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2017年8月7日から
ブログを毎日書こう、
と
決めた。
で、実際に
そこから毎日
書いた。
今回で1500回。
つまり、
1500日。
ちゃんと
続いたな。
書くにあたり、
決めていたことが
あった。
一つ、
書き溜めはしない。
一つ、
書くのはすべての仕事が
終わってから。
つまり、夜中。
一つ、
昼の間に内容は
一切、考えない。
つまり、
一日を終え、
その「終えた時」に
私は何を書くのか?
それを
大切にした。
しばらくは
慣れなかった。
書くのに何時間も
かかり、
結局、朝を迎えたり。
写真選びも
こだわり、
それだけで
何時間もかけたり。
地味なところ
だけど、
フェイスブックにブログ記事を
紹介する
1行の紹介文。
その1行にも
何時間もかけたり。
とにかく、
1%でも淀みのある
ものは
書かない。
100%の気持ちの
一言一言しか
書かない。
内容が
正しいかどうか、
とか
素晴らしいかどうか、
ではなく、
ちゃんと自分の
100%がそこに
乗っかっているかどうか。
それを
大切にした。
そして実は、
ブログを書いた直後に
もう一つ
始めたことがある。
私は勝手に
「ヴォイス講座」と
呼んでいるが、
私の声の録音も
ある時から
始めた。
1回約10分の
声だけによる
講座。
真本音反応本音の
基本から、
真本音度合いの
高め方、
セルフコーチング法、
人の真本音度合いを
高めるコミュニケーション法、
・・・
というように
かなり基本的なことから
始め、
だんだんと次元の
高め方になり、
実在と現象の
話になり、
結局、今は
ちょっと人様にはなかなか
お聴かせできない内容に
なってしまい、
いったい私は
これをどうする気なんだ?
と思いながら
それでも
毎日、録音を続けて
いる。
これも昨日時点で
517回。
つまりは
517日、続けている。
でもこれ本当に
今は
一般公開する気は
なく、
きっとこれは
私が死んだ後に
世の中に出してもらうと
いいんじゃないかな、
くらいに思えてきた。
ただ、
あまりここは
考えないようにしている。
なぜこれを
録音しているか?
いつか必要な時に
わかるのだろう、と。
私にはよく
こういうことがある。
意味も目的も
わからないのに、
なぜか
「やろう」
と思うもの。
そういうのが
発想された場合、
私は
意味も目的も
わからないままに、
必ず素直に実行に
移す。
よく考えたら
人生、
そんなことばかりかも
しれないな。
とにかく
今回は完全に私事
なのだが、
1500という数字が
なんとなく
嬉しくってね。
書かせて
いただきました。
つづく
白い龍が
踊っている。
踊りながら
あちらこちらを
自由に
飛び回っている。
表情は
見なくても
わかる。
悦び勇んで
いるのだ。
あぁ、節目が
来たな。
節目まで
来れたな。
と
わかる。
私の場合、
人生のとても重要な
節目を迎える時、
大概、そこで
白い龍を観る。
私にとって
白い龍は
自分ががんばった
証であり、
次のステージへの
スタートの合図
でもある。
自分を褒める
のと同時に、
どこかがキュッと
緊張する。
しかしこの
緊張感こそが、
ひょっとすると
私にとっては
人生でも最も好きな
感覚かもしれないのだ。
私はこれから
白い龍と共に
セルフコーチングに
入る。
ここは節目だ。
これまでの私は
何者で、
ここからの私は
何者となるのか?
それをゆっくり
見出そうと思う。
つづく
私の心の奥には
祈りがあるな、
と
ある時にわかった。
祈りとは
信仰心という
意味ではない。
他に言葉が
ないので、
どうしてもこの表現に
なってしまうが、
それは確かに
祈りだ。
しかも
何を具体的に
祈っているのかは
わからない。
でも確かに
祈りなのだ。
本当に苦しい
時期だった。
自分という人間を
根こそぎ
捨ててしまいたいと
考えていた
時期だった。
八方塞がり。
どこにどう向かっても
私には地獄しか
待っていない。
と、
そんな風にしか
考えられない
日々だった。
そんな中で
気づいた
私の中の祈り。
それは
自分を救い出す
ための祈り
ではなかった。
それは
私自身が
生まれてきた意味
だと思えた。
八方塞がりで
今は何をどうすれば
良いのか
さっぱりわからないが、
ただ
この祈りだけは
持ち続けようと
決めた。
恐らくであるが、
人は全員、
祈りを持っている。
私と同じように。
たくさんの人と
向き合いながら、
私は今では
ほぼすべての人に
祈りの存在を
感じる。
私はいつも
その人の祈りを
感じながら
人と向き合う幸福を
感じているのだが、
残念ながら
当のご本人が
それに気づいて
いない。
あなたには
祈りがありますよ。
などとは
伝えない。
伝えても
意味がない。
あなたは
祈りですよ。
と
本当は伝えたいのだが、
それをしては
恐らくすべてが
逆効果に働くだろう。
祈りは
自分で感じ取るしか
ない。
言葉はないが
自分という存在の
根源的なもの。
それと歩むのが
人間なのだと
思う。
私は一つの祈り。
皆の中の
たった一つの
祈りだ。
つづく
未来が私に
語りかけてくる。
もっと私と
一つになったらどう?
