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どうせ今の自分
には、
わからんだろう。
と
思うことが
多々ある。
もっと経験を
積み、
未知の領域に
進まなければ
決して
見えないものは
ある。
それを楽しむ
ことがまた
人生の醍醐味である
とも言えるのだが、
なんか
どこかが悔しい。
わからないことが
何か
すらわからない
のも
悔しい。
だから私は
意識を未来に
向ける。
じーっと
意識を向け続けて
いると、
何やら
ニンマリしている
奴の存在を
感じる。
未来の私だ。
私は奴に
問う。
今の俺が
わからんことは
何だ?
すると奴は
さらにニンマリ。
何も
言わねえ。
しかし意識は
伝わってくる。
言葉にすると
こうだ。
そのうち
わかるよ。
わからんことが
ある、
というその感覚だけで
いいじゃないか。
その感覚を
大切にすれば
いい。
感覚がある
ということは、
そのうちわかる
ということだ。
しかし
ニンマリした
奴の顔を見ていると、
やはり
悔しい。
奴は
ニンマリしながら
私の背後まで来ると、
私の両肩に
手を置いた。
すると
何かがわかった
気がした。
気がしたのだが、
ただの感覚だ。
ひらめきの
あの感覚
だけだ。
内容は
わからない。
こういうひらめきが
あるってことだ。
と
奴は言う。
そうか、
こういうひらめきが
訪れるのか、
と思うと
嬉しいは嬉しいが、
しかしやはり
ちょっと悔しい。
つづく
時々、
物事をあるがままに
観れないなぁ、
と
思うことがある。
その場合は
その状態を
素直に楽しむことに
している。
観れないなら
観れないで
いいや、
と。
そして
自分の意識を
今の自分に
預けてしまう。
すると、
自分が今
何に巻かれているか?
何を
グルグルしているのか?
なぜ
あるがままに観れないか?
などが
よ〜く観えるようになる。
多くの場合、
例えば、今の今
だが、
私の頭は
まるで巨大な雷雲
のようなものに
巻かれている。
真っ黒な雲。
稲妻が走る。
頭が痛い。
当然、
何も見えないし
観えない。
というのが
観えてくる。
そこまでわかれば、
意図的に
その黒い雲の
中に
意識を埋没させる。
決して
それは取り除こう
とはしない。
埋没して、
それ自体を
味わい尽くそう
とする。
当然それは
とても苦しいし、
頭も
余計に痛くなるが、
しかし
あえてそうする。
すると
いろんな叫び声が
聴こえる。
多くの苦しみの
声みたいなのが
聴こえる。
あ〜これはやっぱ、
私の心では
ないな。
誰から受け取った
ものかな?
それとも、
今の世の中全体から
伝わってくる
ものかな?
などなど、
ちょっとは客観的に
なりながらも、
しかしあまり
客観的、評価的に
なり過ぎないように
そこに自分を
ただ預ける。
するとだんだんと
それらは
浄化されていく。
ゆっくりと。
私は最後まで
ただ感じるだけ
にする。
そして
すべてが消え、
スッキリと周りを
観れるようになると、
今度は私は
その
あるがままの世界に
そのまましばらく
自分を預けておく。
そうすると
自然に、
私の中から
光のような一つの
「願い」
が湧いてくる。
ちょっとした
願いだ。
言葉には
ならない。
それでいい。
しかし
その直後に
ちょっとした指針が
浮かび上がってくる。
「もうちょい、
ゆっくり行っても
いいか・・・」
今回は
こんな呟きだ。
そして私は
それに素直に
動くことにする。
つづく
私の心の中に
光が浮上する。
眩い。
そんな光が
観えると、
私は必ずその中に
入る。
そして
じっとする。
すると
毎度、そこには
誰かがいる。
一人の場合も
あれば、
たくさんの人達の
場合もある。
その人達の気配
を感じながら、
ただただ
じっとする。
時には、
その人達の気配は
そのままに、
しかし、
その人達が
スーッと
遠のくことがある。
遠くから
その人達は
私を見守る。
そこで私は
何か準備をしている。
それを
彼らはただ
見守る。
「終わりましたか?」
という
彼らからの問いが
来ると、
「終わったよ」
と
私は答える。
すると彼らは
また近づいてきて、
私と
スクラムを組む。
私はとても
勇気づけられ、
と同時に
一つの問いが
浮かぶ。
凄い問いだ。
ここでは
書けない。
確かに
この問いと対峙するには
勇気が要る。
でももう
対峙してしまった。
私は
すぐに答えた。
「当たり前だろ。
もう決めたんだ。」
つづく
今、
意識できているか
どうか
は別として、
人生の大事な
分岐点に差し掛かって
いる人が
多いようだ。
具体的でわかりやすい
選択肢があるのか
どうか、はわからない。
生き方をちょっと
変える、
ということだけかも
しれない。
しかし、
いくつかの選択肢の
前で
佇んでいる人は
多いようだ。
そこで、
大事な問いを
投げてみよう。
実際に分岐点に
いるかどうかは
わからなくても、
一度、丁寧に
次の問いを
自分に投げてみよう。
もし自然に
何らかの発想が
浮かんだら、
それを
大事にするといい。
・・・
もし今、あなたが
人生の道の
分岐点にいると
仮定し、
いくつかの選択肢の
前にいると
したら、
選択肢を今から
選ぼうとする
自分自身に、
何を大事に
選びなさい!
と
アドバイスする?
どんな選択基準で
選びなさい!
と
アドバイスする?
