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- 2019年 1月
私は
「コーチ」というお仕事を
させていただいている
関係上、
これまで何度も
「達成感」
というものを
体験させていただいた。
もちろん
自分自身が何か
達成するのも嬉しいが、
クライアントさんが
何かを達成した喜びは、
形容のしようがない。
そんな時は、
心の底から
うわーーーっ!!
という激しい感情が
湧いてくるのであるが、
ここで私は
一つのことを
学んだ。
これ、
結構オススメ
である。
・・・・・・
何かと言うと、
溢れんばかりの
喜びは、
「体の中心に
大事に
抱いておくとよい」
ということだ。
まぁ、時には
その気持ちを
思う存分に
発散させてしまうのも
アリなのだが、
ぜひこれ
やってみてほしい。
体の中心
と言うと、
おヘソの奥の
体の中心部分だ。
ここに
喜びのエネルギーを
大事に大事に
しまうイメージだ。
「しまうなんて
もったいない」
と
思うかもしれない。
でも、
やってみてほしい。
中心に抱いた
その瞬間から、
体の中心から
あたたかい何かが
ずっと自分を
満たしてくれるのだ。
喜びは
発散すると
短時間で
消えていってしまう。
しかし
大事に抱くと、
長時間
ずっとずっと
そこから自分を
満たし続けてくれる。
とても
安定するし、
安心する。
心が
豊かになる。
そしてその状態で
また
次への一歩を
進む。
すると
さらにまた
新たな喜びが起こる。
それをまた
体の中心に
抱くのだ。
大事にね。
するとずっと
喜びに満たされた
人生となる。
実は
これを発見したのは
10数年前。
その時から
私はずっと
喜びを感じながら
生きているのかも
しれない。
かなり
オススメ。
やってみてね。
つづく
自分の中の
燃え盛る炎は
わかるかな?
常に
止めどなく
燃え続ける
炎。
それを
認識できたら
大したもんだ。
その炎は
変わんないんだ。
物事が
好転することで
大きくなったり、
上手くいかなく
なることで
小さくなったり、
・・・そういった炎は
本当の炎では
ない。
その場その場
の幻影だ。
そうではなく、
どんな状況でも
いつ
いかなる時でも
自分の中心で
燃え続ける
炎。
それをみんな
持っている。
それを
認識できるように
なれたら、
大したもんだ。
・・・・・・
もしその炎を
認識できたら、
その
炎そのもの
に
なってみよう。
炎と
一体化
するのだ。
自分=炎
となるのだ。
ただただ、
何の意図もなく
何の思惑もなく
燃え続ける
だけの存在。
そうなった時、
あなたは
何を
感じるだろうか?
・・・・・・
私は
自分の中の
その炎と
一つになると、
「永遠」
を感じるなぁ。
そして、
炎なのに
とてつもなく
「静けさ」
を感じる。
本来の強さ
とは、
永遠の静けさを
湛えているんだなぁ
と
わかる。
それが
人間。
私達
全員。
「コーチ」という
お仕事をしていると、
クライアントさん
ご本人よりも
早く、
私はその人の
炎を感じることに
なる、
のがほとんどだ。
自分のことよりも
他者のことの方が
よくわかるから、
人間は。
ご本人よりも
早く
その炎を見つけると、
この炎を
いかにご本人が
自覚するか?
が、
コーチングの最大の
テーマになる。
そして、
ある時ある瞬間に
ご本人が
自覚できると、
やっぱり
嬉しいねぇ。
私の
最高の幸せ
の一つだ。
・・・・・・
人というのは
やっぱ
すごいなー、って
思う。
突然変異を
起こすから。
でもそれは
その人が
何か別者に
変わるわけでは
ない。
本来のその人が
顔を覗かせる
だけなんだけど、
でもそれを
側から観ていると、
突然変異のように
感じる。
しかも
面白いことに、
その突然変異に
ご本人は
まったく気づいていない
ことの方が
多い。
ご本人にとっては
あまりにも
自然な変化
だからだ。
・・・・・・
「変化」を
もたらすのは
他者ではない。
あくまでも
「自分自身」
だ。
コーチは
単なる
「鏡」に過ぎない。
しかし、
本当に「鏡」に
なり切ることで、
初めて
突然変異は
やってくる。
突然変異だけど
極めて自然な
変化、
それが
やってくる。
もちろん
コーチに
意図はない。
意図を持っては
できないことだ。
だって
すべては
本人がやっている
ことだから。
人の
本来の凄さ
「炎」
を見つけ、
引き出せる、
意図を持たずに
引き出せる、
そんなコーチを
育成したいし、
増やしたい。
つづく
「進む人」
は
ぜひ、
自分を癒して
ほしい。
「進む」とは
常に全力を出し続ける
ことでは
ない。
本当の「進む」
とは
「永続的に進む」
ということ。
であれば、
・どこで全力を尽くし
・どこで休むか
を
しっかり決めること。
それを
見極めること。
それができて
初めて
「進む」
ことができる。
・・・・・・
「進もうとしない」
人は、
私は基本的には
コーチングしない。
もちろん、
組織の場合は
別であるが。
ほとんどの組織には
「進もうとしない」人が
いる。
そういった人達も
「進む」状態に
しなければならないのが
私の仕事だ。
だが、
そんな場合でも
まずは私は
「進もうとする人」を
サポートする。
「進もうとする人」が
実際に
ぐんぐん進み始める
ことで、
「進もうとしない人」が
「進んでみようかな」
に変化することを
知っているからだ。
そういった意味では
やはり、
私は
「進もうとする人」を
サポートする。
・・・・・・
「進もうとする」が
進めない、
という人にとっては、
恐らく私のコーチングは
かなり厳しいもの
だろう。
ある時は
「コーチング」を超えて
「指導」したりも
する。
まるで上司にように
「やれ!」
とやるときもある。
私のコーチングは
ある意味、
「怖い時間」
かもしれない。
しかし反対に、
「進む人」
にとっては、
私のコーチングは
「癒しの時間」
になっているようだ。
私との
コーチングの時間で
自分を癒し、
自分を
リセットし、
自分のエネルギーの
源を取り戻し、
そして、
「現場」へと
戻っていく。
私のコーチングを
受けることで、
「現場」での
気づきが
何十倍にも深まり、
そして、
「現場」における
自分の指針が
何十倍にも
明確になる。
こういうコーチングは
コーチである私も
実に楽しい。
いつも
クライアントさんと
笑い合いながら、
真本音の
コミュニケーションが
取れるからだ。
こういった
コーチングのできる
クライアントさんを
増やしていくのも
私の目標の
一つだ。
・・・・・・
「たけうちさんと
一緒にいると、
何か見透かされている
気がして
怖いんです」
と、
よく言われる。
それを言う
ということは、
その人は何かを
「誤魔化している」
証拠だ。
人生の現場において
何かを
誤魔化しながら
生きているのだ。
ただし、
人間誰しも
「誤魔化し」は
あるもんだ。
誤魔化している
ことを、
「誤魔化しているんだ」
と自ら認めること
が、
スタートかな。
何を
誤魔化しているか?
は、
その人の今の
最大のテーマと
なる。
誤魔化している人を
私が嫌う
ことはない。
それよりも、
その「誤魔化し」を
しっかりと
見つめ、
向き合うことを
するとよい。
そのための
サポートを、
といつも思っているので、
そういった人にとっては
私のコーチングは
「怖い時間」
なのだろう。
自分と向き合う
ことを
恐れる人は、
いつも私に対して
逃げ腰だし、
実際に
逃げて行ってしまう
人もいる。
私が
大きな悲しみを
感じる瞬間だ。
・・・・・・
そりゃ、
人はみんな
誤魔化しがあるよ。
でも、
その誤魔化しに
思い切って
目を向けよう。
誤魔化しと
向き合うことが、
自分と向き合う
第一歩だ。
もし本気で
「進もう」
とするならば、
まずは
自分の誤魔化しを
自分で
受け入れることかな。
そこからが
スタートだ。
つづく
「阿鼻叫喚」
という言葉があるが、
実は
私にとっては
非常に身近な
言葉だ。
なぜなら
私は日々、
人々の「阿鼻叫喚」と
向き合っている
からだ。
ほとんどの人は
気づいていないが、
ほとんどの人は
心の内面に
「阿鼻叫喚」を
抱えている。
あるがままに
真正面から
向き合い続ければ、
私はいつもそれを
ダイレクトに
受け取ってしまう。
1対1のコーチング
であれば、
まだ楽だ。
しかし
例えば、数十名の研修形式
の場となると、
その数十名分のものを
私は感じたり、
受け取ったりする。
それは
かなり
凄まじい時がある。
なぜなら
「阿鼻叫喚」とは
人と人が集まることで
相乗効果を起こすことが
あるからだ。
・・・・・・
今でも思い出す。
かなり前のことで
あるが、
ある中堅企業様の
サポートに
入らせていただいた。
その企業様には
10名近くの経営幹部さん
達がいた。
彼らの
「阿鼻叫喚」は
凄まじかった。
一人一人のそれは
普通くらいなのだが、
その10名が集まると、
それは
10倍くらいに
膨れ上がっていた。
その時私は
それを
「阿鼻叫喚の台風」
のように感じた。
正直言って、
それを感じた時、
私はその会社の
組織活性化サポートの
お仕事を受けたことを
少々、後悔した。
私の身がもたない
のではないかと
思ったからだ。
しかしあれは
いい経験になった。
物事が
どうしても
上手くいかない時、
いったい
人と人は
どのように
関わり合っているのか?
