私達の本質

 

「ここにしかないもの」

 

が、

ここにある。

 

この3次元の世界

における

存在とは、

 

すべてが

そういったものだ。

 

例えば「時間」は

すべて

分離されている。

 

「今」という

この時間は、

すべて分離され

「ここ」にある。

 

それが

積み重なっている。

 

だから、

0.1秒前の「自分」と

今の「自分」と

0.1秒後の「自分」も

 

本当はすべて

分離されている、

それぞれが

別個の存在だ。

 

ただ私達の

顕在意識では、

同じ存在が連続して

存在している

ように

感じられる、だけだ。

 

すべては

分離され、

 

すべては

今ここ

にしかない。

 

分離された存在

集積。

 

それが

この世界だ。

 

なぜ、こんなにも

「分離」をするのだ?

 

ここまで

徹底的に。

 

それは、

 

ここまで徹底的に

分離をしなければ

得られないもの

があるからだ。

 

分離の極致

まで行って初めて

手に入れられる

ものがある。

 

「分離」された

私達は

 

もともとの

「一つ」

に戻ろうとする。

 

分離の極致から

「一つ」への道は

永遠とも言える

長い道のりだ。

 

しかし

それをする。

 

「分離から一つへ」

向かうにあたり

発生する

エネルギーがある。

 

それを

「愛」と呼ぶ。

 

私達が得たいのは

これだ。

 

分離をしなければ

決して得られない

のが、

これだ。

 

私達は

「一つ」に戻ろうと

する存在だ。

 

愛というエネルギー

を発生させながら

「一つ」に戻る

ことで、

 

同じ「一つ」でも

これまでとは

次元の異なる「一つ」

になれる。

 

それを

進化と言う。

 

つまり私達は

愛のエネルギーを

発生させることで

進化する。

 

その

宿命、とも言える

意志と力と行動を

本能と言う。

 

私達はもっと

本能に素直に

生きた方がいい。

 

つづく

 

意識を向ける④

 

昨日の続きです。

(→ 意識を向ける③)

(→ 意識を向ける②)

(→ 意識を向ける①)

 

世界に意識を

向け、

 

世界から観た

自分に

意識を向ける。

 

これをずっと続けると

どうなるでしょう?

 

私はちょっと

不思議な体験を

した。

 

一言で言えば、

 

自分の中にも

「世界」がある

「わかった」

のだ。

 

そしてその

自分の中の世界は、

 

自分の外の世界と、

 

完全に

一致する。

 

・・・と。

 

もう一度、言おう。

 

自分の中の世界と

自分の外の世界は

完全に一致する、

 

ある瞬間に

理屈ではなく

感覚として

わかったのだ。

 

それを

「思い出した」

と言うと、

かなりピンとくる。

 

内側の世界と

外側の世界が

完全に一致して、

 

その境目にある

のが

「人間」。

 

するといったい

人間とは

何なのだろうか?

 

そんな疑問が

湧いた。

 

なぜ、

同じ世界が二つあり、

しかも

そこに境目が

あるのだろう?

 

何のために?

 

この疑問を持ちながら

私は日々の

コーチとしての活動を

続けた。

 

すると

また一つわかった。

 

私も含めて

ほとんどの人が

 

内側の世界と

外側の世界が

「一致していない」

と。

 

本当は

完全に一致するはずの

二つの世界が、

一致していないと。

 

そこに

境目があることで

二つの世界は

分離され、

 

分断され、

 

断絶している、と。

 

そしてそれにより

内側の世界も

外側の世界も

それぞれが

それぞれなりに

不調和を起こしている、

と。

 

その不調和により

さらに

二つの世界は

分離・分断・断絶度合いを

高め続けている、と。

 

本当は

二つの世界を

一致させれば良いのに。

 

たった

それだけの

ことなのに・・・。

 

そこでまた

ハッと気づいた。

 

二つの世界を

一致させること

こそが、

 

私達人間の

役割なのではないか。

 

二つの世界を

一致させることで、

 

二つの世界が

より調和する。

 

それをすること

こそが、

人間の役割なのでは、

 

存在意義なのでは

ないか。

 

そしてもし

二つの世界が

完全に一致できたら、

 

人間は

ただの境目ではなく、

 

世界そのもの

 

なれるのではないか。

 

そして

すべてが一つに

なれるのではないか。

 

それを我々は皆、

心の根底では

願い続けているのでは

ないか。

 

それが我々の

共通の願いなのでは

ないか。

 

そこから私は、

 

二つの断絶したもの

不一致になっているものを

一致させていく。

 

・・・その過程を

「進化」

と呼ぶことにした。

 

そして

そのために

我々人間が発する

エネルギー、

かつ

世界が発する

エネルギーを

「愛」

と呼ぶことにした。

 

そして、

 

愛のエネルギーを

高め、

進化に向かうための

 

その時その瞬間、

その人の発することの

できる

最大最高の

そして「最善」の意識を

 

「真本音」

 

と呼ぶことに

したんだ。

 

 

※この項終わり

 

ブログはつづく

 

拒絶しちゃうだろ

 

拒絶感

ですら、

 

真本音と結びつく

ことがある。

 

祈りと拒絶感の

融合だ。

 

するとそれは

驚くような展開で

 

「愛」として

発現することがある。

 

もちろん

意図してできる

ことではない。

 

私達は

「愛そう」

という意図と意志を

持つことはできるが、

 

本当に「愛」そのものが

発現するかどうかは、

私達の意図の範疇

にはない。

 

なぜなら「愛」とは

エネルギーだから。

 

そのエネルギーが

発するかどうかは、

 

私達の顕在意識が

調整できることでは

ない。

 

それよりも

普段の自分自身の

生き方と生き様こそが

 

それを左右する。

 

・・・・・・

 

嫌いな人を

愛することが

できるだろうか?

 

普通は

できないだろう。

 

「できます」

と言う人はむしろ

危うい。

 

それは

自己満足か自己愛に

陥っている可能性が

高い。

 

私達人間は

そんなにも

出来は良くない。

 

ということを

ちゃんと見つめて

おいた方がいい。

 

出来の良くない自分を

見つめることの

できない人は

残念ながら

「愛」というエネルギーは

あまりに脆弱となる。

 

それはともかくとして

嫌いな人を

愛そうとすることには

かなりの難しさが

ある。

 

ましては

拒絶感を手放すことは

なかなかに

至難のわざだ。

 

だから、

そのままでいい。

 

やはり、

 

そのままで

いいのだ。

 

ただ、

 

普段の自分の生き様

として、

常に真本音を大切に

するといい。

 

自分の願いや祈りと

今ここにおける

行動を、

結びつける努力を

続ける。

 

それを日々

大切にする人は、

 

いざという時に、

 

拒絶感すらが

真本音と結びつく。

 

真本音が

自分自身の拒絶感を

活用するのだ。

 

そして

その多くの場合は、

 

自分自身の

空気感として

その場で勝手に

発現される。

 

そしてその空気感は

お互いの関係を

癒していく。

 

それはもちろん

劇的というよりも

徐々に、だろう。

 

でもその

徐々に、

 

ある時ある瞬間に

ある境界を超え、

 

劇的な展開を

見せることも

ある。

 

それを期待しては

ならない。

 

でも、

地道にいくんだ。

 

人間としてね。

 

つづく

 

自分を責め続けたなぁ

 

そういえば

昔の私は、

 

いつもいつも

毎日毎日

ほんのわずかでも

材料を見つけては

自分自身を

責め続けていたなぁ。

 

何があっても

全部自分のせい。

 

自分が悪い。

 

自分に原因があり、

自分が直すしかない。

 

だから

今の自分ではダメだ。

ダメだ。

ダメだ。

 

もっと成長せねばダメだ。

ダメだ。

ダメだ。

 

こうあるべきだ。

 

こうすべきだ。

 

・・・と、

いついかなる時も

自分をがんじがらめに

していた。

 

責め続け、

自分を弱らせ、

ふらふらになっている

ことこそが

人生の修行であり、

 

それが人の成長だと

思っていた。

 

辛い人生

だったなぁ。

 

・・・・・・

 

恐らく、

その生き方のせいで

私のエネルギーは

98%くらいは

自分を責めることで

消費されていた。

 

あとのたったの2%で

前に進んでいた。

 

そんなんで

ちゃんと進めるわけが

ない。

 

はっきり言って

自分を責め続ける

というのは

自己満足でしかない。

 

しかし

そんなことはわかっていても

それでもしてしまう。

 

真面目な人ほど

そうかもしれない。

 

自立しよう。

 

自律しよう。

 

そう真面目に思う人ほど

その傾向が出るのかも

しれない。

 

物事を自分事として

捉えること自体は

大事なことだが、

 

それと、

自分を責めること

とは

まったく別のことだ。

 

・・・というのは

理屈ではわかって

いるんだけどね。

 

・・・・・・

 

今、私は

自分を責めるということは

ほとんどなくなった

と思う。

 

いつから

こうなれたのかな?