・・・
まったく関係の
なさそうな発想が
浮かんだとしても、
それを
大切にすると
いいね。
つづく
実在の私が
躊躇をしている
ようだ。
だから
顕在(現象)の私が
お尻を叩く。
「書け」
と。
「わかったよ」
と返事が返ってくる。
返事と言っても
私が私に向かって
呟くだけだが。
小学一年の時、
友達に
「竹内くんは
いつも独り言を
喋っているね」
と言われたのが
妙に記憶に残っている。
ずっと誰かと
喋っていたようだ。
私に自覚は
なかった。
今思えば、
私は当時から
実在の私自身と
会話をしていたのかも
しれない。
時々、
布団に顔をギュッと
押し当てて
目を瞑っていると、
目を瞑っているのに、
目の前が急に
明るくなり、
何かが見えた。
それは何か
書物のようで、
日本語ではない
何か知らない文字が
たくさん書かれていた。
絵もあったかも
しれない。
布団にギュッと
顔を押し付けると
そうなるので、
私は時々
自分の楽しみとして
それをやり続けていた。
きっとあれも
実在の私からの
何らかのメッセージ
だったのだろうと
今、ふと思った。
実在の自分が
現象の自分を
形創っている。
現象の自分とは
実在の自分の
反映でしかない。
反映でしかないが、
この世の現実で
生きているのは
現象の自分なので、
現象の自分は
現象の自分として
意思を持つ。
すると、
実在の自分と
現象の自分が
同じ自分なのに
分離されていく。
本当は
この二つの自分が
一致すればするほど
人は
幸せになる。
たった
それだけのこと。
分離を
一致されていく。
いわゆる
「自己統合」
というやつだ。
本当は
たったそれだけの
ことなのだ。
実在の自分の
意思を
私は
『真本音』
と呼んでいる。
霊感でも
何でもない。
今ここに
ちゃんと実在している、
つまりは
根を張っている、
本当の
自分の意思だ。
人は
本当の自分の意思
すら知らずに
生きている。
自分のことは
自分がわかれよ。
と
言いたいのだが、
私も含めて
まだまだだ。
まだまだ
なんだ、
この世の中は。
つづく
ちょうど
「境目」
にいるとき、
私達は
独特の緊張と共に
独特の静けさを
得る。
何が終わるかも
わからず、
何が始まるかも
わからない。
しかし
「境目」にいるのは
わかる。
ここは
ずっと来たかった
場所であり、
かつ
ずっと怖れ続けた
場所でもある。
ここには
過去も今も未来も
なく、
分離しておらず、
時すらも
静かに一つのままに
私達と同じように
ここにいる。
「境目」なのに
なぜかここに
「中心」もあり、
その「中心」は
私達自身が
大事に抱いている。
そのうちに
「自分」と「世界」の
区別すら
なくなるのだろう。
すると
この緊張感も
消失し、
区別のなくなった
私達は
区別のなくなった
新たな「自分」として
ようやくにして
この「境目」を離れ、
先に進むのだろう。
まるで
夜が明けるように、
先に進むのだろう。
つづく
急がねば
ならないが、
焦る必要は
ない。
急ぎたいと
思うのなら、
今は
しっかりと
自分の足元を
見つめるべきだ。
そして、
一歩
また一歩
と
着実に
しっかりと
自らの足であることを
確認しながら
進むといい。
風は
追い風だ。
簡単に
乗れる。
簡単に
進める。
だからこそ
足元に。
ちゃんと
自分の意思と
自分の
足で。
つづく
実は
日常生活の中では
いろんなことが
調和している。
私達が
気づけるか気づけないか
だけの違いで。
調和に気づける
ということは
それだけで
私達の心の調子が良い
ということだ。
調子が悪ければ
そこに気づくことも
できない。
ゆとりがない
というやつだ。
調和に気づけないと
自分は不調和であると
思い込む。
人間は
解釈の生き物。
不調和だ不調和だ
と
言葉で思うわけでは
ないが、
調和できていない
のが自分である
という
要するにそういった
変な自己イメージが
無意識に高まり、
その解釈によって
不調和度が
さらに高まり、
本当に不調和に
なる。
街を歩いたり
駅を歩いたり
していると、
その状態に入ってしまっている
人が
たくさんいることが
わかる。
一目でわかる。
逆に、
調和にちゃんと
気づきながら
生きている人も
すぐにわかる。
同じ人間なのに
面白いものだ。
そして、
自分自身で創り出した
その調和・不調和
によって
人生の展開は
決まっていく。
結局はやはり
その人の
生き方の問題だ。
ビジネスで言えば、
もちろん
調和にちゃんと
気づいている人同士
で組むと良い。
調和の連鎖が
起こるから。
調和の連鎖によって
育まれたビジネスは、
そのお客様に
なってくださる人にも
調和をもたらす。
それはその
具体的な商品やサービスの
効用以上に
価値あるものだなと
私はいつも
感じている。
調和の連鎖を
もっともっと
助長したいものだ。
つづく
今の時代の私達が
天動説の話を聴けば、
昔の人は
何も知らなかったんだ、
と
ちょっと小馬鹿にする
傾向があるかもしれないが、
私は、
宇宙の中心は
自分達の住んでいる
この世界である
という
とても素直な捉え方に
好感を持っている。
太陽は
頭上を移動し、
星々も
動いていく。
空が毎日
同じように変わって
いく。
回っていく。
自分達を中心に。
そのように
自然現象を素直に
捉える視線は
私は大事だと
思うのだ。
事実を
あるがままに捉える
ことは大事だが、
それは
知識を他人から
教えてもらうこと
ではない。
もちろん
教えてもらうことも
大事だが、
やはりまずは
自らが
体験すること
ではないか。
私は
どう感じるか?
