チームパフォーマンスコーチ

逃げてもいいじゃないですか

皆さんは人生において、

「逃げる」

という経験をどれくらい

されたでしょうか?

 

「逃げる」

という経験は誰もに

ありますね。

 

私は逃げたことが一度もない

という人は

いないはずです。

 

もしいたとしたら、

単なる嘘つきか、

余程、人生において挑戦というものを

したことのない人です。

 

でも残念ながら

どれだけ挑戦しない人生を

送ろうと思っても、

それを私達の真本音は

許しません。

 

人の根本的本能は

「進化」への欲求です。

 

進化のためには

挑戦は必須です。

 

挑戦をしないということは、

進化という根本欲求を

無視するということですから、

人として、

それは無理な話です。

 

でもひょっとすると、

これまでは

とことん挑戦しない人生、

というのもある意味可能だったかも

しれませんが、

これからは

無理です。

 

また改めて詳しくお話しすることに

なると思いますが、

世の中全体の潮流として、

今、全体の真本音度合いは

着実に、

ジワリジワリと

アップし続けています。

 

どれだけアップしたか?

というよりも

「アップし続けている」という

この流れ自体が重要で、

この状態にあるということは

世の中全体が

自然の摂理に素直な方向に

向かっているということで、

その状況の中では、

自分の真本音や

根本的欲求を無視することは

極めて難しくなるのです。

 

話をもとに戻しますが、

私自身のことで言えば、

私は見事なくらいに

「逃げる」という経験を

重ねてきました。

 

真本音と出会う前の私は

「逃げる」ばかりの人生だった

かも知れません。

 

真本音と出会ってからも

逃げずに立ち向かうとは

どういうことか?を

かなり長い間、

試行錯誤し続けてきました。

 

ですから、

「逃げる」人の心境とか、

心の動きとか、

本当によく理解できます。

 

そして、

「逃げる」ことで

どれだけその後に

苦しみが待っているか?

どれだけその後に

混乱や混沌が待っているか?

もよくわかります。

 

本当に「逃げ続ける」人は、

そういった混乱や混沌さえも

「なかったこと」にします。

 

本当は混乱のさなかに

いるにも関わらず、

「今の私は平和」であり、

「今の私は幸せ」だと

言い張ります。

 

誰に対して言い張っている

かと言いますと、

自分自身に対して

言い張っています。

 

そして、

自分の苦しみから

目を逸らし続けます。

 

私もそうでしたから、

よくわかります。

 

私は

思います。

 

逃げても

いいじゃないか、と。

 

逃げようとしていることを

自覚し、

自ら意図的に

それを選択しているのならば。

 

「あぁ自分は今、逃げているな」

と分かった上で、

「でも今はあえて逃げてしまえ!」

と自分で決める。

 

それであれば、

いいじゃないか、と

私は思います。

 

自覚、

が大事です。

 

私が最もよくないと思うのは、

逃げているくせに

逃げていないふりを

する生き方。

 

逃げている自分を

自分自身に対して

隠している生き方。

 

自分で自分を

ごまかす生き方。

 

・・・です。

 

私は、

潔さとは、

すべてをあるがままに観ること、

あるがままを認めること、

あるがままを受け入れること

だと思います。

 

それさえできていれば、

何とかなります。

 

「逃げよう」と思って

逃げているのであれば、

それは、

人生のハンドルを自分で

握っていることになります。

 

逃げても

いいじゃないですか。

 

自分の意思であれば。

 

進むもよし。

止まるもよし。

曲がるのもよし。

逃げるのもよし。

走るのもよし。

歩くのもよし。

 

真剣に進むのもよし。

やみくもに進むのもよし。

傲慢になるのもよし。

怠慢になるのもよし。

 

すべてちゃんと

自覚し、

自分の意思であれば。

 

ごまかさずに

いるのであれば。

 

私は、

そう思います。

 

自分をごまかさずに

進む人には

ある時ある瞬間から

必ず真本音が発動します。

 

真本音の願いや

真本音の意思が

ある時から

実感できるようになります。

 

それは

少しずつ、少しずつ

かも知れません。

 

でも着実に

実感の度合いは

高まります。

 

今、世の中全体の

真本音度合いが

ジワリジワリと高まっているように、

その潮流に乗るように

ジワリジワリと

本来の私達を取り戻して

行けるようになるのです。

 

自分で自分を

ごまかすのは、

百害あって一利なし。

 

どんな自分でも

良いではないですか。

 

そんな大らかさで

自分を見つめてみませんか。

 

つづく

 

とことん後悔すれば救われる

後悔と反省

という言葉があります。

 

時々、

「後悔せずに反省しなさい」

と言われたりしますが、

後悔のない反省は

あり得ません。

 

悔恨の念。

 

これは、

とても大切です。

 

真剣に生きれば生きるほど、

自分が何か

間違っていたな、と

思ったら、後悔は

生まれます。

 

生まれなきゃ

不自然ですよね。

 

後悔や、悔恨の念には

私達は呑まれてしまいます。

 

それで良いのです。

 

思いっきり

とことんまで

呑まれることこそが

大事です。

 

ただそれを

まるでゲームのように

行ない続けている人も

います。

 

毎日後悔することで、

それを言い訳に

前に進まない状態を

つくっています。

 

それは、

後悔とは

言いません。

 

ただの

怠慢です。

 

本当の後悔や悔恨は

呑まれます。

 

落ちるところまで

落ちます。

 

そこに意味があります。

 

中途半端ではなく、

落ちるところまで

しっかりと落ちること。

 

それをすれば、

必ず、

「底」

にたどり着きます。

 

底にたどり着くことで

私達はもう

どうあがいてもこれ以上

落ちることができないことを

知ります。

 

頭での理解ではなく、

実感として

知ります。

 

それにより

私達は

「再浮上」

を始めます。

 

本当に後悔し、

本当に落ちるところまで落ち、

再浮上する。

 

この一連の流れを

私達は真本音で望むことが

あります。

 

その真本音の望み通りに、

しっかりと後悔をすれば、

再浮上の直前から

「反省」

が始まります。

 

「反省」とは

「解放」であり「開放」

です。

 

「反省」とは

本来は

すがすがしいもの

です。

 

なぜならそれは

次のステージに上がるための

気づきだからです。

 

私達はどうしても、

自分が落ちようとすると

まるで無限に落ちていくような

恐怖に苛まれます。

 

それにより、

バタバタとあがきます。

 

しっかりと

後悔すればよいのに、

中途半端に

後悔や悔恨の念から

逃れようとします。

 

そして、

中途半端な反省を

します。

 

中途半端な反省は

中途半端な浮上しか

もたらしません。

 

ゲームではなく、

本当の意味で後悔する

ということは、

真剣に生きている

証拠です。

 

真剣に生きていることを

一番よくわかっているのは

自分自身です。

 

そんな自分を

私達は見捨てることは

しません、決して。

 

ですから、

後悔に呑まれたら、

とことん後悔し尽くしましょう。

 

素直に

落ちていきましょう。

 

底に着いたら

底で大の字になって

休みましょう。

 

そして、

自然に浮上するのを

待ちましょう。

 

今、

人生の転換点を

迎えている人が

増えています。

 

大事な転換点。

 

後悔すべきをしっかり後悔し、

反省すべきをしっかり

反省しましょう。

 

つづく

 

無理な自己肯定は苦しみしか生まない

「私はなぜ、こんなにも

これまでの自分に

固執してしまうのでしょうか。

自分の殻を破りたいと思っても、

どうしても、それができません。

これまでの自分のまま

行けばいいじゃないか、という

自分が出てきて、

自分を支配してしまいます。

私は一生、このまま

行くのでしょうか?」

 

あるクライアントさんの

この切実な声を聴いたとき、

私は、

あぁこの人は大丈夫だな、

と思えました。

 

もうすでに

ちゃんと自分を

否定しています。

 

これまでの自分ではいけない、

ちゃんと自分を否定しています。

 

そして、

これまでの自分に

固執してしまう自分を

ちゃんと否定しています。

 

私は、

 

「自己否定感」

 

って、とても大事だと

思っています。

 

よく、

「自己肯定感を大事に

しましょう」

と聴きます。

 

もちろん、大事です。

 

でも同時に、

自己否定感も私は

私達人間にとっては大切な

宝物だと思うのです。

 

大事なのは、

・どこを肯定して

・どこを否定するか

です。

 

これは、

私達自身の真本音が

決めることです。

 

ところが、これが

ずれている人が

います。

 

すると、とても苦しい人生展開と

なります。

 

よく、やみくもに

「自己肯定感が大事だ」

と言い続ける人がいますが、

それは間違いです。

 

肯定の裏には

必ず、否定があります。

 

「肯定しよう」と思う心の裏には

必ず、

「否定しよう」という自分が

隠れています。

 

否定する自分を消して、

肯定だけの自分になる

というのは、

自然の摂理に反しています。

 

自然の摂理に反することを

すれば、

私達人間は苦しみます。

 

15タイプというお話を

最近は書かせていただいて

いますが、

(→【最も苦しい状態に入ると、人はどうなるか?】)

なぜ人は15タイプにまで

落ちてしまうかと言いますと、

それは、

いびつな自己肯定感に

よるものです。

 

何でもかんでも

自己肯定しようとする

不自然さが、

多大なるストレスを生み、

そのストレスの苦しみから

逃げるために、

現実逃避に走り、

その結果として

15タイプにまで落ちてしまいます。

 

「肯定」

という言葉の裏には必ず

「否定」

があります。

 

「肯定」と「否定」は

同次元です。

 

同次元による

「解釈」にすぎません。

 

大切なのは、

すべてを

「あるがままに見つめる」

こと。

 

それをすることで、逆に、

「今の私は自分自身の

何を肯定し、

何を否定すればよいか?」

が観えてきます。

 

観えてきたら、

肯定すべきをしっかりと

肯定し、

否定すべきをしっかりと

否定する、

ということをすればよいのです。

 

それによってのみ、

私達は

本当の一歩、

つまりは、真本音で望む一歩を

進むことができます。

 

しっかりと、

自己否定できる人は、

しっかりと、

自己肯定することも

できます。

 

中途半端にしか

自己否定できない人は、

中途半端にしか

自己肯定できません。

 

上記のクライアントさんの

言葉に対して、

私はどのようにお応えしたと

思いますか?

 

皆さんなら、

どのように対応

されますか?

 

私は、そのクライアントさんに

次の問いを投げました。

 

「では、あなたは

あなたの何を肯定していますか?」

 

です。

 

それをすべて明確に

しました。

 

すると、

素晴らしかったです。

 

そのクライアントさんは

ちゃんと自分のことを

観ている。

そんなことがよく

わかりました。

 

自分で自分の何を

肯定しているか?

 

をすべてきちんと

列挙すると、

 

自分で自分の何を

否定しているか?

 

もわかります。

 

そのクライアントさんは

言われました。

 

「あぁなるほど!

私は本当は、私のことを

全否定しているわけでは

なかったのですね。」

 

そして、

 

「なんだ、結局は、

私は、これから取ろうとしている

私の行動(選択)に対して、

恐怖を抱いていただけ

なのですね。

なんだ、そうか・・・。

私がこれから本当に行きたい

と思っている選択肢に

行くのが怖かっただけですね。」

 

・・・と。

 

で、私はさらに問いました。

 

「怖ければ、

やめてもいいんですよ。

自分でちゃんと決めるので

あれば、

行くのもよし、

やめるのもよし、

ですよ。」

 

すると、

そのクライアントさんは

きっぱりとお答えになりました。

 

「いえ、行きます。

ここで行かなきゃ、後で絶対に

後悔します。

なんだ・・・。

この一歩を踏み出せば

良いだけのことだったか・・・。」

 

あぁ、今この人、

次元が一つ、上がったな。

 

と実感できました。

 

う〜む。

 

人って、やはり

本当に凄いですね。

 

つづく

 

あなたと私は別物? それとも、一つ?

人と向き合うお仕事を

始めてから、

気がつけばもう22年が

経っています。

 

しかし私が

本当の意味で

人間探究を始めたのは

31年前、19歳の時からです。

 

私は

何のために生きれば

よいのか?

 

人は

何のために生きれば

幸せなのか?

 

人間探究の基本的問いは

これだったでしょうか。

 

この問いを

徹底的に考え続けた

31年間でした。

 

とはいえ、

考え続けると言っても

本当にただ考え続けるだけでは

何の意味もないと

私は思っています。

 

「考える」とは

「現実」とのコラボであると

私は思います。

 

つまり、

どこかに引きこもって

一人で考えるのではなく、

現実世界を生きる中での様々な

体験や経験を通じて、

一つ一つを

時には悩みながら、

時には突破しながら、

考え続けるということですね。

 

それをしなければ

単なる自己満足に

終わるでしょう。

 

で、

そんなことを続けながら

今さらながらに

本当に思うわけです。

 

人間というのは

奥が深いなぁ。

面白いなぁ。

 

人生というのは

奥が深いなぁ。

面白いなぁ。

 

・・・と。

 

同じ人間が、

同じ経験を積んでも、

同じ人生になるとは

限らないのです。

 

例えば、

もう一度タイムマシンで

生まれた瞬間に戻り、

記憶を消した上で、

同じ環境下で

人生をやり直したとしても、

同じ人生展開になるとは

限らないのです。

 

記憶を消しながら

100回同じ人間として

同じ環境に生まれたならば、

間違いなく

100通りの人生と

なるでしょう。

 

いやいや、

人生って決まっているから

と言う人もいます。

 

私も過去のブログで、

高い次元では

過去も今も未来も一つである、

と申しました。

 

しかしそれは、

人生というものが一つに

固定されているという意味では

ありません。

 

今この瞬間の

過去と今と未来は

一つです。

 

この瞬間だけを

切り取ったとしたら、

すべては「決まっています」。

 

ところが、

0.1秒後の「今」を起点にすれば

その時点での

過去と今と未来は

一つですし、決まってはいますが、

その0.1秒前の

過去と今と未来と

一致するとは限らないのです。

 

この3次元の世界は

時間が分離しています。

 

今の自分と、

0.1秒前の自分と、

0.1秒後の自分は

別物です。

 

それぞれの

過去・今・未来が

あるのです。

 

つまり、

無限とも言える自分が

一刻一刻の「今」という時間に

存在しています。

 

わけがわからなく

なりますでしょ?

 

じゃあ人生って何よ?

となりますでしょ?

 

だから人生は

奥深いのです。

 

本当は別々で

分離している自分という

人間が、

時間というものが

一方向に一定のスピードで

流れ続けることで、

まるで連続しているかのように

顕在意識では把握される、

というのが、

この3次元世界の特徴です。

 

高い次元では、

そういうこともすべて

ひっくるめて

「一つ」ですので

説明の必要もないのですが、

3次元にいる自分が

これらのことを理解しようと

すれば、

本当にわけがわからなく

なります。

 

でもそこを諦めずに

探究し続けたのが、

私の人生だった気がします。

 

私はいったい

何者なのだろうか?

 

あの人はいったい

何者なのだろうか?

 

あの人と私は

別物か?

それとも、一緒か?

 

別物であるならば、

なぜ、別物でなければ

ならないのか?

 

一緒であるならば、

なぜ、一緒であるように

思えない時があるのか?

 

・・・マニアックでしょ。笑

 

でもそういうことを

本当に真剣に

答えを求め続けてきましたし、

今でもそうです。

 

おかげで、

途中から

「実在」と「現象」の存在とか、

その関係性に

気づくことができました。

 

その気づきとは、

本来、言葉にならないもの

です。

 

でも、それをあえて

言葉にしながら説明する

というのも、

私の使命の一つだとも

思っているのです。

 

今、おかげさまで

多くの方々との出会いが

広がっています。

 

出会うすべての人は、

私とは別人であり、

でも、

私そのものであるとも

思っています。

 

どの次元からものを観るか?

によって、

答えが真逆になるものだ、

ということも

経験を通じて知りました。

 

真逆の真理の

溢れる世界。

 

それがこの3次元世界であり、

3次元で生きる

私達の人生の醍醐味の

一つです。

 

真逆とか矛盾とか、

そういったことをすべて

ひっくるめて、

人生を味わい尽くしたいですね。

 

つづく

 

不自然なものは、自然なものにはかなわない

ある会社では、

8名の幹部さん達が

経営を担っていました。

 

彼らは一致団結しながらも

会社の根本的改革に

取り組んでいました。

 

ところが、

ある日を境に突然、

8名のうちの3名が

幹部を抜けることになりました。

 

3人とも

会社に来れなくなったのです。

 

「会社に来るのが怖い」

と言い始めたのです。

そして3人ともが、

退社の方向にありました。

 

また、ある別の会社では、

これまで社内の雰囲気が

とてもよく、

社長以下、全社員さんが

「我社は本当に人を大事にする

居心地の良い会社です」

と、明るい表情で胸を張って

言われていました。

 

ところが、ある日を境に、

社員さん同士が

深刻な対立を始め、

立て続けに

数名の社員さんが

辞めていくことになりました。

 

原因は

明白でした。

 

2社とも、

「15タイプの風」が

社外から流入したのです。

(→前回記事参照)

 

前者では、

幹部さんではなく、

ある一般社員さんから

でした。

 

そして後者では、

新しく入ったばかりの

明るい女性社員さんから

でした。

 

お二人とも

その社員さんご自身には

何の問題もありませんでした。

 

ところが、

そのご家族に15タイプが

いらっしゃることが

わかりました。

 

そのご家族も

もともと15タイプだったわけではなく、

他の15タイプの人からの

風を受け、

15タイプにまで落ちてしまった

ようです。

 

さらに別の例ですが、

ある小学校の先生は、

自分が鬱になるのではないか?

