正確ではない。

 

私達は常日頃、

脳を使って

生きている。

 

言い換えれば

五感を使って

生きている。

 

しかし、

「自分」と「世界」の

境界をなくしてしまえば、

 

五感からも

解放される。

 

すると、

脳というフィルターを

介することで

わからなかったことが

 

途端に

わかってくる。

 

そこで感じ取る

あらゆるものを

私は

 

『実在』

 

と表現している。

 

本当は

すべての人は

常に「実在」を感じながら、

(正確には「感じながら」

ではないのだが、

それ以外の適切な言葉が

ないので、

便宜上、この表現でいく)

 

それに

影響されながら

自分の行動を

決めている。

 

五感で得るものと、

五感以外の実在で

得るもの、

その両方によって

人生を

左右されている。

 

しかし普段は

五感しか

把握できない。

 

その「狭さ」が

生きづらさを

生み出している。

 

本当は

感じ取っているはずの

実在を、

ちゃんと一つ一つ

自覚しながら

生きていけたら、

どんなにか

楽か。

 

私の推奨する

セルフコーチングの

コンセプトの一つは

ここにある。

 

すでに

実在として感じ取っている

ものを、

自覚する方法が

セルフコーチングである

言える。

 

私はよく、

コーチングセッションの最中や

普段の会話の途中で、

少し時間をいただいて

静かに目を瞑る、

ということをさせていただく。

 

私と関わっている人であれば、

それは日常的な光景

だろう。

 

あれは、

私がすでに感じ取っている

実在を

自覚するためにしている。

 

セルフコーチングを

しているわけだ。

 

そして、

目を開けた直後、

私はいつも確信的に

ものを言っていると思う。

 

まったく迷いのない

言葉が

自然に出てくる。

 

実在を感じ取ることで

ある意味

「すべてがわかる」

状態となれるからだ。

 

「すべてがわかる」

という言葉だけを見ると、

かなり傲慢だが、

 

そうではなく、

 

むしろ、

今この瞬間に

私達が自覚すべき発想が

何か?

を、

謙虚にあるがままに

受け止めることができた

証だ。

 

私達には

今、ここで、

自覚しなければならない

発想がある。

 

それが

次の行動を決める。

 

この当たり前のことを

しっかり丁寧にすることで、

人生も現実も

すべてが調和する。

 

そんなことを

すべての人ができるように

なるといいな、

というのが

私の願いだ。

 

つづく

 

幻影の中で生きるのか

 

心の中の現実を

私は

『実在』

と呼んでいるが、

 

心の中には

現実ではないものも

存在している。

 

それを

『幻影』

と呼ぶことにしている。

 

つまり心の中には

「実在」

「幻影」

の二つがある。

 

残念ながら

ほとんどの人は

この二つの区別が

ついていない。

 

しかし本当は

この二つはまるで

 

本物の青空

 

 

絵の具で描いた青空

 

くらいの差があり、

それくらいの

違いがわかるはずなのだ、

私達人間は。

 

本来は。

 

・・・・・・

 

私の言葉で

表現すれば、

 

実在のことを

「真本音」

 

幻影のことを

「反応本音」

 

と言う。

 

真本音とは

実在であるので、

確固たるものだ。

 

どのような状況でも

揺らぐことはない。

 

しかし

反応本音は逆に

幻影であるだけに

すぐに

揺らぐし、

消える。

 

確固たる度合いを

比喩的に表現すれば、

 

真本音は

地球。

 

反応本音は

雲。

 

くらいの違いがある。

 

雲は確かに

その瞬間は現れるし、

時には大きくなるが、

 

必ず

いつかは消えていく。

 

掴もうと思っても

掴めない。

 

乗っかろうと

思っても

乗っかれない。

 

それだけ

不確かなものだ。

 

ところが、

雲に一度巻かれて

しまうと

何も見えなくなる。

 

例えば、

怒り、という反応本音に

巻かれてしまうと

怒り以外のものが

見えなくなってしまう。

 

そしてそのまま

雲(怒り)に巻かれた状態で

私達は

次の自分の言動を

起こす。

 

本当は

地球はあるのに。

 

いつだって。

 

本当は

私達は地球に

いるのに。

 

それすら

わからなくなる。

 

