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- 2019年 5月
暗い地下から
地上に出た直後は
とても眩しい。
それと同じく、
実在のレベルでの
ステップアップは、
ステージを
上がった直後は
眩しくてしょうがない
かもしれない。
こんな眩しい世界で
自分は
生きていけるのだろうか?
と
不安になるだろう。
しかし
何事も慣れだ。
人間の凄いところは、
「慣れる」という
能力だ。
環境に
適応していく
その力は、
時々、
目を見張るものが
ある。
一つの段差を
登り、
ステージが変わると、
しばらくは
そのステージを
なだらかに進む。
そのうちに
その世界にも
慣れてきて、
最初はあれほど
眩しくて、
目も開けられない
くらいだったのに、
だんだんと
物足りなくなって
くる。
ちょっと暗いなぁ
ここは、
なんて感じることさえ
ある。
そうするともう
私達は本能的に
さらに明るい世界を
望むようになる。
その辺りでまた
次のステップが
来る。
次の次元、
次の世界が
来る。
私達は皆、
これを繰り返して
いる。
・・・・・・
なだらかに
進み、
段差を
登り、
また
なだらかに
進み、
・・・と
続くのだが、
中には
なだらかに進む
という時間が
とてつもなく
短い人がいる。
つまりは、
段差に継ぐ
段差。
なだらかな部分は
ほとんどなく、
まるで、
崖をよじ登っている
ようだ。
毎日、
というよりも
一刻一刻、
次元が高まって
いく。
だからもう本当に、
毎日が
酸欠状態のようだ。
突然に
エベレストの山頂に
立たされたら
我々は
息もできずに
死んでしまうだろう。
それに近い
状態となる。
私もそういった
時期があったし、
私のクライアントさんも
そういった人が
いる。
そして恐らく、
そのタイプの人は
これから
急増していくだろう。
・・・・・・
あえて
そういったタイプを
『直登タイプ』
と
呼ぶことにするが、
この直登タイプの
人には
特殊なサポート方法が
必要だ。
ところが
そういったサポートの
仕方を
知っている人は、
私が知っている限りでは
いない。
ここが、
今、私は
この社会の
最大の問題の一つ
だと
認識している。
直登タイプの人が
その人の望む
最速のスピードで
本当に
直登して
行けるかどうか?
これが
今後、この社会が
健康に
ステップアップ
できるかどうか?
を
左右する。
しかし
多くの場合、
直登タイプの人は
本人に
その自覚がない。
しかも
もし自覚したとしても
「直登」は
残念ながら
自力では
極めて難しい。
普通の
ハイキングしか
したことのない人に、
いきなり
何の道具もなしに、
数千メートルの
垂直の崖を
攀じ登れ、
と
言っているような
ものだ。
この現状を
どうしたものか?
今の私が
最も頭を悩ませている
ことの
一つである。
つづく
本当は、
人の創造性は
計り知れない。
ゼロからイチを
生み出すことは
難しい、
と、一般的には
言われるが、
しかし本当は、
ゼロからイチを
生み出すことこそ
人の本分。
今のお仕事を
ずっと続ける中で、
いつしか私は
自然にそう
思えるようになった。
その一方で
多くの人が
「いやいや、
私には無理です」
と、
平気で言う。
自分に勝手に
制限や
リミッターを
加える。
これもまた
人の性分。
引き出そうと
思えば、
どこまでも
引き出せるのが
人の可能性。
しかし、
引き出そうと
本気で
思わなければ、
決して姿を
現さないのも
人の可能性。
そこが
人の面白み
だとも言える。
・・・・・・
好きなことを
やれ!
と、
よく言われる。
でも、
「好きなこと」とは
何だ?
たまたま
今、好きなこと?
昔からずっと
好きだったこと?
それとも
これから新たに
好きになるで
あろうこと?
だいたい、
「好き」という気持ちは
どこから来るの?
・・・・・・
私のクライアントさん
は、
私が「好き!」と
思える人達
ばかりである。
一人ひとりのお顔を
ほぼ毎日
思い浮かべたり、
意識を向けたり
しているが、
それをするだけで、
魂と心が
ホッコリする。
私の場合は、
この「ホッコリ」が
重要な気がする。
「好き」というのは
理屈では
ないのだと思う。
当たり前のことだが。
私は
ホッコリする人を
全力で
サポートする。
・・・・・・
「好き!」
という気持ちで
向かうと、
面白いことに
多くのクライアントさんが
自らの可能性を
自ら開くようになる。
私は
「好き」という言葉を
実際に使うわけでは
ないが、
恐らく私の
「好き」という気持ちは
空気感として
伝わっているのだと
思う。
そして、
私もそうだが、
人から「好き」という
空気を受けると
実に幸せであり、
この幸せ感は
自分を
自然に開いてくれる。
私が特に
注意しているのは、
無理に好きに
なろうと
しないこと。
「好き」は
自然に
やって来るから。
そのためには
私自身が
オープンでいることだ。
「好き」というのは、
きっと
オープンでいることで
私の中から
というよりも
その場で、
その現実で、
生み出される
ものなのだろう。
それこそ、
私達人間が
ゼロからイチを
生み出す
その代表的なものの
一つなのかも
しれないな。
つづく
まっすぐな
道があり、
レールまでが
引かれている。
あとはそこを
気持ちよく
進むだけ
なのだが、
なぜか、
そのレールに
乗ることを
しない。
それどころか、
道そのものから
外れ、
まったく
見当違いの方向に
向かってしまう。
人間であれば、
そういったことは
十分に
考えられるし、
誰しも
そのような経験は
あるかもしれない。
よく
「レールの引かれた
人生なんて
いやだ!」
という表現が
使われるが、
そもそも
そのレールを
引いたのは
ほとんどの場合、
その人
自身だ。
その人の
真本音だ。
レールがあることを
素直に
感謝すればいいのに、
と
よく私は思う。
レールがあることを
素直に
喜べばよいのに、
とも。
そうすれば
そのレールも
道も
すべてを
ひっくるめて、
楽しめるし、
その上での
「冒険」が
できる。
なぜなら
「レール」とは
進化をするもの
だから。
「レール」そのものが
進化をするのだ。
だから
「レールがあるから
つまらない」
というのは、
あまりにも
つまらない
捉え方だ。
はっきり言って、
「レールの進化」
は
とてつもなく
面白い。
そしてその
進化は、
まったくこれまでに
なかった
新たなものを
生み出す。
レールの人生
とは
惰性の人生
ではない。
レールをとことん
極めることで、
ゼロからイチを
生み出す
ことすら
できるのだ。
そして
それができれば、
さらにまったく
新しいレールを
この世に
もたらすことが
できるのだ。
それこそが
人生の醍醐味
だと
思わないかい?
つづく
進む人
と
進むない人
の
差は
開くばかりだ。
結局
どうするか?は
本人しだい。
他者がサポート
することは
もちろんできるが、
サポートは
あくまでも
サポート。
肝心の一歩は
本人の意志
によって
すべてが決まる。
ここまで来て
どうして
止まってしまうのだろう、
と
何度、私は
泣きじゃくったことか。
とはいえ、
今日はそんなことを
メインに書きたい
わけではない。
・・・・・・
今日、私が
本当に書きたい
のは、
進む人への
応援歌だ。
しかし。
進む人達は、
実は
そんなことは
望んでいない。
なぜなら
「進むことが
当然だ」
と
思っているから。
だから
普通に淡々と
進んでいる。
しかも
超加速している。
でも本人は
至って普通だ。
普通の状態の
人に
応援歌も何も
ないだろう、と
思う。
応援してるよ!
と言っても、
「何のこと?」
と返ってくる
だけだ。
でもさ。
私だって
人間だ。
応援したくも
なるよ。
だって
あなた方の
その歩みと
走りは、
あまりにも
素敵だから。
・・・・・・
私の周り
だけか?
素敵な人が
増えた。
本当に
増えた。
世の中、
捨てたもんじゃ
ないんだな、
と
つくづく思う
毎日だ。
ただ。
やはり
本番は
ここからだ。
素敵な人は
増えたが、
まだ
それだけだ。
何もまだ
私達は
成していない。
本当に
ここからの
一歩一歩だ。
すべてが
決まるのは。
・・・・・・
応援歌の
つもりが、
何も応援に
なっていないのだが、
それでも私は
常に
応援しています。
もちろん、
私自身も
最大速で
進みます。
共に
楽しみながら
進みましょう。
つづく
あえて言うが、
みんな
落ち着きが
なさ過ぎないか?