という悩みを抱え、

私のところにいらっしゃいました。

 

面談してすぐに

わかりました。

 

その先生も

「15タイプの風」に

やられていました。

 

それは、ある生徒さん

から来ていました。

 

その生徒さん自身には

問題はありません。

 

ところが、

その生徒さんのご両親が

15タイプになってしまっていた

ことがわかりました。

 

こういった例を

挙げ出すと、

キリがありません。

 

皆、

前向きな人ほど、

やられてしまいます。

 

誰よりも人を大切にし、

誰よりも会社を大切にしようと

真面目に取り組んでいる人ほど

やられてしまいます。

 

この人が

おかしくなるはずがない、

と思われている人ほど、

やられてしまいます。

 

「15タイプの風」には

そんな傾向があるのです。

 

ただ、・・・

以上の3例はすべて

今は改善されました。

 

今は、15タイプの風は

吹いていません。

 

いえ、

正確に言えば、

15タイプの風がたとえ吹こうとも

まったくビクともしない

強さを、

今は誇っています。

 

15タイプの風にやられることで、

多くの人は

かなりのダメージを得ます。

 

あまり脅すつもりは

ありませんが、

あえて表現すれば、

魂や心が焼けただれている

ようなダメージです。

 

大火傷のような

ダメージです。

 

しかし私達人間には

自然治癒力があります。

 

そしてたとえ、

15タイプと関わっても、

自分が影響を受けるのではなく、

むしろその15タイプに影響を与え、

もう一度、健康状態に戻すだけの

力が、

もともと私達にはあります。

 

その力を

取り戻すことが

唯一の対応策です。

 

つまりそれは、

15タイプの風の窓口となって

しまっている人と、

15タイプの風を

真正面から受けてしまっている

人の

 

「真本音度合いを上げる」

 

ということに

他なりません。

 

しかもその「上げ方」の

目安があります。

 

それは、

「真本音度合い50%以上」

にするということです。

 

つまり、

自分の行動の半分以上を

真本音に素直にする、

真本音に基づいたものにする、

ということです。

 

真本音度合いが

50%を超えますと、

明らかに、自覚症状として

その人自身が

パワーがみなぎってくるのが

わかります。

 

しかもそのパワーは

イケイケどんどん的な

発散するようなパワーではなく、

もっと自然で

もっと静かで、

しかももっと深いものです。

 

そのパワーを

自ら感じ取れるようになれば、

「あぁ私は、どんな人と

向き合っても大丈夫だな」

と思えるようになります。

 

その状態になれば、

15タイプの風に当たっても

ビクともしません。

 

そして、

15タイプの人と関わっても

しっかりと「向き合う」ことが

できます。

 

15タイプは所詮、

15タイプです。

 

真本音の放つ本質的な

パワーには太刀打ちできません。

 

そのパワーに

癒されながら、

再び15タイプを離れ、

自らの真本音度合いを高めていく

ことも可能です。

 

実は、

今回の記事の二つ目の例の

女性社員さんの

15タイプのご家族というのは

その方の旦那さんでした。

 

その方は

15タイプの旦那さんと

結婚されたのではなく、

結婚されてから旦那さんが

職場において15タイプの風を

受け続けることで、

自らが15タイプにまで

落ちてしまったようです。

 

しかしその女性社員さんは

真本音度合いを50%以上に

上げることができました。

 

その結果、

旦那さんも健康状態に

戻りました。

 

そして先日、

お子さんが生まれたのです。

 

私のところに赤ちゃんを連れて

ご挨拶にいらっしゃった時、

私は嬉しくて

泣きそうでした。

 

とても元気な

赤ちゃんでした。

 

真本音度合いを高める、

とは

特別なことではありません。

 

私達が、本来の人間としての

姿を取り戻すだけのこと。

 

自然体を

取り戻すだけのこと。

 

私達は、自然体になれさえすれば、

調和を起こすことが

できるのです。

 

つづく

 

社外からウィルスが持ち込まれてしまう

ある会社(A社)で

新規事業が始まりました。

 

そのため、

これまでの顧客とは別の

新たなお客様が急激に

増えました。

 

その新規事業は将来性が高く、

A社のナンバー2の

幹部社員Bさんが

すべての責任者となりました。

 

Bさんは精力的に

新しいお客様と交わりました。

 

Bさんは社内でも

信頼度の高い幹部さんで、

社員さん達からの人気も高く、

何かあればまず第一に

Bさんに皆が相談にいく、

という風潮がありました。

 

ところが、

新規事業が軌道に乗り、

数ヶ月が経った頃、

これまで一致団結していた

社員さん達に

急に不協和音が起こるように

なりました。

 

派閥などがなかった社内に

短期間で派閥ができました。

 

社員さん同士の

足の引っ張り合いが

始まりました。

 

そのうちに、

会社を辞めたい、という

社員さんが出始めました。

 

特に、仕事に精一杯

取り組んでいた社員さんほど

「辞めたい」と。

 

そしてついには

うつ病の社員さんが

出始めました。

 

私はその会社の

ナンバー3の幹部さんから

ご相談を受けました。

 

そして社長とお会いしました。

 

とても魅力的な社長

でした。

人思いの社長です。

 

社長は言われました。

 

「なぜか急激に

社内の雰囲気が悪くなりました。

原因はわかりません。

強いて言えば、

新規事業を立ち上げたことでしょうか。

でも、新規事業自体は順調ですし、

お客様からの評判も良いですし・・・。

でも、それ以外に

特に何かが変わったわけではありません。

私の経営の仕方が

悪いのでしょうか?」

 

次に私は、

新規事業担当幹部のBさんと

お会いしました。

 

Bさんも素敵な

方でした。

 

しかし、

Bさんとお会いした瞬間に

原因がわかったのです。

 

15タイプです。

(→前回記事参照)

 

いえ、

Bさんが15タイプという

わけではありません。

 

Bさんが

「15タイプの風」

を受けていたのです。

 

つまり、

こうです。

 

新規事業で出会った

新たなお客様の中に

15タイプの人が

いたのです。

 

Bさんはその方と

頻繁にお会いすることで、

その方から強烈な

エンティティを

もらい続けていました。

 

しかしBさん自身は

元気な方で、

恐らく心も丈夫な人

なのでしょう。

 

Bさん自身に

エンティティによるダメージは

あまりありませんでした。

 

ところが、

Bさんは、そのお客様から

もらったエンティティを

毎日、社内に

持ち込んでしまっていたのです。

 

エンティティとは、

風邪のウィルスと

同じです。

 

インフルエンザのウィルス

という表現をした方が

わかりやすいでしょうか。

 

人から人へと

伝播します。

 

元気な人は

それを受けても

発症しません。

 

ところが、

Bさんがそれを社内に

持ち込むことで

15タイプの強烈なエンティティが

毎日、社内を

「流れる」

ようになったのです。

 

その「流れ」に

触れることで、

強烈なエンティティを

受け取ってしまい、

その結果、

真本音度合いが極度に下がり、

エンティティの持つ

・不安や恐れ

・絶望感

・憤り

などによって心を侵食され、

それらによって、

人への不信感や

未来への絶望感を感じ続け、

本来の自分を見失ってしまう

という、

そんな症状の現れる人が

続出したのです。

 

その結果が、

派閥であり、争いや確執であり、

うつ病です。

 

以上は、実際にあった例を

述べましたが、

こういった

「外部から15タイプのエンティティが

社内に流入し続ける」

という現象が、

ここ最近、私がびっくりするくらいに

多発しています。

 

社内に15タイプがいる

わけではないのです。

 

でも、社内の誰かを伝って

15タイプのエンティティが

流入し続けるのです。

 

それは最近流行している

インフルエンザのようです。

 

ですから最近の私は、

外部から誰を介して

「15タイプの風」が

社内に持ち込まれているか?

 

持ち込まれたエンティティが

どのような経路で

社内を循環し続けているか?

 

・・・を特定する仕事が

増えています。

 

それを特定し、

エンティティの循環を

断つことが、

まずは応急処置として

必要だからです。

 

「15タイプの風」にやられた人と

向き合うと、

私は独特の「ザワザワ感」を

得ます。

 

それは、

15タイプの人と向き合った時の

ザワザワ感と

本質的には同じです。

 

昨年までは

ここまでひどい状況では

ありませんでした。

 

本当にここ1〜2ヶ月の

ことです。

 

なぜこうなっているのか?

を私自身が今、

研究・探究している最中

です。

 

しかし、とにかく

対応をしなければ

なりません。

 

その対応に追われているのが

最近の私です。

 

このお話は

まだ続けます。

 

つづく

 

最も苦しい状態に入ると、人はどうなるか?

さて・・・。

 

今回は、

 

「15タイプ」

 

ということについて

書かせていただきます。

 

実は、これについて

こういった不特定多数の方々が

ご覧になるブログのような場で

書かせていただくのは

初めてではないかな、

と思います。

 

なぜならこの内容については、

人によってはかなりの

誤解や偏見を

生んでしまう可能性が

あるからです。

 

ですから、

これについては

これまでは口頭で

かなり慎重にお伝えする、

ということを大切にして

まいりました。

 

しかし、状況的に

そうも言っておられなく

なりました。

 

今年に入ってから、

私は様々な

「15タイプによる影響」

と遭遇してきました。

 

その頻度は、

昨年までの比では

ありません。

 

初めてお会いする企業様で

組織活性化において

かなり深刻なご苦労を

されている場合、

今はその根本原因のほとんどが

15タイプによる影響だった、

と言って差し支えないでしょう。

 

ですから一つの情報として

これについて書かせていただくことは

かなり有用ではないか、と

考えた次第です。

 

では、

「15タイプ」について

書かせていただきます。

 

前回の記事で、

「エンティティ」について

書きました。

(→前回記事)

 

「15タイプ」とは

そのエンティティを

普通の人の6倍以上

抱え込んでしまっている人の

ことを言います。

 

15タイプの「15」とは

「真本音度合い1.5%の人」

という意味です。

 

私は個人や企業様での

サポートにおいて、

「真本音度合い」を

かなり詳細な数値(%)として

把握します。

 

数値化することで、

きめ細やかなサポートが

できるからです。

 

ここではその詳細は

書きませんが、

「真本音度合い1.5%」

というのは、

人間としてこの世に存在できる

最低の数値であると

言ってよいでしょう。

 

つまり、

真本音度合いが1.5%未満では

私達の心と、そして魂は

存在できなくなるのです。

 

私達が「存在」するための

「生物」としての臨界点が

真本音度合い1.5%なのです。

 

その最低値まで

真本音度合いが落ちてしまっている

人のことを

「15タイプ」

と呼んでいます。

 

最低値ですので、

それはもう大変なことです。

 

割合としては、

滅多なことでは遭遇しない

タイプです。

 

私達人間は、通常、

真本音度合いが

高まれば高まるほど

人としての「幸せ」な感覚に

包まれます。

 

魂も心も満たされた

感覚となります。

 

その結果常に

ゆとりを持ち、

安定感や安心感を伴いながら

生きることができます。

 

15タイプとは

その真本音度合いが

最低ということですから、

人間としては

最も苦しい状態となります。

 

ところが・・・。

 

真本音度合いが1.6%までは

確かに苦しいのです。

苦しいことを

苦しいと感じるのです。

 

しかし最低値の1.5%にまで

落ちてしまうと、

苦しさの限界を超えて

しまうのです。

 

その結果として、

「麻痺」

が起こります。

 

いや、

麻痺だけならまだ

ましです。

 

かなり表現は悪いのですが、

あえて言えば、

覚醒剤を打ったような

状態となるのです。

 

昔、中学の理科の授業で

カエルの解剖を

したことがありました。

 

その時、解剖するカエルは

麻酔液の中に

全身を浸けられます。

 

そうなるとカエルは

恍惚とした表情となります。

 

その表情のまま、

解剖をされていくのです。

 

解剖をされながらも

恍惚としている

そのカエルの表情が

当時の私としては

かなりショックだった

覚えがあります。

 

それに近いです。

 

15タイプの人は、

その不自然な恍惚の中

で生きています。

 

ですので

表面上の雰囲気だけを見れば

非常に自信に溢れて

いる人が多いです。

 

ところが、

本質的には、そのような

苦しみの極致にありますので、

その人には

通常では考えられない

大量のエンティティが

発生するのです。

 

そのエンティティ量は、

私の体感で表現すれば、

普通の人の6倍以上

ということなのです。

 

私がこの15タイプについての

お話をなぜ公ではしないかと

言いますと、

これを聴いた人が

「あの人は15タイプではないか?」

と勝手に

疑心暗鬼になりながら、

人と関わるようになることを

危惧するからです。

 

ですので、あえて

書きますが、

かなりひどい表現でここまで

書きましたが、

それでも、15タイプの人も

ただの人間です。

 

悪魔でも妖怪でも

ありません。

 

人間である以上、

もちろん、15タイプに落ちて

しまったとしても、

再び、誰もが浮上します。

 

人は、

進化を望む生き物

だからです。

 

ただ、15タイプの人の

エンティティは

なかなかに凄いものがあり、

その影響によって

人や組織が

「我を失ってしまう」

状態になることがあります。

 

そんなケースが

最近、多発しているのです。

 

ということで、

次回以降、

15タイプの特色と

最近、企業や組織において

どのような影響が広がっているか

について、

書かせていただきます。

 

つづく

 

なんだ?この異様な不安感は・・・

今回は、次のご質問に

お答えします。

 

「どうしても未来に対して

不安になってしまいます。

自分なりに真本音を大切にして

生きているつもりですが、

すぐに不安になり、

そこから抜け出せなくなります。

私の真本音度合いは

上がっていないのでしょうか?」

 

・・・実は、こういったご質問が

とても増えています。

 

これは、世の中全体の

ある潮流による影響もあるのですが、

それについてはまた改めて、

別の機会に書かせていただきます。

 

今回は、ダイレクトに

このご質問にお答えします。

 

自分の真本音を大事にすれば

するほど、

逆に不安感が増してしまう、

という場合、

最も多いケースが、

 

「エンティティ」

 

によるものです。

 

エンティティとは、

ストレスがある一定以上の

濃度に凝縮されたものを

言います。

 

ある一定以上になれば、

それは、3次元化します。

つまり、

物質化します。

 

まぁ、物質とまではいかなくても

それに近い状態にまで

なります。

 

それは強烈な「念」であり、

エンティティを日本語に訳すと

「生霊」

と訳されることもあります。

 

こう書くと、非常に怖いですが、

実はエンティティとは

多かれ少なかれ

すべての人が持っています。

 

持っていない人はいない、

と言い切ってしまっても

よいでしょう。

 

そしてそれはまるで

風邪のウィルスのように、

人から人へ

伝染します。

 

いつも空気がドヨ〜ンと

淀んでいる人や、

空気感の重たい人、

顔つきが、まるで獣のように

険しい人などは、

エンティティが多い人です。

 

そういった人と一緒にいると、

エンティティがこちらに

移ってきたりします。

 

こう書くと、

いやだ、気持ち悪い!