ということを
まざまざと
知ることができたのだ。
その幹部さん達は、
「阿鼻叫喚」の叫びを
続けながらも、
普段、
実に巧妙に
お互いの足を
引っ張り合っていた。
もちろんそれは
顕在意識レベルの
話ではない。
だから、
当の本人達は
そのことにまったく
気づいていなかった。
しかし
潜在意識レベルでは
毎日、そこでは
戦争が起きていた。
・・・・・・
人生のテーマ、
ということを
考えるとき、
私は時々
武者震いをするような
身の引き締まりを
感じる。
すべての人には
人生のテーマが
ある。
それは
真本音のレベルに
おいて、
である。
その真本音レベルの
人生のテーマが、
「阿鼻叫喚の
連鎖を止める」
という
人がいるのだ。
その人は、
自分自身が最も
「阿鼻叫喚」を
解放してしまう人と
常に
出会い、
その人との
「阿鼻叫喚」の
相乗効果を起こし、
身も心も
ボロボロになりながらも、
それを
自らの力で
乗り越えていこうと
する。
それを
人生で繰り返して
いる人が
いるのだ。
真本音の
レベルで。
何という
無茶なことを・・・、
と
私なんかは
思ってしまう。
もっと楽なテーマで
生きていけば
よいものを、
と。
しかし
現実にそういう人は
多い。
時には
それが社長さんで、
すべての社員さん達と
「阿鼻叫喚の連鎖」
を起こしている人さえ
いる。
「阿鼻叫喚の連鎖」を
超えていくためには、
結論としては
「愛」
しかない。
しかしそれは
「愛」と一言で
片付けられるほど、
生易しいものでは
ない。
しかしそれでも
その人は
それに
立ち向かっていく。
真本音レベルで
それを
し続けている人を、
私は純粋に
サポートしたいと
思うのだ。
つづく
人は、
たくましい。
本当は
ちゃんと
地に足が
ついている。
ガッシリと
まるで
根が張ったかのように
揺るがずに
立っている。
みんな、
そうだ。
しかし
そんな自分を
本人が
知らない。
知らないから
揺らぐ。
知らないから
迷う。
本当の
自分の姿を
知ればいい。
思い出せば
いい。
ただ、
それだけの
ことだ。
・・・・・・
セルフコーチング力を
徹底的に
向上させる、
という目的で
始めた新講座
『ザ・セルフ』
が、
修了した。
全6回。
4ヶ月に渡る
講座だったが、
たった4ヶ月で
これだけのことが
できるもんなんだなぁ、
と
感嘆することが
できた。
受講生の皆さんは
間違いなく、
今
本来の自分を
感じ取れている。
ここまで来るのが
大変なのだが、
しかし
本当はここからこそが
スタートだ。
本来の自分を
思い出したら、
そこから
本来の人生が
始まる。
本当の
挑戦と
試行錯誤は
ここからだ。
ただ、
今は一人一人が
自分の足で
自分の大地に
立っている。
これは本当に
喜ばしいことだ。
・・・・・・
人は
たくましく
なればなるほど、
肩の力が
抜けていく。
静かに
なっていく。
しかしその奥に
潜むエネルギーは
極めて強く、
そして明るい。
それは
無尽蔵の
エネルギー
だからだ。
自分と向き合う
とは、
その無尽蔵の
エネルギーと
向き合うという
ことでもある。
そして、
無尽蔵のエネルギー
は
無尽蔵に使えばいい
という
ものではない。
どこに
どれだけの
エネルギーを
どのように
使うか?
それを
自由自在に
自ら選択し
実行することが、
「自分の人生」
である。
「自分の人生」の
始まりを
皆さんは
手に入れた。
であれば、
思う存分に
進んでほしい。
ここからが
本当の
加速だ。
つづく
少し前に
「自由」について
書かせていただいた。
→【自由とは何だろうか】
ここではまた
別の視点から
「自由」について
書いてみたい。
・・・・・・
「自由」とは
自分を縛ることである。
と書くと
驚くだろうか。
もしくは、
ひょっとすると
なるほど!
と思う人も
いるかもしれない。
自分を
完全に、100%、
縛ってみる
という体験を
私はオススメする。
今日は
何をするか?
今日は
何をしないか?
何を
どのような順番で
どれくらいの
時間をかけて
どのようにするか?
・・・等を、
一日の始まりに
完全に
決めてしまう。
そして
一分一秒
すべて決めた通りに
そのままに
動いてみるのだ。
もちろん、
仕事などでは
突発的にやらなければ
ならないことも
入ってくるだろう。
その場合は、
その時点で一度
立ち止まり、
もう一度、
計画をしっかりと
組み直せばいい。
そして、
「完全に自分を縛って」
自分をその通りに
動かすのだ。
・・・・・・
もし可能であれば、
それを
「一日」の単位ではなく、
「人生」
という単位で
行なってみてもよい。
自分の人生の
道のりを、
完全に決めてしまう
のだ。
もちろん
未来のことは
わからないことだらけだし、
現時点では
描けないことの方が
多いだろう。
しかしそれでも
描けるところまでは
しっかりと描き、
例えば、
10年間でこれを
しよう。
3年間でこれを
しよう。
この1年間で
これをしよう。
この3ヶ月間で
これをしよう。
今月は
これをしよう。
今週は
これをしよう。
今日は
これをしよう。
というように、
すべてを
「決めてしまう」。
そして、
それを外すことを
一切、
許さない。
完全に自分を
縛り、
「これ以外の選択肢は
ない」
と決めてしまう。
決めたことに
関しては、
一切の「迷い」を
許さない。
迷っても
迷った瞬間に
その迷いを
捨ててしまう。
とにかく、
自分が決めた通りに
自分を
完全に
縛るのだ。
・・・・・・
もしくは、
自分で自分を
縛るのではなく、
それを
他者にやってもらっても
いい。
「今日一日は、
完全に、あなたの
言う通りに
私は動くから、
私の動きをすべて
指示してください」
と、お願いし、
その人の言う通りに
本当に行動するのだ。
なんなら、
それを何日間か
続けてもいい。
・・・・・・
以上を
本気でやってみて
ほしい。
きっとそこに
「自由」
を感じるはずだ。
すべてから
解放された感覚を
得るはずだ。
中途半端では
ダメ。
100%やり切る
こと。
100%やると
決めること。
そうすれば
「自由」の感覚を
得られるはずだ。
よくよく考えると、
私は日々、
徹底的に
私自身を
縛り続けているのかも
しれない。
これができるように
なってから
私は本当に
「自由」になれた。
すべてから
解放され、
本来の自分
を
取り戻せたので
ある。
つづく
ここから
進もうとしている
人へ。
あなたの
これまでの
悔恨のすべてが
あなたの
財産だ。
時間は
後戻りできない。
だからこそ
そこまで
悔やみ
悲しむ。
だからこそ
それは
宝物だ。
魂を
かきむしるくらいの
それがあるから
あなたは
あなたにしか
できない
次の一歩を
見出せる。
あなたにしか
出せない
一歩を
踏み出せる。
自分は
人として
未熟だ。
あなたは
そんな経験を
数え切れないほど
重ねてきたかも
しれない。
しかし
やはり
それこそが
あなたの
道だった。
その道が
あるからこその
今のあなた
だ。
もちろん、
今のあなたも
未熟だろう。
これからの
あなたも
悔恨をいくつも
重ねるだろう。
しかしやはり、
それを重ねる
未来にあなたも
それがあるからこそ
あなた
なのだ。
悔しさを
捨てず、
悲しみを
隠さず、
涙を
止めず、
そのままで
あるがままで
そのままの
あなたで
あるがままの
あなたで
これからも
信じる道を
進んで行って
ほしい。
あなたが
あなたで
いる限り、
あなたが
自ら
進もうとする
限り、
皆があなたを
支えるだろうし、
少なくとも
間違いなく
私は
あなたを
応援するよ。
つづく
どうやら、
自分の器を
小さく捉え過ぎている
人が多いようだ。
本来は
地球規模の器
であるにも関わらず、
半径1mくらいの
範囲でしか
物事の発想をしない、
そういった
狭い視野でしか
物事を見ない、
というくらいに、
「本来」と「実際」の
差異の大きな人が
多いようだ。
それでは、
「自分」は
活きない。
この「差異」により、
多大なストレスが
常に心の中で
発生し、
それに苦しんでいる
人が多いのだ。
それって
とてもとても
もったいないと
思うのだが。
・・・・・・
「等身大」という
言葉は、
「まぁ自分はそもそも
これくらいの大きさ
だから」
というように
謙虚な意味で
使われる場合が多いが、
別に謙虚に
ならなくてもいいよ。
と言いたくなる。
そこで謙虚に
なったって、
はっきり言って
何の意味もない。
地球規模の器の人は
地球規模の
発想をすれば
いい。
よく、
「自分がこれから
何をすればよいのか、
見えてこないのです」
というご相談を
受ける。
特に最近は
ほぼ、毎日のように
受けている。
そういった場合の
多くは、
自分を小さく
見過ぎ
なのだ。
もうちょい、
自分というものを
あるがままに
感じてみては
どうだろうか。
自分の
「大きさ」
を。
・・・・・・
「これまで私は、
この年齢になるまで、
実際には
それほど大きなことは
何もできていません。
だから、
私はこれくらいの人間
なのだと思います。
それをよくわかった上で
今後のことを
考えたいと思います」
・・・って、
本当にそれでいいの?
本当にそれで
あなたは幸せ?
周りは
幸せになる?
もちろん、
無理に大きなことを
考える必要は
ないけど、
謙虚に考え過ぎる
ことで、
自分が真本音で
望んでいる道が
見えなくなってしまう
ことの
もったいなさ
を、知ってほしいな。
これまでの経験
と
これまでの実績
のみで、
自分を判断するのは
やめましょうよ。
私が知っている
ほとんどの人達は、
これまで
あえて
「自分を抑えてきた」
傾向が高い。
あえて
「本来の自分の力を
出さずに生きてきた」
傾向が高い。
なぜなら、
「世の中の準備」が
整っていなかったから。
「世の中の真本音度合いが
ある一定以上に
高まるまでは
自分をあまり出さない
ようにしよう」
と決めてきたのだ。
それは
エネルギーの
バランスを取るため。
世の中のエネルギー
(ここで言うエネルギーとは
「次元の高さ」とイコール
と捉えていただいても
よいです)
と、
自分自身の持つエネルギー
が調和を起こせる状態を
これまでの人生では
待ち続けていた
ということ。
そしてここ数年、
具体的には
2013年くらいからの
この5〜6年で、
世の中の
(次元という意味での)
エネルギー量は
格段にアップした。
それを
頭ではなく、肌で
感じ取っている人々は
ようやく今、
重い腰を上げ、
本来の自分の力を
解放しようと
している。
その段になって、
「いやいや、
私の等身大は
これくらいだから」
とやるのは、
まったく意味がない
どころか、
「害である」
と言ってもよいのでは
ないか。
もっともっと
「あるがままの自分」
を感じ取って
ほしい。
そして
本当の意味での
「等身大」
の自分として、
今後の発想を
してほしい。
あなたは
そんなに
ちっぽけでは
ない。
断じて。
つづく
怖いことを
「怖い」と感じる
感性は
とても大事だ。
怖さとは
乗り越えるもの
ではない。
怖さとは
純粋に感じ取る
ものだ。
感じ取る
だけでいい。
しっかりと
感じ切ることだ。
ここを
中途半端にするから
足が前に
出なくなる。
感じ切ることで
「怖さがあるからこそ」
の進み方が
できるようになる。
それは多くの場合、
「地に足のついた」
進み方となる。
つまり怖さとは、
「味方」である。
・・・・・・
それは
私の5歳の息子を
見ていると
よくわかる。
私の息子は
かなりの怖がりだ。
すぐに
「怖い、怖い」
と言って
尻込みをする。
私も子どもの頃は
極度の怖がりだったが、
それ以上に見える。
しかしあえて私は
そのままに
放っておく。
「怖がらずにやれよ」
とは
あえて言わないことに
している。
ただ、
それをする意味だけ
伝える。
これに挑戦することで
こんな良いことが
あるのだよ、と。
それでも
「怖い」を連発する
のだが、
ある一定の時間が
経つと、
まるでそれまでの
記憶がなくなって
しまったかのように、
突然に
毅然とそれを
始めるのだ。
その変わり身に
私はいつも
茫然とするのだが、
あぁ彼は、
怖さをきちんと
感じ切ったな、
とわかるのだ。
反応本音を
しっかりと
感じ切ると、
真本音が
発動する。
今、自分が
何をすべきか?