 

どうして

こうなれたのかな?

 

と考えると、

いろんな理由が

思いつく。

 

が、

本当に「このままじゃいけない」

「自分を責めていてはならない」

と思えたのは、

ある一つの事実を

知ったからかな。

 

何かと言うと、

 

自分を責める人は

知らず知らずのうちに

他人を責めている。

 

・・・という事実だ。

 

自分を傷つける人は

知らず知らずのうちに

他人を傷つけている。

 

・・・という事実だ。

 

これは

明確な事実。

 

自分だけを責めて

他人は責めていない

という人は

きっと一人もいない。

 

自分を責める度合いと

他人を責める度合いは

正比例する。

 

自分自身に

していることが、

そのまま

他人との関わりに

反映される。

 

これが真実だ。

 

だから私は

必死で自分を

愛することにした。

 

自己愛じゃないよ。

 

本当に自分を愛する

とは

どういうことか?

真剣に考えるようになった。

 

その後だな。

 

私が、『真本音』と

出会ったのは。

 

愛を突き詰めると

「真本音で生きる」

ということに

たどり着いた。

 

そして

真本音で生きることで

自分を愛せるように

なった。

 

すると

他人も愛せるように

なった。

 

それまでの自分は

「愛」をまったくもって

わかっていなかったことが

わかった。

 

そしてようやく

自分を責める

その苦しさから

抜け出せるようになった。

 

自分を責める

には

かなりエネルギーが

必要だ。

 

そのエネルギーを

すべて

愛に転換できれば

 

人生は本当に

変わるね。

 

つづく

 

なんでこんなに好きなんだろう

 

恋愛だけに

限らず、

 

人が人を

好きになる

 

というのは

とても尊いことだ。

 

それにしても、

 

『好き』

 

という感覚は

これは一体

何だろうね。

 

考えたことある?

 

本当に不思議な

感覚だね。

 

この感覚って

多分、

人間だけが持つ

ものではないよね。

 

動物もみんな

持っている

ある意味、

 

宇宙普遍

 

 

宇宙不変

 

感覚だね、

きっと。

 

これがあるから

私達は、

人生がとても

幸せなものになるし、

 

豊かなものに

なる。

 

似たものとして

「愛」

というのがあるけど、

 

愛とは

エネルギーだ

 

と私は

思っている。

 

バラバラだったものが

一つになろうとする

エネルギー。

 

でも、

「好き」という感覚は

それとはまたちょっと

違う気がするね。

 

「好き」と「愛」が

絡み合い

融合するとき、

 

なんか

実在のレベルでは

とてつもないことが

起きている

気がする。

 

これは

何だろうね。

 

それが

この世の中を、

宇宙を

動かしている

のではないかな。

 

・・・・・・

 

気がつけば、

 

とても

ありがたいことに、

 

私の周りは、

私が「大好き」な

人達ばかりである。

 

一緒に仕事をする

仲間も

お客様も

みんな

大好きな人達

ばかりだ。

 

今日は

◯◯さんに

会える。

 

明日は

△△さんに

会える。

 

・・・と

手帳のスケジュールを

見ているだけで、

幸せになる。

 

いつの間に

こんなに幸せな

毎日になれたのだろう?

不思議に

思う。

 

私は昔は、

人間が嫌いな

人間だった。

 

心の奥では

自分のことも

他人のことも

すべて

嫌いだった。

 

もし、

人生を

誰にも会わずに

生きることができるなら、

 

一生、

誰にも会いたくない、

くらいに

思っていた時期も

あった。

 

そんな私が

いつの間にか、

人間が

大好きになっており、

 

そして

大好きな人達と

一緒に進んでいる。

 

なんでこんな現実が

起きているのか?と

最近は特に

不思議に思うのだ。

 

もちろんそれは、

真本音で生き続けた

という結果である

 

というのは

わかってるんだけど、

 

そうじゃなくて、

何と言うかな、

 

そうそう、

 

もっと根源的な

もの、

 

「好き」という

感覚の奥にある

根源的な何か、

 

それを私は

理解したい。

 

そのためにも

私は

もっともっと

この

 

『好き』

 

という感覚を

大事にしようと

思う。

 

この

あまりにも

人間的な

気持ちをね。

 

つづく

 

それは言い訳だ

 

人生に

言い訳は要らない。

 

ところが

言い訳ばかりを

している人は多い。

 

誰に対して?

 

自分に

対して、だ。

 

心の中は

言い訳の宝庫。

 

常に

自分で自分を

納得させようと

言い訳を続ける。

 

それにより

大切な一日が

過ぎていく。

 

・・・・・・

 

言い訳であることを

最も知っているのは

もちろん

自分自身だ。

 

だから

言い訳を続ける自分を

責める自分が

発生する。

 

すると、

責める自分に対して

さらなる言い訳が

始まる。

 

それに対して

さらに責める自分。

 

言い訳のループ。

 

その結果、

自己分裂が激しくなり、

自分同士の戦いが

始まる。

 

その戦いにより、

人生を開拓するエネルギーの

大半は失われる。

 

残念ながら、

その状態で

自分の真本音の願いを

実現する人生を

創り上げるのは

不可能だ。

 

第一、

自分の願いそのものが

わからなくなる。

 

・・・・・・

 

ここから抜け出す

唯一の道は、

 

言い訳なくす、

ことではない。

 

言い訳をする自分を

愛する、

ことだ。

 

言い訳。

 

・・・人として

出るのは当たり前だろう。

 

言い訳の出ない自分になろう

などとは

思わない方がいい。

 

だって無理だから。

 

だって

人間なんだから。

 

私達の心には

様々な「自分」が

発生しては

消えていく。

 

そのように

私達の心は

できている。

 

だからこそ、

進化する。

 

心のない人間に

進化はない。

 

心がある、ということは

様々な「自分」が

発生する

ということだ。

 

それら

「すべての自分」

を、

愛することができるか

どうか、だ。

 

愛とは、

肯定することでは

ない。

 

肯定か、否定か、

という次元に

愛はない。

 

愛とは、

 

そこに在るものを

ただ

「そこに在るんだな」

認めることだ。

 

その「あるがまま」を

見つめることだ。

 

たった

これだけのことで

私達の中には

エネルギーが満ちてくる。

 

そのエネルギーこそが

愛の本質だ。

 

このエネルギーは

私達が自らの身を削って

創り出しているものでは

ない。

 

大自然に

もともと存在する

エネルギーが

「すべての存在を

あるがままに

見つめる」

という姿勢(生き方)に対して

 

引き寄せられて

くるのだ。

 

つまり、

私達の「今ここでの生き方」

こそが

私達自身に

エネルギーをもたらして

くれる。

 

そして

その愛のエネルギーに

満ちた者は、

 

自分だけでなく、

周りのあらゆるものへ、

そのエネルギーを

自然照射できるようになる。

 

だから

その人には人が集まり、

さらにエネルギーが集まり、

その人の人生は

満たされたものへと

好転していく。

 

・・・・・・

 

だから。

 

今この瞬間の

自分自身の「生き方」が

すべてを決定する。

 

その「生き方」の

基本は、

 

自分と

どう向き合うか?

だ。

 

自分のすべてを

あるがままに

見つめることができれば、

 

現実のすべてを

あるがままに

見つめることができる。

 

これを

「真摯」

と私は呼んでいる。

 

真摯な生き方を

しよう。

 

それは

今この瞬間から

すぐにでも

誰にでも

できることだ。

 

つづく

 

情に流されるな

 

私はかつて、

情にもろい

人間だった。

 

情に揺らされ、

情に流された。

 

私達は人間なので、

もちろん

情はある。

 

それは

大切にすべきもの

だし、

自然に大切にしようと

している人も

多いだろう。

 

しかし、

情を大切にする

ことと

情に流される

ことは

根本的に違う。

 

昔の私は

情に流されることで

随分と

人生の遠回りを

してしまった。

 

恐らく

「コーチ」をする

ということに関して、

ここが

最大の難関の一つ

かもしれない。

 

「コーチ」が

情に流されると、

コーチングそのものが

「根本的に」

おかしくなる。

 

コーチングを

すればするほど、

クライアントさんの

真本音度合いが

激減していく

結果となるのだ。

 

・・・・・・

 

私は

よく泣く。

 

年齢を重ねるごとに

その傾向が

高くなっている。

 

とはいえ、

人前で泣くことは

ほとんどない。

 

でも

一人になった時に

クライアントさんの

苦しみや感情と

「一つ」となってしまい、

さめざめと

泣き続ける。

 

なんて

可哀想なんだろう、

と泣くこともあれば、

 

なんでこの人はこんなに

苦しい目に遭わねば

ならないんだろう、

と泣くこともある。

 

もちろん

嬉しくて泣くことも

多いが、

苦しみはさらに

多い。

 

私は夜中に

一人で

いつも泣き、

 

そして、

その上で

毅然と

クライアントさん達と

向かい合う。

 

そして私は

一切、

情には流されない。

 