となると思いますが、

これは私達が日常において

当たり前のように行なっている

ことです。

 

極端な言い方をすれば、

私達はエンティティの交換を

しながら関わり合っている、

とすら言えます。

 

さて。

 

真本音度合いが高まると、

通常はエンティティは

とても少なくなります。

 

自らエンティティを発生させる

ことは激減します。

 

ところがその分、

稀にですが、

他者のエンティティを

どんどん吸収してしまうタイプの

人がいるのです。

 

ほとんどの人が

他者のエンティティを受けても

真本音度合いが高まれば

それを「流す」ことが

できます。

つまり、エンティティによる

ストレスやダメージを

受けずに済むのですが、

稀に逆になるタイプの人が

いるのです。

 

それは、

その人の真本音の使命に

よるものです。

 

つまり、

真本音レベルで

「私は人のサポートをしたい」

と決めている人のうち、

「私は人のエンティティを

あえて受け取り、

そのエンティティの状態を

把握することにより、

その人の苦しみを把握し、

それによりその人に

適切なサポートをしたい」

と決めている人が

いるのです。

 

実はその典型が

私なのですが。

 

私の場合、

その傾向が極度に高く、

私の真本音度合いが急激に

高まった時代は、

道端でも何でも、

会う人会う人のエンティティを

全部吸収してしまい、

本当に大変でした。

 

今は、おかげさまで

その人のエンティティを

吸収するかどうか?を

自分で決めてコントロール

することができるように

なりましたが、

当時はもう、死ぬ思いでした。

 

おかげで

自律神経がいかれてしまい

ご飯をほとんど食べられなくなった

時期もありました。

 

しかしおかげで

エンティティ浄化の方法を

研究し編み出すことが

できたのですけど・・・。

でもそれには

数年を要しました。

 

で・・・。

 

何が言いたいかと言いますと、

真本音度合いが上がっている

にも関わらず、

未来に対する不安感が

増してしまう場合の多くは、

 

人からのエンティティを

大量に吸収してしまっている

可能性が高い、

 

・・・ということです。

 

エンティティは多くの場合、

未来に対する

・絶望

・不安

・憤り

などの塊です。

 

その塊を受けることで、

・自分の心が発生させている不安と

・エンティティが持っている不安の

区別がつかなくなるのです。

 

つまり、その不安は、

「あなた自身のものではなく、

エンティティのものなんだよ」

・・・ということになります。

 

まずは、

その区別をつけるだけで

相当に楽になるはずです。

 

ですので、

自分は真本音を大事にしている

のに、

なぜか不安が高まってしまう、

という場合は、

 

「この不安は本当に

私のものだろうか?」

 

と自分自身に問うてください。

 

そして、

体の中のどこにその不安感が

あるか?を

特定してください。

 

そして、

そこに意識を向ければ、

「うわっ、なんか

気持ち悪いものがある!」

となるかもしれません。

 

そうなったらそれが

エンティティです。

 

エンティティだとわかれば、

それをただ

存在承認してあげてください。

 

愛の眼差しで

そのエンティティを

観てあげてください。

 

それだけでエンティティは

浄化されるはずです。

 

エンティティも

人の心です。

 

反応本音の塊です。

 

すべての反応本音は

存在承認すれば

よいのです。

 

つづく

 

手に負えないクライアントさんばかりで・・・

次のようなご質問を

いただきました。

 

「私にはずっと以前から

一つの夢があります。

でも、真本音というお話を聴いてから、

その夢は単なる反応本音の夢では

ないか?と思うようになりました。

でも、どうしてもその夢を

捨て去ることができません。

その場合は、どうすれば

よいでしょうか?」

 

以前に、

未来を描くことで

道が閉ざされてしまう、

ということを書かせていただきましたが、

でもやはり、

自分なりの

「捨て去れない夢」

があること自体は

素晴らしいな、と私は思います。

 

捨て去れないのであれば、

捨て去らない方が

いいですね。

 

私が最も良くないな、

避けてほしいな、

と思うのは、

頭で(理屈で)良し悪しを

判断・解釈して、

頭で(理屈で)すべてを

進めてしまうことなんです。

 

特に、

人から言われた理屈を

そのまま鵜呑みにして

無理に「それが正しい」と

自分に思い込ませるのは

良くないですね。

 

私のクライアントさんは

その点、

とてもしっかりした人が多く、

私がどんなアドバイスをしても、

聴いてくれない人が

多いんです。笑

 

「たけうちさんには、

ああ言われたんですけど、

でもどうしても、こうだと思い、

こうしちゃいました。」

 

・・・と笑いながら、

ある意味、自分の思う通りに

物事を進めるクライアントさんが

多いんです。

 

そういった姿を見ますと、

私はいつも嬉しくなります。

 

だって、その人は

自分自身できちんと

判断していますもんね。

 

ですので、

私のクライアントさんで

長くクライアントさんでいて

いただける人は、

私の手に負えない人

ばかりかな。笑

 

私は、私の手に負えない人と

お付き合いするのが

どうも、大好きなようです。

 

なので、

「私の夢は反応本音の夢だと

思いますが、

それでも、その夢を

目指すことにします!」

と断言されると良いですね。

 

その断言が、

道を創ります。

きっと。

 

人生を進むということにおいて、

私が最も大事だなと

思うことの一つは、

「納得」だと思うのです。

 

本人の納得。

 

どれだけ他者から

良いアドバイスを受けたとしても

たとえそれが真理だとしても、

本人が納得しなければ、

その人にとってはそれは

真理ではないのです。

 

納得しないまま、

言われた通りに人生を

進めれば、

それはもう、その人の人生

ではありません。

 

ですので、

「反応本音だろうが、何だろうが、

私はこの夢に向かうんです!」

という人がいれば、

私はその意志をとことん

尊重したいですね。

 

で、本当にその夢が

叶うように

サポートすると思います。

(もちろんその人が

サポートを望むならば。)

 

そして、

本人の「納得の道」を行けば、

必ずそこに「真理」は

待っています。

 

「あぁ、そういうことか!」

という、納得の気づきが

待っています。

 

その道のりこそが、

大事であり、

その人の真本音が

望んでいるものでは

ないでしょうか。

 

人生に

正しい・間違っている

はありません。

 

その人が「正しい」と

思う道を行くことが

大切です。

 

たとえそれで

痛い目にあったとしても

そのプロセスこそが大切であると

思います。

 

ただ、・・・

私が拝見するに、

自分が納得していないにも

関わらず、

その道に進もうとする人が

多いです。

 

その場合は、

私は、それを止めるでしょう。

 

「本当に、

納得していますか?」

と。

 

納得しないままに

進んでしまえば、

それは、「妥協の道」です。

 

妥協の道において

真理に結びつく気づきは

あり得ません。

 

真本音・反応本音とか

関係なく、

その人の本当に納得のいく

道に進むためのサポートを

私はしたいですね。

 

で、それができていれば

必然的にその人は

真本音の道に進むようになりますし、

その結果、

「やっぱりあの夢は違いました」

となれば、

それは大きな「脱皮」です。

 

そういったことをすべて

踏まえて、

私は、これからも

真本音・反応本音の真理について

語り続けるでしょう。

 

真本音の道を

行きなさい、と

言い続けるでしょう。

 

それが私の

役割ですから。

 

つづく

 

最後に出てくるラスボスは、顕在意識です

「自分を変えたい、と思っても、

自分の何を変えればよいのか、

わからないのです。

ただ、今の自分に対して

イライラ、モヤモヤします。」

 

ここ1〜2ヶ月、

こういったお声を

たくさんお聴きします。

 

イライラ、モヤモヤ。

 

・・・この感覚は

本当に大切です。

 

私達人間は、

イライラ、モヤモヤを感じた場合、

それを本能的に

解消しようとします。

 

ところがその解消には

かなりのエネルギーを

要することがあります。

 

特にそれが

真本音によるイライラ、モヤモヤ

であれば、

なおさらです。

 

真本音による

イライラ、モヤモヤとは

何でしょうか?

 

それは、

 

「今の自分のパターンでは、

脱皮できないよ」

 

とか

 

「これまでのやり方では、

次元を上がれないよ」

 

という合図であり、

メッセージです。

 

これまでのパターンや

これまでのやり方を

変えるということは、要するに

「自己変革」です。

 

その場合の「自己変革」とは

「まずは行動パターンを

変えなさい」

ということです。

 

つまりそれは、

「自分自身の顕在意識の

パターン(クセ)を

変えなさい」

ということです。

 

その場合、

自分のどのようなパターン(クセ)を

変えなければならないか?を

しっかりと頭で

考えなければなりません。

 

顕在意識・・・。

 

これは、

今こうしてものを考えたり

感情を出したりしている

自分自身なのですが、

これがまた結構

厄介なのです。

 

よく、

潜在意識が変われば、

顕在意識も変わる、

というようなことが

言われていますが、

なかなかどうして、

顕在意識は、強いです。

 

潜在意識レベルの

あらゆるものが変化したとしても、

最後の最後で

顕在意識が変わらないことで

自己変革ができていない人を

私は、いやというほど

拝見してきました。

 

結局は、

この世(3次元の現実)で

生きているのは

私達の顕在意識です。

 

自分の行動の

最終決定者は

顕在意識なのです。

 

どれだけ

潜在意識レベルで

「Aに行こう」

と思っていても、

最終的に顕在意識が

「Bがいい」

と思えば、

Bに行ってしまいます。

 

心の中では真本音の度合いが

上がり、

真本音発想がどんどん生まれる

ようになっても、

それをその通りに

行動に移すかどうかは、

顕在意識が決めます。

 

その結果、

真本音で望むのとは

まったく別の行動を

取り続けるということも

人によってはあるのです。

 

私はこれを

「顕在意識の抵抗」

と呼んでいますが、

ゲームのラスボスではないですが、

最後の最後で

自己変革の妨害をする

最大の敵が

顕在意識であったりします。

 

そしてそういった場合に

イライラ、モヤモヤが

大量発生するのです。

 

つまり、

イライラ、モヤモヤとは

「顕在意識の抵抗」

に対する、

「真本音の抵抗」

です。

 

顕在意識レベルで

変わろうとしない自分自身への

警告です。

 

そういった

真本音レベルでの

イライラ、モヤモヤの場合、

先ほども書きましたが、

私達のエネルギーは著しく

ダウンします。

 

真本音からしてみれば、

「これ以上、これまでの自分の

パターンに執着するならば、

もう私は私に

生きるパワーを与えないよ」

というメッセージなのです。

 

「たけうちさん、

どうしても最近の私は

パワーが出ません。

イライラ、モヤモヤして

しまうんです。」

 

そう言われる人が

最近、増えているのですが、

その原因は

「あなたのその顕在意識です」

ということになります。

 

その人の多くは、

「パワーが出ないので、

自分が変わる気力も

出ません」

と言われるのですが、

いやいやいや、

変わろうとしていないのだから

パワーが出ないのです。

 

このカラクリに気づいたら、

一つずつ、一つずつ、

自分の行動を

変えることです。

 

自分が何をどう

変えなければならないか?

 

本当はよく

わかっているはずです。

 

だって、真本音は

それを望んでいるのですから。

 

本当は、

「答え」を知っているはずです。

 

でもその「答え」を

観たくない。

観たら、行動を変えなければ

ならなくなるから。

という抵抗をしているのは、

あなたのその顕在意識のみ

なのです。

 

つまり、

顕在意識レベルで

「私は変わろう」

と本気で思うだけのことです。

 

顕在意識で思うだけで、

発想が変化するはずです。

 

あとはその発想のまま

一つずつ

できるところからで良いですから、

自分の行動を変えるだけです。

 

はっきり言って、

こんなに簡単なことは

ないと

私は思うのですけれどもね。

 

つづく

 

人の中心に何があるか?を知り、生き続けることができました

人の本能の中心には

「進化」

があります。

 

・・・ということを私はよく

言いますし、

このブログでも書いてきました。

 

では、

進化の中心とは

何でしょうか?

 

これを言語化することは

非常に難しいのですが、

現時点でこの世の中で

一般的に用いられている言葉の中で

最も近いものを選ぶとすれば、

 

『祈り』

 

となります。

 

「祈り」と書くと、

途端に宗教チックになったり

スピリチュアルな臭いがしますが、

でもやはり、

最も近い言葉はこれかな。

 

これまでのブログでも

何度も書かせていただきましたが、

私はもともと

ひどい人間でした。

 

いまだに、

かつての私以上に

反応本音やエンティティの凄い人に

出会ったことがありません。

 

かつての私以上に

執着の凄い人に

出会ったこともありません。

 

あのままの私でもし

進んでいたら、

私は間違いなく私の命を

絶っていたでしょう。

 

その場合、だいたいいつくらいに

それをしていたかも

今となってはリアルに

わかります。

恐らく10年以上前に

私は自分が自分でいることに

耐えられなくなっていたと

思います。

 

そんなにひどい私でしたが、

幸いなことに

自分の真本音を実感する

瞬間に出会えました。

 

それ以降、

私は私の人生理念を

「向き合う」

という言葉として設定し、

何があっても

どんな状況でも

自分自身と向き合い続けることを

誓いました。

 

激しい反応本音達。

 

目もくらむような

エンティティ達。

 

(エンティティとは、

ある一定以上の濃度に高まった

ストレスの集合体を言います。

日本語に訳せば、

「生き霊」となります。

そう書くと、怖いですが、

すべての人にエンティティは

あります。常に。)

 

それらと向き合うことは

吐き気をもよおすなどという

生易しいものでは

ありませんでした。

 

でも私はそれを

それこそ取り憑かれたように

毎日続けました。

 

その結果たどり着いたのが

「祈り」

でした。

 

私は私の中心に

確固たる「祈り」があることを

ついに自覚ました。

 

その「祈り」とは

言葉になるものでは

ありません。

 

しかし確かにそれは

「祈り」です。

 

「祈り」は永遠に

続くものです。

 

何かが達成されることで

成就するものでは

ありません。

 

しかしその「祈り」に

触れるだけで、

すべてが満たされる

気がしました。

 

私は

自分自身と「向き合う」のと

同じくらいの真剣さで

私以外の人々と

「向き合う」ことを大切に

しました。

 

多くの方々から

毎日、多くのストレスや

エンティティを

受け取りました。

 

これも私の宿命なのですが、

私ほど、

他者のストレスやエンティティを

自らの中に吸収してしまう人も

まだ一度も見たことが

ありません。

 

その人のエンティティを

受け取ると、

私はその人が苦しんでいるのと

まったく同じ苦しみの感覚を

覚えました。

その人が実際に

何に悩んでいるのか?までは

当然わかりませんが、

その人の苦しみそのものは

感覚として、その通りに感じるのです。

 

これが私の体質でした。

 

100人の研修を行なえば、

100人の苦しみを

私はいつも受け取って

きました。

 

それらとすべて

向き合い続けてきました。

 

向き合うことで

それらはすべて浄化される

のですが、

その浄化をするために

朝まで眠れなかった日など

数えきれないほどあります。

というか、

それが日常化していました。

 

私自身の苦しみ。

 

人間の苦しみ。

 

それらのすべてと

向き合い続けることが

私の宿命なんだと

完全に(良い意味で)諦めたのが

2007年のことです。

 

私には

何もできない。

 

人を救うなんてことは

当然できないし、

世の中をどうとかしようなどとは

おこがましい、の極致だ。

しかし、

私はただ

「向き合う」ことを

し続けよう。

私にできる最大の行為が

「向き合う」ことだ。

 

・・・そう決めて、

とにかく

「向き合う」ことに徹し、

それのみをしよう、と決め、

あとは自分の中から

あらゆる「思惑」や「意図」を

手放しました。

 

するとようやく

実感できたのです。

 

あぁそうか。

 

すべての人の中心に

「祈り」

はあるのだな、と。

 

それは決して言葉にすることは

できないけれども、

それを大切にした生き方の

できている人は

その人の心も人生も

満たされるのだな、

と。

 

「真本音」とは、

その人の「祈り」から

発せられる全意識です。

 

「祈り」に基づいた

生き方をするのか?

 

それとも

それを自ら裏切る

生き方をするのか?

 

それにより、

その人の人生の

「満たされ度合い」は

根底から変わります。

 

どれだけ

現象レベルでの成功を

手に入れても、

その人が自らの「祈り」に

沿わない生き方をしている以上、

その人が真に

満たされることは

永遠にありません。

 

であれば逆に、

自分の「祈り」に基づいた

人生を送ること。

 

「祈り」に基づいた

ビジネスを展開すること。

 

それができれば

どんなに良いだろう。

 

どんなに

幸せだろう。

 

これが私の

サポートのすべてです。

 

人が、

自らの、言葉にならない

「祈り」を実感し、

それを大切にした生き方や

仕事の仕方や

ビジネスの展開が

できるようになる姿は

私のエネルギーの源泉です。

 

そんな人を

一人、また一人と

増やしていきたいというのが

私がここにいる理由の

すべてかな。

 

つづく

 

人生を変えるかもしれない発想

私がここ最近、

とても強く感じることなのですが、

真本音で生きる

という実にシンプルな生き方を

するために、

多くの方に足りないものが

あります。

 

それは、

 

「自分の最初の発想を

信じるという意志」

 

です。

 

最初の発想を

もっと信じて

進んでみればいいのに。

 

・・・と、

最近、頻繁に思いました。

 

最初の発想、

つまりは、

一番初めに浮かんできた

発想。

 

一番に初めに

顕在化した発想です。

 

私達の真本音は、

時々、

まったく関係のない

発想を顕在化します。

 

それは、

前回の記事で

書かせていただいた通りです。

(→前回記事)

 

AかBか?

で迷っているのに、

まったく関係のない

Cという発想が浮かんだりします。

 

その場合、

多くの人がその発想を

「つまらないもの」

「関係のないもの」

「意味のないもの」

として、浮かんだその瞬間に

捨ててしまいます。

 

しかも、

それを無意識にしている人も

多いです。

 

ですからコーチングの場では

私はよく、次のように

クライアントさんに言うのです。

 

「今、何か

発想が浮かびませんでした?」

・・・と。

 

すると、最初は

「いえ、何も・・・。」

と返ってきます。

 

でも、

「いやいや、今何か

考えましたでしょ?」

と問うと、

初めて、

 

「すみません。

まったく関係ないことが

一瞬よぎりまして。」

と返ってくるのです。

 

「それそれ、それですよ!

どんな発想がよぎったんですか?」

 

と言って、半ば強引に

それを教えていただくのですが、

その発想がきっかけとなり、

コーチングが思わぬ

すごい展開になることは

日常茶飯事なのです。

 

例えば私の場合、以前に

次のようなことがありました。

 

ある年末の話ですが、

私は、クライアント Aさんの

コーチングをしていました。

 

Aさんは若い経営者で、

次年度の方針を

明確化する内容だったのですが、

それが出来上がり、

スッキリと完了感も覚え、

コーチングを終えようとしました。

 

で、

席を立とうとした瞬間、

Aさんが私に

「たまには今から忘年会でも

いかがですか?」

と言われたのです。

 

「おぉ、いいですねぇ」

と私は答えようとしたのですが、

その時、ふと一つの言葉が

頭をよぎったのです。

 

私はそれを

そのまま口に出しました。

 

「Aさんって、

子供好きですよね。」

 

Aさんは、キョトンと

されました。

 

それはそうです。

 

「忘年会いかがですか?」

と問うたら、

「子供好きですよね」

と返ってきたんです。

 

しばらくAさんは

目を白黒されていましたが、

「ええ、好きです。

なんでわかるんですか?」

と返してきました。

 

実はAさんは独身です。

もちろんお子さんも

いません。

私もなぜそんな一言を

Aさんに言ったのか

自分でもわかりません。

 

私は答えました。

 

「いえ、なんとなく、

子供が好きかな?と

思って。

Aさんにお子さんができたら

きっとすごく個性的な子に

なりそうですね。」

 

と私が笑ったら、

 

「たけうちさん、

やっぱり忘年会は

後日でもいいですか?」

 

とAさんが言うのです。

 

「もちろん、いいですよ。

では、今日は帰りましょうか」

ということで、

私達は別れました。

 

そして、年明け。

 

私はAさんから

驚くべき報告を聴きました。

 

実はAさん、

お付き合いしていた彼女さんが

いました。

その彼女さんに

プロポーズしようと

決めていたそうです。

で、婚約指輪も密かに

購入されていたそうです。

 

Aさんは私から

「子供が好きですよね」

と言われた瞬間に、

無性にその彼女さんに

会いたくなったそうです。

 

で、Aさん、

プロポーズするなら今日だ!