地球にいることを

思い出せば、

私達は本当は

自分が何を望んでいるか

も思い出せる。

 

しかし

忘れたまま

生きていく。

 

幻影に

巻かれたまま

生きていく。

 

たとえ

一つの幻影から

抜け出ても、

次の幻影に

巻かれる。

 

幻影から幻影に

移り変わるだけ。

 

地球を思い出さずに

幻影の中のみ

を移り変わるだけ。

 

そのような状態で

生きている人が

残念ながら

ほとんとだ。

 

幻影に巻かれて

行動を決める、

ということは、

 

幻影に基づいた

心の外の現実

(これを現象という)

を創り上げることに

なる。

 

幻影に基づいた

現象を創るということは、

 

当然であるが、

 

実在の望む現象とは

別の現象を

生み出すことになる。

 

ここに、

「実在と現象の不一致」

が起こる。

 

そして

その不一致によって

さらなるストレスが

発生し、

 

それが心の中に

大量の「苦しみの幻影」

を巻き起こす。

 

そして私達は

その「苦しみ」からさらに

次の行動を

決めてしまう。

 

そのサイクルを

延々と続ける。

 

それが人生であると

思い込みながら。

 

・・・・・・

 

そのサイクルから

抜け出ていただく

のが、

私のサポートの

第一段階だ。

 

ちなみに、

第二段階は、

抜け出た後に今度は

望む現実(現象)を

創り出していく。

 

それによって

 

「実在と現象が一致」

 

する。

 

これが私のサポート

の本質であり、

 

私はこのような

サポートのできる人を

「コーチ」

と呼んでいる。

 

「実在と現象を一致させる」

ためのサポート力。

 

これを修得していただく

ための場を

春くらいを目処に

立ち上げようと

思っている。

 

それは恐らく

一つではなく、

いくつかの

バリエーションを持たせて。

 

まだ現時点では

明確ではないが、

すでに準備には

入っている。

(→【コーチ探し、始めます】)

 

つづく

 

奇跡は必然的に起きている

 

実は個人的には

「奇跡」

という言葉は

あまり使いたくありません。

 

安易に使っている

人を見ると、

奇跡なんて本当は

ないのになぁ、

と思ってしまいます。

 

だって、

すべて「必然」

ですからね。

 

一見、奇跡に見えても、

そこに至るまでには

着実な

一歩一歩が

必ずあるのです。

 

しかもそれは

現実(現象)レベル

だけではなく、

実在レベルでこそ。

 

・・・・・・

 

このブログでは

ずっと

・実在

・現象(現実)

と言う書き方を

しています。

 

もともとこの言葉は

大昔の哲学者の方々が

使われていたようですが、

私は彼らがこれを

どう捉えていたか?よりも、

この言葉の持つ

本質的な響きがとても好きで

使っています。

 

現象の奥には

必ず実在が

あります。

 

「人間」という

視点で言えば、

 

・人の起こす現実

・人の行動や振る舞い

・人の顕在意識

・顕在意識のちょっと下の

潜在意識(ほぼほぼ顕在意識)

 

この4つを私は

「現象」

と呼んでいます。

 

そしてその奥にある

潜在意識のレベルを

「実在」

と呼んでいます。

 

一見すると、

本当に実在しているのは

私達の創り出す現実とか

私達の行動や振る舞い

のように思いますが、

いえいえ、

それらは単なる

反映に過ぎません。

 

心理学の世界で

よく言われるのですが、

それらは

映画のフィルムが映し出した

映像に過ぎないのです。

 

とは言え、

映像だから意味がない、

実体がない、

とも

私は思っていません。

 

この世は

映像によって

成り立っていますから、

映像(つまりは、カタチ)

こそが大事だとも

思っています。

 

つまり、

映画でいうフィルムが

実在ですが、

 

フィルムも大事、

映像も大事

なのです。

 

実際に映画を

楽しむためには

映像がなければ

なりませんしね。

 

どんな

フィルム(実在)があり、

それが

どのように

映像化(現象化)

されているのか?

