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感覚を
言葉にする。
というのは
なかなか難しい
ものだが、
やってみると
いい。
ほんの些細な
ちょっとした感覚に
まずは
敏感になること。
セルフコーチングの
基本は、
まずは
自分の体の感覚を
感覚として
観察すること。
例えば、
何となく首筋が
重いな、
とか。
背骨にちょっとだけ
違和感たあるな、
とか。
今日は
胴体の中が
スースーする。
まるで空洞のようだ、
とか。
そして
わずかに感じる
その部分に
意識を向ける。
解釈とか
思考とか
まったくせずに、
意識のみを
向ける。
するとその
わずかな感覚が
ありありと
際立ってくる。
場合によっては
その感覚の
「中に入り込む」
状態になるかもしれない。
感覚が
際立ってきたら、
さらにそこに
全身全霊を込める
ようにして
意識を集中させる。
すると、
私の場合は
映像が浮かんでくる。
人によっては
何も浮かばない
かもしれない。
映像が浮かべば、
今度はその映像に
ずっと意識を向ける。
映像がなければ、
感覚にそのまま
意識を向け続ける。
すると
ある一定以上の
時間が過ぎると、
ふと、
何かを思い出す
感じで、
言葉が
浮上してくる。
・・・こんな感じ。
慣れないと
難しいかもしれない。
でも
練習する価値はある。
これができるように
なると、
人生の展開は
劇的に変化する。
自分の感覚をもとに
人生の選択を
していくからだ。
ちなみに
私のこのブログは
いつもこんな感じで
書いている。
自分のわずかな、
しかしそこにしっかりと
存在する感覚を、
今日という一日を
終えた
今日にしかない
その感覚を、
言葉にしている
のだ。
これも練習だと
思ってやっている。
だから、
「感覚」を日記にするのも
いいかもね。
練習してみて
ください。
つづく
目を閉じて、
静かに
じっと座ってみよう。
心が騒がしい
時は、
それ自体が
とても苦痛だ。
じっとして
いられない。
体が
ソワソワと動いて
しまうか、
心があーでもない
こーでもないと
様々な思考に
入ってしまうか。
もしそんな状態
であれば、
疲れている
証拠だ。
その状態では
残念ながら
良い判断や決断は
できない。
その状態での
選択は
必ず後悔を生む。
良い人生や
良い仕事を
続けるためには
自分自身の
状態管理は必須だ。
心身が健康で
あれば最高だが、
せめて
心だけでも
健康でありたい。
健康とは
静かなこと。
鎮まっている
状態。
そうなるためには
鎮まっていない
心の一つ一つを
あるがままに
見つめることだ。
何も評価せず、
何も判断せず、
何も解釈せず、
ただただ
一つ一つの心を
丁寧に観察する。
観察
だけでいい。
それ以上は
何もやらない。
「それ以上は
何もやらない」
という眼差しこそが
自分を癒してくれる。
最初は
時間がかかるかも
しれない。
でもそうやって
自分を鎮めたら、
静かな心の
底から、
自然に問いが
浮かぶはずだ。
その問いは
今の自分にとって
とても重要な
もの。
その問いの答えは
今の自分を
静かに変えて
くれる。
救ってくれる。
静かな中から
浮かぶ問いを
静かに迎えよう。
そして
静かに
答えを出そう。
これが
セルフコーチングの
基本だ。
つづく
今回は
セルフコーチングの
やり方を一つ
ご紹介しよう。
私達は、
あーでもない
こーでもない
と
頭の中でグルグルと
同じ悩みについて
考え続けてしまうことが
ある。
決して答えが
出ない悩みであっても
それをしてしまう
時がある。
そのグルグルから
抜け出せなく
なっているときに
有効な方法だ。
・・・・・・
まずは、
あーでもない
こーでもない
と言い続けている
自分を何人か
特定する。
悩んでいる
ということは、
何人かの自分が
心の中にいて
それぞれの自分が
言い合いを続けている
ということだ。
答えの出ない
言い合いとか
話し合い。
そこには何人の自分
がいて、
それぞれ
何を主張しているのか?
を
ざっと把握するといい。
大雑把に言って
最低でも二人。
細かく見ていけば、
5〜6人以上の自分が
いるかもしれない。
それぞれの自分は
それぞれの意見を
持っている。
「こうしたい」
とか
「こうすべきだ」
とか。
もしくは
「これはしたくない」
とか。
私達の悩みの
答えの出ない時の
多くは、
それぞれの自分が
割り込み割り込み
話をし続けるからだ。
例えば、
Aを主張している自分が
心の中で声を上げている
その最中に、
途中から
Bを主張している自分が
割り込んでくる。
そして
Bが喋り始めると
CやDや、
さっきのAや、
やはり他の自分達が
割り込んでくる。
で結局
大勢の自分達が
声を張り上げ続け
収集がつかなくなるのだ。
だから、
一人ひとりの自分の
声を、
一人ずつ丁寧に
「聴き切る」
のだ。
例えば、
まずはAを主張する
自分の声を聴く。
B以下の他の自分達
には
少しの間、離れていて
もらう。
その自分は
なぜAを主張するのか?
Aを選択するのには
どんなメリットや
目的・欲求があるのか?
そういったことを
じっくりと耳を傾けて
聴き切るのだ。
可能であれば、
Aを主張する自分の声を
すべて
紙に書くといい。
B以下の自分が
途中で割り込んできたら、
「後でしっかり聴くから
しばらく退いていて」
とお願いする。
そして、
Aの主張をしっかりと
聴き切ったところで、
次は
Bを主張する自分の声
を聴く。
聴き切る。
これを
順番に丁寧に
やり切るのだ。
しっかりやれば
メチャクチャ
すっきりする。
要するに
モヤモヤの多くは
自分自身が
自分の声をしっかりと
聴き切っていない
ことによる。
そして
すべてを聴き切ると、
その直後に
「では、本当は
どうすればよいか?」
「今回はどうすることが
最善の選択か?」
が
瞬時に浮かぶことも
ある。
この方法は
昔はよく私は
社長さんのコーチングで
使った。
時間はかかるが
これでかなり
すっきり経営判断された
人も多かった。
人の話も
聴き切ることは
大事なのだが、
自分自身の声も
聴き切ることは
大事なんだよね。
つづく
一つ、
セルフコーチングを
やってみよう。
目を閉じて
深呼吸をして
まずは落ち着こう。
呼吸を静かにして
自分自身が
充分に鎮まったな、
と
思えたら、
目を閉じたまま、
自分自身が
巨大化していくイメージ
をしよう。
いや、できれば
今回は
「イメージ」というよりも
「感覚」のみで
それができると良い。
巨大化していく
感覚のみを
意識する。
ぐんぐん
巨大化する。
ビルよりも
日本よりも
地球よりも
もっともっと巨大化
していい。
宇宙の彼方まで
巨大化しても
いい。
できるところまで
行こう。
しかし、
必ずどこかで
「限界」
が来るはずだ。
もうこれ以上は
巨大化は
できないな、
と
思える限界だ。
何か
壁に当たったり、
殻のように
閉ざされた何かを
感じたり、
何かに
「これ以上はいくな」
と
押し込めらた感じに
なったり。
人によって様々だと
思うが、
その「限界」まで
行くことができたら、
その「限界状態」の
自分
最大に巨大化した
自分
を味わおう。
しばらくそのままで
いよう。
そして
その状態に少し
慣れてきたら、
自分自身に
次のように問いかけよう。
「この限界を
突破するには、
何が必要だろう?」
もし何か
指針を得られたら、
それをさっそく
実行に移してみよう。
つづく
私達は
いろんな「答え」を
日々、出しながら
人生を生きている。
その「答え」が
本当に自分の望む
ものかどうかは別として、
誰もが何らか「答え」を
出さねば、
先には進めない。
朝起きて、
最初に何をしようか?
というくらいに
些細な「答え」もあれば、
人生を大きく左右する
ような
影響の大きな「答え」も
ある。
私は
強く思うのだが、
どのような「答え」も
「すべて」
自分の本当に望む
ものを
一つ一つ丁寧に
出し続けるといい。
私の表現で言えば、
すべてを
真本音の「答え」で
進めるといい。
・・・と。
些細な答えか
大きな答えか
は
そこには関係ないと
思うのだ。
いやむしろ、
些細な答えすら
自らの望む答えを
出せない人は
本当に人生を大きく
左右する答えを
出さねばならない時に
それができなくなる
と実感している。
やはり
「生き方」の
問題なのだ。
日々、日常での
一つ一つの生き方が、
いざという時に
ありありと出るのだ。
だから
いざという時だけ
頑張ればいい、
という生き方は
通用しない。
それが人生だと
思う。
・・・・・・
セルフコーチング力が
ついてくると、
まずは、
あっ、
何か「答え」が来たな。
という
感覚がわかるように
なる。
何らかの「答え」が
生まれた感覚だ。
「答え」というものの
「存在」だけが
まずはわかるのだ。
その感覚がくると、
次には
その「答え」の場所を
特定する。
「答え」は
自分の体の中の
どこかに
発生しているはずなのだ。
まぁ時々は、
体の外、
自分から離れた場所に
発生するときもあるけど。
「答え」の場所が
特定できたら、
そこに意識を向ける。
私の場合、多くは、
その「答え」は
明るい光の球のように
観える。
そこに意識を
向け続けると、
「問い」
がやってくる。
「答え」そのもので
なく、
まずは「問い」が
明確になるのだ。
そしてその「問い」を
自分自身に
投げる。
その光の球に
意識を向けながら。
すると
その光の球から
「答え」が
浮上してくる。
これが、
セルフコーチングの
真髄だ。
これを私は毎日、
一日のうちに
数えきれないくらいに
やっている。
仕事だけでなく、
人生においての
大事な「答え」達は
ほぼすべて
このやり方で得ている。
これで得られた「答え」は
必ず「調和」を
もたらしてくれる。
このやり方は
10年くらい前から
本格的に始めたのだが、
それがいかに
「調和」をもたらしてくれるか
については
今でも毎日、強烈に
実感し続けている。
特にこれからの時代は、
こういった
セルフコーチング力が
誰にも必要だと
私は思う。
一つ一つ、
外部の状況や環境に
揺らされることなく、
かといって
状況を否定・拒絶するのでも
なく、
すべてに「調和」を
もたらすような
「最善の答え」を
自ら見出していく。
そんな人が
増えるといい。
それが
今後の社会の進み方を
左右すると
私は真剣に思っている。
だから
そのための方策を
取っていくつもりだ。
もちろんこれまでも
そうしてきたが、
ここからは
初めてのやり方で
この流れを加速させる
つもりだ。
一つ一つ「答え」を
出しながらね。
つづく
私達には全員、
必ず、
人生を終える
瞬間が来る。
その時に、
「あぁ、いい人生だった」
と思いたい。
・・・という願いを
持っている人は
多い。
それは
尊い願いだと
思う。
私はこの願いを
二十歳前後の時に
持った。
しかし、
あるカリスマ経営者に
その話をしたら、
「そんなのは
願いではない」
と一笑された。
「願いとは
もっと具体的な
ものだ」
と。
「人生の目的は
もっと具体的な
ものだ」
と。
彼の言いたいことは
今はよくわかる。
「いい人生だった」
と最期に言える
ためには、
具体的な目的を
持ち、
具体的な行動を
起こすこと。
それなくして
「いい人生だった」
と、心から言える満足感は
得られないように
人間はできている、
と。
そう。
私達は
「具体化」
を望んでいる。
具体化とは
「カタチ」だ。
『願いをカタチにする』
こと。
これが人生だと
思う。
20代前半に
私は彼からの
アドバイスを受けて
ラッキーだったと
思っている。
彼の言葉を
聴いた瞬間に私は
旅に出ることを
決めた。
当時の私は
彼に対して
「見とれよ!」
という憤慨の気持ちで
いっぱいになったが、
それもまた
彼の意図した
ものだったのだろう。
おかげで私は
人生の逸脱を
始めることができ、
それは
今日まで続いている。
何のために
生きるか?