もっと本当に
自分自身と
しっかり
向かい合っては
どうか。
物事の決断を
するのに、
「妥協することでしか
答えを出せない」
と思い込んでいる
人が多い。
しかし、
妥協の中に
「答え」
はない。
決して。
そこに「答え」を
求めてしまうと、
必ず
不調和が起こる。
その不調和が
次の妥協を
生む。
その悪循環は
自ら断つ
しかない。
「妥協の中に
答えを見つける」
のではなく、
「自分はすでに
答えを決めている」
という真実を
知るべきだ。
「私はもう
答えを決めているから。
その真の答えを
思い出すだけだ」
という視点から
自分と
向き合ってほしいな。
「でも、そうしても
全然答えが
わからないんです」
とも言われるが、
しかしやっぱり
どうしても私から
観ると、
落ち着いて
自分と
向き合っているとは
思えないのだ。
ちゃんと
ジーッと
自分自身と
向き合う時間を
創ってほしい。
ジーッと
向き合っても
答えは簡単には
見つからないだろう。
でも、
見つからないなと
思うとすぐに
妥協点を探りに
かかる。
それを私は
「落ち着きがない」
と表現している。
思考が出るのは
構わない。
でも
あらゆる思考を
存在承認した上で
いったん
横に置いてほしい。
その思考の奥に
真の答えがある。
思考に埋没
するのではなく、
思考は思考で
置いておき、
ジーッと
自分自身の心を
見つめ続けて
ほしい。
観察を
続けるのだ。
答えがまったく
見えなくても
観察を
続けるのだ。
ジーッと。
ただ
ジーッと。
慣れるまでは
私はこれを
夜を徹して
朝までやり続けた
ことが
数えきれないほど
あった。
でもいったん
コツがわかれば、
かなりの短時間で
「自分が最初から
決めている答え」
がわかるように
なった。
それはまさしく
「思い出す」
という感覚と
同じだ。
「思い出す」
という感覚は
「確信」を
呼び起こす。
迷いのない
答えだ。
そうすれば
あとは勝手に
自分自身が
動いてくれる。
その状態に
なるまで、
ただただジーッと
自分と
向き合い続ける。
落ち着いて。
これをぜひ、
しっかりと
やってほしい。
つづく
人と向き合う
時に、
私が常に大事に
していることの
一つは、
その後の展開
を
すべて
完全に
手放すことだ。
つまり、
自分の意図している
方向への
働きかけを
ゼロにするのだ。
意識の上では。
これをすると、
その場は
「私」という個人の
創り出す
狭く窮屈で
偏った場から
開放される。
その場は、
「共に向き合い
共に創る」
という
場となる。
すると、
最初は例えば
二人で語り合い
二人の相乗効果で
場は創られて
行くが、
その後、
さらにそれすらからも
開放される。
ちょっと変な
表現になるが、
宇宙の摂理
に
委ねた場
となる。
すると、
思わぬ良い展開
となる。
だから私は
毎日のように
思っている。
なんであんな
展開に
なれたのかな。
もう完全に
俺の範疇を
超えた展開だったな。
俺の力では
どうにもできない
場だったな。
・・・と。
個人のコーチング
においても
企業でのミーティング
においても
本当に毎日の
ように
そう思えている。
だから私は
「痛感」するのだ。
人というのは
向き合う存在
である。
と。
向き合わねば、
人としての価値は
半減どころか、
何十分の1にも
ならないだろう。
・・・・・・
ただしこの状態が
起こるためには、
その前提として
必須のことが
ある。
真本音度合い
の上昇
である。
ある一定以上に
真本音度合いが
高まらなければ、
そのような
宇宙の摂理に
委ねる場とは
ならない。
と同時に、
そこにいる
一人ひとりが
まずは真剣に
一人で考える、
という
準備も必須だ。
真本音度合いの
高まった人が
前もって
真剣に考えたことを
その場で
開放し、
自らの意図も
すべて
開放する。
これによってのみ、
自分達の範疇を
超えた
創造的な話し合いが
実現する。
だから私は
この状態になるために、
まずは
一人ひとりを
サポートする。
一人ひとりが
自力で自身の
真本音度合いを
常に高め続けられる
状態にする
サポート。
そして、
真本音状態で
思考・発想する
サポート。
この二つの
サポートにおいて、
私が最も
重要視しているのが、
セルフコーチング法
だ。
セルフコーチング
の手法を抜きに
その二つの力を
身に付けることは
できない。
・・・・・・
だから結局
いつも同じ話に
なってしまうが、
自分との
向き合い方を
マスターすることが
人との
本当の相乗効果を
促す向き合い方を
マスターできる
のだ。
企業においては、
とにかくすぐに
ミーティングをしよう、
という風潮に
なるが、
私はきちんと
一人ひとりの準備が
整わない限りは
複数人による
発想の場は
「持たない方がよい」
くらいの極端な
言い方をしている。
ちゃんと
準備をして
ちゃんと
臨む。
向き合う
ということに対して、
もっともっとみんな
真剣になった方が
いいな。
つづく
私は私。
あなたは
あなた。
私と
あなたは
別物だ。
という
認識。
これがこの世の
常識であり
事実だ。
しかし、
本当は
実在のレベルの
次元の高い
ところでは、
私はあなた
であり、
あなたは私
であり、
すべては一つ
だ。
しかし
こんなことを書くと
「わけがわからない」
と思われてしまう
可能性の方が
高い。
でもこれは
確かに真実であり、
私達はすでに
これまでの人生で
こういったことを
何度も経験
してきているはずだ。
・・・・・・
例えば、
共に何かに
熱中している時。
大好きなアーティストの
ライブとか。
誰かの
応援とか。
合唱などで
一緒に歌っている
時とか。
そこにいるみんなが
本気を出して
同じものを
共有し、
同じことに
意識を向けている
時などは、
自分と周りとの
区別が
つかなくなっている
と思う。
皆が
一体化している。
例えば、
人と向かい合っている
時。
本当に意気投合し、
共感し、
ワクワクしながら
話し込んでいると、
自分とその人は
一体化している
はずだ。
時間とも
一体化し、
知らぬ間に
何時間も経っている
という
こともある。
それが
すべては一つ
となっている
状態だ。
これは正確には
「一つになる」
というよりも、
「もともと一つだと
いうことを
思い出している」
状態だ。
次元の高い
状態。
これが、
日常において
当たり前と
なったとしたら、
世の中は
もっと素晴らしいものに
なると
思えないかな?
・・・・・・
一つになっている
状態は
本来は
特別な状態では
なく、
何かに
高揚している
状態でもなく、
非常に
静かで
力が抜けていて
普通で
自然な
状態だ。
実は、
真本音度合いが
高まり、
人としっかりと
向き合うと、
いつも
この状態が
当たり前となる。
むしろ、
そうでない時の
方が
「珍しい」状態で、
違和感を
覚えてしまう。
そして、
その状態で
発想される
あらゆることは、
とても
創造性に
富んでいる。
一人で発想する
よりも
数十倍もの
素晴らしい発想が
生まれる。
人と人が
向き合うとは、
本来の私達、
つまりは
一つである私達を
思い出す
最も簡単で
自然な方法なのだと
私は
思っている。
・・・・・・
もっと
人と人は
向き合ってほしいな、
と
いつも思う。
でもそれが
できないのには
とても単純な
原因がある。
要するに、
自分自身と
ちゃんと向き合えて
いないから
だ。
自分と
向き合える人は
人とも
向き合える。
単純な
ことだ。
私が
セルフコーチングの
手法を
多くの方々に
お伝えしたいのは
こういった
シンプルな
理由からだ。
つづく
今日も
何人もの初対面の
方々と
向かい合った。
真本音とか
反応本音とか、
そういったことを
初めて知る
方々だ。
そういった方達に
とても本質的な
お話を
あえてしてみる。
「真本音」という
言葉を
ダイレクトに
投げかけてみる。
すると、
その瞬間の
彼らの
魂の揺れ。
その「揺れ具合い」
は、
この数ヶ月で
また
随分と変化した、
と実感する。
その感覚を
どう言葉で
表現するといいかな・・・。
そうだな。
あえて言えば、
揺れ方
半端ねーっ!
・・・て感じ。
グワングワンと
彼らの
魂の響きが
私の耳に届く。
くすぶっていた
何かが
一気に浄化され
昇天する感じ。
もちろん、
表面的に何かが
起こるわけじゃ
ない。
皆さん、
普通に落ち着いて
聴いてくださって
いる。
のだが、
グワングワンと
空気が
波打っているのを
私は
ダイレクトに
感じるのだ。
もちろん
決して悪いもの
ではない。
こういった
反応を観るにつけ、
あぁ世の中の
実在も
本当に整って
きたのだなぁ、
と私は
感嘆する。
よくぞここまで
来れたなぁ、と。
もちろん、
まだまだ全然、
だ。
真本音度合いを
高めるという
意味では、
まだスタートライン
にも立っていない
くらいの感覚だ。
やるべきことを
これから
やっと
やり始める
感覚だ。
でも
「やり始める」
ことが
できるのだ。
これまでは
「始める」ことすら
できなかったの
だから、
この悦びは
大きいね。
これから
世の中の仕組みは
大きく
変わっていく。
AIを初めとした
社会の根本的変化の中で、
私達は
仕組みに埋もれて
しまい、
人としての尊厳を
失くす方向に
行くのか?
それとも、
新たな仕組みから
さらに次の
進化した仕組みを
生み出せる
人としての
本来の姿を
取り戻して
行くのか?
その瀬戸際に
今の私達は
いる。
日々、
私達の生き方が
本当の意味で
問われるのは、
まさしく
ここからだ。
つづく
子どもの頃の
ような
無邪気さで
大人になってからも
生き続けるのは
難しい。
そりゃそうだ。
いろんな経験を
積むからね。
無邪気な自分に
戻れよ、
と言っても
それは無理な
ことだろう。
でも。
一つ確かに
言えるのは、
子どもの頃の
無邪気さは、
あなたの中には
確かに
まだ
存在している
ということ。
存在しているけど
出さない
だけのこと。
出さなくなった
理由は
人それぞれ
だろう。
人生経験に
よるものだろう。
でもやっぱり
それは、
ちゃんと
そこにある。
本来、
人生経験とは
自らの
選択肢を広げる
ためにある。
しかし
多くの人達は、
経験を積めば
積むほど、
経験に
縛られ、
自らの選択肢を
狭めていく。
しょうがないことだと
思うけれど、
やはり
もったいないことだ。
ではなぜ
そうなるか?