と。
いや、いいよ。
と
私は返す。
私は未来を
知りたくないんだ。
ほんの1秒後の
未来でさえ。
その気持ちは
わかるけど・・・。
と
未来が呟く。
これは好みの
問題じゃないんだ。
未来がわからない
のが
この人生の
醍醐味さ。
悲しいことも
多いでしょう?
もちろんね。
耐えられそうも
ないことも
たくさんあった。
でもそれでも
私に未来は
必要ない。
寂しいね。
どうして?
私は未来を
創っていくものだと
思っている。
それはそうだけど、
でも結局はそれは
私と一つとなる
ということだよ。
もちろん
わかっているよ。
でもそれでも
未来は
私が創っていく。
その方が
面白いし、
ここにいる意味が
あるよ。
でもあなたの
歩みは、
私と一つになった方が
随分楽だと思うけど・・・。
いや、
今でも充分に
楽だよ。
私は「今」を
愛しているからね。
「今」を愛せば、
未来を感じるよ。
決して未来はわからない
けどね。
わかった。
じゃあ、あなたからは
離れておこう。
もっと離れようか?
そうだね。
遠くの星くらいで
いてほしい。
未来を星のように
眺めながら、
遠くの存在として
感じながら
進みたいんだ。
あなた、
変わってるよね。
そうかなぁ。
これが人間の
醍醐味だと思うけどなぁ。
つづく
一本の道を
歩いている。
ずっとまっすぐ
続いている。
この道を
歩き続けたら、
一緒に歩く人が
自然に増えた。
私は常に
前を向いていた。
あまり
横は向かなかった。
なのに、
ふと気がつくと
一緒に前を向いて
隣を歩いてくれる
人達がいた。
あぁ俺は
幸せなことだなぁ。
と
呟きながら
さらにスピードを
上げた。
すると途端に、
道を外れる人が
出てきた。
えっ、えっ、えっ!?
君、外れちゃうの?
一緒にまっすぐ
進もうと
約束してたのに。
そこ、
曲がっちゃうの?
と
必死に声をかける
のだけど、
私は無視された。
あんたとは
もともと道が
違うのだよ、という
感じで
平気で
無視された。
本当に
言葉もなかった。
その度に
私は泣いた。
泣くけども、
それでもその道を
進むことは
止めなかった。
むしろ
スピードアップした。
反撥していた
わけではない。
君がいなくなるなら、
もっと俺は
頑張らねば・・・、
という気持ち
からだ。
でもそれを
やっているうちに、
その新たなスピード
だからこそ
だろうな、
また自然に
隣に
一緒に進む人が
集まってきた。
そしてさらに
スピードアップ。
するとまた
何人か外れていく。
ずっと
その連続だった。
何度も泣き、
何度も喜んだ。
気をつけた
こと。
それは決して
横を向き過ぎないこと。
横を一緒に
進んでいる人のために、
と
ならないこと。
あくまでも
私は前を向き、
自分のこの限られた人生で
進めるところまで
進む。
私にはどうしても
達成せねばならぬ
ことがあるのだ。
そのために
進む。
そこは揺るがぬ
こと。
こういうのを
頑固
と言うのだと思う。
融通が利かないなぁ
と思う。
でもそれが
私
という人間だ。
この道を進むのが
私であり、
この道が
私だ。
これからも
悲しむことは
あるのかな。
なきゃない方が
良いけれど、
悲しまないために
どう進むか、
ということも
きっと私はまったく
考えず、
さらに
スピードアップを
続けるのだと思う。
私自身との
約束だから。
つづく
地道に一歩ずつ、
私達は
行くしかないでは
ないか。
たった一人の
能力は
たかが知れている。
一日、24時間。
この限られた
資源。
その中でできることは
たかが
知れている。
大きなものを
目指すことは
自由だが、
私達に
今、
できることは、
今、
できることを
すること。
だから
今、ここを
とてつもなく
大切にする。
ほんのわずかな
一歩だと
しても、
そこに
魂を込める。
ほんの些細な
一言だと
しても、
そこに
魂を込める。
体が一つしか
ない自分。
1秒においては
1秒しか
活動のできない
自分。
この制限の
中、
私達は
生きている。
ほんのわずかしか
命の炎は
燃やせない。
命のエネルギーは
費やせない。
どれだけ大声を
出しても、
地球の裏側まで
その声が届くことは
ない。
どれだけ
思いっきり
空気にパンチをしても、
自分の右手の
周りの空気が
小さな小さな
風を立てるくらいだ。
何という
小さな存在、
小さな
影響力。
にも関わらず
大志を抱く。
この
人間という
存在。
ならば
やはり
ここに、すべてを。
この1秒に
すべてを。
この一つに
すべてを。
丁寧に、
誠実に、
祈りを込めて。
つづく
通常の成長の
限度を超えた
逸脱的成長を
しようとしている
人達が
今、急増している。
かなり
勇敢な行為だ。
勇気と覚悟を
もって
一気に進もうと
している。
それ自体は
称賛すべきこと
なのだが、
しかし
わかってほしいのは
それは
そんなに簡単な
ことではない。
逸脱的成長を
しようとする場合、
最も大事なことは
何だろう?