具体的な目的は
何か?
そのために
今日は何をするか?
新たに
何を始めるか?
・・・常に
私の中には上記の
「問い」がある。
毎日、
この問いと
向き合い続けた
この約30年だった。
あなたにも
あなたの中に
重要な問いが
存在しているはずだ。
それをまずは
見つけてほしい。
そしてその問いと
毎日毎日
欠かさずに
向き合い続けて
ほしい。
答えはすぐに
出なくてもいい。
とりあえずの
答えになっても
いい。
とにかく
毎日、新鮮な気持ちで
その問いと
向き合い続けて
ほしい。
これもまた
セルフコーチングの
基本の一つだ。
つづく
朝、目覚めた時、
あなたは
どう起きる?
私はね、
まずは必ず自分に
問うんだ。
「今すぐに
起きる?」
って。
「すぐ起きる」
と返ってきたら、
すぐに布団を
出る。
でも多くの場合、
「もう少しこのままで
いる」
と返ってくる。
その場合、
私はそのまま
布団の中にいる。
そうするとたまに
二度寝してしまう
こともあるが、
それでも
構わない。
で、
ちょっと時間が
経った時に、
また同じことを
問う。
「どうする?
もう起きるか?」
と。
これを
繰り返す。
何度か繰り返す
うちに、
「うん、いいよ。
すぐ起きよう」
という返事が
返ってくる。
その瞬間に
バッと
布団を跳ね除けるんだ。
すると、
実に気持ちよく
起き上がれる。
そのままの勢いで
一日を始められる。
実に
気持ちよく、
しかも
スムーズだ。
一日の始まりが
気持ちよいと、
一日すべてが
気持ちよくなる。
これも
セルフコーチング法の
一つだよ。
つづく
私たちの心の中には
様々な自分
がいる。
ある意味、
多重人格者である。
みんな。
ただ、
健康的な人は皆、
心の中で
すべての自分が
ある程度の「ミーティング」を
しており、
今は
誰の意見を
どう生かすか?
を
ある程度しっかりと決めて、
その選ばれた意見に
基づき、
行動を起こしている。
そういった意味では
私達の心は
組織と同じだ。
心が本当に
整っている人とは、
その「ミーティング」が
円滑に進む人だ。
つまりは、
様々な自分達が
ちゃんと一致団結して
「最善の答えを出そう」
と
みんなで協力している
状態だ。
これも
組織と同じ。
一致団結する組織が
強いのと同じように、
一致団結する心は
安定しているし、
力強い。
逆に言えば、
心の中の様々な自分同士が
足を引っ張り合ったり、
いがみ合ったり、
争い続けていると、
心は疲弊する。
決断も
しづらい。
常に最善の答えに
たどり着かずに、
「迷いながら」
「葛藤しながら」
行動し続けることになる。
・・・・・・
良い組織に
良いリーダーがいるのと
同様に、
良い心には
良いリーダーが
存在する。
様々な自分達のすべてが
「このリーダーなら
信頼できるな」
と
素直に思えるリーダーが
存在する。
そのリーダーは
どのような状況下に
おいても、
揺るがなく、
常に毅然とし、
常に泰然とし、
常に、
安定感を持って
現実と向かい合い、
最善の判断を
下すことができる。
リーダー以外の
心達は、
そのリーダーの決断に
従い、
その方向に向かって
全員、
協力体制を敷いていく。
普段は
様々な考えや、
様々な方向性を持つ
自分達が、
リーダーの決断に対しては
素直に受け取り、
それぞれの個性を
活かし合いながら
力を合わせ、
相乗効果を発揮する。
その、
「心の中のリーダー」
のことを私は
『真本音』
と呼んでいる。
・・・・・・
誰の心にも
真本音は必ず
ある。
しかし、
それに気づいていない
人は多い。
自ら真本音に
気づき、
自ら真本音を
尊重することで、
その人の真本音は
一気に活性化し、
先頭に立つようになる。
しかし、
その人自らが
自身の真本音を
大切にしなければ、
真本音は
あえて先頭に立つことを
しようとはしない。
「私は真本音を大事に
生きていく」
と
本人が明確に決め、
その覚悟を持つことで、
その人の真本音は
ようやく
重い腰を上げ、
本気になって
自分が中心となり
進んでいくのだ。
そう。
真本音は
放っておいたら
働いてくれない。
覚悟を持たねば
先頭に出ない。
そのように
決めているのも
私達すべての人達の
真本音の共通の
特徴だ。
・・・・・・
だから私は
まず最初に必ず、
その人の真本音の
願いの一つを
見つけ出し、
言語化するセッションを
行なう。
言語化することで
常に意識をし、
真本音を尊重した
日々を
徐々に創り出していく。
体験を通じて
「真本音を大切にした
人生は楽しい!」
と知り、
その人自らが
真本音度合いを高めていく
ことを
サポートする。
そしてある時
ある瞬間に、
その人自身が
覚悟を決める。
「私は真本音の道を
進もう」
と。
そこからその人の
真本音は
心の先頭に立つ。
それにより、
人生は大きく
展開していく。
・・・これが私のサポートの
初期段階であり、
私の推奨する
セルフコーチングとは、
そのための
方法論だ。
その方法論を、
できるだけ多くの人に
正しく正確に
お伝えしたいと
思っている。
つづく
目の前に
船がある。
船と言っても、
ボートのように
小さい。
しかも
よく見ると、
泥でできているのでは
ないか、
と
思うくらいに
不安定で弱々しい。
こんな船で
荒海に飛び出せば、
一発で
沈んでしまいそうだ。
命の保証は
ない。
普通であれば
こんな船、
絶対に乗りたくない
のだが、
でも、
私の魂が
「ここに乗るのが
私だ」
と
ほざいてやがる。笑
・・・こんな場合
私はどうするかと
言うと、
迷うことなく
その船に乗る。
たとえ沈んでも
恐らく
(本当に、恐らくだが)
後悔はしない。
・・・・・・
目の前に
船がある。
今度は
「超」がつくような
豪華客船だ。
最新型だ。
遊ぶ施設も
充実してそうだ。
毎日、
美味しい料理も
満喫できそうだ。
快適な日々が
過ごせそうだ。
こんな船で
世界一周できたら
さぞかし楽しいだろうなぁ、
と思う。
そんな人生
いいなぁ、
と思う。
でも、
私の魂が、
「この船には
乗らない」
と言えば、
私は決して
乗らない。
多分、
(本当に、多分だが)
後悔はしない。
・・・・・・
これを
「真本音で生きる」
と
私は呼んでいる。
真本音で生きる
とは、
自分の心に素直に
生きるのとは
ちょっと違う。
余計に難しくなるかも
しれないが、
あえて言えば、
自分の魂の意志
に素直に生きる
ということだ。
心と魂の違いに
ついては、
あえてここでは
触れないが、
この違いを
区別できることは
人生において
とても有意義だ。
・・・・・・
これは、
心を置き去りにする
生き方、
というわけでは
ない。
なぜなら、
魂の意志通りに
生きれば、
結果として
必ず、
どっかのタイミングで、
心も満足する
からだ。
逆に言えば、
どれだけその時の
心が望んだとしても、
それが
魂の意志とは異なる
選択であれば、
心は後で
必ず
苦しくなる。
心と魂は
分離しているのだが、
しかし
根底では
つながっている。
心にエネルギーを
与えているのは
魂だ。
魂の意志とは
別の生き方をすれば、
エネルギーは間違いなく
減退する。
だから、
自分自身の魂の意志を
ちゃんと
自分で知る必要が
ある。
・・・・・・
私の推奨する
セルフコーチングとは、
この、
魂と心の
区別をつける力を
身につけることに
直結する。
魂と心の意志の
区別をしながら生きる
状態になるための
自分との向き合い方
だ。
言葉を換えれば、
真本音と反応本音
の区別をつける
ために行なうのが
私の推奨する
セルフコーチングだ。
今の世の中は
この区別がないために
混乱している。
区別がないから
人生も混乱する。
区別をつければ、
すべてが
調和を始める。
単純なこと
なんだ。
区別は
大人も子どもも
誰もがつけられるように
なる。
ただ、みんな
そのやり方を知らない
だけだ。
知らないのであれば、
ちゃんと伝えていこう。
今の私の活動の
ほぼすべては、
これに尽きるかな。
つづく
ある一面から言えば、
人生とは
自分自身の
エネルギー管理である、
と私は
思っている。
自分のエネルギーを
何に対して
どう使うか?