 

こここそが

最も大切なところですね。

 

・・・・・・

 

そして、

映像(現象・現実)は

私達の脳みそがキャッチ

します。

つまりは、

五感がキャッチします。

 

しかし、

フィルム(実在)は

五感では

キャッチできません。

 

脳を使っては

キャッチできない

のです。

 

ところが、

実在を

そのままキャッチする

力を、本当は

誰もが持っています。

 

大変、ありがたいことに

私は

ずっとコーチを続けてきたことで

ある時から

実在をキャッチできるように

なりました。

 

自分の脳を使わずに

映像化(現象化・現実化)

する以前のものを

キャッチできるように

なりました。

 

もちろん

先ほど述べた通り、

これは私独自の力では

決してありません。

 

人間であるならば、

すべての人が

もともと持ち合わせている

能力の一つであり、

それは私達人間が

言葉を覚えるのと同様に

努力によって

すべての人が

身に付けることができます。

 

その方法さえ

知っていれば。

 

実在をキャッチ

できるようになることで、

あぁ、奇跡なんて

本当はないんだな、と

よくわかります。

 

すべては

必然です。

 

起こるべきことが

起きているだけ。

 

私は、

実在をキャッチし、

実在と現象のつながりを

あるがままに

観察でき、

適切なサポートのできる人

のことを

 

「コーチ」

 

と呼んでいます。

 

そして、

そのような「コーチ」を

私は

増やしていきたいのです。

 

嬉しいことに、

すでに何人かの人が

「コーチ」として

活躍し始めています。

 

・・・・・・

 

「コーチ」になるためには

まずは、

セルフコーチングできることが

必須です。

 

自分自身の

実在を

脳を使わずに

感知できること。

 

そして、

自分の実在の意思を知り、

それを的確に

現象化(現実化)

できること。

 

これができると、

人は

とてつもなく幸せ

です。

 

まずは

そのような状態になることが

ファーストステップ

です。

 

そのためにも

セルフコーチング系の

学びの場を

これから増やして

いきます。

 

楽しみにしていて

ください。

 

つづく

距離感を修正しただけで、こんなにも・・・

私達の真本音は

距離(感)をとても大事にしている

というお話をしました。

(→【人生の展開は距離感で決まる】)

 

本当に面白いことですが、

例えば、AさんとBさんがいた場合、

距離(感)が

真本音が望むものであれば、

AさんとBさんはお互いに

パワーを与え合い、

パワーの循環を起こします。

が、

距離(感)が

真本音の望むものとズレていた場合、

二人はお互いに

パワーを奪い合う関係になってしまう、

・・・そんなケースが

非常に多いのです。

 

距離(感)によって

真逆の関係になるのです。

 

そしてその距離(感)とは、

・実在の距離と

・現象の距離が

あります。

 

実在の距離を適正なものに

することで、

現象の距離も適正に

なります。

 

一つ、実際にあった例を

かいつまんで

ご紹介しましょう。

 

ある会社で、

私はAさんのコーチングを

していました。

 

Aさんは、

言われました。

 

「どうしても私はB課長と

上手くいきません。

・・・というより、

B課長と一緒に仕事をしたく

ありません。

こんな子供のようなことを言うのは

ナンセンスだとわかっています。

でも、本当のことを言えば、

B課長と一緒の空気を吸うこと

自体が嫌なのです。

私は会社を辞めようと

思っています。」

 

そこで私は

Aさんに目を瞑って

いただきました。

 

そして次のように

問いました。

 

「Aさん、

B課長のイメージをしてみてください。

B課長のイメージは

どの場所に浮かぶかわかりますか?

その場所を特定してみてください。」

 

以下、Aさんと私のやりとりです。

 

Aさん

「B課長は私の正面の前方

3mくらいの場所にいます。」

 

たけうち

「その距離はAさんにとって

居心地の良い距離ですか?」

 

Aさん

「いえ、とてもきついです。」

 

たけうち

「もっと近づけたいですか?