もしそう問われたら
私なら
こう答える。
ちゃんとした
「生活」
をすること。
・・・と。
「生活」とは
つまり、
今、やるべきことを
今、ちゃんとやる
ということだ。
自分をコントロール
して、
人として
生きる上で必要な
こと、
人間関係を維持する
上で必要な
こと、
をちゃんとすることだ。
例えば、
ちゃんと毎日
体を洗う、
歯を磨く、
清潔にしている、
部屋は掃除する、
食事はきちんととる、
人とのコミュニケーションを
大事にする、
挨拶を大事にする、
感謝の一言を忘れない、
ごめんなさい、をちゃんと言う、
一つ一つの物事を
丁寧に心を込めて行なう、
・・・etc.
ということだ。
地に足をつけて
「生活」すること。
これは
自分自身の意思で
行なうことだ。
顕在意識の意思で。
そういった
当たり前のことを
大事にできない人は
逸脱的成長など
とんでもない。
「生活」を
コントロールできない人が
自分をコントロール
することはできない。
そんな人が
逸脱的成長を目指せば、
自分が
壊れてしまう。
「成長できた!」
と思ったとしても
それは究極の自己満足
に過ぎないだろう。
真本音度合いが
高まる、
と人は自然に
「生活」をしっかり
するようになる。
「今」という時間を
大事に、
「人」を大事にし、
「生活」を
本当に大事にするように
なる。
それが
正常な成長の姿
だ。
人としての
姿だ。
つづく
「自分」
という人間を
自分が潔く見つめる。
たったこれだけの
ことで
人生は
変わる。
私自身も
そうだったし、
それができた人は
皆、そうなった。
なぜ、
私の人生は
変わらないのか?
その理由は
自分をちゃんと
見つめてないから。
・・・究極は
そう言ってしまっても
良いのだな、
と
最近は改めて
思う。
人生を変える、
までは
行かなくても、
最近、物事が
上手く捗らないなぁ、
すぐに何かと
ゴタゴタに
ぶち当たるなぁ、
なんでこうずっと
モヤモヤが
続くんだろう?
と
思うのであれば、
やはり答えは
同じだ。
自分をちゃんと
見つめてない
のだ。
最後は
ここに行き着く。
自分を見つめず、
自分から逃げる。
そういう人が
現実から逃げる。
逃げていることを
誤魔化す。
本当は
現実から
逃げているのでは
ない。
自分から
逃げている。
結局は
そうなのだ。
私達には全員、
ただ
自分を
そのままに
見つめる自分が
いる。
本当は
自分のことは
よくわかっている。
なのに
わかっていない
フリをする。
それも
誤魔化しだ。
もういい加減、
そんなことは
止めよう。
時代は
変わったんだ。
誤魔化しで
進めるほど、
今の時代は
甘くはない。
つづく
年齢が若い
からと言って
未熟なわけではない。
表面的な若さ
のみを見て、
この人は
まだ未熟だ
と
決めつけることの
危うさ。
最近よく
感じる。
成熟している
若者が
増えている。
これはもちろん
良い意味で
言っている。
サポートしながら、
私の方が
100倍も未熟じゃないか、
と
よく感じる。
最近は。
もちろん
そういう人ばかりでは
ないが、
しかし
私達は、
特に私と同じくらいの
世代の人間は、
人の見方を
そろそろ
根本的に
変えなければならない
と思う。
「人間」
は
変わったよ。
ここ数年で
大きく変わった。
良いことだよ。
変わったことに
気づかない、
もしくは
気づいていないフリを
しながら
行くのは
終わりだ。
「人間」
は
変わったよ。
そして
これからも
さらに
大きく
変わっていくよ。
「人間」を
これまでの人間と
同様に
見てはならない。
その私達の
目線が
時代を本当に
変えていくのでは
ないか。
「未熟」
なんて
決めつけるな。
ここからは
共に社会を
創っていくんだ。
つづく
もし目の前に
川の激しい流れの
ような
勢いのある
エネルギーの束が
観えるなら、
それを
存分に浴びる
といい。
激流を目の当たり
にすれば
一瞬、
恐ろしくなるが、
開き直れば
いい。
自分を閉じる
のではなく、
自分を
開く。
全身を
開いて
そのエネルギーに
委ねてしまう。
すると
自分の中の