原因は
至って単純だ。
要するに、
自分と
きちんと
向き合って
いないからだ。
一つの経験や
体験に対して、
自分自身の心を
しっかりと
見つめていない。
本当は
見つめていれば、
一つの物事に
対して、
実に様々な自分が
(自分の心が)
発生するのが
わかるだろう。
それらすべてを
反応本音
と言う。
発生した
様々な反応本音を
あるがままに
見つめれば、
自分という人間は
なんて豊かな
存在なのだろう、
と
誰もが実感できる
はずだ。
と同時に、
どのような
物事に直面しても、
何があっても、
揺るがずに
変わらない
自分自身も
確かに存在する
ということを
感覚として
得ることが
できるだろう。
それを
真本音
と言う。
つまり、
ちゃんと自分と
向き合い続ければ、
自らの
真本音と
反応本音の
両方を、
経験を積めば
積むほど
より理解することが
できる。
そういう人ほど、
自分を
自然に好きに
なれる。
いろんな
嫌な部分もあるが、
自分という人間は、
可愛らしいもんだ
と
思えるようになる。
すると
自分以外の
すべての人に対しても
同じように
捉えられるように
なる。
そういう人は
無邪気に
なっていく。
もちろん
良い意味でね。
経験を積む前
の無邪気さと、
経験を積んでも
積んでも
滲み出る無邪気さ。
両方とも
本物の無邪気さ
だけど、
後者を醸し出して
いる人を
拝見すると、
やはり私は
感動するね。
人としての
豊かさを
体現しているから。
おかげさまで
私の周りには
そういう人が
とても多い。
おいおい、
もうちょいと
大人になれよ、
と
冗談めかして
突っ込みたくなるほど、
みなさん
無邪気だ。
かといって
多くの人は
企業経営者なので、
ちゃんと
責任を負いながら
生きている。
人間って
凄いもんだな、
と
いつも
思えるね。
つづく
私の意識は
常に、
未来を
見つめている。
「未来」
というのは、
2046年のことだ。
つまり、
今から27年後の
未来だ。
そこで
何が起きているのか?
どんな
未来が築かれているか?
などを
予測している
わけではない。
ただ、
「見つめている」
のだ。
潜在意識の部分も
含めれば、
私は24時間常に
そこを
見つめ続けている。
その状態で、
「今」
に何をするか?
を
すべて決めている。
「すべて」
だ。
・・・・・・
ビジョンとは
そういうものだと
私は思っている。
常に自分が
見つめ続ける未来
が、
ビジョンであり、
それは、
「今」と共に
ある。
ビジョンと今は
つながっている。
というよりも、
「一つ」に
なっている。
実在のレベルでは
そういった状態に
なれて初めて、
それはビジョンと
なる。
27年後の未来は
私からしてみれば、
あまりにも
「近い」のだが、
しかし、
その時に世の中は
こうあってほしい、
という
私の願いからすると、
今の状態は
あまりにも
そこからは遠い。
いったい
どうやってそこまで
たどり着けば
よいのだろう?と、
顕在意識の私は
ついつい思って
しまうのであるが、
もちろん
ビジョン実現の
自信も
ないのだが、
しかしそれでも
私は確信を持って
「今、ここで
自分が何をするか?」
を
決め続けている。
そこには
一切の迷いは
ないし、
この「一歩」が
27年後に直結し、
「一つ」になっている
ことも
感覚で理解できる。
だから
「状態」としては
極めて遠いのだが、
「進んでいる実感」
と
「このまま行けば
たどり着ける、
という根拠のない
確信」
は、
常に感じ取れている。
これが
「真本音で生きる」
ということなのだと
思う。
私は
「今やってはならない」
と思うことは、
何がどうあっても
決してやらない。
そして、
「今すべきだ」
と思うことは、
何がどうあっても
必ずやる。
その一瞬一瞬の
選択の中で
ここにいる。
・・・・・・
こういった感性は
すべての人が
もともと持ち合わせている
ものだ。
真本音度合いが
高まれば、
皆、思い出せる。
だからそうしよう
というのが
私のサポートの根幹に
くるが、
この感性を
サポートなしでも
最初から充分に
持ち合わせている
若い人達の存在を、
最近は
特に多く感じるように
なった。
ただしその
「若い人達」というのは、
現時点では
「幼児」と言われる
人達だ。
私の息子も
含めて、であるが。
この感性を
今の世の中が
潰してしまう可能性は
残念ながら
大いにある。
大人達が
子ども達を
「未熟なもの」として
思い込み、
「すべてを教えなければ」
とするところから、
感性潰しは
始まってしまうだろう。
もちろん、
彼らは未熟だ。
いろいろ、
教えなければ
ならない。
私の息子に関しても、
毎日、
叱らなければならない
ことばかりだ。
それはそれ。
しかし、
彼らの感性を
潰してはならない。
彼らは
「ビジョン」を持ち
ここにいるのだから。
いや、本当は
すべての人が
そうなのだが、
特に彼らのビジョンは
顕在意識に非常に
近いところにある。
ちょっとのきっかけで
それが浮上し、
「自分は何のために
生きればよいか?」
を、
彼らは明確に
知るだろう。
その感性を
我々大人が
潰してはならない。
大人達が
彼らに
「教えるべきこと」
と、
逆に彼らから
「学ぶべきこと」
の
区別をつけること。
これが
今の世の中の
最重要テーマの一つ
であり、
そのためにも私は
大人達の
真本音度合いを
高めるサポートが
必須だと
思っている。
つづく
私は、
真面目さ、って
大事だな、
と思う。
結局最後は
真面目な人が
急成長している。
ウサギとカメで
言えば、
カメタイプで、
毎日真面目に
コツコツと
進む人ほど、
ある瞬間に
まるでウサギのように
大ジャンプしたり
する。
とは言え。
真面目な人は
ちょっと力が
入り過ぎかな。
最近、
新たなクライアントさんが
何人も増えた。
真面目な方が
多い。
すると、
コーチングなどでの
私の問いかけに
一生懸命答えようと
してくださる。
一生懸命、
心をオープンにしようと
してくださる。
そして、
一生懸命、
行動をしようと
してくださる。
それは私は
とてもいいなぁ、と
思いながら
拝見しているのだが、
私のコーチングを
重ねていくと、
なぜかみんな
どんどん
いい加減になっていく。笑
「なぜか」
・・・じゃないな。
「必然的に」
だな。
いい加減というのは
もちろん良い意味で
だ。
いつも
100%の力を
出そうとしている
真面目な人が、
コーチングを
続けていくと、
そうではなくなる。
要するに、
力を抜けるように
なってくる。
その代わりに、
「ここぞ!」という
時には、
1000%の力を
発揮できるように
なる。
これが、
「真本音度合いが高まる」
ということだ。
ただし。
こういったお話を
すると、
「そうか、真面目じゃ
なくてもいいんだ」
と、
不真面目な人はすぐに
考える。笑
そうじゃない。
真面目な人だから
こそ、
いい加減になった時の
パワーの発揮が
凄いのだ。
まずは基本、
真面目な方が
いい。
真面目な人が
私は好きだし。
私のクライアントさんで、
いつも
とてもしっかりと
「反省」をされる
人がいる。
その人は
いつもは力を抜いて
いる。
自然体だ。
でも、
日々しっかりと
自分を振り返り、
反省をすべき
ところでは、
とことん反省し、
次に活かしている。
その姿を
拝見していると、
この人は本当に
真面目だなぁ、
と感動する。
真本音度合いの低い
不真面目な人には、
「まずは真本音度合いを
高めなさい」
とは、
最近はやらない。
「真本音度合い云々
よりも、
まずは毎日
真面目に生きなさい」
と
やることにしている。
ちゃんと日々、
やることを
やる。
これはやっぱり
基本だと思う。
そういった人の
真本音度合いアップの
サポートを
私はしたいと
思っている。
つづく
私達は人間だから、
いろんな心が
ある。
この心は好きだが、
この心は嫌い。
できれば
こういった考え方に
縛られる自分からは
卒業したい。
こんな風に感じて
こんな風に思ってしまう
自分は
本当に嫌だ。
・・・というように、
自分の望まない心達は
私達の中には
無数に存在するだろう。
傲慢な自分。
情けない自分。
後ろ向きな自分。
いい加減な自分。
勝手な自分。
・・・いろんな自分が
いる。
もう、
いいじゃないか。
そういった自分の
ことで
悩み続けるのは。
そういった
気に入らない自分を
どうにかこうにか
しながら
消そう、とか
コントロールしよう、とか
そういったことで
悩み続ける時間は
もう、
いいじゃないか。
私達は
人間なのだから。
いろんな心が
あるのが
人間なのだから。
あるがままで
良いではないか。
それよりも。
もっと大事な
ことがあるだろう?
私達が
すべきことが。
正確に言えば、
本当に心の底から、
魂から
したいことが。
自分との
約束が。
人生の
目的が。
「こんな自分だから
まだダメだ」
「まだまだ未熟だから
私は進めない」
「もっと精進してから
人生の目的に
向かうんだ」
という声を
本当によく聴くが、
はっきり言うが、
その時点でもう
間違ってるよ。
自分がここにいる
ということを、
人間として
ここに存在している
ということを、
もっと
毅然と見つめて
ほしい。
心は、
いろんな心が
発生するようにできている。
だから、
どんな心が
発生したって
それでいい。
それと
「進めない」
というのは
まったく別のことだ。
自分に自信が
ないから
毅然とできない。
というのも
本当はまったく
関係のないことだし、
自分が嫌いだから
毅然とできない、
というのも
関係ないのだ、
本当は。
私達は
今すぐにでも
毅然と立つことは
できるんだ。
毅然と
進むことは
できるんだ。
その事実から
目を逸らし続けている
その姿勢こそに
大きな問題が
あるんだ。
あなたの中に
揺るがぬ願いが
あるだろう。
それは、
心がどのような状態に
なったとしても
関係なく
揺るがないままで
あるだろう。
それを
大事にしようよ。
それが
本来のあなた
なのだから。
心は、
大事にしよう。
大事にする、
とは
「どんな心があっても
いいや」
と
いい意味で諦める
ことだ。
すべてを
存在承認することだ。
あるがままに
すること。
それが心を
大事にするという
こと。
それさえ
できれば、
進め!
