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風が吹き、
一枚の葉が
ことりと動く。
ほんの些細な
その変化に
しかしそれでも
空気は
ざわめく。
分子レベルでしか
認知されない
そのわずかな
ざわめきも、
確かに一つの
波動を起こし、
それは周りに
伝播する。
たとえたった
一個の分子が
動いたに過ぎなかった
としても、
たった一個の
分子の
その動きが、
核心をつく
ことがある。
あの風が、
あの一枚の
小さな葉の動きが、
この大きな波を
起こしたのだ、
と
いくら説明しても、
それはなかなか
信じてもらえない
だろう。
しかし
この世の多くの
出来事は、
些細から始まる
のだ。
その「真実」に
目を向けるとき、
愕然とする
ことがある。
「些細」と
「核心」の
調和・不調和。
これによって
この世は
満ちている。
なんと
不確かなもの達の
集合体か。
この世界は。
偶然でしか
成り立たないかの
ような世界。
そのあやふやさの
中に
私達は存在
している。
その恐怖。
これを誰もが
持っている。
無意識下に。
私はこの
恐怖の眼差しで
すべてを
見つめている。
何も信じることが
できないという
眼差しで
見つめている。
そこまで
堕ちて初めて、
「必然」とは
どういうことか?
その意味が
わかったのだ。
「流れ」はなぜ
起こるのか?
その綿密な仕組みを
理解できたのだ。
そして、
理解すればするほど、
さらに
わからないものが
浮上する、
この世界の奥深さと
そこに至る
羨望と。
そういったものが
ないまぜになって
私達はここに
存在している。
いったいどれだけの
風が
今、世界の内で
起きているのか?
そのうちの
どれだけが
核心を突いているのか?
その視野に
立ったらもう、
何もできない。
そうではない場所に
私達は立つしか
ない。
その場所に
たどり着くしかない。
そんな出会いが
日々、起きている
というのは、
これも一つの
必然だろうか。
つづく
ちょっとだけ
これまでとは違う
場所に
移動すると、
ほんのちょっとだけ
のつもりが
随分と景色が
変わる。
これまで
正面から見えていたものが
ちょっと角度が
つく。
それだけで、
印象が随分と変わる。
私は最近、
この
「ちょっとだけ」
というのが
とても大事ではないか、
と
思い始めている。
まったく何も
しない、
まったく何も
変えない、
よりも
「ちょっとだけ」
やってみる。
「ちょっとだけ」
変化させてみる。
それにより、
何がどう影響されるか?
自分はどうなるか?
周りはどうなるか?
を
楽しんでみる。
これだけで
人生の楽しみ方は
数倍に増幅するのでは
ないか。
例えば、
今日の私は
いつもよりちょっとだけ
人との距離を
近づけてみた。
それだけで
周りの人達の反応が
とても面白かった。
自分の言動が
面白かった。
明日は
どうしようかな。
いつもより
ちょっとだけ、
余分な話を
してみようかな。
・・・こんな感じで、
ちょっとだけ
あなたは
何を変えてみる?
つづく
祈るしか
ないではないか。
人が人に
影響を与え、
人が人を
変える。
・・・そんな力が
自分にある
などと
勘違いするのは
傲慢の極みだ。
と、
悲しい結果を
何度も何度も
私は
体験した。
傲慢な自分を
反省するしか
ないのだが、
しかし
傲慢だとわかって
いても、
何とかしたい
ではないか。
目の前の人が
孤独に
陥っている。
孤独が故の
自虐的な
方向に進もうと
している。
それを
渾身の力で
止めたいでは
ないか。
傲慢と
言われようと。
身の程知らずだ
と
言われようと。
その人の
悲しさが
そのまま伝わって
くるのだ。
こんなにも
悲しいのに、
その人自身が
それを
知らない。
そっちは
ダメだって!
と
声を大にして
叫べば叫ぶほど、
その人は
その言葉を
拒絶する。
何とも
ならない。
この悲しみは
その人の
ものなのに、
私はまるで
私のもののように
受け取り、
嘆く。
傲慢だろう。
わかっている。
でも
何とかしたい
ではないか。
でも
何とも
ならんのだ。
私は無力だ
と思うし、
そう思う自分を
本当に
傲慢だと呆れる。
でも
もういいよ。
そんな心が
あるのが
私だから。
こんな悲しい目に
遭っても、
それでも私は
この仕事を
やめようとは
思わない。
これまでも
一度も思わなかったし、
今日も
思わなかった。
きっと
明日も
思わないのだろう。
どれだけ
何ともならんのだ
と
わかっていても、
それでも
何とかしよう
と
思ってしまう。
何者だ?俺は
と
自分を罵りながらも、
そんな自分を
止めようと
しない。
疲れるだけだと
わかっていても、
それでも私は
その人の
悲しみを
手放すことができない。
呆れた
ものだ。
自分に対しても
人に対しても
ホントに。
執着かな?
いや
違う。
これは
願いだ。
祈りだ。
祈りであれば、
祈るしか
ないだろう。
つづく
今、出せる
最大速を出す。
その状態でしか
見つからない
ものがある。
99%の
本気さでは
見つからない。
100%出して
初めて
開ける視野が
ある。
その視野こそ
新たな世界。
新たな自分の
いるところ。
常に
最大速を出さねば
ならない、
ということではない。
力を抜くときは
むしろ
抜かねばならない。
しかし
ここぞ!という
ときがある。
そこは
最大速だ。
最大速を
出せば
当然、
混乱する。
ゆとりはなくなり
視界は
狭まる。
一点集中しか
できない。
他には
手はまわらない。
それでいい。
それこそ
最大速。
だからこそ
ここぞ!