あらゆる余分な
存在が、
キレイさっぱり
洗い流される。
身も心も
軽くなるだろう。
必死に進む
毎日ならば、
もちろん
エネルギーを使い切る
ことなんて
ざらだろうね。
無理するな
と言っても
無理しちゃうよね。
全力で進めば
当然そうなる。
そんな時は
ふと
心を鎮めれば、
至るところに
流れる
エネルギーを
感知できるかも。
感知できるだけで
私達はそれを
引き寄せられる。
エネルギーは
真剣に進む存在へと
引き寄せられる。
それを
有り難く
いただけばいい。
私達は
自分のエネルギーだけで
進んでいるわけでは
ない。
自分のエネルギーだけで
進まなければならない
わけでもない。
この世は
エネルギーに
満ちている。
エネルギーの循環に
溢れている。
真剣に進む者は
それを活用できるように
なるんだよ、
自然にね。
つづく
自分の中に
希望が見えても、
それをすぐに
捨ててしまう人が
いる。
どうせ無理だ、
と。
もしくは、
今の私には
無理だ、
と。
そんな勿体無い
ことはしない方が
いい。
希望は
希望だ。
それは
大切にすれば
するほど、
心の中心核に
育っていく。
希望は
最初は甚だ心許なく、
弱々しいものかも
知れないが、
それをずっと
持ち続けることで
自分と一体化を
し、
そして
自分の中心核と
なる。
その中心核からは
芽が出、
茎が伸びる。
それは
自身の中心軸と
なる。
もちろん
花はそんなに簡単には
咲かないかも
知れない。
でも私達は
中心核と中心軸が
あるだけでも
毅然と生きることが
できる。
そういった
意味でも、
希望は
希望だ。
つづく
新たな志が
芽生えたならば、
それと
ジッと向き合い
続けるといい。
志そのものと
ジッと
向き合い続ける。
思考する
のではない。
何も
考えない。
ただ、
静かに向き合い
続けるのだ。
・・・・・・
その志から
感じるのは
何だろう?
あたたかさ?
冷たさ?
柔らかさ?
硬さ?
その志は
伸びゆくもの
だろうか?
自分を伸ばして
くれるもの
だろうか?
思考ではない。
ただ
その視点で
見つめるといい。
その志は
自分自身に
何をメッセージ
しているだろう?
自分に何を
リクエスト
しているだろう?
思考ではない。
ただ
その視点で
見つめるといい。
・・・・・・
志には
命がある。
それは一人の
子どもが生まれた
のと
何ら変わらない。
大切に
常に大切に。
常に栄養を
与え、
励まし、
時には叱り、
指導する。
志を叱ったり
指導するのだ。
そうしないと
志はまっすぐに
育たない。
子どもと
同じだ。
志に依存しては
ならない。
志は
自分の意思で
育てるもの。
志は最初は
まだまだ小さくて
未熟だ。
自分からの保護が
必要だ。
志の保護者で
あること。
これをちゃんと
誠実にやり遂げる
人こそが、
志を
成就させるのだ。
私達は
志と共に進む。
志とは
パートナーである。
本当のパートナーに
育て上げるのは
自分次第だ。
つづく
よく私は
トンネルの中に
入る。
トンネルは
延々と続く。
トンネルという
よりも
洞窟と言った方が
正しいかも知れぬ
自然さの
トンネル。
延々と続く中を
私は
延々と進む。
どれだけ進んでも
終わりが見えない。
同じ光景が
続くのみ。
しかしそれでも
進んでいる実感は
あるのだ。
そしてそこに
喜びを確かに
得ている自分がいる。
きっと
この進みの先には
まだ見えぬ終わりが
あるのだと思う。
その終わりを
見たいという想いで
進むのだが、
一方で
その期待のままに
永遠に進み続けたい
とも思う。
この感覚は
何かに似ているなと
思っていたが、
あぁこれは
我々の魂の旅路
であり
人生の旅路そのものの
感覚だな
とも思った。
早く終わりたいが
ずっと終わりたくない。
この
人間としての
感覚。
人間だからこその
感覚。
すべてのことに
きっと
終わりはある。
それは
出口かも知れないし、
行き止まりの壁
かも知れない。
それを見極めた時、
次の瞬間には
別の世界に飛び、
次の別のトンネルの
中にいるのかも
知れない。
このトンネルの
先には
何がある?