私は
どう思ったか?
それも一つの
事実であり、
それも
あるがままに
捉えるべきだと思う。
正しいかどうか?
よりも
私はどう
感じ、
どう受け取ったか?
それが
現実と向き合う
基本だ。
現代を生きる私達は
情報を
与えられ過ぎ、
というのは
確かにそうだと
思う。
しかし
情報量よりも、
情報が主か?
私が主か?
・・・こちらの方が
重要ではないか。
私達は
人生の「現場」にいる。
私達が生きている
この場こそが
「現場」だ。
「現場」で生きる
私は
「現場」で何を体験し、
何を感じたか?
そして
どうしよう
という意思を素直に
持ったか?
自分自身が得た
現場の情報
を、
自分自身がまずは
大切にすることこそが
自分の人生を生きる
基本だろう。
つづく
そろそろ
私を
変えようかと
思う。
つまりは
「私は何者か?」
を
大きく変えようかと
思う。
実はずっと
何年も前から
そう決めていた。
時期が来たら
そうしよう、と。
しかし実際
それはちょっと
勇気も必要なので、
本当に慎重に
タイミングを図ろう
と思っていた。
で、
そろそろかな?
と
思っていたのだが、
今日ふと
「あっ、タイミングだな」
と
自然に思えた。
だから
変える。
というか、
その瞬間に
変えてしまった。
特に皆様に
ご迷惑をおかけする
話ではないので
ご安心を。
ただし
私自身と
私の人生展開には
恐らくだが、
極度の刺激が入る。
仕事をやめる
わけではないし、
これまでご縁を
いただいた方々との
お付き合いを
変えたりするわけでも
ない。
でも、
変わる。
根本的に
私自身が変わる。
あっ、性格は
変わりませんし、
恐らく
言動もまったく
変わらないと思うので、
それもご安心を。
現象レベルでは
何も変わらない。
しかし
実在レベルが
まったくもって
根本から変わる。
さて、
具体的に何が
どう変わるのかは
言葉では説明できるけど、
教えない。笑
誰にも。
変えるのは
怖かったけど、
いざ変えちゃったら
あとはもう
楽しみしかない。
つづく
自分の「未来」を
大事にしたいのなら、
「今」を
大事にすることだ。
「今」を大事にできない人は
「未来」を大事にすることも
できない。
そういった
とても単純な原理に
基づいて
私達は生きている。
今の自分に
文句を言ったり
否定をしたり。
今の環境に
文句を言ったり
否定をしたり。
もちろん
そういった心が
湧いてくるのであれば
それはそれで良いし、
あらゆる心は
存在承認すればいい。
でもそれだけで
終えてしまっては
ならない。
文句もあるし、
否定したい気持ちも
あるけど、
それでも私は
今ここ
にいる。
じゃあ
今ここで私は
どう生きるか?
何を大切にして
どう生きるか?
どんな自分として
在り続けたいか?
それを
真摯に見つめ、
そして
真摯に行動する。
その姿勢を
持ち続けている人は
それだけで
心がだんだん
クリアになっていく。
エネルギーが
高まってくる。
そして
ある時ある瞬間に
何かのきっかけで
「未来」
が観えてくる。
私達はもともと
自分の未来を
決めている。
何を目指し、
何を実現するために
この世を生きるか?
その純然たる答えを
抱きながら
生きている。
真本音の答えが
あるんだ。
しかしそれは
「今」を大事にする
生き方ができていなければ、
決して
心の奥底からは浮上
しない。
自分の未来への
指針や願いは
自分の望む生き方を
実践できる自分にならねば
隠れたままなんだ。
今をちゃんと
生きることができて
初めて、
私達は自分自身に
OKを出す。
よし。
もう今の私ならば、
私の未来を
見せてあげよう。
と、
自分で自分に
OKを出す。
それが
私達だ。
自分に真摯に
生きること。
それは
今を真摯に
生きること。
つづく
真本音度合いが
高まれば
高まるほど、
自分の意図を
超えた
展開が起きている
気がする。
笑えるくらいに
意図通りに
いかない。
でもそれは
不幸なことか?
と問えば、
真逆だ。
それが楽しくて
しょうがない。
きっと私自身が
そういった
意図のない人生
を
願っているから
そうなるのだろう。
自分が
思い描いた通りに
いく人生は
楽しい?
と訊かれれば、
全然楽しくない
と
私は即座に
答えるだろう。
それはあくまで
私の好みだ。
だから
意図通りに行きそうに
なればなるほど、
私は真本音で
それを避けるのだろう。
そして
思わぬ展開に
ほくそ笑む。
そう。
これはあくまでも
私の好みだ。
この3次元という
現象の世界は
未来がわからない
ように
できている。
せっかくそういう風に
できてるんだから、
そここそを
楽しまずして
何を楽しむのか?
と
思うのだ。
くどいようだが、
あくまで私の
好みだ。
この生き方を
オススメしている
わけではない。
今日も想定外
ばかり起きた。
私自身さえも
想定外の
動きをとった。
自分の動きを
自分で見つめながら
びっくりしていた。
そしてやはり
ほくそ笑んだ。
私の望むことも
望まないことも
想定内で起こる
のは
物足りない。
明日も明後日も
私は
冒険したい。
皆さんは
自分の人生、
どう考える?
