虚無

本当に何もない?

 

自分の中に

「虚無」

が広がってきたら、

 

抗うのは

やめよう。

 

虚無に包まれれば、

自分は何もかもを

失ってしまうのでは、

 

という恐怖感は

あるだろうが、

 

実は

「虚無」の正体は

本当に何もないのではなく、

 

「虚無」という

虚構に過ぎない。

 

「何もない」という

カタチに過ぎない。

 

まぁ、「怒り」のような

感情と同じものだ。

 

つまり単なる

反応本音の一種だ。

 

だからそんなに

怖がることはない。

 

むしろ、

「へぇ、これが

虚無というものか」

楽しみながら観察

してしまえばいい。

 

「虚無」の隅から隅まで

観察したり

味わってしまえばいい。

 

実は「虚無」は

そういうのに極度に

弱い。

 

せっかく

「何もない」という

演出をしているのに、

その「何もない」自体を

観察されるのだから、

たまったものではない。

 

ひょっとすると

あっという間に退散

するかもしれない。

 

「私を見ないで!」

恥ずかしがって

あなたの中から

逃げ去るかもしれない。

 

それくらいの

ものなんだ。

 

一見、恐ろしそうな

ものほど、

本当は大したことは

ない。

 

所詮は

心の中の一つのカタチ。

 

心のすべては

存在承認すれば

いい。

 

それだけで

もとの自分に

戻れるよ。

 

つづく

 

空っぽを感じたら

 

空っぽだ。

 

自分の中には

何もない。

 

虚無だ。

 

何ということだ。

 

いったい

自分とは

何だ?

 

これまで頑張って

きたのに、

結局は

何もないではないか。

 

・・・というように

もし思えたら、

 

あなたは今、

生まれ変わろうと

している。

 

よく私は

「脱皮」という言葉を

使うが、

 

それさえをも

超えて、

もっと根本的に

生まれ変わろうと

している。

 

それは

とてもめでたい

ことだ。

 

いっそのこと

完全に自分を

虚無にしてしまうと

いい。

 

何もない。

 

という状態に。

徹底的に。

あきらめて。

 

すると

近々、

ある瞬間に、

 

あなたの中に

小さな小さな自分が

生まれるはずだ。

 

それはほんの

小さな光のような

ものかもしれない。

 

しかし、

とても強烈な

光のはずだ。

 

自分の体の中

全体に意識を向け、

 

その誕生を

自覚するといい。

 

どっかに現れるよ。

そのうちに。

 

現れたら、

それを愛でるといい。

 

まるで親になった

気持ちで。

 

そうすれば、

日々、その新たな自分は

成長する。

 

きっと

急成長する。

 

そして

あなたの体と同じ大きさ、

つまりは等身大に

なったら完了だ。

 

まぁ、

楽しんでね。

 

祝ってね。

 

つづく

 

孤独なのがわかるかい

 

一人でいるのは

怖いかい?

 

でも、この世は

皆、

分離している。

 

一人の体の中には、

その人の心

しかない。

 

他者の心と

自分の心は

別物だ。

 

他者の体と

自分の体も

別物だ。

 

だから私達は

皆、

どこかでその

孤独さを

噛み締めている。

 

孤独だということを

誰もが

どこかで

わかっている。

 

だから

孤独であるという

事実から

逃げよう逃げようと

する人も多い。

 

それが

3次元のこの世

の特徴だ。

 

・・・・・・

 

この世で生きている

のが私達。

 

そこに意味が

あるのなら、

 

ちゃんとこの世界を

感じ取ろう。

 

そのために

とても大事なのは、

 

自分の中にある

孤独感と

対峙することだ。

 

孤独という

事実を

見つめることだ。

 

・・・・・・

 

イメージしてほしい。

 

何もない世界に

たった一人、

 

あなたは

ポツンと

立っている。

 

周りには

何もなく、

グレーの世界だ。

 

そこには

あなたしか

いない。

 

その孤独感を

しっかりと

感じ取るんだ。

 

そこには

悲しみとか

怒りとか

寂しさとか

 

そういったものは

実は

ない。

 

それを感じるので

あれば、

まだ

孤独の感じ方が

浅いかな。

 

もっとちゃんと

孤独を感じれば、

 

それは単なる

 

「虚無」

 

だとわかる。

 

そう。

 

私達が怖い

のは、

この「虚無」

なんだ。

 

・・・・・・

 

「虚無」がわかったら、

今度はそれと

対峙してみよう。

 

「虚無」と

向き合うのだ。

 

どうしてそんなことを

わざわざするんだ?