私はこういった時、
ダイレクトに
そう自分に問う。
すると面白い
ことに
必ず何らかの
答えのようなもの
を得る。
今回は
こんな答えが来た。
「たくさんの
集合体がある。
これまで出会った
あらゆるものの
集合体だ。」
つづく
人と人の距離感
というのは
とてつもなく大事だと
私はいつも思っている。
せっかく相性が
良いのに、
距離感がズレている
ことで
足を引っ張り合ったり、
仲違いをしてしまうことも
ある。
近い距離を
遠ざけるのは
一般的には
「寂しさ」を感じたり、
それは表面的には
「手放す」ことと
同じなので、
罪悪感を
感じたり。
でもそこを
毅然と遠ざけることの
できる人は
私は本当に
愛のある人だなぁ、
と思う。
みんな距離が
近過ぎるな、
とも
よく思う。
もっと離れていて
良いのに、と。
執着や依存心が
距離を必要以上に
近づけてしまう。
逆もある。
この人達
もっと近づけばいいのに、
と思うのに
近づかない。
無理に
距離を取ろうとして、
そこにばかり
エネルギーを費やして
しまう。
近づけるどころか、
いっそのこともう
一つになってしまえば
良いのに、
というケースもある。
私達人間は
体は二つでも
本質的には
一つになることも
できるのだ。
なのに
中途半端にしか
近づかない。
とても遠慮を
する。
そんな関係も
多い。
距離感のみを
修正することで
世の中全体の調和は
根本的に変わるのでは
ないか。
とさえ
思えるんだな。
距離感。
この視点で
すべての関わりを
総チェックしてみると
いいね。
つづく
私達は日々、
変化をし続ける。
だから
時々、
とてもシンプルな
問いを
ダイレクトに
自分に投げると
いい。
例えば、こんな
感じだ。
「私は本当は、
どんな自分になりたい?」
「そしてそのためには
どんな力を得たい?」
今のこの
タイミングで
この二つの問いを
自分に投げ、
今のこの
タイミングで
発想された答え。
これは
相当に大事な
答えのはずだ。
今日から
本気で
それを目指すことを
お勧めする。
つづく
ものを言わぬ
人。
じっとこちらを
見ている。
まるで亡霊の
ような。
しかしそれは
紛れもなく
その人の実在。
ただ寂しそうに
こちらを
見つめている。
私はその
無表情の中に
本当の表情を
探そうとする。
私の解釈は
すべて手放し、
ただその
無表情に
透明な意識を
向ける。
と同時に、
様々な想い、
つまりは
恐らくその人の
と見られる想い達が
ダイレクトに
伝わってくる。
それは最初
言葉にならぬもの
であるが、
こちらの感覚
にすらなる前に、
私の目から
ツーっと
涙がこぼれた。
その後だ。
この人は今、
とても苦しんでいる
と
認識したのは。
何か
苦しい目に遭った
のではない。
それであれば
むしろ
わかりやすいだろう。
その苦しみは
自らが
日々、着実に
招いているもの。
その苦しみは
自らを
小さな枠の中に
無理に、強引に
閉じ込めようとする
その生き方に
よるもの。
ということが
わかった。
あえてそれを
言葉として
表すならば、
「ここから出してくれ」
だろう。
人は
自分で自分を
閉じ込める。
そして実は
その苦しみが
ひょっとすると
私達にとって
最大のものかも
しれないのだ。
これは、
コーチングでは
ないな、と。
「サポート」の
範疇ではないな、と。
この人は
「ヘルプ」を
求めている。
無表情のまま
ヘルプを。
私はその
能面のような
顔の奥に、
阿鼻叫喚を
感じ取り、
またため息を
ついた。
こんな人が
今、
本当に
増えている。
つづく
じっと私は
成り行きを
観察している。
いろんな
エネルギーが
融合したり
分離したり。
渦を巻いたり
爆発したり。
その中から
一本の細い
エネルギーの筋が
スーッと
降りてきた。
そして
地上に突き刺さる。
轟音と共に、
激しい光の
開放。
無数の火の玉
が四方八方に
飛び散っていく。
いったいこれは
どうなることか。
到底、手に負えない
現象の数々に
私はただ
茫然とするのみ。
本当に
観察することしか
できない。
気がつくと
私以外にも
この成り行きを
観察している人達が
いる。
私の周りに
集まってきている。
皆、茫然と
している。
「これも
自然の流れと
言うのか・・・」
と
一人が呟く。
「ここまで
頑張ったんだけどな」
と
さらに一人が。
努力というのは
このように
一切、報われない
ことがある。
どれだけ着実に
積み上げても
それでも
一気に崩れ去る
こともある。
そんな時は
茫然とするしかない。
しかし私達は
それでも
知っている。
この激しい現象の
最中にも、
次の新たな芽が
生まれつつある
ことを。
その芽をこそ、
私達は
探し出そうと
ここに
集まってきた。
「あるのか?
本当に・・・」
「あるさ。
我々がそれを
信じなきゃ」
「そう、
きっとあるさ」
と
皆が口々に
呟き合う。
希望というには
あまりにも
遠い
希望の光。
絶望という
言葉が
あまりにも軽く
響くこの惨状。
それでも
やはり
我々は
探し出さねばならない。
そうでなきゃ、
ここまで来た
意味はない。
「行くか?」
「そうだな」
「行くか・・・」
そろりと
少しだけ進む。
惨状は
さらに激しさを
増している。
それでも
さらに
そろりと進む。
今はこれしか
できないが、
たったわずかでも
できることを
するしか
ないではないか。
・・・。
思い出すな。
これが
始まりだったな。
つづく
悲しみ。
人間は
悲しい生き物だ。
その悲しみを
私は
この一週間、存分に
味わったように
思う。
この仕事に
就いてから
私は何度も何度も
泣き続けたが、
昨晩もついに
堪えきれなくなり、
ずっと
涙を流し続けた。
人間は
悲しいな。
この感覚は
何度体験しても
慣れることはない。
もし仮に
慣れたとしたら
私はその瞬間に
この仕事と
私自身の使命
を
捨て去るだろう。
悲しみの
ちょっとの隣には
もちろん、
憤りもある。
寂しさも
絶望も
ある。
でも考えてみれば
そういったもの達は、
ずっと
在り続けている。
なくなることは
あり得ない。
この世で生きている
限りは。
人生は
悲しいか?