と直観したそうなのです。

 

あの日、

Aさんは私と別れた後、

すぐに彼女さんを呼び出し、

プロポーズされたそうです。

 

もちろん結果はOK。

 

「最高の正月でした」

とAさん。

 

しかも、

「年末年始で彼女と一緒に

旅行をしました。

二人で今後の家族計画の

話をしてたんです。

その時、気づいたんです。

私は、もっと私のやりたい

経営の仕方があるんじゃないか?

って。

で、たけうちさんには申し訳

ないのですが、

年末に決めた計画を

もう一度根底から考え直しました。

その結果、凄い発想が

出てきましたよ。」

 

そう言われながらも

Aさんは発想された内容を

私に教えてくださいました。

 

それはかなり

ぶっ飛んだ内容でしたが、

とてもとても魅力的でした。

 

もともとAさんは

ぶっ飛んだところがありましたから、

Aさんらしいな、

と思えました。

もちろん、

すべてAさんの真本音でした。

 

そこで私はわかったのです。

 

プロポーズすることで、

Aさんは

ご自分の次元を一つ

上がったのだな、と。

 

そして、

次元の上がった意識で

経営計画を立て直したのだな、

と。

 

そう考えると、

あの時、私が発した

「子供好きですよね」

の一言が

いかに重要だったか。

 

あれで、ある意味、

Aさんの人生が変わりました。

 

しかしこれは

私がAさんの人生を変えた

わけではありません。

 

私はただ、

Aさんと真本音コミュニケーション

しただけのこと。

つまり、

Aさんの真本音をキャッチし、

Aさんが言ってほしい一言を

その時お伝えしただけの

ことなのです。

 

Aさんの真本音は

私を活用して、

自分の人生を進めたのです。

 

面白いでしょ?

 

実はこういったことが

本当に日常茶飯事で

起きています。

 

ですから私は思うのです。

 

まったく関係のない発想でも、

何かの問いを受けて、

最初に浮かんだ答えは

宝物かもしれない、と。

 

真本音度合いの

高い人であればあるほど、

それを大切にしてほしい、と。

 

本当に、

人のコミュニケーションというのは

面白いですね。

 

つづく

 

こんな迷い方をしてみよう

次のようなご質問を

いただきました。

 

「真本音が迷うことは

ないのでしょうか?」

 

お答えします。

 

真本音が

迷うことはあります。

 

ただしそれは

私達が通常捉えている迷い方とは

少し異なります。

 

一般的に言えば、

「迷い」とは

AかBか?

ということですね。

 

どちらを選択することが

メリットが大きいだろうか?と

通常は考えます。

 

しかし

真本音の「迷い」とは、

AとBという選択肢があった場合、

 

ABか、Cか?

 

・・・という迷い方をします。

 

これは

どういったことだと思いますか?

 

まずは

「AB」について。

 

AかBか?と

迷っているうちは、

私達は同じ次元にいます。

 

AもBも

どちらかが正しくて

どちらかが間違っていたとしても、

それは同じ次元にいます。

 

迷う、戦う、争う、・・・

ということは同じ土俵にいる

ということです。

 

どちらがより良いか?は

その人その人の解釈によるもので、

同じ土俵にいる以上は

同じ次元です。

 

「AB」とは

AもBも両方大事にする、

ということであり、

AもBも両方を尊重する、

ということであり、

AもBも超えたところにある解を

見出すということです。

 

それは

次元を一つ上がる

ということになります。

 

さて、次に

「C」について。

 

これは、

AとBとはまったく異なる

視点の答えということです。

 

次元が上とか下とかも

ありません。

 

AやBとは関係のない

ものです。

 

例えば、

次の休日にどう過ごそうか?

と迷っていた場合、

  1. 映画に行こうか
  2. ハイキングに行こうか

という選択肢だったとして、

Cというのは、

「今晩は寿司食べよう」

と言っているようなものです。

 

一見、まったく

関係がありません。

 

しかしまったく関係のない

方向に進むことで、

面白い展開になることが

あります。

 

例えば、

今晩、寿司食べよう、と思い、

その通りに食べに行ったら、

お寿司屋さんの大将の一言が

きっかけとなり、

次の休日の過ごし方が

決まった、とか。

 

つまり、

「AB」・・・

次元を超えた発想を自分に直接

与えるか?

「C」・・・

何らかの体験・経験を通じて

答えに気づくか?

この二つについての「迷い」を

真本音は持ちやすいのです。

 

この真本音の傾向を知っておくと、

セルフコーチングが

非常にしやすくなります。

 

私の場合、

何か「迷い」が発生した場合、

まずは、

あぁ、今の私が思いもつかない

次元の高い発想が生まれるんだろうな、

・・・と楽しみに待つ気持ちになります。

 

そして次に、

その答えは、今こうして発想するだけで

この場で生まれるものだろうか?

それとも、何らかの体験が

必要だろうか?

・・・という問いを自分に投げます。

 

で、直観的に

前者であると思った場合は、

じっと、答えが浮かんでくるのを

待ちます。

 

すると本当に

浮かびます。

 

直観的に

後者だな、と思った場合は、

じゃあ、自分は何をしようかな?

どんな体験を自分に

プレゼントしようか?

と発想します。

 

で、ふと「こうしよう」と

思ったことをそのまま

行動に移します。

 

するとその行動がきっかけとなり

「答え」が浮かびます。

 

真本音はよく

迷います。

 

それは、端的に言えば、

・今、このまま答えを見出すか?

・体験を通じて答えを見出すか?

の迷いです。

 

これは、

今の自分の状態を観ながら、

自分の「進化」のための

最善の道のりを見出すという

ことです。

 

その真本音の「迷い」を

尊重しながらセルフコーチングすれば

かなり面白いです。

 

もし皆さんの中に

「迷い」が生じたら、

ぜひやってみてください。

 

楽しいですよ。

 

つづく

 

なぜ私はこんなに苦しむのか

自分の人生で起こる

すべての現実は

すべて自分自身が

引き起こしているものであると

本当に自覚した人は

幸せです。

 

頭での理解ではなく、

肚での理解。

 

まったく本当にその通りだと

わずかな淀みもなく

そう理解できた状態を

『覚悟』

と言います。

 

人は、

覚悟を持つと

軽やかになります。

 

すべてから解放・開放された

感覚に満たされます。

 

それは言葉を換えれば、

『自由』

です。

 

ですから私は

「覚悟」と「自由」は

イコールであると思っています。

 

自分自身の人生に対して、

そして

すべての現実に対して、

人が

「覚悟」を持つ瞬間と

私は多く立ち合ってきました。

 

「覚悟」を持った瞬間の

その人の

晴れやかな表情を

どう表現すればよいでしょうか。

 

恐らくその瞬間とは、

人間としての幸せのすべてが

凝縮されているのだと

私には思えます。

 

その瞬間から

人は、

「逃げる」必要がなくなるから

です。

 

私達の魂を淀ませるものの

本質とは

「現実逃避」です。

 

いざとなれば

逃げればいい。

 

ここから

逃げ出したい。

 

逃げれば

何とかなる。

 

・・・そういった

「逃げ」への可能性を

心のどこかに秘めている内は

私達は

苦しみ続けます。

 

自分を救おうとするために

「逃げ」という選択肢を

私達は持つのですが、

実はその選択肢そのものが

自分を苦しめている

というのが人生のカラクリの

一つです。

 

かと言って、

「逃げを手放そう」

としてもいけません。

 

「逃げを手放そう」

とすればするほど、

「逃げ」に執着するのも

私達人間です。

 

「逃げを手放したフリ」を

している人も

私は数多く拝見してきましたが、

そういった人達は

本当に苦しそうです。

 

手放したつもりで

執着の度合いを高めている

からです。

 

私はよく、

「人はもっと楽に

生きることができる」

という表現を使います。

 

しかしその言葉を聴くことで、

すぐに「逃げ」に入る人も

います。

それにより、余計に苦しむ

ことになります。

 

ですので、

「人はもっと楽に

生きることができる」

という言葉は使うべきではないかな、

と思った時期もありました。

 

しかしそれでもやはり、

私は言わねばなりません。

 

人はもっと楽に

生きることができます。

 

そのためには、

逃げなければよいのです。

 

しかしそのために

「逃げ」をなくそう、とか

「逃げ」を手放そうと

してはなりません。

 

じゃあ、

どうすればよいのでしょうか?

 

実はその答えは、

私がこれまでずっと

このブログでお伝えし続けてきた

ことと同じです。

 

「逃げようとしている自分」を

あるがままに

観察する、ということです。

 

「観る」

ということです。

 

そして、その自分を

操作しようと

しないことです。

 

存在を承認する、

それだけのことです。

 

「逃げようとしている自分」と

真摯に

向き合ってみてください。

 

自分は

何から逃げようと

しているでしょうか。

 

それは

ほんの些細なことから

かも知れません。

 

もしくは、

人生を左右する大きな

ことかも知れません。

 

物事の大小は

重要ではありません。

 

逃げようとしている

その姿勢そのものが

本質です。

 

その本質を

きちんと観つめること。

 

観つめ続けること。

 

じーっと

観つめていれば、

ある瞬間から

そんな自分を可愛らしく

感じるはずです。

 

すべての反応本音は

本当は

可愛らしいのです。

 

可愛らしく

感じることができたら、

そんな「逃げる自分」に

伝えてあげてください。

 

「君は可愛いなぁ。

君はそこにいていいんだよ。

だって

それが人間じゃないか。」

 

その瞬間に

私達は解放・開放されます。

 

解放・開放されたときに

自分が立っている大地。

 

その瞬間の自分。

 

それが、私達の

『真本音』

です。

 

「真本音で生きる」とは

覚悟を持ち自由に生きる

ことなのです。

 

つづく

 

自己変革のフリをする人達・・・

私達の描く未来像には

二つの種類があります。

 

それは、

・実在の未来

・イメージの未来

です。

 

それは、

・真本音で描く未来

・反応本音で描く未来

とも言い換えることができます。

 

しかし、

反応本音で描く「イメージの未来」が

いけないわけではありません。

 

それをきっかけに

「真本音で生きる」ことに

つなげることができます。

 

そんなお話を

今は書かせていただいています。

(→前回記事)

 

今回は、

「イメージの未来」を活かす

3つ目のケースをご紹介します。

 

その目的は、

「これまでの自分を手放す」

です。

 

世の中には、

これまでの自分

今の自分

のことが大好きな人がいます。

 

ただしそれは、

反応本音のレベルでの

「大好き!」です。

 

自分のことを「大好き」で

あること自体はもちろん

悪いことではありません。

 

しかし反応本音レベルの

「大好き!」には

ごまかしが含まれます。

 

本当は、自分の中に

絶対に観たくない部分があり、

それにフタをし、

自分で自分をごまかすために

自分を「大好き!」に

させています。

 

もちろんその「大好き!」な自分は

本来の自分の姿とは

異なります。

自分自身の真本音の望む姿

とも異なります。

 

異なっているにも関わらず、

今のこの自分を「大好き!」と

思いながら、

決して自分を変えようとしません。

 

実は・・・。

 

そういう人ほど、

表面上は

「自分を変えます!」宣言を

します。

 

そして誰よりも高い意欲を見せ、

自己変革をしようとします。

 

しかしそれは、

自己変革をしている「フリ」

でしかありません。

 

頑張っている「フリ」でしか

ありません。

 

結局は、ああだこうだと理由をつけて

これまでの自分、

今の自分でいいや、

という結論に自分の中で至ります。

 

結局、

何も変わりません。

 

本人は

「私はここが変わりました!」

と自己アピールするのですが・・・。

 

しかし側から観れば、

何も変わっていないのです。

 

それどころか、

自己変革の自己アピールを

すればするほど、

これまでの自分への執着が

よりひどく増していきます。

 

実は、こういうタイプの方の

サポートが

最も難しいかも知れません。

 

でも、

このタイプの人がそのままで

いてもらっては

周りが迷惑です。

 

このタイプの人は、

周りにどれだけ迷惑をかけているか

まるでわかっていない場合が

多いのです。

 

そこで私がよく取る方法が、

「自己満足でもいいから

未来のイメージをする」

ということです。

 

今の自分の延長線上でも

よいのです。

とにかく

理想の未来像を描いて

いただきます。

 

もちろんそれは

真本音の未来像(実在の未来像)とは

まったく異なるものです。

 

しかしそれでも

「未来の視点」に立つことは

できます。

 

「未来の視点」から

今の自分を見て、

どう感じるか?

何を変えなければならないか?

 

それを発想し、

動いてみます。

 

実際に動けば、

必ずその人は、止まります。

 

それはそうです。

 

真本音とは異なる未来に

向かうわけですから。

 

自分の中に

言いようのない気持ち悪さが

発生します。

 

もしコーチングのサポートがなければ、

その人はその未来に向かって

ゆっくりと進んで行くでしょう。

気持ち悪さを感じないくらいに

ゆっくりと。

それをすることで自己満足感が

消えることはないからです。

 

ところが、

コーチングサポートを受ければ、

その人はその未来に

全力で向かうことになります。

 

すると、気持ち悪さを

ごまかすことができません。

 

必ず、止まります。

 

必ず、挫折します。

 

それをわかっていて

サポートするのはこちらが

とても辛いのですが、

しかしそれも大切な一歩です。

 

その人に湧き上がる

気持ち悪さ。

そして、挫折。

 

いったい、どうしてこんなにも

気持ち悪いのだろうか?

 

どうして、

挫折をしてしまうのだろうか?

 

そういった「?」がその人の中に

湧いてきたらしめたものです。

 

その人はそれを機に

変わり始める可能性があります。

 

これはちょっと意地悪な

サポート法かも知れません。

 

でも、残念ながら

このタイプの人へのサポート法で

これよりよい方法が

今のところ、私には思いつきません。

 

このタイプの人に

どれだけ

「あなたはこれまでの自分に執着している」

と厳しくフィードバックしても、

その場は神妙に捉えますが、

それもやはり「フリ」で、

何も変わらないのです。

 

自分に執着する度合いが凄く、

まったく人の声を

取り入れません。

取り入れる「フリ」はしますが。

 

ですから、

自ら望む(と思い込んでいる)未来に

全力で向かい、

自ら「何かが違うのではないか?」と

気づいていただくことしか

ないのではないかと

今の私は思っています。

 

かつて私も

自己満足や自己愛の人生を

送っていました。

 

そこから抜け出るのは

相当に大変でした。

 

よほど痛い目に合わないと

抜け出ることはできないのだと

思います。

私はそうでした。

 

ですから、

致命的な痛い目に合わずに

できるだけ早い段階で

その「気持ち悪さ」に気づいていただく、

そのきっかけを与えることが

他者ができる最大のサポートかな、

と現時点では思っています。

 

つづく

 

創業者のような決断・実行力をつけるには

私達が描く未来の発想には

二つあります。

 

一つは、「実在の未来」。

これは、私達が本当に望んでいる

未来であるのと同時に、

私達の心の中に「実在」として

最初から存在している未来です。

 

もう一つは、「イメージの未来」。

これは、単なる空想であり

妄想の一種です。

「こうなるといいな」レベルの

軽いイメージであり、

そこに真剣に向かおうとすると

逆にストレスが発生します。

 

この二つの未来発想の区別を

しっかりとつけた上で、

あえて「イメージの未来」を

描く必要のある場合があります。

・・・というお話をしています。

(→前回記事)

 

どんな場合に

「イメージの未来」を描くとよいか?

その二つ目のケースは、

実在の発想を呼び起こすため

です。

 

私はこれをよく、

次期経営者層の方や

会社の後継者の方に対して

行ないます。

 

私は仕事柄、

会社の「創業者」と

関わらせていただくことが多いのですが、

「創業者」とその「後継者」の

よくある決定的な違いが

「決断力」と「実行力」です。

 

あくまでも一般的な傾向ですが、

創業者の皆さんは、

自分で決めたことは必ず実行し、

きちんと成果を出します。

・・・という傾向があります。

 

まぁ、そうでないと

会社を起こして成長させる

ということはできないですよね。

 

それに対して「後継者」の皆さんは

なかなか創業者ほどの

決断力や実行力が出なくて

悩んでいる方が多いです。

・・・という私の印象です。

 

どうすれば、

創業者並みの決断力や実行力を

後継者の皆さんにも

つけることができるのだろうか?