進みたいのだろう?
なら、
進め!
毅然と。
つづく
半世紀以上も
生きていると、
1分1秒という
一刻一刻の時間が
とても
愛おしくなる。
そんな感覚
わかりますよね?
私は時々、
何もせずに
目を瞑り、
1秒1秒の時間が
過ぎていくこと
のみを
感じるようにしている。
それ以外の
ことは考えない。
ただ
時間の流れのみ
を
見つめる。
すると
不思議な感覚に
なる。
そこに
「永遠」
を感じるのだ。
1秒という
時間の奥には
「永遠」
がある。
そこはまるで
無限の宇宙の
ようだ。
しかも
とてつもなく
神秘的だ。
その「永遠」は
真っ暗闇の
ように
感じることも
あれば、
白色に輝く
光の世界のように
感じることも
ある。
どちらが良い悪い
ではなく、
どちらも
そこにはあるのだろう。
そして
その「世界」を
この1秒に
込めている。
「永遠」を
込めている。
これが
私達の本来
なのだろう。
私達は
1秒という永遠
を
生きている
存在なのだ。
この3次元の
世の中では、
1秒という時間は
過ぎてしまえば
消えていく。
しかし本当は
消えては
いない。
その1秒は
「永遠」の中に
入るのだ。
いや、
もっと正確に言えば、
その1秒は
「永遠」から
やって来て、
「永遠」に
帰っていくのだ。
言葉にすれば、
そんなようなことを
感覚として
得るわけなのだが、
そうなるともう、
この1秒が
とてつもなく
愛おしくなる。
そして当然ながら、
最高の1秒に
したいな、と
思うし、
それが
できている実感は
恐らく人間としての
最高の幸せの
一つだろう。
だから私はよく、
時間の流れ
のみに意識を
向け、
そこに「永遠」を
感じたら、
その視点で
今からの予定を
立てる。
この後の時間を
何のために
どのように
活用するか?
すると、
一日はとても
輝くものに
なるんだな。
つづく
夢を観た。
私はアスファルトの
道を
歩いていた。
見上げる空には
低い雲が
立ち込めていた。
重い雲だなぁ、
と
思っていると、
向こうの方に
一部だけ
輝いている箇所が
あった。
雲が輝いている?
何だろ、あれは?
そう思い、
そちらの方に
走って行った。
すると確かに
そこは、
雲が金色に
輝いていた。
その輝きに
地面も
染まっている。
しかし
ほんの一部の
箇所だけだ。
すげーなぁ、
こんなことが
あるんだな。
と、
金色の雲を
見上げた。
すると私の体は
上昇を
始めるではないか。
私はその
金色の雲に
吸い込まれて
行った。
雲の中に
入る。
金色の中に
入る。
さらに
上昇をする。
すると、
雲が途切れた。
雲の上の
空に出たようだ。
するとそこには
まばゆいばかりの
太陽が
あった。
・・・と思ったのだが、
違った。
なんとその
輝きは
人だった。
一人の人が
空中に
浮かんでいる。
そしてまるで
太陽のように
輝いていた。
私は
その人のところに
行きたくなった。
すると私の体は
その人の方向に
スーッと
上がって行く。
しかし、
その輝く人も
まるでそれが
合図であったかの
ように、
上昇を始めた。
せっかく私が
上昇しているのに、
その人も
上昇して行く。
だから
追いつけない。
おいおいおい、
ちょっと
待ってよ!
と、
私はその人に
向かって叫んだ。
でもその輝く人は
お構いなしに
上昇を続けた。
どれだけ
上昇を続けても
空は途切れなかった。
まるで
永遠に続くかのようだ。
いったいどこまで
この空は
続くんだ?
と思ったら、
その輝く人が
初めて
口を開いた。
「人が上昇しようと
思い続けるならば、
この空は
永遠に続くんだよ」
へぇ、そうなんだ。
すると、
その人はさらに
言った。
「それって
宿命だよな。
でもとても
素敵なことだと
思わないかい?」
まぁ確かに
そうだな。
でもさ、
いい加減、
止まってくれないか?
どれだけ上昇しても、
君に
追いつけないじゃ
ないか。
「何言ってんだ、
君だって
私と同じスピードで
上昇してるじゃないか」
あっ、なるほど。
知らぬ間に
私は凄いスピードで
上昇を続けていた。
その輝く人と
同じスピードだ。
その輝く人に
追いつくことは
できないが、
距離が
広がることも
ない。
おーなかなか
これは気持ちが
いいなぁ。
・・・と
思ったところで、
私はふと
自分がもとの
地面に立っていることに
気がついた。
あれ?
俺はさっきの道に
いるな。
今のは幻だったかな?
とは思ったが、
しかし
先ほどよりは
明らかに
私の気分は爽快だった。
しかも、
大地を踏みしめる
その感覚には
さっきとは
比べ物にならないくらいの
安定感があった。
地に足がついた、
という表現が
ぴったりだ。
まっいいか。
と思い
私は道を
歩き始めた。
歩き始めると
さらに自分の
安定感を覚えた。
おーさっきよりも
随分と
気持ちがいいぞ。
私は
気分良く
鼻歌交じりに
歩いた。
すると。
いつの間にか、
雲がなくなっているのに
気がついた。
で、わかった。
なんだ、
さっきの重い雲は
俺が創り出して
いたのか、と。
そしてさらに。
ふと、
空にいる自分を
感じたのだ。
あれ?
俺、今、
空にもいるぞ。
そして
今もまだ
どんどん上昇を
続けている。
しかも、
こうして
この大地にも
立っているな。
そうか、
両方の俺が
いるんだ。
と
わかった。
さっきの俺も
俺だ。
ここにいる俺も
俺だ。
そうか。
人は
両方の自分が
いるんだ。
両方の自分を
感じれば、
こんなにも
気分がいいんだ。
さてと。
道の続きを
行こうか。
私はますます
気分良く
道を進んだ。
青空の下の
道を。
つづく
自分が
すべての中心である
という考え方は
一見、とてもワガママで
自己中心的で
危険な感じも
するかもしれないが、
一度、
本気でそう思って
みることを
お勧めする。
「すべての中心」
とは
本当にすべて
の中心だ。
自分が社長とか
社員とか
関係ない。
自分は
世の中の中心であり、
社会の中心であり、
地球の中心であり、
宇宙の中心である、
と
真剣に全力で
思ってみるのだ。
その気持ちで
一日を
過ごしてみて
ほしい。
すると
普段当たり前だと
思っている物事が、
どのように
変わって見える
だろうか。
試してみて
ほしい。
中途半端な
中心意識は
私は
害ばかりが
あるように思うが、
本当に真剣に
自分が中心
と思い、
責任を持って
行動することは
特にこれからの
時代においては
とても大切なこと
ではないか。
とはいえこれは
理屈ではない。
「感覚」の
話だ。
その「感覚」を
一日とは言わず、
毎日体験してみて
ほしい。
・・・・・・
なぜこんなことを
書くのかと言えば、
「実在」のレベルでは、
すべての人が
「中心」だからだ。
なぜなら
すべてが「一つ」
であるから。
なんか久しぶりに
こういうことを
書いている
気がするが、(笑)
高い次元では
すべてが一つであり、
それが
分離して今の
私達がある。
分離してはいるが、
すべての人が
「私が中心だ」
と真剣に生きることで、
すべては
調和する。
というのが
真実だ。
あの人が
こうだから、
私はこうなって
しまう。
会社が
こうだから、
私はこれしか
できない。
すべては
○○のせいだ。
・・・というのが
なくなると、
世の中は
グッと変わるだろう。
ただしこれは
精神論でも
あるべき論でも
ないし、
理屈でもない。
体験から
入り、
「思い出す」しか
ない。
本来の私達を
思い出すしか。
だから一度ぜひ
やってみて
ほしいな。
つづく
人には皆、
エネルギーの流れ
というものがある。
そのエネルギーは
その人その人で
異なるもので、
それがその人の
個性の源となる。
人とお会いする時、
私はいつも
そのエネルギーを
感じるようにする。
私が感じ取るのは、
エネルギーの大小
というよりも、
今のその人にとって
そのエネルギーが
必要な循環を
続けているかどうか?