一切、

である。

 

・・・・・・

 

私が人として

願うのは、

 

(「祈るのは」

と言った方が

よいかもしれないが)

 

一人ひとりが

真本音で生きる

ことである。

 

情に流される

ということは、

反応本音に流される

ということと

イコールの場合が

多い。

 

だから言葉を

換えれば、

 

私は一切、

その人の反応本音

には

流されない。

 

恐らく、

死んでも

流されないだろう。

 

それは

コーチングの場

だけではない。

 

プライベートでも

すべて同じ。

 

両親だろうが、

妻でだろうが、

子供にだろうが、

 

その人が

真本音で生きる

ことを阻害するもので

あれば、

一切そこには

流されない。

 

例えば、

その人が

苦しみの状況を

「自力で」

乗り越えようと

真本音で決めている

のであれば、

 

私はその

真本音を尊重し、

一切の

援助もヘルプも

しない。

 

だから

私のことを

とてつもなく

冷たい人間だと

思っている人は

多いのではないか。

 

しかしどう思われようが、

私がこの部分で

揺らぐことは

死ぬまでないだろう。

 

・・・・・・

 

以上を

私が本当に覚悟

してからである。

 

私自身の

人生も、

 

私のする

コーチングも、

 

すべてが

調和を始めたのは。

 

特に

コーチングにおいての

クライアントさん達の

道を開く度合いは

次元を変えた。

 

だから私は

「コーチ」になろうと

している人に

 

これを求める。

 

情に流されるな。

 

情に流された

サポートを

するな、

と。

 

情に流される

ことと、

 

愛を注ぐ、

 

ということは

根本的に異なる

どころか、

真逆の行為に

なることが多い。

 

「コーチ」に

なろうとする人は

 

ここに逃げずに

立ち向かってほしい。

(→【コーチ探し、始めます】)

 

つづく

 

ちゃんと全部、観てる?

 

人の可能性を

信じる。

 

人の光を

感じる。

 

その人の良いところ

を見る。

 

・・・それらはとても

大事なことだと

思うけど、

 

でも、

 

そこしか見ないのは

私には

どうしても現実逃避に

思えてしまう。

 

人には

いろんな部分が

ある。

 

真本音もあれば

反応本音もある。

 

反応本音だって

とても良いものも

あるし、

とても醜いものも

ある。

 

それらすべてを

観て、

理解して、

 

その上で、

 

その人の

可能性を信じ、

 

その人の

光を感じ、

 

その人の良いところに

焦点を当てる

のであれば、

 

それはとても

素晴らしいことだ。

 

人を愛する

とは、

その人の

光の部分のみを

愛すること

ではない。

 

それでは

愛したことに

ならない。

 

その人のすべてを

観ること。

受け止めること。

 

それが

愛の出発点だと

私は思う。

 

そしてそれは

自分自身に対しても

同じことだ。

 

・・・・・・

 

「受け止める」

とは

ただ、受け止める

だけのことだ。

 

「理解する」

とは

ただ、「知る」だけの

ことだ。

 

無理に

「イエスマン」

になる必要はないし、

 

「私はすべてを

許します」

なんて

やる必要はない。

 

私達は

人間だ。

 

自分の等身大

以上のことを

する必要はない。

 

もちろん

成長や進化は

目指せばいい。

 

でも、

今できる最大を

すればいい。

 

好き・嫌い

があったっていい。

 

その自分の気持ちを

また、

受け止めればいい。

 

評価判断

したり、

すべてを大らかに

包み込もう

としたり、

 

そこまでのことは

無理にせず、

 

ただただ

「受け止める」

「知る」

だけで、

愛は始まる。

 

愛とは

エネルギーだ。

 

愛という

エネルギーを

発する人は、

 

すべてを

(自分も他人も)

あるがままに

受け止める

人だ。

 

・・・・・・

 

「コーチ」は

人間だ。

 

人間にしか

できない。

 

人間は

常に未熟だ。

 

常に

成長と進化を

続ける存在だ。

 

今の自分の

未熟さを

評価判断するのでは

なく、

ただそのまま

あるがままを

受け止め、

 

そこから

最大・最善の一歩を

踏み出そうと

し続ける。

 

そういった生き方

をし続ける。

 

その見本と

なるのが

「コーチ」だと

私は思っている。

 

つまりは

「あるがままに生きる」

見本だ。

 

・・・・・・

 

しかし

「あるがままに生きる」

と言うと、

 

「そうか。

今のままの自分で

いいんだ」

 

とよく

誤解される。

 

そういうことでは

ない。

 

自分の

「あるがまま」

を本当に感じ取れば、

 

「今のままの

自分ではなく、

もっともっと私は

前に進みたい」

 

という

人間としての

実に自然な欲求にも

気づくはずだ。

 

そして、

「同じ場所」にずっと

い続けることに

気持ち悪さを感じ、

 

前に進みたくて

いてもたっても

いられなくなるはずだ。

 

だから

「あるがままに生きる」

人ほど、

自然に前に進む。

 

最大速で

進もうとするのだ。

(→【コーチ探し、始めます】)

 

つづく

 

その人であり、私であり

 

人と向かい合って

いると、

 

その人と

自分との

区別がつかなく

なる時がある。

 

特に

1on1のコーチングを

しているときは

そうだ。

 

決して

その状態を

オススメするわけでは

ない。

 

むしろ

「調和」という

意味においては、

 

その人

自分

 

は、

きちんと分離

していて、

区別ができている

方が望ましい。

 

・・・のだが、

それでも

区別がつかなく

なる時がある。

 

そういった時は

そうなることに

意味があるのだと

 

ある意味

諦めて、

 

私はその状態に

委ねるように

している。

 

すると

当然であるが、

その状態だからこそ

言葉が

私の中から

浮かび上がって

くる。

 

その言葉の

数々は

決して多くはないが、

 

しかし

私の印象としては、

 

「言葉の放流」

 

に感じられる。

 

その言葉達は

私の中から

出るものであり、

 

かつ、

 

その人の

真本音が、

自分自身に対して

向けた

メッセージでも

ある。

 

そのメッセージは

時には

非常に厳しい

ものであるケースも

多い。

 

人と人の

コミュニケーション

というのは

実に奥深い

ものだ。

 

こんなに

区別がつかなく

なるのであれば、

いっそのこと

最初から

「一つ」であれば

いいのに、

 

と思うことも

あるのだが、

 

しかし私達は

「分離」していることに

また

大いなる意味がある。

 

高い次元では

「一つ」

でも

 

低い次元では

「分離」

している。

 

それが

「人間」という

とてつもなく

面白い存在。

 

そんな存在

だからこそ

できることが

あるのだろう。

 

やはりそれは

「進化」。

 

進化とは、

一つのものが

分離し、

また一つに

戻り、

また分離し、

また一つに・・・

 

という繰り返しに

よって

成されて行く。

 

分離している

ものが

一つになろうと

する

エネルギーを

「愛」

と言う。

 

分離していなければ、

愛は

生まれない。

 

愛を生み出すのが

私達「人間」

という存在だ。

 

ということを

区別のつかない

状態のまま

私は実感するのだ。

 

「一つ」を

感じるからこそ、

「分離」している

私のことを

その人のことを

愛おしく思う。

 

この

言いようもない

独特の感覚を

 

私は「コーチ」として

人として

これからも

大事にしていきたい。

 

つづく

 

後悔とは、チャンスである

人はなぜ

後悔するのでしょうか?

 

後悔にも

様々なものがあります。

 

次元の低い後悔も

あれば、

次元の高い後悔も

あります。

 

次元が低いからダメ

という話では

ありません。

 

高くても低くても

後悔ときちんと

向き合いながら進むことは、

間違いなく私達に

進化をもたらします。

 

ただ・・・。

 

一つ、しっかりと

お伝えしなければ

ならないことがあります。

 

それは、

後悔には

「真本音の後悔」

もある、という

ことです。

 

・・・・・・

 

「真本音の後悔」

とは、

正確に表現すれば、

「真本音が

もたらしている後悔」

と言えば

よいでしょうか。

 

どういうことかと

言いますと、

一言で言えば、

 

「後悔のその奥に

願いあり」

 

ということです。

 

つまり、

真本音レベルの非常に

強い願いがあり、

その願いに気づくための

後悔の経験であった、

と。

 

その後悔が

あったからこそ、

自らの真本音の願いに

気づくことが

できた、

と。

 

願いに気づくための

重要な経験としての

後悔。

 

ということです。

 

しかも、

そういったもので

あればあるほど、

後悔の念は

深く、強く

なります。

 

ある意味、

立ち直れなくなるくらいの

魂が慟哭するかのような

後悔。

 

それが、

真本音のもたらす

後悔です。

 

ところが、

そういった強い後悔からは

どうしても私達は

逃げたくなります。

 

その後悔と

向き合うことは

非常に辛いことです。

 

そこでその後悔から

逃げ続ける一生を

続ける人も多いです。

 

でもそれは、

自らの真本音の願い

に気づくチャンスを

逸していることになります。

 

何のために

自分の人生が

あるのか?