という時を掴むのが
大事。
一点。
まずはそれを
定めよう。
私はどの一点に
向かって
最大速で進むか?
これを
定めよう。
定めたら、
その時を待とう。
そのタイミングは
きっと
すぐに来るよ。
明日にでも。
つづく
昔、
ある有名な書道の
先生が書かれた
『一』
という
大きな文字を
拝見した。
「いい『一』でしょう。
『一』という文字が
きっと一番、難しいんだ」
と、
それを見せていただいた
社長さんが言われた。
確かに凄い
と思った。
胸がすくような
爽快さ。
とても太く
とてもまっすぐ。
淀みがない。
きっと
シンプルだからこそ
難しいのだろうな、と
当時まだ20代の私は
思った。
そう。
確かにシンプルほど
難しいものは
ない。
・・・かも。
私達は
余分な装飾を
取り付けることで
何かをごまかそうと
している。
複雑にすれば
するほど、
ごまかしやすく
なる。
本当はシンプルな
ことを
複雑に表現することで
もっともらしく
なったり、
頭が良い気が
したり。
シンプルな
生き方。
シンプルな
言動。
それらは
シンプルな芯が
備わって初めて
可能になる。
シンプルは
難しいかもしれないが、
それでも
シンプルを
目指そう。
もう、
ごまかすのは
やめよう。
ごまかしで
何とかなる時代は
終わったのだ。
私達は
シンプルからは
かなり遠のいてしまったが、
でも私達の
根っこは
シンプルだ。
何か挑戦するなら
シンプルに
挑戦しよう。
そこに
ごまかしは
要らない。
成長するなら
シンプルに
成長しよう。
そこに
ごまかしは
要らない。
良い人生だった!と
人生の最期に
言いたいのなら、
シンプルに言える
自分になろう。
良い人生だった!
の
理由など要らない。
ただ、
シンプルに
そう思えれば
良いじゃないか。
そのためにも
今日を
シンプルに
生きよう。
つづく
「自己」が
ストーンとある場所に
落ちていく。
落ちると言っても
決して悪い意味
ではない。
収まるべき場所に
収まるという
感じだ。
ストーンと
落ちたあとは、
トントントントン・・・と
軽やかに弾み、
そして
静かに落ち着く。
落ち着くところに
落ち着いた「自己」と
向き合ってみると、
なんとそれは
実に巨大だった。
真丸な球体の
「自己」。
まるで
地球のようだ。
ただ、まだ
色はない。
真っ白。
でも美しい。
「君はどうして
出来上がったんだ?」
と
訊いてみる。
すると、
その中に
吸い込まれた。
中に入ると
とても温かい。
しかしそれは
マグマのようだ。
温かいが
無尽蔵のエネルギーを
感じ、
ちょっと怖い気もする。
ちょっと怖いが、
まぁこれくらいじゃ
なけりゃな、
とも思う。
手に負えないくらいの
エネルギーがなきゃ、
成したいことも
成せないだろう。
手に負えないくらいの
自分でなきゃ、
人生、面白く
ないだろう。
人生を進めることで
この「自己」は
いったいどんな色に
染まっていくのだろう?
これだけ
エネルギーが高い
のだから、
きっとあちこち
ぶつかるのだろうな。
しょっちゅう転んで
痛がるけど、
きっと懲りずに
進み続けるのだろうな。
無尽蔵のエネルギー
だけど、
最初はちょっと
ずつ。
ちょっとずつ。
徐々に徐々に
開放をしていこう。
転びながら
方向を定め、
ぶつかりながら
誠実さを
学んでいこう。
とにかく何があっても
真剣さ、真摯さ
だけは
失わないように。
そんな人生が
いいな。
では、
さて、
生まれるとするか。
つづく
「新境地」
というものが
私達にはある。
これまでの自分が
まったく知らなかった
世界。
まったく知らなかった
自分。
まったく知らなかった
人生。
恐らく私達人間は
皆、
これをこそ
求めている。
今いるのとは
異なる未開の地。
今見える「彼方」の
さらにその先。
その存在を
感じる瞬間と、
その未開の地に
踏み出す瞬間。
きっと
私達の魂が
本当の意味で震えるのは
そんな時だ。
私達は
堂々と、
「新境地」に
向かおう。
その準備は
しっかりと
整えてきた。
できることは
すべて
できた。
あとは
予測をしても、
想像を重ねても、
まったく
意味はない。
何しろ
「新境地」
だからね。
生き方・行き方は
このままでいい。
ここまで
身につけた
この行き方でいい。
あとは、
これまでとは違う
次元の
爽快さでもって
全力で
突進するだけだ。
つづく
自分の体の
少し後ろ上から
自分を見降ろして
みよう。
客観的に
自分ではないところから
自分を見つめてみよう。
どう観えるかな?
まず、
疲労度合いは
どうだろう?
エネルギーは
高そうか、
低そうか?
エネルギーは
ちゃんと
循環しているだろうか?
そして、
エネルギーとは
別の視点で、
自分は今、
静かだろうか?
騒がしいだろうか?