それとももっと遠ざけたいですか?」

 

Aさん

「もちろん、もっと

遠ざけたいです。」

 

たけうち

「どれくらいの距離に

遠ざけたいですか?」

 

Aさん

「・・・。

15mくらいでしょうか。」

 

たけうち

「本当に15mで良いですか?」

 

Aさん

「・・・、いえ、もっと

離してしまってもいいですか?」

 

たけうち

「もちろん良いですよ。」

 

Aさん

「じゃあ、・・・60mくらい。」

 

たけうち

「本当に、60mで良いですか?」

 

Aさん

「えぇ? これ以上離しすぎると

姿が見えなくなってしまいます。

まずくないですか?」

 

たけうち

「大丈夫ですよ。

Aさんが本当に望む距離は

どれくらいですか?」

 

Aさん

「できれば、姿はもう見たく

ありません。

2kmくらい離れちゃっても

いいですかね?」

 

たけうち

「本当に2kmでいいですか?」

 

Aさん

「ええっ? だってそんなに

離したら、なんか悪いです。」

 

たけうち

「悪くないですよ。

これは単なるイメージ遊びです。

本当の本当の望みを

言ってみてくださいよ。」

 

Aさん

「・・・実はですね、本当は

地球から出て行ってほしい

くらいなんです。

・・・僕、ひどいこと言ってますね。」

 

たけうち

「大丈夫ですよ。

じゃあそれを数字で表すと

どれくらいですか?」

 

Aさん

「う〜ん・・・。

3000万kmくらいでしょうか。」

 

たけうち

「おっ、いいですね。

やっとAさんの空気感が安定しましたよ。

では、イメージのB課長を

Aさんから3000万km

離してみてください。」

 

Aさんはその通りに

イメージをしてみました。

 

たけうち

「いかがですか?

どんな気持ちになりますか?」

 

Aさん

「いや、なんか凄く

楽になりました。

体の力が抜ける感じですね。」

 

たけうち

「じゃあ、Aさん。

いつもB課長を今のように

3000万km離した状態で

いてください。

イメージの中では。

で、あとは実際には

いつもの通りにB課長と

接してみてください。」

 

それから2週間後、

再びお会いしたコーチングの場で、

Aさんはしみじみと

言われました。

 

「たけうちさん、驚きです。

B課長のことがそんなに

嫌じゃなくなりました。

むしろ課長のことを

よく観察できるようになりました。

で、自分でも驚いていますが、

先日、課長を誘って

一緒にランチに行ったんですよ。

課長とあんな風に話せたのは

初めてです。」

 

・・・

この話、あまりに上手く

でき過ぎているように思われそうですが、

実際にあったお話です。

 

もちろんこの例だけでは

ありません。

 

このように

イメージの距離を修正することで

イメージの中での調和が起こり、

それが現実の調和に

影響を及ぼすのです。

 

でも実はこれ、

本当は

「イメージ」ではないのです。

 

これは

「実在」です。

 

「実在」を

動かしたのです。

 

「イメージ」と「実在」とは

本質的に異なるものです。

 

「イメージ」でこのようなセッションを

しても、

ほぼ効果は出ません。

 

「実在」で行なうからこそ、

効果が大きく出るのです。

 

とりあえず今日は

ここまでにします。

 

つづく

 

心の中が変わっただけでは進化とは言えない

私達は現実世界に

生きています。

 

現実世界に生きるとは、

この世界の空気を吸い、

この世界の様々な現実に触れ、

この世界で行動をする

ということです。

 

逆に言えば、

その実感がなければ、

それは「生きている」とは

言えません。

 

今年に入ってから

このブログでは

一貫したテーマとして

「次元を上げる」

ということについて

お話しさせていただいています。

 

次元というのは

「実在」レベルでのお話です。

つまりは、

心の中のお話です。

 

ところが、

どれだけ次元を高めたとしても

それを「現象」レベル、

つまりは現実レベルで

それが発揮されていなければ

それは、何も変わっていない

のと同じなのです。

 

つまりは、

「心の中」と「行動」の

一致をさせること。

 

「心の中の願い」と

「現実のカタチ」を

一致させること。

 

それをせずに、

心の中のみで

「私は次元が高まった!」

と喜んでいても、

それは自己満足に過ぎません。

 

次元の高まりを

実感できたのであれば、

それをすぐさま

行動に移すことです。

 

自分の振る舞いの

たった一つでもよいですから、

実際に変えることです。

 

もちろん、

次元が高まれば

無意識にそれが成される

ことも多いです。

 

自分の意識しないところで

自然に空気感が変わったね、

自然に振る舞いが変わったね、

自然に行動パターンが変わったね、

ということはあります。

 

しかし

私達には顕在意識があります。

 

この世で生きているのは、

顕在意識です。

 

顕在意識レベルでの

「意図」が

大事です。

 