 

自分は

何に向かって

生きていけばよいのか?

 

その大事な大事な

答え、

人としての

幸せをもたらしてくれる

答えに

気づくチャンスを

逸していることになります。

 

・・・・・・

 

では。

 

後悔との向き合い方。

後悔についての

セルフコーチング法の続き

をいきましょう。

(→【後悔する自分を責めてはならない】)

 

後悔の出来事の中でも

自分が特に

どのポイントにおいて

深く後悔しているか?

を特定するところまで

きました。

 

それが特定できたら、

次にまた

とても大事な質問を

「後悔の念」に対して

投げます。

 

それは、

 

「君は私に

何を伝えたいの?」

 

もしくは、

 

「君は私に

何をわかってもらいたいの?」

 

という問いです。

 

これも、

自分自身の「後悔の念」を

理解しようとする

質問です。

 

理解しようとすることで

自分自身との

信頼関係を深めていきます。

 

この問いに対しての

答えとは、

多くの場合

反応本音レベルのもの

です。

 

例えば、

 

「もう俺は嫌なんだよ。

逃げたいんだよ!」

 

とか、

 

「俺がこんなに苦しんで

いることを

知ってもらいたいんだよ!」

 

とか、

 

「俺はもう、

あいつとは一緒に

やっていけないんだよ!」

 

とか。

 

そしてここから先は、

まるでカウンセラーになった

気持ちで、

自分の後悔の念と

向かい合ってください。

 

「それは

どういうことなの?」

 

「もう少し

詳しく教えてくれる?」

 

「どんな理由から

そう思うの?」

 

「そう言いながらも、

本当は私に

何を伝えたいの?」

 

「本当に、一番

解消してもらいたい

苦しみは何?」

 

「私に直してもらいたい

ことはある?」

 

「私にしてもらいたい

ことはある?」

 

「君はどうすれば、

もっと楽になれる?」

 

「君は本当は

何を望んでいるのだろう?」

 

「君は何のために、

私の両肩に乗っかっている

と思う?」

 

「君の切実な

願いとは何だろう?」

 

・・・などなど。

 

すべてが

「理解しよう」

とするための質問

です。

 

大切なのは、

返ってくる答えに対して

いっさいの

評価・判断をしないこと。

 

つまりそれは

否定をしないことは

もちろんですが、

肯定もしないこと

です。

 

否定も

肯定も

なし。

 

「知ろう」と

するだけです。

 

「あなたのことを

もっとよく知りたいんだ」

という意志を

その後悔の念に

向けていきます。

 

「愛」

という言葉がありますが、

愛のファーストステップは

「理解しよう」

という意志です。

 

私は、「愛」というのは

「エネルギー」だと

思っていますが、

「理解しよう」という

意識を向けることで、

そのエネルギーは

発生し、相手に

伝わります。

 

これは、

他者との人間関係でも

まったく同じですね。

 

・・・・・・

 

「理解しよう」という

愛のエネルギーを

受けることで、

後悔の念はさらに

浄化されるでしょう。

 

ポイントは、

その「後悔の念」が

最も伝えようとしていること、

わかってもらいたいと

思っていることを

ピンポイントで

特定・理解することです。

 

そこが特定できれば、

後悔の念は

ほぼほぼ浄化されます。

 

両肩がかなり

軽くなるのを

感じるでしょう。

 

そうなったところで

初めて、

いよいよ

「真本音」の

登場です。

 

つづく

 

人生の展開は距離感で決まる

私達の人生において

大きな転換のきっかけと

なるものに

「出会い」

がありますが、

その一方で、

「別れ」

というものがもたらす

影響も大きいですね。

 

出会いは概して

嬉しいものですが、

別れは概して

寂しいものですし

大きな悲しみを

伴うこともあります。

 

そのため結果的に、

 

「本当は今、

別れなければならないのに、

別れられない」

 

という現実を

創り出してしまっている

人が多いのが、

今の世の中の一つの傾向です。

 

実は、

どれだけ素敵な出会いを

重ねてきても、

きちんと別れるべき人と

別れないことで、

真本音度合いを著しく

落としてしまい

人生の不調和が始まって

しまった、

という人を私は

とても多く観てきました。

 

「別れ」とは

とても大事なものです。

 

そして

いつ、誰と別れるか?

私達は自らの真本音で

決めています。

 

もちろん

AさんとBさんが別れる場合、

Aさんの真本音が決めている

別れのタイミングと、

Bさんの真本音が決めている

別れのタイミングは

完全に一致します。

 

そしてその通りに

別れることができた場合、

二人の人生は

新たなステージに進み、

次の出会いと展開が

二人ともに起こり、

二人ともが

さらに真本音度合いの高い

人生を送ることができます。

 

別れるべき時に

しっかりと

別れましょう。

 

もし相手が

反応本音のレベルで

「別れたくない」

と言ったとしても、

その「情」に流されずに

しっかりとそれを

断ち切りましょう。

 

・・・このように書くと

寂しいでしょうか。

悲しいでしょうか。

 

冷たい人間だと

思われるでしょうか。

 

「別れる」という言葉と

ほぼ同義語として、

「手放す」

という言葉もあります。

 

手放すのも

本当に大事なことです。

 

本当に必要なタイミングで

別れを自ら切り出せる人、

そして

手放すことのできる人は

愛の深い人だなぁ、

と私は思います。

 

では、

「別れる」とか「手放す」

という行為の

本質とは

何だと思いますか?

 

それは私は

「距離を離す」

ということだと

捉えています。

 

「距離」

 

とか

 

「距離感」。

 

実は私達の真本音は

これをとても

大事にしています。

 

同じAさんとBさんでも

二人の距離や距離感が

真本音で望むものと

ずれていたら、

そこには不調和が

起きてしまうのです。

 

逆に言えば、

「調和」とは

「距離(感)で決まる」

と言っても

言い過ぎではないでしょう。

 

特に私達が今いる

この「3次元」という世界は

すべてが分離している

世界です。

 

分離しているが故に

一つ一つの物事

(その中に当然、「人」が

含まれます)

との距離(感)が

あらゆるものの展開に

影響を与えます。

 

その距離(感)とは、

心の中の距離(感)と

実際の距離(感)の

両方があり、

その両方を

真本音の望むものと一致させる

ことが「調和」のためには

必須です。

 

ちょっと

わかりづらいですか?

 

もう少し詳しく

お話しした方が

良さそうですね。

事例を交えて。

 

ただ、そのためには

ちょっと文章が長くなりますので、

続きは明日に。

 

まずは今回は皆さんに

二つの問いを

残しておきます。

 

単純に

直観でお答えいただくと

よいですね。

 

以下の問いを

自分自身に向けて

投げてみてください。

 

「私の人生において、

私はあらゆるものと

適正な距離感を持つことが

できているだろうか?」

 

そして、

 

「私が今、もっと

距離を離すべきものとは

何だろうか?」

 

つづく

 

私の心は私のことを何も知らない

私とは何者か?

 

・・・を自分の心に問うても、

その答えは

永遠に出て来ません。

 

なぜなら

私達の心の中には

その答えは

ないからです。

 

私達の心とは、

外部との接触の中で

その「反応」として

創り上げられるもの

です。

 

つまり、

「経験」によって

生み出されるもの。

 

これこれこういう経験を

積み重ねたことにより、

これこれこういう反応の

パターンができあがった。

 

・・・というもの。

 

それはあくまでも

「反応のパターン」

でしかありません。

 

ところがその

反応のパターンを

私達は

「自分である」

と思い込みます。

 

こういう時には

こういう反応の仕方をするのが

自分である、

という認識です。

 

しかしそれは

どこまで行っても

反応のパターンでしか

ありません。

 

「私」でも「自分」でも

ありません。

 

ところが私達は

その「反応のパターン」の中に

「私とは何者か?」

の答えを見出そうと

します。

 

ですから、真の答えに

行き着くことが

できません。

 

反応のパターンは

反応のパターン。

それは

「私」ではないからです。

 

心で考えても

答えが出ない。

 

であれば、いったい

私達はどうすれば

よいのでしょうか?

 

実は・・・。

 

「私」というものは

本来はありません。

 

いやいやいや。

 

私はここにいるし、

私は私だし。

 

ちゃんと個人としての

私が存在するではないか。

 

それを否定しては

何も進まないではないか。

 

・・・普通は

そう思いますね。

 

でもまぁ、

ちょっとお付き合い

ください。

 

「私」は

ないのです。

 

便宜上、

私達は「私」を

カタチ創っている

だけのことです。

 

かと言って、

その「私」に価値がない

わけではありません。

価値があるからこそ、

あえて「私」を

創っているのです。

 

「私」を創ることで

「あなた」が

できます。

 

「あなた」ができることで、

「私とあなた以外」も

できます。

 

すべてが

分離します。

 

すべての

区別が始まります。

 

分離と区別をして

初めて

得られるものがあります。

 

それが

「進化」

です。

 

私達は進化を

したがっています。

 

だから、

「私」と「あなた」と

「私とあなた以外」を

分離させました。

 

分離することで

起こるのは

すれ違い

です。

 

不理解であり、

誤解であり、

拒絶であり、

否定です。

 

別物であるからこそ

初めて発生する

それら。

 

それらを乗り越えて

また

「一つ」に戻ろうとする。

その過程を経てこそ、

「進化」は

実現します。

 

別物が

一つになろうとする時に

発生するエネルギーが

あります。

 

それを

「愛」

と呼びます。

 

「愛」とは

進化のために必要な

エネルギーです。

 

私とは何者か?