エネルギーが
高まれば高まるほど、
私達は本質的には
鎮まっていく。
エネルギーが低くなり
安定を失うほどに、
私達の心や体は
ギャーギャーと
騒がしくなる。
それを
空気感として
感じとってほしい。
さぁそして
もう一つ。
今の自分は
オープンだろうか?
閉じているだろうか?
自分を「世界」に
向かって
開け放つ。
オープンであれば
あるほど、
もちろん
エネルギー循環は
スムーズになる。
オープンであれば
あるほど、
自分の本来の色が
出る。
自然体となる。
以上のように
客観的に自分を
観て、感じて、
もし
自分があまりに
疲れているようなら、
ちゃんと
休息を取ろう。
自分の今の
生き方と
行き方に
無理はないか?
真剣に生きる
とは、
不必要な無理を
なくすこと。
どう
無理なく楽に
進んでいくか?
本当は
どこに自分のエネルギーを
集中して注げば良いか?
それらをしっかりと
認識しながら
進むこと。
それが「真剣」な
生き方・行き方だ。
それができているか
どうかを
私はいつも上記の
客観的視点から
チェックしている。
だからこのチェックは
毎日続けるといいよ。
つづく
あなたの中心核
には今、
何がある?
それが今、
目まぐるしく
変化し続けているのは
わかるかな?
もともと私達は
変化をし続ける
存在だ。
世の中の変化
よりも
百倍も千倍も
激しく変化する。
でもほとんどの人は
そんな自分自身の
変化を知らない。
昨日までの自分と
今日の自分は
同じであると
思い込んでいる。
それによって
せっかくの変化が
死んでしまう。
変化は悪いこと
ではない。
生きるために、
道を開くために、
とてつもなく必要な
柔軟性だ。
だから本当は
その変化に素直で
あるといい。
でも一方で、
私達の顕在意識は
その変化に
到底追いつけない。
目まぐるしい変化
と
変化に追いついけない
意識と、
この二つの
アンバランスを
併せ持つのが
私達人間だ。
だから人間に
完璧なはなく、
ゴールもない。
だから人間は
無限に
進化を続ける。
自分の変化を
感じ取れるように
なることが、
人としての
真の成長だ
とも言える。
目まぐるしく
凄まじい
自分の変化。
それを実感すると
ある意味
怖くなる。
と同時に
愛おしくなる。
変化が怖い、
などとは
言えなくなる。
だって
変化そのものが
人間だから、
とわかるから。
そして、
なぜそんなにも
変化し続けられるのか?
その単純な
理由に行き着く。
それは、
中心核のさらに
その中心核に、
未来永劫
変わらないものが
あるからだ。
永遠に
変わらない存在。
それがあるからこそ、
私達は、
安心して
変化を続けられる。
進化を
続けられるんだ。
変化を恐れている
場合ではない。
変化とは、
私達のことだ。
つづく
安定した景色は
気持ちが良いけど、
安定し切った世界に
い続けると、
どこか
物足りなさを
感じ始める。
それよりも、
どこかに綻びが
あり、
どこかに不安定が
あり、
どこかに
この安定を根底から
壊す何かの兆しが
あると、
心のどこかで
何らかのスイッチが
入り、
ここではない、
次の何かの始まり
のような、
破壊の先の
創造のような、
未知の領域への
冒険心のような、
そんな刺激的な
震えが始まる。
その震えこそを
私達人間は
本能的に望んでいる。
「私はもうこれで
いいから」
「私は今のままで
満足だから」
「私は今のままずっと
生きていければいい」
・・・仕事柄、
そういった発言や
空気感をいろんな人から
私は浴びるのだが、
それらの安定を
喜ぶ気持ちの奥に、
私はいつもその人の
「妥協」
を感じ取る。
そしてその人が
蓋をして見ようとして
いない
濃いストレスを
感じ取る。
その度に
思うのだ。
人間は冒険を
したいのだ、
と。
実は、
完璧なる安定を
我々は誰も欲していない
のだと。
今の世の中は
本当に
何が起こるかわからない。
その中で
どうやってより安全に
進もうか、と
考える人は多い。
もちろん
大事なことだ。
でも、あえて
言わせてもらおう。
小さくまとまるな。
とね。
お行儀よく
行き過ぎるな。
とね。
不安定な時代こそ
本当の自分を
見つけるチャンスだ。
特にこの7月
からは、
不安定は極致に
達する。
だからこそ、
まとまるな。
開き直って、
堂々と
自分の道を行こう。
つづく
産みの苦しみ
という言葉が
あるが、
新たな何かが
生まれる直前は
大概、苦しいものだ。
しかしその苦しみには
対峙しなければ
ならない。
逃げるわけには
いかない。
しかし逆に、
対峙する意味のない
苦しみもある。
そこ、
苦しむところじゃ
ないよ。
・・・と
アドバイスさせていただくことは
実はとても多い。
本来、対峙すべき苦しみ
からは逃げ、
対峙する必要のない苦しみ
に執着し続ける。
これをすることで
人生は
ますます苦しいものに
なっていく。
人生に苦しみは
つきものだ。
楽に生きる、
とは
つまり、
ちゃんと苦しみを
選択せよ、
ということだろう。
そして、
私達人間が
顕在意識のレベルで
最も苦しみを感じるのが、
冒頭に書いた
産みの苦しみだ。
これは
苦しい。
しかも
足元から自分が
失われるような
心細さと不安定感も
ある。