だ。
健全な循環を
感じ取れれば、
ひとまずは
安心。
あとはその循環が
よりスムーズに
行くように
サポートする。
もちろんこういった
話そのものを
することはない。
ただ、
コーチングをすることで
循環力(あえて言えば)
が増すようにする。
これが私の
コーチングサポートの
本質だ。
これを氣功的な
やり方ですることも
できるが、
あえて私は
それをしない。
それよりも私は
「言葉の力」
を使う。
言葉というのは
やはり凄いのだ。
その人にとって
今、最も必要な
言葉を使い、
その人にとって
今、最も必要な
問いを投げる。
そして、
その人にとって
今、最も必要な
メッセージを贈る。
これをすることで、
その人の
エネルギー循環は
明らかに変化する。
もちろん、
的確ではない言葉
を投げることで
循環が滞ることも
ある。
良きにつけ
悪きにつけ
言葉の威力は
大きい。
その人にとっての
良い言葉を選び、
それを投げ、
その人が
自分自身と
しっかりと向き合う
場を創ることで
エネルギー循環を
健全で
最善のものと
する。
私はこれが
コーチングの本質だと
思っている。
そして当然、
それは
自分で自分に対しても
行なうことは
可能だ。
それを私は
セルフコーチング
と呼んでいる。
つまり
セルフコーチング
とは、
自分自身の
エネルギー循環を
マネジメントすること
だ。
これができると
人生も仕事も
劇的に
楽になる。
実は先日の
10連休。
私は恐らく、
社会人になってから
初めてと言っても
よいくらいに、
のんびりと過ごした。
仕事はちょくちょく
あったのだが、
家族との時間を
充分に取ることが
できた。
自分自身は
充分に休息をした
と思っていたのだが、
10連休が終わって
いつものような
毎日が再開されて
気づいたのだ。
なんだ、俺、
いつも10連休のような
もんじゃんか、
と。
何も変わらない
のだ。
もちろん、
仕事をすれば
予定はどんどん入って
くるし、
緊張もするし、
疲労もする。
しかし、
だからと言って
エネルギー循環が
変わるわけではない。
私は常に
自分のエネルギー循環を
最善のものに
できている。
セルフコーチングを
毎日、しっかりと
行なっているからだ。
だから
とても楽なんだ。
もちろん
休日はなきゃいけない
と思っている。
体は休めた方が
いい。
仕事以外の楽しみも
あった方が
いいだろう。
人生をより豊かに
するために。
でも、
休日も平日も
自分のエネルギー循環は
変える必要はない。
いつも毎日、
最も居心地の良い
エネルギー循環に
なるように
整えておくこと。
これこそが、
人生を楽しむ
根幹にくるものでは
ないかと
最近、
特に強く思うな。
つづく
昨日、このブログで
直観について
書かせていただいたが、
直観のお話をすると
よく勘違いされてしまうのが、
「そうか、じゃあ
あまり考えなくて
いいんだ。」
という誤解だ。
いやいやいや、
もっとちゃんと
考えようよ!
と言いたくなる。
私のクライアントさんは
経営者の方々が
多い。
経営者は
しょっちゅう会社の
ことばかりを
考えている。
24時間、
考え続けている
人が多い。
そういう人にこそ
私は言うのだ。
「直観を
大切にしましょう!」
と。
それだけ
真剣に考えている
人にこそ、
本来の直観は
働く。
考えもしないで、
「直観で行けば
いいんだ」
とやっている人の
多くは、
・直観
と
・単なる思いつき
の
区別がついて
いない。
だから結構、
思いつきのままに
行動して
大変な目に合う。
思いつきとは、
反応本音レベル
の発想だ。
それは直観に
似てはいるが、
実に浅い。
しかもその多くは
自分本位の発想、
自己満足の発想、
だ。
そういう人が
いれば、
私は
「まずはしっかりと
考えよ」
と「指導」する。
人生を
仕事を
安直に考え過ぎ
だ。
困ったことに、
そういう人ほど、
「真本音が、真本音が」
と
言う傾向がある。
「お前が言うな。
それよりもっと
ちゃんとしっかり
考えろ!」
と
私は言う。
まずは、
自分で考え、
自分で決め、
自分で行動し、
自分で成果を出す。
これがやはり
自律の基本だ。
これを
やり続けながら、
試行錯誤を経ながら、
人は初めて
真本音とか
直観とかを
知っていく。
それもせずに、
真本音とか
直観とか
語らないでほしい。
なんか今日は
文句のような
文章になっているが、
残念ながら
今は、
グングン最高速で
進む人が
増えている一方で、
まるでその反動の
ように、
止まってしまう人も
増えている。
そして
実に残念だが、
止まっている人
ほど、
自分が止まっている
という自覚がない。
自分はちゃんと
やっている。
自分は
真本音で進んでいる。
と
思い込んでいる。
でも、
現実をよく
観てほしい。
本当に自分の
望む現実が
できているか?
「もうすぐできる
はずだ」
ではダメ。
ちゃんと日々、
望む現実が
生まれ続けて
いるか?
進んでいる
実感は
本当にあるか?
よ〜く
客観的に
自分を振り返って
ほしい。
自分を
大切にできるのは
まずは
自分自身なのだから。
「大切にする」
第一歩は、
「あるがまま」を
「現実」を
自覚する
ことだから。
つづく
心がざわめいて
いる時は、
私は一切の
決断をやめる。
止まる。
何もしない。
と
決めている。
何もしない、
というのは
現状のまま行く、
ということだ。
何も変えない。
と同義語だ。
極端に言えば、
惰性のままでも
いい、
ということだ。
私達は
特に重要な決断の
前では、
あーだこーだ、と
考えてしまう。
当たり前だ。
考えること自体は
良いことだし、
しっかりじっくり
考え尽くさねば
ならないが、
考えの中から答えを出す、
ということを
私は
一切、しない。
考えの中から答えを出す、
というのは、
根拠を求めて、
最も点数の高い根拠に
基づいた答えを出す、
ということに
なってしまうからだ。
企業でもビジネスでも
そういったやり方を
している人は
多いだろう。
しかし私は
それをしない。
何故ならば、
そこに最善の答えは
ない。
からだ。
ちょっと極端に
聴こえるかもしれないが、
実は、
そんなに極端なことは
言っていない。
私は、
すべての考えを
自分が
手放せるくらいまで
考えて考えて
考え尽くす。
人間、面白いもので、
そこまで考え続けると、
途中で
どうでもよくなる
瞬間が来る。
ある意味、
答えが出ないことへの
あきらめでもある。
開き直り、
とも言える。
本当にそうなると、
そこまで続けた
あらゆる思考を
私達は手放してしまう。
するとその直後に
やすらぎ
と
静寂
が来る。
その状態に
入って初めて、
「直観」
が来る。
その直観こそが
最善の答えを
運んできてくれる。
その多くは、
根拠のない答え
だ。
が、
根拠のない自信
が
付与されている。
つまりそれこそが
「確信」
というものだ。
多くの場合、
確信には最初
根拠がない。
根拠はだいたい
後付けだ。
人に説明するために。
根拠のない確信を
人に説明し
納得していただくために
思考を働かす。
そこでこそ、
考える
という行為は
本当に生きて来るのでは
ないかと
私は思っている。
それはともかく、
そういった確信は
私達に
パワーとエネルギーと
モチベーションを
与えてくれる。
そうしたら
それに素直に
動くといい。
だから私は
確信に基づいた
決断しかしない。
・・・・・・
以前は、
この過程に
随分と時間をかけて
いた。
例えば、
一つの答えを出すのに
1週間も2週間も
考え続けた。
長い時間をかけて
直観を待った。
しかし残念ながら
直観は
意図的に起こすことは
極めて難しかった。
しかし。
今は私はこれを
数分単位、
時には
数秒単位で
意図的に行なうことが
できる。
つまりは、
意図的に
直観を呼び起こすことが
できる。
私のコーチングは
すべてこれを
主体としている。
では、
それは私だけの力か?
と言うと
とんでもない。
これこそ、
私達人間の
誰もが持っている力
の一つだ。
その本来の力を
呼び起こすための
最短の道が
セルフコーチング
である。
正しく自分と
向き合い続け、
自分の心の中にある
ものを
あるがままに
見つめることが
できるようになると、
直観も確信も
毎日のように
浮上する。
むしろそれが
当たり前と
なる。
しかしそれが
ゴールでは
ない。
そんな自分になれて
初めて、
私達は
人生の目的にも
気づけるし、
そこに向かう
道を見出すことも
できる。
本来の人生が
スタートするのだ。
直観なくして
道はなし。
ただし、
直観と言っても
ただの思いつきでは
ない。
ただの思いつきと
直観を
区別できるように
なる必要もある。
そのためにも
セルフコーチング力が
必要だ。
つづく
あの人に向けた
その怒りは、
実は
自分自身に向けた
怒り
そのものだ。
人を許せない人は、
自分を
許すことが
できていない。
しかも、
自分を許すことが
できていないという
事実を
認めようとしない
人ほど、
その怒りは
増大し、
さらに人を
許せなくなる。
自分を許せ、
とは
言わない。
だが、
自分に向けた
その怒りを
自覚せよ。
その怒りは
刃となり、
自分自身を
グサグサと
刺し続けている。
その傷は
心だけでなく、
魂にまでも
及ぶことがある。
魂の傷は
あまりに痛く、
深い。
そうなるともう
自力では
立ち直れなく
なる。
しかし
そのような人は
多い。
急増
している。
・・・・・・
人はどうして
こんなにも
自分と
向き合わない
のだろう。
自分の心に
数え切れない
ほどの
蓋をするのだろう。
いや、
その理由は
わかるし、
感覚も
わかる。
かつての私も
そうだったから。
無数の蓋をして、
都合の良い部分
のみを見て、
それが
自分の心だと
思い込んでいた、
いや、
思い込ませて
いた。
しかし今なら
とてもよく
わかる。
それが
いかに苦しく
辛く
不自然なことか、
を。
・・・・・・
自分の中の
蓋を取り払うのは
コーチの役目
ではない。
それは
自分自身にしか
できないことだ。
頑なにそれを
拒否する人に
私は
何もすることは
ない。
何も
できないのだ。
他者によって
自分を
変えられたいかい?