 

この答えをもし本当に

知りたいと思うのであれば、

「すべてが一つ」である自分を

思い出す以外に

方法はありません。

 

分離された「私」

だけでものを考えても

決して到達できない

答えなのです。

 

あぁそうか。

「私」と「あなた」は

一つなんだ。

 

「私」は「あなた」であり、

「あなた」は「私」であり、

「私」と「あなた」は

「私とあなた以外のもの」

でもあるんだ。

 

・・・ということを

理屈ではなく、

実感としてわかること。

 

その「真理」を

「当たり前のことだ」と

思い出すこと。

 

その状態になって初めて

私達は

「私は何者か?」

を本質理解できます。

 

そして、

人生における

「私の為すべきこと」と

「私の成すべきこと」を

知ることができます。

 

何のために生きればよいか?

そして、

何を目指して生きればよいか?

を、

まったく惑うことなく

決めることができます。

 

「すべては一つ」であり、

「すべては私」である、

ということ。

そして、

その上で

「この分離した私がここにいて」

「分離した私だからこそ

できることがある」

ということ。

 

それらをすべて

完全理解した自分から

発せられるあらゆる

願い・想い・意志・意思・・・。

 

それを私は

『真本音』

と呼んでいるのです。

 

つづく

 

慈しみのリーダーを応援したい

「慈しむ」

という言葉に

皆さんはどのような印象を

お持ちですか?

 

先日、ある社長さんとの

出会いがありました。

 

一緒に食事をさせていただいたのですが、

その社長さんは

「慈しむ」という言葉が

そのまま服を着ているような

感覚の人でした。

 

幹部さんや社員さんについての

ご相談をいただいたのですが、

その社長さんの

幹部さんや社員さんのことを

語るそのその空気感。

 

それを感じるにつけ、

あぁこの人は間違いなく

社員さん達と共に

道を拓いていける経営者だな

と確信しました。

 

その社長さんから

ご質問をいただいたのです。

 

「たけうちさんは、

今のお仕事を、どのようなきっかけで

始められたのですか?」

 

こういったご質問をいただくと、

いつもでしたら、海外の放浪から

帰ってきた時のお話を

させていただくのですが、

その日はなぜか

学生時代のある場面が

思い出されたのです。

 

私は大学1年の時から

登山を始めました。

登山と言っても

ただひたすらに山を縦走

するのですが、

いわゆる「体育会系」という部活で

荷物の重さも含めて

なかなか激しいことを

していました。

 

2年生の時、

私は初めてリーダーとして

パーティー(登山チーム)を

率いて長期間、日本アルプスに

入りました。

 

ところがそこで私の

パーティーは

ほぼ、瓦解した状態となります。

 

縦走計画こそ貫徹したものの、

パーティーメンバーの心が

バラバラ状態になったのです。

 

その根本原因は

私のリーダーぶりに

ありました。

 

実は、通常、リーダーとは

3年生の行なう役割です。

ところが、

その年は3年生の人数が少なく、

どうしても2年生からリーダーを

出さないといけないという状態で、

それは前代未聞のことでした。

 

その前代未聞というのが

私の琴線に触れ、

「俺がやってやろう」

となったのです。

 

要するに、

初の2年生リーダーとして

完璧な山行を実現し、

「お前、すごいなぁ」と

言われたかったのです。

 

ところが散々な結果となり、

私は悩みました。

 

その時に人生で初めて、

「人はどうすれば

前向きになれるのか?

チームはどうすれば

一つにまとまるのか?」

という疑問が湧きました。

 

19歳の時です。

 

その時から私は、

複数人で登山をする場合は

リーダーしかやらない、

と決めました。

 

確か大小含めると、

20数回は

学生の内にリーダーをやったと

思います。

部活全体の主将も

させていただきました。

 

で、ずっとずっと

リーダーとはどうあるべきか?

に悩み続けました。

 

その中で、人生を変える場面に

出会ったのです。

 

それは、

リーダーとしての最初の挫折から

ちょうど一年経った時の

夏山の縦走でした。

 

私は確か、

これまで部が始まって以来の

最も長い縦走をしようと

計画を立てたのでした。

 

その計画のちょうど中間地点

辺りで、

非常に難易度の高い行程の日が

ありました。

 

私達の重装備で

そこを乗り越えるのはどうか?

と直前まで迷い続ける

そんな行程だったのですが、

私は強行突破しようと

思いました。

 

ところが、その行程は

想像以上に大変でした。

 

登山の縦走というのは毎日、

夜中の2時に起床します。

そして、明るくなりだす

4時過ぎくらいには

テントを畳み出発します。

 

その日はいつもより早く

確か1時半に起床し、

4時を待たずに出発したと

記憶しています。

 

道は険しく危険で、しかも

長い行程でした。

 

何時間歩いても

目的地に到着できません。

日も傾き、

薄暗くなってきました。

 

ついに、

パーティーのメンバーの一人が

動けなくなりました。

 

彼は、陸上の長距離走で

県大会で優勝するくらいの

持久力や体力のあるヤツ

だったのですが、

完全にバテてしまったのです。

 

そして、彼は

泣き出しました。

 

もう動けない、と。

 

声を上げて

泣きました。

 

私はどうすることもできず、

ただ茫然と彼を

見つめていました。

 

その時です。

 

私は生まれて初めて

味わう不思議な感覚に

包まれました。

 

泣いている彼のことが

愛おしくてしょうがなく

なったのです。

 

私は彼を

抱きしめたくなりました。

 

その瞬間です。

 

私がリーダーとして

何が足らなかったのか?

を知ったのは。

 

当時の私の日記には

「私に足りなかったのは、

愛だった」

と書いてあります。

 

そこから私には、

「愛とは何か?」

という新たなテーマが

浮上してきました。

 

恐らくその瞬間だったと

思います。

その瞬間のその感覚がなければ、

私はきっと

今のこのお仕事を

していないでしょう。

 

今から振り返れば、

その時の私は人生で初めて

人を「慈しむ」という

体験をしたのだと思います。

 

もちろん私もその時は

体力的には

限界状態でした。

 

しかし限界状態だったからこそ

初めて自分の中から

浮上した感覚に敏感になれたのだと

思います。

 

まぁ・・・、

その後の私が

人を慈しむ人生になったかと

言うと、

真逆なんですけどね。苦笑

 

「俺は、愛を知ったぞ!」

と、その後、天狗になった

わけで・・・。

 

ホントに困ったもので。

 

おかげで散々な人生展開に

なったりもしたのですが、

しかしあの時の感覚は

今でも私の中に

生き続けており、

それが今の私の原点の一つに

なっているのは確かです。

 

あの時私は、

人の深さと、

人と人の関係の深さを

体験したのだと思います。

 

そして、

よくよく考えてみますと、

私はそういった

人に対する「慈しみ」を

持ちながらリーダーをされている人を

応援したい、サポートしたい、

と思いながらここまで

来たのだと思います。

 

あの「慈しみ」の社長さんの

ご質問のおかげで、

顕在意識レベルではずっと

記憶から外れていた出来事を

思い出すことができました。

 

感謝ですね。

 

つづく

 

自分の道を観るのを躊躇している人へ

私達の中にはすでに

決めている道があります。

 

というお話を

前回いたしました。

(→前回記事)

 

ところがその道を

見つめることができない、

という人がいます。

 

その道を

観るのが怖い

のです。

 

観てしまうと

自分は間違いなくその道を

突き進んでしまうだろう。

何の躊躇もなく

その道に入るだろう。

 

・・・ということが

本人にはよくわかっているのです。

だから逆に、

観るのが怖い。

 

観てしまったら、

これまでの人生、

これまで創り上げてきたもの、

これまでの自分

それらすべてを

自分は捨ててしまうのではないか、

という恐れがあるのです。

 

ですので今、

自分の中に道があるなぁ、

という実感を持ちながらも、

しかしそれを観ることが怖くて

茫然と立ちすくんでいる人が

増えています。

 

その気持ち。

 

同じ人間として

私は強烈によくわかります。

 

私もそこで

相当に苦しみました。

 

しかし、

自分の本当の道を観つめ、

そこを進むことを選択した経験者として

お伝えするならば、・・・

 

苦しいのは、

その場所だけです。

 

その道を観つめる

その直前が

苦しいだけです。

 

いざ、

それを観てしまえば

すべての合点がいきます。

 

これまでの自分の人生の

合点がいくのです。

 

なぜ自分は

ここに生まれてきたのか?