だからみんな
そこから
逃げようとする。
そこから逃げる
ために、
まったく別の苦しみに
向かう人もいる。
今、
あなたが苦しんでいるのは
産みの苦しみ
の可能性が高い。
なぜならあなたは
進んでいるからだ。
進もうと
しているからだ。
新たな自分が
産まれる予兆。
そこから
逃げてはならない。
本当にそれと
対峙しようと
覚悟をすれば、
長くはかからない。
対峙する覚悟は
苦しみを
耐えられるもの
にしてくれる。
ここで逃げれば
一生、苦しむ。
ここは
一点突破だ。
つづく
本当に時たま
であるが、
私の中心に
ロウソクが
現れる。
暗闇の中の
一本のロウソク。
一筋の
小さな炎が
灯火のように
揺らめいている。
私はそれを
じっと眺める。
眺めるほどに
心が鎮まって
いく。
こういう時こそ
何も意図しない。
ただ
じっと眺める。
すると、
その小さな炎と
私が
自然に一体化する。
私の意識は
炎の中に入る。
中は
明るい世界だ。
しかし私は
あえて
何も観ないようにする。
ただ、
感じるだけにする。
それをしていると
その時々で
予感めいた発想が
浮かび上がる。
いや、
これは発想
ではないな。
何だろうか。
あぁそうだな。
そうなるんだよな。
と
思い出している
ような。
おさらいを
しているような。
今回は、
小さな炎の中で
私は
たくさんの仲間たちの
存在を感じた。
まだ
出会っていない
仲間たち。
これから出会う
仲間たち。
あぁこんなにも
大勢の人たちと
ここからさらに
出会っていくのだな、
と。
我ながら
素敵な人生だな
と思えた。
ただ、
いつものことだが、
こういった
予感めいたことを
感じても、
私は一切
期待をしない。
空想も妄想も
しない。
こうなるといいな、
と
想いを巡らせること
すらしない。
ただ、
あぁそうか、
そうなるんだな、
と
思えたその事実だけに
感謝する。
あとは
いつものように
生きる。
一日一日を
大切にし、
その日にしか
できないことを
ちゃんと
やり切る。
一つ一つ
丁寧に。
一つ一つ
魂を込めて。
つづく
あなたが
本当に
守らねばならないもの
とは
何だろう?
それを
守るために、
あなたが
本当に
手に入れなければ
ならない力は
何だろう?
この二つの問いを
50年スパン
の視点で
考えてみてほしい。
すぐに答えが
浮かんだら、
それはまだ
違う。
と
思ってほしい。
本当の本当の
答えが
他にある。
それを
ヒントだけでも
良いから、
見つけなければ
ならない
時だ。
つづく
一本の道は
見えているのに、
先は見えない。
見えないどころか、
行く手には
暗雲が立ち込めている
のがわかる。
黒くて暗くて
重い雲。
その下に
道は続いている。
この道は
私の進む道、
だとわかる。
しかしあの
不吉な重い雲は
怖い。
それでも私は
進めるだろうか?
一本道と
言っても、
柵があるわけでは
ない。
周りは平原だ。
だから
道を外れることは
簡単にできる。
元来た道を
戻ることだって。
でも
私の目指すものは
あの暗雲のさらに
向こう側にあるのだと、
それだけは
わかるのだ。
涙が出た。
怖いからだ。
震えた。
怖いからだ。
でも
私の体は
一瞬でさえ
迷わなかった。
速度を落とさず、
私は
暗雲に向かって
進み続けた。
予想通り、
暗雲は暗雲だった。
激しく
雨は降り注ぎ、
竜巻は起き、
雷に打たれた
こともある。
よく
生きていられるものだと
我ながら
感心した。
しかしどれだけ
酷い目に遭っても、
やはり私は
一本道を外れる
ことはなかった。
なぜならそれが
最短の道だと、
暗雲の中に
呑み込まれながらも
確信できたからだ。
そして
この酷さのすべてを
私は耐えることが
できるのだと。
なぜそう思えたのか
はわからない。
でも
きっとそれは
一本道そのものが
教えてくれたのだろう。
私は
今になって思う。
人間だから、
道を外してもいいだろう、
と。
道を外しても
きっとまた
この一本道には
戻ってきただろう、
と。
だってこの道は
私だから。
この道が
私だから。
私は私自身を
ただ
歩んでいるだけだ。
暗雲も
私だ。
最近、晴れ間が
増えてきた。
きっとここからは
晴天の清々しい道
となるのだろう。
でもその晴天も
私だ。
すべて
私だ。
私が行なっている
ことだ。
つづく
これは単に私の
好みかもしれないが、
余分なことのない
会話が
私は好きだ。
こう見えて私は
かなりの無口だ。
話をするときは
だいたい
聴き手にまわる。
恐らく、
こちらから話しかける
ことはほとんどない。
あったとしても
それは本当に
「話しかけたい」と
思うからしているのだ。
無理に話をし出して
無理に会話を
成り立たせようとする
ことは
まずもってしない。
だから
ビジネスパートナー達と
一緒にいる時も、
例えば一緒に
電車で移動している
時など、
お互いにずっと
無口なままだ。
なぜか
私との付き合いが
長くなればなるほど、
みんなも
無口になる。
だからずっと
黙ったまま。
で、時折、
ふとどちらかが
口を開く。
本当に自然に
話したくなったから
口を開いた
という感じ。
多くの人は
沈黙というのを
ちょっと嫌がったり
緊張したりするようだが、
私はほとんど