絶対に
いやだろう。
誰だって
そうだ。
本当はね、
自分を変える
必要すらない。
本来の自分に
戻るだけだ。
自分自身の
手によって
自分を
本来の自分に
戻していく。
それだけの
ことだ。
それだけで
自分の心は
調和し、
人と人は
調和し、
組織は
調和し、
社会は
調和していく。
調和していないのは、
単純に、
自分と
向き合っていない
からだ。
それが
すべての悪循環の
始まり、なんだ。
つづく
本当は私達は、
実に見通しの良い
道に
立っている。
さえぎるものは、
何一つとして
ない。
霞みさえない、
濃い青空のもと、
穏やかな風を
受けながら、
伸びやかに
私達は
立っている。
しかしそれでも
人は
「何も見えない」
と
言う。
「自分の道が見えない」
と
言う。
目を
閉じている
からだ。
もしくは、
目隠しを
し続けているから、
もしくは、
相当に分厚いフィルターの
眼鏡を
かけている、
からだ。
どれだけ気持ちよく
どれだけ安定した
道でも、
目を閉じていれば
進むのは
怖い。
当たり前の
こと。
だから、
目を開ければ
いい。
でも、
開け方が
わからない。
残念ながら、
そんな人達が多いのが
今の世の中だ。
そこで
大半の人が
とってしまう方法は、
目を閉じたまま
上手く進もう
と
すること。
目を閉じたままで、
どちらの方向に
どのように
進めば良いか?
を
他者から
教えてもらったり、
アドバイスを
もらったり。
目を閉じたまま、
自分の手を
引っ張ってくれる人を
見つけ、
その人に
依存したり。
一生、
目を閉じたままで
いい、
と
思っているようだ。
もしくは、
一生、目を開けることは
できないと
思い込んでいるか。
もしくは、
すでに自分は
目を開けていると
思い込んでいるか。
今、
まだ自分は
閉じているという
自覚をすることが
第一かな。
自覚できれば
開けたくなる。
開けたくなったら、
その自分の
想いに、
素直になることだな。
そうなれば
あとは
方法論だ。
ただし、
何かをちょっとやって
すぐにパッと
開くものでは
ない。
開くには、訓練が
必要だ。
毎日毎日の
地道な習慣が
必要だ。
その方法を
私は
セルフコーチング法
と
呼んでいる。
自分が
自分自身の
目を開かせるために、
自分を
サポート
し続ける。
そして
目を開くことが
できたら、
次は、
進むための
サポートに入る。
それも
セルフコーチング。
自分の最大の
コーチは
自分自身。
みんなが
そんな状態に
なれればいいな、
と
思う。
そして
自分で自分を
コーチできるように
なれば、
その人は今度は
他者を
コーチできるように
なる。
他者に
セルフコーチングを
教えることが
できるようになる。
私は世の中に
本物の力を持った
コーチが増えることを
切に望んでいるが、
そのためには
やはり、
この順番が
大切だな。
つづく
人生の分岐点が
観えるかな?
これから
あなたの道は
いくつに
分かれているだろう?
ちゃんとそれを
観るんだよ。
そこに
分岐があるのに
それを認めず、
単に惰性のみで
進むのは
絶対にやめて
ほしいんだ。
なぜなら、
この分岐地点まで
来れたのは、
あなたのこれまでの
誠実さと努力の
成果だから。
やっとここまで
来れたんだ。
ここからが
本番だ。
だから、
ちゃんと自らの
選択肢を
自ら見つめ、
真本音で決めて
ほしい。
人生に
正解はない。
自分の正解は
自分で
決めるんだ。
そのためには
ちゃんと
問い
と向き合うことだ。
私には今、
どのような選択肢が
あるだろうか?
そして私は
どの選択を本当は
したいのだろうか?
と。
大事な
時間だ。
今は。
しっかり
自分自身と
向き合う時だ。
つづく
昨年の9月に
初めて開講し、
かなりのご好評を
いただいた
『ザ・セルフ』
という
セルフコーチングに
特化した講座を
もう一度、
開講しようと思う。
第2期ということに
なるかな。
第1期の皆さんは
随分と
人生を加速された。
この講座の受講生さんは
日々の習慣として、
毎朝、自分自身への
「今日の問い」
を自ら発想する。
そういった宿題を
出すのだが、
これが実に良い。
毎朝、皆さんの
「今日の問い」
をSNSのグループに
アップしていただき、
それを私が
「真本音から出ている
問いかどうか?」
をチェックする。
これを
毎日続ける。
第1期の講座は
1月末には終了
したのだが、
受講生の皆さんからの
「今日の問い」の
アップは、
いまだに自主的に
続いている。
私がチェックなど
しなくとも、
皆さん、毎日
真本音の問いを
アップされている。
その問いを
一日、自分に投げながら、
一つ一つ丁寧に
「答え」を
見つけていく。
真本音の問い
なので、
必ず真本音の答えが
見つかる。
これを毎日
続けるのだ。
そりゃ、人生も
変わるわなぁ。
第2期は、
第1期で得た気づきが
随分とあるので、
さらにブラッシュアップされた
講座となるだろう。
とは言え、
今日その打合せを
初めてしたので、
準備はこれからだ。
第1期の際にも
感じたのだが、
この講座は私の
ライフワークの一つに
なると思う。
この講座で
様々な人達と
出会っていきたいな、
とも思う。
セルフコーチングが
すべての始まり。
・・・以前から
そんな風には思って
いたし、
私の人生も振り返れば、
セルフコーチング力の
アップによって
展開されてきた。
これがなかったら、
今のお仕事は
こんなに20数年間も
続けられなかった。
間違いなく。
今、改めて
セルフコーチングが
すべての始まりだったなぁ、
と
思う。
実は昨日、5月9日は
私にとっては
記念日。
17年前の昨日、
私のセルフコーチング力は
一気に飛躍した。
それにより、
「真本音」という
概念の発見につながり、
私の企業サポートの
スタイルも
根本から変化した。
それとともに
私の人生も
根本から変化した。
セルフコーチング
とは、
自分と向き合うこと。
「本来の自分」
と向き合うこと。
これなくしては、
「自分の人生」
にはならないね。
つづく
あまりに速いスピードで
前に進むと、
見えなくなってしまう
景色がある。
例えば、
鈍行電車では
よく見えていた景色も、
新幹線に乗れば
見えなくなってしまう。
だから
鈍行電車が好きだ
という人は
多い。
人生の進み方に
おいても
同様だ。
その気持ちは
私はよくわかるし、
鈍行電車の魅力を
感じたいとも思う。
しかしあえて
言おうかな。
新幹線に
乗らなければ
わからないことも
実に多いんだ。
新幹線に乗ることで、
初めて
観えてくるものも
たくさんある。
それを
観てほしい。
感じてほしい。
それが
今の時代だ、
と。
しかも、
新幹線レベルの
スピードに乗ることが
できるようになれば、
逆に、
鈍行電車と同じくらいに
ゆっくりと進む
こともでき、
速く進むことも
ゆっくり進むことも
どちらも
可能となる。
つまりは
進み方の選択肢が
増える。
自由自在と
なる。
「私は鈍行でしか
行けないから、
鈍行電車でいい」
と、
最初から諦めている
人が
多過ぎはしないか?
まずは
自分なりの新幹線でも
よいではないか。
自分の限界の
一歩先を行く
スピードと
加速を
目指して
みないか?
つづく
人と向き合って
いる時に
いつも感じるのは、
言いようのない
幸福感だ。
実はそれは
誰と向き合っていても
同じだ。
例えば、
私のことを否定したり
非難する人と
向き合っていたとしても、
やはり
同じ幸福感を得る。
それは私が
人格者だから
ということでは
ない。
それが
「向き合う」
ということの
素晴らしさなのだ。
しかし恐らく
こういったことを
書くと、
「私には
よくわかりません。
たけうちさんだから
わかるんでしょ。」
と思う人も
多いだろうなぁ。
でもね。
はっきり言うと、
それは
違う。
もしこの幸福感を
得られないと
したら、
まだ「向き合い方」が
中途半端なんだ。
かといって
「幸福感を得るために
私はちゃんと人と
向き合おう」
とは
思わないでね。
そのような意図を
持てば持つほど、
向き合い方は
中途半端になって
いく。
良い向き合い方の
ポイントは
たったの二つだ。
一つは、
自分の意識を
しっかり相手に
向け続けること。
相手の表情や
息遣いや空気感
などが、
よ〜くわかるくらいに
意識を向け続ける
こと。
相手から
何を言われようが、
どんな会話になろうが、
それだけは
やめないこと、だ。
もう一つは、
自分の心の動きは
自由にしておく
こと。
つまりは、
心の中では
どんな心の声が
出ても、
どんな気持ちが
湧いても、
構わないんだ。
しっかり向き合う
ためには、
無心にならねば、
とか
心を白紙状態に
したり、
心の淀みを
無くして
純粋な自分でいよう、
などと
思わないことだ。
だってそんなの
無理だろう。
心の中は
何を考えていても
いいんだ。
と、それくらい
自分の心を自由に
しておく。
ただ、
意識のみを
相手にずっと
向け続けるんだ。
たったこれだけ。
これを本当に
しっかり
やってみてほしい。
実は私達は、
自分の嫌いな人や
苦手な人には
これを
やらない。
そりゃそうだ。
嫌いなんだから。
でも、
そんな人にこそ、
勇気を持って
やってみてほしい。
すると、
何かが大きく
変わると思うよ。
そして
「あるがまま」に
人を観る、
というのが
少しわかるかも
しれないね。
まぁこれも
意図しないで
ほしいけど。
面白いことに、
長年連れ添った
夫婦や家族ほど、
こういったことが
疎かになっている
ケースが
極めて多い。
身近な人、
大切な人には、
当たり前に
こういったことを
し続けたいね。
「向き合いたい」
というのは、
人の根源的な
本能の一つだと
私は
思っている。
人と向き合わない
人は、
どんどん心が
荒んでいく。
人と向き合う人は
常に
何かが満たされる。
だから
向き合おう。
ちゃんとね。
つづく
人生を進めている
つもりになっていても、
実は
まったく進んでおらず、
同じ場所で
足踏みをし続け、
足踏みをすることで
汗をかき、
汗をかくことで
「私は頑張っている」
と
自己満足している
人は、
残念ながら
とても多い。
以前にもよく
書かせていただいたが、
成長には
2種類があって、
それをあえて
名付けると、
・進化
・膨張
となる。
「進化」とは
次元を高めること。
「膨張」とは
同じ場所で
規模や能力など
のみが
大きくなることだ。
単なる膨張を
しているだけで、
満足をしている人が
多いのが
今の社会だ。
私は、
膨張のことを
成長とは
思っていない。
本来の成長とは
進化があっての
もの。
そして、
進化のないサポート、
つまりは
膨張のためだけの
サポートは
一切やらないと
決めている。
しかし
とても残念なことだが、
進化など
どうでもいい。
とりあえずは、
膨張さえすれば
それで
いいではないか。
と
思っている人は
とても多い。
経営者も
含めて。
注意していただき
たいのは、
能力の成長
も、
それのみであれば
膨張である
ということだ。
言い換えれば、
実力のみの成長
は
単なる膨張だ。
以上を踏まえた
上で
あえて断定すれば、
今の若者の
何割かは、
進化への欲求が
極めて高い。
逆に言えば、
単なる膨張に
対して
やりがいや生きがいを
感じなく
なって来ている。
膨張のために
頑張れ!