ということについて、

私は随分と試行錯誤しました。

 

創業者と後継者のその

決断力・実行力の差の原因とは

何だろうか?と。

 

後継者の中には、ある意味、

創業者以上に

会社への想いの深い人もいます。

しかしそれでも、

決断力・実行力で負けてしまう。

もちろん、勝ち負けではありませんが、

創業者からしてみると

「あいつはまだまだ」

となってしまいます。

 

その根本的な「差」の原因は、

やはり、一つには

「実在の未来」が観えているかどうか?

ということになると思います。

 

創業者にとっては、

当初は、

会社=自分

です。

 

会社のことは、自分事です。

もしくは、会社は

自分の子供のようなものです。

「実在の未来」も

見つけやすいでしょう。

 

それに対して後継者は、

他人の生み出したものを

受け継ぐわけですから、

どうしても最初は自分事に

なりづらいです。

 

そのため、

「実在の未来」も

見つかりにくい。

 

しかし、

真本音でその会社を承継しよう

と思っている後継者には

必ず、その会社の「実在の未来」が

心の中に存在しています。

 

それが見つからない

理由は何だろうか?

 

どこにその「差」が

あるのだろうか?

 

それをずっと私は知りたかった

のですが、

ある時、ふと一つの「差」に

気づきました。

 

それは

「イメージ力」

の差ではないか?と。

 

創業者は、

未来への発想が浮かび、

「あっ、これをしたい!」

と思った瞬間に、

そのプロセスのイメージが

浮かびます。

 

「プロセスイメージ」。

 

つまりは、その未来を実現する

までの道のりのイメージです。

 

多くの場合は、

「実在の未来」が発想された瞬間に、

その「プロセスイメージ」までもが

ある程度明確になり、

「これはいける!」

と実感します。

 

人間、

「これはいける!」と

思えた瞬間の、その決断力と行動力は

凄いです。

 

創業者は、

それを天然にやっているのではないか、

と気づいたのです。

 

もしくは、

未来を描けても、

そのプロセスイメージが

今ひとつ浮かばないケースもあります。

その場合、

創業者は、プロセスイメージが浮かぶまで

徹底的にそれを考えます。

考えてもわからない場合は、

何らかの情報を仕入れます。

 

とにかく、

「これはいける!」という実感を

大切にし、

それが生まれるまでは

決して決断も実行もしません。

 

ところが、

後継者の方達は、

そこが中途半端なのです。

 

「こうしたい!」という未来が浮かんでも、

プロセスイメージが明確では

ありません。

 

明確ではないにも関わらず、

ある意味、やみくもに

スタートしてしまいます。

 

ところが、

自分自身が「これはできる!」と

完全に思い切れていませんので、

その決断力と実行力は

当然のことながら鈍ります。

 

要するに、

自分自身が本当に納得した上で

実行に移すかどうか?

の差ではないか、と。

 

ということは、

逆に言えば、

その「プロセスイメージ」力を

高めることをすれば、

決断力・実行力が高まるのではないか?

と私は考えました。

 

本来、・・・という話をすれば、

「実在の未来」を描ければ、

プロセスイメージは自動的にセットで

ついてきます。

 

もしくは、プロセス全体のイメージは

わからなくても、

「次の一歩」は明確に

確信としてわかります。

ですから、

たくましく実行に移せます。

 

後継者の皆さんは、

まずはその「実在の未来」が

なかなか自分の中から

掘り起こせません。

 

会社は、表面的には

他人(自分以外の人)から

与えられたものですので、

最初はそうなるのも当然です。

 

どうしても、

「イメージの未来」を描くことが

精一杯です。

 

・・・で、

私がとったサポート法は、

以下の通りです。

 

まずは、

「イメージの未来」でよいので、

後継者の人に

未来を描いていただく。

 

そして、そこに至る

プロセスイメージをしっかりと

していただく。

 

しかしもともとが「イメージの未来」

ですので、

プロセスイメージをしようと思っても、

なかなかはかどりません。

 

それでも、強引にでも

プロセスイメージを

発想していただきます。

 

「これはいける!」という確信には

ほど遠いとしても、

「まぁ何とか、いけるかも」

くらいになるまで

プロセス(道のり)のイメージを

していただきます。

 

で、

その通りに実行していただく。

 

実行していただいても、

所詮は「イメージの未来」への

道のりですので、

なかなか思うようには

進めません。

 

それでも、よいのです。

 

自分の描いたプロセスの

イメージ通りに動いてみます。

 

すると、もともとが「イメージの未来」

がスタートなので、

本人の中に違和感や気持ち悪さ、

モヤモヤなどが発生します。

 

それを大切にしながらも、

それでも実行していただきます。

 

すると、

「あー、気持ち悪い!

やっぱり、未来を変える!」

となります。

 

そうなれば、

未来を変えればよいのです。

 

しかし、それでも発想されるのは

「イメージの未来」です。

 

でもやはり、

プロセスイメージを

しっかりとしていただきます。

 

その上での、実行。

 

しかしやはり、気持ち悪い。

思うようにいかない。

 

「あー、気持ち悪い!

やっぱり、未来を変える!」

と、またなります。

 

するとまた未来を変えます。

 

でもやっぱり、

次も「イメージの未来」となります。

 

それでも、

プロセスイメージを明確にし、

実行。

 

やはり、気持ち悪くなり、・・・。

 

・・・これを続けます。

 

すると、

未来を描いたら自動的に

プロセスも描く、

というクセがついてきます。

 

プロセスイメージ力が

ついてくるのです。

 

つまり、

「未来像とプロセスイメージ」

が常にセット

になります。

 

すると逆に、

「スッキリとしたプロセスイメージに

つながる未来」

を探すようになります。

 

これは、頭で意図せずに

本能的にそうなります。

 

すると、ある時ある瞬間に、

「実在の未来」

とつながるのです。

 

これまで、

どれだけ未来を描いても

どこかで今一つ、

しっくり来なかったり、

ぴんと来なかったり、

・・・そんな連続だったのに、

 

「あぁ!これだ!」

「これが、やりたいんだ!」

「これなら、いける!」

という未来が、突然に

見つかるのです。

 

「実在の未来」に

たどり着いた瞬間です。

 

その時、

その後継者は、

創業者と同じ肚の据わり具合いを

見せます。

 

空気感が

創業者と、ほぼ同じ

になるのです。

 

それを実感すると、

あぁここに、新たな経営者が

生まれたな、

と私はとても嬉しくなります。

 

つまり・・・。

 

最初は「イメージの未来」でもよいので、

未来を描き、

ただし、そのプロセスイメージも

しっかりとし、とにかく実行に移す。

 

ということを通じて、

プロセスイメージ力をつけ、

プロセスイメージというものに対する

感性を磨き、

それを通じて「実在の未来」に

たどり着く。

 

・・・というステップですね。

 

これはかなり時間のかかる

こともありますが、

かなり着実なステップであると

私は思っています。

 

そして、今回はあえて

創業者と後継者

という言い方で文章を書きましたが、

実はこれは、

すべての人が行なうとよい

ステップかな、とも

思っています。

 

すべての人は

自分の人生の経営者

ですからね。

 

つづく

 

未来を描いたら、心がほぐれた

私達の心の中には

「実在」の世界が

広がっています。

 

その「実在」の世界とは

自分のみの世界では

ありません。

 

隣のAさんや遠くのBさんや、

知らないCさんや、

・・・様々な人と

つながっています。

 

そのつながりとは、

次元が高くなればなるほど

深くなり、

もともとは「一つ」であることを

高い次元の私達の意識は

よくわかっています。

 

さらに、

「実在」の世界においては

過去も未来も今も

すべて「一つ」です。

 

ですから

一年後の未来も、

20年後の未来も、

100年後の未来もすべて

今ここにあります。

 

私達が「現象(現実)」のレベルで

「自分の望む未来」

と呼んでいるものは、

「実在」のレベルでは、

 

「今ここにある未来」

 

と言ってよいでしょう。

 

今ここに実在している未来

なのです。

 

真本音で生きている人は

その「実在の未来」を

自らキャッチできるように

なります。

 

しかし残念ながら、

真本音を忘れてしまっている人には

それがキャッチできません。

 

すると、自分の未来を

「実在の未来」とは関係のない

単なる「イメージの未来」として

描いてしまいます。

 

それは、

自分が本当に望む未来

とは別のカタチです。

 

自分の望む未来とは

別の未来を目指すことで、

私達の中には

多大なるストレスが生じます。

 

自分で自分のビジョンを

せっかく描いたのに、

そこに向かえば向かうほど

苦しい人生になる場合、

その根本的原因は

そこにあります。

 

「実在の未来」を

自らキャッチできるように

なること。

 

そのためには、

「今を大切に生きる」

ことが必須です。

 

つまり、

今を真本音で生きる

ことが日々できれば、

ある時ある瞬間に、

「実在の未来」が

急に目の前に開けてきます。

 

「あぁそうか、

私はこんな未来を実現するために

生まれてきたんだったな」

ということが、

それがまるで当たり前で

あるかのように、

忘れていたことを思い出す

感覚で、

顕在化します。

 

ですので、

「今を大切に生きる」

ことを第一にし、

その結果として

「自分の本当に望む未来を知る」

という順番が

自然です。

 

・・・という原理原則を

わかった上で、

私はあえて、

「イメージの未来を描く」

というサポートを

することがあります。

 

その人が

本当に望む未来とは

違う可能性が高い。

反応本音レベルの

発想である。

ということをわかった上で

それでも

未来をイメージしていただくのです。

 

どんな場合にそれが有効か、

というパターンがいくつか

ありますので、

それをご紹介します。

 

一つ目は、

「イメージの未来」を描くことで、

その人の視界が広がる場合

です。

 

私達はどうしても、

目の前の物事をこなす、

ということに意識を捕らわれ過ぎる

傾向にあります。

 

例えば、

毎日の仕事が忙しいと、

目の前の仕事を必死にこなす

だけで日々の時間が

過ぎていきます。

 

すると、

視界が非常に狭くなります。

 

視界が狭まれば

発想も狭まります。

 

発想が狭まれば、

問題解決力とか

悩んでいること迷っていることの

答えを見つける力が

著しく減退します。

 

ちょっと広い視野から

ものを考えればすぐに

見つかりそうな答えが

なかなか見つからなく

なるのです。

 

側から見れば、

「こうすればいいじゃん」

とすぐにわかることでも、

本人からしてみれば、

まったくの視界外。

思考外です。

 

視界が狭まれば、

とても些細なことや

普通なら気にもならないことが

気になり出し、

悩まなくてよいことで

悩み始めてしまう

という傾向も出ます。

 

そういった

狭い世界に入ってしまっている

その人の顕在意識を、

一度、その狭い世界から

解放する。

 

一度、抜け出してみて、

もっと広い視野で

今の現実を眺めてみる。

 

そんなことをする場合に

有効な方法の一つが、

自由に未来を描く、

ということです。

 

これはコーチングの手法として

一般的に使われている

ことですね。

 

そしてこれは個人だけでなく、

組織にも言えることです。

 

例えば、

私がコーチの仕事を始めた

初期段階でのお話ですが、

ある20名くらいの

中小企業さんがありました。

 

そこの社員さん達は

日々の業務をこなすだけで

精一杯でした。

 

ある意味の職人集団で、

社員さん同士の団結力は

ほぼ、ない状態で、

それが社長さんの悩みの種

でした。

 

そこで、

何とかならないか?という

ご依頼を受けました。

 

当時はまだ

真本音という概念そのものに

私が気づく前の時代でしたが、

私は全社員さんを集めて、

4つのグループに分け、

次のような問いを投げました。

 

「もし、魔法使いが現れて、

何でも望む未来を叶えてあげよう、

と言われたら、

どんな未来を叶えてもらう?」

 

これをまずは

一人ずつ発想していただき、

その後、グループごとに

みんなで一つの答えを

出していただきました。

 

若い方が多かったこともあり、

それが結構

盛り上がりました。

 

「お前、そんなことを

考えていたのか!」

 

という笑いが、

あちこちで聞かれました。

 

そしてまた

1ヶ月後に同じように

全社員さんを集め、

今度は、

 

「もし1000万円のお金が

手に入ったら、

それでどんな事業をしたい?」

 

という問いを投げて

みました。

 

これもかなり

盛り上がりました。

 

こんな感じで、

未来に対する自由発想を

毎月、続けました。

 

そこで出される発想は

もちろん、

お遊びのような発想です。

 

今から見れば、

反応本音レベルの発想ですし、

「実在の未来」とは

ほど遠い発想です。

 

しかし、

それを続けて4ヶ月目。

 

いつものように

楽しく発想する場が終わり、

皆がそれぞれの職場に

戻ろうとした時に、

ある一人のパートの女性が

みんなに声をかけました。

 

「ねぇ、

会社の自販機の周りにさ、

いつも空き缶が散乱してるけど、

みんなできれいにしない?

掃除係を当番でやるとかさ。」

 

すると、

 

「あっそうだね。

そうしようよ。」

 

と、すぐに別の人が反応

しました。

 

これがすべての

始まりでした。

 

ここからその会社の

雰囲気が変わり始めました。

 

皆で力を合わせて

何かを行なう、

という雰囲気が生まれたのです。

 

一年後、

その会社の売上は

2倍になりました。

 

皆で力を合わせて

新規営業をするという展開が

その後、始まったからです。

 

それは、社長が考えても

みなかった展開でした。

 

しかも、社員さんの中から

「社長、我社は将来、

全国展開しましょうよ!

俺、支店長やりたい!」

という声が出始め、

皆で、本当のビジョンを描く

という展開にもなりました。

 

さらに次の年には

1.5倍以上の売上と

なりました。

 

実はこの会社、

私が単独でサポートさせていただいた

初めてのお客様です。

 

私のチームコーチングの

スタートでした。

 

もっとも当時はまだ、

コーチングそのものが

日本に入ってきていませんので、

チームコーチングという

概念はありませんでしたが。

 

しかし、

未来を描くということは

とても楽しいことなのだな、

ということを

身をもって知りました。

 

たとえ「イメージの未来」だとしても、

それがきっかけで

「今を大切に生きる」

ということにつながれば、

「実在の未来」につながる、

という最初の体験だったのかも

しれません。

 

つづく

 

未来を描くことで、道が閉ざされる

現象レベル(現実世界)においては、

私達は

今この瞬間

に生きています。

 

現象レベルにおいては、

過去も未来も

存在しません。

 

もちろん実在レベル(心の中の世界)では

過去も未来も

実在としてしっかりと

存在しています。

 

しかし、

現象レベルでは

「今」

しかありません。

 

過去と未来の存在は

ここにはないのです。

 

今がすべて、

なのです。

 

ですから、

現象レベルにおいて

「自分を大切にする」

とは、

「今を大切にする」

とイコールです。

 

今を大切にしない人に

望む未来は

訪れない

ようにできています。

 

私達のこの顕在意識も

現象レベルのものです。

 

この顕在意識に

自分自身の確かな未来、

つまりは

真本音のビジョン

が浮かび上がるためには、

今を大切に生きる

という大前提が必須です。

 

要するに

一言で言えば

こうなります。

 

「今を大切にすることで初めて、

本当に望む未来が観える。」

 

そして逆に表現すれば、

 

「今を大切にできていない人には

望む未来は決して観えない。」

 

という大原理です。

 

ところが、

いかがでしょうか?

 

「未来志向」という

言葉があります。

 

まずは未来を

描きなさい、と

よく言われます。

 

まずは自由に未来を描き、

その未来から逆算して

今の行動を決定しなさい、と。

 

上記の原理だからすれば、

それは自然の流れからは

反しているということになります。

 

実際に、

ずっと以前は私も

まずは未来を描くという

サポートの仕方をしていたことが

あります。

 

しかしほぼ9割以上、

上手くいきませんでした。

 

未来を描いているその時点では

気持ちが良いのですが、

その未来に向かって

行動を始めると、

途中で皆、あきらめてしまうのです。

 

そして、

「あんな未来、描かなればよかった」

と言う人も出てしまいました。

 

今から考えると

そうなるのは当然です。

 

その人達は、

今を大切にしていなかった。

その状態で自由に描いた未来とは

反応本音レベルのものだった

からです。

つまり、

本当に望む未来とは別の未来、

ただ単に

「こうなればいいな」

くらいの空想、

今の状況下で反応的に湧く

だけの妄想、

に過ぎなかったからです。

 

それでは

行動に移せば苦しくなるのは

当然です。

 

すぐにあきらめるのも

当然です。

 

ですから、

個人に対しても組織に対しても

現在の私のサポートの基本は

「今」に集中する

ところから始まります。

 

「今」を大切にするとは

どういうことか?

を頭の理解ではなく、

全身で理解できるように

なることを

最初のステップとしています。

 

それはつまり、

今の自分の心と向き合い、

今の目の前の現実と向き合い、

次の一歩を

自らの真本音で決断し、

その通りに行動する

ということの連続です。

 

これをし続けると、

その人の真本音度合いは

どんどん高まります。

 

そして、

ある一定以上の真本音度合いに

なれば、

ある時ある瞬間から

その人の発する空気感が

変わります。

 

その空気感は

独特のものです。

 

それは、

 

「未来と繋がった空気感」

 

と言ってよいでしょう。

 

つまり、

その人の実在レベルですでに

存在していた未来

(本当に望む道と、その先にある未来)

が、

顕在化しようとする空気感

です。

 

この空気感の変化は

個人も組織も同じです。

 

個人も組織も

その空気感を漂わせるように

なったら、そこで初めて

私は、

「では、未来を描きましょう!」

とお勧めします。

 

すると、

真本音の未来が

浮上し始めます。

 

その未来とは、

「こうなれたらいいな」

レベルのものでは

ありません。

 

「あっそうだよね。

こうなるよね。

これを実現するのは

当然のことだよね」

という非常に確信に満ちた

力強いものとなります。

 

「イメージの未来」

ではなく、

「実在の未来」

だからです。

 

単なるイメージの未来や

無理な未来を描いても、

現実逃避につながります。

 

今と向き合い、

今を大切に生きることで

本当に望む未来が観えます。

 

そして

本当に望む未来が

明確になることで、

今をもっともっと

大切にできるようになります。

 

この順番を

私達は

大切にしましょう。

 

つづく

 

真の仲間と、なぜ出会うのか?