苦にしない。
むしろその「空白」を
楽しんでいる。
人生も仕事も
もしくは
芸術も、
空白が大事では
なかろうか。
空白を大事にし
空白を楽しむことで
味わいが増す。
人間関係も
会話も
同様。
と私は思っている。
人と人が
会う時間。
それはその場では
人生を共有している。
その時その場でしか
なし得ない会話が
ある。
こう書くと
硬くなってしまうが、
私達はもっと
自然体でいい。
本当に
語りたいことだけを
語ればいい。
語りたいことが
なければ、
黙っていればいい。
そしてその人との
その場を
空気を
楽しめばいい。
そうしていると
自然にふと
口が開く。
それはちょっとした
冗談かも
しれない。
意味のない一言
かもしれない。
でもその一言は
その時のその場が
自然に
もたらしたもの。
意味がある、ないは
別として、
そこに発生した
その「存在」を
これまた
味わい楽しもう。
これが私の
人間関係を大切にする
仕方かな。
つづく
起承転結の
「起」。
起こす。
初めの一歩。
スタート。
・・・それを今の私達は
やるといい。
新たなストーリーの
始まりだ。
躊躇は
必要ない。
今の自分の判断と
決断を
誰よりも
自分自身が
信じてあげる
こと。
始めようとする
自分の意志を
誰よりも
自分自身が
尊重してあげる
こと。
私は自分のことを
信じられないですから。
・・・などと、
悠長なことを
言っている場合ではない。
今、始めなきゃ
一生、始まらない。
今、一気に
進まなきゃ
一生、
たどり着けない。
そんな大事な
今この時。
この時のために
ここまで
がんばってきたんだよ。
これまでの日々は
今のための
準備だったんだよ。
ここからのための、
ね。
今、始めようと
する人には
力、溢れる。
さぁ、始めよう。
つづく
潔い。
という言葉を
思い出すな。
いいな。
潔い、って。
何がいいんだろ?
人生って、
私は
ちょっと極端な言い方
をすれば、
何を諦めるか?
を決め続けることだと
思う。
諦めるべきことを
諦めるべき瞬間に
ちゃんと
諦めること。
そしてそれを
手放すこと。
それを誠実に
することで、
一つ手放せば、
一つ入ってくる。
この連続を
することで、
私達は
真の自分に
戻っていくのではないか。
そして
自分自身との
真の約束を
思い出すのではないか。
結果として、
自分の人生でしか
できない何かを
果たすことができるのでは
ないか。
人には皆、
その人にしか成し得ない
何かを持っている。
しかし皆、
それをやらない。
それに
気づかない。
これも極端に言えば、
そんな人生は
自分の人生とは
言えない。
結局誰の人生を
生きているのだろう?
という人が
多過ぎやしないか。
その根本原因は
諦めるべきことを
諦めていないから、
だと思うのだ。
そしてちゃんと
諦めることの
できる人をみると、
私は
この人、潔いなぁ、
と
感嘆する。
私もそうあろう、
と
刺激をいただく。
今日はとても
素敵なお二人と
出会った。
潔い人達
だったな。
つづく
私の場合、
いつも
人と向き合うとき、
その人の
その時の
空気感というものを
あるがままに感じ取ろう
としている。
すると、
その人の
その時の
エネルギー循環を
感じ取ることができる。
生きる、
ということは
常に
エネルギーを循環
させている
というこだ。
その人には
その人の
その時の
エネルギー量と
循環の仕方が
ある。
循環が滞っていると、
まずは
心がやられる。
そしてそれが
さらに進むと、
体がやられる。
なので
私がコーチングセッションで
常に大事にしているのは、
その場でその人の
エネルギー循環を
自然なものにする
ということだ。
自分をコントロールする
とは
本質的には
自分のエネルギー循環を
コントロールする
ということに
他ならない。
そこであえて
皆さんに問うてみよう。
あなたのエネルギーは
今、
どのように
循環していますか?
全身に意識を
向けて、
自分自身のエネルギーの
状態を
あるがままに感じて
みるといい。
そしてもし
エネルギーの滞りを
体のどこかに感じたら、
そこに何が
あるか?
そこにある不純物は
何か?
何が滞りの原因に
なっているか?
を
やはり、あるがままに
感じてみよう。
その箇所にじっと
意識を向け続けると
自然に何かわかるはず。
常に循環を
良くしておく。
これは健康のための
必須条件だね。
つづく
自分の中に
何かが誕生した
気配がする。
それが何か、
は
現時点ではわからない。
ただ、雰囲気としては
まるで赤ん坊のよう。
無垢で純粋な
存在だ。
一つわかるのは、
それは今まで
私の中には
なかったもの。
私が決して
持とうとしなかった
ものだ。
何だろうね?
しかしその
新たに誕生した
ものは、
今、
私の中心に
収まった。
私の中心核の
重要な要素と
なったようだ。
もう少し
具体的に
わからんかな?
そこに
意識を向けて
「何者だ?君は?」
と問うと、
私だ。
と返ってくる。
まぁそうだな、
私だな、
と思う。
私自身なんだけど、
これまでの私には
なかった存在。
何だろう?
これまであまり
体験したことのない
不思議な感覚。
こんな感覚、
今、他の皆さんにも
あるのだろうか?