に対して
真摯になれる。
毅然となれる。
それは
大人も子どもも
同じだ。
ただしこう書くと、
「邪魔な反応本音を
捨て去ることで
真本音が発動する」
という印象を
持たれてしまうかも
しれない。
いや、そうじゃない。
反応本音が
あるからこそ、
真本音の一歩は
より
毅然としたもの、
安定したものと
なるのだ。
反応本音は
真本音の
「味方」だ。
自らの
反応本音を
愛する人は、
自らの
真本音を
愛することができる。
つまりは、
自分自身を
本当の意味で
愛することができる。
それにより
私達は
自分を信じ、
最善の一歩を
踏み出し続けることが
できる。
・・・・・・
怖がる自分を
責めないで
ほしい。
責めても
何も生まれない。
怖がるからこそ
最善の一歩が
踏み出せるという
事実を
知ってほしい。
怖さは
次元を低める
ものではない。
怖さがあるからこそ、
私達は
次元の高い選択が
できる。
これからの時代は
「勇気」の
必要となる時代だ。
過去のやり方を
あらゆる意味で
手放さなければ
ならない。
過去の常識を
超えてゆかねば
ならない。
そんな時代に
存在している我々が
大事にすべきが、
「怖さ」
である。
あえて
「怖い」方に
向かおう。
「怖さ」を
感じ切りながら。
つづく
きっと、
私達は今、
岐路に立っているのだと
思う。
人が
人としての本質を
さらに深め、
そして高めていく
道を進むのか?
それとも、
その道を放棄し、
これまで通りの
私達を
これまで通りに
ただ流して行く
だけなのか?
当然、
こういった書き方を
すれば、
「前者の方がいい」
ということに
なるだろうが、
しかし前者の道には、
勇気と決断が
要る。
もちろん私達の
真本音は、
その勇気と決断を
しようとしているが、
現時点では、
ほとんどの人は
後者の道を選ぶのだと
思う。
なぜなら
多くの人達は、
「今ここにいるまま」
を維持したいから。
現状維持
だ。
これまでと同じ
やり方で、
これからも進んで
行ければいい、
と願っている。
それは
「安定」を求める
私達人間の本能の
一つかもしれない。
しかし実は、
本当は
「現状維持」は安定では
ない、
ということを
私達は本能的に
知っている。
その事実に
気づいた人はむしろ、
現状維持を恐れる
のであるが、
多くの人は
その事実にすら
蓋をしている。
要するに、
「面倒臭い」
のだ。
様々な事実を
目の当たりにして、
問題が起こる前に
きちんと対処しておく、
という生き方が
面倒臭い。
これを私は
「怠慢」
と呼んでいる。
・・・・・・
放っておいても
いずれ、
何とかなるだろう。
と、
私達はどこかで
思っている。
これこそが
「怠慢」の
典型であるが、
それをまた
認めようとしない。
隣の家が
火事で燃えていても、
それはあくまでも
隣の家のことで、
何だかんだ言っても、
自分の家に
燃え移ることは
ないだろう、
と
タカをくくっている。
いや、本当は
タカをくくるどころが、
自分の家に燃え移る
ことを恐れているのだが、
しかし
その気持ちに蓋をして、
「大丈夫、
問題ない」
と言い張る。
常に問題を
後回しにして、
いざ、
本当に自分の家に
火が燃え移ってから
大慌てする。
そして
「何でこうなるんだ!」と
文句を言うか、
もしくは
「もっと早く対処すれば
よかった」と
後悔する。
本当は
自分の「怠慢さ」が
すべてを
招いている。
そこに皆、
気づくといい。
偉そうに言っているが、
私もずっと
「怠慢」だった。
だからよく
わかるのだ。
それが
どんなに酷い現実を
引き起こすか?
を。
そして
どれだけ
自分や他人を
傷つけるか?
を。
・・・・・・
人としての
「本質の道」を
行くか?
それとも
「怠慢の道」を
行くか?
この岐路に
今の私達は
ある。
もちろん私は
前者に行きたいと
思っているし、
多くの人が
そうなるといいな、
と
願っている。
私にできることは、
そのために
私にできる最大のことを
毎日、
し続けること。
私は
「コーチ」という
役割を通じて
それをしているが、
そういった「コーチ」を
増やすために
動くのも
私のできることの
一つだ。
「コーチ」を増やす
と言っても、
大量生産は
しない。
できるわけが
ない。
たとえ少人数でも、
一人一人
丁寧に私は
発掘し、
そして
指導する。
つづく
ある方から
ご質問をいただいた。
「真本音と魂は
同じものですか?」
その人は、
ある大手企業様で
とても重要な役割を
されている人で、
これまで人生を
「全力」で生きてきた
人だ。
だから私も
全力でお答えする
ことにする。
・・・・・・
本当は、
本来は、
魂と真本音は
イコールのはず
のものだ。
つまりは、
魂の意思が
真本音である、
と言っていい。
しかし残念ながら、
今はそう言えない
事情がある。
私達のほとんどが、
魂レベルの反応本音
を持ち合わせている
からだ。。
これがきつい。
これが
尋常ならざる
エンティティを
生む。
(エンティティとは、
ストレスの濃度が
ある一定以上に高まり、
物質化したもの。
念の塊であり、
「生き霊」と訳される
こともある。)
いつも企業様で
多くの人と
向き合っていると、
私はこの
魂レベルの反応本音
をダイレクトに感じ、
受け取る。
これが本当にキツく、
私は自分が受けた
ストレスを
浄化するために
夜を徹することが
頻繁にある。
逆に言えば、
多くの人達が
それほどのストレスを
持ちながら、
生きている。
夜中にストレスに
苦しみながら、
私はいつも
思うのだ。
よくもまぁ、
こんなストレスを
抱えていて、
あの人は
平気な顔をしている、
と。
しかし本当は
平気ではない。
ただ
麻痺をしている
だけのことで、
本当はとても
苦しんでいる。
他人事では
ない。
ほとんどの人が
そうなのだ。
・・・・・・
ではこれが、
「現代社会」と呼ばれる
最近の傾向なのか?
と言うと、
私はそうではない
と感じている。
恐らくこの
魂レベルの反応本音
は、
人類のこの数千年の
歴史の中に
常にあり続けたもの
だと
私は思う。
本来は
魂には
反応本音は
つかない。
本来は
魂には
ストレスは
生じない。
・・・はずなのに、
そうではない
状態のままに
人類は
歴史を重ねてきた、
のだと
私は思っている。
どうして
そう思うか?と
問われても
上手く答えることは
できない。
しかし、
毎日それらのストレスを
受け取り、
向き合っていれば
誰もが同じ印象を
持つのではないか。
それほど、
それは
ひどい。
はっきり言って
私は、
私を含めた人類は、
魂レベルの
病気にかかっている
と、
自覚している。
「自覚している」
とあえて書いたのは、
自覚した人が
増えてほしいという
願いからだ。
病気は
自覚しないと
治らない。
でも、
自覚すれば
治そうという
意図が働く。
そして
私達の真本音は
(全員の真本音は)
この病気を
全力で治そうと
思っている。
その自らの
真本音の想いと
共鳴することが
大事であると
私は思うし、
それを自覚する人が
増えれば増えるほど、
一気呵成に
この病気は
改善されていくのでは
ないか、とも
思っている。
これが、
私の「現場感覚」
だ。
・・・・・・
真本音の叫び。
病気を治したい
という
叫び。
そのためには、
今ここで
こんな行動を
しよう!
という訴え。
これが、
私達の中に
ある。
真本音度合いが
高まれば、
その「叫び」や「訴え」に
敏感になる。
それは
悪いことではない。
麻痺しているのが
最も
ひどい状態だ。
その麻痺状態から
抜け出し、
今ここから
一つずつ
一歩ずつ
健康状態に戻そう
という、
そのきっかけになる。
しかし。
その「叫び」や「訴え」に
敏感になっても
それでも
耳を塞いでしまう
人がいる。
本当は
聴こえていても、
聞こえていない
ふりをしているのだ。
最近の私の
憤りのほとんどが
ここにある。
真本音の
叫び。
それは、
魂の叫び
と言ってもいい。
これが
心の中に
鳴り響いている。
にも関わらず、
多くの人は
耳を塞いだままだ。
「叫び」さえ聴けば、
自分が今、
何をすべきか?が
皆、
わかるはずだ。
私達の真本音は
決して
無茶は言わない。
自分に
できることしか
言わない。
でも、
自分にできることすら
やろうとしない、
そんな人が
多過ぎるのは
悲し過ぎる。
でも少なくとも私は、
自分にできることを
する。
そう決めている。
私自身の
真本音の叫びと
訴えに
真摯に耳を傾けると、
決めている。
つづく
自分が
全力を出したら
どうなるか?
を、
知っているか?
知らないので
あれば、
ぜひ
知るべきだ。
何でもいい。
全力を
尽くしてみる
べきだ。
全力を
尽くさなければ
見えない世界が
ある。
そして、
全力を
尽くさなければ
見えない自分が
いる。
全力とは、
100%の力を
出し切ること。
もうこれ以上は
できない、
絶対にできない、
と
思えるところまで
力を尽くすことだ。
それが
真本音の判断か、
反応本音の判断か、
は
この際、
どちらでもいい。
・・・・・・
最近、
一つ気づいた
のだ。
私の
真本音の話を
聴くことで、
途中までは
真本音度合いを
高めて
いい感じになるのだが、
途中から、
自己満足に走り、
自分は
真本音で生きている
つもりになっていても、
著しく
真本音度合いを
低めてしまう人が
いる。
どうして
そうなるのか?