これをしっかりと
決めていくことが、
自分自身の
望む人生を創り出して
いくことだ。
そこでとても
大事な視点は、
「エネルギーとは
有限である」
という事実だ。
いやいや、
人のエネルギーは
無限ですよ、
と
言われる人も
いるかもしれない。
もちろんある面から
言えば、
そう言えることも
わかるが、
それでは
自分自身の
エネルギー管理は
できない。
太陽光発電を
イメージしてもらうと
わかりやすいと思うが、
太陽のエネルギーは
無限だとしても、
それを実際に活用できる
エネルギー量は
限られている。
つまり、
本質的には
人のエネルギーは
無限かもしれないが、
しかし、
今ここで
実際に使える
自分自身のエネルギー量は
限られているのだ。
・・・・・・
大量のエネルギーを
使うためには、
大量のエネルギーを
使えるだけの
「自分」
にならねばならない。
自分のあまりの
エネルギーの高さに
自分自身が呑まれ、
自分を失い、
本来望む人生とは
真逆の人生を送っている人は
実はとても多い。
「エネルギー」
と
「今の自分」
の
バランスが悪い
わけだ。
エネルギー管理が
できていない
典型的な例の
一つだ。
だから
エネルギーは
高ければいい、
というわけではない。
「今の自分」
に見合ったエネルギー量が
あり、
それをしっかりと
管理することで、
逆に、
徐々に自分の活用できる
エネルギー量も
増えてくる。
そして当然であるが、
たくさんのエネルギーを
活用できる自分に
なればなるほど、
人や世の中に対して
影響力の大きな
ことができるようになる。
もちろん、
大きな影響を与える
人生ほど素晴らしい、
というわけではない。
やはり
その人にはその人の
人生のミッションがあり、
人生の目的があり、
それを実現するための
ちょうど良いエネルギー量
がある。
それができている人
のことを
私は
『等身大の自分』
と
呼んでいるが、
本当の意味での
等身大の自分として
生きている人は
エネルギー管理が
ちゃんとできている
ということだ。
・・・・・・
逆も言える。
今、自分が
活用できるエネルギー量は
どれくらいか?
をしっかりと
認識することによって
今、できること
今、すべきこと
を明確にして、
それを日々、丁寧に
し続けることで、
徐々に
自身の人生の道を
見出していくこともできる。
私の場合は
どちらかと言えば、
こちらのパターンの人生
だったかもしれない。
その時その時の
自分の出せる
エネルギー量を
最大活用し続けるうちに、
今の仕事と出会い、
そして
今のスタイルを確立した。
そして、
私が本当に人生の
ミッションやビジョンを
明確にできたのは、
ほんの8年前だ。
もちろん
それまでにも方向性は
わかっていたが、
30年後のビジョン
というように
明確に目指すものが
わかったのは
つい最近だ。
しかしそれで
よかった。
というよりも
私にとっては
それが最善だった、
と思う。
・・・・・・
今、自分の出せる
エネルギー量を
ちゃんと把握できている
人は、
極めて
少ない。
大半の人は、
自分の出せる
エネルギー量を
見くびっている。
本当はもっと
出せるのに、
「自分の最大は
まぁ、こんなものだ」
と
小さく思い込んで
いる。
それも実に
もったいない話だ。
私の推奨する
セルフコーチングは、
この、
自分自身の
エネルギー管理の技術
とも
言えるかな。
つづく
セルフコーチング系の
講座を
開催しようと思っている。
そのための準備に
以前から入っていたが、
苦戦していた。
何を中心に打ち出し、
どうメッセージすれば、
この講座で出会うべき
人達と
出会えるのか?
が、どうしても
不明確だったから。
でも、
やっとそれが明確に
なり、
今日、動画を撮り終えた。
やっと
完了感が出た。
プロデューサーの
牧村氏とも、
やっと共に
笑い合うことができた。
・・・・・・
その中心となる
コンセプトを
一言で表せば、
『リブート』
となる。
「再起動」という
意味だ。
この言葉自体は
以前から
顕在化していたが、
これをもとに
何をどのように
メッセージすればよいか?
に
手間取った。
でもようやく
腑に落ちた。
・・・・・・
今回、私達が打ち出す
「リブート」には
二つの意味がある。
一つは、
「人生のリブート」。
そう。
人生をリブートしたい
と思っている人が、
最近はやたらと
増えている
実感がある。
気をつけたいのは、
「リセット」
ではなく、あくまでも
「リブート」
だということだ。
「リセット」と言うと、
何となくであるが、
すべてを一度、
消してしまったり
まっさらにしてしまったり、
これまで培ったものを
捨ててしまったり、
・・・と、
かなりの勇気を
要するイメージとなる。
しかし
「リブート」とは
単なる再起動だ。
例えば、
パソコンを再起動
したからと言って、
これまでのデータや
アプリが
消えてしまうわけではない。
これまで培ったものは
ちゃんと残っているのだが、
しかし、
再起動することで、
フリーズしていたものが
治ったり、
滞っていたものが
解消されたり、
心が新たに
なったり、
次のステップや
次のステージに進む
きっかけとなったりする。
私はよく
仕事に疲れたり
発想が滞ったりすると、
いったん
パソコンの電源を
落とし、
仕事の発想も
止め、
空を見上げながら
散歩をしたり、
電車に乗ったり
しながら
気分転換をする。
少しそれをするだけで、
何かが
シャンと
もとの場所に戻り、
これまでとは
まったく異なる
新たな発想が浮かび、
止まっていた
あらゆるものがまた
動き出したりする。
そんな
イメージだ。
人生で
そんなことをしたい
と思っている人が
今、明らかに
増えている。
本当にこのままの
自分で良いのか?
このまま
進んでいいのか?
この延長線上に
自分の未来は
あるのか?
自分は
何も変えなくて
良いのか?
今、手に入っている
この満足感で
本当に満足か?
本当にこの幸せが
私が望んでいる
幸せなのか?
本当に今の自分が
本当の自分なのか?
今の人生が
本当の人生なのか?
・・・そんな
根本的な問いや
モヤモヤが
どうしても浮上し、
それをそのまま
放置しておくことに
我慢がならなくなっている
人が、
明らかに増えている。
そんな人達が、
ちゃんと正しく自分と
向き合い、
自ら答えを出して
いく。
そんな講座を
開講したい
というのが私の
コンセプトだ。
・・・・・・
と同時に、
「リブート」には
もう一つの意味がある。
それはまた
明日書こうかな。
つづく
私は
一人の時間を
とても大事にしている。
普段、
人と向き合うことを
仕事にしているので、
余計に
大事にしている。
一人の時間が
いかに重要か?を
知ったのは、
恐らく
大学で登山をしていた
時だ。
当時、私はよく一人で
山に入って行った。
自らテントを担ぎ、
誰ともほとんど会話せず
山の中を何日も
歩き回った。
そこには
独特の孤独感があったが、
病みつきになるような
幸せ感もあった。
一人で山の中にいたり、
一人でテントの中にいれば、
いろんなことを考えるだろう、
と思われるかも
しれない。
確かにグルグルと
いろんな思考は駆け巡って
いたかもしれないが、
しかしほとんどの時間は
「何もしていなかった」。
何もしない
時間。
これが人生に
測り知れない影響を
与えていた。
・・・・・・
山の中では
何もしなかったが、
帰って来てから
私は必ず
紀行文を書いた。
誰に読ませるもの
でもない。
しかし日記でも
ない。
書いている私の意識には
確かに、
「読んでもらう相手」
がいた。
その相手に私は
自分の感じたことを
克明に説明しようとした。
それをひたすらに
文章にした。
自分の感じたこと、
自分の気持ちを
私は妥協なく言葉で
表現しようとした。
どうしても良い言葉が
思いつかなければ、
本を読んだり
辞書を調べたりしながら
自分の感覚に最も近い
言葉を
探し続けた。
そんなことを
山に行くたびに
続けていた。
山の中では
「何もしなかった」のだが、
帰って来てから
文章を書くと、
面白いように自分の気持ち達が
湧いて出た。
へぇ、あの時、俺は
こんなことを感じて
いたのか。
こんなことを
考えていたのか。
など、
文章を書く段で初めて
気づくことばかりだった。
山では何もせず、
帰って来てから
文章を書いて
様々な何かに気づく。
この繰り返しで
私は私の人生の道が
ほぼ決まったのだと、
今から振り返れば
思う。
・・・・・・
今でも私は
同じようなことを
している。
ただ、
山に行くのがなくなった
だけだ。
今の私は
山に行かなくとも
山に行ったのと同じ状態に
なれる。
私は毎日、必ず
「一人で何もしない時間」
を取る。
思考もすべて
停止させる。
何もしないでいると、
すぐに、
自分と自分以外
の区別が
つかなくなる。
自分は世界であり
世界は自分である
ということが
当たり前の感覚になる。
しばらくその状態でいると、
その後、自然に
様々な
「気づき」
が始まる。
その「気づき」達は
かなり具体的なものが
多い。
ほとんどが
仕事に直結するもの。
そして私は
その「気づき」の通りに
行動を起こす。
すると、
すべてが
調和する。
これが私の日課
であり、
セルフコーチングの
基本だ。
そう言えば、
一人で山に入っていた時、
私は
自分と山との
区別がつかなくなることが
よくあった。
あれは
今のセルフコーチング法を
実践できるようになるための
練習をしていたのだな、
と思う。
・・・・・・
この私のやり方を
セルフコーチングとは
一般的には呼ばないのかも
しれない。
しかしこれは間違いなく
自分自身へのコーチングであり、
「気づきの源泉」
となるものだ。
自分で自分の道を
しっかりと選択し、
自らの未来を開くためには
なくてはならないものだ。
これがあるからこそ、
私はここまで来れたし、
未来が開く実感も
得ることができる。
これを私は
多くの人達に
できるようになってもらいたい。
そう。
今はまだ
ほとんどの人が
「何もしない」
ことができないのだ。
私のビジネスパートナーが
とても良い表現を
思いついてくれた。
『リブート』
つまり、
『再起動』
だ。
私はこれを毎日
行なっている。
リブートのための
セルフコーチング法。
この講座を
今、準備している。
つづく
私はよく
セルフコーチングを
する。
つまりは、
自分に問うて
自分で答えを出す、
ということを
じっくりと落ち着いて
する。
それは
街中にあるカフェで
行なうし、
電車の中でも
行なう。
私の場合、
結構、雑踏が好きだ。
周りがガヤガヤしていて
人の気配があって、
いろんな「人生」が
私の周りに
溢れている状況が
良い。
電車に乗るときも、
ガラガラよりも
ある程度混み合って
いた方が良い。
そうだな。
一番いいのは、
座席がすべて埋まっていて、
立っている人が
チラホラいる。
これくらいが
ちょうどいい。
私はいつも電車では
立って
セルフコーチングをする。
・・・・・・
セルフコーチングを
するときは、
まずは、
自分の中に今、
「どんな問いがあるか?」
を探る。
探る、と言っても
頭で考えるわけではない。
自分自身の
「等身大」
を感じながら、
「無心」
になるのだ。
「ただそこに在るだけ」
という状態に
なる。
そして、
待つ。
ただ、
待つ。
すると、
私の中にある問いが
自然に
浮上してくる。
それはまさに
「浮上」
という言葉がピッタリだ。
別の表現を使えば、
「思い出す」
感覚に近い。
つまりは、
「問いを創り出している」
わけではないのだ。
「そこに在るものを
見つける」のだ。
あくまでも。
そういった問いが
見つかれば、
自動的に
「答え」もわかる。
なぜなら
「そこにある問い」には
必ず、
「最善の答え」がセットで
ついているからだ。
「最善の答え」がわかれば、
人生も仕事も
実に楽に
進むことができる。
・・・・・・
しかし
セルフコーチングの前提である
「等身大で無心になる」
というのが、
一般的には
難しいようだ。
これができるように
なるためには、
心の中の
状態管理ができなければ
ならない。
心がいつも
混沌・混乱していては
もしくは、騒がしい状態で
あっては
なかなか「無心」には
なれない。
じゃあどうすれば良いか?