私は、

ここが変化した。

こんな風に

次元が高まった。

だから、

私はこれから、

この私の想いを

このように行動に反映させよう。

 

・・・そんな「意図」が

大切です。

 

無意識に変化する部分と

顕在意識的に

変化させようとする部分、

それが一致した時に初めて

「脱皮」が成立します。

 

片方だけでは

成立しないのです。

 

「今の自分の状態」と

「理想の自分の状態」の

あまりのギャップに

悩む人が増えています。

 

ギャップがあるのは

当然です。

 

どれだけ「実在」レベルで

成長しても、

それを「現象(現実)」レベルで

実現するのは、

私達の顕在意識に

他ありません。

 

ギャップを感じるからこそ、

その気持ち悪さがあるからこそ、

私達は

行動を変化させることができます。

 

では、

私は、私の何を

変えれば良いだろうか?

 

・・・この問いを

常に大切にすることですね。

 

昨日の私と

今日の私が

同じであるはずはありません。

 

実際に、

実在レベルでも

この3次元世界においては

それは別物です。

 

以前のブログでも

書かせていただきましたが、

0.1秒前の自分と

今の自分と

0.1秒後の自分は

すべて別物なのです。

 

分離しているのです。

 

それが同じであると

思っているのは、

単なる「思い込み」にしか

過ぎません。

 

分離しているからこそ

できることがあります。

 

分離しているからこそ

チャンスがあります。

 

私達は

いつでも自分を

「変化」させることが

できるのです。

顕在意識を使って。

 

自分を本当に

成長(進化)させようと

思うのであれば、

本気で

「変わろう」

としてください。

顕在意識レベルで。

 

すると、

「実在」での変化と

「現象(現実)」での変化の

一貫性が

取れてきます。

 

それにより、

私達は本当に

望む方向に

変化できます。

 

心の中だけを

変えてもダメです。

 

行動を

変えなければ。

 

急速な次元の高まりを

しているあなたにこそ

お伝えしたい

メッセージです。

 

つづく

 

真の仲間と、なぜ出会うのか?

イメージしたことは

実現する。

 

・・・とよく言われますが、

本当にそうでしょうか?

 

イメージしても

実現しないこと、

たくさんありませんか?

 

それはイメージの仕方が

弱いからだ、

とも言われますが、

本当にそうでしょうか?

 

どれだけ克明に

イメージしても、

実現しないことは

たくさんありませんか?

 

私達の心の中は

『実在』の世界

です。

 

しかし、

「実在」と「イメージ」は

根本的に異なります。

 

「実在」とは

言葉の通り、

実際に存在するもの

です。

 

「イメージ」とは

単なる幻影です。

 

言葉は悪いですが、

妄想です。

 

空想です。

 

実際に存在するものと

幻影の違い。

 

それは根本的な

違いです。

 

私達の心の中には

「自分が人生で進む道」

が、

実在として

そこに存在しています。

 

その「道」を

自ら見つけることができれば、

その「道」は実在ですから、

一気に現象化します。

 

現象化とは、

心の中にある実在が

この現実世界に

投影・反映されることを

言います。

 

つまり、

「実在」が投影されて

「現象」(現実)となります。

 

それが要するに

「実現」ですね。

 

ところが、

「実在」と「イメージ」の

区別がついていないので、

それを恐らく

「イメージすることは実現する」

と表現しているのでしょう。

 

私達にとって大事なのは、

自分の中にすでにある、

 

『実在の道』

 

を見つけることです。

 

それはすでにあるので、

「イメージ」のように

自分の顕在意識で

創り上げるものでは

ありません。

 

それはまるで

宝物探しのようです。

 

心の中の

宝物探しの冒険に

出るのです。

 

それが、

自分自身の人生の道を

探す、ということの

本質です。

 

さて。

 

ここからが肝心です。

 

これからの人生の

イメージの道ではなく、

「実在の道」

を見つけることができたと

します。

 

すると、

何が起こるでしょうか?