イメージしたことは

実現する。

 

・・・とよく言われますが、

本当にそうでしょうか?

 

イメージしても

実現しないこと、

たくさんありませんか?

 

それはイメージの仕方が

弱いからだ、

とも言われますが、

本当にそうでしょうか?

 

どれだけ克明に

イメージしても、

実現しないことは

たくさんありませんか?

 

私達の心の中は

『実在』の世界

です。

 

しかし、

「実在」と「イメージ」は

根本的に異なります。

 

「実在」とは

言葉の通り、

実際に存在するもの

です。

 

「イメージ」とは

単なる幻影です。

 

言葉は悪いですが、

妄想です。

 

空想です。

 

実際に存在するものと

幻影の違い。

 

それは根本的な

違いです。

 

私達の心の中には

「自分が人生で進む道」

が、

実在として

そこに存在しています。

 

その「道」を

自ら見つけることができれば、

その「道」は実在ですから、

一気に現象化します。

 

現象化とは、

心の中にある実在が

この現実世界に

投影・反映されることを

言います。

 

つまり、

「実在」が投影されて

「現象」(現実)となります。

 

それが要するに

「実現」ですね。

 

ところが、

「実在」と「イメージ」の

区別がついていないので、

それを恐らく

「イメージすることは実現する」

と表現しているのでしょう。

 

私達にとって大事なのは、

自分の中にすでにある、

 

『実在の道』

 

を見つけることです。

 

それはすでにあるので、

「イメージ」のように

自分の顕在意識で

創り上げるものでは

ありません。

 

それはまるで

宝物探しのようです。

 

心の中の

宝物探しの冒険に

出るのです。

 

それが、

自分自身の人生の道を

探す、ということの

本質です。

 

さて。

 

ここからが肝心です。

 

これからの人生の

イメージの道ではなく、

「実在の道」

を見つけることができたと

します。

 

すると、

何が起こるでしょうか?

 

実は、

「実在の道」とは

自分だけのものではありません。

 

それは、

多くの仲間達と共有し、

共に歩く道

なのです。

 

ですから、

自分の中に存在する

「実在の道」と

まったく同じ道を持っている

Aさんが、

必ずどこかにいます。

 

もちろん、

一人だけではありません。

Aさん、Bさん、Cさん、・・・。

何人もの

仲間達がいます。

 

「実在の道」を

見つけるということは、

そういったAさんら仲間達との

出会いの始まり

でもあるのです。

 

道を見つければ、

出会う。

 

・・・というようになっています。

 

ところが、

これも、実は、ということ

なのですが、

「実在の道」とは

一気に道のすべてが

見通せるわけではありません。

 

次回以降で

詳しく書こうと思いますが、

多くの場合、

「道」と言っても、

「次の一歩」が観えるだけ

です。

 

「次の一歩」が観えて、

その「一歩」を踏み出せば、

さらに「次の一歩」が

観えてくる。

この

連続によって徐々に

道が明確になり、

そして

ある時ある瞬間に、

一気に先が見通せるように

なります。

 

もちろん例外もありますが、

これが最も一般的な

「実在の道」の進み方です。

 

しかも、

道を進むことよりも前に

「出会い」が先にくることも

あります。

 

何年も前に出会ったAさんが、

実は、共に道を歩む仲間だった

ということもあるのです。

 

そのように、

「道」そのものは実在しており、

全体像ももちろんしっかり

あるのですが、

その全体像のほんの

ワンピースを

一つずつ明確にしていく、

しかも、時にはランダムに。

 

・・・というように、

まるでジグソーパズルを

しているかのように

私達は道を進んで行きます。

 

だからこそ面白い、

とも言えますが。

 

初対面で

会った瞬間に通じ合える、

そんな人は

間違いなく「仲間」です。

 

そして、

「実在」を感じ取れるように

なった人は、

目を閉じるだけで

わかるはずです。

 

もう、「仲間達」は

最初から共にいるのだと。

 

これから出会う

たくさんの仲間達も

すでに実在レベルでは、

自分と共にいるのだと。

 

今日も深夜3時過ぎから

この文章を書いていますが、

目を閉じると、

いえ、

目を閉じなくても、

私は「仲間達」の存在を

今ここに感じます。

 

そしてその「仲間達」と一緒に

この文章を書いている。

・・・そんな感覚です。

 

文章だけではない、

私のすべての活動の

一つ一つは、

現実世界ですでに

出会っているかどうか?に

関係なく、

共に道を歩む仲間達と共に

力を合わせ

魂を込めて

行われているのです。

 

それが、

私達人間の

「普通の生き方」

です。

 

つづく

 

あなたは本当は孤独ですか?

私には、

私のことを真に

理解してくれて、

私にとっての真の

仲間であると

思える人が

何人いるだろうか?

 

こんな問いを自分自身に

投げたことはありますか?

 

随分前の私は、

この問いへの答えは

「0人」

でした。

 

『真本音』と出会う前の

時代の私です。

 

もちろんそれまでに

親友と言える友人とも

随分と出会ってきました。

その当時には

すでに妻も子供も

いました。

 

共に必死になって仕事をする

職場の仲間もいました。

 

師匠だっていました。

 

しかし、

私のことを本当の意味で

理解してくれているかどうか?

と問うと、

 

あぁ、そんな人は

一人もいないんだ。

 

という事実に気がついて

愕然としました。

 

そしてこう思いました。

 

それが人間なんだ、と。

 

それが

人生というものだ、と。

 

所詮、我々は

孤独なのだと。

 

自分のことを本当に

理解できるのは

自分だけなのだ、と。

 

みんな、

そうなのだ、と。

 

・・・もちろんそれは、

その当時の私の

単なる思い込みです。

 

なぜなら、

今の私には

真の仲間と言える人、

真に私のことを理解して

くれている人、

が本当にたくさん

いるからです。

 

下手をすると、

出会ったその瞬間、

目と目が合った

その瞬間にもう

そう思える時も

何度もあります。

 

それこそ、

思い込みではないか?

と言われそうですが、

いいえ、

それは真実です。

 

なぜなら今の私は

『実在』

を感じ取ることが

できるからです。

 

今、こうしてこの文章を

書いている私は、

自宅の書斎に一人で

います。

 

今、深夜の3時です。

 

ところが、

目を閉じると、

実に多くの人達の

「気配」

を感じます。

 

これも

思い込みでは

ありません。

 

「実在」です。

 

つまり、

実際にここに存在する

ものです。

 

ちなみにこれは

霊感とは違います。

 

私には

霊感はありません。

 

ただ私は

「実在」を

感じ取ることができるように

なったのです。

 

ですので、

常に私は仲間達と

こうして共にいることが

できます。

 

現象(現実)のレベルでは、

(3次元のレベルでは)

遠く離れていても、

実在のレベルでは

距離も時間の差異も

ありません。

 

だから常に

一緒にいるのです。

 

共に

同じ願いを持ち、

同じ方向を向き、

同じ試行錯誤を

している仲間達。

 

この「実在」を感じ取る

という力は、

もちろん私だけに特有の

ものではありません。

 

誰もが普通に

感じ取れるものです。

 

つまりこれも

「普通の生き方」の

一つです。

 

えぇ?

そんなの普通じゃないよ。

と言われそうですが、

いえいえ、

これこそが私達人間誰もが

もともと持っている

コミュニケーションの力の

一つです。

 

『実在コミュニケーション』

 

・・・とも私は呼んでおり、

これは「真本音コミュニケーション」

の形の一つです。

 

真本音で生きることで

こうした力を開花することが

誰もができます。

 

実在コミュニケーションが

できるようになれば、

「直観力を高めよう」どころの

話ではなくなります。

 

「直観」が

通常の思考と同じか

それ以上に普通の状態に

なります。

 

もう本当に

迷わなくなります。

いえ、

正確には迷うことはありますし、

迷うこと自体に

生きる上での大きな意味が

ありますが、

迷いそのものを

本当に楽しめるようになります。

 

心の調子が良いとか

悪いとか、

関係なくなります。

 

心の調子が悪い時は

人間である以上

私にもあります。

 

特に毎日、多くの方達の

ストレスを受け続けていますので、

その影響もあり

ストレスの塊みたいなものに

心が閉ざされてしまうことも

しょっちゅうです。

 

絶望感。

倦怠感。

孤独感。

怒り。

憎しみ。

時には、狂気。

・・・

 

様々な反応本音達に

心が閉ざされることは

この仕事をしていれば

本当に毎日です。

 

でも

それが一体、

何だと言うのでしょうか。

 

心の状態が

絶望的に悪くなったとしても

ただ、

それだけのことじゃん。

 

・・・というように

心の状態の良い悪いに

捕らわれない

自分になれるのです。

 

どんな心になっても

おおらかな気持ちで

それを楽しみながら

観察できる自分。

 

真本音という大地に

立てていることによって

そうなれるのですが、

私が本当に

そうなれたのは、

実在コミュニケーションが

できるようになってからかも

しれません。

 

ですのでこれも

すべての人に

できるようになってほしいな、と

私は願うのです。

 

「実在」のことを書くのは

ある意味勇気の要ることですし、

恐らく誤解も生じるでしょうが、

でもそれでもこのブログでは

そこに挑戦したいな、と

思っている私が

ここにいます。

 

さて、明日から

どんな文章を

私は書くのでしょうね?

 

つづく

 

みんな、真本音で生きようよ

どのような心があろうとも、

それらをただ

あるがままに

観察することのできる

自分。

 

なんの操作もなく、

なんの評価もなく、

なんの解釈もなく。

 

ただその存在を

存在のままに

承認できる自分。

 

そんな自分になれた時、

それができているその「自分」とは

いったい何者でしょうか?

 

当然、

今ものを考えたり

ものを見ているこの自分は

私達自身の

顕在意識です。

 

しかし、

顕在意識そのものは

非常に不安定な

存在です。

 

すぐに揺らぐし、

すぐに不安になるし、

すぐに自信をなくします。

 

なのに

この安定感は

どうしたことでしょう?

 

すべての自分と

あるがままに向き合う

自分になることにより、

私達のこの

もともと不安定だった顕在意識は

とてつもない

安定感を得ます。

 

まるで、

永久不滅の

大地に立っているようです。

 

この

大地は何でしょう?

 

この

安定感は何でしょう?

 

この

安心感は何でしょう?

 

この

満たされた感覚は?

 

この

自然に溢れる確信は?

 

・・・これが、

私の言うところの

『真本音』

です。

 

最も醜い自分自身と

完全に向き合える人のみが

初めて実感できる

心の大地です。

 

心の大地とはつまり、

「魂」そのものです。

 

もしこの

真本音という大地を

実感できるようになりましたら、

ぜひ

自分自身に問うてみてください。

 

自分の真本音に問う、

最初の質問です。

 

『私は今この瞬間、

どんな生き方を

したいのだろうか?』

 

・・・と。

 

それは極めて

シンプルな答えとして

返ってくるでしょう。

 

もし理由づけや

説明の必要な

複雑な言葉であれば、

残念ながらそれはまだ

真本音ではありません。

 

その一言を

つぶやくだけで、

身も心もすべてが

スッとする、

説明不要の

納得の一言が返ってこれば、

それは紛れもなく

真本音の答えです。

 

その「生き方」が

真本音で生きるための

最初のキーワードと

なります。

 

これを私は

 

『人生理念』

 

と呼んでいます。

 

人生理念は、

日常のあらゆる場面で

その一言をつぶやけば、

「本来の自分」

を思い出させてくれるでしょう。

 

私は本当は

どんな生き方を

今ここで実践したい

人間であるか?

 

・・・を思い出させてくれます。

 

いつもそれを

つぶやきながら

今この瞬間を大切に

自分の行動や振る舞いを

決めていくことが、

真本音で生きる

ファーストステップです。

 

これができている状態が

人としての「普通の生き方」

です。

 

そして、

これができていることで

私達の魂と心の

一貫性が取れ、

心から淀みが消えていきます。

 

淀みが消えることで

自然に浮上するのが、

『直観』

です。

 

次に自分が何をすればよいか?

をありありと教えてくれる

確信の答えです。

 

あとはその確信に

従って動く

だけのことです。

 

思えば・・・。

 

私達人間は、

この、

真本音と反応本音の区別が

つかなくなったところから

「普通の生き方」が

できなくなったのだと思います。

 

本当は、

「区別をつける」などという

言葉そのものが不自然なくらい、

その二つは

あまりにも違います。

 

目と鼻の区別をつけるのと

同じくらいに

それは簡単なことだった

はずです。

 

しかし私達人間は、

自分の真本音のことを

あまりにも忘れて

しまいました。

 

あまりにも

無視し続けて

しまいました。

 

だから、

人としての「普通の生き方」も

人としての「本来の幸せ」を

感じることも、

できなくなってしまいました。

 

もう一度、私達は

人間としての

原点に戻る必要があると

私は思います。

 

自分を理解する。

 

反応本音達を理解し、

真本音を理解する。

 

そこから始めるのが

最も大切なことだと

私は思うのです。

 

つづく

 

本当の自分と出会う方法

私達の心の中には

自分の観たくない反応本音が

たくさんあります。

 

自分が知りたくない

反応本音のパターン(クセ)も

たくさんあるでしょう。

 

それを観て、

知ってしまったら、

自分のことを

嫌いになってしまうかも。

いや、

嫌いになるだけならまだましで、

自分のことを否定したり、

自分の過去の振る舞いを

後悔したり、

自分を責め続けることに

なるかもしれない。

 

過去の変えることのできない

後悔の事実達を

フラッシュバックしながら

生きていかねばならないかも。

 

・・・そんな恐れが

ほとんどの人にあるでしょう。

 

だから、

観たくないものには

フタをして、

前向きに生きていこう。

 

・・・これも多くの人が

無意識に行なっている

ことです。

 

しかし残念ながら、

こういった生き方は

自分の心をさらに

深刻にするだけです。

 

なぜなら、

フタをしているだけで、

本当は自分のことを

自分はよくわかって

いるからです。

 

自分を責めたくないから

フタをする。

しかし、

フタをしたその中で、

その人は自分をもう

責め続けているのです。

 

しかも、

自分を責めていることに

自分が気づいていない、

という状態ですから

「そこに気づけよ!」

と自分に苛立ちながら、

さらにその「責め」を

増幅させてしまうのです。

 

自分のことを

観ない。

 

その事実だけで、

人は自分を

責めるのです。

 

ですから、

一番楽な生き方とは、

一つ一つを

ちゃんと観察すること。

 

後悔するなら

後悔するでもいい。

 

一つ一つを

ちゃんと後悔しながら

進むこと。

 

一つ一つを

ちゃんと反省しながら

進むこと。

 

一見、その方が

深刻な人生になりそうですが、

それが本当にできている人は

だんだんと自分に対して

「おおらか」に

なっていきます。

 

自分ときちんと

向き合っていることを

自分が一番よく

わかっているからです。

 

そういう人は

自分のことを

自然に許せるように

なります。

 

確かにその行為は

酷かった。

するんじゃなかった。

でも、しょうがない。

私も人間だ。

間違いはある。

次はそうならないように

注意しよう。

 

・・・そんな感じに

なっていきます。

 

そしてそれをさらに

続ければ、

そんな間違う自分を

「可愛らしいな」

と思えるようになります。

 

もちろんそれは

自己満足とは違った

状態です。

 

自己満足の「可愛らしいな」は、

自分の観たくないものに

フタをした状態で

無理にそう思い込もうと

している状態です。

 

しかし、

自分と向き合い続けることで

自然に生まれる

「可愛らしいな」は

愛の一つのカタチです。

 

これができる人は

他人に対しても

同じ目線を向けることが

できるようになります。

 

人のことを

許せる自分になれます。

 

そこにあるものを

そのまま観る。

 

観るだけでよいのです。

 

それをどうこう

しようとしない。

 

それが

『存在承認』です。

 

存在承認を

し続けることで、

私達は初めて

ある一つのことに

気づくでしょう。

 

その気づきとは、

頭で理解する気づきではなく、

感覚として覚える

気づきです。

 

実感する気づき

です。

 

それをあえて

言葉にすれば、

次のようになります。・・・

 

すべての自分の心を

観続ける自分。

 

すべてを

存在承認し続ける

自分。

 

あれ?

 

この観続けている

この自分は

誰だ?

 

すべてを客観的に

観ているこの、

ここにいるこの

自分は

何者だ?

 

私は、

誰だ?