つづく
人と向き合って
いると、
その人が
どんどん
静かになっていくのが
わかる。
まずは
心が静かになり、
そして
魂が静かになる。
これは別に
私が向き合っているから
という
わけではない。
そもそも
「向き合う」
という行為自体に
そういう力がある。
人と人は
向き合うもの。
向き合うことで
共に生きるように
私達人間はできているな
と
本当に毎日
実感する。
ところが残念ながら、
形だけは向き合いながらも
実は何も向き合っていない、
という関係が
多い。
だからみんな
疲弊するし、
心が騒がしくなる。
そして
いろんなことが
混乱して
何が何やら
わからなくなる。
自分を失う。
自分を失ったまま
人生も仕事も
進めてしまう。
その根本原因は
向き合っていないからだ。
と
つくづく思う。
人と人は
向き合うもの。
向き合うからこそ
観えてくる答えは
実に多い。
向き合えば
すぐに突破できることも
向き合わないから
いつまでも
そこでズルズルと
悩み続ける。
向き合う関係を
増やしていけると
いいね。
向き合う気持ち良さを
思い出せると
いいね。
つづく
コーチングを
していると、
あぁこのクライアントさんの
中に、
人生において、
とても大事な「答え」が
一つ、
形創られたな、
と
わかる瞬間が
ある。
しかし面白いことに、
その時点では、
「答え」の存在感
しかわからないのだ。
とにかく
何らかの「答え」が
できたんだ、
という空気感だけだ。
しかもそれは
多くの場合、
そのクライアントさんの
「声」
でわかる。
声の波長が
変化するのだ。
表面的な
変化ではない。
とても微妙な
根本的変化だ。
実は今日のコーチング
でも、
それがあった。
今日のコーチングは
オンラインで、
声だけでやっていた。
だから余計に
わかったのかも
しれない。
しかし大変なのは
ここからだ。
「答え」の存在は
わかったが、
「答え」の存在しか
わからないのだ。
それが
何に関することなのか?
さっぱり
わからない。
だからまずは
その「答え」にたどり着く
ための
「問い」
を見つけ出さねば
ならない。
しかし毎度そうなのだが、
それは最初はまるで
雲を掴むような話なのだ。
なので私の場合
クライアントさんに
そのまま告げる。
何かの「答え」が
出たようですよ。
でもそれが何か
さっぱりわかりません。
一緒に見つけましょう。
・・・と。
こんなことばかりを
言うので、
私のコーチングに
まだ慣れていない人は
目を白黒させる。
でも
慣れてくると、
まるで宝物探しのようで、
その独特の楽しさ
に病みつきになる
ようだ。
そして自然に
セルフコーチング力が
ついてくる。
で、
ある時から
ご自分から言うように
なる。
竹内さん、
どうやら私の中に
何らかの「答え」が
生まれたようです。
・・・と。
楽しいねぇ。
で、
そうやって見つけた
「答え」は
ほぼ間違いなく、
人生の展開を
変えるんだ。
つづく
目の前に
人がいる。
会った瞬間、
私は彼から
あらゆるものを
受け取る。
要するにそれは
彼の「実在」
であるが、
そこには
すべてがある。
目の前の彼は
「現象」に
過ぎない。
「現象」に
過ぎないのだが、
しかし
それこそが
今ここ
における
彼のすべて
でもある。
実在のすべて
と
現象のすべて。
その両方の
「すべて」
と対峙することで
私のコーチングは
始まる。
やはり
私は
「コーチング」
が好きである。
「コーチング」という
一つのカタチが
好きなのだと
思う。
1対1で
その人の「すべて」
と
向き合い続ける
時間。
真正面から
向き合い続ける
時間。
その時間中、
私は彼の「すべて」を
感じ続けることが
できる。
それは悦びであり
苦しみであり。
しかし紛れもなく、
それは
「人間」
である。
きっと私は
「人間」が
好きなんだな、と
思う。
昔は
嫌いだったのにね。
なんでこんなんに
好きになったの
だろう?
いつから
好きになった
のだろう?
まぁそれは
ともかく、
「コーチング」には
時間制限が
あるのも
実にいい。
1時間なら1時間と、
限られた
時間を
「コーチング」という
カタチとして
向き合う。
私はその時間内は
完全に
「コーチ」という
在り方に
集中できる。
つまりは、
目の前のその人に
私の意識の
「すべて」を
向け続けられる。
100%その人の
ための
時間だ。
よくよく考えたら、
人生において
このようなカタチの
時間というのは
なかなか
手に入れらない
よな。
「コーチング」によって
その人が
本来のその人を
取り戻し、
本来のその人の
「行動」を
取り戻していくのは、
そういう意味では
当たり前と言えば
当たり前だよな。
その人も
私も
「実在」のすべてと
「現象」のすべてを
向き合わせながら、
その人だけの
ための
限られた時間。
いいよなぁ。
・・・と思う。
改めてふと
今日は
そう思ったよ。
つづく
地に足がついて
いない状態では
もがけばもがくほど
ドツボにはまる。
ますます
混乱し、
ますます
わけがわからなく
なり、
ヒステリー状態に
近くなる。
表面上は
穏やかに見えても、
心の中身が
そのような人が
増えている。
当然であるが、
凄まじいエンティティだ。
「エンティティ」という
言葉、
久しぶりに書いた
気がする。
要するに
「念」だ。
ストレスが濃くなりすぎて、
まるで風邪のウィルスの
ように、
実体化した「念」。
私達は誰もが