と言うと、
これはやはり
「真本音度合いを上げる」
しかない。
真本音度合いの
高い人ほど、
心や魂は
静かになっていくからだ。
だから、
セルフコーチングのやり方を
お伝えする場合には、
まずはどうしても
真本音度合いの高め方を
お伝えしなければ
ならない。
真本音度合いが
高まらずして
良いセルフコーチングは
できないのだ。
と同時に、
良いセルフコーチングが
できることで
真本音度合いは
さらに高まっていく。
その好循環を
創り出すことが
重要だ。
・・・・・・・
というわけで、
そろそろ
セルフコーチングの講座を
再開しようかと
思っている。
11月くらいに
開講できると
いいかなぁ。
そこでは
真本音度合いの高め方
から
入っていくことになるだろう。
そのうち、
募集動画を創ると
思いますので、
ご興味ある人は
コメントください。
動画が出来上がりましたら、
お送りします。
つづく
ちょっとした簡単な
自問自答を
してみよう。
単純に
自分自身に
この問いを投げてみよう。
「今、毎日、楽しい?」
まるで他者に
投げるように
自分に投げてみたら、
どんな答えが
浮かんでくるかな?
次に、
こう投げよう。
「今の毎日の楽しさは
100点満点で何点くらい?」
自然に浮かぶ数字を
自覚しよう。
例えば、
40点だったとして、
「0点ではなく
40点だと思えた理由は
何だろう?」
そして、
「100点ではなく
40点になってしまった
理由は何だろう?」
というように
順番に自問自答しよう。
浮かぶ答えは
すべて紙に書くと
いいかな。
書いているうちに
次の発想が
浮かぶことがあるから。
そして最後に、
「では、40点を少しでも
点数アップするために、
何をする?
何をしない?
何を変化させる?
何は変化させない?」
やはり紙に
どんどん書こう。
そして
「これをやってみよう!」
と自然に思えることが
あれば、
ぜひ実行してみよう。
簡単なセルフコーチング法
の一つでした。
つづく
随分前の話
なのだが、
「真本音」という概念に
気づき始めた頃、
私がいつも心の中で
呟いていた言葉がある。
「どうでもいいじゃん。
なるようになっていくから。」
だ。
当時の私は
「深刻」の塊だった。
心の中も
実際の人生においても
不調和の嵐だった。
それら一つ一つを
どのように越えていけば
よいのか?
さっぱりわからなかった。
私は自分の身を守る
ために、
誤魔化し誤魔化し
生きていたように思う。
そのツケが
いつも私には
襲いかかっていた。
この人生から
抜け出ねばならない。
と、
当時の私なりに
必死に思った。
その中でたどり着いたのが、
上記の言葉だ。
とにかく私は
朝から晩まで
その言葉を
心の中で呟き続けた。
呟いた瞬間は
一瞬、心が楽になるのだが、
すぐに直後に
深刻さが襲って来た。
しかしそれでも私は
何かにすがるように
その言葉を
呟き続けた。
今から振り返れば、
その辺りから
私の人生はゆっくりと
変わり始めた。
不調和の人生から
調和の人生へと。
・・・・・・
上記の言葉が
なぜ当時の私の中に
浮かんだのか?は
当時はわからなかったが、
今はよくわかる。
それは、
私自身の真本音からの
プレゼントだった。
このように、
自分の真本音が
自分自身にプレゼントする
「メッセージ」がある。
自分から自分への
メッセージであり、
それを呟き続けることで、
まずは心が開かれ、
その結果として
しだいに現実が
開かれていく。
だから私はこの言葉を、
『心の鍵』
と名づけた。
心を開くための
鍵となるメッセージだから
だ。
心の鍵を常に
自分に向けて投げ続けることで、
非常に地道ではあるが、
結果として
最短で人生が
開かれていく。
これは私だけではなく、
これまでの私の
クライアントさんの多くも
体験されてきたことだ。
・・・・・・
私は
私自身に
何をメッセージしたいか?
を、
まずは真剣に
考えてみよう。
しかしそのメッセージは、
自分を縛るもので
あってはならない。
呟くことで、
ギュッと心が固まってしまう
ものであってはならない。
無理に自分を鼓舞する
ものであってもならない。
呟くことで、
全身の力が
一瞬でもいいから
フッと抜けるもの。
しかし、かと言って
単なるやさしい言葉では
なく、
力の抜けた自分が
次の一歩に自然に
向かえるような、
そんなきっかけになる
言葉だ。
それを真剣に
見つけてみよう。
「心の鍵」探しは、
私のコーチングサポートの
根幹の一つであるし、
私が推奨する
セルフコーチング法の
基本に来るものだ。
セルフコーチングとは、
「問い」
だけではない。
「メッセージ」も
重要な要素だ。
自分への
メッセージ。
毎日でも
考えてほしいな。
つづく
私達の心の中は
「答えの宝庫」
だ。
自分の知りたい答えは
ほぼほぼ
自分の心の中に
揃っている。
例えば、
人生において
「次の選択をどうするか?」
とか、
仕事において
「あのお客様にどう提案するか?」
とか。
もし、
明らかに新たな情報を
得なければ出ないような
答えについても、
「どのような情報を
どこから得ればよいか?」
という
答えにつながるための答え
をもう、持っている。
私達はそのように
心の中に存在する
「答え達」を
浮上させながら
生きている。
「浮上」というのは
「顕在化」ということだ。
眠っていたもの、
隠れていたものを
「明らかにする」
とか
「光を当て明確にする」
ということだ。
ところが。
「答え」はあるのに、
その「浮上」(顕在化)が
できない。
心の中に
せっかくあるものを
眠ったままにさせて
しまう。
しかも、
「答え」とは違う選択を
してしまう。
ということは
実によくある。
なぜ「浮上」できないのか?
なぜ「答え」はあるのに、
それに気づかないのか?
その原因は
たったの一点だ。
「質問力不足」
だ。
・・・・・・
「答え」を得るには
「問い」が要る。
「問い」がなければ
「答え」は出ない。
これが単純な
原理だ。
発想力のある人とは
質問力のある人
とも言える。
自分に的確な問いを
投げられる人だ。
私はコーチングにおいて、
ほぼほぼいつも
クライアントさんに
「今、あなたの中に
どんな問いがありますか?」
という問いを
投げる。
この問い。
まずはこれが
最も重要だ。
これを自分で自分に
投げるとよい。
「今、私の中には
どんな問いがあるだろうか?」
このたった一つの問いを
一日中、
私は自分に投げ続けている
と言っても過言ではない。
この問いを
投げ続けるだけで
人生は変わる、
と私は思っている。
全然大袈裟な話では
ない。
本当にそうだと
思っている。
これが
セルフコーチングの
基本だ。
・・・・・・
私達は皆、
「問い」と共に生きている。
人生とは
「問い」によって拓かれる。
自律している人と
そうでない人の違いは
自分自身にちゃんと
「問い」を投げられるかどうか?
だ。
全然大袈裟な話
ではない。
少なくとも私のクライアントさん
は皆、
「質問力」を高めることで、
ある意味それだけで
人生を変えている。
今後このブログでは、
オススメの問い
を随時ご紹介していこうかな、
と
思っている。
つづく
ちょっと
皆さんに
考えてもらおうかな。
もし
自分が自分の
コーチに
なったとして、
今の自分に
一番伝えたい
メッセージは何?
コーチとして
自分自身を
クライアントに
したとして、
そのクライアント
には
本当に心の底から
成長(進化)を
願っているとして、
自分に
一番伝えたい
メッセージは何?
そして、
自分に
一番問いかけたい
ことは何?
どんな問いを
大事にして
一日一日を
過ごしてもらいたいと
願う?
本当に
ゆっくりじっくりと
これを
考えてみてほしい。
「自分を大事に
する」
その第一歩は
これだと
私は
思うんだな。
そして
これが
セルフコーチングの
基本の基本。
これ、
本当に毎日
しっかりと
続けたら、
それだけで
人生より良くなると
思わないかい?