人生は
悲しいな。
人は
孤独か?
人は
孤独だな。
例外のない
この世の中で
それでも私達は
生きていかねば
ならない。
生きているか?
生きているな。
悲しみは
生きていることの
証だ。
つづく
今日、
向き合わねば
ならぬ
人がいる。
今日、
もし向き合わねば
お互いの人生が
大きく変わって
しまう。
今日、
もし向き合わねば
お互いの周りの
人達の人生も
大きく変わって
しまう。
そんな重要な
節目がある。
今日で
なければダメ。
昨日でも
明日でも
ダメ。
今日の私と
今日のあの人で
なければ
ダメなのだ。
これが
人と人の関わり。
その節目を
ちゃんと丁寧に
一つずつ
果たしていく。
それが
調和の人生の
最低条件だ。
そして
人を大切にする
とは、
このようなタイミングを
大切にする
ということでもある。
ただ闇雲に
関わればいい
というものではない。
一人、一人、
丁寧に。
一つ、一つ、
丁寧に。
つづく
自分の踊りを
極めようと
ますます研鑽する人
と、
自分の踊りを
諦めてしまう人。
その二極化が
さらに進んでいる。
せっかくもうあと
一歩で、
一作目の踊りが
完成し、
それが基礎となり
今後ますます自分らしく
魅力に富んだ踊りを
次々に発明できるのに、
その直前で
踊りの開発を
放棄してしまう。
そんな人だって
いる。
人の踊りを
踊ったり、
もしくは
踊りそのものを
やめてしまったり。
それは
面白くないと
思うんだが・・・。
踊るのが
怖いのかい?
自分の踊りを
みんなに見せるのが
怖いのかい?
それともただ
面倒臭いだけ?
誰もが
その人にしか
できない踊りがある。
それを見れば、
みんなが
拍手喝采する。
だって
その人にしか
できないから。
とても独自の
魅力に溢れているから。
別に
拍手喝采のために
踊らなくても
いい。
でも、ちゃんと
自分の踊りが
できれば少なくとも、
自分が自分に
拍手喝采は
したくなるもんさ。
それは
自己満足とは
言わない。
それは本当に
嬉しいことだよ。
さぁ・・・、
それは本当に
あなたの踊りか?
自分のやりたい
踊りか?
自分ならではの
踊りだろうか?
つづく
今、目の前に
20年前の
私がいる。
20年前と言えば、
そろそろ限界を
迎えようとしている
私だ。
私は幸せだ、
と
思い込みながら、
本来の私とは
まったく別の毎日を
送り続けていた
日々。
もちろん
「真本音」とは
まだ出会っていない。
でもその時の私は
「私はもはや
完成された」
と思っていた。
そんな当時の私が
今、
目の前にいる。
思い出したよ。
当時の私は
鏡で自分の顔を
見るのが嫌だった。
なぜなら
自分の顔を見ると、
流していない
涙が見えたから。
自分は幸せな
はずなのに、
鏡の中の自分の
目からは、
血の涙が
流れ続けているのだ。
それは
どす黒く、
ネバネバした
とても嫌な涙だった。
そんな涙を
流し続けている
どす黒い顔をしている
私が
今、ここで
私の目の前で
じっと
私を見つめている。
過去の自分と
対峙、だ。
きっと
何かを伝えに
来たのだろう。
そうか・・・。
伝わった。
彼は私に
「助けてくれ」
と
言っている。
もう限界だ、
と。
そう言えば、
また思い出した。
真本音を見つけた
直後の私には
よく、
未来の私が
私を助けに来て
くれた。
その時その時で
大変的確な
アドバイスをくれたっけ。
もちろん
そんな妄想のような
アドバイス、
信じない私もいたが、
しかし結局は
どうにもこうにも
そのアドバイスを
拒絶できず、
その通りに動いた
私がいた。
おかげで
道が開いたっけな。
そうか。
今の私が
助けに行くわけか。
20年の時を
超えて、な。
つづく
人には怒り
というものがある。
それは
マグマのように
熱く、
心と体を
焼き続ける。
その怒りを
抑えねば、
と
多くの人は努力する。
怒りとは
一つの
エネルギーだ。
それを
抑えつけようとしても
それは土台
無理な話だ。
変な抑えつけを
すれば
せっかくのエネルギーが
腐る。
腐ったエネルギーは
自分の心を
腐らせる。
もちろん
怒りに任せて
人を傷つけては
ならない。
しかし
怒りによって
自分を傷つけても
ダメだ。
怒りを
愛せ。
そんなことは
無理だと
決めつけるな。
怒りは
自分の心だ。
自分の心で
あるならば、
それは必ず
愛しきることは
できる。
抑えつけるから
怒りは腐り
さらに反発する。
抑えつけるから
手に負えなく
なる。
怒りは
自分の心だ。
自分の心は
何があっても
愛せ。
愛するとは
肯定すること
ではない。
愛するとは
ただあるがままに
向き合うこと。
可能であれば
抱きしめながら
向き合うことだ。
怒りの中身は
何であっても。
どのような怒りで
あっても
それは自分だ。
自分だ。
自分なら
自分で
愛せ。
つづく
自分の生の姿を
自分は見たことが
ない。
誰もが
そうだろう。
私の姿は
鏡を通してしか
知らない。
だから自分が
普段どのような
空気感を
発しているか?