その理由が
今一つ判別できずに
ここまできた。
でもやっと
単純な答えの一つに
たどり着いた。
「全力を
出したことがない」
のだ。
全力を出したことの
ない人が、
真本音の話を聴くと、
全力を避けるために
真本音を理由に
現実逃避を
始めるのだ。
「私の真本音は
こう言っています。
だから、私は
それをせずに、
これをします」
と。
しかしその
「私の真本音」は
本当の真本音
ではない。
「真本音」という
言葉を
都合よく
使っているだけの
ことだ。
・・・・・・
企業様のサポートの
場合、
実は、私はこれまで、
真本音度合いの
高まった人にこそ
より厳しい現実を
与える、
ということを
してきた。
例えば、
その会社の社長から、
その人に対して、
非常に厳しい
「目標」を
与えていただいたりした。
厳しい「現実」を
与えられ、
しかしそれに対して、
「真本音で
立ち向かう」
ことにより、
「どのような状況でも
真本音で生きる
力を養成する」
ことが
できるからだ。
真本音で生きる
とは、
好き勝手に動ける
状況をつくる
ことではない。
どのような状況でも
私達は
真本音で生きる
ことができる。
そしてその結果
自分の望む
道を開くことが
できる。
それを
体験を通じて
学ぶことを
私はこれまで大切に
してきた。
だから、
真本音度合いの高まった
人にこそ、
あえて
その人にとっては
厳しい現実を
与えたりした。
それが、
私が大事にしてきた
「サポート」の
一つだ。
それは
言葉を変えれば、
その本人が
全力を尽くす場面を
設定した、
とも言えるのだ、
ということに
最近、気づいた。
・・・・・・
全力を尽くした
時の
自分を知ること。
これを知らない
人は、
傲慢になる。
変な言い方だが、
本当に全力を
尽くした人は、
自分の
あまりの力のなさに
茫然と
するはずだ。
自分とは、
何もできない人間
だった。
という事実に
茫然自失と
なるはずだ。
この経験がない
人は、
全力を尽くした
経験がない
ということだ。
こうなった時、
人は初めて
「自分」を知る。
「自分の現在地」
を知る。
そして
そんな人に
「真本音」の話を
すると、
一気に花開く。
どこまでも
自分を
開花し続けさせる。
・・・・・・
傲慢な人
ほど、
「自信がない」
と言う。
全力を尽くした
ことがないから、
傲慢なのだ。
全力を尽くした
経験のある人は
謙虚だ。
謙虚な人は、
「自信がない」
とは
言わない。
自信がない
のは
当たり前だし、
自信があるとか
ないとか、
そんなことは
関係ないからだ。
それよりも、
自分の
本当にすべきこと
(イコール、それは
したいこと)
に、
向かうことが
自分の人生であると、
わかっている。
それこそが、
真本音で生きる
ということだ。
つづく
「自由」とは
何だろうか?
このテーマを最初に
自覚したのは、
もう16〜7年前だ。
当時、私は
師匠の会社の
雇われ社長をしていたが、
そこから飛び出し、
自分で一つの
会社を立ち上げた。
その時に
自分の中から
浮上してきたのが
このテーマだった。
以来、私は
このテーマをずっと
探究している。
・・・・・・
これについては
いろんな視点からの
いろんな答えが
あるだろう。
ただ、
私からみれば、
多くの人が
「勘違いの自由」を
欲しているように
思えてならない時が
ある。
それは
「状況に自由を
求める」
ということだ。
つまりは、
「自由な状況に
なりたい」
と思い、
その「状況」を手に入れる
ことを
「自由である」
と思い込んでいる
ことだ。
残念ながら
それにより私達が
本当に「自由」を
感じることは
ない。
いや、正確には
あるにはあるが、
それは一時的な
ものだ。
もうちょい、
わかりやすく
言おうか。
多くの人は、
「何でも自分の
思う通りにできる
状況にしたい」
と思い、
その状況を
実現できている
ことを
「自由になれた!」
と言う。
例えば、
「この会社では
自分は自由に
やれないから、
別の会社に行って
自由にやるんだ」
とか、
「独立をして
自分の好きなことを
やるんだ」
とか。
そしてその通りに
する人がいるし、
私はそれを
止めることもないが、
それでその人が
本当に「自由」を
手に入れることは
極めて稀だ。
なぜなら
その人の
「心が自由」
ではないからだ。
一つ言える
とても大事な
こと。
それは、
私達人間は、
どれだけ
「状況が自由」に
なっても、
本当の「自由」を
感じることは
ない。
「心の自由」
を手に入れない
限りは。
・・・・・・
「自由にできる
状況になれば、
私は自由に
なれる」
でも、
「自由にできる
状況になければ、
私は自由には
なれない」
というのは、
本当に「自由」
だろうか?
私は、
本当の「自由」とは、
「どのような状況でも
自由でいられる
自分でいること」
だと
思っている。
そこに必須なのが
「心の自由」
である。
どんな状況でも
「心が自由でいられる自分」
である人は
一生、「自由」で
いられるだろう。
そして、
私の表現を使えば、
「心が自由」
であることと、
「真本音に素直に
生きること」
は、
まったくの
イコールである。
私達は、
どのような状況でも
真本音に素直に
生きることが
できる。
「自由な状況
だから、
私は真本音で
生きることができる」
ということでは
ない。
それは
真本音ではない。
私達の真本音は
「状況」は
選ばないのだ。
この会社でも
あの会社でも
独立をしても
しなくても、
私達は
「今ここ」で
「いつでも」
真本音で生きる
ことができる。
その本質を
本当に理解できて
いる人は、
常に「自由」だ。
・・・・・・
以上のことを
しっかりと
理解できている人に
私は
「コーチ」に
なってもらいたい。
ここを理解
していないと、
「人を自由にできる」
サポートは
絶対に無理だからだ。
今の世の中は
残念ながら、
とても不自由だ。
みんな
自由を求めて
不自由に
生きている。
つづく
私は
心の中にモヤモヤが
あるうちは、
決断しないように
している。
どれだけ
考えに考えても、
モヤモヤが晴れない
うちは、
その決断は
後で覆ることが多い
のを知っているからだ。
しかし
それがわかっていても、
ついつい考え込んで
しまう。
そういった時は
「決断しない」
ということを
決断した上で、
そのモヤモヤと
対峙する。
しっかりと考え、
しっかりと悩む。
すると面白いことに、
「決断しない」
という前提があるからこそ、
そのモヤモヤが
生きてくるのだ。
何のためのモヤモヤか?
がある瞬間に
忽然と観えてきたり、
本当は何に
迷っているのか?
が突然に理解できたり。
反対に、
これは全く意味のない
迷いだな、と
わかることもある。
いずれにしても、
「決断のために
モヤモヤする」
のではなく、
「ただ単純に
モヤモヤするために
モヤモヤする」
ことで、
発見することは多い。
セルフコーチング
の基本である。
・・・・・・
ところが、
その人のモヤモヤを
何でもかんでも
その場で解消しよう、
というサポートをする
コーチがいる。
コーチングの
いろんな手法やら
何やらかんやらの
手法やら
を使って。
そして、
「私のセッションを
受けると、
スッキリするでしょ」
と
アピールしたいが
ための
コーチングをし続ける。
それはもはや
コーチではない。
ただの
大迷惑だ。
スッキリするに
越したことはないが、
本来のスッキリは
モヤモヤすべきを
しっかりと
モヤモヤし切ることで
初めて得られるもの。
コーチの自己満足
で得られる
ものではない。
・・・・・・
しかしまぁ、
昨日の記事と言い、
なんか今の私は
苛立っているのか?
文章を書くと、
憤り系のものに
なるな。
どうやらかなり
モヤモヤしている
ようだ。
さぁ今から
しっかりこれと
対峙してみるか。
つづく
セルフコーチングや
コーチングの
本質は、
「現実を変える」
ことにあると
私は思っている。
現実を変える
ために、
まずは自分の
「本当の想い」
を知る。
本当の想いに
基づいた行動を
することでしか、
本当に望む方向に
現実を変えることは
できないからだ。
当たり前の
ことであるが。
そして、
「本当の想い」
を知るために、
自分自身の心の
状態を
整える。
心を自ら
スッキリとさせ、
晴れやかな状態で
いるための術を
身につける。
それをまた
セルフコーチングと
言うのだが。
しかしそれは
あくまでも、
①心の状態を整え、
②本当の想いを知り、
③現実を変える
というステップの
最初の段階に
過ぎない。
ところが。
①を手に入れる
ことで、
満足をしてしまう人が
いる。
もしくは、
②までは行くのだが、
③を行わない
人がいる。
残念ながら、
③を行わなければ、
すべて
「自己満足」
である、
と私は考える。
人生は、
行動してなんぼ、
である。
行動に移し、
想いを形にし、
現実を変えて行くのが
人生だ。
①ができないが故に
③ができない人が
いるが、
それは当たり前だと
私は思うし、
それはしょうがないな、と
私は思う。
しかし、
①と②ができるように
なった上で、
③を拒否・拒絶し、
①と②の気持ち良さの
中で
浸り続ける人がいる。
私は
そういった人を
見ると、
どうしても
無性に
腹が立つ。
・・・・・・
できないから
できない、
のはしょうがない。
どうすれば
できるようになるか?
を考え、
一歩ずつ進めばいい。
しかし、
本当はできるにも
関わらず、
できないふりをして
やらないのは
本当に腹が立つ。
そして、
①と②ができるように
なり、
しかし③をしない人は
本人が気づかない
うちに、
心の麻痺が
始まる。
心の麻痺によって、
自分自身の
真本音と反応本音の
区別が
つかなくなる。
せっかく
①と②ができるように
なり、
自分の真本音が
わかるようになっても、
③をしないことで、
真本音が
見えなくなってしまうのだ。
ところが、
麻痺が起きているために、
本当は
真本音が見えなくなって
いるにも関わらず、
「見えているつもり」に
なる。
そういった人の
多くは、
「これが私の真本音だ」
と、周りに主張
するようになる。
「私の真本音が
こう言っているから
私はこうするのだ」
という主張が
多くなる。
なぜ「主張」になるかと
言えば、
それは自分自身に対して
「言い訳」
をしているからだ。
本当はそれは
真本音でも何でも
ない。
③から逃れるための
ていのいい
言い訳に過ぎない。
本来すべきこととは
別のことに向かい、
ただただ
気持ちの良いことしか
しないための、
単なる
言い訳に過ぎない。
「私の真本音が
こう言っているから
私はこうするのだ」
・・・ばかりを
言い出したら
かなり要注意だ。
すでに
その人は
真本音度合いを
下げている。
本当に
真本音で生きている
人は、
そんな言い方は
しない。
私はこの状態に
入ってしまっている人を
「真本音に依存している」
と表現している。
本当は
真本音に依存は
できないし、
本当の真本音は
依存などはさせない
のだが、
「真本音」という言葉を
使いながら、
その人は
自分の意志(意思)を
放棄しているのだ。
こういった人を
見ると、
私はとても
腹立たしくなるし、
悲しくなる。
・・・・・・
もし、
10の想いがあれば、
100行動する、
くらいが
ちょうど良いのでは
ないかと
私は思っている。
行動すれば、
いろんな壁に
当たる。
たとえ
真本音で決めて
行動しても、
そこには必ず
壁がある。
しかしその壁に
当たることで
私達は
学ぶことができる。
真本音で生きる
とは、
壁を回避して上手く
生きることではない。
本当に必要な
壁に当たり、
本当に必要な
体験・経験をし、
本当に必要な
試行錯誤を
繰り返し、
本当に必要な
進化成長をし、
結果として、
本当に望む現実を
手に入れる。
これが
真本音で生きる
ということ。
この、
最も大切な部分を
決して
間違えないでほしいと、
私は
切に願っている。
つづく
真本音度合いが
高まったり、
意識の次元が
高まったりすると、
まずは
どんなところに
変化が
現れるか?