 

実は、

「実在の道」とは

自分だけのものではありません。

 

それは、

多くの仲間達と共有し、

共に歩く道

なのです。

 

ですから、

自分の中に存在する

「実在の道」と

まったく同じ道を持っている

Aさんが、

必ずどこかにいます。

 

もちろん、

一人だけではありません。

Aさん、Bさん、Cさん、・・・。

何人もの

仲間達がいます。

 

「実在の道」を

見つけるということは、

そういったAさんら仲間達との

出会いの始まり

でもあるのです。

 

道を見つければ、

出会う。

 

・・・というようになっています。

 

ところが、

これも、実は、ということ

なのですが、

「実在の道」とは

一気に道のすべてが

見通せるわけではありません。

 

次回以降で

詳しく書こうと思いますが、

多くの場合、

「道」と言っても、

「次の一歩」が観えるだけ

です。

 

「次の一歩」が観えて、

その「一歩」を踏み出せば、

さらに「次の一歩」が

観えてくる。

この

連続によって徐々に

道が明確になり、

そして

ある時ある瞬間に、

一気に先が見通せるように

なります。

 

もちろん例外もありますが、

これが最も一般的な

「実在の道」の進み方です。

 

しかも、

道を進むことよりも前に

「出会い」が先にくることも

あります。

 

何年も前に出会ったAさんが、

実は、共に道を歩む仲間だった

ということもあるのです。

 

そのように、

「道」そのものは実在しており、

全体像ももちろんしっかり

あるのですが、

その全体像のほんの

ワンピースを

一つずつ明確にしていく、

しかも、時にはランダムに。

 

・・・というように、

まるでジグソーパズルを

しているかのように

私達は道を進んで行きます。

 

だからこそ面白い、

とも言えますが。

 

初対面で

会った瞬間に通じ合える、

そんな人は

間違いなく「仲間」です。

 

そして、

「実在」を感じ取れるように

なった人は、

目を閉じるだけで

わかるはずです。

 

もう、「仲間達」は

最初から共にいるのだと。

 

これから出会う

たくさんの仲間達も

すでに実在レベルでは、

自分と共にいるのだと。

 

今日も深夜3時過ぎから

この文章を書いていますが、

目を閉じると、

いえ、

目を閉じなくても、

私は「仲間達」の存在を

今ここに感じます。

 

そしてその「仲間達」と一緒に

この文章を書いている。

・・・そんな感覚です。

 

文章だけではない、

私のすべての活動の

一つ一つは、

現実世界ですでに

出会っているかどうか?に

関係なく、

共に道を歩む仲間達と共に

力を合わせ

魂を込めて

行われているのです。

 

それが、

私達人間の

「普通の生き方」

です。

 

つづく

 

あなたは本当は孤独ですか?

私には、

私のことを真に

理解してくれて、

私にとっての真の

仲間であると

思える人が

何人いるだろうか?

 

こんな問いを自分自身に

投げたことはありますか?

 

随分前の私は、

この問いへの答えは

「0人」

でした。

 

『真本音』と出会う前の

時代の私です。

 

もちろんそれまでに

親友と言える友人とも

随分と出会ってきました。

その当時には

すでに妻も子供も

いました。

 

共に必死になって仕事をする

職場の仲間もいました。

 

師匠だっていました。

 

しかし、

私のことを本当の意味で

理解してくれているかどうか?

と問うと、

 

あぁ、そんな人は

一人もいないんだ。

 

という事実に気がついて

愕然としました。

 

そしてこう思いました。

 

それが人間なんだ、と。

 

それが

人生というものだ、と。

 

所詮、我々は

孤独なのだと。

 

自分のことを本当に

理解できるのは

自分だけなのだ、と。

 

みんな、

そうなのだ、と。

 

・・・もちろんそれは、

その当時の私の

単なる思い込みです。

 

なぜなら、

今の私には

真の仲間と言える人、

真に私のことを理解して

くれている人、

が本当にたくさん

いるからです。

 

下手をすると、

出会ったその瞬間、

目と目が合った

その瞬間にもう

そう思える時も

何度もあります。

 

それこそ、

思い込みではないか?