思うなかれ。

 

わざわざ

するのではない。

 

私達は皆、

毎日、毎時間、

毎秒、

この「虚無」を感じながら

生きているんだ。

 

その自覚を

することだ。

 

しっかりと

「虚無」と向き合えば、

変な言い方だが、

何となく

懐かしさを感じる

はずだ。

 

それほど

私達と「虚無」の

関係性は

深い。

 

・・・・・・

 

「虚無」を無くそうと

してはならない。

 

それは

ずっとここに

あるものだから。

 

それが

この世の掟だから。

 

これを持つことで

私達には

初めて得られるものが

あるから。

 

「虚無」を見つめ、

「虚無」を自覚し、

 

まぁ

これがあるのが

人間なんだな。

 

と、

いい意味で

諦めること。

 

つまりは

「虚無の存在承認」

だ。

 

これをすると

初めて私達は

外の世界を

「満喫」

できるようになる。

 

自分とは別の

存在達。

 

それらの

「存在感」を

直に感じ取ることが

できるようになり、

 

そこで初めて

「孤独」に

呑まれなくなる。

 

そして、

あらゆるものの

存在感を得ながら、

 

人としての

幸せ感も

得られるようになる。

 

感謝の気持ちも

湧いてくるだろう。

 

面白いものだ。

 

虚無から逃げ、

孤独から逃げれば、

 

いつも

孤独に怯え

幸せ感を

失う。

 

しかし、

虚無と対峙し、

孤独を受け入れれば、

 

人として

幸せ感が

明らかに増していくのだ。

 

これこそが

私達人間。

 

「あるがまま」

受け入れれば

受け入れるほど、

 

私達は

強くなる。

 

つづく

 

虚無に負けるな

人生に辛さを感じている人、

特に、

「虚無感」に苛まれている人が

今、本当に増えているのを

実感しています。

 

ですから今日は、

「虚無」について

書かねばなりません。

 

「虚無」とは

何だと思いますか?

 

「虚無」と言うと

何もない状態であると

思われる人が多いでしょう。

 

しかし。

 

「虚無」

とは、何もない

というものではありません。

 

もっと言えば・・・。

 

「無」という一文字も

見てみましょう。

実は、・・・。

 

「無」

と言うのも、何もない

というものではありません。

 

それは、

「無」

という一つの

かたまりなのです。

 

我々人間が解釈した

「何もない」

というものの、

かたまりに過ぎないのです。

 

解釈の

かたまり。

 

ただの想像の

かたまり。

 

本当に何もない

わけではありません。

 

実在のレベルで言えば、

「何もない」

という状態は本来は

あり得ないのです。

 

「何もない」状態は

ないのです。

 

ところが私達は

「無」とか「虚無」を

極度に恐れます。

 

我々人間の持つ

あらゆる恐怖感の

根底にあるものが

「無」や「虚無」への

言いようのない恐れです。

 

「無」になりたくない。

 

「虚無」に陥りたくない。

 

私達の恐れは

すべてここから

きています。

 

しかし、

「無」も「虚無」も

本当はありません。

 

ないものに対して

私達は恐怖しているのです。

 

よく、

次元が高まると

何もなくなる。

すべてが無になる。

 

という言い方をされる人が

います。

 

しかしそれは実は

無とは似て非なるもの

です。

 

それは、無ではなく、

「すべてがある」

状態です。

 

どういうことかと言いますと、

光をイメージするとよいでしょう。

 