その現象は
様々であるが、
意外なところを
一つ。
それは
「声」
である。
真本音度合いが
高まると、
声が変化する。
声の聴こえ方
自体は
変わらないかも
しれない。
しかし
何か、が
変わる。
恐らく、
波長が変わるのだと
思う。
真本音度合いの
高い人の声を
聴いていると、
とてつもなく
癒されるのだ。
それは
大人も子どもも
同じ。
その人の声が
私の鼓膜を震わせる
だけで、
とても幸せな
感覚が
全身に広がる。
ある人がふと漏らした
言葉が
真本音から発せられた
場合、
それを聴いた瞬間、
私は体の芯が
ゾゾゾッとなることが
ある。
それはとても
気持ちのよい
ゾゾゾッ、なのだが、
それも恐らく、
その一言だけ、
声の波長が変わる
からだと思う。
なかなか
面白いでしょ?
企業のリーダーや
管理職さんで、
真本音度合いが
高まることで、
「どれだけ部下に
厳しくしても、
部下が私の話を
ちゃんと聴いて
くれるようになりました」
と言われる人が
多い。
これも、
声の波長が変わる
からかも
しれないね。
癒しの波長であれば、
厳しいことを伝えても、
どこかあたたかく
伝わるだろうから。
やはりすべては
自分の生き方。
真本音に素直に
生きるかどうか、で
あらゆることが
変わって行くね。
つづく
私の息子は5歳で
子ども園に
通っている。
毎日はとても
無理であるが、
週に何回かは
できるだけ夕方に
お迎えに行くように
している。
息子との会話の時間
を取りたいという
目的があるが、
子ども園にいる
子ども達の「集団」を
感じてみたい
という
目的も大きい。
あの「集団」の中に
入ると、
今の幼い子達の
真本音からのメッセージ
をたくさん
知ることができる。
今、彼らは
世の中を
どのように捉えていて、
何を感じ、
自分がどう動こうと
思っているのか?
それを
真本音のレベル
(魂のレベル)
で知ることが
できる。
これは実は、
私のお仕事の
大きなヒントと
なっている。
なぜなら私は
彼らのような子ども達が
将来、
大活躍できる社会に
したいと思っている
からだし、
そのためにも、
そういった組織(会社)を
増やしたいと
願っているからだ。
子ども達の
感受性は
素晴らしい。
我々の世代よりも
真本音の度合いも
意識の次元も
明らかに
高い。
我々が創り出した
のとは
違った社会を
彼らは創り出して
くれるだろう。
その土台を
今のうちから
創っておく必要が
あると
私は思っている。
・・・・・・
これまで彼らから
いくつもの
真本音メッセージを
感じたが、
最近、最も
印象的なのは、
「大人達みんなが
こなし過ぎてる」
という
メッセージだ。
もちろんそんなことを
言葉で言われた
わけではない。
しかし彼らの
空気感を言葉にすると
こうなる。
「こなす」
というのは、
「魂を込めていない」
ということだ。
「妥協している」
ということだ。
日常の一つ一つの
行動、
それはほんの些細な
ことかもしれないが、
一つ一つの
大人達の振る舞いに、
子ども達は
悪い意味の「適当さ」を
感じてしまっている。
しかもそれが今は
日々、
増大している
ようなのだ。
そこに子ども達は
「気持ち悪さ」を感じ、
そのストレスが
私に伝わってきた。
子ども達は
親や、
周りの大人達に対して
「幸せであってほしい」
と常に
願っている。
自由奔放に見えて、
実は、
親や大人達の
幸せのために
「こうしよう」と
彼らなりに思いながら
行動していることは
とても多い。
子ども達は
親(大人達)の生み出す
ストレスに
敏感になっており、
多くの子ども達が
親(大人達)が
発生させたストレスを
肩代わりしている。
だから私は、
子ども達を通じて、
大人達のストレスを
子ども園では
よく受け取って
帰ってくる。
今、それらの多くは
「妥協のストレス」
だ。
自分の真本音を
無視し、
「まぁこれくらいでいいか」
と妥協しながら
生きる大人が
多いのだろう。
特にその妥協の度合いが
最近は増えている
ようだ。
子ども達の
感受性は高い。
大人達の生き方が
彼らにダイレクトに
影響を及ぼしている
という事実を
我々はもっと
知った方がいい。
「子ども達に
幸せになってほしい」
とか、
「次世代につながる
社会にしよう」
とか、
軽々しく我々は口に
するが、
そのためには
まずは、
普段の我々の
生き方こそを
もっとしっかり
するべきではないか。
もっと
一つ一つの物事に
魂を込める
べきではないか。
つづく
私はまず、
企業様のサポートに
入らせていただく場合、
最初に
一日かけて研修を
行なうことが
多い。
そこでは
「真本音」「反応本音」
について
ゆっくりじっくりと
ご説明をするのと同時に、
自分自身のこと
について、
自分の人生に
ついて、
私が23問の問いを
投げることで
ゆっくりじっくりと
考えていただく。
すると
多くの人達から
「こんなに自分の
ことを、
自分の人生のことを
考えたことは
ありませんでした」
というお声を
いただく。
もちろんそれは
喜びのお声
なのだが、
いつも私は
そこで、
少し悲しくなる。
だって、・・・
私の講義を入れても、
たったの
6〜7時間。
これまで
何十年も生きてきて、
たったの6〜7時間
という短い時間。
そんな短い時間
自分や人生を
考えただけ。
それでそんな
感想、って。
いったいどれだけ
自分と向き合って
いないんだ、
ってことでしょ。
これまでの
何十年、
いったい何を
してきたの?
ってことでしょ。
でもそれが
ほとんどの人達。
今の社会の現状。
自分のことを
考えないという
ことは、
自分のことを
大切にしていない
ということ。
自分の人生を
大切にしていない
ということ。
まずはそんな
とても単純な
現実を知ることが
スタートなのであるが、
しかしやはり、
悲しい現実だ。
・・・・・・
自分のことを
知らず、
自分の人生の
ことを
知らず、
ただただ
人は
人生を生きていく。
それが
苦しいことである
という事実を
感じる人は
まだ、よいと思う。
しかし
その苦しさに
麻痺をしてしまい、
そのまま
人生を歩み続ける
人は多い。
今日、
私のセミナーを
受けてくださった
ある人が、
そのことを実感され、
「私はなんて
危うい人生を
生きてきたんだろう」
と言いながら、
目に涙を
溜めていた。
そう、
自分のことを
知らないままに
進むのは
危うい人生だ。
でも
その人はこう
続けられた。
「だから私は
これからは
自分の人生を
生きる。
まだまだ抽象的だけど、
私の本来の役割が
少し見えてきた」
と。
そして
その人から
真本音の風が
吹いてきた。
たとえ、
何十年も
自分を知らないままに
生きてきたとしても、
それでも、
「今」から始める
ことはできる。
もちろんそれは
少しでも早い方が
よいのだが、
それでも、
始まればそれは
「自分の人生」
だ。
自分の人生
を
生きてほしい。
自分の人生
として、
目の前の現実に
対峙して
ほしい。
それが私の
「コーチ」としての、
いや、
「人間」としての、
最も単純な
願い、かな。
つづく
明日でもなく、
昨日でもなく、
今日やらねば
ならぬことが
ある。
今日この日こそが
最善最高の
タイミングで、
二度とそのチャンスは
来ない、
ということがある。
実は人生とは
その連続だ。
一見、当たり前の
ように
見えることでも、
一見、偶然に
見えることでも、
今日のここしかない、
これ以上の
タイミングはない、
という事柄は
無数にある。
だから
それを
今日やる。
そして反対に、
今日が
最善のタイミングでは
ないことも
ある。
だからそれは
今日は
やらない。
この連続。
ここを丁寧に
進むことで
道は開ける。
これが
真本音で生きる
基本だ。
つづく
自分の中から
エネルギーが湧き出てくる
のであれば、
そのエネルギーの
使い途が
必ずある、
ということだ。
ところが、
それがわからない
という人が
多い。
わからないから
エネルギーを
放っておく、
という人が。
下手をすると
せっかく湧き出ずる
そのエネルギーに
蓋をして
なかったことにする
人さえいる。
実は、
若い人に
多い。
もし
エネルギーが
湧くならば、
誰よりも
自分自身が
そのエネルギーを
感じ続けること
だ。
そのエネルギーを
常に
観察すること。
そのエネルギーを
抱き続ける
こと。
何がなんやら
さっぱりわからなくても、
それをとにかく
大切にすれば、
「現実」が
その「エネルギー」に
ついてくる
ようになる。
「現実」が
そのエネルギーによって
徐々に
流れ始めるのだ。
変化を
始めるのだ。
するとその
変化の中で、
ふと、
エネルギーの使い途
を
直観する。
人生は
面白い。
自分の道が
わかることで
エネルギーが湧く
こともあれば、
エネルギーが
湧いてから、
そのエネルギーが
ヒントになって
道が観えてくる
こともある。
いずれにしても、
そのエネルギーは
自身の真本音が
もたらしている
ものだ。
・・・・・・
人生において
自分のエネルギーを
常に
100%出し続けている
人がいる。
これは実は、
間違っている。
エネルギーとは
そのように使うもの
ではない。
それに
常に100%出すことを
「真剣」とは
言わない。
それは単なる
「ガムシャラ」
である。
ガムシャラと
真剣は
違う。
もちろん
ガムシャラに生きる
ことが大事な
時もある。
真剣とは、
いつ、どの瞬間に、
ガムシャラになるか?
を見極めながら
生きている状態
だ。
力を抜くところでは
しっかりと
力を抜き、
そのかわり、
いざというところで
100%ではなく、
1000%の力を
出す。
それができる
自分でいる。
それができる
生き方を
する。
それが
真剣に生きる
ということだ。
つまり、
真剣に生きる
とは、
自分自身の
エネルギーマネジメント
をすることである。
・・・・・・
真本音で生きる
のと
真剣に生きる
のは
ほぼほぼ
イコールである。
私達の真本音は、
自分の中から
必要なだけ
エネルギーを開放し、
それを
必要な場所で
必要な瞬間に
必要なだけ
活用しようとする。
真本音に
素直に生きることで、
私達は
自分自身のエネルギーを
有効活用できるし、
今の自分の
1000%を
出せる瞬間を
生み出すし、
それにより、
自分の枠を超えたり、
可能性を
無限に引き伸ばす
きっかけを
創り続ける。
それはある意味、
とても冒険的で
刺激的で
楽しくもある。
・・・・・・
私の中にある
心の大地。
今日、
その大地に
小さな亀裂が入り、
そこから
新たなエネルギーの束が
溢れ始めた。
抑えていたものが
破れ、
まるで血しぶきのように
エネルギーが
溢れ出しているのを
今、私は
茫然と見つめている。
このエネルギーは
何のために
どのように使うのか?
それを
明日以降の私は
楽しみたいと
思っている。
つづく
こんな風に書くと
変な風に聞こえるかも
しれないが、
私は私自身の
あまりのエネルギーの
高さに
呑まれそうになって
しまうことがある。
昔はこんなことは
なかったのだが、
真本音度合いが
高まってからは
時々、来る。
実はその
高いエネルギーを
人前で見せたことは
一度もない。
私自身が
呑まれるわけには
いかないからだ。
下手をすると
人前では
私はいつも
自分のエネルギーを
1%も見せていない
かもしれない。
でも、
こういう人、
今は
増えているのでは
ないか?
