否定

否定してもさ

 

この世は

映し出されたもの

である。

 

・・・などと書くと、

この世の現実を

おろそかにしそうに

なるが、

 

そうではない。

 

映し出されたもの

こそを

しっかりと

あるがままに

見つめることでしか、

 

映し出す本体

(つまりは、実在)

のことは

理解できない。

 

この世は

ただの幻だから、

 

などと

言っているようじゃ

ダメだ。

 

幻なら幻を

よく観なければ、

 

解釈なしに

観なければ、

 

何も

進まないんだ。

 

・・・・・・

 

あらゆるものに対して

まずは否定から

入る人がいる。

 

こんなものは

あってはならない、

と。

 

気持ちは

わかる。

 

でもそれでは

何も始まらない。

 

あるものは

ある。

 

それが

事実なのだから。

 

幻だろうが

何だろうが、

 

それが事実

なのだから。

 

あるものはある

として

そのまま受け入れて、

 

それを

あるがままに

観察する。

 

理解しようと

する。

 

それが全ての

スタートだ。

 

それができて

初めて、

最善の一歩が

見出される。

 

・・・・・・

 

否定の眼差しを

持つ人は、

 

自分自身をも

否定するように

なる。

 

下手をすると

自分の存在そのものを

否定するようになる。

 

それは

「生きる」道では

ない。

 

「活きる」道では

ない。

 

「すべてを前向きに」

という話ではない。

 

「あるがまま」

でいいんだ。

 

すべてを

「あるがまま」に

受け取るだけで

いいんだ。

 

その覚悟を持つことで

人生の道のりは

大きく違って観えると

思うんだけどな。

 

つづく

 

否定のプレゼント

 

世界の中心に

自分が立っている

という

イメージをしよう。

 

世界の中心

ということは

宇宙の中心でもある。

 

そんな傲慢な・・・、

とは思わないで

ほしい。

 

大事なことなんだ。

 

すべての中心

自分が立っている。

 

そうイメージ

する。

 

もし、

上手くできない場合は

これに毎日

チャレンジしてほしい。

 

人間には「慣れ」という力が

あり、

これは結構

半端なく凄い。

 

ちゃんと継続すれば

だんだんとそれが

当たり前になってくる。

 

そしてある時に

世界の中心にいる自分

はっきり認識する。

 

宇宙の中心

すべての中心

にいる自分を

 

まるで真理を思い出す

かのように

 

認識できる。

 

そうなれた時に、

次のように

呟いてみてほしい。

 

「私はすべて

このままでいい。」

 

全身に

この言葉が沁み渡る

感覚がすれば

OKだ。

 

違和感があれば

違和感がなくなるまで

これも毎日、続けてほしい。

 

やはりいつか

慣れる時がくる。

 

すべての中心に

いる自分が、

自分に対して

すべてこのままでいい、

承認する。

 

これが完全に

成された時に

 

そこで初めて

 

発生する

気持ちがある。

 

その気持ちを

一言で表現すれば

 

「私はこのままでは

ダメだ。」

 

となる。

 

注意してほしいのは、

「私はすべてこのままでいい」

という言葉の

反動(反作用)として

「私はこのままではダメだ」

と浮かび上がる気持ちとは

それは

根本的に本質的に

別物である

ということだ。

 

「すべてこのままでいい」

完全に

受け入れた者のみが

 

その完全承認の

後に

 

手に入れることの

できる

これはプレゼントだ。

 

自分から自分への

プレゼントだ。

 

「私はこのままでは

ダメだ」

という言葉自体は

否定的だが、

これはプレゼントなので、

 

愛に満ちている。

 

この一言を

感じるだけで、

言いようのない

「満たされ感」に

包まれるのだ。

 

その状態で

最後にもう一つだけ

自分に問うてほしい。

 

「では、私は私を

変えるために、

今日から何を

テーマとしようか?」

 

この問いに対しては

何らかのキーワードが

浮かぶはずだ。

 

それはシンプルな

たった一つの言葉

かもしれない。

 

それが浮かんだら、

それをテーマに

日々を過ごそう。

 

それはあなたを

次のステージへと

導いてくれるはずだ。

 

つづく

 

本当に肯定さえすればいいの?