を言われても、
無気力・無関心に
なる。
私は、
登校拒否になって
しまっている
未成年者のサポートを
させていただくことも
あるが、
彼らの何割かは、
(本質的には)
膨張のみを
強いろうとする
社会に対しての
拒絶感を持っている。
しかし
そういった彼らでも、
進化を感じられる
物事に対しては、
途端に
エネルギーを
発揮したりする。
進化に対しては
苦労をしてもいい。
どころか、
進化のために
努力や苦労をしたい!
と
望んでいる人は
多い。
しかし、
それが一体
どういうことなのか、
どうすれば
いいのか、
が
まったくもって
わからない。
大人達は
そこのところを
何も教えてくれない。
だから
単なる無気力
無関心になる。
という状態だ。
もちろん、
そのような状態でも
私は
自らの人生は
自ら進むことで
拓いていくことが
重要だと思っている。
進化への欲求が
あるならば、
自ら動けよ。
とも思う。
しかし人は、
あまりにも
何もわからなければ、
何もできなくなってしまう
ものだ。
「守破離」という
成長の段階があるが、
彼らはまだ
(多くの若者はまだ)
「守」の段階だ。
例えば2歳の子供に、
「進化のために
自ら人生を創りなさい」
と言っても
ほぼ不可能なのと
同じだ。
ちゃんと彼らに
「教える」
ことのできる大人が
必要だ。
その役割を果たすのは、
これからの時代に
おいては、
私は
「企業」
だと思っている。
ビジネスや仕事を
通じて、
生活を成り立たせ、
その土壌の上で
進化を起こす。
そういった「企業」が
増えることこそが、
これからの時代を
創る若者達を
活性化させる
最も重要な方法だと
思っている。
逆に言えば、
そういった「企業」が
増えなければ、
若者達の本来の力は
発揮されない。
若者達の本来の力
を発揮できる
「企業」
を増やさねば
ならない。
しかし、
現時点では
どうすれば進化できるか?
を明確に知る「企業」は
実に少ない。
だから、
そういった「企業」を
増やすことに
私は邁進する。
そしてこれは当然
私一人でできることでは
なく、
進化をサポートできる
「コーチ」を
増やすことも
必須だ。
そして
「コーチ」の
最低条件は、
進化とは何か?
どうすれば
進化できるか?
を知っていること
だ。
身をもって。
それを知るために
絶対的に必要なのが、
進化のための
セルフコーチング
だ。
進化のための
自分との向き合い方
であり、
進化のための
自己マネジメント
だ。
セルフコーチング法を
広めることが、
やはり
肝要だな。
つづく
荒れてるなぁ。
荒れてる人が
多いなぁ。
この1ヶ月間の
私の印象
である。
特にその「荒れ具合」は
令和に入った
この数日間で
極度に高まっている。
もちろんそれは
実在レベルの
話であり、
潜在意識レベルの
ことだ。
しかしこういった
感覚は、
時差を経て
現象化することが
多い。
一方で、
非常に安定度を
増し、
静けさを湛えている
人もいる。
しかし残念ながら、
割合としては
前者の方が
圧倒的に高い。
前者の中でも
さらにその
2割くらいの人達
からは、
大袈裟でなく、
阿鼻叫喚
の叫びのようなものさえ
私には
感じられるのだ。
その根本原因は、
自分自身への
ごまかし(誤魔化し)
だ。
・・・・・・
ごまかしの利かない
時代になった
と思う。
企業の活動に
おいても、
一人ひとりの人生に
おいても。
ごまかしごまかし
で何とかこなせて
来たことでも、
それが立ち行かなく
なって来た。
個人の人生に
おいて言えば、
自分の本当の気持ち
や
本当の願いに
蓋をしながら生きて来た
人も、
その蓋が外れかかって
いる。
外れかかっている
ことに
本人が気づいていない
ケースも確かに多いが、
外れかかっているが
故に、
モヤモヤ感が
半端なくなっている。
これまでは
「このまま行けばいいや」
とか
「このままの人生でいいや」
で
済ましてこれた
はずなのに、
どうしても、
「本当にこれで
いいのだろうか?」
という
自分自身への疑念が
拭えない。
本当はもっと
先に進まなければ
ならないのに、
それを
本当は自分は
とても強く望んでいるのに、
そうしない自分。
まぁでも人生、
こんなもんだからと、
これまでは
自分をある程度
納得させていたが、
それではもう
納得し切れない自分が
どうしても
ニョキニョキと
頭をもたげてしまう。
すると、
進まない自分に
対して、
自分自身が
非難を始める。
自分を
責め続ける。
自分を責める自分を
これまでは
なだめながら
来れたが、
もうそれでは
治まらなくなって
しまった。
そういった自分への
対応の仕方も
制御の仕方も
わからず、
ただただ途方に
暮れるだけ。
そのうちに、
自分自身の
堪忍袋の緒が切れ、
自分の心の中での
反乱が
ついに始まり、
心の中では
阿鼻叫喚が・・・。
という、
そんな具合の
ようだ。
・・・・・・
そんな中、
このブログを
お読みいただいている
ある方から
コメントをいただいた。
「たけうちさんは
まずは、
セルフコーチングを
広めてはいかがでしょうか。」
というご提言
だった。
その方とは確か、
10年近く前に
一度だけお会いした。
大変ありがたい
ご提言で、
私はその一文に
グッと来た。
この1ヶ月間の
多くの方々の
「阿鼻叫喚」を
感じるにつけ、
今のこのタイミング
でこそ、
セルフコーチングに
ついて、
もっともっと
しっかりと発信をしたり、
ご指導をさせて
いただく場を
増やした方が良いのでは、
と
今更ながらに
感じている。
最近はいつも
同じようなことを
書いている気が
するが、
今の世は、
そしてこれからの
世の中は、
「正解」がない。
これまで正解だと
決めつけていた
ことが、
そうではないことが
わかって来て
しまった。
「正解」は
自ら創り出していかねば
ならない時代。
これこそが
人としての
本質的な時代だ。
そんな時代だからこそ、
自分と向き合い、
自分の真本音を
把握、理解し、
それを行動に移し、
カタチとして
実現する人生や
仕事が
必要とされる。
私自身も含めて
できるだけ多くの
方々が
そうなれるように、
私は私の
できる最大のことを
していこうと思う。
つづく
私のビジネスパートナーと
打合せをしていて、
その時に話題に
上がったのだが、
「自分探し」を
するんだ、という
理由づけをして
現実逃避をし続けている
人がいる、
と聴いた。
皆さんは
どう思います?
そう言えば
昔、
私も「自分探し」とか
「人生の目的探し」
のために、
1年半〜2年ほど
旅に出た。
20代の中頃の
話だ。
海外のいろんな国々を
次の行き先を決めずに
周った。
そうしたら
確かに、
何年も旅をし続けて
社会復帰ができなく
なってしまった人を
何人も見た。
同じ日本人なのに
私を騙して
お金をもぎ取ろうと
した人さえいた。
一体この人達は
これからの人生、
どうするんだろう?
と
思って見ていた。
しかし私も
旅を続けるうちに
わかってきた。
すべてが
無感動になって行く。
最初は
新たな文化や
新たな国の人々に
触れれば、
新鮮さで感動
していた。
しかし、
徐々に何を見ても
何も感じなく
なっていった。
私の場合、
大学の先輩や
友人などの
結婚式があったので、
それを理由に
帰国することが
できた。
あれがなかったら、
私も
どうなっていたか。
私は旅に出て
思い知った。
人は
社会的生き物
だと。
ちゃんと社会に
属し、
そこで自分ならではの
役割を持ち、
きちんと
役割を果たしながら
「生活」を
成り立たせること。
この基盤なくして、
「人間」は
成り立たない
ということを。
だから私は
旅の途中から
無性に働きたい!