 

なぜこのような

人生だったのか?

 

なぜこのような

自分だったのか?

 

すべての合点がいく

のです。

 

そして

何も捨てる必要がないことが

わかります。

 

ただし、

捨てる必要はありませんが、

「手放す」必要のあるものは

ありありとわかります。

 

「手放す」とは

捨てるということでは

ありません。

 

「距離を置く」

ということです。

 

今の距離よりも

もう少しそれを遠ざける

ということです。

 

存在そのものを

捨てたり抹消する必要は

ありません。

 

「距離感」というものは

とてつもなく、と言ってよいほど

大事です。

 

私達の真本音は

すべての物事と

適正な距離をとる

ということを大切にしています。

 

距離感を大切にすることで

調和度合いは

圧倒的に高まります。

 

そういった意味で、

今は何との距離が近すぎて、

何との距離が遠すぎるのか?

がありありとわかります。

 

そしてその修正を

したくなります。

 

間違えてならないのは

「しなければならない」

のではなく、

「自然にしたくなる」

のです。

 

そしてその通りに実行すれば、

もの凄い安心感と

安定感を

得ることができます。

 

その状態で、

「道」に入って行くのです。

 

そして「道」に入れば、

前回記事でも書きましたが、

かつて経験したことのない

充実感を

私達は得ます。

 

常に魂と心が

満たされている状態、

そして、常に

自分の中心からエネルギーが

湧き続けている状態と

なります。

 

そしてそのエネルギーは

他者にもそのまま

照射されます。

 

そのエネルギーを私は

「愛」

と呼んでいますが、

愛のエネルギーを常に

他者に注ぎ続けることのできる

自分となるのです。

 

ですからますます

すべてが調和して

いきます。

 

そういった「現実」が

起こり始めるのです。

 

要するにそれは単純に言えば、

幸せな日々

なのです。

 

ですから、

苦しみは今、躊躇しているその場所

にしかありません。

 

しかと目を開き、

自分の道を観つめれば、

すべてが自然に

動き始めるのです。

 

「道」を歩き始めるのが

普通の状態。

 

人間として極めて

普通の生き方なのです。

 

つづく

 

観察するだけで私達は自由になれる

「直観力」を増すには、

「普通の生き方」を取り戻すことが

重要。

そしてそのための第一のステップが

『観察』

であり

『観る』

ことです。

・・・というところまで

お話ししました。

(→前回記事)

 

「観る」とは、

あるがままを見る、

ということなのですが、

実はこれはさらに本質的なことを

言えば、

「脳を使わずに見る」

ということにもなります。

 

こういう書き方をすると

かなり難しい印象を

受けるかもしれません。

 

しかしあえてここでは、

本質的な表現を

使わせていただきます。

 

「観る」とは

ここにあるすべてのものを

脳を使わずに見ることであり、

感じることであり、

それをしている自分自身は

その瞬間は、

「ここに在るだけの存在」

となります。

つまり、自分には

何の解釈もなく

何の評価もなく

何の判断もない

状態です。

 

これは正しい、とか

それは素晴らしい、とか

反対に

これはおかしい、とか

これはつまらない、とか

そういった

自分の中から発生する心、

つまりは反応本音からは

完全に解放されています。

 

ただし、解放とは、

それらの反応本音をゼロにするとか

抹消するということでは

ありません。

 

それらの反応本音それ自体も

観ている状態です。

 

つまり、

自分の心の中にあるものも

外にあるものも、

すべての存在を

観ている状態であり、

それをしている自分自身は

すべてから解放されています。

 

「ただ在る」

 

それ以上でも

それ以下でも

ない状態となっています。

 

そこには

何があっても

よいのです。

 

そして、

すべてから

解放されています。

自由です。

 

これこそが

「自然体」と言えるもの。

 

私達人間にとって

「普通」の状態です。

 

いやいや、

そんな、まるで悟りを開いたかのような

状態が普通であるはずかない、

それは修行を積んだ

特別な人が手に入れる

特別な状態だ、

と思われる人もいるかも

しれません。

 

いやいや、

その固定観念こそが

私達の生き方と

今のこの世の状態を

創り出してしまっています。

 

それは本当に

特別な状態ではなく、

誰もがもともと持っている

普通の状態です。

 

別にその状態になることで

人格者になるわけでも

ありませんし、

超人になるわけでも

ありませんし、

稀有の存在になるわけでも

ありません。

 

何があっても

オールOK。

しかしその「オールOK」とは

解釈による「オールOK」ではなく

本当にただそこに在るだけの

「オールOK」です。

 

そうなれた時、

私達は

今ここに在るすべてのものを

リアルに

ダイレクトに

実感できます。

 

それはある意味

実に感動的です。

かといって

気持ちが高ぶる感動ではなく、

トツトツとした

魂が静かになるような

安心感と安堵感に満たされた

感動です。

 

その時の実感をあえて

心の声として表現すると、

「あぁなんだ。

すべてが普通ではないか」

・・・というような感じに

なります。

 

すべての存在に対してそれが

「存在していることを承認」

しています。

 

すると自分自身から

とてつもないエネルギーが

発生します。

 

それは、すべてを存在承認しながら

その「分離」を楽しんでいるが故に

発生するエネルギーです。

 

そのエネルギーは

分離して存在している

あらゆるものを

大切にしよう、

それらと

一つになろう、

というエネルギーです。

 

それを私達の言葉で

『愛』

と言います。

 

この「愛」を発する状態で

すべての物事と向き合い、

関われば、

あらゆる物事が

調和していきます。

 

物事がすぐに

頓挫する人生を送る人と、

物事がどんどん

調和する人生を送る人の

違いが

この「愛」の発生量です。

 

私達がもともと持っている

このエネルギーを

使いながら生きるかどうか?

なのです。

 

・・・

だいぶ今回は

本質をそのまま躊躇なく

表現する文章に

なってしまいました。

 

できましたら、

今回の文章は

頭で解釈するよりも

魂でそのまま

感じ取っていただけると

よいかな、

と思っています。

 

次回からは、

自分の心の「観察」の仕方、

自分の心を「観る」コツ

などを

お伝えいたします。

 

つづく

 

我欲とは、人にとってなくてはならないもの

ここのところ

「意図を手放す」

というテーマで記事を書かせて

いただいています。

(→前回記事)

 

これは、

「次元を上げる」という意味では

非常に重要な部分ですので、

さらに詳しく見ていきましょう。

 

まず、

「意図」

とは何でしょうか?

 

ここではちょっと乱暴な

書き方を、

あえてしますね。

 

「意図」とは

我欲です。

 

我欲とは、

「すべてが分離している」

という前提において、

自分だけが良ければよい、

という意識の塊から

発せられるものです。

 

我欲と言うと、

それは良くないもの、

という印象があるかもしれませんが、

我欲はもちろん

すべての人にあり、

我欲があるからこそ

人間であるとも言えます。

 

「私にはもう我欲はありません」

と言う人がたまにいますが、

嘘です。笑

乱暴な言い方ですが、

自らの我欲を見つめていない

だけのことです。

 

我欲があるのが、

人としての尊厳である、

と私は思います。

 

人の素晴らしさとは、

高い次元から低い次元まで

すべての次元の意識を

包含しているところです。

 

それこそが

人であることの意味と

価値です。

 

「私には我欲がありません」

とか

「我欲を捨てなければなりません」

というのは、

人としての価値と意義を

自ら放棄していることになります。

 

とは言え、

我欲のみを尊重し、

我欲のみに巻かれて動けば、

ほぼ必ず

不調和が起きます。

 

争いや諍いが

起きます。

 

我欲とは、

人として

あるべきもの。

 

しかしその我欲は

我欲単体であるべきもの

ではなく、

高い次元の意識によって

活かされるもの

なのです。

 

高い次元の意識は

愛のエネルギーが

高いです。

(愛とは、については

またいずれ触れることに

なります。

今はあえて飛ばします。)

 

高い次元の意識が

我欲を活かすということは、

我欲が

愛のエネルギーで満たされる

ことになります。

 

愛のエネルギーで

満たされた我欲は、

「その人がこの世で発揮すべき個性」

となります。

 

別の表現を使えば、

「その人のミッション(使命)」

への道しるべとなるのです。

 

「意図」とは

我欲です。

 

ただしその我欲は

ここまでご説明したように、

高い次元の意識とつながっている場合と

つながっていない場合が

あるのです。

 

つまり、「意図」にも

ざっくり言うと、

2種類あるのです。

 

①単なる我欲のみによる意図

②高い次元とつながった我欲による意図

の2種類です。

 

私が

「意図を手放す」

と言っている「意図」とは

①の方です。

 

①の意図を手放すことで、

②の意図が発動するからです。

 

②の意図が発動すれば、

すべてが調和します。

 

争いも諍いも

非常に起こりづらくなります。

 

スムーズに道が

開きます。

 

・・・ということなんですね。

 

そして前回の記事で

申しました通り、

①の意図を手放すためには、

しっかりと思考レベルで

①の意図について考え尽くすことです。

 

①の意図を持ってはならない、

とか、

①の意図は、私にはもうない、

と言っている内は、

自分の知らないところで

①の意図に自ら

取り込まれてしまうのです。

 

自分と

向き合いましょう。

 

自分の心の中にある

あらゆる意識と

向き合いましょう。

 

高い次元から

低い次元まで、

たくさんの意識があるのが

私達人間です。

 

そこが

人の素晴らしさであり、

だからこそ我々は

進化できるのですから。

 

つづく

 

なぜ苦しい? その答えは、進まない、から

「進む人」と「進まない人」。

 

今、私達人間の傾向は、

この二つにクッキリと分かれています。

 

どれだけ意識の次元が高くても、

進まなくなってしまった人がいます。

 

逆に、どれだけ意識の次元が低く未熟でも

前に進もうとする人もいます。

 

今の自分がどのレベルにいるか?