 

人って

みんなそうだと

思うのですが、

 

自分のことを

否定されたり、

無視されたりすると

辛いですよね。

 

心の中には

反応本音がいっぱい

発生しますし、

 

否定されたら、

その人のことを

今度は自分が

否定したくなります。

 

そしてその通りに

争いや戦いに

入ってしまうことも

あります。

 

しかしそうならないように

我慢しよう

という人も多いですね。

 

いずれにしても

我慢しよう、

というのも反応本音ですので、

反応本音のコミュニケーション

になるのには

変わりはありません。

 

否定される人生は

いやですね。

 

無視される人生も

いやです。

 

・・・・・・

 

じゃあ、

自分が否定されないために

自分は人を肯定しよう、

 

という考え方も

ありますが、

 

実際は、

否定と肯定は

表裏一体です。

 

同じ次元

です。

 

否定か

肯定か

という場所にいる限り、

心が穏やかになることは

ありません。

 

自分を

肯定しよう。

 

人を

肯定しよう。

 

と、よく言われますが、

もちろんそれは

大事なことではありますが、

 

でもやっぱり

私は

違和感を覚えます。

 

だって、

肯定しよう!

って、疲れませんか?

 

不自然だと

思いませんか?

 

・・・・・・

 

否定をやめよう。

肯定もやめよう。

 

という話では

ありません。

 

否定と肯定は

必要です。

 

仕事においても、

間違った仕事の仕方を

していたら、

きちんと否定しなければ

なりませんし、

 

良い仕事の仕方を

していたら、

きちんと肯定することも

大事です。

 

しかし

本当の意味で、

 

あるがままに

否定し、

 

あるがままに

肯定する

 

ためには、

否定と肯定を

超えた次元に

自分自身の基点を

置くことが大切です。

 

否定も肯定も

超えた場所に立つ人

こそが、

純粋に

必要な否定と

必要な肯定が

できる、

ということです。

 

・・・・・・

 

我欲による

否定は

人を傷つけます。

 

そして、

我欲による

肯定も

実は人を

傷つけることになります。

 

もちろんそれは

我欲が基点ですから

そうなります。

 

どの意識が

基点かによって

否定も肯定も

根本的に

意味が変わってきます。

 

・・・・・・

 

否定も肯定も

超えた次元。

 

それは、

 

すべてをあるがままに

見つめる

 

という意識の次元です。

 

「見つめる」

を本当は

「観つめる」

と書きたいですね。

 

何の評価も判断も

解釈もせずに、

 

ただ、そのものを

観つめる。

 

その意識の次元を

「7次元」

と私は呼んでいます。

 

真本音度合いを

高めることで、

この7次元の意識が

芽生える人が

出てきます。

 

7次元意識で

物事を観れる人が

組織の中の3%を

超えると、

その組織は

劇的な変化を始めます。

 

まずはその状態を

創ることが、

私の組織サポートの

目的の一つです。

 

つづく

 

解釈を超えてゆこう

人が変化を始める時、

その変化が大きければ

大きいほど、

その兆しは

微小です。

 

変化の最初の芽。

 

それは

あまりにも小さく、

ほとんどの人が

その芽の存在に

気づきません。

 

もちろん

一番気づかないのは

本人です。

 

そして

せっかくの芽を

知らずに

踏みつけてしまう

ケースも多いです。

 

地中から、

チョンと

ほんのわずかだけ

頭を出したその芽に

どれだけ気づけるか?

 

これが

コーチとして

最も重要な力の

一つです。

 

・・・・・・

 

人はどうしても

悪いところ、

不足しているところ、

間違っているところ

などに

目が行きがちです。

 

ですからよく

「肯定的にその人を

見ましょう」

と言われます。

 

「その人の良いところを

見つけましょう」

とも言われます。

 

もちろんそういった

視点は大事ですが、

あくまでもそれは

視点の一つとして

大事なのです。

 

実はですね。

 

私は、

人を無理に肯定的に

見ることを

あまりお勧めしていません。

 

なぜなら、

肯定も否定も

「解釈」だからです。

 

見る側の

解釈。

 

それは

良いか悪いかの違い

だけで、

次元は同じです。

 

ですから、

いくら頑張って

人を肯定的に見ても、

心の中では

否定的な印象も同居し、

ただその否定的な

自分の意見にフタをするだけ

という状態となります。

 

これまでも

申し上げてきた通り、

心にフタをすると

ろくなことにはなりません。

 

「本当はAさんのここの

部分がいやだ」

という心にフタをしながら、

「Aさんって、こういうところが

素晴らしいよね」

とAさんに伝えても、

むしろ、

フタをしている否定的な印象が

空気感となって現れ、

Aさんに伝わります。

 

すると

Aさんはこう思います。

 

「この人、口ばっかだな」

とか

「なんかこの人

嫌味ったらしいな」

と。

 

これでは

意味がありませんね。

 

・・・・・・

 

私がお勧めするのは

 

「あるがままに

その人を観る」

 

ということです。

 

こう書くと、

とても難しいように

思われるかもしれません。

 

でも実は

これが最も楽ですし、

慣れれば最も

簡単です。

 

実は、

肯定的に人を見よう

とする人ほど、

その人の本質的な魅力に

気づくことができません。

 