7月から私は
一気呵成に
スタートをする。
その直前の
面白い展開。
ここまで
わからないのも
珍しい。
だから
わからないこと自体を
楽しみながら
一日一日を
過ごしてみようと
思う。
つづく
目の前に
一つの現実が
ある。
それを見つめる
心は
右往左往する。
激しく動き、
泣き叫ぶことも
ある。
その瞬間、
未来は消え
視界も
ゼロになる。
自分を失う
という
この状態を
しかし
側からじっと
見つめる
目がある。
それは
静かに
涼やかに。
ただ
見つめるべきを
見つめている。
その目
こそが
私、である。
では、
この揺れ動いている
この心は
誰だろう?
何だろう?
これもきっと
私、なのだろう。
二つの私が
いる
というよりも、
私は一つ、
でも
すべてに在る。
ただ、
その基点を
どこに置くか。
それを
決めるだけ
なのだろう。
人生を進む
というのは、
すべての私を
感じながら
進む、
ということでは
なかろうか。
揺れても
いい。
怖がっても
いい。
荒れても
いい。
ただ、
そんな自分を
静かに見つめる
自分自身も
充分に
味わおう。
つづく
今日、
私のビジネスパートナーの
若い二人が、
7月からの
自らの動きに関して、
宣言をした。
それは淡々と
涼やかな
宣言だったが、
彼らの言葉の
一つ一つに
私は
「永遠」
を感じた。
人生の選択、
・・・レベルではない
何かを感じた。
きっと
永遠の時の中で、
今回のこの
始まりの意志
は、
一つの重要な
分岐点と
なるのだろう。
そこにはきっと
彼らの
永遠の想い
が
込められていた。
その想い、
私は全身で
受け取った。
悦びと共に
身が引き締まる。
これで本当に
準備が
整ったな。
つづく
自分自身の
エネルギーコントロール
が
ちゃんと安定的に
できる状態で
前に進むことは
とても重要だ。
しかし、
自分の成長を
急ぐことは、
エネルギーコントロールを
上手にやろう、
ということを
一時的にとは言え
手放すことだ、
とも言えるのだ。
私のクライアントさんや
受講生さん達は、
多少、自分が
不安定になっても
自己成長を
真っ先に優先したい!
と
異常なまでに
望む人達が多い。
異常だ。笑
まぁ、私自身が
そうだから、
類は友を呼ぶのかも
しれないが。
それにしても
無茶をする人は
多い。
で、あえて
言うのだが、
今は
無茶をしろ。
・・・なんか
支離滅裂なようだが、
今は
しょうがない。
特に
もうすぐ始まる
7月からは。
喩えて言えば、
今、私達の目の間には
川の急流が
あるのだ。
ここまでジャングルを
探検していたら、
川と出会った。
この川の流れに
乗れば、
どうやら一気に
行きたいところへ
辿り着けそうだ。
しかし流れは
激しく、
すぐにその激しさに
自分は
呑み込まれてしまう
かもしれない。
でも、
それでも自分は
行きたい。
早くその地に
辿り着き、
しかしそこは
真のゴールではなく、
むしろ
そここそが
真のスタート地点で、
そこから
新たな探検の
ステージが始まる。
そしてその
新たなステージこそ、
そこを探検する
ことこそ、
私がこの世に
生まれてきた
目的だ。
・・・という感じ。
そう思うと、
たとえ流れが
激しかろうが、
今、目の前に
展開するこの川に
飛び込んで
しまいたい、
と思うのは
やむを得んだろう。
かく云う私だって
もう
飛び込むと
決めている。
まぁだから、
多少の無茶は
しょうがない。
その覚悟を持って
進もうではないか。
つづく
口から出る
そのたった一言に
魂が乗る時、
私はその一言
そのものとなる。
言葉というのは
ある意味
恐ろしい。
目には見えない
のに、
時には
とてつもない威力を
出す。
言霊という
言い方もあるが、
確かに
言葉に魂は
乗る。
たった一つの
何気ない言葉が、
自分の知らないところで
他者の人生に
甚大な影響を及ぼす
こともある。
私は時々、
魂の乗った私の言葉の
あまりの威力に
びっくりすることがある。
気をつけねば
と思う。
私達のコミュニケーションは
言葉を介している。
私達は言葉と共に
生きており、
言葉をどう扱うか
は
人生をどう扱うか
と
ほぼイコールだとすら
言える。
良い言葉を
私は人に
伝えたい。
「良い言葉」とは
その人が本当に
欲している言葉だ。
もしその人が
真本音で、
自分を叱ってくれる
言葉を欲しているなら、
私は喜んで
それを伝える。
その人が
最も欲しいタイミングで。
私はそれが
「良い言葉」だと
思っている。
その人に向ける
言葉は
その人のものだ。
その人のもの
となる言葉を
私は吐く。
乱雑に扱っては
ならない。
言葉は
丁寧に。
誠実に。
良い言葉を
吐くためにも、
私は私自身の
生き方を
大事にする。
言葉に魂を
乗せ、
最善のタイミングで
その人に伝える
ためには、
私自身が
私の納得できる
生き方を