つづく
人と向き合う
時に、
私が常に大事に
していることの
一つは、
その後の展開
を
すべて
完全に
手放すことだ。
つまり、
自分の意図している
方向への
働きかけを
ゼロにするのだ。
意識の上では。
これをすると、
その場は
「私」という個人の
創り出す
狭く窮屈で
偏った場から
開放される。
その場は、
「共に向き合い
共に創る」
という
場となる。
すると、
最初は例えば
二人で語り合い
二人の相乗効果で
場は創られて
行くが、
その後、
さらにそれすらからも
開放される。
ちょっと変な
表現になるが、
宇宙の摂理
に
委ねた場
となる。
すると、
思わぬ良い展開
となる。
だから私は
毎日のように
思っている。
なんであんな
展開に
なれたのかな。
もう完全に
俺の範疇を
超えた展開だったな。
俺の力では
どうにもできない
場だったな。
・・・と。
個人のコーチング
においても
企業でのミーティング
においても
本当に毎日の
ように
そう思えている。
だから私は
「痛感」するのだ。
人というのは
向き合う存在
である。
と。
向き合わねば、
人としての価値は
半減どころか、
何十分の1にも
ならないだろう。
・・・・・・
ただしこの状態が
起こるためには、
その前提として
必須のことが
ある。
真本音度合い
の上昇
である。
ある一定以上に
真本音度合いが
高まらなければ、
そのような
宇宙の摂理に
委ねる場とは
ならない。
と同時に、
そこにいる
一人ひとりが
まずは真剣に
一人で考える、
という
準備も必須だ。
真本音度合いの
高まった人が
前もって
真剣に考えたことを
その場で
開放し、
自らの意図も
すべて
開放する。
これによってのみ、
自分達の範疇を
超えた
創造的な話し合いが
実現する。
だから私は
この状態になるために、
まずは
一人ひとりを
サポートする。
一人ひとりが
自力で自身の
真本音度合いを
常に高め続けられる
状態にする
サポート。
そして、
真本音状態で
思考・発想する
サポート。
この二つの
サポートにおいて、
私が最も
重要視しているのが、
セルフコーチング法
だ。
セルフコーチング
の手法を抜きに
その二つの力を
身に付けることは
できない。
・・・・・・
だから結局
いつも同じ話に
なってしまうが、
自分との
向き合い方を
マスターすることが
人との
本当の相乗効果を
促す向き合い方を
マスターできる
のだ。
企業においては、
とにかくすぐに
ミーティングをしよう、
という風潮に
なるが、
私はきちんと
一人ひとりの準備が
整わない限りは
複数人による
発想の場は
「持たない方がよい」
くらいの極端な
言い方をしている。
ちゃんと
準備をして
ちゃんと
臨む。
向き合う
ということに対して、
もっともっとみんな
真剣になった方が
いいな。
つづく
私は私。
あなたは
あなた。
私と
あなたは
別物だ。
という
認識。
これがこの世の
常識であり
事実だ。
しかし、
本当は
実在のレベルの
次元の高い
ところでは、
私はあなた
であり、
あなたは私
であり、
すべては一つ
だ。
しかし
こんなことを書くと
「わけがわからない」
と思われてしまう
可能性の方が
高い。
でもこれは
確かに真実であり、
私達はすでに
これまでの人生で
こういったことを
何度も経験
してきているはずだ。
・・・・・・
例えば、
共に何かに
熱中している時。
大好きなアーティストの
ライブとか。
誰かの
応援とか。
合唱などで
一緒に歌っている
時とか。
そこにいるみんなが
本気を出して
同じものを
共有し、
同じことに
意識を向けている
時などは、
自分と周りとの
区別が
つかなくなっている
と思う。
皆が
一体化している。
例えば、
人と向かい合っている
時。
本当に意気投合し、
共感し、
ワクワクしながら
話し込んでいると、
自分とその人は
一体化している
はずだ。
時間とも
一体化し、
知らぬ間に
何時間も経っている
という
こともある。
それが
すべては一つ
となっている
状態だ。
これは正確には
「一つになる」
というよりも、
「もともと一つだと
いうことを
思い出している」
状態だ。
次元の高い
状態。
これが、
日常において
当たり前と
なったとしたら、
世の中は
もっと素晴らしいものに
なると
思えないかな?
・・・・・・
一つになっている
状態は
本来は
特別な状態では
なく、
何かに
高揚している
状態でもなく、
非常に
静かで
力が抜けていて
普通で
自然な
状態だ。
実は、
真本音度合いが
高まり、
人としっかりと
向き合うと、
いつも
この状態が
当たり前となる。
むしろ、
そうでない時の
方が
「珍しい」状態で、
違和感を
覚えてしまう。
そして、
その状態で
発想される
あらゆることは、
とても
創造性に
富んでいる。
一人で発想する
よりも
数十倍もの
素晴らしい発想が
生まれる。
人と人が
向き合うとは、
本来の私達、
つまりは
一つである私達を
思い出す
最も簡単で
自然な方法なのだと
私は
思っている。
・・・・・・
もっと
人と人は
向き合ってほしいな、
と
いつも思う。
でもそれが
できないのには
とても単純な
原因がある。
要するに、
自分自身と
ちゃんと向き合えて
いないから
だ。
自分と
向き合える人は
人とも
向き合える。
単純な
ことだ。
私が
セルフコーチングの
手法を
多くの方々に
お伝えしたいのは
こういった
シンプルな
理由からだ。
つづく
人には皆、
エネルギーの流れ
というものがある。
そのエネルギーは
その人その人で
異なるもので、
それがその人の
個性の源となる。
人とお会いする時、
私はいつも
そのエネルギーを
感じるようにする。
私が感じ取るのは、
エネルギーの大小
というよりも、
今のその人にとって
そのエネルギーが
必要な循環を
続けているかどうか?
だ。
健全な循環を
感じ取れれば、
ひとまずは
安心。
あとはその循環が
よりスムーズに
行くように
サポートする。
もちろんこういった
話そのものを
することはない。
ただ、
コーチングをすることで
循環力(あえて言えば)
が増すようにする。
これが私の
コーチングサポートの
本質だ。
これを氣功的な
やり方ですることも
できるが、
あえて私は
それをしない。
それよりも私は
「言葉の力」
を使う。
言葉というのは
やはり凄いのだ。
その人にとって
今、最も必要な
言葉を使い、
その人にとって
今、最も必要な
問いを投げる。
そして、
その人にとって
今、最も必要な
メッセージを贈る。
これをすることで、
その人の
エネルギー循環は
明らかに変化する。
もちろん、
的確ではない言葉
を投げることで
循環が滞ることも
ある。
良きにつけ
悪きにつけ
言葉の威力は
大きい。
その人にとっての
良い言葉を選び、
それを投げ、
その人が
自分自身と
しっかりと向き合う
場を創ることで
エネルギー循環を
健全で
最善のものと
する。
私はこれが
コーチングの本質だと
思っている。
そして当然、
それは
自分で自分に対しても
行なうことは
可能だ。
それを私は
セルフコーチング
と呼んでいる。
つまり
セルフコーチング
とは、
自分自身の
エネルギー循環を
マネジメントすること
だ。
これができると
人生も仕事も
劇的に
楽になる。
実は先日の
10連休。
私は恐らく、
社会人になってから
初めてと言っても
よいくらいに、
のんびりと過ごした。
仕事はちょくちょく
あったのだが、
家族との時間を
充分に取ることが
できた。
自分自身は
充分に休息をした
と思っていたのだが、
10連休が終わって
いつものような
毎日が再開されて
気づいたのだ。
なんだ、俺、
いつも10連休のような
もんじゃんか、
と。
何も変わらない
のだ。
もちろん、
仕事をすれば
予定はどんどん入って
くるし、
緊張もするし、
疲労もする。
しかし、
だからと言って
エネルギー循環が
変わるわけではない。
私は常に
自分のエネルギー循環を
最善のものに
できている。
セルフコーチングを
毎日、しっかりと
行なっているからだ。
だから
とても楽なんだ。
もちろん
休日はなきゃいけない
と思っている。
体は休めた方が
いい。
仕事以外の楽しみも
あった方が
いいだろう。
人生をより豊かに
するために。
でも、
休日も平日も
自分のエネルギー循環は
変える必要はない。
いつも毎日、
最も居心地の良い
エネルギー循環に
なるように
整えておくこと。
これこそが、
人生を楽しむ
根幹にくるものでは
ないかと
最近、
特に強く思うな。
つづく
心がざわめいて
いる時は、
私は一切の
決断をやめる。
止まる。
何もしない。
と
決めている。
何もしない、
というのは
現状のまま行く、
ということだ。
何も変えない。
と同義語だ。
極端に言えば、
惰性のままでも
いい、
ということだ。
私達は
特に重要な決断の
前では、
あーだこーだ、と
考えてしまう。
当たり前だ。
考えること自体は
良いことだし、
しっかりじっくり
考え尽くさねば
ならないが、
考えの中から答えを出す、
ということを
私は
一切、しない。
考えの中から答えを出す、
というのは、
根拠を求めて、
最も点数の高い根拠に
基づいた答えを出す、
ということに
なってしまうからだ。
企業でもビジネスでも
そういったやり方を
している人は
多いだろう。
しかし私は
それをしない。
何故ならば、
そこに最善の答えは
ない。
からだ。
ちょっと極端に
聴こえるかもしれないが、
実は、
そんなに極端なことは
言っていない。
私は、
すべての考えを
自分が
手放せるくらいまで
考えて考えて
考え尽くす。
人間、面白いもので、
そこまで考え続けると、
途中で
どうでもよくなる
瞬間が来る。
ある意味、
答えが出ないことへの
あきらめでもある。
開き直り、
とも言える。
本当にそうなると、
そこまで続けた
あらゆる思考を
私達は手放してしまう。
するとその直後に
やすらぎ
と
静寂
が来る。
その状態に
入って初めて、
「直観」
が来る。
その直観こそが
最善の答えを
運んできてくれる。
その多くは、
根拠のない答え
だ。
が、
根拠のない自信
が
付与されている。
つまりそれこそが
「確信」
というものだ。
多くの場合、
確信には最初
根拠がない。
根拠はだいたい
後付けだ。
人に説明するために。
根拠のない確信を
人に説明し
納得していただくために
思考を働かす。
そこでこそ、
考える
という行為は
本当に生きて来るのでは
ないかと
私は思っている。
それはともかく、
そういった確信は
私達に
パワーとエネルギーと
モチベーションを
与えてくれる。
そうしたら
それに素直に
動くといい。
だから私は
確信に基づいた
決断しかしない。
・・・・・・
以前は、
この過程に
随分と時間をかけて
いた。
例えば、
一つの答えを出すのに
1週間も2週間も
考え続けた。
長い時間をかけて
直観を待った。
しかし残念ながら
直観は
意図的に起こすことは
極めて難しかった。
しかし。
今は私はこれを
数分単位、
時には
数秒単位で
意図的に行なうことが
できる。
つまりは、
意図的に
直観を呼び起こすことが
できる。
私のコーチングは
すべてこれを
主体としている。
では、
それは私だけの力か?