 

・・・ということです。

 

何度も書きますが、

理屈ではなく、

実感として

体感として

それを感じ取ります。

 

すべてを観つめている

その主体である

自分自身の存在を

ある瞬間に

ありありと自覚するのです。

 

そうです。

 

その主体こそが

『真本音』

です。

 

本当の

自分です。

 

つづく

 

自分を矯正する人生は、深刻になるだけ

「虚勢を張る」ということについて

書かせていただきましたが、

(→前回記事)

それは、

「反応本音のクセ」

の一つです。

 

反応本音とは、

私達人間が現実(現象)世界と

関わる中で、

現実(現象)からの影響を受けることで

発生する心です。

 

一つの現実に対して

様々な反応本音が大量に

発生します。

 

そのうちの一つを

私達は選択し、

その反応本音に基づいて

私達は行動します。

つまり、

次の自分の言動や振る舞いを

決定します。

 

その、

反応本音の選び方を

私達は無意識に

パターン化します。

 

それが

反応本音のクセ

となります。

 

「虚勢を張る」

というのはそういったクセの

一つです。

 

もちろん、

それ以外のクセもあります。

 

例えば、

「虚勢を張る」のとは

真逆のクセがあります。

 

それは、

「自分を卑下する」

です。

 

自分なんて

どうせダメだから。

自分なんて

どうせできないから。

自分なんて

価値のない人間だから。

自分なんて

どうせ上手くいかないから。

自分なんて

・・・

と、最初から諦めて

物事に挑戦しない、とか

積極的に取り組まない

などの出方をします。

 

また、例えば、

「人に迎合する」

というクセの出方も

よくあります。

 

自分を出すことよりも、

人の意見に合わせたり、

イエスマンになったりしながら、

その場を取り繕う

ことをすぐにしてしまいます。

人間関係において、

波風を立たせたくない

のです。

波風が立つくらいなら、

自分が我慢すればよい、

と、ほとんどの物事に対して

打算的に考えています。

 

その逆に、

「人を否定する」

というクセもあります。

 

自分の考えが一番正しいと

思い込み、

他の人はすべて未熟だと

思い込み、

自分の考えに合わないことは

すべて否定しようとします。

要するに、

頑固ということなのですが、

悪い意味での

評論家っぽくもあり、

口を出す割には

口だけしか出さない。

自分が責任を負って

すべてを引き受けることは

しません。

理論的に否定するだけの

口だけ大将です。

 

・・・というように

反応本音のクセを書き出せば

本当にキリがないくらいに

様々なパターンがあり、

その一つ一つを

しっかりと見ていくと、

かなり深刻に思えます。

 

自分の

・心と

・行動(振る舞い)と

・起こす現実

に悪循環を起こし、

結果として自分の望まない

人生を創り出します。

 

しかも

面白いことに、

一つの反応本音のクセを

治そうとして

たとえそれができたとしても、

さらに次のクセが

出来上がるだけなのです。

 

一つのクセを見つめると、

深刻になり、

そのクセを必死に治しても、

さらに次のクセが

出来上がる。

 

それに対して

また深刻になり、

クセを矯正しようとする。

 

でもまた次のクセが

浮上する。

 

・・・という感じで、

本当にキリがありません。

 

それをやり続けているうちに

人生が

終わってしまうでしょう。

 

しかもその人生とは、

深刻なクセを治すための

深刻な人生だった、

ということになります。

 

しかし

「深刻な人生」

「真剣な人生」

は根本的に異なります。

 

残念ながら

深刻さからは何も

生まれません。

 

反応本音を矯正し続ける人生

からは

何も生まれないのです。

 

むしろ

自分の本当の「道」を

見出すためには、

その深刻さのサイクルから

抜け出す必要があります。

 

そのための

第一歩とは

何でしょうか?

 

それは、

 

『どうでもいいじゃん』

 

という一種の

おおらかさを持つこと

なのです。

 

「何があってもいいじゃんか」

とか

「どんなクセがあっても

構わないよ」

という

おおらかな目線で

自分の心と行動を

見つめることです。

 

ただし、

あるがままに

見つめること。

要するに

『観察』であり

『観る』ことです。

 

やはりまずはそれが

すべての土台に来ます。

 

そしてその上で

一つ、

とても重要なことをします。

 

それがすべての

始まりとなります。

 

続きは次回に。

 

つづく

 

苦しんでいるのに、救えない・・・

「虚勢を張る」ということについて

書かせていただいています。

(→前回記事)

 

虚勢を張ることに

パワーを使い続けている人は

自分が真本音で決めている「道」を

見つけることはできません。

 

虚勢を張る心というのは

単なる反応本音の一種に

過ぎません。

 

しかしこれをし続けますと、

心全体がまるで

発泡スチロールのように

なっていきます。

 

心が動かなく

なるのです。

 

血が通わなくなります。

 

固まります。

 

しかも、

叩けばすぐに崩れて

しまうほどに、

弱いのです。

 

そんな

発泡スチロールのような自分を

一番わかっているのは

自分自身ですから、

そんな自分を守るために

その人はさらに虚勢を張る

ようになります。

 

そのうちに

そんなことをし続けている

自分に対して

罪悪感が増してきます。

 

「罪悪感」。

 

これは私達の心にとっては

最もキツく

苦しいものです。

 

なぜなら罪悪感とは

自分を責め続ける気持ち。

ですから、

喩えて言うならば、

自分の心に自分で

ナイフをぐさぐさと

突き立てているような

ものです。

 

自分で自分の心を

傷つける行為が

罪悪感を持つことです。

 

これは本当に

キツい。

 

心のエネルギーが

一気に奪われます。

 

要するに心は

格段に弱まります。

 

それにより

ますます発泡スチロール化

が進みます。

 

そしてますます

虚勢を張ります。

 

虚勢を張る、というのが

クセになり、

虚勢を張ることでしか

生きていけなくなります。

 

発泡スチロール化した

弱い自分の心を

少しでも傷つけそうな

人を見つけたら、

その人をまずはこちらから

攻撃するようになります。

 

攻撃される前に

攻撃するのです。

 

人を攻撃する

とは、

完全に

弱さの現れ以外の

何物でもありません。

 

しかし

人を攻撃しながら

それがさらなる罪悪感になり

内側から

自分で自分を攻撃

するようになります。

 

まさしくそれは、

心の八方塞がり。

 

延々と続く

悪循環です。

 

この状態では、

たとえ目の前に

自分の本当に望む道が

現れたとしても、

それに気づくことは

あり得ません。

 

ところが、

虚勢を張る自分とか、

罪悪感とか、

人を攻撃するクセは、

治そうと思っても

そうそう簡単には

いきません。

 

すべては

自己防衛の手段

なのですから、

治そうと思っても

不安感が増すだけです。

 

人は、

不安の方向に努力することは

難しいです。

 

その方向に進めば進むほど

安心感が増すとか、

希望の光を感じるようになるとか、

とにかく、

居心地の良い方向にしか

努力はできません。

 

「悪いものを治そう」

だけでは

続かないのです、

何事も。

余程、追い詰められない

限りは。

 

以前の私もそうでしたが、

こういった状態に

陥っている人に

たくさん出会います。

 

その度に

私は思います。

 

私達はもっと自分を

「救おう」

としなければならない、

と。

 

「治そう」とか

「修正しよう」ではなく、

「救おう」

としなければならない

のではないかと

私は本当に思うのです。

 

ところが

他者がその人を救う

ということは

できません。

 

自分のことを救えるのは

自分のみ

なのです。

 

私はコーチとして

多くの人と関わらせて

いただきながら、

「この人を救ってあげたい」

と、本当に毎日のように

思います。

 

でも、

「この人を救ってあげたい」

というこの気持ちの

なんと傲慢なことか。

 

上から目線とか

そういったレベルの

ことではなく、

何か、根本的に

人としての尊厳を

無視している気持ちであると

私は思うのです。

 

でもそれでも

「救ってあげたい」

と思ってしまいます。

 

それくらいに

苦しんでいる人が

今はあまりに

多いです。

 

しかも、

それだけ自分の魂や心が

苦しんでいることを

本人が気づいていない。

 

なんで気づかないままで

いられるのだろうか?と

不思議でならないのですが、

麻痺したままでいる。

 

私はその度に、

本当に失礼で良くない

表現ですが、

昔、中学生時代に

理科の授業で行なった

カエルの解剖を

思い出します。

 

解剖をされるカエルは

麻酔薬に浸けられます。

 

麻酔薬に浸けられた

カエルは

自分のお腹を

引き裂かれているのに

気づいていません。

むしろ、

気持ちの良さそうな

顔をしていることに、

当時の私はかなり

ショックを受けた覚えがあります。

 

その状態と同じ人が

今の世の中には

いっぱいいるのです。

 

思わず、

「救ってあげたい」と

思ってしまいます。

 

でも、

それは傲慢ですし、

どれだけそう思っても

不可能なことです。

 

私達人間は、

自分を救うのは自分だけである

という「摂理」の中で

生きています。

 

しかもそれが

人としての尊厳です。

 

それを私は

コーチとして決して

忘れてはならないと

いつも自分を戒めています。

 

だからこそ、

発見できたのかも

しれません。

 

自分で自分を救う

方法を。

 

その方法を

示すことが、

私の役割となりました。

 

その方法を

実際に使うかどうかは

本人しだいです。

 

努力するのも

本人しだい。

 

私ができるのは

方法を示すことだけ。

 

しかもその方法は

自然の摂理に沿った

ものでなければなりません。

 

でも私は

多くの方と向き合いながら

それを見つけることが

できました。

 

それは、

自分の本当に望む道を

見つける方法、

という言い方もできます。

 

ではその方法とは?

 

これを次回以降、

ゆっくりじっくりと

お話しさせていただきます。

 

つづく

 

虚勢を張れば張るほど、道は観えなくなる

自分の中に存在している

本当の「道」を

見極める。

 

そのためには、

真本音と反応本音の区別が

必要。

 

では、どうすればその区別を

つけられる自分になれるのか?

 

・・・そんなお話を

書かせていただいています。

(→前回記事)

 

反応本音に基づいて

生きているうちは、

私達は虚勢を張ります。

 

すべての人がそう、

というわけではありませんが、

一般的には

声が大きくなります。

 

威厳を出そうとします。

 

いつも無理にでも

元気な自分を

見せようとします。

 

以前の私が本当に

そうでした。

 

私はコーチというお仕事を

真本音・反応本音という

区別がつく何年も前からずっと

続けています。

 

20年くらい前の私の研修や

チームコーチングは

それはそれは

威厳に満ちたものでした。

 

若いくせに。

 

場に緊張感を

張り巡らせていました。

 

当時の私は30歳過ぎ

くらいです。

 

相手はほとんど

年上です。

 

40代50代の経営者の方も

多かったです。

 

そんな方々に向かって

平気で

「お前は甘い」

と「指導」していました。

 

本当にそういった

言い方をしていたのです。

 

私がきつく当たると

その方はビッショリと

冷や汗を流していました。

 

私はその人の

痛いところを

突き続けていました。

 

そうしてその人を

「矯正」して

経営をよくしよう、

俺がそれをしてやろう、

と思っていました。

 

そして、

そういった「指導」をする立場が

自分の役割なので、

自分は誰よりも人格者で

あらねばならないと

決めていました。

 

だから、

心の中に次々に現れる

負の方向の反応本音達を

力でねじ伏せて、

フタをして、

無きものとしていました。

 

で、ある時についに

体を壊してしまったのです。

 

あの時、

私の体が言うことを効かなく

ならなかったら、

私は真本音に気づくことは

できたでしょうか?

 

今でも

そう反芻します。

 

そんな当時、

ある時私はお客様の会社に

車で向かいました。

 

当時の私の睡眠時間は

とても短く、

1時間とか2時間の日々が

続いていました。

 

ですので私は

お客様の会社の近くに

15分くらい前に車で到着し、

車の中で

5分〜10分くらい仮眠をとる、

というのを習慣化していました。

 

5分10分の仮眠をとる

名人でした。

 

その日もちょっと前に到着し、

5分だけ仮眠をとりました。

 

その場合、

シートを倒すわけでは

ありません。

 

通常の座った状態のまま

ウトウトとするのが

コツです。

 

私はいつものように

ウトウトしました。

 

するとその瞬間に、

私は自分の腹から

とてつもない何かが

込み上げてくるのを

感じました。

 

それは、

大量の血でした。

 

ブバババババッ!!

と凄い音を立てながら、

私は口から大量の血を

吐き出しました。

 

血は口から溢れ、

私のスーツは

血まみれになりました。

 

うわっ!どうしよう!

・・・とびっくりした瞬間に

目が覚めました。

 

夢だったのです。

 

でも、

あまりにも鮮烈でした。

 

今でもそれは

現実としか思えないくらい

リアルでした。

 

今ならわかります。

 

確かにそれは

夢ではありませんでした。

 

それは「実在」でした。

 

私は「実在」を

感じただけです。

 

私の中から

これまでフタをしていた

反応本音達が溢れ出し、

真本音という存在に

気づいたのは、

その数日後でした。

 

その後、わずか

2〜3ヶ月で、

私は、当時の師匠のもとを

飛び出し、

当時雇われ社長をしていた

会社も飛び出し、

当時の家族からも

飛び出し、

両親のもとからも

飛び出し、

お客様からも

飛び出し、

友人関係からも

飛び出し、

すべてをリセット

することになります。

 

人生がその時一度、

終わったのだな、と

今でも思います。

 

終わったと同時にそれが、

真本音の人生、

真本音の道の

始まりでした。

 

私の中からは徐々に

虚勢は去っていったと

思います。

 

虚勢を張る人生が

いかに辛い人生か。

痛いほど私は

知っています。

 

虚勢を張るエネルギーと

時間があれば、

もっと自分の本当の

願いに向かえばいい。

 

そんな単純なことなのですが、

なかなかそれができないのも

人間です。

 

でもまずは、

虚勢を張っている

自分自身を

自分で認識することですね。

 

そんな自分を

見つめるのです。

 

観続けるのです。

 

それだけで、

そこからは

抜け出せるでしょう。

 

すると

虚勢を張ることそのものが

遊び心のような感じとして

受け取れるようになります。

 

なんだ、

可愛いな、俺、

と。

 

そうなればもう

いつでもそこからは

抜け出せます。

 

虚勢から抜け出すことで、

真本音の道が

初めて観えてきます。

 

つづく

 

私ほど酷い人は、見たことがない

私達の中にはすでに「道」があり、

その「道」を進むことは

とても勇気の要ることだけれども、

いざその「道」に入ってしまえば、

人としての本来の幸せを

存分に感じることができます。

 

・・・というお話をここまで

させていただいています。

(→前回記事)

 

では、その「道」が

本当の「道」なのかどうか、を

どこで判断すればよいでしょうか?

 

本当の「道」かどうか?

 

とはつまり、

 

真本音の道かどうか?

 

ということです。

 

これを見極めるためには、

真本音と反応本音の区別を

つけられる自分になることが

前提となります。

 

真本音と反応本音の

区別。

 

これは実は、

目と鼻の区別がつくのと

同じくらいに簡単です。

 

でもしかし、

それができる人が

現時点では少ないのが

今の社会です。

 

どうして目と鼻の区別が

つかないの?

目は目だし、

鼻は鼻だし、

目を見て「鼻だ」とは

思わないでしょ。

 

・・・などといつも私は思ってしまう

のですが、

でもそういう私自身も以前は

まったくこの区別がついて

いませんでした。

 

人のことを言えません。

 

だいぶ前のブログでも

書きましたが、

以前の私は本当に酷くて、

いまだに、

以前の私ほど反応本音まみれの

人と出会ったことが

ありません。

 

もちろん以前は、

真本音と反応本音という

区別そのものもありませんでした。

 

でもそれにしても

酷かった。

 

私は、心にフタをする

名人でした。

 

例えば、Aさんのことを

憎んで憎んで憎んで・・・

憎み切っていたのにも関わらず、

そういった心にフタをし、

自分で醜い心を見えないようにし、

「自分はなんてきれいな心の

持ち主なんだ」

と本気で思い込んでいました。

 

その頃の私ともし今

出会ったならば、

出会った瞬間に、

「あぁこの人はダメだな。

どんなサポートも効果がないだろう」

と最初からサポートをしない

と決めるでしょうね。

 

それだけ酷い状態でした。

 

これ、本当にマジなんです。

よく

「たけうちさん、そうは言っても

口で言うほどは酷くなかったでしょ」

と言われるのですが、

本当に、マジなんです。

 

手のつけようのない人間、

とは私のことを言うのだと

今でも本当に思っています。

 

そんな私でも

真本音と反応本音の区別が

つくようになりました。

 

ということは、

人類すべての人が

これはできることであると

私は本当に思っています。

 

では、

それだけ酷かった私が

どのようにして

区別がつけられるようになったか?