多かれ少なかれ
エンティティを持ち
生きているが、
自分自身が
耐えられないくらいに
それを抱えている人が
増えている。
今の世の中の
状況が
そうさせているという
面も
もちろんあるが、
それ以上に
それは
本人の「生き方」の
問題だ。
環境によるストレスが
エンティティを発生させる
ことは
実は、想像以上に
少ない。
それよりも、
自分の真本音を
自分が無視する
ことによって
エンティティは大量発生
すると考えてよい。
真本音というのは
自分自身の魂の
意思であり、
自分の本当の本当の
想いなのだが、
にも関わらず
そこに全く目を向けず、
その真逆を生きている
という
私からすれば
信じられない人が
多いのが、
今の世の中の大問題だ。
「私からすれば
信じられない」と
書いてしまったが、
何を隠そう
昔の私もそうだった。
だから私は
エンティティの塊の
ようだった。
毎日が
苦しみの嵐だったなぁ。
しかし人間の
凄いところは、
苦しみが限界を
超えると、
「麻痺をさせる」
のだ。
苦しみが
消えていく。
しかしそれが
ずっと続くと
エンティティが完全に
3次元化して、
何らかの病気に
なる。
そんな人も
増えている。
昔の私も
それで体を壊した
こともある。
「自分の人生を
大切にする」。
・・・この当たり前の
言葉が浮かぶ。
人生を大切にする
とは、
「今は何の時間か?」
を大切にする
ということであり、
「今という時間と
今の自分の行為に
気持ちを込める」
というのが
基本だろう。
本当はこんなこと
したくないんだ、
という気持ちで
「ただ単に
時間をこなす」
という生き方を
すれば、
人生を大切にする
のとは
真逆のことになる。
こなす人生
ではなく、
気持ちを込める人生。
こなす時間
ではなく
気持ちを込める時間。
一つ一つの
行為に。
たったそれだけの
ことなんだけどねぇ。
つづく
私達の苦しみの
9割は、
自分自身の妄想が
創り出したものだ。
本当は
そんなものはない。
ところが、
残りの1割くらいは
本当の苦しみが
ある。
その苦しみとは
向き合わねば
ならない。
妄想の苦しみは、
ちゃんと向き合えば、
その瞬間に
消えていく。
しかし
本当の苦しみは、
向き合っても
なかなか消えない。
どころか、
余計に苦しくなる。
なぜならそれは
自分自身への
メッセージや
合図でもあるからだ。
「現実を変えよ」
とか
「生き方を変えよ」
とか。
何かとても大事な
ものを
変えなければ、
その苦しみは
終わらない。
しかしもし
そのメッセージを
ちゃんと受け取り、
変えるべきものを
変えることが
できれば、
その先に
あるのは、
新たな自分
であり
新たな世界
だ。
私自身も何度となく
そういった体験を
させていただいたが、
今、
私の仲間たちが
次々に
苦しみを超え、
次の自分として
次のステージに
進み始めている。
妄想も含め、
ちゃんと自分自身と
向き合い続けた
成果だ。
やはり
自分と向き合わずして
人生を進めることは
できないのだな、と
改めて
痛感する日々。
つづく
魂を込める
というのは
静かな行為だ。
全身全霊を
込めるというのは
静かな行為だ。
肩の力は
抜けている。
「込める」という
割には、
エネルギーは
下から上へと、
まるで
地球の中心から
宇宙の彼方へと
突き上げる
ようだ。
そのエネルギーの
流れに
自分の身を
預けると、
やはり
さらに静かに
なっていく。
心が整って
いく。
目の前の
あらゆる景色が
ただ、あるがままに
くっきりと観え、
それらに
一切何も
評価、判断を加えず、
ただすべてが
一つの存在である
と
愛と共に
認識できる。
自然に頬が
緩む。
全身の力も
抜けてしまう。
しかし
細胞の一つ一つは
明らかに
とてつもないパワーを
湛え、
ほんのわずか
例えば、
指先をちょっと触れる
だけで、
そこから
エネルギーが無限に
波及していくのが
よくわかる。
その状態で
一つの振る舞い
を行なう。
たった一つだ。
そのたった一つの
振る舞いの後に、
さらに次の
たった一つの
振る舞いを行なう。
そしてさらに
その次にまた
たった一つの
振る舞いを行なう。
一つ一つ・・・。
それがずっと
続く。
一つの振る舞いは
無限の波及を
生み出し、
次の一つの振る舞いも
また
無限の波及を
生み出す。
実在のレベル
で言えば、
それが
魂を込める
ということだ。
魂を込めて
毎日を生きるのと
魂を込めずして
毎日を生きるのと
では、
そりゃ
人生の展開は
変わるわな。
つづく
本当に大事なもの
は何か?
を明確にできている
人は、
一見、大事だな
とは思うけど
よくよく考えると
どっちでも良いもの
も明確にわかるように
なる。
本当に大事なもの
と
実はどっちでも良いもの。
似て非なるもの。
この区別がつく
だけで
人生は劇的に変わる。
多くの人は
どっちでも良いもの
に執着しすぎている。
どっちでも良い
と思っているのに
それにこだわるから
とても疲れる。
しかも
その執着をすることで
本当に大事なものを
ポロッと手放してしまう
こともある。
手放すのは
そっちじゃないのに。
今、執着している
それこそを
手放せばいいのに。
側から見れば
そういうのはよく
わかるのだが、
本人には
わからないのだ。
まぁそれが
人間だ。
もし、
神様が目の前に
現れて、
「何でも3つの願いを
叶えてあげよう」
と言われたら、
何をお願いする?