と言うと
とんでもない。
これこそ、
私達人間の
誰もが持っている力
の一つだ。
その本来の力を
呼び起こすための
最短の道が
セルフコーチング
である。
正しく自分と
向き合い続け、
自分の心の中にある
ものを
あるがままに
見つめることが
できるようになると、
直観も確信も
毎日のように
浮上する。
むしろそれが
当たり前と
なる。
しかしそれが
ゴールでは
ない。
そんな自分になれて
初めて、
私達は
人生の目的にも
気づけるし、
そこに向かう
道を見出すことも
できる。
本来の人生が
スタートするのだ。
直観なくして
道はなし。
ただし、
直観と言っても
ただの思いつきでは
ない。
ただの思いつきと
直観を
区別できるように
なる必要もある。
そのためにも
セルフコーチング力が
必要だ。
つづく
本当は私達は、
実に見通しの良い
道に
立っている。
さえぎるものは、
何一つとして
ない。
霞みさえない、
濃い青空のもと、
穏やかな風を
受けながら、
伸びやかに
私達は
立っている。
しかしそれでも
人は
「何も見えない」
と
言う。
「自分の道が見えない」
と
言う。
目を
閉じている
からだ。
もしくは、
目隠しを
し続けているから、
もしくは、
相当に分厚いフィルターの
眼鏡を
かけている、
からだ。
どれだけ気持ちよく
どれだけ安定した
道でも、
目を閉じていれば
進むのは
怖い。
当たり前の
こと。
だから、
目を開ければ
いい。
でも、
開け方が
わからない。
残念ながら、
そんな人達が多いのが
今の世の中だ。
そこで
大半の人が
とってしまう方法は、
目を閉じたまま
上手く進もう
と
すること。
目を閉じたままで、
どちらの方向に
どのように
進めば良いか?
を
他者から
教えてもらったり、
アドバイスを
もらったり。
目を閉じたまま、
自分の手を
引っ張ってくれる人を
見つけ、
その人に
依存したり。
一生、
目を閉じたままで
いい、
と
思っているようだ。
もしくは、
一生、目を開けることは
できないと
思い込んでいるか。
もしくは、
すでに自分は
目を開けていると
思い込んでいるか。
今、
まだ自分は
閉じているという
自覚をすることが
第一かな。
自覚できれば
開けたくなる。
開けたくなったら、
その自分の
想いに、
素直になることだな。
そうなれば
あとは
方法論だ。
ただし、
何かをちょっとやって
すぐにパッと
開くものでは
ない。
開くには、訓練が
必要だ。
毎日毎日の
地道な習慣が
必要だ。
その方法を
私は
セルフコーチング法
と
呼んでいる。
自分が
自分自身の
目を開かせるために、
自分を
サポート
し続ける。
そして
目を開くことが
できたら、
次は、
進むための
サポートに入る。
それも
セルフコーチング。
自分の最大の
コーチは
自分自身。
みんなが
そんな状態に
なれればいいな、
と
思う。
そして
自分で自分を
コーチできるように
なれば、
その人は今度は
他者を
コーチできるように
なる。
他者に
セルフコーチングを
教えることが
できるようになる。
私は世の中に
本物の力を持った
コーチが増えることを
切に望んでいるが、
そのためには
やはり、
この順番が
大切だな。
つづく
昨年の9月に
初めて開講し、
かなりのご好評を
いただいた
『ザ・セルフ』
という
セルフコーチングに
特化した講座を
もう一度、
開講しようと思う。
第2期ということに
なるかな。
第1期の皆さんは
随分と
人生を加速された。
この講座の受講生さんは
日々の習慣として、
毎朝、自分自身への
「今日の問い」
を自ら発想する。
そういった宿題を
出すのだが、
これが実に良い。
毎朝、皆さんの
「今日の問い」
をSNSのグループに
アップしていただき、
それを私が
「真本音から出ている
問いかどうか?」
をチェックする。
これを
毎日続ける。
第1期の講座は
1月末には終了
したのだが、
受講生の皆さんからの
「今日の問い」の
アップは、
いまだに自主的に
続いている。
私がチェックなど
しなくとも、
皆さん、毎日
真本音の問いを
アップされている。
その問いを
一日、自分に投げながら、
一つ一つ丁寧に
「答え」を
見つけていく。
真本音の問い
なので、
必ず真本音の答えが
見つかる。
これを毎日
続けるのだ。
そりゃ、人生も
変わるわなぁ。
第2期は、
第1期で得た気づきが
随分とあるので、
さらにブラッシュアップされた
講座となるだろう。
とは言え、
今日その打合せを
初めてしたので、
準備はこれからだ。
第1期の際にも
感じたのだが、
この講座は私の
ライフワークの一つに
なると思う。
この講座で
様々な人達と
出会っていきたいな、
とも思う。
セルフコーチングが
すべての始まり。
・・・以前から
そんな風には思って
いたし、
私の人生も振り返れば、
セルフコーチング力の
アップによって
展開されてきた。
これがなかったら、
今のお仕事は
こんなに20数年間も
続けられなかった。
間違いなく。
今、改めて
セルフコーチングが
すべての始まりだったなぁ、
と
思う。
実は昨日、5月9日は
私にとっては
記念日。
17年前の昨日、
私のセルフコーチング力は
一気に飛躍した。
それにより、
「真本音」という
概念の発見につながり、
私の企業サポートの
スタイルも
根本から変化した。
それとともに
私の人生も
根本から変化した。
セルフコーチング
とは、
自分と向き合うこと。
「本来の自分」
と向き合うこと。
これなくしては、
「自分の人生」
にはならないね。
つづく
人生を進めている
つもりになっていても、
実は
まったく進んでおらず、
同じ場所で
足踏みをし続け、
足踏みをすることで
汗をかき、
汗をかくことで
「私は頑張っている」
と
自己満足している
人は、
残念ながら
とても多い。
以前にもよく
書かせていただいたが、
成長には
2種類があって、
それをあえて
名付けると、
・進化
・膨張
となる。
「進化」とは
次元を高めること。
「膨張」とは
同じ場所で
規模や能力など
のみが
大きくなることだ。
単なる膨張を
しているだけで、
満足をしている人が
多いのが
今の社会だ。
私は、
膨張のことを
成長とは
思っていない。
本来の成長とは
進化があっての
もの。
そして、
進化のないサポート、
つまりは
膨張のためだけの
サポートは
一切やらないと
決めている。
しかし
とても残念なことだが、
進化など
どうでもいい。
とりあえずは、
膨張さえすれば
それで
いいではないか。
と
思っている人は
とても多い。
経営者も
含めて。
注意していただき
たいのは、
能力の成長
も、
それのみであれば
膨張である
ということだ。
言い換えれば、
実力のみの成長
は
単なる膨張だ。
以上を踏まえた
上で
あえて断定すれば、
今の若者の
何割かは、
進化への欲求が
極めて高い。
逆に言えば、
単なる膨張に
対して
やりがいや生きがいを
感じなく
なって来ている。
膨張のために
頑張れ!
を言われても、
無気力・無関心に
なる。
私は、
登校拒否になって
しまっている
未成年者のサポートを
させていただくことも
あるが、
彼らの何割かは、
(本質的には)
膨張のみを
強いろうとする
社会に対しての
拒絶感を持っている。
しかし
そういった彼らでも、
進化を感じられる
物事に対しては、
途端に
エネルギーを
発揮したりする。
進化に対しては
苦労をしてもいい。
どころか、
進化のために
努力や苦労をしたい!
と
望んでいる人は
多い。
しかし、
それが一体
どういうことなのか、
どうすれば
いいのか、
が
まったくもって
わからない。
大人達は
そこのところを
何も教えてくれない。
だから
単なる無気力
無関心になる。
という状態だ。
もちろん、
そのような状態でも
私は
自らの人生は
自ら進むことで
拓いていくことが
重要だと思っている。
進化への欲求が
あるならば、
自ら動けよ。
とも思う。
しかし人は、
あまりにも
何もわからなければ、
何もできなくなってしまう
ものだ。
「守破離」という
成長の段階があるが、
彼らはまだ
(多くの若者はまだ)
「守」の段階だ。
例えば2歳の子供に、
「進化のために
自ら人生を創りなさい」
と言っても
ほぼ不可能なのと
同じだ。
ちゃんと彼らに
「教える」
ことのできる大人が
必要だ。
その役割を果たすのは、
これからの時代に
おいては、
私は
「企業」
だと思っている。
ビジネスや仕事を
通じて、
生活を成り立たせ、
その土壌の上で
進化を起こす。
そういった「企業」が
増えることこそが、
これからの時代を
創る若者達を
活性化させる
最も重要な方法だと
思っている。
逆に言えば、
そういった「企業」が
増えなければ、
若者達の本来の力は
発揮されない。
若者達の本来の力
を発揮できる
「企業」
を増やさねば
ならない。
しかし、
現時点では
どうすれば進化できるか?
を明確に知る「企業」は
実に少ない。
だから、
そういった「企業」を
増やすことに
私は邁進する。
そしてこれは当然
私一人でできることでは
なく、
進化をサポートできる
「コーチ」を
増やすことも
必須だ。
そして
「コーチ」の
最低条件は、
進化とは何か?
どうすれば
進化できるか?