赤い光、青い光、緑の光、・・・

様々な波長のすべての光が

合わさると、光は

無色透明になります。

 

無色透明ですから、

一見すると何もないように

見えますが、実は

すべてがそこに

あるのです。

 

すべてが完全に

存在する状態になると、

表面的には無と同じに

なります。

 

しかし、それは無ではなく、

一般的には

「空」(くう)

と言われる状態です。

 

「空」とは

あらゆるものを

生み出す源です。

 

すべてが最初から

そこにあります。

 

実は、

「創造する」

とは、

「すべてがある」状態から

一部分を分離させること

を言います。

 

「すべてがある」状態から

一部分だけを焦点化する

という言い方もできます。

 

次元が高まると、

すべては「一つ」に

なっていきます。

つまりそれは

「空」に近づく

ということです。

 

逆に言えば、

次元が高まり「空」に近づくことで

私達は、あらゆるものを

自由自在に

分離させたり焦点化させることが

できるようになります。

つまり、

望むものを「創造」できるのです。

 

次元が高まれば高まるほど、

望む現実を手に入れられる

という理由の本質は

そこにあります。

 

ちょっとわかりづらいお話に

なってしまったかも

しれません。

 

言いたいのは、

無などない

ということです。

 

しかし、この世には

「無」を感じさせる物事が

たくさんあります。

 

であるが故に

私達は惑わされます。

 

前回の記事でも

書かせていただいた

エンティティも、

ある意味、

「無の象徴」と言えます。

 

エンティティとは、

無への恐れ、という念が

実体化したものです。

 

無への恐れの実体なので、

まるでそれが無そのもののような

恐ろしさを感じます。

 

ですので私達は

エンティティから逃げようと

します。

 

逃げようとすれば、

逆に背後からエンティティに

取り込まれます。

 

知らず知らずの間に

取り込まれています。

 

すると、

どうせすべては

無に帰するのではないか、

という絶望感が

発生します。

 

それにより、

あらゆる気力やパワーが

失われます。

 

何日か前の記事にも

書かせていただきましたが、

このエンティティの氾濫が

今は激しくなっています。

 

エンティティ自体は

実は全然大したことのない

弱いものなのですが、

弱いが故に、

私達の心の弱い部分と

共鳴します。

 

私達は今こそ、

強い意志(意思)を持たねば

なりません。

 

自分の人生は

自分のものである、

ということ。

 

人生に

正しい、間違っている、

という答えはなく、

答えは自分で決めていくのだ

ということ。

 

自分で自分の願いを持ち、

自分で自分の課題を持ち、

自分で自分の決断をし、

それを実行する。

 

つまり

自分で決め

自分で動く。

 

自分で選択し、

自分で進む。

 

この、当たり前を続ける

覚悟。

 

それを持っている人に

エンティティは

絶対に寄りつけません。

 

当然、

心に弱さはあってもよいです。

 

ただ、一方で

心には揺るがぬ部分も

確かに存在しています。

 

それを私は

真本音と名づけています。

 

誰もにある揺るがぬ部分。

 

真本音。

 

それを大切にし、

次の一歩を

踏みしめる。

 

ただそれだけのこと。

 

その意志(意思)に

エンティティは近づけません。

 

もし仮に

一度はエンティティに

取り込まれたとしても、

真本音のパワーによって

エンティティは

すぐに成仏します。

 

私は自分のミッションとして

あえて、

向き合う方々のエンティティを

すべて受け取り吸収します。

 

私が吸収すれば、

目の前の人はエンティティから

解放されるからです。

 

そして後の時間で、

すべてのエンティティと向かい合って

すべてを浄化します。

 

真本音のパワーで浄化

するのです。

それはまさしく「成仏」と言える

ものです。

 

ですから、

成仏する瞬間の彼らの声を

私は毎日のように聴いています。

 

エンティティ達は皆、

最期にこう言うのです。

 

「ありがとう。」

 

彼らは、

無ではなく、

「すべてがある」世界に

戻っていきたいのです、

本当は。

 

つづく