と思っていた。
そして
どうせ働くなら、
たくさんの人が
幸せになるような
仕事をしたい、
と
思った。
その想いが
日本に帰ってからの
「出会い」に
影響を与えた。
その「出会い」によって
今の私がある。
今は私は
旅はほとんど
しないが、
でももし旅に出るなら、
「仕事」の合間に、
「生活」の合間に、
出るのがベストだと
思っている。
私のクライアントさんで
しょっちゅう旅に
出ている人がいるが、
彼は、
本当に仕事をよく
やっている。
私の同業のような
仕事をしているが、
本当に
大活躍している。
彼は
「旅」を「仕事」の
栄養にしている。
というよりも、
「旅」も「仕事」も
「人生」の栄養に
している。
でも、
よくよく考えたら、
毎日、「仕事」を
しているにも関わらず、
私が旅で出会った
彼らのように
自分を失っている
人達は
たくさんいる。
「仕事」をしているにも
関わらず、
人生を放棄している。
こうなるともう、
「旅」がどうとか、
「仕事」がどうとか、
関係ないのかな。
自分の「人生」に
どう向き合うか?
なのかな、
と
思うようになったのが
20年ほど前だ。
「自分探し」。
自分探しは、
日常生活の中でしか
できないものだと
私は思う。
ちゃんと「日常」を
持ち、
「生活」を成り立たせ、
自分の「仕事」を
見つけ、
「役割」を一つ一つ
きちんと果たして行く。
その過程の中で
初めて
社会的生き物としての
自分が
観えてくる。
でも、
単純にそういった
環境に身を置くだけでは
自分探しは
できない。
じゃあどうすれば
いい?
という問いに
一言で答えるならば、
「真本音で日常に
人生に
仕事に
向かおう」
ということに
なるな、
やっぱり。
つづく
人はいろんなことを
法則化したがる。
こうすれば、
上手くいきますよ、
という
法則を見出したがる。
もちろんそれは
良いことだし、
原理原則を見出そう
という探究心も
人として、
人の本能として、
とても重要なものだと
私は思う。
私自身も
現場で様々な原理原則を
見つけさせていただいたし、
それを法則として
まとめもした。
しかし。
その、
自ら導き出した法則に
自らが
縛られてしまっては
意味がない。
とも思う。
あえて言うけど、
真実は
法則を超えた
ところにある。
と
私はずっと
思っている。
法則とは
真実に近づくための
ステップに
過ぎない。
もっと言えば、
法則にこだわるあまりに、
真実を見失う
ということが、
あまりにも
多過ぎはしないか。
今、
この世の中を
構成している私達は、
縛られ過ぎだ。
自分自身の
考え方に。
自分自身の
法則に。
もしくは、
他者の言う法則
に。
もっと
自由であっても
良いのではないか、
我々人間は。
変な言い方だが、
法則を超える
存在が
人間である。
とも
私は思うのだ。
それが
人間の本来。
その本来を
取り戻すために
私は日々、
自分も含めて
様々な人達を
サポートさせて
いただいていると
言ってもよいかな、と。
ただし、
法則を学ぶことは
大事。
先日、
あるクライアントさんが
とても素晴らしいことを
言われた。
「私は先人が得た
知恵を学ぶ。
どんどん学ぶ。
その上で、
私はさらにその先に
行く。」
自由に行けば
いいから
何も学ばない。
というのは、
極めて不自由だ。
本当に自由な
人であればあるほど、
真実を求めるために
どんどん学ぶ。
しかし
その学びに
囚われることは
ない。
法則は
学ぶが、
そこには
囚われない。
これが
これからの時代、
さらに
私達に必要なこと
ではないか。
つづく
人生に
奇抜なことは
いらない、
と
私は思う。
ただ、
今日という一日の
今という時に
自分がしようと
していることに対して、
一つ一つ
丁寧に
魂を込めること。
それを
し続けるだけで、
「思わぬ素敵な展開」
が、
次々に起こっていく。
とはいえ、
そういった結果を
期待している
わけではない。
やっていることは
一つ一つ
魂を込めること
だけだ。
でも。
「魂を込める」
という意味が
わからない
という人も多い。
「心を込める」
のと
「魂を込める」
のは
実は本質的に
異なることなのだが、
まぁここでは
あまり難しいことを
説明しようとは
思っていない。
魂を込めることが
わからないならば、
せめて
心を込めることを
するとよい。
一つ一つ丁寧に
心を込めていけば、
途中で
疲れてしまうだろう。
でも
それでいい。
限界まで
がんばってみて
ほしい。
実は、
魂を込める
というのは
まったく疲れない。
永遠に
できることだ。
でも私だって
最初からそれが
できたわけではない。
ある意味必死に
心を込め続けて来たから、
その限界がきて、
それでも心を込めようと
がんばったら、
ある時
ある瞬間に、
魂の込め方が
わかったんだ。
そんなもんじゃ
ないかな。
しかし。
今の若い人達の
何割かは、
「魂を込めよう」
と言うと、
「そうですね」
とへっちゃらで
返してくる。
わかってないのに
適当に答えている
わけではない。
本当に
わかっている
ようなのだ。
だから私の
真本音の話も、
あーだこーだと
説明を加えなくとも
「あぁなるほど」
と、
すぐになる。
そんな人が
増えている。
そういう人達と
関わっていると、
本当に
時代は変わったなぁ、
と
実感する。
令和にも
なったことだし、
本当に
これまでの考え方
や
これまでのやり方
を
変えようかと
思っている。
「ペーシング」という
言葉があるが、
これは、
ペースを合わせる
などの意味があるが、
これからは
最初から感性が
豊かな
若い人達にこそ
我々はペーシングすべき
ではないかと
本気で思っている。
彼らがいかに
伸び伸びと
社会において
成長・進化するか?
が、
これからの時代を
決定づける。
そのサポートを
することは、
コーチ云々ではなく、
我々世代の
役割ではないかと
強く思うし、
そう決めた。
つづく
私達は
生きていれば、
様々な混乱や困難が
目の前に現れるが、
それらに
揺らされる必要は
まったくない。
いや、もちろん
心は揺らされても
いい。
というか、
心は揺れる
ものだ。
自由に揺らせて
おけばいい。
かと言って
自分自身の軸
までをも
揺らす必要はない。
というか、
これも正確に言えば、
中心軸は
常に揺れることは
ない。
という事実を
自覚すればいい。
それが
真本音の中心軸
ならば。
(→【中心軸を持って進もう】)
・・・・・・
がんばって
それを維持しなければ
ならないのであれば、
残念ながらそれは
真本音ではない。
真本音とはもっと
大きく深く
圧倒的なものだ。
私達地球人から
見れば、
地球そのものと
同じくらいの
安定感。
それが
真本音だ。
ところが、
私達の意識は
常に、
反応本音の中に
埋没している。
喩えて言えば、
反応本音という
濃い雲の中に
入り込んでいる。
その中にいると、
周りは一面の
灰乳色だ。
何も見えない。
地球にいるのに、
それすら
わからなくなる。
だから
揺れる。
何も見えないから
私達は
揺れてしまう。
何度も言うが、
心そのものは
揺れてもいいが、
自分の存在そのもの
まで
揺らしてしまう。
自分の人生の
道さえ
揺らしてしまう。
見えない
からだ。
じゃあ、
この灰乳色の雲から
どう抜け出せば
よいか?
方法を教えてよ!
という声を
よくいただく。
もちろん
方法はある。
いくらでも。
でも、
肝心なことは、
その雲から
抜け出すことは
実は
いつでもどこでも
誰でも
すぐにできる
ということだ。
ちゃんと
意志さえ持てば。
しかし
雲の中にい続ける
ほとんどの人は
自ら望んで
その雲の中に
いる。
出ようと
しない。
コーチングなどの
サポートを通じて、
雲から抜け出す
直前まで行っても、
最後の一歩は
自らの意志で
進まねばならないのだが、
その一歩を
拒否する人さえ
たまにいる。
雲から抜け出し、
地球を見て、
自らの本当の中心軸に
沿った人生を
進めると言うのに、
そちらに
行こうとしない。
どうやら、
そういう人生は
面倒だと
思っているようだ。
雲の中でも何でも、
ある種の安定が
ありさえすれば、
一生このまま
行けばよいではないか。
というように
考えているようだ。
しかし残念ながら
一生そのまま
行くことは、ない。
なぜなら
その人自身の
真本音が、
それを許さないから。
私達には
人生の目的が
ある。
その目的を
果たすために
生まれて来た。
それは
自分自身との
約束とも言える。
真本音の中心軸とは、
その約束を
言語化したもの、
とも言える。
自分の中では
人生を進む上で
最も大切なものだ。
この中心軸に
沿った生き方を
するからこそ、
出会う人とも
出会い、
幸せな仕事も
幸せな家庭も
幸せな仲間も
できる。
何よりも
生まれて来た
満足感を
日々、
得続けることが
できる。
そしてそれは
やろうと思えば
誰もが必ずできる
はずなのに、
それをしない自分に
対して、
自分の真本音が
怒りまくるのだ。
つまりは、
自分で自分を
叱るようになる。
心の奥底で。
その怒りによる苦しみは
最初は麻痺を
しているかもしれないが、
ある瞬間から
その限度を超える。
あまりの
苦しさや、
あまりの
不安や、
あまりの
モヤモヤに
わけがわからなくなる。
そういった
自覚症状のある
人達が
今は急増している。
これからの時代は
まさしく
正解のない時代だ。
正解は
自らの意志で
自ら
創り出さねばならない。
つまりは、
自分の意志で
しっかりと雲から出て、
地球という大地に立って
歩み始めなければ
ならない時代だ。
だから
今こそちゃんと
自分を見つめよう。
自分の人生を
見つめよう。
つづく