・・・・・・
「内発的モチベーション」
という言葉が
ある。
一般的にも
使われる言葉だが、
私は以下のように
定義している。
と、その前に
「外発的モチベーション」
との区別から
入った方がいいかな。
外発的モチベーション
とは、
外からの影響によって
動機付けされ、
やる気が高まること
を言う。
例えば、
誰々に喜ばれて
やる気が高まった、
とか。
お給料が上がって
やる気が高まった、
とか。
好きな仕事と
巡り合えて
やる気が高まった、
とか。
要は、
「現実」が「自分」に
影響を与え、
やる気が高まる
という状態だ。
通常、
「モチベーション」という
言葉を使う場合は、
ほぼほぼ、
こちらをイメージする
人が多い。
それに対して、
内発的モチベーション
とは、
今の「現実」がどうか?
は
まったく関係ない。
嬉しいことがあった
とか、
悲しいことがあった
とか、
「現実」とは
関係なく、
ただただ
自分の内側から
エネルギーが
高まってきている
状態だ。
通常は、
真本音度合いが
高まるだけで、
人は
内発的モチベーションが
上がる。
「現実」とは
関係なく、
内側からエネルギーが
湧いて来るのだ。
だからよく
私のコーチングを受けて
真本音度合いが上がると、
「状況は何も
変わっていないのに、
なぜかとても私、
毎日元気です」
「以前は不安に負けて
足がすくんでいましたが、
今はなぜだか、
多少の試練では
揺るがないどころか、
それを楽しんでいる
自分がいます」
などのお声を
いただく。
これは私自身も
そのような体験の
連続だったので
よくわかる。
ところが、
真本音度合いが
高いのが当たり前の
状態が続くと、
ある時ある瞬間に、
まるで何かの
殻が壊されたように、
凄まじい
というくらいの
エネルギーが
湧き始める。
何かの臨界点を
超えたように。
その状態に
入る人は、
逆に、
エネルギーマネジメントが
必要になるのだ。
つまりは、
省エネルギーで
進む必要が
出て来る。
自分のエネルギーを
自分で管理し、
必要な時に
必要なだけ
エネルギーを
使える状態
を維持できるように
するのだ。
・・・・・・
そしてこの
エネルギーマネジメント
が上手くできるように
なるのに
時間のかかる人が
多い。
私自身も
そうだったし、
今の私のクライアントさんは
この段階の人が
増えている。
ただ、・・・
その状態にある人
に、
あえてここで
お伝えしたいのは、
もう、
あなたのその
エネルギー、
一気に
解放してしまっても
よいのではないか。
・・・ということ
である。
私自身に対しても
言える。
これまで
1%未満に抑えていた、
そのエネルギーを、
もうちょい
解放しても
よいのではないか、
と。
それだけ、
世の中が整って
きたのだと思う。
「実在」のレベルでは、
世の中の
真本音度合いが
上がってきているし、
多くの人々の
「準備」も
あなた自身の
「準備」も
整ってきているのでは
ないだろうか。
これまで
無意識に躊躇してきた
その「躊躇」を、
もう少し
緩めてもよいのでは
なかろうか。
そういった意味で
2019年は
解放の年
なのかもしれないね。
つづく
人と向き合う
ということは、
人の反応本音と
向き合うという
ことだ。
反応本音は
激しい。
反応している本音
なのだから
当然だ。
しかし多くの人は
その激しさに
フタをしている。
自らの激しさに
フタをし、
自ら気づかないままに
生きている。
そして
何かの拍子に
そのフタが取れてしまう
ことがある。
その時に
驚くのだ。
自分自身の
反応の激しさ、
心の揺れの大きさ
に。
「コーチ」がしっかりと
向き合えば、
フタが取れてしまう前に
自分で自分の激しさを
垣間見ることが
できるし、
徐々にではあるが、
その激しさを
理解しながらも、
そのさらに奥に
あるものを
自ら感じられるように
なる。
激しければ
激しいほど、
そして、
それを感じれば
感じるほど、
それと
向き合えば
向き合うほど、
そのさらに奥にある
「静寂」と
「安定」に
人は気づくことが
できる。
それが
「真本音」
である。
・・・・・・
その状態に
なるためには、
まずは「コーチ」が
その人の激しさと
向き合う必要がある。
実は、
残念なことであるが、
この段階で
「コーチ」の厳しさを
知り、
「コーチ」という役割から
逃げてしまう人が
多い。
「人をサポートするのは
好きだけど、
人の激しさと
向き合うのはいや。」
という意識では
残念ながら
「コーチ」には
なれない。
もちろん
自己満足のコーチ
にはなれるだろうが、
それは
自己満足のサポート
でしかない。
よく私は
「人の真本音と
向き合う」
という言い方をするが、
その前提として
どうしても必要なのが、
「人の反応本音と
向き合い、
そのすべてを
あるがままに
受け止める」
という段階だ。
ここを逃げずに
やり続けることで、
初めてその「コーチ」は
目の前のその人の
「静寂」と「安定」を
感じることが
できる。
つまりは
「真本音」を感じとる
ことができる。
ここが
「コーチング」の
スタート地点である。
・・・・・・
私はこのお仕事を
させていただいて
本当によかった。
このお仕事のおかげで、
人間というものの
あらゆる面と
対峙することが
できた。
よく、
「たけうちさんは
性善説ですか?
性悪説ですか?」
と
初対面の人に
問われることがあるが、
人間とは
そんなにも単純な
ものではない。
あらゆるものを
包含しているのが
私達人間であり、
そのすべてと
対峙できるのが
「コーチ」であり、
ただただ
対峙するだけでなく、
何を観ても、
何を聴いても、
何を感じても、
自分自身が
毅然とそこに
立ち続けられる
必要がある。
だからこそ、
「コーチ」自らが
自分自身の
激しさと対峙
しなければならないし、
その奥にある
自分自身の
「静寂」と「安定」を
知っていなければ
ならない。
つまり。
「コーチ」になるために、
自分を強くしよう。
ではない。
これを言っているうちは
「コーチ」ではない。
「コーチ」になるために、
大事なのは、
あらゆる自分を
知ること。
特に
自分の弱さを
知ること。
その弱さと対峙し、
弱さを変えるのではなく、
そっくりそのまま
受け止めること。
自分の
あまりの弱さを
最後まで
実感し尽くすこと。
そしてそれを
直そうと
しないこと。
永遠に
その弱さの中に
いても大丈夫
という自分になる
こと。
それができて
初めて、
私達は
自分自身の心の大地に
しっかりと
足を踏みしめることが
できるし、
その状態になるからこそ、
すべての人と
向き合い、
すべての人の
激しさを
受け止めることができ、
「コーチング」を
始めることが
できるのだ。
厳しいお仕事だと
思うかな?
確かに
厳しい。
でも、
それを「使命」として
生まれてきた
あなたが
いるのではないか?
つづく
私達の中にある
真本音の願いは、
何があっても
揺らぐものでは
ない。
それは
生まれた瞬間から
存在し、
人生経験を経る
ことで、
徐々に明確に
なっていく。
そして、
ある時ある瞬間に
一気に
その姿を
見せる。
それは
「準備」が整った
証だ。
「準備を整える」
ための
人生のステージと、
「準備完了から」
始まる
人生のステージと、
私達の人生は
明確に二つに
区別される。
残念ながら、
最初のステージを
終える前に
人生を終えてしまう
人が
これまでは
ほとんどだった。
しかし
これからは
違う。
二つ目のステージに
人生の大半を
費やす人の割合が
劇的に
増えていくだろう。
つまりは、
人は
間違いなく
変わっている。
時代は
間違いなく
変わりつつ
あるのだ。
・・・・・・
この、
時代の変化を
私達はきちんと
受け止めねば
ならない。
これまでと
同様の
世の中が続く
と思っては
ならないし、
これまでの
「やり方」
の延長線上に
これからのやり方が
あるとは
思ってはならない。
もっと端的に
言おう。
これまでの時代は、
自分の使命を
見つけるために
人生の大半を費やす
時代だった。
これからは、
自分の使命を
見つけるのは
当たり前。
使命を見つけた
人達が、
使命を実現するために
人生の大半を
費やす時代
だということだ。
当然、
人と人の
関わり方、
そして、
組織のあり方、
仕組み
そのものが
大きく変貌する
はずだ。
ゆくゆくは
資本主義そのものが
何か別のものに
変換されるだろう。
そしてそのための
変換点は、
ほぼ、
この30年以内に
集約されると
私は観ている。
「観ている」
というのは、
予測している
ということではない。
「実在を感じ取っている」
ということだ。
この30年で
ほぼ、すべてが
決まる。
人類の
行く末が、
この30年間で
決定される。
と、
私は感知
している。
・・・・・・
この3次元の世界
では、
「時間」とは
過去から未来へと
一方向に一定の速度で
進むものだ。
つまり、
「時間」に自由は
ない。
これが、
この世界の宿命
だ。
しかし、
それ以上の次元に
なれば、
「時間」は自由
となる。
次元は
高まれば高まるほど、
「すべてが一つ」
になっていく。
つまり、
高い次元では
過去も今も未来も
「一つ」
である。
そして私達の中には
高い次元の意識が
確かに存在している。
ある意味、
3次元の私達の
見方で表現すれば、
高い次元の私達の意識は
「未来を知っている」
ことになる。
もちろん、
3次元的に言えば、
未来とは
無数にあるものだ。
しかし、
高い次元からいえば、
それらすべてを
含めても、
私達は「一本道」の
中にいる。
「実在」とは
心の中の現実。
それを感知する
とは、
高い次元の意識を
感知する
ということ。
私達は
真本音度合いを
高めることで、
誰もが
それができるようになる。
・・・・・・
高い次元の意識は、
「脳」を使わずに
ダイレクトに
理解できるものだ。
そこにチャンネルを
合わせれば、
今後のこの30年が
いかに重要かが、
理屈ではなく
感覚として
よくわかる。
恐らく、
遠い未来から
今を振り返れば、
この30年は
新たな時代の
「始まりのとき」
という位置付け
だろう。
そしてその
「始まり」の
始まりが、
この
2019年
だ。
この一年で
私達が
・何を成し、
・何を成さないか、
によって
この後の流れが
大きく変わるだろう。
だからもう私は、
妥協せずに
進もうと
決意を新たに
しているところだ。
つづく
セルフコーチング力を
高めていくと、
生まれた瞬間の
感覚すら
思い出すことが
できる。
その瞬間、
私達は
ありとあらゆる
感情の中に
いる。
その感情たちを
抑えることが
できずに、
全身で泣き叫びながら、
私達は
人生を始める。
まだ
生まれた直後には、
自分と他人の
区別すら
ついていない。
しかし、
母親から
離れるという
喪失感の中で、
私達は
不安の極致に
至る。
と同時に、
その状態にある
自分自身を
ただただ
静かに見つめる
自分が
「自分として」
発動する。
それが
真本音だ。
すべてと
つながり、
すべてと
「一つ」である
私達の意識と、
その一方で
「自分として」の
意識。
その境目に
あるのが
真本音だ。
だから
真本音の発想とは、
すべてのために、
そして
自分自身のために、
何をすることが
最善であるか?