実践し続けていなければ
ならない。
魂が乗る
とは
生き方が乗る
ということだ。
言葉は
私達自身だ。
言葉は
言葉ではない。
私達の存在
そのものだ。
本当に
大切にしよう。
つづく
自分を
見失いそうに
なったら、
意識を
外へ外へ
大きく広げて
みるといい。
自分という
「個体」に
執着せず、
「個体」を
離れて、
ただ、
感覚として
意識を
大きく大きく
広げていく。
これをすると
「自分」が
完全になくなって
しまうような
気がする。
それでいい。
自分が
わからなくなったら
自分を
完全になくして
しまえばいい。
無限に
意識を広げ
続けると、
「自分」ではなく
単なる
「場」
になる。
「自分」ではなく
「世界」
そのものになる。
「宇宙」
そのものになる。
その感覚が
大事だ。
下手をすると
そのまま
眠っちゃうかもね。
世界や宇宙
そのものに
なったままで
いると、
個体である
自分の中に
あった
モヤモヤ達が
いつの間にか
抜けていく。
個体という
檻の中に
閉じ込まれていた
それらのモヤモヤは、
まるで
籠から飛び出した
鳥のように
自由になって
どこかに
飛んでいって
しまう。
モヤモヤは
消え、
自分も
消える。
ということは、
モヤモヤを
自分である、と
思い込んで
いたのだろうか。
そんなことも
ちょっと
頭をよぎるが、
その思考自体も
消えていく。
自分が完全に
消えていく。
と、
・・・ふと、
・・・スッと、
いつの間にか
自分は
「ここ」にいる。
「ここ」に
戻ってきている。
・・・ことに気づく。
「世界」の中に
消えてしまった
ように思ったのだが、
その「世界」
そのものが
「ここ」にいて、
それが
「自分」であった、
ということに
気づく。
でもそれは
特別なことでは
なく、
あぁそうか、
そうだったな、
と。
私はただ、
ここにいる。
ただ
あるがまま
として
ここにいる。
こうして
自分は自分を
取り戻すんだ。
つづく
人生をかけて
一つの楽器を探究し続けている
ある演奏家が
その楽器を弾いていると、
自分がその楽器を
弾いているのか、
自分がその楽器から
弾かれているのか、
わからなくなる、
という話を
聴いたことがある。
つまり、
自分と楽器の
区別が
つかなくなるらしい。
そうなると
完全に
自分という範疇を超えた
メロディーが
流れ出すらしい。
そしてそのメロディーを
聴きながら、
さらに
そのメロディーに
委ね、
自分と楽器と
メロディーと、
それらの区別が
つかなくなる
らしい。
実はこれ、
すごくよくわかる。
私もコーチングで
クライアントさんと
向き合っていると、
よくその状態に
なる。
自分と目の前の
クライアントさんとの
区別がつかなくなる。
今、語っている
その言葉が、
自分の言葉なのか
クライアントさんの
言葉なのか、
よくわからなく
なる。
しかしそういう時に
こそ、
びっくりするような
感動的な発想が
生まれる。
だけど、それは
後でそう思うことで、
その時その瞬間は
その発想そのものが
自分である、
という感覚なので、
そこにその発想が
存在すること自体が
とても自然で、
そこにその発想が
あるのが当たり前
という感覚だ。
恐らく私は
その状態こそが、
私達人間が
最も創造性に富んでいる
状態なのだろうと
思っている。
楽器と向き合う。
人と向き合う。
それは本質的には
同じことだ。
向き合う
ということには
それ自体に
力があり、
それこそが
私達人間本来の
力だ。
私達は
向き合うための
存在
とすら思えてくる。
向き合わずして
何が人間か、
とすら思うのだ。
向き合うことで
私達は
「一つ」
になる。
一つになることで
創造が始まる。
ただし、
無理に一つに
なる必要はないし、
上記で書いたような
相手と自分の
区別がつかなくなる
というところまで
行く必要もない。
むしろ、
むやみにそこまで
入り込むことは
しない方が良い。
ただ、
感覚として、
あぁこの人と私は
今、
一つになれている感覚が
ちょっと芽生えてるな、
くらいが
ちょうど良い。
相手と自分を
ちゃんと分離して
区別している自分と、
相手と自分が
それでもどこか
一つになれている
感覚と、
その両方を感じ取れる
状態。
これが
ベストだ。
そしてこの状態には
誰もがなれる。
向き合えば
良いだけだ。
向き合うことに
慣れればいい。
向き合うとは、
意識を相手に
向け続けること。
それを真摯に
やり続けるだけだ。
つづく
せっかく
未知の世界と
出会ったんだ。
そこに向かわずに
どこに向かう?
未知の世界は
怖いって?
そうだな。
確かに私の足も
ブルってるよ。
ガクガクガク・・・。
このままで
いいじゃない。
ブルったままでさ。
覚悟ってのは、
怖さをなくしてから
進むことじゃない。
覚悟ってのは、
怖くても
進むことさ。
無謀はダメだって?