を知っていること
だ。
身をもって。
それを知るために
絶対的に必要なのが、
進化のための
セルフコーチング
だ。
進化のための
自分との向き合い方
であり、
進化のための
自己マネジメント
だ。
セルフコーチング法を
広めることが、
やはり
肝要だな。
つづく
荒れてるなぁ。
荒れてる人が
多いなぁ。
この1ヶ月間の
私の印象
である。
特にその「荒れ具合」は
令和に入った
この数日間で
極度に高まっている。
もちろんそれは
実在レベルの
話であり、
潜在意識レベルの
ことだ。
しかしこういった
感覚は、
時差を経て
現象化することが
多い。
一方で、
非常に安定度を
増し、
静けさを湛えている
人もいる。
しかし残念ながら、
割合としては
前者の方が
圧倒的に高い。
前者の中でも
さらにその
2割くらいの人達
からは、
大袈裟でなく、
阿鼻叫喚
の叫びのようなものさえ
私には
感じられるのだ。
その根本原因は、
自分自身への
ごまかし(誤魔化し)
だ。
・・・・・・
ごまかしの利かない
時代になった
と思う。
企業の活動に
おいても、
一人ひとりの人生に
おいても。
ごまかしごまかし
で何とかこなせて
来たことでも、
それが立ち行かなく
なって来た。
個人の人生に
おいて言えば、
自分の本当の気持ち
や
本当の願いに
蓋をしながら生きて来た
人も、
その蓋が外れかかって
いる。
外れかかっている
ことに
本人が気づいていない
ケースも確かに多いが、
外れかかっているが
故に、
モヤモヤ感が
半端なくなっている。
これまでは
「このまま行けばいいや」
とか
「このままの人生でいいや」
で
済ましてこれた
はずなのに、
どうしても、
「本当にこれで
いいのだろうか?」
という
自分自身への疑念が
拭えない。
本当はもっと
先に進まなければ
ならないのに、
それを
本当は自分は
とても強く望んでいるのに、
そうしない自分。
まぁでも人生、
こんなもんだからと、
これまでは
自分をある程度
納得させていたが、
それではもう
納得し切れない自分が
どうしても
ニョキニョキと
頭をもたげてしまう。
すると、
進まない自分に
対して、
自分自身が
非難を始める。
自分を
責め続ける。
自分を責める自分を
これまでは
なだめながら
来れたが、
もうそれでは
治まらなくなって
しまった。
そういった自分への
対応の仕方も
制御の仕方も
わからず、
ただただ途方に
暮れるだけ。
そのうちに、
自分自身の
堪忍袋の緒が切れ、
自分の心の中での
反乱が
ついに始まり、
心の中では
阿鼻叫喚が・・・。
という、
そんな具合の
ようだ。
・・・・・・
そんな中、
このブログを
お読みいただいている
ある方から
コメントをいただいた。
「たけうちさんは
まずは、
セルフコーチングを
広めてはいかがでしょうか。」
というご提言
だった。
その方とは確か、
10年近く前に
一度だけお会いした。
大変ありがたい
ご提言で、
私はその一文に
グッと来た。
この1ヶ月間の
多くの方々の
「阿鼻叫喚」を
感じるにつけ、
今のこのタイミング
でこそ、
セルフコーチングに
ついて、
もっともっと
しっかりと発信をしたり、
ご指導をさせて
いただく場を
増やした方が良いのでは、
と
今更ながらに
感じている。
最近はいつも
同じようなことを
書いている気が
するが、
今の世は、
そしてこれからの
世の中は、
「正解」がない。
これまで正解だと
決めつけていた
ことが、
そうではないことが
わかって来て
しまった。
「正解」は
自ら創り出していかねば
ならない時代。
これこそが
人としての
本質的な時代だ。
そんな時代だからこそ、
自分と向き合い、
自分の真本音を
把握、理解し、
それを行動に移し、
カタチとして
実現する人生や
仕事が
必要とされる。
私自身も含めて
できるだけ多くの
方々が
そうなれるように、
私は私の
できる最大のことを
していこうと思う。
つづく
人は、
たくましい。
本当は
ちゃんと
地に足が
ついている。
ガッシリと
まるで
根が張ったかのように
揺るがずに
立っている。
みんな、
そうだ。
しかし
そんな自分を
本人が
知らない。
知らないから
揺らぐ。
知らないから
迷う。
本当の
自分の姿を
知ればいい。
思い出せば
いい。
ただ、
それだけの
ことだ。
・・・・・・
セルフコーチング力を
徹底的に
向上させる、
という目的で
始めた新講座
『ザ・セルフ』
が、
修了した。
全6回。
4ヶ月に渡る
講座だったが、
たった4ヶ月で
これだけのことが
できるもんなんだなぁ、
と
感嘆することが
できた。
受講生の皆さんは
間違いなく、
今
本来の自分を
感じ取れている。
ここまで来るのが
大変なのだが、
しかし
本当はここからこそが
スタートだ。
本来の自分を
思い出したら、
そこから
本来の人生が
始まる。
本当の
挑戦と
試行錯誤は
ここからだ。
ただ、
今は一人一人が
自分の足で
自分の大地に
立っている。
これは本当に
喜ばしいことだ。
・・・・・・
人は
たくましく
なればなるほど、
肩の力が
抜けていく。
静かに
なっていく。
しかしその奥に
潜むエネルギーは
極めて強く、
そして明るい。
それは
無尽蔵の
エネルギー
だからだ。
自分と向き合う
とは、
その無尽蔵の
エネルギーと
向き合うという
ことでもある。
そして、
無尽蔵のエネルギー
は
無尽蔵に使えばいい
という
ものではない。
どこに
どれだけの
エネルギーを
どのように
使うか?
それを
自由自在に
自ら選択し
実行することが、
「自分の人生」
である。
「自分の人生」の
始まりを
皆さんは
手に入れた。
であれば、
思う存分に
進んでほしい。
ここからが
本当の
加速だ。
つづく
セルフコーチングや
コーチングの
本質は、
「現実を変える」
ことにあると
私は思っている。
現実を変える
ために、
まずは自分の
「本当の想い」
を知る。
本当の想いに
基づいた行動を
することでしか、
本当に望む方向に
現実を変えることは
できないからだ。
当たり前の
ことであるが。
そして、
「本当の想い」
を知るために、
自分自身の心の
状態を
整える。
心を自ら
スッキリとさせ、
晴れやかな状態で
いるための術を
身につける。
それをまた
セルフコーチングと
言うのだが。
しかしそれは
あくまでも、
①心の状態を整え、
②本当の想いを知り、
③現実を変える
というステップの
最初の段階に
過ぎない。
ところが。
①を手に入れる
ことで、
満足をしてしまう人が
いる。
もしくは、
②までは行くのだが、
③を行わない
人がいる。
残念ながら、
③を行わなければ、
すべて
「自己満足」
である、
と私は考える。
人生は、
行動してなんぼ、
である。
行動に移し、
想いを形にし、
現実を変えて行くのが
人生だ。
①ができないが故に
③ができない人が
いるが、
それは当たり前だと
私は思うし、
それはしょうがないな、と
私は思う。
しかし、
①と②ができるように
なった上で、
③を拒否・拒絶し、
①と②の気持ち良さの
中で
浸り続ける人がいる。
私は
そういった人を
見ると、
どうしても
無性に
腹が立つ。
・・・・・・
できないから
できない、
のはしょうがない。
どうすれば
できるようになるか?
を考え、
一歩ずつ進めばいい。
しかし、
本当はできるにも
関わらず、
できないふりをして
やらないのは
本当に腹が立つ。
そして、
①と②ができるように
なり、
しかし③をしない人は
本人が気づかない
うちに、
心の麻痺が
始まる。
心の麻痺によって、
自分自身の
真本音と反応本音の
区別が
つかなくなる。
せっかく
①と②ができるように
なり、
自分の真本音が
わかるようになっても、
③をしないことで、
真本音が
見えなくなってしまうのだ。
ところが、
麻痺が起きているために、
本当は
真本音が見えなくなって
いるにも関わらず、
「見えているつもり」に
なる。
そういった人の
多くは、
「これが私の真本音だ」
と、周りに主張
するようになる。
「私の真本音が
こう言っているから
私はこうするのだ」
という主張が
多くなる。
なぜ「主張」になるかと
言えば、
それは自分自身に対して
「言い訳」
をしているからだ。
本当はそれは
真本音でも何でも
ない。
③から逃れるための
ていのいい
言い訳に過ぎない。
本来すべきこととは
別のことに向かい、
ただただ
気持ちの良いことしか
しないための、
単なる
言い訳に過ぎない。
「私の真本音が
こう言っているから
私はこうするのだ」
・・・ばかりを
言い出したら
かなり要注意だ。
すでに
その人は
真本音度合いを
下げている。
本当に
真本音で生きている
人は、
そんな言い方は
しない。
私はこの状態に
入ってしまっている人を
「真本音に依存している」
と表現している。
本当は
真本音に依存は
できないし、
本当の真本音は
依存などはさせない
のだが、
「真本音」という言葉を
使いながら、
その人は
自分の意志(意思)を
放棄しているのだ。
こういった人を
見ると、
私はとても
腹立たしくなるし、
悲しくなる。
・・・・・・
もし、
10の想いがあれば、
100行動する、
くらいが
ちょうど良いのでは
ないかと
私は思っている。
行動すれば、
いろんな壁に
当たる。
たとえ
真本音で決めて
行動しても、
そこには必ず
壁がある。
しかしその壁に
当たることで
私達は
学ぶことができる。
真本音で生きる
とは、
壁を回避して上手く
生きることではない。
本当に必要な
壁に当たり、
本当に必要な
体験・経験をし、
本当に必要な
試行錯誤を
繰り返し、
本当に必要な
進化成長をし、
結果として、
本当に望む現実を
手に入れる。
これが
真本音で生きる
ということ。
この、
最も大切な部分を
決して
間違えないでほしいと、
私は
切に願っている。
つづく
セルフコーチング力を
高めていくと、
生まれた瞬間の
感覚すら
思い出すことが
できる。
その瞬間、
私達は
ありとあらゆる
感情の中に
いる。
その感情たちを
抑えることが
できずに、
全身で泣き叫びながら、
私達は
人生を始める。
まだ
生まれた直後には、
自分と他人の
区別すら
ついていない。
しかし、
母親から
離れるという
喪失感の中で、
私達は
不安の極致に
至る。
と同時に、
その状態にある
自分自身を
ただただ
静かに見つめる
自分が
「自分として」
発動する。
それが
真本音だ。
すべてと
つながり、
すべてと
「一つ」である
私達の意識と、
その一方で
「自分として」の
意識。
その境目に
あるのが
真本音だ。
だから
真本音の発想とは、
すべてのために、
そして
自分自身のために、
何をすることが
最善であるか?