ちょっと
考えてみよう。
ここで発想される
3つの願いは、
その人にとって
本当に大事にしていること
・・・のような気が
するでしょ。
でも実は
そうとも限らないんだな。
本当に大事にしたい
もの(こと)は、
結構、私達は
安直に手に入れよう
とはしないんだ。
だから
自力で手に入れようと
する。
それをするのが
自分の人生だと
わかっている。
だから、
その3つの願いの答えは、
案外、
どっちでも良いこと
のケースが多い。
まぁ、人によりけり
だけどね。
本当に大事なもの
と
実はどっちでも良いもの。
ちょっと真剣に
考えてみよう。
もっともっと
自分自身のことを
自分が理解して
あげないとね。
つづく
雨が降ろうが、
槍が降ろうが、
私達は
自分の決めた
一本道を
進もうと
決めている。
その覚悟は
最初から備わっている
のに、
その覚悟そのものを
忘れてしまう。
目の前に
一本道が観えている
のに、
わざわざ目を瞑り、
「見えない、見えない」
と言う。
目を瞑り、
自分の中で空想を
生み出し、
イメージで道を
描き、
現実ではない
イメージの道を
目を瞑ったまま
進もうとする。
目が開いていない
ので、
当然だが
すっ転ぶ。
そして
「痛い痛い!」
と泣く。
なんでそんな
面倒なことをしながら
苦しむのか?
と思うのだが、
みんなそれを
やっている。
もちろん私も
ずっとやっていた。
私達は
目の開き方を
忘れてしまった。
実在の道が
そこにあるのに、
妄想の道ばかりに
行くことに
慣れてしまった。
そして
いかにしたら
妄想の道を上手く
進めるか?
を開発し、
それを「成功哲学」とか
「なんとか成功法」とか
呼んで重宝している。
いやいや、
それは妄想の道だ。
妄想の道を
どれだけ上手く
進んでも、
私達に真の幸せは
訪れない。
何がどう上手く
いっても、
私達は常に何かが
枯渇し、
疲弊し、
喉の渇きがなくならない。
上手く道は
進めているのに、
なんでこんなに
幸せ感がないのか?
というところで
上手くいけばいくほど
悩むことに
なる。
そうかきっと
道が間違っていのだ!
と
一つの結論を
出し、
さらに次の新たな
妄想の道を
創り出す。
妄想の連続。
妄想の人生。
・・・もうそろそろ
そこから脱け出さないとね。
それはそれで
人生の一つの醍醐味
かもしれないが、
そろそろもう
時間がない。
妄想はやめて
目を開かないとね。
目を開けば、
実在の道がある。
それは
まっすぐ一直線に
伸びている。
完全に
決めてしまっている
道。
その道に入ると
初めて私達は
自由
を感じるんだ。
妄想から
実在へ。
妄想の時代から
実在の時代へ。
今はその
転換点だ。
つづく
やろうやろう、
と
思いながらも、
ずっとやれていない
ことって
あるかな?
もしあるのなら、
やれていない自分
を責めるよりも、
なぜ
やれていないのだろう?
と
じっくり自分自身を
見つめてみないか。
やれていない理由
は必ずある。
理由があるから
やれていない。
「面倒だから」
というのは
理由の一番にくる
かもしれない。
でも本当に
そうだろうか?
もっと他の
理由はないだろうか?
・・・・・・
真本音の視点
から言えば、
実は結構よくある
のは、
「まだタイミングでは
ないから」
という理由だ。
つまりは
「最善のタイミングを
待っている」
わけだ。
私達の真本音は
・いつ始めるか?
・どう継続するか?
を
とても大事にしている。
同じ物事でも
「始めるタイミング」
が
ほんのわずかでも
ずれると、
不調和が起こる
からだ。
どうせ始めるなら
ベストタイミングで
始め、
自分自身にも
周りにも
より良い影響を
与えて行きたいという
想いがあるわけだ。
だから
タイミングが来るまで
「じっと待つ」
ことをする。
そして
いざ、タイミングが来たら、
一気呵成!
だ。
そのメリハリを
真本音は大事に
している。
そしてそのように
始め、
継続ができると、
次には
・いつ飛び出すか?
を
大事にしている。
つまりこれは
今の段階を終え、
次のステージに
いつ飛び出すか?
ということであり
要するに、
枠を超えたり
脱皮したり
そういった
「継続の先にある
新たなスタート地点」
を
探るということを
する。
「進化」だね。
で、やっぱり
そういったあらゆる
展開が
ちゃんとスムーズに
進むためにも、
一番最初の
「いつ始めるか?」
が
とてつもなく大事だと
いうことだ。
・・・・・・
やろうやろうと
思いながらも
ずっとやれていないこと
が
もしあれば、
ひょっとすると
自分の真本音が
自分の行動を
あえて
止めているのではないか?
という視点から
一度、
チェックしてみよう。
もちろん、
ただのぐうたら
なら、
すぐに始めた方が
いいけどね。
つづく
もし迷ったならば、
どうしても
答えが出ないならば、
「世界」に意識を
向けてみよう。
「世界」とは
外部、ということだ。
つまりは
自分の内側に籠る
のではなく、
意識を外へ外へ
向ける。
今自分がいる
「ここ」。
「ここ」という世界。
その全体に
意識を向け続けよう。
そして
「世界」を
全身で思う存分に
感じとろう。
その状態で
一日を過ごして
みるといい。
日常を
過ごしてみるといい。
これをすることで
私達は
「我」
という範疇を超える。
いつの間にか
「我」を超え
「世界」そのものに
なる。
それが当たり前
の状態になって
初めて
自分の中から
浮上する「答え」が
ある。
その「答え」は
自分の内側に籠り
迷い続けて出す答えとは
次元が違う。
なぜ
答えが出ないか?
なぜ
迷い続けるか?