そりゃ
無謀はダメさ。
でも、
ここは未知の世界
だよ。
無謀かどうか
すら
わからないじゃないか。
なら、
進むしかない。
せっかくここまで
来たんだ。
ここに、
この未知の世界の
入口に
たどり着くために
がんばって来たんだ。
だから
私は行くよ。
一人になっても
行くよ。
もし、
あまりに怖すぎて
どうしても進めない
場合は、
自分のペースを
大事にすればいい。
自分の覚悟が
決まったら
進めばいい。
でも、
私は行くよ。
今、
行くことにするよ。
全力でね。
ここは、
全力さ。
全力とは
この時のために
あるんだから。
つづく
そういえば、
昔よく自分自身に
投げ続けていた
問いを思い出した。
突然、
ご紹介したくなった。
『もし今、私が
記憶喪失になり、
これまでの人生の記憶を
すべて失くしたら、
私はこれから
何を望み、
何をするための人生に
するだろう?』
二十歳くらいの頃から
しょっちゅう投げ続けて
いたな。
今の仕事と
巡り会えたのは、
ひょっとすると
この問いのおかげかも
しれない。
記憶を失くす
ということは、
これまでの自分の
願いや想いを忘れてしまう
ことでもあるが、
自分の能力も
忘れてしまうことだよね。
これまで培った
経験なども。
つまり、ゼロ
になっちゃうんだけど、
そんな状態の私は
純粋に何を目指すの
だろう?
という意味の問いだ。
今、ゼロになったら
何を目指す?
ということだね。
これ結構、
真剣に考えると
いいよ。
つづく
生きる、
ということは
それ自体が
激しいことだ。
私達は
自分自身でさえ
気づかない
数知れないくらいの
痛みに
晒されながら
生きている。
痛いことを
「痛い」と
素直に感じられることが
いかに
健康的か。
誰にも
その人にしかない
独特の痛みがあり、
私はいつも
その人と共に
その痛みを感じている。
痛みつけている
のは誰か?
自分を痛みつけて
いるのは?
それは、
そのほとんどは
自分自身だ。
私達は
自分で自分に
痛みを与え、
それに耐えながら
生きている。
いったい
なぜ?
なぜ
そんなことを?
この仕事を通じて、
何度、
その問いを
投げたことか?
あなたはなぜ
そんなにも
自分を
痛め続けるのですか?
そう問いながら
何度、泣いたことか。
痛い。
痛い。
痛い。
と、
みんなが呻いている。
呻いていない人は
いない。
呻いていることを
自覚していない人は
いるけれど。
人と向き合う
とは
その人の痛みと
向き合う
ことでもある。
しかし、
向き合うことでしか、
その痛みは
超えて行けない。
向き合って
初めて
痛みは浄化される。
人には、
向き合う存在が
必要なのだ。
なぜなら人は
向き合うために
存在しているから。
向き合う
とは
手段ではない。
我々の
目的なんだ。
つづく
人は、
自分の決意を
宣言しなければならない
時がある。
それも多くの場合、
その相手が
決まっている。
「決まっている」
というのはつまりは、
自分で完全に決めている
ということだ。
しかも、
タイミングも
決めている。
これからやろうと
していること。
成功するかどうか
ではなく、
何が何でもやり切ろう
としていること。
それを
「お互いに」
確認し合う。
そのための
宣言だ。
それが
最適なタイミングで
為されると、
その瞬間に
スイッチが
入る。
スタートボタンが
押されるんだ。
そして
宣言し合った者同士、
それを「約束」として
邁進を始める。
宣言しなければ
スタートボタンは
押されない。
宣言することで
すべてが
動き始める。
・・・そういったことは
実は思っている以上に
多い。
この大事な
ステップを
省略することで、
本当に成したいことを
成せないままの
人生となってしまう。
すべて有言実行せよ、
ということでは
ない。
しかし
ここだけは
有言実行すべきこと、
というのがある。
しかも
有言の相手が
決まっている。
タイミングも
決まっている。
そんな視点で
自分自身の決断を、
これから為そうと
していることを
チェックしてみて
ほしい。
つづく
最近、よく
過去の自分が
フラッシュバックする。
20年くらい前、
ある社長さんが
私の顔を見ながら
しみじみ言われた言葉。
「竹内さんって、
本当に懲りない人ですね。
反省、とかしないでしょ」
またこれも
20年以上前だが、
別の社長さんが
私の両肩を掴みながら
激しく怒鳴った。
「お前は自分が
大事な人を辱めているのが
わかっているのか!」
・・・こんな感じで
その時の場面が
ありありと浮かぶ。
いやぁ本当に、
私はたくさんの人達から
叩いていただいた。
きっと
叩いても叩いても
その甲斐のない人間
だったろう。
20年前の自分が
もし今、目の前に来たら、
そして私に
コーチングの依頼を
したとしたら、
今の私はきっと
断るだろう。
この人は
自分を変えようと
していない、と
簡単に直観して。
変わる気のない人間を
叩き続けるのって
本当に大変だと思う。
私を叩いてくださった
当時の皆様には
本当に感謝だ。
そして、
人から叩いていただく
だけではまだ足りず、
私は本当に
愚かな選択をし続け、
何度も転んだ。
まっすぐ歩いている
つもりが
グニャグニャで、
そこかしこに
ぶつかりながら
転んだ。
だからこそ、
・・・今だから思えるの
だが、
だからこそ、
私は「真本音」と
出会えたのだと思う。
「真本音」と
出会えてからも
私はずっと
ぶつかりながら進んできた
ように思う。
転ぶこと自体は
変わっていないように
思う。
ただ、
転び方の本質は
変わったかもしれないが。
「上手く進もう」
とは決して思わなかった。
今、
進もうとしている人たちに
最も伝えたいことは、
「小さくまとまるな」
かな。
ぶつからないように
上手く進んで、
いったいその先に
何がある?
本当に本当の自分として
生きるなら、
ゴツゴツ行かにゃ。
ぶつかりながら
進めばいい。
どんだけ転んでも、
真本音に戻れば
清々しいもんだ。
つづく