というものと
なる。
そこに
一切の揺らぎは
なく、
その
揺るぎなさは
一生続く。
・・・・・・
真本音は常に、
自分自身に
語りかけ続ける。
すべてのために、
そして
自分自身のために、
今、
何をすべきか?
を。
その語りかけに
真摯に
耳を傾けること
こそが、
人生を生きる上で
なくてはならないもの
であると
私は思う。
真本音の願い
は、
人類の願いであり、
自分自身の
願いだ。
私達すべての人には
役割があり、
真本音に素直に
生きることで、
自然にその役割と
出会い、
全うし、
幸せに至る。
そしてそれが
そっくりそのまま
人類全体が
望んでいることに
直結する。
だから
当たり前のように
すべてが
調和していく。
何も
特別なこと
ではないし、
特別な
力が必要な
わけでもない。
すべての人が
そうなのだ。
人間である
限りは。
・・・・・・
私は
自らの真本音に
気づく(思い出す)
ことにより、
人生が劇的に
変わったが、
人生を劇的に
変えようなどとは
思っていなかった。
ただ、
一日一日、
真本音に素直に
行動しただけだ。
その一歩一歩は
とても小さいもの。
時には
大きなものも
あったが、
それも自然に
大きく、できた。
気がつけば、
何もかもが
変わっていた。
別に
変わることが
正しいとも
思わない。
成長しなければ
ならない、
と思う必要すら
ない。
極端に
言えば。
ただ、
真摯に
自分と向き合うこと。
生まれた瞬間から
発動しているはずの
自らの真本音に
耳を傾けること。
そして、
そのメッセージに
素直に
次の一歩を
進むこと。
たった
これだけの
ことなのだ。
すべきことは。
すべての人が
このシンプルな
生き方ができるように
サポートするのが
私の役割であるし、
「コーチ」の
役割だ。
こういった「コーチ」を
増やすのも
私の役割だ。
人が人として、
シンプルに
生きることのできる、
そんな世の中に
なればいい。
本来の人として
生きる世の中に。
これが私の
宿願である。
つづく
『ザ・セルフ』 という
セルフコーチングの手法を
集中的に修得していただく
新しい講座を始めたが、
やってよかったな、
と
つくづく思っている。
ちょうど今、
半分を過ぎたところ
であるが、
なんと、
私の中では
ある意味での
完了感がある。
もう、皆さん
大丈夫ではないか。
得るべきものを
得たのではないか。
このまま
講座を終えてしまっても
よいのではないか。
とさえ
思っている。
いったいこの
完了感は
何だろうか?
そこを自分なりに
セルフコーチング
してみたい。
・・・・・・
まず真っ先に
思い浮かぶのは、
皆、すでに
「一本道」
に立てている、
ということだ。
私達人間には
全員、
「一本道」が
ある。
それは、
生まれた瞬間から
自分が自分に
約束した
人生の道である。
最初は
その道を探すのが
人生の目的となる。
そして見事に
それを見つけたら、
人生の第2ステージに
入る。
つまりは
その「一本道」を
突き進むのだ。
今回の受講生さんは
講座のスタート時では、
ほぼ全員、
人生の岐路に
立っていた。
もしくは、
立とうとしていた。
自分の道を
見つけたい。
本当の道を
見つけたい。
という意欲が
高かった。
だから、
セルフコーチングが
非常に効いた。
そして今、
全員が
「一本道」に
立った。
もちろん、
その「一本道」のすべてが
見通せているわけでは
ない。
しかし、
自分が今、
一本道に立っているのか?
いないのか?
という判別のつけ方と、
そしてその
一本道を堂々と
進むためにはどうすれば
よいか?
ということを
理屈ではなく
体得したのだと思う。
だからもう
私なんかがいなくとも
皆さんは充分に
自分の道を歩いていけるな、
という
実感がある。
それが私の
完了感になっている
のだと思う。
・・・・・・
もう一つ浮かぶのは、
皆さんは完全に
オープンになった
という事実だ。
変な言い方をすれば、
「裸になった」
ということになる。
そして、
裸の方が
まったくもって
人生を進むには
楽である、
という真実を得た
ということだろうか。
もちろん、
日々の悩みはある。
迷いも
出る。
自分を失うことも
あるだろう。
しかし、
どうすれば
本来の自分に
戻れるか?
どうすれば
裸の自分に戻れるか?
そして、
裸の自分に戻ることが
どういうことなのか?
裸の自分に戻る
ことで
何が起こるのか?
ということを
やはり理屈ではなく
体得できたのだと
思う。
要するに、
「自分らしさ全開」
である。
かと言って、
それがゴールでは
ない。
それが
「スタート」
である。
自分らしさが
全開になってからが、
本当の成長(進化)の
スタートであり、
自分の発する
エネルギーと魅力と
力の数々は
これから本格的に
開発される。
まだ見ぬ自分との
出会いも、
これから本格的に
始まるだろう。
しかし
その「スタート地点」に
立てたということが
素晴らしい。
これがまた
完了感になっている
のだと思う。
・・・・・・
恐らく、
講座をスタートさせた時点
での、
皆さんの真本音の目的は
すでに
果たされたのだと思う。
しかし講座はまだ
半分弱、
残っている。
ということは・・・。
ここで私は
改めて
自分の役割に
気づく。
私の役割とは、
皆さんの真本音の
想いに
お応えするだけでなく、
さらに
皆さんの真本音が
当初願っていた以上の
「加速」を
ご提供することである、
と。
表現によっては
かなり傲慢な感じ
ではあるが。
しかし思えば、
自分がかつて体験
したことのない
「加速」を得たい、
という人達が
ここには集まっている
ように思う。
期待以上の
加速を
したい。
という期待。
それにまた
お応えするのが
私の役割なのだろう。
すでに皆さんは、
心の中だけでなく、
「現実」をも
変えた。
今日も
「次々にいろんなことが
起こります」
と喜びながら
ご報告くださった。
しかしそれはまだ
序の口である
ということを
今後、さらに
体験を通じて
知っていくのだろう。
そのきっかけを
ご提供するのが
私の役割であると、
改めて
感じ入ったのが
今日だった
のかな。
つづく
自分と向き合う、
ということと、
現実と向き合う、
ということは
完全に一致する。
私は
セルフコーチングを
提唱しているが、
セルフコーチングと
言うと、
心の内面ばかりに
意識を向ける印象が
どうも一般的には
あるらしい。
しかしそれでは
意味がないし、
逆に
内面に意識を向ける
だけでは
セルフコーチングなど
やらない方が
ましだ。
セルフコーチングは
自分をオープンに
するために行なう。
現実に対して
オープンになるために。
というよりも、
本当は
セルフコーチングを
正しくすればするほど、
人は自然に
現実に向かいたく
なるものだ。
9月から
『ザ・セルフ』という
セルフコーチング法を
学んでいただく
新しい講座を始めたが、
ご参加されている皆さんは
どんどん「現実」を
変えている。
拝見していて
実にすがすがしい。
セルフコーチング法さえ
きちんと教えていけば、
コーチという存在など
要らなくなるのではないか、
という
錯覚さえ抱いてしまう。
もちろん、
錯覚である。
・・・・・・
私には
お気に入りの美容師さん
がいて、
もうかれこれ10年近くは
彼に髪の毛を
カットしていただいている。
若い人だ。
初めて出会った時は
彼は確か27歳と
言っていた。
道端で、
彼の勤める美容室の
リーフレットが
配られていた。
それを手にとって
写真を見たら、
彼が小さく写っていた。
あっ、この人に
会いたいな。
と思い、
さっそくその美容室に
行った。
思った通り、
真本音度合いの高い人で、
若いくせに(失礼)
とても真摯な人だった。
彼の美容師としての
成長意欲は
とても高く、
私は彼と共に、
私も成長していこうと
決めた。
それ以来、
私の髪の毛は
彼の直観にお任せ
である。
彼の素敵なところは、
その能力もあるが、
それにプラス、
私の言うところの
「コーチ」としての
力にもある。
彼は、
私が話しかけて
ほしくない時は、
決して一言も
話しかけてこない。
私がちょっと
会話をしたいなと
思うと、
その瞬間に
気軽に話しかけてくる。
しかし
余分なことは
一切、言わない。
気軽だけど
シンプル。
実に
居心地が良い。
私はいつも
カットだけでなく、
彼に頭のマッサージを
依頼しているが、
彼にマッサージしてもらうと
「愛」を感じる。
そして、
目を瞑りながら
いつも私は
セルフコーチングをする。
すると、
仕事上のひらめきが
次々と
自然に起こってくる。
一人でいる時よりも、
彼と共にいる時の方が、
間違いなく
生産性が上がるのだ。
私は
こういう人のことを
「コーチ」
と呼んでいる。
私は、20年以上、
セルフコーチングを
探究してきたが、
それでも
彼のような「コーチ」が
そばにいると、
より発想が広がるのだ。
もちろん、
彼には
私は仕事の話は
ほとんどしない。
ほぼ、
雑談ばかりだ。
でもそれで
充分。
彼と話すだけで、
発想は広がり、
そして深まる。
そういった意味で
「コーチ」は
必須の存在だ。
・・・・・・
しかし今日、
私は彼に髪を
カットしてもらいながら、
彼に言った。
「コーチ」なんて
必要ない世の中に
なればいいと
思ってるよ。
・・・と。
その言葉に
彼はちょっと
驚いていたようだが、
私は本当に
そのように思っている。
「コーチ」の
必要のない世の中に
この世が進化したら、
どれだけ素敵な
ことだろうか、と
思うのだ。
それはつまり、
すべての人が
「コーチ」となれる
世の中のことだ。
「コーチ」なんて
名乗る必要のない
世の中。
人が人の想いや
可能性を
より広げ、高め、
深め合える、
そんなコミュニケーションを
取れる世の中に
なるといいな、と
本当に思う。
そのためにも
私は、
「コーチ」として
今日も明日も
がんばるし、
そのためにも
本物の「コーチ」を
育成したい。
つづく