と言われそうですが、

いいえ、

それは真実です。

 

なぜなら今の私は

『実在』

を感じ取ることが

できるからです。

 

今、こうしてこの文章を

書いている私は、

自宅の書斎に一人で

います。

 

今、深夜の3時です。

 

ところが、

目を閉じると、

実に多くの人達の

「気配」

を感じます。

 

これも

思い込みでは

ありません。

 

「実在」です。

 

つまり、

実際にここに存在する

ものです。

 

ちなみにこれは

霊感とは違います。

 

私には

霊感はありません。

 

ただ私は

「実在」を

感じ取ることができるように

なったのです。

 

ですので、

常に私は仲間達と

こうして共にいることが

できます。

 

現象(現実)のレベルでは、

(3次元のレベルでは)

遠く離れていても、

実在のレベルでは

距離も時間の差異も

ありません。

 

だから常に

一緒にいるのです。

 

共に

同じ願いを持ち、

同じ方向を向き、

同じ試行錯誤を

している仲間達。

 

この「実在」を感じ取る

という力は、

もちろん私だけに特有の

ものではありません。

 

誰もが普通に

感じ取れるものです。

 

つまりこれも

「普通の生き方」の

一つです。

 

えぇ?

そんなの普通じゃないよ。

と言われそうですが、

いえいえ、

これこそが私達人間誰もが

もともと持っている

コミュニケーションの力の

一つです。

 

『実在コミュニケーション』

 

・・・とも私は呼んでおり、

これは「真本音コミュニケーション」

の形の一つです。

 

真本音で生きることで

こうした力を開花することが

誰もができます。

 

実在コミュニケーションが

できるようになれば、

「直観力を高めよう」どころの

話ではなくなります。

 

「直観」が

通常の思考と同じか

それ以上に普通の状態に

なります。

 

もう本当に

迷わなくなります。

いえ、

正確には迷うことはありますし、

迷うこと自体に

生きる上での大きな意味が

ありますが、

迷いそのものを

本当に楽しめるようになります。

 

心の調子が良いとか

悪いとか、

関係なくなります。

 

心の調子が悪い時は

人間である以上

私にもあります。

 

特に毎日、多くの方達の

ストレスを受け続けていますので、

その影響もあり

ストレスの塊みたいなものに

心が閉ざされてしまうことも

しょっちゅうです。

 

絶望感。

倦怠感。

孤独感。

怒り。

憎しみ。

時には、狂気。

・・・

 

様々な反応本音達に

心が閉ざされることは

この仕事をしていれば

本当に毎日です。

 

でも

それが一体、

何だと言うのでしょうか。

 

心の状態が

絶望的に悪くなったとしても

ただ、

それだけのことじゃん。

 

・・・というように

心の状態の良い悪いに

捕らわれない

自分になれるのです。

 

どんな心になっても

おおらかな気持ちで

それを楽しみながら

観察できる自分。

 

真本音という大地に

立てていることによって

そうなれるのですが、

私が本当に

そうなれたのは、

実在コミュニケーションが

できるようになってからかも

しれません。

 

ですのでこれも

すべての人に

できるようになってほしいな、と

私は願うのです。

 

「実在」のことを書くのは

ある意味勇気の要ることですし、

恐らく誤解も生じるでしょうが、

でもそれでもこのブログでは

そこに挑戦したいな、と

思っている私が

ここにいます。

 

さて、明日から

どんな文章を

私は書くのでしょうね?

 

つづく

 

虚構の中でどれだけ頑張っても、それは虚構だ

この後の二人コーチングの展開を

語るためには、どうしても

次のご説明をしておかなければなりません。

(→前回記事)

 

「実在」と「現象」、

についてです。

 

以前にこのブログでも書かせて

いただきましたが、

さらに詳しいお話をしなければなりません。

 

簡単に言えば、

「実在」とは、

私達の心の中の世界で起きていること

です。

 

「現象」とは、

私達の現実世界で起きていること

です。

 

「実在」と「現象」とは

本来、繫がっています。

 

「実在」で起きたことが

「現象」で起こります。

 

例えば、心の中で

「こんな家を建てたい」と思うから

現実世界で、

そのような家が建ちます。

 

「実在」で起こらないことは

「現象」化しません。

 

それが原則です。

 

ところが、

今の世の中はそうとも

限りません。

 

「実在」では存在しないことが

「現象」化することが

往々にしてあります。

 

つまりは、

心の中で本当には思っていないことが

現実化します。

 

例えば、

実在では「こんな家を建てたい」と

思っている家とは全く異なる家が

建ったりします。

 

もしくは、

本当は実在では「家を建てたい」などとは

これっぽっちも思っていないにも関わらず、

現実では、家を建てることもあります。

 

なぜならそれは

外からの影響を受けるからです。

 