それは、
今のその次元とは
違う次元の答えを
自らが出そうと
しているからだ。
一つ上の次元の
答えを見つけようと
しているからだ。
それをするためには
「我」を脱ぎ捨てる。
「我」を超える。
それをするためには
「世界」に意識を
向け、
「世界」そのものに
なるしかない。
我は世界。
世界は我。
もうそんな時代
なんだな。
つづく
私達の真本音は、
(誰の真本音も)
そんなに
無茶はしない。
日常において
自分のやれることを
最善のタイミングで
一つ一つ
着実に
やろうとする。
自分の真本音に
素直に生きるとは
基本的には
そういうことだ。
しかしその着実な
一つ一つを
きちんと続けていくと、
それは
自分自身の
最短の進化に繋がり、
かつ
気がついたら
「結構、進んだなぁ」
となり、
周りの人達から見れば、
「なんであの人
あんな凄いことできるの?」
となる。
しかし本人は
着実に一つ一つ
進んでいるだけだ。
だから
真本音で生きる
とは、
本人からしてみれば
最も安心であり
安定であり
地に足のついた
進み方だ。
ところが・・・。
時々であるが、
(最近増えているが)
「おいおい
そんな無茶をするのかよ!」
と
ツッコミたくなるような
判断を
真本音がすることがある。
そんな人が
増えている。
そんな場合はさすがに
本人も
躊躇する。
そんな時は
こう考えるといい。
自分の真本音は
一つの選択肢を
あえて極端な表現で
自分に示している、
と。
そして
本当にそんな無茶な
ことをするのか?
それとも
着実に進むのか?
・・・は
自分(顕在意識)で
決めればいい、
と。
人生に答えはない。
正しいかどうか、
という視点を
持ち過ぎると、
途端に進めなく
なる。
最終的には
自分(顕在意識)で
すべて決めればいい。
自分の人生は
自分(顕在意識)で
ハンドルを
握るんだ。
人生の
最終意思決定者は、
顕在意識の自分
だ。
つづく
現実に
揺らされる心が
ある。
揺らしておけば
いい。
揺れるものを
揺れないように
努力するほど、
疲れることは
ない。
揺れるなら
揺らす。
揺れたいように
揺らす。
それが自由
というやつだ。
ただ、
その揺れるのを
ちゃんと
観察しよう。
目を瞑って
揺らされるのでもなく、
目を背けて
揺らされるのでもなく。
しっかり
目を開いていよう。
心の外にあるものが
現実ならば、
心の内側で
起きていることも
現実だ。
両方の現実に
しっかりと
眼差しを向ける。
それさえ
やり続ければ、
揺れる心は
そのままに
観察者としての
自分は
決して揺るがない。
すべてを観察する
という
覚悟。
これさえ失わなければ、
私達はちゃんと
地に足をつけたまま
でいられる。
そして、
観察をし続けることで
自然に
浮かび上がる意志(意思)
がある。
その意志(意思)には
淀みがない。
それが
真本音だ。
私はいつも
真本音が浮かび上がる
まで、
じっと待つ。
それまでは
動かない。
ただ、
観察をするだけで。
私は
待つ人だな
と思う。
しかし、
いざ真本音が浮上すれば、
私は
ロケットのように
一直線に進む。
そのメリハリが
人生の醍醐味の一つ
だと
思っている。
つづく
魂を込める、
とは
どういうことだろうか?
私達の魂は
自分自身の「生き方」に
こだわっている。
「何をするか?」
よりも
「どう生きるか?」
を
大切にしている。
昔からよく言われる
ことだが、
「雑用仕事もできない人は
大きな仕事もできない」
と。
これは私も本当に
そうだな、と思う。
何をするか?
ではない。
どんな「何」に対しても
そこに自分の生き方を
込めることができるか?
それができた時
私達の魂は
悦ぶ。
すると
内側からエネルギーが
湧いてくる。
内発的エネルギー。
これは
「生き方」が生み出すものだ。
私は
魂の意志のことを
『真本音』
と呼んでいるが、
真本音で望む生き方
がある。
私がさせていただく
あらゆるサポートの
第一歩目は
それを明確化、言語化
するところから始まる。
これを最初にやり
人生や仕事のあらゆる場面で
その「生き方」を
大切にすることで、
その人は一気に
真本音度合いを高め
(つまりは魂を込める度合いを
高め、ということだ)
内発的エネルギーが
高まる。
すると、
同じ環境、同じ現実の
中にいても、
その人は
変わる。
より活き活き、ワクワク
なり、
よりその人らしくなる。
その人の本質が
ニョキニョキと育まれ、
その人にしかない
魅力が溢れ出す。
その状態になった上で
お仕事などの具体的な
課題に取り組むサポートに
入る。
以上のサポートの流れ
を発見してから、
もう17年になる。
いまだに
これ以上に効果的な
サポートの流れは
ないな、と思っている。
すべては
「生き方」で決まる。
今この瞬間の
「生き方」だ。
同じ人間でも
「生き方」をどうするかで
人生はあまりに大きく
変わっていくんだ。
基本だな。
つづく
自分の大きさは
自分で決めない
方がいい。
私はここまでだ、
とね。
自分のことを
一番わかってない
のは
自分だ。
自分が自分を
小さくまとめてしまう
ことにより
迷惑するのは
周りなんだ。
だから、
私なんて・・・
というのは
謙虚でもなんでも
ない。
むしろ傲慢だ。
器が大きいとか
小さいとか、
そういった視点
そのものを
もう手放すといい。
もっと言えば、
自己評価
そのものを
手放すといい。
いいじゃないか、
自分は
あるがまま
で。
それよりも、
自分の願いを
素直に見つめよう。
自分の祈りを
素直に見つめよう。
素直に見つめる
だけで、
なんだか
あたたかくなるだろ?