ではなく、

進むか? 進まないか?

それこそが、とてつもなく重要であると

私は最近、強く実感しています。

 

人は、進む生き物です。

 

「進む」ということを一つの形として

現したものが、人であるとも言えます。

 

逆に言えば、

進まなくなった人は、もう人ではない、

人としての本質を捨ててしまっている、

と言っても、本当は言い過ぎではありません。

 

それを最もよく理解しているのが

私達の「本能」です。

 

私達の「本能」は、進むために存在しています。

ところが、

進むことを放棄してしまうことで、

私達は、本能的に、自分自身のことを

嫌います。

 

自分のことを嫌うことで

大量発生するのが

エンティティです。

 

「進む」と言ってもそれは

苦しいことではありません。

 

私達人間は、

川の流れに身を委ねているような

存在です。

 

流れに身を委ねれば、

自然に進んで行くのです。

 

むしろ、進むのを放棄するということは、

川の流れに逆らいながら、

その場に必死に留まろうとする行為です。

その方が間違いなく不自然ですし、

苦しいのです。

 

しかし、にも関わらず

止まってしまう人がいます。

 

本当は、進むことこそが気持ちが良いのに、

今の自分に執着しすぎてしまっているのです。

 

流れに逆らうことによって

大量発生するのが

エンティティです。

 

エンティティを大量発生させてしまった人は

そのエンティティが気持ち悪く、

エンティティを消そうとします。

 

自らのエンティティと戦うのです。

 

しかしエンティティとは、

消そうとしたり、戦おうとすることで

逆に反発するかのように増大します。

 

その負の循環から

抜け出せなくなります。

 

西畑さんはその状態にあり、

その西畑さんのエンティティを

木村さんは受け取ってしまっていました。

 

エンティティから解放されるための手段は

ただ一つ。

そのエンティティを、愛することです。

 

それにより、

エンティティは浄化されます。

 

以前にこのブログでも書かせていただきましたが、

「愛」とは行為ではありません。

 

「愛」とは、エネルギーそのものです。

 

分離しているものが、

一つになろうとするときに自然発生する

エネルギーです。

 

そのエネルギーは誰もが

持ち合わせています。

 

しかしそのエネルギーを実際に

発揮できるかどうかは、

その人が「進む」かどうか?によります。

 

進むのを放棄している人からは

愛というエネルギーは発せられません。

 

進む人は、それだけで

愛のエネルギーは出ます。

そして、

次元を高めれば高めるほど、

そのパワーは2次曲線的に増大します。

 

私は木村さんに、

「木村さん、

その西畑さんのエンティティを

愛せますか?」

と問いました。

(→前々回記事)

 

恐らく、二人コーチングの開始直後の木村さんなら

嫌がっていたでしょう。

 

しかし、弓江さんとの二人コーチングの時間を

過ごすことにより、

木村さんの真本音度合いは一気に

高まっていました。

 

ですから木村さんは何の躊躇もなく

言われました。

「愛せますよ」と。

 

であれば、あとは簡単です。

 

「木村さん、

木村さんの愛は、どこから出やすいと

思いますか?」

 

「・・・そうですね。

右手かな?」

 

「であれば、右手を背中か肩か、

最も苦しい部分に当てることはできますか?」

 

木村さんは左肩の辺りに右手を

当てました。

 

「ここだと思います。」

 

「では、右手から

愛のエネルギーをエンティティに

注いであげてください。」

 

「はい。」

 

ほんの20秒くらいでしょうか、

ふっと、木村さんの全身が軽くなった感覚が

私に伝わって来ました。

と同時に、

「もう終わった気がします」

と木村さん。

 

これでもう、エンティティは

浄化されました。

 

「木村さん、

気分はいかがですか?」

 

「なんか、

すごく全身が軽くなりました。

自由になれた感じがします。」

 

これにより、

木村さんの真本音度合いは

さらにアップしました。

 

つづく

 

愛というエネルギーを止めることはない

人と人は

わかり合えないものでしょうか?

 

そう問われた時、私はいつも

「そうです。わかり合えません」

と答えることにしています。

 

「この人とわかり合えたな」

と思ったとしたら、

それは「傲慢」の始まりかも知れません。

 

「自己満足」の始まりかも知れません。

 

人と人は、そんなに簡単には

わかり合えない。

だからこそ、

真摯に向き合おうとする。

だからこそ、

真剣に理解しようとする。

 

その姿勢こそが大切で、

その姿勢を取り続けているうちは、

「お互いにわかり合おう」

という関わり方ができます。

 

それが、阿吽の呼吸を生み出したり、

共振・共鳴を生み出します。

 

「わかり合おう」という姿勢は

実在レベルでは

「一つになろう」というエネルギーを

生み出します。

 

「一つになろう」というエネルギーのことを

『愛』

と言います。

 

愛とは、行動そのものではなく、

エネルギーです。

 

木村さんは、

真本音状態でいるときは、そのエネルギーが

非常に高いです。

しかし、

反応本音のクセが前面に出てしまうと、

途端にそのエネルギーが枯渇します。

 

それが非常にわかりやすく、

周りの人達との関係性に現れます。

 

これは木村さんだけに言えることではなく、

すべての人に言えます。

 

愛のエネルギーの高い人は

あらゆる物事がスムーズに進展します。

すべてが調和します。

 

愛のエネルギーの低い人は

あらゆる障害が周りから襲ってきます。

その結果、その人は上手くいかない原因を

周りのせい

にします。

 

違うのです。

 

すべては、自分の発するものの影響です。

 

良いものを発すれば

良いものが返ってくる。

 

良くないものを発すれば、

良くないものが返ってくる。

 

それは、あまりにもシンプルな

物事の原理です。

 

木村さんは、

新規事業プロジェクトリーダーを辞めたい

と言いました。

(→前回記事)

 

が、もちろんそれは本気ではありません。

ひょっとして半分は本気だったかも知れませんが、

半分は愚痴を言っただけです。

 

コーチングの場であえて愚痴を言い、

反応本音を出し切ることで、

真本音の判断をしよう、という意思も

あったようです。

 

一通り木村さんの話が終わり、

木村さんの気持ちが落ち着いたところで

私は彼に訊きました。

 

「木村さん、ここは自力で突破しますか?

それとも、私が何か側面からサポート

した方がよいですか?」

 

彼はしばらく考えましたが、

「プロジェクトも佳境に入っています。

今の流れを止めるわけには行きません。

本当は自力で何とかしたい気持ちもありますが、

ここは一つ、サポートをいただけませんか」

と返しました。

 

私はそれを「逃げ」ではなく

彼の「真本音の判断」であると認識しました。

 

私は念のために、平井さんにこの件を

お話ししました。

状況をお伝えした後で、

「木村さんの側面サポートをするために、

弓江さんと面談をしようと思いますが、

いかがですか?」

と。

 

平井さんは言われました。

「実は、たけうちさんに弓江のコーチングも

お願いしようと思っていたところです。

良い機会なので、ぜひお願いします。」

 

そこで私は弓江さんと

最初の面談をすることになりました。

 

もちろん私は弓江さんのことは

存じ上げていたのですが、

1対1でしっかりと向き合うのは

初めてでした。

 

向き合った瞬間に、

あぁこの人は、とても面白い人だ、

と直観しました。

 

まず、真本音度合いが普通の人よりも

明らかに高い。

しかし、その自分の特性を

まったく活かしきれていない。

 

そう思ったのです。

 

こういった人には、

通常のコーチングとはまったく違ったアプローチの

問いを投げると面白くなります。

 

私は内心、ワクワクしながら

弓江さんに問いました。

 

「弓江さん、

木村さんのこと、嫌いですか?」

 

「はい、嫌いです」

と、まっすぐに返ってきました。

 

思わず私は笑い出しそうになりました。

 

つづく

 