というものと
なる。
そこに
一切の揺らぎは
なく、
その
揺るぎなさは
一生続く。
・・・・・・
真本音は常に、
自分自身に
語りかけ続ける。
すべてのために、
そして
自分自身のために、
今、
何をすべきか?
を。
その語りかけに
真摯に
耳を傾けること
こそが、
人生を生きる上で
なくてはならないもの
であると
私は思う。
真本音の願い
は、
人類の願いであり、
自分自身の
願いだ。
私達すべての人には
役割があり、
真本音に素直に
生きることで、
自然にその役割と
出会い、
全うし、
幸せに至る。
そしてそれが
そっくりそのまま
人類全体が
望んでいることに
直結する。
だから
当たり前のように
すべてが
調和していく。
何も
特別なこと
ではないし、
特別な
力が必要な
わけでもない。
すべての人が
そうなのだ。
人間である
限りは。
・・・・・・
私は
自らの真本音に
気づく(思い出す)
ことにより、
人生が劇的に
変わったが、
人生を劇的に
変えようなどとは
思っていなかった。
ただ、
一日一日、
真本音に素直に
行動しただけだ。
その一歩一歩は
とても小さいもの。
時には
大きなものも
あったが、
それも自然に
大きく、できた。
気がつけば、
何もかもが
変わっていた。
別に
変わることが
正しいとも
思わない。
成長しなければ
ならない、
と思う必要すら
ない。
極端に
言えば。
ただ、
真摯に
自分と向き合うこと。
生まれた瞬間から
発動しているはずの
自らの真本音に
耳を傾けること。
そして、
そのメッセージに
素直に
次の一歩を
進むこと。
たった
これだけの
ことなのだ。
すべきことは。
すべての人が
このシンプルな
生き方ができるように
サポートするのが
私の役割であるし、
「コーチ」の
役割だ。
こういった「コーチ」を
増やすのも
私の役割だ。
人が人として、
シンプルに
生きることのできる、
そんな世の中に
なればいい。
本来の人として
生きる世の中に。
これが私の
宿願である。
つづく
私達は全員、
生まれてこのかた
自分自身の
ナマの姿を
見たことはない。
見るとしても、
鏡に映る
自分とか、
写真に写る
自分とか、
せいぜい
ビデオなどに撮って
そこに映っている
自分とか。
それらはすべて
ナマの自分では
ない。
自分以外の
誰かが
自分と接したときに
対面している
ナマの自分では
ない。
しかも、
自分の声すらも
私達は
知らない。
自分の耳で聴く
自分の声と、
他の人が聴く
自分の声は
全然違う。
何かに録音したり、
マイクを通じて
自分の声を
聴くこともあるが、
やはりそれも
機械を通した
もの。
つまり私達は、
自分自身の
ナマの姿も
ナマの声も
そして
ナマの空気感すら
知らない。
自分のことなんて
何も
知っちゃいない
のだ。
・・・・・・
自分のことは
自分が一番よく
わかっている。
そう思い込んでいる
ことを、
私は
「傲慢」
と呼んでいる。
今のお仕事を通じて、
つくづく
思うのだ。
自分のことを
最もよくわかって
いないのは、
その人自身では
ないか、と。
(私自身も含め。)
誰よりも知らない
自分自身。
それを
知ろうとすることが
人生
ではないか。
知らないが故に、
自分と
向き合う。
知らないが故に、
他人と向き合い、
それを通じて
自分の真実を
知る。
これが
人生を生きる
ということでは
ないか。
・・・・・・
自分の姿や
声と同じく、
というよりも、
それ以上に
私達は
私達の心を
知らない。
まったく
知っていない。
自分の心を
誰よりも
自分が知っている
と思うことも
傲慢の極み
だろう。
ましてや、
他者と自分を
比較して、
勝った負けたと
生きるのは、
いったい
何を遊んでいるのだ、
と
私は言いたくなる。
自分のことも
他人のことも
両方まったく
理解していない状態で
比較して、
何の意味が
あるのだろうか。
そこで
「勝った!」
と自己満足して、
いったい誰に
どのような得が
あるのだろうか。
そんなことに
時間を費やすよりも
私達にはもっと
人生のこの貴重な
時間を使って、
真摯にすべきこと、
本当にしたいことが
あるのではないか。
・・・・・・
人生を
一つの旅に
見立てたとして、
私達は今、
どこに
向かっているのだろうか?
その目的地は
本当に
私達が
望んでいるものだろうか?
この一歩一歩は、
納得のいく
満足のいく
一歩なのだろうか?
本当は
今、私達は
何を感じ、
どんな気持ちで
この旅を
続けているのだろうか?
そんなことを
問いかけ合いながら
進みたいものだ。
私達は本当は
「一つ」
なのだから。
つづく
何もない
広大な大地に
私はたった一人で
佇んでいる。
頭上にも
広大な空が。
今まさに
夜が明けようと
している。
雲は一つも
見当たらない。
黒から紺、
そして紫色へと
光のグラデーションが
広がりながら、
だんだんと
明るさが増していく。
私は風を感じながらも、
ただ一人
無言で立っている。
恐らくもう
数刻で、
あの地平線の向こうから
陽が昇るだろう。
私は
世界と一つになる
感覚の中で、
自然に
呟いていた。
さて、
もう許そうか。
・・・・・・
許す。
・・・これが簡単に
できれば、
人生はもっと
楽に進めるだろう。
しかしそのためには、
しっかりと
怒らなければ
ならない。
怒りを抑え込み、
怒りに
蓋をすることで、
許したつもりに
なっている人は
多いが、
それは
本当は、
まったく
許せていない。
許していないのに、
許したと
思い込むのは
とても危険だ。
自分にとっても、
人にとっても。
怒りとは
解放しなければ、
時間と共に
どんどんと
増大していくものだ。
悲しみも
同じ。
悔しさも
同じ。
寂しさも
絶望感も
すべて同じ。
反応本音とは、
抑えれば
抑えるほど
増大していくように
できている。
・・・・・・
とはいえ、
怒りをそのまま
人にぶつければ、
今度はその人が
怒りにまみれる。
そしてその人は
また、
私や他の誰かに
怒りをぶつける
だろう。
怒りは人々の間を
循環したり
放浪することで、
さらに
増していく。
これも
よくない流れだ。
大切なのは、
怒りを
自分の中で
しっかりと
解放すること。
自分自身が
怒りにまみれること。
まみれさせて
あげること。
その瞬間は
とてつもなく
苦しいかもしれないが、
反応本音には
必ず
終わりが来る。
怒るときは
思いっきり
怒ればいい。
ただし
その怒りは
自分の中だけに
留めておくことだ。
・・・・・・
広大な大地に
一人。
私は夜通し、
怒りに身を任せた。
怒りの渦の中に
自分を委ねた。
心の中の
話だ。
それは
長い長い
怒りだった。
しかし
それをしっかりと
行なうことで、
ようやく今、
新たな陽が
昇ろうとしている。
新たな
一日が
始まろうと
している。
さて、
許そうかな。
私はもう一度、
呟いた。
そして
真本音に
戻った。
本来の私に
戻った。
では、
次の一歩は
どうしようか?
私は
どう動こうか?
その問いを
投げた瞬間に
答えが
浮かんだ。
それは、
私自身でも
とても納得のできる
会心の発想。
なるほど、
そう動けば
すべてがまた
回り始めるな。
ようやく私は
自然ににっこり
笑うことが
できた。
と、同時に
太陽の光が
空と大地に
注がれた。
あぁ夜明けだな、
と
とても嬉しくなった。
つづく
私には
決めていることが
ある。
でも
その全貌が
まだ、ほぼ
わからない。
でも、
ちょっとだけは
わかる。
だから、
そのちょっとだけ
わかっていることを
そのまま
実行する。
私は
意図を持たない。
いや、
意図を持つことは
大事だ。
自分の意図に
基づいて
自分で判断し、
自分で決断することは
「自律」という意味で、
とても重要だ。
そういった意味では
私はちゃんと
意図を持っている。
ただ、
その、意図の全貌が
わからない。
わからないことを
勝手に頭で
想像して、
頭のレベルで
(顕在意識のみのレベルで)
意図を決めることは
しない。
それをしても
本来の意図とは
ずれてしまうことが
よくわかるからだ。
そういった意味で
私は
顕在意識(頭)では
まったく自分自身のことを
理解できていない。
というよりも、
理解しては
ならないのだと
思っている。
理解せずに
ちょっとずつ
わかることだけを
そのまま素直に
実行することで、
結果的に
最短の道になること、
これもよく
わかっているからだ。
根拠はないのだが、
それが私の
確信だ。
・・・・・・
私が決めていること
の中で、
今、明確に
わかっていることは、
私はもう
一人では
進まない。
ということだ。
私はある意味
これまでずっと
一人で
やってきた。
例えば、
企業様にサポートに
入る場合も、
私一人で
やってきた。
もちろん、
ビジネスパートナーは
いるし、
一緒に営業なども
するのだが、
いざ、肝心部分のサポート
となると、
すべて一人で
やってきた。
だから、
お客様も含めて、
私の肝心部分の
サポートのやり方の全貌を
ご存知の方は
この世の中に今のところ
私以外に一人もいない、
のだ。
これはまずい、
と
思う。
このままでは
私の後継者が
育たない。
もちろん、
後継者と言っても、
私とまったく同じことを
する必要はない。
ただ、
私が普段
自分でも気づかずに
実行していることや、
私が普段
何気なく大事にしている
サポートの本質などを
ちゃんと
顕在意識のレベルで
知るというのは
とても大事なことだと
思うのだ。
だから私はもう、
できるだけ
一人では
やらないように
しようと決めた。
サポート現場に
入るのも、
私と同じ志を持つ人と
共に入ることにする。
現場こそが、
一番の育成の場
だと思う。
私は実は、
セミナーなどで勉強をした上で
今のお仕事を始めた
わけではない。
まったく何のノウハウも
ない状態で
私は現場に出た。
私のノウハウの
9割以上は
現場の中で
培ったものだ。
私が
一般的なセミナーなどに
受講生として参加して
勉強を始めたのは、
このお仕事を始めて、
10年近く経ってからだ。
しかもそれは、
私が現場で得たことの
整理のために
出たくらいで、
おかげで
現場での学びがやはり
一番であるという事実の
確認にもなった。
だから私は
「コーチ」の育成も
現場育成を
大事にしたい。
・・・・・・
自分自身が何を
決めているか?