なぜならあくまでも

自分の解釈でしか

その人を見ていないから。

肝心な部分が

観えなくなるのです。

 

解釈を超えた

・・・というよりも

解釈を手放した見方

(つまり、「観方」)

が大切で、

それができると

その人の素敵な箇所に

どんどん気づけますし、

先ほど書きました

「変化の芽」

も観逃さなくなります。

 

そして私は、

コーチだけでなく、

すべての人が

「人をあるがままに観る」

ことができるようになると

いいなぁ、と

心底、願っています。

 

はっきり言って

それだけで

世の中は平和になるかも

しれません。

 

人と人との

ぶつかり合いとは、

解釈のぶつかり合いでしか

ないですからね。

 

今はそこを

超えていくことを

私達は求められているのでは

ないでしょうか。

 

つづく

 

自分を矯正する人生は、深刻になるだけ

「虚勢を張る」ということについて

書かせていただきましたが、

(→前回記事)

それは、

「反応本音のクセ」

の一つです。

 

反応本音とは、

私達人間が現実(現象)世界と

関わる中で、

現実(現象)からの影響を受けることで

発生する心です。

 

一つの現実に対して

様々な反応本音が大量に

発生します。

 

そのうちの一つを

私達は選択し、

その反応本音に基づいて

私達は行動します。

つまり、

次の自分の言動や振る舞いを

決定します。

 

その、

反応本音の選び方を

私達は無意識に

パターン化します。

 

それが

反応本音のクセ

となります。

 

「虚勢を張る」

というのはそういったクセの

一つです。

 

もちろん、

それ以外のクセもあります。

 

例えば、

「虚勢を張る」のとは

真逆のクセがあります。

 

それは、

「自分を卑下する」

です。

 

自分なんて

どうせダメだから。

自分なんて

どうせできないから。

自分なんて

価値のない人間だから。

自分なんて

どうせ上手くいかないから。

自分なんて

・・・

と、最初から諦めて

物事に挑戦しない、とか

積極的に取り組まない

などの出方をします。

 

また、例えば、

「人に迎合する」

というクセの出方も

よくあります。

 

自分を出すことよりも、

人の意見に合わせたり、

イエスマンになったりしながら、

その場を取り繕う

ことをすぐにしてしまいます。

人間関係において、

波風を立たせたくない

のです。

波風が立つくらいなら、

自分が我慢すればよい、

と、ほとんどの物事に対して

打算的に考えています。

 

その逆に、

「人を否定する」

というクセもあります。

 

自分の考えが一番正しいと

思い込み、

他の人はすべて未熟だと

思い込み、

自分の考えに合わないことは

すべて否定しようとします。

要するに、

頑固ということなのですが、

悪い意味での

評論家っぽくもあり、

口を出す割には

口だけしか出さない。

自分が責任を負って

すべてを引き受けることは

しません。

理論的に否定するだけの

口だけ大将です。

 

・・・というように

反応本音のクセを書き出せば

本当にキリがないくらいに

様々なパターンがあり、

その一つ一つを

しっかりと見ていくと、

かなり深刻に思えます。

 

自分の

・心と

・行動(振る舞い)と

・起こす現実

に悪循環を起こし、

結果として自分の望まない

人生を創り出します。

 

しかも

面白いことに、

一つの反応本音のクセを

治そうとして

たとえそれができたとしても、

さらに次のクセが

出来上がるだけなのです。

 

一つのクセを見つめると、

深刻になり、

そのクセを必死に治しても、

さらに次のクセが

出来上がる。

 

それに対して

また深刻になり、

クセを矯正しようとする。

 

でもまた次のクセが

浮上する。

 

・・・という感じで、

本当にキリがありません。

 

それをやり続けているうちに

人生が

終わってしまうでしょう。

 

しかもその人生とは、

深刻なクセを治すための

深刻な人生だった、

ということになります。

 

しかし

「深刻な人生」

「真剣な人生」

は根本的に異なります。

 

残念ながら

深刻さからは何も

生まれません。

 

反応本音を矯正し続ける人生

からは

何も生まれないのです。

 

むしろ

自分の本当の「道」を

見出すためには、

その深刻さのサイクルから

抜け出す必要があります。

 

そのための

第一歩とは

何でしょうか?

 

それは、

 

『どうでもいいじゃん』

 

という一種の

おおらかさを持つこと

なのです。

 

「何があってもいいじゃんか」

とか

「どんなクセがあっても

構わないよ」

という

おおらかな目線で

自分の心と行動を

見つめることです。

 

ただし、

あるがままに

見つめること。

要するに

『観察』であり

『観る』ことです。

 

やはりまずはそれが

すべての土台に来ます。

 

そしてその上で

一つ、

とても重要なことをします。

 

それがすべての

始まりとなります。

 

続きは次回に。

 

つづく