誰も
わかっちゃいない。
自分のことを
一番知っているのは
自分自身だ、
という考えは
やはり傲慢だろう。
自分のことを
一番わかっていない
存在こそが
自分である、
くらいのことは
言えるのではないか。
私はそれを
10年くらい前に
痛切に知った。
もうちょうど
10年になるんだな。
2010年から2011年
にかけて、
私は自分の
「実在」
を、
次々に体感することに
なった。
そこで観たものは、
自分の知らない
自分ばかりだった。
自分の知らない
自分が
無限に溢れ出てくる。
そのほとんどは
到底、自分とは
思えない
自分の姿だった。
自己イメージが
一気に変わった。
「これが私だ」
というイメージが
いかに
浅く淡く儚いものかを
毎日、
痛感し続けた。
では、
「これが私だ」と
思い込んでいた私が
描いていた
あの夢は、
あのビジョンは、
いったい何だったの
だろうか?
という疑問と
疑念。
いったんは
すべてが
わからなくなった。
すべてが
白紙になった。
ある意味、
あの時に私は
生まれ変わったのかも
しれない。
自分が自分のことで
信じていたもの、
自分が自分のことで
守っていたもの、
自分が自分のことで
描いていたもの。
それらが
気泡のように
消えてしまう。
今、
そんな体験をしている人
は多いのではないか。
でも、
それを恐れては
ならない。
それは大事な
ステップだ。
本来の自分を
取り戻すための、ね。
つづく
どんな花を
咲かせたいか?
イメージしてみよう。
なりたい自分像を
花に喩えるのだ。
ただし、
理屈じゃない。
直観的に
映像化する。
私はこんな時、
いつも
スーッと一本の
まっすぐな茎を持つ
青紫の一輪の花を
イメージする。
なぜか
そのイメージが
湧いてくる。
20年間、
変わらない。
その茎は
とても細いので
力強さは
全然感じない。
しかし
常にまっすぐだ。
とは言え、
いつもしなやかに
しなる。
風にしなるが
すぐに元のまっすぐに
戻る。
そして
青紫の花びらは
派手さは全くない。
一言で言えば
地味だ。
でもどこか
可愛らしい。
こんな花のイメージを
見つめていると
到底、自分のことだとは
思えないのだが、
なぜかいつも
そのイメージが
浮かぶ。
その
青紫の一輪の花が、
今、
超巨大になって
私の目の前にある。
50mくらいの
巨大さだ。
細いと思っていた
茎も、
高さが50mもあれば
大樹の幹のように
太い。
いったい
どうしたことだろう?
いつの間に
こんなにデカく
なったのか。
しかしこんなに
デカくなっても
地味なものは
地味だ。笑
何も語らず、
何も訴えず、
ただまっすぐに
立っている。
デカくなろうが、
小さかろうが、
そんなことは
意に介していない。
あぁ確かに
そういう泰然とした
自分ではありたいものだ。
つづく
今日は皆さんに
問いを出そう。
次の問いに
直観的に
答えてみよう。
・・・
今日という一日の
始まりと終わりで
私はどんな変化を
創り出そう?
・・・
この問いに
直観的に答えた
上で、
さらに次の問いに
直観的に
答えてみよう。
・・・
その変化は
どんな影響を
生み出すだろう?
・・・
ちなみに、
私自身に最初の問いを
投げてみたら、
「直観の仕方」
という
答えが浮かんだ。
今日は日曜だが
結構仕事があって、
恐らく仕事を通じて
直観の仕方に
新たな方法が見つかる
のではないかな。
そして
二つ目の問いに
ついては、
「生産性大幅UP!」
と出た。
おぉ、
これは嬉しいねぇ。
さて
皆さんはどうかな?
つづく
まるで
渦を巻くような
私の中心軸が
観える。
中心軸が
超高速回転を
しているのだ。
こういうときは
きっと
何かを振るい落とそう
としているのだろう。
そして結果として
私自身が
開放される。
開放前の
超高速回転。
人は自分を
開放する。
何度も何度も。
そうしながら、
本来の自分を
取り戻していく。
本来の成長とは
服を着込む
ことではない。
分厚く
理論武装を
していくことでは
ない。
真逆だ。
どんどん
余分な服を
脱ぎ捨てていく。
素っ裸に
近くなっていく。
それが
本来の自分に
戻ることであり、
本質的な
進化だ。
今のこの
私自身の超高速回転を
観ていると、
今回はきっと
随分余分なものを
脱ぎ捨てるのだろう。
もう
余分なものは
なくなったな、と
これまでも
思ってきたのだが、
でも何度
そう思っても、
次から次へと
脱ぎ捨てるものは
ある。
それが
人間なんだな。
今回の開放は
きっと
大きい。
それにより
私自身がまた
どのように変化するか
は
まだわからないが、
特に気にせずに
進もうと思う。
進みながら
いろいろわかって
くるだろう。
変化したことは
わかるが、
何が変化したかは
わからない。
・・・というのを
楽しむのも
人生の醍醐味だと
思うんだ。
つづく
時間を
大切にする。
その最も
基本は、
今、
何をしないか?