 

その第一歩目は、

 

「反応本音を隠さない」

 

ということでした。

 

つまりは、

すべての反応本音を

観察する、ということです。

 

やはりここでも

「観察」

は重要なのです。

 

人間誰しも

見たくない心はあります。

 

こんな心が

自分の中にあってほしくない、

あってはならない、

人として。

・・・そう思う心はあります。

 

でも、

どんな心があっても

よいのです。

 

何があってもOK。

というおおらかな気持ちで

自分の心と向き合うこと。

 

これが重要です。

 

重要ですが、

すぐにできるわけではありません。

 

そこでお勧めは、

自分の心の声を

どんどん紙に書いてみる

ということです。

 

「書く」という行為は

かなり強力です。

 

書いているうちに、

フタが外れるのです。

 

勇気を持って

ちょっとだけ醜い自分の心を

書き始めてみると、

まるでダムが決壊したかのように、

フタをしていた心たちが

溢れ出ます。

 

それをそのまま

書き殴っていくのです。

 

私は初めてこれをやった時、

涙が止まらなく

なりました。

 

あまりに酷い言葉の

数々だったからです。

 

自分が書いている言葉なのに、

自分の言葉とは信じられないくらい

酷い言葉たち。

 

情けなくて悔しくて、

惨めで、

本当に人としての自分を

許せない気持ちになりながらも

それでも

書き続けました。

 

するとある瞬間に

フッと

楽になるのです。

 

私はこれをパソコンで

やっていたのですが、

そのあまりに酷い言葉の数々を

印刷し、

印刷したものを

燃やしました。

 

燃えていく紙を見つめながら

私は自分の心が

燃えていくのを感じました。

 

と同時に

さらに心が楽になるのを

感じました。

 

かといって、

次の日からすぐに

心が変わるわけではありません。

 

次の日もまた、

同じように酷い言葉達が

自分の中から溢れました。

 

でも同じく、

すべてを書きました。

 

そして

燃やしました。

 

これを繰り返すうちに、

数日のうちには、

私はかなりおおらかになっている

自分に気づきました。

 

そうか。

こんな気持ち達を持っているのが

私という人間なんだな。

であれば、それはそれで

しょうがないか。

 

というような、

そんな気持ち。

 

さらにそれを続けると、

そのうちに酷い言葉達は

もう出なくなりました。

 

何かが完了した感覚。

 

出し切った感覚。

 

と同時にわかったのです。

「あの酷い心は

確かに私の心ではあったが、

ただ、私の中に溜まっていた

だけのものなんだな」

と。

 

そうです。

心の中に溜まっているもの。

それが反応本音です。

 

もちろん反応本音とは、

悪いものばかりでは

ありません。

 

人としての喜びとか

嬉しさと、幸せとか

前向きな気持ちとか、

やってやろうという意欲とか、

色々なものがあります。

 

でもそれらの全ては

溜まっている気持ち達。

 

吐き出されれば

消えていきます。

 

すべてが吐き出されても

それでも自分の中に

残っているもの。

 

すべてを吐き出しても

揺るがずに

そこにあり続けるもの。

 

それが

真本音です。

 

私は、

自分の気持ち達を書き続け、

吐き出し続けることによって

初めて真本音の存在を

実感できたのです。

 

つづく

 

自分の道を観るのを躊躇している人へ

私達の中にはすでに

決めている道があります。

 

というお話を

前回いたしました。

(→前回記事)

 

ところがその道を

見つめることができない、

という人がいます。

 

その道を

観るのが怖い

のです。

 

観てしまうと

自分は間違いなくその道を

突き進んでしまうだろう。

何の躊躇もなく

その道に入るだろう。

 

・・・ということが

本人にはよくわかっているのです。

だから逆に、

観るのが怖い。

 

観てしまったら、

これまでの人生、

これまで創り上げてきたもの、

これまでの自分

それらすべてを

自分は捨ててしまうのではないか、

という恐れがあるのです。

 

ですので今、

自分の中に道があるなぁ、

という実感を持ちながらも、

しかしそれを観ることが怖くて

茫然と立ちすくんでいる人が

増えています。

 

その気持ち。

 

同じ人間として

私は強烈によくわかります。

 

私もそこで

相当に苦しみました。

 

しかし、

自分の本当の道を観つめ、

そこを進むことを選択した経験者として

お伝えするならば、・・・

 

苦しいのは、

その場所だけです。

 

その道を観つめる

その直前が

苦しいだけです。

 

いざ、

それを観てしまえば

すべての合点がいきます。

 

これまでの自分の人生の

合点がいくのです。

 

なぜ自分は

ここに生まれてきたのか?

 

なぜこのような

人生だったのか?

 

なぜこのような

自分だったのか?

 

すべての合点がいく

のです。

 

そして

何も捨てる必要がないことが

わかります。

 

ただし、

捨てる必要はありませんが、

「手放す」必要のあるものは

ありありとわかります。

 

「手放す」とは

捨てるということでは

ありません。

 

「距離を置く」

ということです。

 

今の距離よりも

もう少しそれを遠ざける

ということです。

 

存在そのものを

捨てたり抹消する必要は

ありません。

 

「距離感」というものは

とてつもなく、と言ってよいほど

大事です。

 

私達の真本音は

すべての物事と

適正な距離をとる

ということを大切にしています。

 

距離感を大切にすることで

調和度合いは

圧倒的に高まります。

 

そういった意味で、

今は何との距離が近すぎて、

何との距離が遠すぎるのか?

がありありとわかります。

 

そしてその修正を

したくなります。

 

間違えてならないのは

「しなければならない」

のではなく、

「自然にしたくなる」

のです。

 

そしてその通りに実行すれば、

もの凄い安心感と

安定感を

得ることができます。

 

その状態で、

「道」に入って行くのです。

 

そして「道」に入れば、

前回記事でも書きましたが、

かつて経験したことのない

充実感を

私達は得ます。

 

常に魂と心が

満たされている状態、

そして、常に

自分の中心からエネルギーが

湧き続けている状態と

なります。

 

そしてそのエネルギーは

他者にもそのまま

照射されます。

 

そのエネルギーを私は

「愛」

と呼んでいますが、

愛のエネルギーを常に

他者に注ぎ続けることのできる

自分となるのです。

 

ですからますます

すべてが調和して

いきます。

 

そういった「現実」が

起こり始めるのです。

 

要するにそれは単純に言えば、

幸せな日々

なのです。

 

ですから、

苦しみは今、躊躇しているその場所

にしかありません。

 

しかと目を開き、

自分の道を観つめれば、

すべてが自然に

動き始めるのです。

 

「道」を歩き始めるのが

普通の状態。

 

人間として極めて

普通の生き方なのです。

 

つづく

 

自分の中には確かに道がある

「直観力」とは

もともと私達誰にも備わっている

当たり前の力です。

 

それを発揮するためには、

私達は人間としての

「普通の生き方」

をすることが大切です。

 

それができていないので、

本来持っている直観力が

発揮されなくなっているのが

現在の私達です。

 

では、

「普通の生き方」を取り戻すために

大事なのは何でしょうか?

 

その最初のキーワードが

『観察』

でした。

 

この「観察」について

前回まで書かせていただきました。

(→前回記事)

 

ここからは次の

キーワードをご紹介します。

 

「普通の生き方」を取り戻す

次のキーワードは、

 

『道』

 

です。

 

私達の中には

「道」がすでに

できています。

 

私達は自分自身の

「道」を

決めているのです。

 

それに一度でも気づいた人は

もう決してその道を

変えることはありません。

 

どんな環境に自分がいようとも、

そこでどのような現実が

起きようとも、

どのような妨害や障害に

遭おうとも、

その道をあきらめたり、

変更することは

ありません。

 

それは

本人にとっては

とてつもなく太く、

まっすぐで

安定して

気持ち良い

これ以上ない「確かさ」を湛えた

道なのです。

 

一瞬でもそれを

感じ取った人は

そのあまりの存在感に

ある意味、

我を忘れます。

 

しかしそれは本当は

「我を忘れる」のではなく

「我を思い出す」

という状態です。

 

本当の自分、

本来の自分を

思い出すのです。

 

あぁなんだ、

これが私の人生だった、

これが

私の生まれた意味だった、

と単純に

思い出すのです。

 

思い出したらもう

そこを進むだけです。

 

間違っていただきたくないのは、

それは、

「あぁこの会社は違ったな」

とか

「この仕事は違ったな」

とか、

そういったレベルの話では

ないということです。

 

どのような会社にいても

どのような仕事に就いていても、

要するに

どのような環境にいても、

その「道」を進むことは

できるのです。

 

むしろ、

「この環境は違う」

とか

「環境が悪いから自分は

自分の人生を歩めないのだ」

と言っているうちは、

決してその「道」は

見つかりません。

 

一人ひとりに必ず

その人ならではの

「道」

はあります。

 

そしてその「道」を

辿ることは、

今この瞬間から

すぐにできることです。

 

その「道」に

気づいた瞬間から

できることなのです。

 

何の難しさも

複雑さも

準備も

必要ありません。

 

そしていざ

その「道」を歩み始めれば、

人生の時間の

一刻一刻は

本当に満ち足りたものに

なるでしょう。

 

なぜならそこには

「自分を生きている」

という実感が

半端ないからです。

 

傲慢ではなく、

本当に心の底から

「世界の中心は自分である」

と思えます。

しかしかと言って、

自分以外の全ての存在が

ありがたくてしょうがありません。

 

「自分」と「自分以外のもの」

という分離は

あるのだけれども、

しかし確かに

すべては一つであると

感じ取ってもいます。

 

つまりそれは

高い次元の自分の意識が

発動しているからですが、

それは

「道」を歩み始めることで

成されるのです。

 

そういった

自分の「道」。

 

これを見つけるためには

やはり、

自分自身を「観察」することが

必須です。

 

特に、自分の心を

区別しながら観察することが

重要です。

 

その区別こそが、

「真本音」と「反応本音」

です。

 

つづく

自己理解の第一歩は、心の声理解である

「自分の心に意識を向ける」

そのファーストステップは、

「今、自分が感じていること」に

意識を向けるということです。

(→前回記事)

 

「感じていること」とは、

自分の「感情」が生まれる

一歩手前の段階です。

 

私達は、

①何かを感じる

ことによって

②感情が生まれる

のです。

 

①がなければ

②はありません。

 

①も②も両方理解することが

自分を理解する

最も基本となります。

 

どんな①が来れば、

どんな②になるのか?

・・・自分はそこに

どのようなパターンを

持っているのか?

 

それが自己理解の

基本だからです。

 

さて。

 

①に目を向けるようになると、

私達は実に様々なことを

一日の中で感じ取っていることに

驚くでしょう。

 

ほんの些細なことで

私達の心は

まるで風を受けた風船のように

揺れに揺れます。

 

私達の心は

揺れるようにできているのです。

 

それを

揺れていないふりをしたり、

揺れていることに麻痺したり

するのはまったくの

無意味です。

 

揺れをそのまま感じ取ること

こそが健康であり、

自分の心を強くする

一歩にもなります。

 

揺れている自分を

あるがままに見つめる

自分になることで、

直観力も大きく増します。

 

そのためにも、

①に敏感になれたら次は、

②に目を向けましょう。

 

つまり自分の感情と

向き合うのです。

 

ただしその感情とは、

激しいものばかりでは

ありません。

 

激しい感情は

わかりやすいです。

 

ものすごく怒りを感じたら、

誰もが自分は腹が立っている

とわかるでしょう。

 

そういった激しいものだけでなく、

ほんの些細な、

フッと現れては消えていくような

わずかな感情の動きにも

目を向けます。

 

その際に一つ、

重要なポイントがあります。

 

それは

『心の声』

です。

 

私達の感情には必ず

「心の声」が

セットでついてきます。

 

例えば、

Aさんの一言でムッとした場合、

怒りの感情と共に、

必ず何らかの「心の声」を

私達はつぶやいているはずです。

 

「なんてひどいことを言うんだ」

とか

「きつ過ぎる」

とか

「それを言わないでくれーーっ!」

とか。

 

時と場合でまったく異なる

「心の声」が発生するでしょう。

 

しかもその「心の声」は

さらに次の「心の声」を

呼び起こします。

 

例えば、

「Aの馬鹿野郎!」

とか

「こいつは大っ嫌いだ!」

とか

「殴ってやりたい!」

とか。

 

そしてさらに別の

「心の声」も続くかもしれません。

 

このように、

感情を理解するとは、

同時に、

「心の声」を理解することでも

あるのです。

 

逆に言えば、

自分の「心の声」に

意識を向けておけば、

自分の感情を理解することに

つながるケースも多いです。

 

私はよくコーチングの場で

「その時、どのような心の声を

つぶやいていましたか?」

という問いを投げます。

 

それを続けると、クライアントさんは

私がその問いを投げなくても

自分から「心の声」を

口にするようになります。

 

それができるということは

それだけ自分を客観的に

観れるようになってきた

ということでもありますし、

自己理解も進みます。

 

するとさらに私は

次のようなことも

クライアントさんにお勧めします。

 

それは、意図的に

自分で「心の声」をつぶやき、

「心の声」通りに行動する

ということです。

 

実はこれはいつも私達が

無意識にやっていることなのですが、

それを意図的に行なうと、

自己コントロール力が

格段に増すのです。

 

今日もたまたま

それを実践したクライアントさんの

コーチングだったのですが、

その方はそれをやってみて、

 

「すべての行動はこうやって

自分で決めていたんだということが

本当にわかりました。

私はすぐに人のせいにしたり、

辛いことがあると逃げようと

思っていましたが、

なんだ、すべて自分で決めて

行動していたんだ、という

当たり前のことに気づきました」

 

・・・という感想を

言われていました。

 

無意識に行なっていることを

意識化するというのは、

自律性や主体性の一歩にも

なります。

 

では、・・・

 

ここまでのお話を

少しまとめます。

 

『直観力を高めるには』

というテーマで、

ここまで書かせていただいています。

 

直観力を高めるためには、

人間として普通の生き方をすることが大事。

普通の生き方とは、

まずは自分の心に意識を向けること。

意識を向けるとは、観る(観察する)、ということ。

まずは何を観ればよいかと言うと、

それは

・自分が今、感じていること

・それにより引き起こされる感情と心の声

である。

 

・・・ということになります。

 

実はこれは私の言うところの

「セルフコーチング」の基本でもあります。

 

そしてこの基本を実践するだけでも

直観力はアップし始めます。

 

しかし、本題は

まだまだこれからです。

ここまでは序章にしか

すぎません。

 

つづく

今ここで私は何を感じているのだろうか

自分の心を観察する

と言っても、

どうすればよいか?

まったくイメージを持てない

人も多いと思います。

 

実際に、

企業研修の場で

「自分の心を観てみてください」

と私が言っても

大半の方がキョトンと

されています。

 

心とは

目に見えないものです。

 

しかし、

脳を使わなければ、

心とは

ありありと観えてきます。

 

心とは

「実在」です。

 

つまり、

実際に存在するもの

です。

 

3次元のレベルで

それを把握しようとするから

難しいのであって、

もっと高い次元の眼差しを

向ければ、

それはありありと

そこに在るのがわかります。

 

心の「実在」を

感じ取れるようになると、

現代の世の中は

いかに多くの人達の心が

ボロボロであるかが、

本当によくわかります。

 

中には瀕死の重傷を

負っている人もいます。

かと言って

そういった人も

毎日を当たり前のように

お仕事をしながら、

がんばりながら

過ごしています。

 

自動車は

ガソリンが切れれば

ガス欠を起こします。

決して動くことは

ないでしょう。

 

しかし人の心は、

ガス欠を起こしても、

それでも動かしてしまうことが

可能と言えば可能です。

 

ガス欠状態でも

気合だけで動かしている人が

今、いかに多いことか。

 

私からしてみると、

本当によくやってるなぁ、

とある意味驚嘆します。

 

なぜこの人は

こんなにもエネルギーがないのに

これだけ動いていられるのか?

と驚嘆するのです。

 

しかし当たり前ですが、

それは決して良いことでは

ありません。

 

エネルギーのないのが

当たり前。

その状態でもがんばるのが

人間だ。

その状態でもがんばるのが

社会人だ。

その状態でもがんばるのが

ビジネスマンだ。

 

・・・そんな常識は

本当に私達は

捨てるべきです。

 

もっと自分を

エネルギーで満たすことを

考えましょう。

 

そして、

本来のエネルギーとは

自動車のガソリンのように

外から与えられるものでは

ありません。

 

人の心の本来のエネルギー

とは、

内側から自然に

湧き続けるものなのです。

 

つまり私達人間は

すべての人が

心のエネルギーを

自家発電できるのです。

 

しかし残念ながら

それができている人は恐らく、

1割にも満たないでしょう。

 

その事実を

まずは感じ取るためにも

自分自身の心に

意識を向ける必要が

私達にはあります。

 

では、

心に意識を向けるとは

実際には何をすれば

よいでしょうか?

 

その第一歩は、

「今自分が感じていること」

に意識を向ける

ということです。

 

「感じていること」

 

まずはこれが麻痺している人が

あまりに多いです。

 

企業サポートの中での

私の実感値で言えば、

恐らく、

7割以上の人が

麻痺しています。

 

今、自分は

何を感じているのか?

 

イライラしているのか、

心地が良いのか、

悲しいのか、

嬉しいのか、

モヤモヤしているのか、

スッキリしているのか、

恐れているのか、

安心しているのか、

・・・・・・。

 

まず単純に

「快」の状態なのか?

「不快」の状態なのか?

を自覚するとよいでしょう。

 

まず、これが

できていません。

多くの人が。

 

例えば、

Aさんから一言を

もらった。

 

その一言によって、

自分の心が

どう動いたのか?

 

「快」の方向に動いたのか?

「不快」の方向に動いたのか?

 

その時その瞬間の

特に、人との関わりの現場

において、

自分の心がどう感じているのか?

に敏感になることが

とても重要です。

 

今日一日を振り返って

どうだったか?

というのももちろん大事ですが、

それ以上に、

 

「今この瞬間、

自分はどう感じているのか?」

 

に敏感になることこそが、

人として「普通に生きる」ためには

必須です。

 

人生とは、

現場です。

 

現場とは

今この瞬間です。

 

今この瞬間に

感じていることを

自覚することが

生きる

ということなのです。

 

まずはこの当たり前のことを

できる自分に

戻ることです。

 

これが、

ファーストステップ

です。

 

つづく