は、誰もが
知りたいところだろう。
しかし
私達の真本音は
最初からその全貌を
自分自身には
教えてはくれない。
知るということは、
それを必ず
実行に移す
ということだ。
そのためには
覚悟が要る。
その覚悟を持てる
自分になること、
そして能力も含めて
自分自身の
準備が整うこと。
よし。
もう私は
先に進もう。
と、
真本音がOKを出す
ことで、
初めて観えてくる
のだ。
だから、
そのステップ自体を
楽しめばいい。
観えないことを
焦るよりも、
観えていることを
着実に一歩ずつ
実行に移していこう。
つづく
将棋の駒で
言えば、
最初は
「歩」
でいい。
「歩」は前に
一歩進むことしか
できないが、
しかし
前に一歩進むことは
できるのだ。
もし
「歩」なんて
何の役にも立たない、
と思っているのなら、
それは
大きな間違いだ。
「歩」で
「王」を詰むことだって
できる。
たった一方向に
たったの一歩しか
進めないが、
それを積み重ねれば
どれだけでも
前に進める。
たった一方向に
たったの一歩しか
進めないが、
いつどのタイミングで
その一歩を進むか?
によって、
その一歩は未来の
すべてを決定して
しまうくらいに
大きな影響につながる
こともある。
もし今、
「歩」の力しか
ないのであれば、
その力を
いかに活かすか?
である。
・・・・・・
私達は、
「在るものを活かす」
ことしか
できない。
であれば、
「在るものを
最大に活かそう」
「最善を尽くそう」
とすることが
生きる意味だと
私は思う。
そうすれば、
「在るもの」が
増えていく。
「在るもの」の
一つ一つが
進化・深化していく。
何をするにしたって
始まりは
弱っちいものだ。
人生の始まりが、
赤ん坊の頃の
私達が、
自分では何もできなかった
のと同様だ。
・・・・・・
「在るもの」
を活かす。
そして目の前に
「自分」以外の
「在るもの」があれば、
それも
活かそうとする。
お互いに
活かし合おうと
する。
それが人生の
醍醐味では
ないか。
しかし、
「自分」以外の
「在るもの」があれば、
それと「自分」とを
比べ、
「俺の方が凄いんだ」
と、
潰し合いの戦いをし、
勝った方のみが
生き延びていく。
そんな生き方を
してしまう人が
いる。
いや、恐らく
人類の歴史の大半は
そうだったかも
しれない。
しかしそれは
もったいない話だ。
異質なもので
あればあるほど、
「自分」以外の
「在るもの」との
活かし合いは
価値あるものに
なるだろうに。
・・・・・・
「自分」と
まったく同じ存在は
この世には
いない。
私達は
異質な「在るもの」との
活かし合いを
宿命づけられている。
いや、
それこそが
「人」の本質であり、
存在意義ではないかと
私は
このお仕事の中で
痛感している。
潰し合いの組織か、
活かし合いの組織か、
どちらが
人が元気になるか?
人が幸せになるか?
は
問うまでもない。
どちらを
人が望んでいるか?
も
問うまでもない。
問うまでもないのに、
真逆なことを
やり合っているのが
今の多くの
組織ではないか。
もちろん
そういった試練は
必要だし、
経験を通じて
学ぶこともある。
しかし
そういったことを
踏まえても、
あまりにも
無意味な潰し合いを
私達は
し過ぎではないか?
・・・・・・
私は数多くの
「コーチ」を育成したい
と思っているが、
なぜそう思うか?
の理由の一つに、
数多くの
「リーダー」
が、世の中に
輩出するとよいと
願っているからだ。
ただしその「リーダー」
とは、
潰し合うための
リーダーではないし、
「自分が一番だ」と
自己顕示や虚勢を張る
リーダーでもない。
人々と
共に向き合い、
共に新たなものを
創り出していく
リーダーだ。
自らの力のみで
進もうとするのではなく、
そこに「在るもの」を
活かし合いながら、
未開の大地を
切り拓いていく
リーダーだ。
そういった
「リーダー」の素養を
もつ人は、
特に、若者の中に
多いと
私は感じる。
しかし残念ながら
その素養は、
自力だけでは
なかなか伸びない。
まずもって、
その素養があること
自体を
本人が気づかない。
それが
現状だ。
だからこそ
「コーチ」が
必要なのだと私は
思う。
これからの時代に
必要な、
真の「リーダー」を
発掘し、サポートする
存在が。
つづく
自分のこの命を
どう使おうか?
ということを
私達は全員、
真本音で
決めている。
単純なことだ。
その
決めていることを
思い出し、
それに素直に
生きれば、
私達は
至福とも言える
感覚を得ながら
人生を
進めることが
できる。
そこから
遠のけば
遠のくほど、
道は閉ざされるし、
ストレスも
多くなる。
単純なこと。
しかし、
遠のいた道で
あるにも関わらず、
上手くいってしまう、
つまりは
成功してしまう
人も多い。
その人の
能力の賜物だ。
力があるからこそ
そこで
成功してしまう。
だから
この道でいい、
と
本人が
思い込んでしまう。
そして
そのままその道を
進んでしまう。
そういった
複雑な人が
多いのが
残念ながら今の
社会だ。
だから
成功している人ほど、
心が
深いダメージを
負っている
という傾向が
現れる。
そして
成功とは、
ダメージとか
犠牲の上に
成り立つものである、
という思い込みが
蔓延する。
単純なことが
複雑化し、
妙な原理原則が
世の中を
支配しているように
私には思えて
ならない。
・・・・・・
本来のその人の
持っている力は、
使命を果たすための
もの。
しかし
自分と向き合わず、
たまたま成功した
その道に進むことで、
その力を
宝の持ち腐れ
としている。
成功しているから
凄い!
ではない。
本来であれば、
その人は
もっともっと凄いことが
できるはずなのだ。
実は、
そう感じる人が
とてつもなく多い。
能力や力だけで
生きることは
もうやめよう。
能力や力とは
「手段」
である。
その手段を
使うための
「目的」
がある。
それこそが、
自分自身で決めている
「使命」
だ。
・・・・・・
「使命」と言ったって、
様々だ。
大きなことを
しなければならない、
ということではない。
実は、
規模の大きさは
あまり関係ないのだ。
実在のレベルでは。
規模の大小ではなく、
「使命」に基づいて
生きるという
その行為そのもの、
その一歩そのもの
によって、
実在のレベルでは
世の中に
大きな影響を
与えることになる。
自分の能力だけを
使い、
使命とは異なる
道において
100万人の人に
何らかの価値を
提供するよりも、
自分の使命として
目の前の一人の
人に、
自分が与えるべき
本来の価値を
与える方が、
それこそ
100万倍も
影響が大きくなるのだ、
実在のレベルでは。
今、世の中は
そのエネルギー
こそを
欲している。
形だけの
成功は
もはや欲して
いない。
それはもう
古い。
それはもう
時代遅れだ。
それよりも、
たった一つの行動に
どれだけ
魂を込めるか、
使命に向かう
真摯な意志を
込めるか、
である。
・・・・・・
「コーチ」を
使命としている
人がいる。
その人が
「コーチ」としての
一歩を
踏み出すことが、
どれだけ
良い影響を
生み出すかを、
私は確信している。
だから私は、
「コーチ」を
使命としている人を
サポートしたい。
「コーチ」を
使命としている人を
発掘したい。
それが
今の私の最大の
使命だ。
つづく
人は誰しも
心の中に
「断崖絶壁」
を持っている。
それを
下から
見上げている。
それは目の前に
垂直に
そそり立っている。
その向こうには
透き通るような
青空。
あぁここを
登りたいなぁ。
でもこんな絶壁、
どうやって
登ればいいんだろう?
もしこの壁に
取り付けば、
怖いだろうなぁ。
必死に途中まで
よじ登っても、
きっとどこかで
体力の限界がきて、
落ちちゃうんだろうなぁ。
この絶壁の
向こうには行きたいけど、
行くのは
怖いなぁ。
・・・やはり
多くの人が
そう思うだろう。
そして残念ながら、
その絶壁に
取り付くことすら
せずに、
あきらめて
道を戻ってしまう
人もいる。
それはその人の
自由ではあるが、
しかしその人は
その「絶壁」を
見てしまった。
一度それを
見てしまうと、
脳裏に完全に
焼き付いてしまう。
そして
その向こうにある
新たな世界への
憧憬と、
その壁から逃げてしまった
自分自身への
罪悪感が
一生つきまとうことに
なる。
実はこれは
かなり
きつい。
一度見てしまったものを
見なかったことに
するのは
無理なのだ。
だから私は
いつもお勧めする。
その壁、
ぜひよじ登って
ください、
と。
それも、
真正面から
小細工なしに、
登ってください
と。
・・・・・・
実は、
心の中では
登れない「絶壁」は
ない。
そもそも
登れない「絶壁」は
目の前に
現れない。
登る準備が
整ったからこそ、
現れるのがその
「断崖絶壁」
だ。
つまり、
真正面から真剣に
取り組めば、
100%登ることは
できるのだ。
しかしそこには
怖さが
つきまとう。
強烈な不安が
襲ってくる。
でもそれは
当たり前のことだ、
断崖絶壁
なんだから。
「コーチ」の仕事とは、
この
「断崖絶壁」の前まで
その人を
連れてくることだ、
と私は強く
思う。
ただしその「絶壁」を
登るのは
その人自身であり、
その人の
自力である。
そこは決して
コーチは、
サポートしては
ならない。
そこをサポートしては、
その時点でもう
その人は
「断崖絶壁」から
逃げたことになる。
しかし、
ここをサポートしたり、
ヘルプしてしまう
コーチが
後を絶たないのは
どういうことか。
それはともかくとして、
「断崖絶壁」の前まで
来たその人を、
私は時には
冷たく突き放す。
これは
子どもの育成にも
通じるものだ。
・・・・・・
「断崖絶壁」を
登り切ることを
私は
「脱皮」
と呼んでいる。
その壁を
登ることで、
私達は様々なものを
脱ぎ捨てるのだ。
手放す
のだ。
そして
壁の上に
たどり着けば、
実に
スッキリ爽やかな
自分になっている。
しかも
壁の上には
実に爽やかな
世界が広がっている。
自力で
登るからこその
その悦び。
これを味わうために
人生とは
あるのではないか、
とすら
私は思うのだ。
この悦びを
サポートさせて
いただくのが
「コーチ」という
役割だ。
そしてそのためには
「コーチ」自身が
いくつもの
絶壁を
自ら乗り越え続けている
必要がある。
・・・・・・
自らの
超えるべき
断崖絶壁を
乗り越える
サポートを
する。
これが、
個人においても
組織においても
「コーチング」の
本質であると
私は考える。
そして、
あぁこの人(組織)はもう、
サポートなどなくても、
自力で次々に
「断崖絶壁」を
乗り越えて行けるだろうな。
と思えた時点で
私はその人(組織)から
離れて行く。
離れなければ
ならない。
この
引き際も
実に大事で
ある。
いや、
ちょっと極端に言えば、
引き際を
外さない人こそが、
本来の「コーチ」だと
私は
思うのだ。
つづく