その願いや
祈り、
それをいつも
胸に抱きながら、
目の前の
一人の人と向き合おう。
目の前の
一つの現実と
向き合おう。
願いと現実。
その二つと
いつも向き合って
いよう。
それだけで
いいんじゃないかな。
あとは勝手に
自分の中に
静かな衝動が起こる。
静かで
あたたかい衝動だ。
それに素直に
自分を預ける。
素直に行動する。
それだけで
いいんじゃないかな。
つづく
どれだけ悩んでも
答えが出ないこと。
答えは出る悩みだけど、
今は答えは出ないこと。
答えは出る悩みで、
今すぐに答えを
出すべきこと。
以上の3つを
しっかりと区別しよう。
そして
私達はすべきことは
一つだけ。
つまり上記の
3番目。
今すぐ答えを出すべき
悩みにのみ
集中しよう。
真本音度合いを
高めておくと、
こういう時に
とても楽だ。
何故なら、
あっこれは今、
悩むべきことじゃないな。
とわかったら、
スッと手放すことが
できるから。
逆に
真本音度合いが低いと、
手放そうと思っても
執着が出てしまうため
なかなかに難しい。
結果的には
答えの出ない悩みの
中に入り込み、
それで一日が
過ぎてしまう。
何の生産性もない。
いったい何のための
一日だったのだろうと
後悔することになる。
やはり
普段の生き様で
すべては変わる。
普段から
自分が本当に
大切にしているものを
大切にする日々を
送る人は、
いざという時に
強い。
心のコントロールが
効くからだ。
自分の心を
コントロールできずして、
人生のハンドルを
握ることはできない。
自由を手に入れる
こともできない。
今からでも
遅くはない。
自分の大切にしている
ものを
大切にする。
そんなシンプルな
生き方をするといいよ。
つづく
楽しく人生を
生きたい。
と思うのなら、
自分に
厳しくするといい。
まずは
すべてを
自分で決める。
決めたことは
必ず実行する。
そして
そこで起こる現実を
しっかりと
観察する。
これを続けよう
と思うことがあれば、
必ず続け、
習慣化する。
これを目指そう
と願うことがあれば、
常にそれを意識し、
そのための一歩を
進み続ける。
以上のことを
必ずするように
自分自身に
厳しくする。
それを真剣に
やろうとすれば、
必ずその一歩一歩の
中で、
楽しくなってくる。
人生が楽しくない
という人の共通の特徴は、
人生のハンドルを
自分が握っていない
ということだ。
他者に任せて
しまっている。
つまりは
依存。
依存的生き方は
何をどうやっても
楽しさを生まない。
楽に生きる
ということも
できない。
私達人間は
依存することに対して
不快感を覚える。
それは
人間の本能だ。
小さな子ども達は、
自分の意志で
遊ぶではないか。
主体的に
遊ぶではないか。
だから楽しい。
あれが本来の
私達だ。
主体的に
生きること。
それなくして
人生の楽しさは
ない。
つづく
自分が全力疾走
することで
初めて出会える
人がいる。
もし
全力疾走をしなければ
決して
出会えない。
そういう人が
何人もいる。
本当なら出会えるのに
出会えないままに
人生を終えてしまう、
というケースは
実はとても多い。
出会う、
とは
すごいことなのだ。
私達の人生は
人との
コラボだ。
どんな人と出会うか
によって
人生は大きく変わる。
どんな人と
出会い、
どうコラボするか?
これが人生を
決める。
どう生きるか?
とは
誰と、どう生きるか?
ということに
他ならない。
自分の人生には
必ず、
他者を入れなければ
ならないし、
他者との調和性を
高めることが
より良い人生に繋がる。
そしてそのためには、
自分の人生においては
自分自身が
リーダーであらねば
ならない。
自分の人生においては
リーダーとして
全力疾走をしなければ
ならない。
そしてここで言う
全力疾走とは、
常に全力を出し続ける
ということでは
ない。
全力を出すべき
その瞬間に
全力を出せる自分で
いること。
その瞬間に
自分の100%を
実際に出せること。
これができる人は
本当に必要な時に
必要な人と
出会うことができ、
その人との
コラボも
必要な発展の仕方を
する。
そして以上のことは
私達の真本音を
抜きにしては
決して実現できない。
一歩一歩、
真本音で進むことが
良い出会いを
生み出す。
真本音を忘れて
しまえばしまうほど、
本当は出会えるのに
出会えなかったという人が
増えてしまうのだ。
つづく
あなたの中の
中心軸は
今、
とてつもない
強い意志を
持っているはずだ。
それをしっかり
確認して、
自覚しよう。
そして
自分の心で生きる
というよりも、
中心軸で
生きる、
ようにしてみよう。
すべてを
中心軸で受け止め、
すべてを
中心軸で判断し、
すべてを
中心軸で決める。
そして
考えて動く
のではなく、
中心軸で
動いてみる。
その連続を
してみよう。
これをすることで
私達は
現時点での自分の心
を
超えることができる。
それは、
心を込めて生きる
という次元を
突破し、
魂を込めて生きる
・・・状態に
導いてくれる。
それにより
必然的に、
これまでとは次元の
異なる
現実の展開が
始まる。
それにより
心が失われる
わけではない。
むしろ、
中心軸が
「自分」という心を
活かしてくれる。
もう私達は
自分自身を
超えなければならない。
それがここからの
ステージだ。
つづく