リーダーする気がなくなりました

私は、愛とはエネルギーのようなもの

だと思っています。

 

愛というエネルギーに溢れている人は、

どのような言動をしても、

恐らくそれは愛に満ちたものとなるでしょう。

 

逆に、愛というエネルギーを全く発さない人が

どれだけ自分の言動で愛を伝えようとしても、

それは非常に伝わりにくいものとなるでしょう。

 

「私は人を愛せるような人格者じゃないですよ」

と本人は本気で言いながらも、

実に愛に溢れた空気感を醸し出している素敵な人を

私はたくさん知っています。

 

さて、平井さんです。

(→前回記事)

 

平井さんは毎日、自分の中から自然発生する

自分の気持ち達(心の声)を

そのまま書く(平井さんの場合はパソコンに打つ)

ということが日課となりました。

 

このように自分の心を存在承認することは

セルフコーチングの基本です。

 

存在承認とは、愛の基本ですし、

存在承認することは、イコール自分自身と向き合う

ということでもあります。

 

そして自分としっかり向き合える人ほど、

人ともちゃんと向き合うことができるようになります。

 

さらに二週間ほどが経ったとき、

平井さんは次のようにおっしゃいました。

 

「たけうちさん、最近私は人のことが

ありありと見えるようになってきました」

と。

 

逆に言えば、これまでの平井さんは

「人をまったく見ていなかったんだなぁ、

ということがわかりました。」

 

そして非常に興味深いことを言われました。

 

「たけうちさん、

私はこれまで、皆のリーダーとしての自分を

いつも前面に出してきました。

皆を引っ張ろうとしてきました。

でも皆のことがありありと見えるようになったら、

その意欲がなくなってしまったんです。

これは職務放棄につながってしまうのではないでしょうか?

皆にはリーダーが必要なのに。」

 

「平井さん、

それは、リーダーをやりたくなくなったのではなく、

これまでの自分のリーダーシップを

変化させたくなったのではないですか?

これまでとは違うタイプのリーダーに

なりたがっているのでは?」

 

平井さんは少しの間、無言でしたが、

 

「私は確かに、リーダーをやりたい」

と呟きました。

 

私の体の中心がゾワッとしました。

真本音の言葉を聴いた瞬間のいつもの感覚です。

平井さんは真本音ではやはり、

リーダーをやりたいのです。

 

「平井さんご自身は、

どんなリーダーになれると嬉しいですか?」

 

「私は、皆を主役にしたい。」

・・・即答でした。

 

即答しながら、平井さんご自身が驚いていました。

「私は、そんなことを考えてたんですねぇ。

でもそれが、本当に私がやりたいリーダー像かも

知れません。」

 

平井さんから一つ目の真本音の願いが

出たのです。

それは、

「皆を主役にするリーダーになる」

でした。

 

後に、この時のことを振り返り、

平井さんは次のようにおっしゃっています。

 

「あの時から私は、皆を本当によく観察するように

なりました。

そうしたら、皆に対する印象が変わった、・・・というよりも

ひょっとしたら人間観が変わったのかも知れません。

私は、部下を私の色に染めることをいつも考えてました。

・・・いえ、当時は私の色なんて本当はありませんでしたから、

要するに、社長の色に染めることを考えてたんですね。

でも、人をありありと観察していたら、

なんだ、何かの色に染める必要はないんだ、

みんなそれぞれ個性的な色を持っているじゃないか、と

そう思えたんですね。」

 

そこからのコーチングは楽でした。

なぜなら、目指す方向が見えてきたのですから。

あとはそれを目指して進むだけ。

 

ただし、平井さんにとって

それでも大きく立ちはだかる壁がありました。

それが、「社長」でした。

 

つづく

 

自己愛と本当の愛は真逆だ

平井さんはついに、

「これまでの自分」を壊しにかかりました。

(→前回記事)

 

そのためのきっかけとして、

自分自身に「自己愛」という一言を投げました。

 

「自己愛」とは、

これまでの平井さんを一言で表現した言葉です。

 

平井さんは自分自身を、ずっとそういった目で

見ていたのです。

それが「何となく」無意識に抱いていた自分像でした。

つまり、これまでの自己イメージです。

 

それをそのまま自分にぶつけることにより、

内側から自分を壊そうとしています。

 

自分の最深奥にあった自己イメージを

浮上させたことにより、次に起きたのは、

これまで自分がフタをし続けてきた自分の気持ち達です。

 

それは、自分が最も見たくない気持ち達。

平井さんの言葉で言えば

「邪悪な自分」

です。

 

平井さんの心の中に突然、

無数の台風が一気に現れたようなものです。

しかしそれらは、本当は

最初からそこにありました。

それらを平井さんは「何もない」ものとし、

必死にフタをし続けていたのです。

見ないようにしていたのです。

 

それにどれだけのエネルギーを使っていたか?

それは測り知れません。

 

そしてそこで使っていたエネルギーを

人生を前に進めることに使っていたら、

本来の自分として生きることに使っていたら、

平井さんの人生はどうなっていたでしょうか。

 

夜中に平井さんからお電話がかかってきた時に、

私が平井さんにアドバイスしたのは、

浮かび上がってくる「邪悪な自分」を

とにかくすべて紙に書くことでした。

 

出てくるものを、すべて書く。

それはパソコンに打ってもよいです。

平井さんはパソコンで行なったようです。

 

後に、私はその平井さんの書かれた

「邪悪な自分」の発する言葉達を

拝見しました。

 

それはもう酷いものでした。

 

一番多かったのが、

社長に対する恨みの気持ちでした。

ものすごい勢いで、社長を批判し、反発し、罵り、

言葉で殺そうとしていました。

それは社長に対してだけでなく、

平井さんが最も大切にされていたご家族に対しても、

友人知人に対しても、

過去に出会ったあらゆる人達に対しても、

同様に、ものすごい言葉達が書かれていました。

 

平井さんが私にお電話された日は、

彼は朝までかけてそれをやり続けました。

涙が止まらなかったそうです。

自分はなんて酷いことを考えていたのだろう。

自分はなんて酷い人間なのだろう。

その情けなさに襲われながも、平井さんは

自分の気持ち達を書き続けました。

 

最初の一晩が一番きつかったそうです。

 

しかし、一晩がんばったことで、

平井さんはこれまでに体験したことがないくらいに

心がスッキリされたそうです。

 

しかし、「邪悪な自分」の浮上は

一晩では収まらず、日中でも時々溢れてきたそうです。

しかしその度に、5分くらいずつ時間をとり、

ご自分のパソコンにそれを書き続けました。

たった5分でもそれをすると、

非常にスッキリされたそうです。

そして、夜には腰を落ち着かせて、

家でまたそれをする。

それを彼は約一週間続けました。

 

その一週間後に、私は彼にお会いしました。

 

一目、彼を見て、予測されていたこととは言え、

ちょっとびっくりしました。

 

まるで憑き物が落ちたかのように

彼のお顔がスッキリされ、

穏やかだったからです。

 

これは本当にしっかりと

自分自身と向き合ったのだな、と

わかりました。

 

コーチングの最中も、彼は

「あっ、たけうちさん、邪悪な自分、出てきました」

と言われ、コーチングを一時中断し、

パソコンに向かいました。

彼は笑いながら、

「たけうちさんの前だと、いつもよりも酷いのが

出ますねぇ」

と言われ、その場で書かれた「邪悪な言葉達」を

私に見せてくれました。

 

確かに酷い言葉達。

 

しかし、「書く」ということはイコール、

それを吐き出す、ということです。

しかもそれを客観的に笑いながらできるということは、

そんな自分をも受け入れている、

つまりはそんな自分をも愛している、

ということです。

 

ここに至って、平井さんはついに

「本当に自分を愛する」

という状態に入れたのです。

それは

「自己愛」

とは、本質的に真逆のものです。

 

自己愛とは、自己満足の愛。

自己満足の愛を続けているうちは、

自分自身が自分を許すことはできません。

本当の愛を自分に向けたときに初めて、

私達の心は満たされ始めます。

 

自分の心を愛で満たすことで初めて、

人を愛することができるようになります。

 

その第一歩を、

平井さんは踏み始めました。

 

平井さんに限らず、

私達の心の中にはあらゆる自分がいます。

自分の好きな自分もいれば、

自分が見たくない自分もいるでしょう。

 

自分が好きな自分のみを愛しても

それは、自分を本当に愛していることには

なりません。

自分を愛するとは、

自分のすべてを愛することです。

 

愛する、という表現を使うと、

それは難しいことのように思えますが、

そうではありません。

 

愛する、の基本は

平井さんの行なったような「存在承認」です。

 

つまりは、

そこにあるものを、

そこにあるんだね、と

承認することです。

 

もうそれで、愛は自然に

発生します。

 

それができている人特有の空気感が

あります。

平井さんはすでにその空気感を

漂わせ始めていました。

 

このコーチングは案外、早く終わるかもしれない。

 

私がそう思えたのは

その時でした。

 

つづく