を
決めることだ。
人とのコミュニケーションを
大切にする。
その最も
基本は、
今、
何を喋らないか?
を
決めることだ。
いずれも
自分がやらないことを
決める。
スッキリと。
これが
調和を生み出す。
私達は
余分なことを
し過ぎだ。
不調和の
ほとんどの原因は、
余分な何かを
する
ところにある。
余分な行動、
余分な決断、
余分な一言、
余分な気遣い、
余分な迷い、
・・・
何をしないかを
決めるとは
本質的には
今、
手放すものを
決める
ということだ。
やはり、
手放すことは
大事。
手放す力
を
つけよう!
という言い方でもいい。
これが
人生展開を
大きく左右するな。
つづく
自分の内側に
縮こまっているよりも
外へ外へ
意識を向けよう。
答えは自分の
中にはなく、
答えは世界が
教えてくれる。
ただし、
それは
自分の願いと
結びつかねば
ならない。
願いと世界が
繋がる時、
初めてそこに
カタチが
現れる。
私達は
願いをカタチにする
ために
ここにいる。
カタチの仕方を
世界は
教えてくれる。
世界とは
私自身であり、
私とは
世界である。
今、世界の風は
強く、
流れは速く、
そして
とても透明だ。
今はまっすぐに
その風を
受けてみるといい。
だから
内側に縮こまって
いる場合ではない。
答えが
わからなければ、
外に
向かえ。
私達は
世界であり、
世界は
私達だ。
つづく
今の私は
本来の私じゃない。
・・・という
強烈なメッセージが
その人から
ダイレクトに届く
ことは多い。
イメージで言えば、
まるで魂のような
強烈な光が
その人の体から
私へと
撃ち込まれる。
その光を
強い圧迫のもとに
受け取ると、
一瞬であるが、
本来のその人
の姿が
目に映るのだ。
どころか、
まるで私とずっと
そこに一緒に
いたかのような
感覚となる。
すると、
実際に今
目の前にいるその人
の姿が、
急激に
嘘っぽく見えてくる
から不思議だ。
この人は今、
一生懸命に私に
語りかけているが、
その一言一言は
この人の本来の言葉
ではないのだな、
と
よくわかるようになる。
で、
多くの場合、
ダイレクトに問うて
みる。
それは
本来のあなたの
想いですか?
と。
その途端に
その人は
大きく揺らぐ。
グラグラ揺れて、
まるで
陽炎のように
なる。
人は
弱い。
本来の自分では
ない自分のままでは
強烈に
弱い。
その状態で
現実に立ち向かおう
としても
道を開くなど
土台無理な話だ。
本来の自分
でない自分で
いったい
何をしようとするのか?
そこに
どんな価値がある?
なぜそんなに
本来ではない自分に
執着する?
とは思うのだが、
でもそれもまた
人間。
本来の自分と
そうでない自分。
せめて
自分のことは
それくらいは
自分で
区別をつけられるように
なると
いいよなぁ。
つづく
明るい光の中の
一本道を
私は
まっすぐ走っている。
なぜか
息は切れない。
どころか、
スピードを上げれば
上げるほど、
体は楽になっていく。
まだまだ
スピードアップしたいと
望むのだが、
一方で
これ以上はまずい
と
冷静に見つめる
自分もある。
上手く言えないが、
これ以上のスピードを
出せば、
私の体は分子レベルで
崩壊するような気がする。
今はここまで、
今はここまで、
と
自制しながらも
今出せる最大スピードを
維持する。
周りの光は
渦を巻いているように
見える。
いっそのこと
私も光そのものに
なってしまいたい。
しかしそれは
この世から消える
ことだともわかる。
やはりこれが
今の最大か。
正直に言えば、
今はまだ
止まっているのと
変わらない。
進んでいるうちには
入らない。
とすら
私は思う。
この世の進みは
遅い。
何もかもが
遅い。
何もかもが
焦ったい。
私はこの人生で
「待つ」ことを
学んだ。
変な言い方だが、
「待つ」力を
養った。
今こそ
待たねば。
自らは走りながらも
待つのだ。
私の周りに
気配がある。
ずっと私は
独りだったが、
少し前から
気配が漂うように
なった。
それが日々、
実感を増している。
もうすぐ
合流だ。
合流できたら
一つ
ステージが変わる。
ステージが
変われば、
もう少し
スピードアップは
できるだろう。
合流を
待つ。
今は合流を
待つ。
つづく