例えば、自分の知り合いが

家を建てた。

その家に遊びに行った。

その時に、「あぁこんな家を建てないな」と

思った。

その通りに、建てた。

・・・しかし、その人の心の中では

本当は「家を建てたい」などとは

これっぽっちも思っていなかった。

なのに、たまたま知り合いの家を見たがために

それをきっかけとして家を

建ててしまった。

・・・そんなケースです。

 

それはそれでいいではないか、

と思う人も多いかも知れません。

 

しかし、

そう単純な話ではないのです。

 

「実在」で、

・・・つまりは、心の中で、

本当に望んでいるのとは別のことを

「現象」化する、

・・・つまりは、実現することにより、

私達の中では、

「実在」と「現象」の不一致が

起こります。

 

「実在」と「現象」の不一致が起こることで

私達には、多大なるストレスが

発生してしまうのです。

 

もちろんストレスが一概に

悪いわけではありません。

 

私達にとって「必要なストレス」というのも

あります。

 

しかし、

「実在」と「現象」が不一致を起こすことで

発生するストレスは、

私達の人生にとっては

百害あって一利なし、・・・なのです。

 

「実在」と「現象」の不一致によるストレスは

私達自身を混乱させます。

自分を見失う、ということになります。

 

こういった人は、

自分は何のために生きてるのか?

自分は何のために生きていきたいのか?

自分は何のために生きることで

幸せを感じるのか?

などが、わからなくなります。

 

本質的な「幸せ」と「不幸せ」の区別が

つかなくなるのです。

 

すると、良かれと思ってやっていることが

自分にとっても周りにとっても

苦しみしか与えない、ということが

非常にたくさん起こり得ますし、

しかも、自分が苦しんでいることに

自分が気づいていないということも

起こります。

 

麻痺している状態です。

 

一生、麻痺しながら

幸せだと思い込みながら生きる人生も

それはそれでよし、

と考える人もいるかも知れません。

 

しかし、残念ながら

自分が苦しんでいることに自分が

気づいていなくても、

それでも、自分が苦しんでいることは

結局は自分が一番よくわかっているのが

私達人間です。

 

自分の人生は

自分のものだからです。

 

自分の人生を良くしたい、

と願うのも私達の本能です。

 

ですから、頭では自覚していなくても

本能的には、自分の苦しみを

自分が一番理解しています。

 

そして、苦しんでいるにも関わらず

それを改善しない自分自身を

自分は「嫌い」になっていきます。

 

自分で自分を嫌う。

 

言葉で言うのは簡単ですが、

それは想像以上に辛いことです。

 

自分を嫌う人は、

目の前に幸せがあったとしても、

それを「幸せである」とは感知しなくなります。

なぜなら、

自分が嫌いだから。

自分に幸せを与えたくないから、です。

 

それを続けることで、

私達の心と魂は、どんどん疲弊し、

傷ついていきます。

 

実は、

そういった人がとてつもなく多いのが

今の世の中です。

 

心と魂が傷ついた人同士が

チームを組んだとしても、

そのチームで「本当の喜び」を得られるはずが

ありません。

 

「実在」と「現象」の繋がりのないままで

「無理矢理のその場しのぎの喜び」を

作り出すのが、関の山です。

 

そういった組織やチームが

非常に多いです。

 

ですから私がまずはいの一番に

手をつけるのは

「実在」と「現象」の一致

です。

 

つまり、

本当に自分が心の中で思っていることと

現実で起こることを

一致させていくのです。

 

それをせずして、

本質的な人の進化も組織の進化も

あり得ません。

 

非常に残念なことですが、

今の世の中においては、

「実在」のない「現象」で生きている、

つまりは、

虚構の中で生きている人が

多いです。

そんな組織も多いです。

 

足元がないのです。

 

足元がない状態で、

いくら表面だけを取り繕っても

それは、虚構のままです。

 

下半身の弱い力士が

上半身だけを鍛えているのと

同じことです。

 

たまたまの成果には繋がるでしょうが、

本当の、必然的な成果は

あり得ないでしょう。

 

もっと私達人間は

強くなれるはずです。

 

組織ももっと

強くなれるはずです。

 

そのためには

下半身を鍛えるのです。

 

「実在」と「現象」を

一致させるのです。

 

つづく